南斗屋のブログ

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寛政12年5 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年05月31日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年5 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年5月21日(1800年)
朝より九つ後曇り、また少晴。福嶋から四十八瀬といわれる小川を数十度越えてわたり、知内に至る。知内までが松前藩領で、知内川を境として、御用地(幕府領)となる。木古内まで行き、止宿。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月22日(1800年)その1
朝薄曇り、五つの地より晴天、夜は曇る。朝六つ後に出立。札苅、泉澤、茂辺地、富川、三谷、有川を通り箱館に七つ頃着。宿地蔵町の伊藤茂左衛門の倅幸治郎宅。到着後役所に届を提出。
#伊能忠敬
#測量日記


寛政12年5月22日(1800年)その2
届の内容。
書付をもって申し上げます。
一 私儀、先月19日江戸表を出立し、今月10日津軽領三厩へ着。11日から18日まで風待ちをし、19日に渡海致しましたが、風がよろしくなく松前領吉岡村へ着船致しました。19日、20日と風待ちを致しましたが、箱館までの渡海の見込みがたたないため、よんどころなく陸路にて今日到着致しました。以上、お届けいたします。 以上
申5月22日 伊能勘解由
蝦夷御掛 御役人中様
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月22日(1800年)その3
届けは、箱館御詰相御支配水越殿、支配勘定寺田殿、御普請役小林殿、布山殿、御先手組同心井上殿に回覧された。この日、御添触を小林氏に渡した。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月23日(1800年)
朝より九つ後まで曇り、七つ頃まで晴れ、七つ過ぎより曇り、夜もまた曇天。逗留。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月24日(1800年)
朝五つ頃まで小雨、九つ頃まで曇り、夜また同じく曇り。逗留。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月25日(1800年)
朝五つ半頃まで曇り、後晴れ、また七つ頃より小雨、夜も曇る。雲間に少しの間測量。そのころまでヤマセ風が吹く。今朝、同行してきた下人の長助が病気を理由に達ての願いということで暇を願ったので、御役所へ伺って長期休暇を許可した。路用金一分を渡し、三厩への乗合船に乗せた。この日も逗留。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月26日(1800年)
朝五つ後まで晴れ、九つ後まで小雨、七つ後より曇る、暮より五つ頃まで小雨、それより中雨南風なり。
逗留。役所へ添触を願い置いた。津軽家の笹森勘解由といわれる箱館詰めの役人、竹内甚左衛門殿より書状を持参され、宿所へお見舞い下された。南部領や津軽領を旅行していた時から、朝暮は寒いので、重服である。この日、太陽を測る。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月27日(1800年)
朝より四つ半頃まで曇天、それより晴天、夜も度々曇る、南風。午中太陽を測り、夜もまた少しの間測量をする。本日すこぶる暑く、昼は単物を着、夜は袷を着るだけですんだ。逗留。亀田御役所へ蝦夷地出立を届でる。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月28日(1800年) 土用
朝五つ後まで曇る、それより晴天。江戸を出立してからこれまでにない上天気である。しかし、遠くに見える山々には白雲が多い。箱館山に登って所々の方位を測る。夜も晴れて測量する。箱館御役所へ蝦夷地出立を届出、先触を出す。

寛政12年5月29日(1800年)
朝より暮まで晴天。朝五つ後箱館を出立、亀田御役所へ届を出す。道中は甚だ暑い。大野村へ七つ後に着き、止宿。この日箱館より間縄で方位測量をしたが、途中時間がなくなり、足間で大野まで測った。夜曇天であったが、雲間から測量した。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年5月晦日(30日)(1800年)
大野村逗留。朝曇る、五つ後より昼夜晴天、夜に測量。
#伊能忠敬
#測量日記







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色川三中「家事志」文政10年5月下旬

2022年05月30日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

色川三中「家事志」文政10年5月下旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年5月21日(文政10年)
行商での留守中に、与市方に国元から飛脚が来た。よんどころ無い急用あり、国元へ帰らなければならないと。本日、朝与市は出立した。行商から帰ってただでさえ忙しいのに、与市がいないため一層多用となっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
時々日記に出てくる「与市」は、下総富谷村(千葉県匝瑳市)で庄屋まで務めた人物で、なぜか土浦まで来て色川家の様々な仕事をこなしています。与市がいないと、色川家の仕事が回らず、三中に負担がかかってきます。 

1827年5月22日(文政10年)
夜に入ってから、入江(名主)より呼ばれた。行ってみると、持合金のことであった。ついでに、債務整理の件も話す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
持合金については、惣代の寄合いで支払いを督促されていましたが、三中としては気が進まずに支払っていないという状況が続いていました。ここに来て、名主の入江からも話しがありました。中身を書いていないので、三中がどのような思惑から支払わなかったかはわからないのですが、この時期持合金についてはいろいろと問題があったようです。 
https://twitter.com/tk23956/status/1513624075721056260?t=7BQBzOc4ktsSOctZE9q04g&s=19


