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仮刑律的例 36 傷害致死罪は従犯的立場でも徒刑3年

2024年07月01日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 36 傷害致死罪は従犯的立場でも徒刑3年

〈事案の概要〉
本件は徳次という者が弥三郎を木の枝で殴り、死亡させてしまったというもので、現代では傷害致死罪に問われるべきものといえるでしょう。
徳次は逃亡中であり、逮捕されていないのですが、本件に関わった繁松及び藤兵衛は逮捕されており、この両名について伺いがなされています。
両名は徳次と以前から知り合いで、この日も一緒に酒を飲んでいました。そこへ、被害者の弥三郎が加わり、徳次と口論になりました。酒を飲んでいたときは、口論は収まったのですが、散会の後、徳次と弥三郎が再度トラブルとなり、繁松と藤兵衛が徳次に加勢したことから、罪に問われたものです。現代風にいえば、傷害致死罪の共犯ではあるものの、致死の原因行為は行っていない共犯という位置付けになるかと思います。
明治政府の判断は、両名につき徒刑3年というものです。各人の供述内容が付されておりますので、事案の詳細はそちらでご確認ください。

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【美濃加納藩からの伺】明治二年二月十三日
明治2年2月、美濃加納藩からの伺い。
【伺い】
去年(辰年)8月中、上加納村の非人番徳次は、同村の繁松・藤兵衛という者と申合せ、上茜部村地内字大野で弥三郎という者を酒に酔った勢いで打擲し、弥三郎を死亡させました。徳次は出奔し行方知れずであり、手配をしてありますがを、今もって行方がわかりません。そこで、繁松及び藤兵衛につき次のとおり所置したいので、よろしく御指図下さるようお願い致します。
【返答】明治2年2月
繁松及び藤兵衛は両人とも徒刑3年とすべきである。
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〈繁松の供述〉
一、私は8月に逮捕されました。本件について正直にお話し致します。
私は、御園町柏森の仲番兼蔵所の掛り人(居候)しております繁松と申します。8月7日昼に自宅で藤兵衛と居ましたところに、徳次がやってきて、「酒を飲みに行こう」というのですが、手持ちの金がないといって断りました。すると徳次は、自分が締めていた帯を私に渡して、「美濃屋の利助方に行って質入れしてきてくれ」と言いました。質入れしたところ、銭1貫100文になりました。御園町横町で藤兵衛及び徳次と待合せ、御園町伊勢屋六左衛門方に行き、酒を松屋で銭700文で買い、伊勢屋で酒を飲みはじめました。
上茜部村字名大野の弥三郎という者が通りかかりましたので、徳次が声をかけ、弥三郎と徳次は伊勢屋の裏座敷で酒を飲んでいました。
すると、徳次が我々が酒を飲んでいるところに来て、弥三郎と一緒に酒を飲もうというのです。一度は断ったのですが、しつこく勧めるため、やむなく同席することになりました。そのうち買った酒がなくなってしまいましたので、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断り、腹をたてて、徳次を蹴落してしまいました。 藤兵衛と私で徳次の不調法を詫び、店の亭主も出てきて200文の冷酒を買うことで一旦は落ち着きました。
日没後に散会となり、弥三郎、徳次、私と藤兵衛の順に店を出ました。
その後、私と藤兵衛は上加納村字六十荷という場所で弥三郎と徳次が喧嘩をしているのを見ました。私は、弥三郎の横腹を蹴りつけたところ、彼は倒れてしまいました。そこへ、徳次が
木の枝で殴ったら、死んでしまったようにみえたので、当惑しつつ帰宅しました。
弥三郎の衣服についてお聞きですが、私は全く知らないことです。徳次のその後の行動についても全く知りません。
以上、正直に申し上げました。

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〈御園町の伊勢屋六左衛門の供述〉
一 、8月7日昼、私の店に、上茜部村字名大野の弥三郎という者が来て、上加納村の仲番の徳次という者の名前で願書を書いてもらいたいとの頼みがありました。私が文章を書いている間に弥三郎と徳次とは酒を飲み始めました。そのうち弥三郎から徳次に、藤兵衛と繁松も呼んで一緒に飲もうといい、両人も一緒になって酒を飲んでいました。
そのうち酒がなくなってしまったようで、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断りました。徳次は多少金をもっていたようで、これを知った弥三郎は、「金をもっているのに、なぜ私に金を出せというのか」と腹をたてて、徳次を蹴落してしまいました。
「口論や喧嘩をうちでしては困ります」と言って聞かせ、その場は一旦収まりました。
200文で冷酒を繁松が買ってきて、さらに3人は酒を飲んでいました。
肴代の448文が未払いでしたので、弥三郎は、「19日までにお支払いに来ます」といい、日没後に弥三郎、徳次、繁松と藤兵衛の順に店を出ました。
本件について知っていることは以上のとおりです。

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〈藤兵衛の供述〉
一、私は、下加納村の藤兵衛と申します。
8月に逮捕されました。本件について正直にお話し致します。
8月7日昼、御園町柏森の繁松のところに居ましたところに、徳次がやってきて、「酒を飲みに行こう」というのですが、手持ちの金がないといって断りました。すると徳次は、自分が締めていた帯を繁松に渡して、「美濃屋の利助方に行って質入れしてきてくれ」と言いました。質入れしたところ、銭1貫100文になりました。御園町横町で藤兵衛及び徳次と待合せ、御園町伊勢屋六左衛門方に行き、酒を松屋で銭700文で買い、伊勢屋で酒を飲みはじめました。
上茜部村字名大野の弥三郎という者が通りかかりましたので、徳次が声をかけ、弥三郎と徳次は伊勢屋の裏座敷で酒を飲んでいました。
すると、徳次が我々が酒を飲んでいるところに来て、弥三郎と一緒に酒を飲もうというのです。一度は断ったのですが、しつこく勧めるため、やむなく同席することになりました。そのうち買った酒がなくなってしまいましたので、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断りました。その後、弥三郎は徳次が金をもっていることを知って、腹を立てて徳次を蹴落してしまいました。 私と繁松とでで徳次の不調法を詫び、店の亭主も出てきてしまいました。200文の冷酒を買うことで一旦は落ち着きました。
日没後に散会となり、弥三郎、徳次、私と繁松の順に店を出ました。
その後、私と繁松は上加納村字六十荷という場所で弥三郎と徳次が喧嘩をしているのを見ました。私は、弥三郎の横腹を蹴りつけたところ、彼は倒れてしまいました。そこへ、徳次が松割木で殴ったら、死んでしまったようにみえたので、当惑しつつ帰宅しました。
弥三郎の衣服についてお聞きですが、私は全く知らないことです。徳次のその後の行動についても全く知りません。
以上、正直に申し上げました。


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