南斗屋のブログ

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文政10年9月下旬・色川三中「家事志」

2022年09月30日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年9月21日(1827年)晴 甲子 天社
夜、大黒天、五条の天及び庚申を出して祭る。天道大黒天も出す。この大黒天の画は有徳院吉宗公のときに、画家に命じて描いたものと言われており、何枚と残っていないであろう。この画と五条の天神の御影は川口の蔵にあって、子年の火事から焼け残ったものである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日は「天社」=天社日(天赦日)。最上の大吉日とされている日。様々なものを出して祭っています。「子年の火事」は1816年の土浦の大火のことで、三中の人生に大きな影響を与えています。「有徳院吉宗公」は徳川吉宗のこと。有徳院は吉宗の戒名です。

文政10年9月22日(1827年)晴
蔵入帳をはじめてこしらへ、薬の出入りを先規により確認した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の日記に蔵入帳というのが出てきますが、これまでに日記では言及されておらず、唐突に出てくるので、何のことかよくわかりません。三中は薬種商なので、薬の管理をしていなかったとは思えないのですが、蔵入帳ははじめてこしらえたと書かれています。ちょっとよくわからないところです。

文政10年9月23日(1827年)晴
所用をこなすため河原代(龍ヶ崎市)へ、谷田部佐助と利八を同道し赴く。日之沢の二十三夜様を参詣(いつもは代参)。八つ過ぎ細井氏宅へ。佐助はいつもどおり藤代、板橋へ遣わす。細井氏から酒肴をだされる。夜までよもやま話をし、歌の道、国学、医談、薬品のことを話し、細井氏宅に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
仕事がてら細井氏(風流仲間)宅へ泊まりに行くのがメインの目的のようです。細井氏は土浦に先般泊まりにきたばかりですが(9月20日条)、その時の続きとばかりに今回は現在の龍ケ崎市内にある細井氏宅に泊まって、歌の道、国学、医談、薬品のことを話したのでした。

文政10年9月24日(1827年)
朝はやく布川(利根町)へ行く。途中長沖(龍ヶ崎市)に寄り、子年の火事まで店にいた者に会いに行く。火事により暇を出さざるを得なかったが、今は元気でやっているようだ。用が済んだ後、八つ過ぎに細井氏宅に戻り、泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「子年の火事」は1816年の土浦の大火のことで、この火事により色川家は大打撃を受け、過大な負債を負うことになりました。三中が懸命に債務整理をせざるを得ないのもその故です。しかし、三中は元気です。火災により解雇した元従業員を訪ね、無事を確認したのも復活にかける三中の意気込みの一つでしょう。

文政10年9月25日(1827年)晴
細井氏同伴で龍ヶ崎の稲葉氏宅を訪れる。稲葉氏はエラブウナギというものを入手し、それを見に行くためである。エラブウナギは江戸の薬屋でも見たという人を聞かない。これを用いれば水腫の奇薬になるといわれている。
稲葉氏からエラブウナギを見せてもらったが、確かに奇なるものである。酒肴や中食まで出していただき、話は八つ半まで及んだ。お泊りになってはと誘われたが、私は辞去し、酒に酔う足取りではあったが、土浦まで帰った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏と共に水腫の奇薬になるといわれているエラブウナギを見に出かけています。三中が「エラブウナギ」と書いているのは、イラブーと呼ばれているもののようで、沖縄県図書館さんがレファレンスに回答してくれています。

イラブー(うみへび)の薬効について知りたい | レファレンス協同データベース

レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ...

レファレンス協同データベース




文政10年9月26日(1827年)
【編集より】本日三中殿は日記をお書きになりませんでした。昨日は酒に酔いながら夜道を帰っており、お疲れになったのでしょうか(明日には再開予定)。
#色川三中 #家事志

文政10年9月27日(1827年)晴 庚申
・20日に間橋でけんかがあり、人が一人死んだ。
・22日夜、小金村の飛脚が布佐の土手で殺された。飛脚は金を持っていないので、誤って殺されたのであろうか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
20日及び22日に人殺し事件。20日は傷害致死事件、22日は強盗殺人事件のようです。色川三中の日記には人が死ぬような犯罪はほぼ記されておらず、ここにきて立て続けに凶暴事件が発生していますた。

文政10年9月28日(1827年)辛未 晴
深谷の隠居が60歳、70歳の祝いに歌を作り、短冊としてあったものが2階に放ってあるのだが、細井氏がほしいというので渡すことにした。土浦の大火にも焼け残ったものである。昔の面影があり、名残り惜しい心地もするので、日記に記しておく。
#色川三中 #家事志
(コメント)
何となく放っておいた隠居の歌が書かれていた短冊。三中にとってはいらないものなので、風流仲間の細井玄庵に渡すことにしました。三中が昔を思い出すときは、必ず土浦の大火を思い出してしまうようです。大火にも焼け残ったものを手放すのが少しだけ心残りな三中でした。

文政10年9月29日(1827年)
【編集より】本日三中殿は日記をお書きになりませんでした。理由はよくわかりません。この年は9月に30日はありませんので、9月はこれでおしまいです。
#色川三中 #家事志



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関東連続少女殺人事件の吹上佐太郎の死刑囚の辞世句-「左様なら一足先に死出の旅」

2022年09月28日 | 歴史を振り返る
1926年9月28日
市ヶ谷刑務所にて、吹上佐太郎(ふきあげ さたろう)の死刑が執行された。
辞世句「左様なら一足先に死出の旅」

(吹上佐太郎の死刑執行)
1926年9月28日(大正15年)
市ヶ谷刑務所にて、吹上佐太郎(ふきあげ さたろう)の死刑が執行された。
辞世句「左様なら一足先に死出の旅」

(吹上佐太郎の犯罪)
死刑になるというのにこの辞世の句は何であろうか。とんでもない犯罪を行った者に違いないと直感したが、やはりそうであった。吹上佐太郎は、「京都で強姦殺人を行い、その後関東連続少女殺人事件で関東八県で27人以上を強姦し、うち6人を殺害したシリアルキラー・連続強姦犯。」といわれている(ウィキペディア)。