1827年5月23日(文政10年)
・行商から帰ってきて四五日経つが、段々と熱が出てきた。
・私が行商で留守中の12日に会合があったので、隣主人の横田に出てもらったと聞いた。本年から御上納米は継米では不可とのことである。何か理由があるとは聞いているが、なぜ皆が難渋するようなことをするのだろうか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「継米」の意味がとれず正確に訳せているか自身がないのですが、制度が改悪される事態が生じてはいるようです。この時代、一方的に通達を受けるだけであり、民意を政策に反映させる手段がありませんから、弱い者ほど難渋したことでしょう。

1827年5月24日(文政10年)
〈本日、三中は日記を書いておりません。昨日、「熱がでてきた」と書いてあったので、そのせいかもしれません。明日には再開されるはずですので、明日までお待ち下さい。〉
#色川三中 #家事志

1827年5月25日(文政10年)
昨日、間原の子どもが疱瘡(天然痘)に罹り具合が良くないと聞く。今日見舞いに行く。間原の主人は江戸に行っており不在。先日間原宅には盗賊が入り、その処理のためという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
間原家の子どもは昨年八月に生まれたばかりで、まだ一歳の誕生日も迎えていません。疱瘡に罹り、命の危険にさらされています。その大事なときに父親は江戸に行って不在。なんとも間が悪いことです。

1827年5月26日(文政10年)
行商の留守中に忠七の請人由兵衛が来た。「自分は請け状に判をしていない。判があっても自分のではない」と主張しているという。昨日、印形と証文を突合せてみたが、由兵衛がもともと使っているものではないらしい。こちらもうっかりしていたが、全く不届きなものばかりだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
忠七は三中の元で働いていましたが、行状が悪く解雇。逆ギレして、店の金を持ち出して失踪。三中は請人(身元保証人)に損害賠償を請求していました(5月2日条)。請人は、今になって請状(身元保証)は自分は作成していないと主張というのが、今日までの流れです。

請人は忠七が解雇になる前に、忠七と一緒に謝りに来ています(4月13日条)。請人であることを今になって否定するとは三中にとっては想定外の事態。しかし、請状の印形は請人本人のものとは一致しません。文書の不備を突かれた形となってしまいました。憤懣やるかたない三中なのでした。

1827年5月27日(文政10年)
間原の子どもの調子が良くないので、間原宅に集まる。間原の主人は、江戸から今夕帰る予定であるが、もし帰らないのであれば、明日早朝飛脚を遣わそうと決めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
疱瘡(天然痘)に罹っていた間原家の子どもですが、いよいよもって危篤となってしまいました。父親はまだ江戸から帰ってきておりません。看取ることができるでしょうか。心配です。

1827年5月28日(文政10年)夏至
橋本郡太夫様がお亡くなりになられたとの知らせを聞き、早速参上してお悔やみを申し述べた。手伝いのため、一人遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の知り合いの方が亡くなってしまいました。江戸時代は、すぐに駆けつけてお悔やみを述べることがデフォルトのようです。現代では葬儀社が葬儀を出すのを業としていますので、依頼すれば様々なサービスを提供してくれますが、この時代は葬儀社は存在せず、皆で葬式を出すので、手伝いを出すことが付き合いの一つとなっています。

1827年5月29日(文政10年)
七つ過ぎに間原から、「子どもは養生かなわず亡くなった」との連絡があった。
すぐに間原宅に赴く。間原から「明日は6月朔日であるからどのようにしましょうか」との問いあり。皆で相談し、明日でも問題なしとなり、明日夕方に葬儀を出すことに決まった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ついに間原家の子どもは亡くなってしまいました(父親は江戸からは戻れたようです)。昨年8月に生まれ、一年に満たない命でした。病により被害を被るのは弱い者に対してということを改めて思い知らされます。
 「明日は6月朔日だから」と書かれています。この年の5月は29日までで、30日以降はありません。翌日は6月朔日(1日)になります。朔日に葬式を出してよいかどうかが問題になりましたが、出しても問題ないと話しがまとまりました。


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伊能忠敬測量日記にみる先触・添触(寛政12年5月)

2022年05月28日 | 伊能忠敬測量日記
(はじめに)
寛政12年閏4月19日に江戸を出発した伊能忠敬は、函館に5月22日に到着。函館で
測量や諸手続きを行い、国後を目指します。手続きのうち、先触、添触等というものがあります。
 伊能忠敬の測量日記5月28日条にそれらの写しが記載されているので、現代語に訳してみます。

