南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

疫病流行る 文政12年7月上旬・色川三中「家事志」

2024年07月11日 | 色川三中
疫病流行る 文政12年7月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月朔(1日)(1829年)曇
・間原七兵衛と相談し、川口(現土浦市川口)に行き、府中(現石岡市)に人を遣わす。
・寺島嘉兵衛の嫁ひさが挨拶に来る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は町役人に就いており、ここ最近は町役人関係の記事が多かったのですが、今日の日記は三中の仕事関係、又はプライベート関係のようです。日記の特性上、前後の脈絡がよくわからず、コメントを書くのも苦労するタイプの記事です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月2日(1829年)曇り、少々暖
・貨幣改鋳(文政南鐐一朱銀)についての町触れあり。
・夜、ひものや一件について、入江(名主)から書状が届いたので、名主宅まで行き話しをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「ひものや一件」
三中はひものやに家を貸していて、その関係のトラブル。ひものやは、借りた家に三尺の庇を勝手に作ってしまったのです。交渉がまとまって一度合意したのですが、再度紛争になり、名主が介入するような状況となってしまっています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月3日(1829年)晴れたが冷気
下男の喜兵衛を小川(現小美玉市)に行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日、晴れたのに冷気ありとの記事です。やはり気候がおかしい。旧暦7月、今なら8月なのに、昨日は「少々暖」、今日は「冷気」とかなりの冷夏です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月4日(1829年)
三中先生、本日休筆です(本日のみ、明日再開)。
#色川三中 #家事志

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月5日(1829年)晴 暑し
名主宅に百姓代色川庄右衛門殿を招き、経費分担の打合せ。駒市や公儀の役人が土浦に出向く等したため、出費が増えている。百姓代からは異論も出たが、先例どおり3分の1は馬宿の負担、3分の2は町方で負担し、各人に割り当てとすることに決定した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町の事業は現代なら自治体が収支を管理していますが、この時代はその都度経費を誰が負担するかを決めていたようで、町方での負担分をどのようにするかのすり合わせをしています。

〈詳訳〉
・水銭の計算に関して、入江(名主)宅に惣年寄兼百姓代の色川庄右衛門殿が来られた。
前年までは名主が村役人と打合せることはなかったが、小前の者たちが了承をしないことがあってはいけないので、先規を乱さないように、内々庄右衛門殿と打合せをすることとしたのである。
・この7月は、公儀の御役人が何度も土浦に出向いており、その分支払いが多くなっている。ざっと150貫ほど余計にかかっているようど。
・東崎町負担分等もあるから、この分が全て中城町負担分にはならないが、昨年暮れに比べれば900文程度上回るだけであるから、割付けは昨年暮れと同様で良いであろう。
・駒市の支出と役所の新たな支出の合計25〜26貫となっている。先例では3分の1は馬宿のものに割当て、3分の2は惣町に割当てることとなっている。今回は水銭が多いが、水銭の分も除外せずに割り当てることとする。
・百姓代の色川庄右衛門殿は、馬市の支出を町方が負担するのはおかしいのでないかという者もあり、その分については馬宿と半々に割り当てることが適切ではないかだろうかとの意見であった。
我々町役人側では先例に従って決定するべきと考え、先例どおりとすることに決まった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月6日(1829年)曇
谷田部佐助の兄が来た。佐助は病気で、非常に体調が悪く、谷田部で臥せっているとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部の佐助(色川家の従業員)が病気になってしまいました。お兄さんがわざわざ三中のところに来るほど体調が悪いようです。佐助は一人で営業もでき、有力な従業員です(文政11年9月6日条)
https://x.com/tk23956/status/1699152713370796514?t=W6dWhhkddjmcZcC1-ZsA3Q&s=19


〈その他の記事〉
・水銭の割り当てに関して、百姓代色川庄右衛門が出席。町役人は栗山殿が出席。鈴木殿、奥井殿は病気で出席できないとのこと。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月7日(1829年)晴 炎暑甚し
・早朝に谷田部の徳左衛門方へ行く。
佐助は病気で、非常に体調が悪いようであった。鰻とナマズを割いて酒飯を食べるように指示した。
・今川に立ち寄り、夕方まで遊ぶ。親戚の飯塚に寄ってから土浦に帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・昨日、従業員(谷田部の佐助)の体調が非常に悪いと聞いた三中は谷田部(現つくば市谷田部)まで出向いています。谷田部は土浦から往復で約30キロで日帰りができる距離です。ついでに、今川家や飯塚家にも寄っています。
・谷田部の今川家は谷田部台町村の名主の家。色川三中の父親は今川家の三男で、色川家の養子となっています。


〈その他の記事〉
・宅三郎と一緒に帰る。日の沢道を7〜8丁行ったところで、草むらの中に香りが漂っていることがあるという。7〜8年前からあるそうだ。香りは桂花のようである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月8日(1829年)晴
・立秋、末伏。
・昼前に大地震。
・半兵衛が今日から水銭の集金を始めた。本日の集金額は17貫431文。私が金額を改めて、金額を記し、印鑑を押して集めた金を送った。
・谷田部佐助の家に越婢加朮附湯を送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「昼前に大地震」とありますが、この日に歴史に残るような著名な大地震はなかったようです。前年(文政11年)11月には歴史的な大地震があり(三条地震)、その被害等も聞いているので(同年12月5日条)、地震に敏感になっているのかな。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月9日(1829年)曇
昼ころ谷田部佐助方から人が来た。佐助は昨日の昼過ぎに頭痛がひどくなり、体調が悪化し、日暮れ頃に一時的に気絶したとのこと。石膏の瞑眩ではないかと思い、昨日遣わした薬をよく煎じた上で、指先で少しずつ呑むようにと指示した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部佐助が一時的に意識昏迷となってしまいました。三中は「瞑眩(めんげん)」ではないかと考えています。瞑眩とは、長患いの後、服薬すると症状が一時的に悪化する現象で、長期化していた病が改善する途中経過にみられ、その後回復すると言われているものです。

〈その他の記事〉
・熊野屋平兵衛は、金見御用(金銀貨幣の真贋の鑑定)を勤めあげたため、本日帯刀が認められることとなった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月10日(1829年)晴
谷田部佐助の見舞いに利八殿(叔父)に行ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部佐助は、一時的に意識昏迷となり(7月9日条)、誰もが心配するほどの体調です。三中は店の者を谷田部佐助の見舞いに遣わしています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 五郎兵衛、体調を崩す 嘉永7... | トップ | 弟子とうまくいかない大原幽... »
最新の画像もっと見る