(死刑執行直前の様子)
死刑執行直前の様子が、事件の公判に立ち会った中野並助という検察官の著作に記録されている(中野並助「犯罪の通路」)。同書によると、落ち着いて執行直前に仏前にあった供物をゆうゆうと食べたそうである。
〈死刑の執行には事件の立会い検事はいかぬことになっている。 彼の死刑執行には今は故人となられた H 検事が立会した。吹上はゆうゆうと仏前の供物を頂戴、しばし黙祷した上で、やはり検事さんのいわれた通りだ、多くの霊に対しても私は死なねばならない、といったそうである。死刑の執行は相当数に上るであろうが、仏前の供物まで頂戴するほど落ち着いている被告はほとんど稀である。彼の覚悟は見上げたものだ。最期も立派であったという。私はこの話を H から聞いて惻隠の情に耐えなかった。〉
 死刑に立ち会った検事は立派な最期であったとの感想を述べているが、
落ち着いて執行直前に仏前にあった供物をゆうゆうと食べたことといい、人を喰ったような辞世の句といい、「立派」というには違和感を覚える(なお、辞世の句は中野の著作には見えず、森長英三郎「史談裁判」による)。

(裁判で有罪となったのは3件のみ)
 一説には、27人を強姦し、うち6人を殺害したとされているが、これが全て有罪とされたのだろうか。どうも違うようである。
 27人を強姦し、うち6人を殺害したというのは予審に付された件数である。当時は現代と違って予審制度があった。現在では、検察官が有罪と思料して起訴した事件は裁判所で審理が行われるが、当時は予審判事が審査をし、実際の公判に付すか否かを決定したのである。
 予審で認められたものは、群馬県下の11歳と12歳の少女及び長野県下の少女の3件(いずれも強姦殺人)のみであった(森長英三郎「史談裁判」)。
 この3件が公判に付され、いずれも有罪となった。判決は一審で死刑であり、東京控訴院(今の東京高裁)や大審院(今の最高裁)でも維持された。1926(大正15)年7月2日に大審院で上告棄却され死刑が確定した。
 
(確定後3ヶ月弱で死刑執行)
 死刑執行は同年の9月28日である。大審院で上告棄却され、3ヶ月も経っていない。戦前とはいえ、この執行のスピードは異例のようである。
 どの著作にも書いていないことであるが、これは大正天皇崩御、新天皇即位に伴う執行の事実上の停止、恩赦をさせないためではないかと推測する。
 こう推測するのは、吹上佐太郎は前科(京都で少女を陵虐して絞殺)により無期徒役(無期懲役)に処せられたのだが、出所しているからである(1922年3月9日出所)。同じような犯罪をしたのだから、1件だけでも死刑判決となったであろうが、
3件の犯罪でも死刑判決は死刑判決である。恩赦となれば、無期懲役に減刑され、いずれ出所するかもしれない…というのが、検察当局のおそれるところであったというのは十分考えられるのではないか。実際、大正天皇の病状も悪かった。大正天皇は1920年以降、病状が公表されており、1921年には皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任している。大正天皇の崩御は吹上佐太郎の死刑が執行されてから約3ヶ月後の12月25日であった。

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寛政12年9月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年09月26日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月11日(1800年)
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ついに箱館に到着!
本日の旅程は大野村(北斗市)〜箱館(函館市)。道のりは五里(約20キロ)。箱館では役所での手続きを行うため、九つ(正午)前に到着しています。約20キロを行くのに半日で済ましてしまう相変わらずの速さ。

大野小学校前 to 元町公園

大野小学校前 to 元町公園



役所では着到届をし、箱館までの御添触れを返却。また、箱館〜江戸までの役所から添触れを発行してもらいます。
往路では着到届は日記に記録されていましたが、復路は記録されていませんでした。
⇒参考 往路の着到届

函館到着の際の伊能忠敬の届け - 弁護士TKのブログ

伊能忠敬は第一次測量の際に北海道(当時の言葉では「蝦夷地」)を訪れます。幕府の蝦夷地統治の拠点である函館(当時のは「箱館」)に到着したの...

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寛政12年9月12日(1800年)
午前晴れ、午の中の刻から曇る。その後は晴れたが、夜は曇り。夜少し測量。
朝飯後、御番所よりお呼び出しがあった。

 帰府の添触れを渡すので、八つ半時までに罷り出なさい。以上
 九月十二日
上包 伊能勘解由殿      御番所

#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
手続き待ちで箱館に逗留。
昨日、忠敬は役所に江戸へ帰る際の添触れをお願いしていましたが、本日出来上がりました。呼出の書状が届いてから、出頭する決まりのようです。先触れと添触れも日記に記録されていますが、長いのでブログに譲ります。

帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記) - 弁護士TKのブログ

帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)(はじめに)伊能忠敬の測量日記に記載されている箱館からの先触及び添触を紹介します。【寛政12...

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寛政12年9月13日(1800年)
朝から曇天、九つ後小雨、夜大風雨。夜、津軽家の笹森勘解由勘定奉行宛に箱館帰着を告げるため、竹内甚左衛門へ書面を遣わした。(箱館に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館にて止宿。笹森勘解由は津軽家の勘定奉行、竹内甚左衛門はその部下で箱館に詰めています。往路で三厩からは津軽候の御役船で渡船していますので、津軽家(弘前藩)にも帰着届けを出しておく必要があるのでしょう。今日まで箱館逗留で、明日に出立です。

寛政12年9月14日(1800年)
(昨夜は大風雨であったが)六つ前に雨はやむ。昨日竹内甚左衛門へ箱館帰着の報告の書面を遣わしたが、本日朝返事が届いた。朝五つ頃箱館を出立。ほどなくして雨、午後まで降る。戸切地にて中食。三谷、富川を通り、茂辺地に七つ半に着。止宿。夜晴れて風あり。寒さ甚だし。測量するには適さず。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館を出立。松前を目指します。
本日の旅程は箱館(函館市)〜茂辺地(北斗市)。地図上では約21 km。旧暦9月中旬にもなり、夜は晴れたものの、かなりの寒さで天体観測をするには適さないのも無理はありません。