【先触】
先触 箱館からクナシリまで 伊能勘解由
一 馬 壱疋
一 人足 三人
 右は、この度の蝦夷地での測量の御用のためです。我ら上下五人は翌29日に函館を出立してクナシリまで行く予定であるので、書面の人及び馬をいささかの遅滞もなくお定めの賃銭で用立てください。渡海・川越え・止宿についても、差支えのないように。一か所に3~5泊することもあり、さらに天気次第では宿泊を延期することもあって、アツケシやクナシリ辺りまでは行くことができないこともあるので、その点を心得て執り行ってください。以上
 申五月廿八日      伊能勘解由
         箱館よりクナシリまで
         右村々場所々々
         名主 支配人 中

(先触について)
 先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
 「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
 人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
 次に役所の添触の写しを見てみましょう。

【役所の添触】
覚(御添触の写し)
一 馬 壱疋
一 人足 三人
 右は、この度の蝦夷地での御用のためのものである。伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人であるが、蝦夷地に御用のために派遣された者である。書面の人及び馬は、本人の申し出があり次第、いささかの遅滞もなくお定めの賃銭で用立てるように。渡海・川越え・止宿についても、差支えのないように。一か所に3~5泊することもあるので、その点を心得て執り行うべきこと。 以上
 申五月 箱館御番所 御印
       箱館よりクナシリまで
 右村々場所々々 名主 支配人


(添触について)
 添触の作成名義は、箱館御番所です。内容はほとんど先触と変わらないので、先触の内容を公証する役割を果たします。先触と添触で内容が異なっていてはダメなのです。
 先触と違うのは、伊能忠敬が何者かということを紹介している点。「伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人である」となっており、この時点では伊能忠敬は幕府の役人にはなっていません。それでも測量の仕事は公用として認められていました。
 今風にいうと、伊能忠敬はフリーランス(浪人)であって、公務員(幕府の役人)ではないのですが、伊能忠敬の測量プロジェクトは幕府の公認で、幕府が同事業を委託し、必要経費の一部を助成金として交付するということになりましょうか。
 添触は役所名義のものと、村役人名義のものとがあります。後者は次のようなものです。
 
【村役人から各宿への添触】
(箱館の村役人から先触の奥へ)添触
一 伊能勘解由様のお先触のとおり、村々宿々は遅滞なく継立を行ってください。もっとも村々でご逗留もあることでしょうから、お先触が届いたら、次に継送りを行ってください。 以上
    箱館月番 矢川四郎左衛門 印
         長谷川太左衛門 印
 申五月廿八日   
 大野村から久奈志利(クナシリ)まで

以上の①本人の先触、➁役所の添触(ご証文)、③村役人から各宿への添触が、当時の公用旅行者の三点セットといわれるもので、これらが揃って公用旅行がスムースに行われるのです。

(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)

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進まぬ法廷編⑥-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月12日 

2022年05月27日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

5月12日 晴 その1
被告太九老の期日である。
着御届を差出して待っていたところ。午前11時ころに原告被告ともに呼び込みとなったので、聴訟に入る。午後1時からお呼び立てとなる。
御掛様「被告太九老は参っているか。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月12日 その2
私「どうでしょうか。見かけてはおりませんが。」
御掛様「代言から答書が提出されている。」とのことで、代言人の羽原利三郎をお呼び立てになる。
御掛様「明日は判事公のお調べの日となるので、両名そのように心得て出頭せよ。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月12日 その3
御掛様「次に、被告清四郎の件であるが、被告が返済をしないのであるから、身代限りの手続きをすすめるほかないのではないか。」
私「金30円ばかりの債権なのですから、身代限りになどなさらなくても、示談をしていただければこちらは良いのですが、どうしてもというならば仕方ありません。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月12日 その4
御掛様「被告太九老の件は判事の御席調べとなったことでもあるから、その件がはっきりしてから、清四郎の身代限りも行うこととする。」
午後2時ころ、原告被告とも宿に下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)



 



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進まぬ法廷編⑤-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月7日-11日 