元町公園 to 茂辺地小中学校

元町公園 to 茂辺地小中学校



寛政12年9月15日(1800年)
朝から晴天、六つ頃出立。三ツ石を通り、喜古内で中食。知内へ七つ頃着。止宿。夜中も晴れたので、測量を行う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は茂辺地(北斗市)〜知内(知内町)。地図上では約30 km。本日の宿泊地「知内」からは松前藩領です。松前から知内までが松前藩領で、知内川を境として、御用地(幕府領)となります(5月21日条参照)。

茂辺地小中学校 to 知内町役場

茂辺地小中学校 to 知内町役場




寛政12年9月16日(1800年)
朝から晴れ曇り。六つ後出立。四里半行き、一ノ渡で中食。そこから二里半行き、七つ時に福嶋へ着。止宿。夜中晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日の旅程は知内(知内町)〜福嶋(福島町)。道のりは四里半+二里半=七里(約28キロ)。夜晴れたため「測量」(天体観測)。昼は毎日30キロ近くを測量し、さらに夜に天体観測。忙しい日々です。

知内町役場 to 福島町役場

知内町役場 to 福島町役場



寛政12年9月17日(1800年)
昼は曇り晴れ、夜は晴れ。朝六つ半福嶋を出立。アラヤにて中食。道のり五里で松前城下に八ツ半頃着。宿はカラツナイ町の升屋吉右衛門の弟傳右衛門。福嶋からの行程であるが、一里程行き吉岡、そこから半里程で吉岡峠。吉岡峠は白カミ峠ともいい、海岸は白カミ岬である。吉岡峠は大峠であった。松前に着いた時に、役人と栖原屋小右衛門が出迎えに来てくれて、宿へも顔を出してくれた。栖原屋小右衛門は、箱館会所の御用聞きである栖原屋庄兵衛の子。夜晴天、測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
松前に到着!蝦夷地測量旅行の最終地点。ここから本州の三厩に明日渡船の予定です。箱館からは三泊四日の行程でした。
本日の旅程は福嶋(福島町)〜松前(松前町)。道のり五里(約20キロ)。途中、吉岡峠(別名白カミ峠)を通るのが、現代の道路とは異なるところ。

福島町役場 to 松前城跡

福島町役場 to 松前城跡


寛政12年9月18日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。本日朝飯後、松前で弁天の前山に登り、大嶋・小嶋等を測量。正午過ぎに風が吹いてきたので乗船し、出帆。乗船の際は松前侯から侍二人が見送りにきていただいた。この船は、松前候の御役船である。(往路の)三厩から箱館・松前へは津軽侯の御役船であった。着船の際は、船頭に酒を遣わす予定であったが、この日は順風だが風弱く、船行はかどらず。夜四つ頃三厩へ着。海上七里というけれども、五里未満ではなかろうか。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
ついに三厩(本州)に到着!
往路では風待ちで三厩(青森県)に長逗留を強いられたチーム伊能ですが、復路は順風が吹き、松前での風待ちは午前のみ。風待ちの際も山に登り、測量を行っています。
渡船。風が弱いため正午過ぎに松前を立つも三厩到着は夜四つ(午後10時)。お疲れさまでした。
 往路(三厩⇒箱館を狙うも吉岡着)は津軽藩の御役船でしたが、復路は松前藩の船。松前〜三厩は海上七里(約28キロ)といわれていたようですが、五里(約20キロ)未満ではないかとの疑問を呈しています。

寛政12年9月19日(1800年)
朝から晴天、夜は薄曇り。今朝御勘定組頭村田鉄太郎殿が三厩を出立したので、午の刻前に先触と共に添触の写しを添えて出す。(三厩に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は三厩に逗留。往路では渡船の風待ちのため三厩に長逗留を余儀なくされましたが、逗留は本日のみの予定。
①本人の先触、➁役所の添触(ご証文)、③村役人から各宿への添触が、当時の公用旅行者の三点セット。公用旅行には欠かせないものであり、忠敬の測量日記ではこの点の言及が頻繁にあります。

寛政12年9月20日(1800年)
朝から薄曇り、昼は小雨、夜は中雨。朝六つ後三厩を出立。今別村を通り、母衣月で中食。ここの海にはシヤリ石があり、今別の海辺には津軽石がある。七つ頃、平館村に着き止宿。三厩から村々の役人の案内があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ本州最北端から江戸に向けての旅が始まりました。本日の旅程は三厩(青森県外ヶ浜町)〜平館(平舘;青森県外ヶ浜町)。津軽地方の村役人さんは非常に親切で、チーム伊能の道案内をしています。これは往路でも同様。人情に篤い土地柄です。

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所


本日の日記ででてくるシヤリ石は、舎利石のことでしょう。忠敬は、舎利石と津軽石を区別していますが、現代ではこの区別がされているのかよくわかりませんでした。現代では「錦石」と呼ばれています。

青森県の伝統工芸品(錦石)

錦石 (にしきいし) "Nishiki"StoneProducts磨きぬかれた光沢が美しい津軽石「錦石」「陸奥の錦石」として名高い青森の錦石は、碧玉、めのう、玉髄などの石英...

青森県庁ホームページ



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文政10年9月中旬色川三中「家事志」

2022年09月22日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年9月11日(1827年)
(編集より)本日の日記の記載はなく、お休みです(明日再開)。
#色川三中 #家事志

文政10年9月12日(1827年)乙卯
結婚以来、妻の実家(谷田部)に顔を出しておらず、吉兵衛同道で夜明け前に出立。大鯛、平目、小鯛各一枚を持参。途中、板橋(つくばみらい市)に寄る。谷田部着は七つ(午後4時)過ぎ。夜に帰るつもりが、引き止められ泊まることになり、酒を酌み交わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の実家である谷田部(つくば市)を訪ねる記事。三中は従業員の吉兵衛と同道していますが、妻は家で留守番の様子。これが当時としては普通だったのでしょうか。日の出にでたのに七つ(午後4時)過ぎに着いた、夜になったら帰ろうとしたとありますが、マップを見ていただければわかるとおりかなり大回りの寄り道をしており、どこまで本気かはわかりません。

土浦小学校 to 谷田部町総合体育館

土浦小学校 to 谷田部町総合体育館



文政10年9月13日(1827年)晴
昨夜土浦に帰るはずが、深酒で妻の実家に泊まった。朝深酒の失礼をわびたが、また酒を出された。人が来て半日余り過ごす。内密の相談があるという者もおり、相談にのった後にまた一杯。ようやく谷田部を立ったのが七つ時(午後4時)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の実家に来ている三中ですが、歓待を受けて、昨日帰る予定が今日となり、今日の朝に経つはずが、ずるずると夕方まで酒を呑んでしまいました。どうも酒を前にしては意志が弱くなってしまうようです(別の日には、酒の飲みすぎはいけない身を慎まなければと書いているのですが…)。

文政10年9月14日(1827年)丁巳 晴
町の世話人から寄付の依頼あり。帳面を見ると隣の主人は金二朱、川口の祖父も同じ金額。川口には蔵と隠居(祖父)だけなので、祖父と併せて二朱でもよいはず。が、そうもいえず200文足して、併せて二朱200文とした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
寄付金をいくら出すかという話です。三中の時代は「家」単位であり、隠居は「家」の中に含まれるので、隠居が出したのとは別に出すのはおかしいだろうという考え方をしています。現代の「世帯」単位の考え方からすると、三中がケチっているようにしか見えないかもしれませんが、「家」単位で考え、他の「家」ともバランスを欠いてしまうのでも何かと問題があったのでしょう。


文政10年9月15日(1827年)晴
塩代金のことで、数人の者が江戸に行ったまままだ帰村しない。そう長い取引でもないのだから、あまり長くもめても得にならないどころか、出金の方が多くなるのではなかろうか。
諺にも「前車がくつがえるのを見て、後車のいましめとせよ」というではないか。人と行動を同じくするのではなく、もめごとはさっさと済ませてしまうのがよい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
塩の代金のことで訴訟をしている者がいるようです。江戸での訴訟は珍しくないようで、三中の親戚も江戸を行き来していました(8月23日条)。三中の訴訟に対する見方はクールで、冷静に損得を考えて、さっさと終わらせてしまうのがよいと述べています。
(コメント)
江戸時代は訴訟は付添人もいましたから、集団心理が働きやすかったのでしょう。「人と行動を同じくするのではなく」という言葉からは三中の個人主義的な考え方を見ることができます。

文政10年9月16日(1827年)曇少々風あり
下高津にある常福寺で火事があり、主屋と小屋が焼失。土浦からも火は大きく見えた。町む中の者が悉く出て火事を見物した。町内の纏らが消火に取りかかっていた。我々には町組の役人から、炊き出しをせよといわれ、準備したのだが、消火が早かったため炊き出しは間に合わず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
下高津(土浦市)の常福寺(現存)は、三中の家から約1.5キロくらいの距離です。火事で町中の者が見物、纏による消火活動というのはよく聞く話ですが、纏らのバックアップとして炊き出しがあるというのはこの日記を見て、そういう役もあったのだなと思いました。

土浦小学校 to 常福寺

土浦小学校 to 常福寺



文政10年9月17日(1827年)庚申 晴 立冬
・細井玄庵老が妹連れで土浦に来られた。女連れゆえ、木村様のお屋敷に泊まるとのこと
・庚申であり、神道庚申の掛物や大黒天を出して祭る。灯火に俳諧をしたためて送ると、即刻細井氏来る。酒肴を出し、夜もすがら話し積鬱を散ず
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井玄庵は色川三中の風流友達。仕事の付き合いではなく、こういう友人を持てるのは良いですね。妹連れなので、三中の家には泊められないという当時の感覚が興味深い。「木村様」は土浦藩の家臣で、町民なのに藩士の家に泊めてもらえる、その交流ぶりもまた面白い。

文政10年9月18日(1827年)晴れ七つ下り雨少々降る
ならや長兵衛殿の代人宗兵衛殿が来られた。9月7日に来られて以来である。別のところに用があって行って来られ、その帰り道に寄られた(続)。
#色川三中 #家事志

(承前)宗兵衛殿は安食で私の親類と偶然あい、「何卒足下色川氏を悪くしないでほしい、色川氏は逃れられない立場にあり苦労しているのだ。できるだけ勘弁してやってほしい」との話をきいたとのこと。酒肴も出しながら交渉
。債務は2両3分以上負けてもらい、残金2両で合意。
#色川三中 #家事志
(コメント)
宗兵衛という人物は、ならや長兵衛の代理人として債権回収等をしており、安食(かすみがうら市)にも案件を抱えていました。その帰り道で土浦にもより、三中と回収の交渉をしています。親類の言葉と酒肴のおかげで、債務は大分負けてもらえたようです。

文政10年9月19日(1827年) 晴
朝五つ時、色川治兵衛殿死去。組合衆両人からそのことを聞き、即刻赴く。7月から長病であり、また老年であったので致し方のないことである。浅吉を手伝いに遣わす。七つ過ぎ羽織はかまで、色川治兵衛殿の野辺送りをする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高齢で長く患っていた親戚の色川治兵衛が亡くなりました。人が亡くなると地域の組合の者二人が触れて回っていたようです。葬儀では羽織はかまを着用するのも当時の礼儀です。以前、袴で葬儀に出たときは雨で濡れてしまったことがありました(8月15日条)。

文政10年9月20日(1827年) 晴
八つ過ぎ時、細井氏が柿岡(石岡市)から土浦に来られた。しいて引き止め、泊まっていただいた。夜遅くまで国学や医談に及び、雑談に時を写した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は三中の風流仲間。先月は手紙のやり取りの記事がありました(8月16日条)。泊まって語り合ったのは4月下旬以来のこと。話題は国学や医談。19世紀前半の土浦で国学が町民の中でも流行りだったことがわかります。



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寛政12年9月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年09月19日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月朔日(1日)(1800年)
朝から晴曇り。夜も同じ。朝六つ後、勇武津(ユウブツ)出立。コイトイで中食。七つ頃白老に着。道のり九里。仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はユウブツ(勇払;苫小牧市)〜白老(白老町)。道のり九里(約36キロ)。白老まで戻ってきました。あと10日で函館に、来月下旬には江戸に到着する予定です。チーム伊能は淡々と旅程をこなしています。編集としてはラストスパートです。