2022年05月25日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月7日(明治7年) その1
午前8時ころ、長十郎を被告とする件につき訴状を提出する。
清四郎を被告とする件について着御届し、控えていたら、午後1時ころ呼込みとなったので、聴訟に入る。被告代書人小倉文蔵が来ていたので、代言人についたはずの吉崎久兵衛のことを尋ねたが、「何かの行き違いでしょう。今朝は吉崎代言人来られません」等という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月7日(明治7年) その2
そうしているところへ、多人数で急な調べを要する件が入ったとかで、御掛りの脇屋様は聴訟の奥へ入ってしまわれた。
やむなく一旦聴訟の外にでたところ、今度は新たに訴状を提出した件(長十郎を被告とする件)についてお呼込みがあり、訴え所(訴状受付)に入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月7日(明治7年) その3
新訴(長十郎を被告とする件)は、潮田様が御掛りとなられた。「この件については
明朝出頭するように」と申渡された。
被告清四郎の件で、代言人吉崎久兵衛が来ていないことを申立てようとすると、「今日はもう遅いので、明日にしていただきたい」と申渡され、午後4時ころ宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月8日(明治7年) その1
午前8時ころ、裁判所に出頭し、被告側代言人吉崎久兵衛が出頭しないことについて申立書を提出した。
午前10時ころ、新訴の件(長十郎が被告)について呼込みがあったので、聴訟に入る。御掛り潮田様から目安御糺があった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月8日(明治7年) その2
潮田様「質地証文の文中に年賦とあり
利足を取ることとなっているので、訴状は採用できない。」
私「丁卯(1867年)以前に受け取るべき分については請求できないことは承知していますが、この訴状はその後の分についてですからご採用ください。」
この返答に潮田様はしばしご勘考のあと、こう言われた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月8日(明治7年) その2
潮田様「年賦金にせよ質地金にせよ、利足ということであれば、貸金に属するゆえ、採用できない。卯年(1867年)以後受け取るはずの約定となっているが、証文の文面上金子貸渡しの期限が卯年以前の約定になっているのだから、やはり訴状を受付けることはできない。訴状を差し戻すので、願下げの書面を提出いただきたい。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月8日(明治7年) その3
私「小作帳が証拠としてございますから、訴状を受け付けてはいただけませんか。」
潮田様「確かに小作したといえるのか、滞納した分については借り受けたというのか、判然としないではないか。確かな証拠がない限り採用できぬ。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月8日(明治7年) その4
訴状は受理されなかったので、御下願(表紙なし、美濃一枚紙のもの)を提出し、訴状の下げ渡しを受けた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月8日(明治7年) その5
その後、被告清四郎の件で待っていたが呼込みがない。午後4時ころ、聴訟が落ち着いていたので、聴訟に入ってみた。
御掛様(脇屋様)「最前呼込みをしたが、いなかったではないか。どこへ行っていたのだ。」
私「腰掛にいたのですが、呼込みを聞き損じたのでしょうか。」
御掛様「今日も被告が来ないのだ。明後日10日に罷り出よ。」
宿に下がったころ、雨は止んで晴れ。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月9日(明治7年) 晴
(「明後日10日に罷り出よ」と御掛様から指示を受けたので、この日は法廷への出頭はなく、業務日誌にも天候しか書いてありません)
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月10日(明治7年) 晴
午前9時ころ、裁判所に出頭。被告清四郎の件について、着御届を提出し控えていた。
午前11時ころ呼び込みとなり、聴訟へ入る。
御掛様「被告の者は参っておるのか。」
返答「先刻腰掛にて私鳥海が面会致しましたので、ただ今来られているのでしょう。話し合いもしておりませんので、被告をお呼び込みいただいてお調べをお願いします。」
御掛様「被告を呼び出しているのに、今出頭していないようであるので、午後に呼び出しをするから、被告とも同道されたい。」
これを聞いて、聴訟から出たところ、被告代言の吉崎久兵衛がいた。先ほどの御掛様の話しをしたところ、久兵衛「私も呼び込みを受けて、被告ともども罷り出たのですが、お調べにもならないで、貴殿と話しをせよと言われたのです。」
午後になり2時になっても呼び込みがない。被告とも相談して聴訟へ入って、御掛様のご出席を待っていたが、おいでになられない。
午後4時、ようやく御掛様がおいでになられたので、「原告・被告同道して参りました。」と申し上げたが、御掛様「今日は多用であった。もう刻限も遅いので取り調べは、明後日12日に行う。原告・被告同道の上、出頭せよ。」と申し渡された。
5時ころ、原告・被告とも聴訟から下がった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月11日 晴 休庁
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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色川三中「家事志」文政10年5月中旬

2022年05月23日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年5月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を自由訳したものです。

1827年5月11日(文政10年)
朝、行商に出立す、安食(茨城県かすみがうら市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は土浦で薬屋をしています。医師は各地にいますので、医師に薬を売るために時々行商に行っています。行商に出ているときは、営業活動に力を注いだため、日記は簡潔になっています(後から一気に書いたのかもしれません)。
本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っているのかもしれません。場所の参考として見てください。

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神


1827年5月12日(文政10年)
玉造(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12日の記載はこれだけです。20日に行商を終えて帰宅するまでは、こんな感じの日記が続きます。
本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っているのかもしれません。場所の参考として見てください。