勇払会所の跡 to 白老会所跡

勇払会所の跡 to 白老会所跡



寛政12年9月2日(1800年)
朝から雨天。五つ頃出立。大風雨。アイロで中食。濡れた衣服を干し、身を温める。アイロから三里三町でポロベツへ七つ半後着。ずぶ濡れ。白老からポロベツは七里六町。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白老(白老町)〜ポロベツ(登別市幌別町)。七里六町(29キロ弱)。一日中雨。大風雨。中食時に濡れた衣服を干し、身を温めることはできましたが、その後も雨の中を進んだのでずぶ濡れ。

白老会所跡 to 登別市役所

白老会所跡 to 登別市役所



寛政12年9月3日(1800年)
朝から曇天、四つ頃から小雨、その後曇天。朝五つ前に母衣別(ポロベツ)を出立。鷲別(ワシベツ)で小休止。八つ過ぎエトモに着。道のり五里。会所に止宿。風向きがよくないためエトモから先の渡船は止め、アブタまで陸行することとした。
 なお、悪消(アツケシ)の御詰合の役人へ次のような伺いを出していた。
「江友(エトモ)に着きました。順風でありましたら、江友(エトモ)からサハラへ渡船させてください。風がない場合は、アブタへ回ります。」
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
 本日の旅程はポロベツ(登別市幌別町)〜エトモ(絵鞆;室蘭市)。道のり五里(約20キロ)。エトモには港があり、順風であれば渡船を考えていたからです。が、風向きが良くないため、陸行することとなりました。

登別市役所 to 絵鞆漁港

登別市役所 to 絵鞆漁港



寛政12年9月4日(1800年)
朝曇り、四つ前より晴天。太陽の南中を測る。九つ半頃から曇る。本日七つ後に、三橋藤右衛門様(ご用人武藤貫三殿、大塚一郎殿)8月19日付書状及び長嶋新左衛門殿よりの添状が、エトモの旅宿に届けられた。夜晴天であり、測量を行った。(エトモに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日はエトモに逗留。往路ではエトモではなく、モロランに泊まっていました。エトモもモロランも現在は室蘭市です。
三橋藤右衛門(の御用人)からの書状が届きました。忠敬に天文の来歴の書付を提出するようにというもの。お偉いさんからの宿題ですので、測量旅行中ですが、レポートを作成しないわけにはいきません。
 三橋藤右衛門のレポート依頼等は、長いので別のブログ記事にて。

三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す - 弁護士TKのブログ

【三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す】(はじめに)今回紹介する書簡は、寛政12年(1800年)の9月4日付測量...

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寛政12年9月5日(1800年)
朝から曇天、夜小雨。朝五つ前江友(エトモ)を出立。モロラン(室蘭)へ渡海。そこから六里陸行し、暮六つ頃阿武多(アブタ)に着。会所は普請中であるので、仮家に止宿。悪消(アツケシ)から江友(エトモ)留で出した先触を箱館留めに直して出した。なお、本日ヲサルベツで中食。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はエトモ(絵鞆;室蘭市)〜アブタ(虻田;洞爺湖町)。うちエトモからモロラン(室蘭)までは船で渡海です。アブタの会所は普請中。往路のアブタでは会所に止宿してしたので(6月13日条)、往復している間に会所の普請が始まったようです。

絵鞆漁港 to 洞爺湖町立虻田小学校

絵鞆漁港 to 洞爺湖町立虻田小学校


寛政12年9月6日(1800年)
朝から曇天、夜も曇る。朝五つ前、アブタ出立。ベンベで中食。七つ頃レブンゲに着。道のり五里。仮家・本家に分かれて止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアブタ(虻田;洞爺湖町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。朝五つ前(午前8時)出立、七つ頃(午後4時)着。道のりは五里(約20キロ)。仮家・本家に宿泊。往路での宿泊は詰合出役の小屋等と記されていましたので(6月11日条)、別の建物ができたようです。

洞爺湖町立虻田小学校 to 豊浦町立礼文華小学校

洞爺湖町立虻田小学校 to 豊浦町立礼文華小学校



寛政12年9月7日(1800年)
朝から晴天、昼後から雲る。朝六つ後(レブンケを)出立。三里十七町三十間行ったシツカリで中食。そこから三里三町、七つ頃小砂満辺(オシヤマンベ)に着。川欠けで会所が打ち崩れて普請中であるため、仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はレブンケ(豊浦町礼文華)〜オシヤマンベ(長万部町)。往路のオシヤマンベでは、会所に宿泊していましたが、水害にあって会所が壊れてしまいました。川欠けとは、洪水や水流で堤防などが壊れることをいいます。

豊浦町立礼文華小学校 to 長万部町役場

豊浦町立礼文華小学校 to 長万部町役場


レブンケ〜オシヤマンベ間には「新道峠にかかる大難所」があり、往路ではそのことに触れられているのですが(6月10日条)、復路ではスルーされています。


寛政12年9月8日(1800年)
曇晴れ、夜は晴れ。朝六つ半頃(オシヤマンベを)出立。二手に分かれ、私と(平山)宗平・(伊能)秀蔵は船に乗り、門倉隼太・(佐原)吉助は陸路を行き、七つ前山越内に着いた。甚之丞方へ止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜山越内(八雲町山越)。チーム伊能にしては珍しく二手に分かれて別行動。メンバーの名前が全員記されています。これも珍しい。

長万部町役場 to 八雲町立山越小学校

長万部町役場 to 八雲町立山越小学校



寛政12年9月9日(1800年)
六つ前小雨、六つ半後に雨はやむ。その後曇天、夜は晴れ。朝六つ半頃(山越内を)出立。ヲトシベで中食。七つ頃ワシノキに着。五里八町又は五里半か。同所で止宿。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜ワシノキ(森町鷲ノ木)。忠敬は天気の記載や距離については細かく日記に記載し、その関心ぶりが窺えますが、地名は往路と復路の表記が統一していないものがあり、結構大雑把。この点は枚挙に暇がありませんが、今回の「ワシノキ」(往路では「鷲ノ木村」)もその一つ。当時はそれが普通だったのでしょうかね。

八雲町立山越小学校 to 森町立鷲ノ木小学校

八雲町立山越小学校 to 森町立鷲ノ木小学校


寛政12年9月10日(1800年)
朝から少晴れ、夜も同じ。朝六つ後出立。スクノツペで中食。七つ半大野へ着。鷲木(ワシノキ)から大野まで道のり八里半。止宿。途中一ノ渡の村上嶋之丞殿へ立ち寄るが、不在であった。夜、村上氏が来られた。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲木(森町鷲ノ木)〜大野(北斗市)。道のりは八里半(約34キロ)。ついに大野村に到着。大野村は函館から約20キロの距離です。函館は目前です。

森町立鷲ノ木小学校 to 大野小学校前

森町立鷲ノ木小学校 to 大野小学校前


村上嶋之丞。蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。本日の旅程の途中にある一ノ渡(北斗市市渡)に居住しており、大野までは約2キロですが、わざわざ忠敬を訪ねてきました。
往路でも忠敬は村上と会っています(6月1日条)。


当時の蝦夷地としては比較的栄えていました。ここを1811年に通過したゴローニン(ゴロヴニン)が大野村のことを「日本幽囚記」で書き残しています。

1810年代の大野村(現北斗市) ゴロヴニン「日本幽囚記」より - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉ゴローニン事件で幕府に拘束されたゴローニンは、「日本幽囚記」という著作を残しており、岩波文庫に収められています(岩波文庫では著者を「ゴロヴニン...

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文政10年9月上旬色川三中「家事志」

2022年09月15日 | 色川三中
文政10年9月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年9月朔日(1日)(1827年)
菅間村の利助は、母の元に来たり来なかったりしており問題があったが、今日まで待っていたもののいまだ戻らないとのことである。不埒である。隣に奉公している吉兵衛の親を呼び寄せて、利助がいまだ戻っていないことを厳しくいうよう申し渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
菅間村(現つくば市)の利助は、土浦の三中の母親のところに通いで奉公しているようです(日記では前提を書いていないので、この辺よくわかりませんが)。無断欠勤が相次ぎ、三中は〈不埒である〉と最低の評価を下しています。

文政10年9月2日(1827年)
間原氏が来られて、債務の件について話す。当方の親戚の不幸があったので、ここ数日はこの話をしにくるのを遠慮していたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
間原氏とは親しい中で債務の整理にも協力してもらっています。親戚にも不幸があったりしますが、三中の債務整理は待ったなしです。


文政10年9月3日(1827年)
七兵衛の兄(谷田部にいる)が病気になった。七兵衛は病気がちで出張をさせておらず、先般笠間に出張にいかせ、一昨日
戻ってきた。それにしても、実に病の多い年である。これまで前例がないほどである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
七兵衛は店の従業員。従業員に対して愚痴の多い三中ですが、七兵衛に対しては今のところ愚痴を聞いたことがありません。信頼されているのでしょうか。病気がちであるので、大きな仕事をまかせられないということもあるのかもしれません。それにしても感染症の流行で病気にかかる人が多い年です。

文政10年9月4日(1827年)
昨日、土浦から南の方の営業をしている者が帰ってきた。川原代(龍ヶ崎市)の源三郎方へ書物を持って行ってもらった。源三郎の書状には、次は、史記の列伝を持ってきていただきたいとあった。使いに行かせたものは馳走になったそうだ。親切なことだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
南の方の営業と訳したのは、原文では〈南在廻り〉。南在は、南の方の在方という意味でしょう。南在の源三郎さんとは書物の貸し借りをしているらしく、〈今度は史記列伝〉を持ってきてくれとの注文。使いの者にはご馳走で接待。この時代はこんな感じでやり取りしてたのですね。

文政10年9月5日(1827年)
以前、甘遂や人参の根を植えたが、芽が出なかったので枯れてしまったと思っていた。昨日掘ってみたら、芽が出ていて、さては春になったらでるつもりだったのか、場所が変わったので、一年世にでることを休んだのだなと思い、非常に興味深かった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商ですが、本草学にも興味があり、趣味と実益を兼ねて薬草も育てていたことがわかります。甘遂は鹿嶋郡飯島邑あたりからとってきたとか、人参の根は八重村(石岡市八郷町)からもらってきた等と細かく記載されていましたがツイートでは略しました。

文政10年9月6日(1827年)
朝五つ過ぎに、谷田部(現つくば市)から二人の者が来て、店の従業員与兵衛の親(谷田部に居住)が亡くなったと知らせてきた。与兵衛にはすぐに谷田部に行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛は8月半ばに水戸や江戸に早朝から出張を命じられており、精神的に厳しかったのではないでしょうか。本日親が亡くなり、与兵衛には一層辛いことでしょう。

文政10年9月7日(1827年)
江戸材木町のならや長兵衛殿からの債務を分割で支払っていたのだが、どうもある時から支払いを忘れてたいたらしい。ならやの親類宗兵衛殿が本日来て、その旨を聞く。ならやも裏に引きこもっており、最近は難渋しているとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が債務の返済を忘れていた、債権者の方も取り立てを忘れてたいたという記事。債務の返済を忘れてたいたとは三中らしくありませんが、父の死により返済が止まっていた可能性もあります(相変わらずそういうところは日記に書いていない)。債権者のならやも引きこもって難渋とは盛者必衰。

文政10年9月8日(1827年)
・伊勢屋の出店の内室が亡くなり、本日野辺送りをした。
・木原様に借りていた本を返した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「木原様」というのは土浦藩の武士。三中は町人ですが、本の貸し借りのような交流もあったことがわかります。木原様には以前虎徹の刀を差し上げたりもしています。


文政10年9月9日(1827年)
綿の手入れをすることが本年は遅く、雨が降らずに日に照らされて大いに草も傷んだのだが、収穫してみたら50貫近くになったと小作の者から話があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は土浦(現土浦市)の町人ですが、土地も保有しており、田畑は小作に任せているようです。そのため、時々農業情報が日記にも顔を出します。江戸時代は綿は自給のため、土浦でも栽培がおこなわれていたことがわかる記事です。
なお、現在では外国産に押されて、国内では綿の栽培はほとんどしていないそうです。

文政10年9月10日(1827年)
(編集より)本日の日記の記載はなく、お休みです。
#色川三中 #家事志

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帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