安食の道祖神 to 玉造

安食の道祖神 to 玉造



薬の行商というと、富山の薬売りのような売薬の置き売りを思い浮かべる方が多いと思いますが、三中の行商のターゲットはは医者でした。

三中が医者と会って売り込みをします。医者方に薬種を置き売りし、その後は店の者が随時巡回して不足分の補充や注文品を届けます。集金(年2回)は三中が行ったようです。
参考:中井信彦『色川三中の研究 伝記編』

1827年5月13日(文政10年)
鉾田(茨城県鉾田市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
父親の残したかなりの債務を返済するためには、債務を長期分割払いにしてもらうだけではダメで、その原資となるキャッシュを生み出さなければなりません。三中の行商は、営業力を高め、キャッシュを生み出す活動だったのです。この行商の出来が色川家の今後の運命を決めることとなるので、三中も自然と力が入ったことでしょう。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

玉造 to 鉾田駅(バス)

玉造 to 鉾田駅(バス)



1827年5月14日(文政10年)
梶山(茨城県鉾田市)泊。
#色川三中 #家事志  
(コメント)
三中が医者向けの行商を始めたのは、この年が初めてではなく、2年前ころからのようです。日記が書かれた文政10年5月の行商は、集金とともに営業の強化も目的であったのでしょう。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

鉾田駅(バス) to 梶山

鉾田駅(バス) to 梶山


1827年5月15日(文政10年)
居合(茨城県鹿嶋市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の行商による販路拡大は成功し、色川家は復活を遂げることになります。三中の成功は、ターゲットであった医者への競争に勝ったことを示しています。その勝因は三中なりの競争戦略にありました。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

梶山 to 居合田園都市センター

梶山 to 居合田園都市センター



1827年5月16日(文政10年)
鹿嶋山中(茨城県鹿嶋市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略】
医者が従来から仕入れている薬種商が売っていた薬とは、別の種類の薬、新商品の薬を販売しました。これにより、従来の薬種商と価格競争をすることなく、利益を確保。

1827年5月17日(文政10年)
入梅。鹿嶋(茨城県鹿嶋市)の藤治右衛門殿を7年ぶりに尋ね、家に泊めていただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略を支えたもの】上
三中の競争戦略は、従来からの仕入先の薬とバッティングしない新商品の薬を販売するという差別化戦略でした。この差別化戦略を支えたものとして、三中の薬に関する知識(商品)の豊富さが挙げられます。

1827年5月18日(文政10年)
麻生(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略を支えたもの】下
色川家は父の代に取引のあった薬問屋に負債を抱えていたため、同じ店からの新たな薬の供給は見込めませんでした。そこで、新興の問屋から商品の供給を得ていたようです。仕入れ面でも新たなルートの開拓が必要でした。
 本日の宿泊先周辺。麻生には陣屋がありました。場所の参考として見てください。

麻生陣屋跡 · 〒311-3832 茨城県行方市麻生1147

★★★★☆ · 史跡

麻生陣屋跡 · 〒311-3832 茨城県行方市麻生1147


1827年5月19日(文政10年)
5月12日に引き続き、玉造(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商開始の際の5月12日にも玉造に泊まっていますので、「また玉造泊」と書いています。明日にはいよいよ土浦に帰り、この淡々とした記述も終わりとなります。
本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

麻生陣屋跡 to 行方市立玉造中学校

麻生陣屋跡 to 行方市立玉造中学校



1827年5月20日(文政10年)
昼に高浜彦八を尋ね、夕六つ過ぎ時に帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商終了。土浦に戻ってきました。帰宅は夕六つ(午後6時)。行商には今月11日に出ているので、10日間の出張。電話すらないこの時代は、出張中の土浦での出来事は帰宅してからしか分かりません。そこで起きた問題を明日からこなしていかなければならない三中でした。


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蝦夷地測量で伊能忠敬が息子へ宛てた手紙

2022年05月22日 | 伊能忠敬測量日記
【寛政12年5月23日付け、伊能勘解由(忠敬)から伊能三郎右衛門(景敬)宛書簡】

(はじめに)
 この書簡は伊能忠敬が第一次測量で往路箱館(函館)に到着して比較的すぐに、自分の息子(長男)である敬景に送ったものを自由訳しました。現代からみると、とても息子にあてた手紙には見えません。当時家の当主に宛てた手紙は皆こんな感じだったのか、それとも忠敬の性格なのかよぬわかりませんが、とにかく当時の忠敬の心情と生真面目さ(これでも真面目な点は結構カットしています)がよく伝わる手紙です。

【書簡】
 先月23日に江戸で出された書状、本日箱館の旅宿に届き、拝見致しました。益々のご壮健ぶりお目出度く存じます。当方出立の際は千住宿のはるか先までお送りいただき、おそれいりました。
 さて、徒歩での旅程は天気があまり良いとはいえませんでしたが、足止めとなることもなく、朝は比較的遅く出立しても、宿に着くのは七つころ(午後4時)でありました。しかし、5月10日に三厩(青森県外ヶ浜町)に着いてから、東風が毎日吹き、渡海ができません。18日まで風待ちしました。
 19日も風が良いとはいえませんでしたが、これ以上逗留するのも船頭や宿に迷惑かと思い、乗船致しました。目的地は箱館であったのですが、風が良くないため、吉岡(北海道福島町)という箱館よりも松前ち近い村(松前までは三里)に着いてしまい、この日はここで一泊せざるを得ませんでした。
 翌20日、吉岡から箱館まで船で行こうと昼まで風待ちをしたのですが、この日もやはり東風でした。この風は青森、三厩、箱館あたりではヤマセと申しまして、この風が長く続きますと作物にも大きく影響し、土用中にまで吹きますと、その年は凶作になるといわれております。
 そのようなわけで箱館まで22〜23里ほどの陸路を行かざるをえず、箱館には昨日(22日)夕方にようやく到着した次第です。宿泊場所は地蔵町の伊藤幸治郎という御用宿です。 
 ここ箱館に到着するまでには天体観測するよう日夜心に掛けておりましたが、何分にも天気がよくありません。南部や津軽(岩手や青森)では毎日曇天、松前や箱館(北海道)ではヤマセ風が吹き続き、天気の回復を待っていてもすぐに曇ってしまいましたが、同行の者が頑張ってくれまして、7、8箇所は観測できました。それにしても、北へと進むごとに北極星が高くなっていくのは、天体の不思議と感心した次第です。
 箱館の御役所にご挨拶に行き、「蝦夷地の測量に取り掛かります」と申し上げますと、御役所からは、「蝦夷地を百里も測量するというのはかなり難しいぞ。箱館をこの時期に出立するのがそもそも遅い上に、今年の蝦夷地の天候がよろしくない。今年は閏月があったから、南部辺り(岩手)でも9月中旬頃には雪が深くなって通る道が難渋するかもしれぬ。」とのお話しがありました。確かに北の地は寒く、御役所の方は綿入れを着ております。国元(佐原)では袷一つで過ごしていることでしょう。
 このような状況ですので、江戸には9月中旬頃は戻るようにせねばと考えております。
 同行の者ですが、4名は壮健であり、良くやってくれています。しかし、長助はブラものでして(無頼者?)、このまま同行するのは覚束ないのではないかと心配です。
 私のすべきところは測量、これだけです。この点は、出立の際にも申し上げまさたし、箱館まで来ましてもその思いは変わりありません。食事保養を心がけ、健康を保ち、秋の末には目標を達成したいというこの点だけを専一に考えております。
 三郎右衛門様におかれましてもご健康に気をつけて壮健でおられるよう願ってやみません。

追伸 なおなお親族方やご懇意にしている方によろしくお伝えください。お栄(忠敬の内妻)は秋までそちら(佐原)に長逗留させお世話になります。
 
 


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函館到着の際の伊能忠敬の届け

2022年05月22日 | 伊能忠敬測量日記
伊能忠敬は第一次測量の際に北海道(当時の言葉では「蝦夷地」)を訪れます。幕府の蝦夷地統治の拠点である函館(当時のは「箱館」)に到着したのは寛政12年5月22日(1800年)になります。その際、伊能忠敬が幕府に提出した届けの内容が忠敬の日記に記録されています。着到届けといわれるもので、江戸から函館までの旅程が簡潔に記されています。
 当時統治と交易を扱っていた蝦夷地取締御用掛になるかと思います(届けの宛名も「蝦夷御掛」とされています)。この御用掛は1802年には廃止され、蝦夷奉行、さらに箱館奉行となっていますので、蝦夷地取締御用掛はこの時期だけの短い間に存在した役所です。

(届けの内容)
書付をもって申し上げます。
一 私儀、先月19日江戸表を出立し、今月10日津軽領三厩へ着。11日から18日まで風待ちをし、19日に渡海致しましたが、風がよろしくなく松前領吉岡村へ着船致しました。19日、20日と風待ちを致しましたが、箱館までの渡海の見込みがたたないため、よんどころなく陸路にて今日到着致しました。以上、お届けいたします。 以上
申5月22日 伊能勘解由
蝦夷御掛 御役人中様

「伊能勘解由」とは伊能忠敬のこと。隠居後は、「勘解由」と自称していました。


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寛政12年5 月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年05月20日 | 伊能忠敬測量日記
伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
今回は、寛政12年5 月中旬の日記をご紹介します。 