2022年09月12日 | 伊能忠敬測量日記
帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

(はじめに)
 伊能忠敬の測量日記に記載されている箱館からの先触及び添触を紹介します。

【寛政12年9月12日付先触】
 同日の日記に「先触の写しは以下のとおり。本日箱館町役人へ渡した。」とあり、次のように記されています。
(先触れ)
一 馬  二疋
一 人足 三人
 蝦夷地測量の御用のため、来る十四日上下五人箱館町を出立し、三厩まで通行します。お定めの賃銭を支払うので書面の人馬をご用意ください。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにお願いいたします。 以上
 申九月十二日  伊能勘解由 印 
        右村々
          名主 年寄 中
泊り順
十四日 茂戸地  十五日 知リ内
十六日 福嶋   十七日 松前町
 雨天の場合は、逗留もありうるので、そのような心得のもと取り計ってください。

(この先触れの背景)
 伊能忠敬測量チームは、8月7日にこの測量旅行での最北端(かつ最東端)のニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。ここから折返して復路となり、
9月11日に箱館(函館)に着きました。ニシベツからの添触(幕府役人発行の人馬徴用を認める書面)は箱館までであったことから、箱館以降の添触が必要となりました。

(先触の内容)
 先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
 「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
 人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
 次に添触の写しを紹介します。

【御添触れの写し】
一 本馬 二疋
一 人足 三人
 書面の人馬は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人の伊能勘解由が、蝦夷地の御用のために使うので、本人の申し出があり次第、お定めの賃銭で用立てるように。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにするように。以上
 申九月 寺田忠右衛門 判
     水越源兵衛  判
 箱館から松前、松前から津軽三厩 奥州道中、千住宿まで
 右宿々の名主・問屋・年寄


(この添触の背景)
伊能忠敬は、寛政12年9月11日の日記で次のように書いており、「江戸へ帰る際の添触」が上記の内容です。
〈朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。〉

(添触について)
 添触の作成名義は、箱館御番所の役人です。内容はほとんど先触と変わらないので、先触の内容を公証する役割を果たします。先触と添触で内容が異なっていてはダメなのです。
 先触と違うのは、伊能忠敬が何者かということを紹介している点。「伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人である」となっており、この時点では伊能忠敬は幕府の役人にはなっていません。それでも測量の仕事は公用として認められていました。
 今風にいうと、伊能忠敬はフリーランス(浪人)であって、公務員(幕府の役人)ではないのですが、伊能忠敬の測量プロジェクトは幕府の公認で、幕府が同事業を委託し、必要経費の一部を助成金として交付するということになりましょうか。

(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)

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1810年代の大野村(現北斗市) ゴロヴニン「日本幽囚記」より

2022年09月10日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
ゴローニン事件で幕府に拘束されたゴローニンは、「日本幽囚記」という著作を残しており、岩波文庫に収められています(岩波文庫では著者を「ゴロヴニン」としているので、以下この表記で統一)。ゴロヴニンは国後島で拘束され、函館まで連行されるのですが、函館に近い大野村(現・北海道北斗市)のことを描写していますので、その記載をご紹介します。

【ゴロヴニン「日本幽囚記」より】
〈大野村はこれまで通過してきた村のうちでもっとも大きい。
周囲は25~30露里(2.6~3.2㎞)に及ぶ広大な渓谷の中にある。
村は三方を高い山に囲まれ、寒い風を防ぎ、南側には函館湾と津軽海峡がある。
渓谷には流れの早い多数の河川が灌いでいる。
大野村はいわば庭園の中にあるようなもので、どの家にも広々とした菜園や庭園がついている。
西洋の普通の野菜類のほかに、林檎や梨や桃のような果樹も見え、その上ところどころ大麻や煙草や稲も見えた。
大野は函館から約7露里(7.5㎞)のところにある。〉

(コメント)
・国後島から大野村まで連行されてきたゴロヴニンは、大野村がもっとも大きな村でったと記しています。函館にも比較的近く栄えていた村でありました。
・江戸時代に大野村と呼ばれていた地域は、昭和に大野町となりましたが、平成の大合併で北斗市となり、「大野」は地名としては消えてしまったようです。小学校の名前などに「大野」の名前が残っています。
・函館からの距離は、ゴロヴニンによると約7露里(7.5㎞)というのですが、函館元町公園(当時の箱館奉行所)〜大野小学校までは18キロあり、約7露里(7.5㎞)とは計算が合わないので、これはゴロヴニンの勘違いでしょうか。
https://maps.app.goo.gl/QVdWzi2R24U1PMhm9
・大野村は伊能忠敬も蝦夷地測量で通過しています。宿泊地でもありました。なお、忠敬は、大野村から函館までの道のりは五里(約20キロ)としています(9月11日条)。
寛政12年9月11日
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。




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自治体が固定資産税を取り過ぎたときの返金の根拠

2022年09月05日 | 地方自治体と法律

(固定資産税の課税ミスの例)
固定資産税の課税ミスは、年間相応の件数が新聞にも掲載されています。
最近のものだけでも次のようなものがありました。
・北上市(岩手県) 固定資産税の課税ミスで1991年度までさかのぼり還付へ(8月19日付朝日新聞デジタル)
・小浜市(福井県) 29年にもわたり固定資産税課税ミス(7月29日付NHKニュースウェブ)
・川越市(埼玉県) 固定資産税課税ミスで18人から税金過徴収(5月25日付埼玉新聞)
 固定資産税を過徴収してしまった場合、過徴収分を返金するのはどのような根拠に基づいているのか見てみましょう。

(地方税法による還付)
 5年以内については、地方税法により還付が可能ですので、還付の手続での返還となります。(地方税法17条の5 )。

(過誤納金が5年よりも前の場合)
 この場合は地方税法による還付ができません。還付は5年以内のものに限られるからです。
 自治体に過失があれば、国家賠償法による損害賠償請求が可能です。
 もっとも、住民にとっても自治体にとっても損害賠償請求で処理をするのは、手間も暇もかかります。
 住民側としては損害賠償請求をする資料を揃えたり、交渉したりしなければなりません。
 自治体にとっても同様の手間がかかる上に、損害賠償の金額を定めるのは議会の議決事項となるのが原則ですから(地方自治法96条1項13号)、これまた手続きが重くなります。
 そのため、「固定資産税等返還金支払要綱」というような要綱を定めて返還金を支払う自治体があります。
 
(返還金支払要綱の概要)
 固定資産税等の返還金支払要綱は、自治体によって内容が多少異なります。
 要綱の名前自体「返還金支払要綱」だったり、「過誤納金償還金支払要綱」だったり、「過誤納金補てん金支払取扱要綱」だったりしますが、ここでは木更津市(千葉県)の固定資産税等返還金支払要綱によって概要をみておきます。
 返還金の支払を受けることができる者(返還金支払対象者)は、還付不能額に係る固定資産税等を納付した者です(要綱3条)。地方税法で還付を受けることができない場合に限って、この要綱を適用し返還金を支払うことになります。
 支出の根拠については、「市長は、返還金を地方自治法232条の2の規定により支出する。」という規定が置かれています(要綱2条)。地方自治法232条の2というのは、「普通地方公共団体は、その公益上必要がある場合においては、寄附又は補助をすることができる。」という規定ですから、法律上の性質としては「贈与」であるということです。法的な性格は、損害賠償に対する支払ではなく、贈与であるということが特徴で、このような規定は各自治体だいたい共通しているのではないかと思います。
 木更津市では、「還付不能額の算定対象年度は、還付不能となる年度以前15年度を限度とする。」としています(要綱4条2項)。何年前まで遡って支払うかについても、各自治体によってばらつきがみられます。損害賠償の場合は、民法改正前ですと20年前まで遡れるのですが、固定資産税支払いの文書の保存期間の問題もあるので、各自治体によってばらつきがでるのかと思います。

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三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す

2022年09月04日 | 伊能忠敬測量日記
【三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す】

(はじめに)
 今回紹介する書簡は、寛政12年(1800年)の9月4日付測量日記に記載されているものです。
 伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、8月7日にニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。ここから折返し、測量をしながら江戸に向かい、9月4日にはエトモ(絵鞆;室蘭市)に着きます。旅宿に着くと書状が届いていました。
「本日七つ後に、三橋藤右衛門様(ご用人武藤貫三殿、大塚一郎殿)8月19日付書状及び長嶋新左衛門殿よりの添状が、エトモの旅宿に届けられた。」(9月4日条)
 三橋藤右衛門の書状は、北海道測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課すという書状です。三橋藤右衛門様の勉強熱心のためとはいえ、なかなかに無茶ぶりです。
 まずは、三橋藤右衛門ご用人からの書状を紹介します。

【三橋氏ご用人からの書状】
一筆啓上致します。ご壮健のこと、またご旅行もご無事のことと存じます。
ところで、天文の来歴を唐土紅毛(中国・オランダ)からの伝来も含めてお書きいただき、三橋様にお見せいただくようお願い致します。このことは(三橋)藤右衛門が拙者どもに仰せつけられたことです。江戸に帰りになるまでのうちに認めて、ご提出いただくようくれぐれもよろしくお願い致します。
八月十九日
    三橋藤右衛門内
       大塚一郎
       武藤貫三
 伊能勘解由様

(解説)
 三橋藤右衛門のご用人(家来)からであり、主人の意向を伝えるものです。8月19日付、この年は寛政12年(1800年)です。レポートの内容は、「天文の来歴を唐土紅毛(中国・オランダ)からの伝来も含めて書きなさい」というものです。日本だけではなく、世界的な視野でという注文がつけられています。
 レポートの期限は「江戸に帰りになるまでのうちに認めてご提出」というもので、測量をしているのに、それに加えてレポートを作成せよという注文はなかなか過酷です。
 三橋藤右衛門は、本名を三橋成方(なりみち)といい、幕府の旗本。寛政8年(1796年)3月8日勘定吟味役に昇進。寛政10年(1798年)幕府はロシアの南下を受けて180名からなる蝦夷地巡察隊を組織し、成方は責任者として蝦夷地へ派遣され、西蝦夷地を巡見。11月半ばに江戸に戻った後、翌寛政11年1月には蝦夷地取締御用掛を命じられ、同12年4月から9月まで箱館に詰めています。
 伊能忠敬にレポート作成を指示していることからすると、忠敬の蝦夷地測量の件については三橋藤右衛門もかなり絡んでいるのかもしれません。
 それにしても、測量旅行中のレポート作成の指示は無茶ぶりという気がします。レポートの内容は、これまでの暦の来歴というものであり、江戸に帰ってから書かせてもよい内容ですし、旅先の伊能忠敬は何の文献も参照できないのですから。
 それに比べると、このあとご紹介する長嶋新左衛門からの書状は忠敬への配慮が感じられます。この書状は、三橋氏ご用人からの書状に添えられていたものですが、白老出立の日の大風雨を気遣い、長嶋新左衛門の性格が表れています。
 長嶋新左衛門殿は白老詰合の御普請役であり(6月17日条)、出張の際は留守支配人への指示により、伊能忠敬らに会所本陣での宿泊をさせてくれた方です(6月19日条)。

【長嶋新左衛門殿からの書状】
寛政12年9月4日付(1800年)
道中ご安全にご旅行をされておられることと存じます。先日、御止宿なされましたが、早々にお立ちになられまして、お構いもできず申し訳なく思っております。白老をご出立の日(九月二日)は、大風雨になってしまい、難渋なされたのではないかとお察しいたします。その日は私も出立の予定でしたが、風雨のため出立を見合わせ、翌三日に母衣別(ホロベツ)に着きました。
 さて、武藤貫三殿から用向きの書状が届いておりましたので、当方で伊能様にお渡しするように手配させていただきました。無事届き、ご意向に沿うようになられるとよいのですが。以上
九月四日 長嶋新左衛門
伊能勘解由 様

(9月2日の大風雨)
 この書状で9月2日の大風雨について触れてありますが、忠敬は以下のように日記に記しています。長嶋新左衛門が出立を見合せた中に先を進んだチーム伊能でした。

寛政12年9月2日(1800年)
朝から雨天。五つ頃出立。大風雨。アイロで中食。濡れた衣服を干し、身を温める。アイロから三里三町でポロベツへ七つ半後着。ずぶ濡れ。白老からポロベツは七里六町。会所に止宿。

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