寛政12年5月11日(1800年)
朝より晴天、八つ半後より曇り、夜に入ってもますます曇天。この日東風(この辺ではヤマセ風という)が吹いたので渡海できず(三厩に)逗留。なお、庄屋の書付では風は丑寅(北東)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
江戸を閏4月19日に出立し、5月10日まで順調に進んできました。三厩から箱館への渡海を予定していますが、この時代は渡海は風任せであり、ヤマセが吹いて足止めです。忠敬は東風と認識していますが、地元の庄屋は北東風としていたので、その点を日記に記録しています。

寛政12年5月12日(1800年)
朝より曇天、夜に入り少雨降る。東風のため(三厩に)滞留する。なお、庄屋の書付でも風は東風とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日も三厩に足止めです。三厩は、明治時代も三厩村でしたが、2005年(平成17年)に合併し、外ヶ浜町となりました。
江戸時代から三厩港が北海道への渡航ポイントで、東日本フェリーの三厩〜北海道福島町が1998年まで運航していましたが、現在は航路はないようです。

三厩港。ここまで晴れていれば、チーム伊能も足止めしなくて済んだはずですが…。
https://twitter.com/machi_kazeno/status/1479559016884092928?t=jdm8NWGuV_Q37_TBJdaZIA&s=19
 

寛政12年5月13日(1800年)
朝曇り、五つ半頃より少しずつ晴れる。この日宇鉄というところまで、足間・方位を測量する。東風のため(三厩に)滞留。夜に測量。なお、庄屋の書付では風は丑寅(北東)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「宇鉄」は、現在の外ヶ浜町三厩の大字。もともとは宇鉄村という村でした。三厩からは竜飛崎の方に寄ったところにあります。忠敬が逗留していたころは、三厩と宇鉄は別の村でした。明治時代の町村制施行により増川村、三厩村、宇鉄村が合併し、三厩村となっています。

宇鉄漁港
https://twitter.com/resthousetappi/status/1312406111832612864?t=VfloVnaG65Lpj0X62J-iTA&s=19

寛政12年5月14日(1800年)
朝より晴れる。無風であり、渡海できず(三厩に)滞留。夜に測量。なお、庄屋の書付では風は丑寅(北東)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ヤマセのために渡海できずにいるチーム伊能。本日ヤマセ風は止んだものの、無風。当時の船は風任せなので、これでは出航できません。本日も三厩に滞留。三厩にはこれで五泊目です。

寛政12年5月15日(1800年)
朝から霧、深四つ後に晴天、その後また曇天、九つ半後より雨。終日ヤマセ風につき(三厩に)逗留。なお、庄屋の書付では風は子丑(やや東寄りの北風)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もヤマセ風のため三厩に足止め(六泊目)。
伊能忠敬は、ヤマセ風という言葉は当初は知らなかったようです。5月11日の日記では「東風」と書き、その後に「この辺ではヤマセ風という」と付け足しています。
ヤマセは東北太平洋岸に吹くことが多いのですが、津軽半島まで影響を及ぼしていたようです。
https://twitter.com/SEI__jou/status/1408984503763095553?t=QJFBnG28FC9oaKR9w1yd8g&s=19

寛政12年5月16日(1800年)
昼夜曇天。同前。東風にて(三厩に)逗留。なお、庄屋の書付では風は申酉(やや南よりの西風)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もヤマセ風のため(庄屋の判定では風向きは違うようですが?)、三厩に足止め(七泊目)。曇天のため観測も出来ず、日記にも書くことがないようで、簡潔な記事のみとなっています。毎日同じような記事であり、読者も飽きてきたかもしれませんが、チーム伊能は読者以上に辛抱の時だったでしょう。なお、明日は少し変化があります。

こちらのTwitterアカウント。太宰治の「津軽」からの命名と思われますが、忠敬の心情に照らすと、「風(の)待ち」に見えてきます…
https://twitter.com/machi_kazeno/status/1477628209147813890?t=VGgCNzMsLXLFu-W5WBYO1w&s=19

寛政12年5月17日(1800年)
朝より晴れ。風も少しよくなってきたので、朝五つ半ころ、大船(津軽侯の御船)に乗って渡海しようとしたところ、風がやんでしまったので、三厩(現・青森県外ヶ浜町)に帰る。逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
三厩に七泊足止めをくっており、チーム伊能のあせりも限界です。本日ようやく風が少し渡海向きになったので、乗船したけれども、その後無風に…。三厩、八泊目となりました。風待ちの大変さは、現代の我々には思いが及ばないですね。もう少しチーム伊能の風待ちにお付き合いいただければ幸いです。

津軽藩の藩船永徳丸(津軽図譜より)
チーム伊能が乗船したときから20年以上後の絵なので、この船かどうかわからないですが、雰囲気は掴めるかと思います。
https://www.kyodokan.com/masterworks_detail/1/81

寛政12年5月18日(1800年)その1
前夜より朝四つ後まで大雨、その後小雨、八つ頃より曇る。昨日と同じく東風にて逗留。なお、庄屋の書付では風は子丑(やや東寄りの北風)とのこと。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年5月18日(1800年)その2
滞留のときは毎日、三厩(現・青森県外ヶ浜町)の庄屋忠兵衛が不出帆書付を提出するとのこと。
覚 
 今日、丑寅又は申酉、子丑の風で、出帆ができませんでしたので、このことを申し上げます。以上
庄屋忠兵衛 判
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日も風待ちで三厩足止めです(九泊目)。今日の天気はほとんど雨、ヤマセ風で散々ですが、明日には事態打開となる…予定です。
ところで、今日の日記には不出帆書付の写しがついています。庄屋の書付ですから、公的な証明となるもの。渡海できなかったことの理由に、庄屋の書付が必要だったのでしょうかね。

寛政12年5月19日(1800年)
朝より晴天、五つ半頃風向きが少しよくなったので、出帆したが、戌亥の風が強くなって、箱館へ着船することが困難となり、松前領の吉岡というところに昼九つ後に着く。しばらく様子を見ていたが、風の向きが変わらないため、吉岡に泊。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ようやく三厩から出港。三厩には風待ちのため九泊せざるを得ませんでした。しかも、目標としていた箱館へは到着できず。着いた場所は松前領の吉岡(北海道福島町)。原因は戌亥の風(北西風)。昨日まではヤマセ(東風)であったのに気まぐれな風です。旧暦5月ですから、今の6月〜7月梅雨の時期であり、天気は変わりやすかったのかもしれません。

今日の旅程は三厩〜吉岡。船での渡海ですが、グーグルマップだと渡海ルートがでないので、出発地と到着地の位置関係を把握するということで参考にしていただければ。
https://maps.app.goo.gl/RKp32UJ7uQgRpRCEA

福島町内(吉岡地区)には、伊能忠敬北海道測量開始記念公園があります。忠敬没後200年を期に2018年に作られたもの。この忠敬像の前のめりっぷり!忠敬の心情としては真に迫っているように感じます。
https://twitter.com/takienaoko/status/1203933725928484869?t=vIfQPBHyDRlV19oZxz6Mgg&s=19

寛政12年5月20日(1800年)
吉岡で朝四つ頃まで風がよくなるのを待っていたが、風向きが変わらず。やむなく陸路を行く。福嶋九つに着、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、吉岡(北海道福島町)〜福嶋(北海道福島町)。今の福島町役場吉岡支所から福島町役場までは約6キロ。https://maps.app.goo.gl/UvW3mtYEx3iz8hgv6

箱館(函館)までの渡海を予定かていたチーム伊能でしたが、本日も風向きに泣かされました。朝四ツ(午前10時)まで風待ちしましたが、結局風向き変わらず、陸路を行くことに。吉岡〜福嶋の集落までは6キロ弱と、さほど遠い距離ではありませんが、精神的に疲れたのではないでしょうか。



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進まぬ法廷編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月4日-6日

2022年05月18日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)

━━━━━━━━━━━━━━
1874年5月4日(明治7年)
昨夜から雨だったが、午前10時ころ雨は止み、晴れる。被告が太九老の件(4月29日に訴状提出)の御奥書の下渡しを受けるべく伺いを提出した。着御届を出し、控えていたところ、午前10時ころ呼込みとなり、聴訟へ入る。
聴訟へ入ってみると、「今調べているところだから、下渡しは午後3時ころになる。」とのことであった。しかし、再度の呼込みがあったのは午後5時ころ。請書と引き換えに、御奥書の下渡しを受けた。宿へ下がったのは午後5時過ぎであった。
━━━━━━━━━━━━━━
1874年5月5日(明治7年)
午前10時ころ、被告清四郎の件、吉崎久兵衛という代言人がついたようである。当方が依頼している代書人の田辺方まで来て、「今日が期限でしたが、まだ病気が治っておりませんので、日延べをお願いします。」と伝えてきたとのことであった。

被告が太九老の件は、昨日御奥書付き訴状の下渡しを受けたので、今朝にでも飛脚に手配する予定であった。しかし、田辺代書人が、「本人渡しなのだから、送付するのは延期しても良いのではないか。」というので、そのように任せた。
━━━━━━━━━━━━━━
1874年5月6日(明治7年) 
休庁。長池屋住六寛秀と共に、猪ノ鼻台に行き、宗胤寺にに参詣した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
━━━━━━━━━━━━━━
 




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