南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

被害金額15両の土蔵破りは死刑ですか 仮刑律的例 #1笞刑

2023年06月29日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #1笞刑
(要約)
(明治元年八月、松代藩からの伺)
今年の2月〜8月まで土蔵の戸の錠前を焼く手口で土蔵に4回侵入し、衣類や布、白米を盗んだ無宿者がおります。被害金額は金15両1朱銭8貫文。不届き至極なので、死罪でよいですか。
(返答)死罪ではなく、笞百回とすべき。

以上は要約です。
元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #1笞刑
【伺い】
明治元年八月、真田信濃守(松代藩)からの伺い
信州の無宿喜代太郎は、4年前の11月に欠落ちし(居住地・本籍地から出奔)、人別帳から名前を除かれて無宿者となり、以後居住地・本籍地には戻らなかった。
①喜代太郎は、昨年11月24日夜、信濃守御預所の水内郡台ケ窪、新田市左衛門の土蔵に、錠前を焼いて侵入し、箪笥にあった衣類9品を盗んだ。
盗品のその後
ア 盗んだ衣類のうち4品を質に入れようとしたが、いかがわしき品をであると見とがめられたため、放置して逃げた。
イ 残りの5品は、善光寺領東之門町で越後国の氏名不詳の行商人に一両銭五貫文で売り渡した
②喜代太郎は、本年3月7日夜、信濃守御預所の水内郡台ケ窪、新田栄作の土蔵に、錠前を焼いて侵入し、箪笥にあった衣類等9品及び白米約3升を盗んだ。
盗品のその後
ア 盗んだ物のうち9品を善光寺町に行く途中の某所に隠したが、その後発見には至らなかった(何者かが見つけてどこかへ持ち去ってしまったのであろうか)。
イ 白米約3升は喜代太郎が食べてしまった。
ウ 衣類1品、縞布一反は善光寺町で飯山辺りの氏名不詳の商人に一両一歩で売り渡した
③喜代太郎は、本年3月21日夜、7日に侵入した新田栄作の土蔵に再度侵入し(修繕した錠前を再び焼いて侵入)、箪笥にあった衣類7品及び餅米約3升を盗んだ。
盗品のその後
ア 盗んだ物のうち衣類4品は、善光寺町で氏名不詳の商人に二両で売り渡した。この金は酒食に使ってしまった。
イ 餅米約3升は喜代太郎が食べてしまった。
ウ 残りの3品は、善光寺町で産神の床下に隠したが、その後発見には至らなかった(何者かが見つけてどこかへ持ち去ってしまったのであろうか)。

喜代太郎は、本年3月26日夜、信濃守御預所の水内郡権堂村を通りかかったところを取り押さえられた。包み隠さず自白せよと厳重に吟味したところ、上記①〜③を自白し、そのほかはしておりませんと供述していたが、その後次の犯行を行っていたことが発覚した。

④喜代太郎は、本年2月、信濃守御預所の水内郡台ケ窪、新田市左衛門外2名の土蔵に、錠前を焼いて侵入し、衣類反物29品を盗んだ。
盗品のその後
ア 16品はその場において逃げ去ったり、隠したりした
イ 白米2品は喜代太郎が食べてしまった。
ウ 残りの衣類11品は、四両一歩銭五貫文で売り渡した。この金は酒食に使ってしまった。

以上のとおりであって、被害金額は金15両1朱銭8貫文に及んでいる。不届き至極であるので、死罪を申し付けたく伺いを提出する次第である。

【返答】盗賊喜代太郎には、笞百回の刑を申し付けるべきである。
倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回という規則を新しく制定したところである。
喜代太郎の窃盗被害は金15両1朱銭8貫文というのであるから、被害金額が20金以下であり、笞百回を申し付けるべきである。

【コメント】
・本件は現代では、建造物侵入罪と窃盗罪。窃盗罪の法定刑は10年以下の懲役又は50万円以下の罰金ですから、窃盗を何件やろうとも無期懲役になることはありません。
しかし、江戸時代は、10両以上の窃盗は死罪と定められていましたし、土蔵破りだけでも死罪でした(公事方御定書)。松代藩の考え方はこの規定に沿ったもので、不届き至極であり死罪と考えたのです。
・【返答】では死罪ではなく、笞刑(百回)にすべきとされています。「新しい規則」が公事方御定書の規定を覆えしたことになります。この新しい規則とは、明治元年10月の「刑律改定についての行政官布告」のことです。「倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回」と機械的に決めているのが、現代からみると斬新です。
・盗みを行った喜代太郎は信州の出身。4年前の11月に欠落ちし、人別帳から名前を除かれて今は無宿者です。4件の土蔵破り、被害金額は15両1朱銭8貫文にのぼっています。
手口は、土蔵の錠前を焼いて侵入したというもの。現代では窓を焼いて侵入する手口があり、「焼き破り」といわれております。喜代太郎は江戸時代版焼き破りの名手だったようで、4件全てにこの手口を使っています。
・伺いでは、喜代太郎が盗品をどのようにしたのかについて、詳しく記載されています。最初の犯行では、喜代太郎が盗んだのは衣類9点。うち4点は質入れしようとしたが、いかがわしき品をであると見とがめられたため放置して逃亡、残りの5点は行商人に売ったとされています。
売った相手は、「善光寺領東之門町にいた越後国の氏名不詳の行商人」。氏名不詳で裏付けが取れてないので、売ったことが本当かどうかは確かめようがありませんが、こういうような行商人がいてもおかしくないとは松代藩も認識していたのでしょう。
さすが、善光寺だけあって諸国から行商人が来ていたようです。
「善光寺領東之門町」は現在の長野市東之門町。善光寺参りをした後に、人々が行きそうな場所です。喜代太郎が衣類を盗んだのは、金に換えるのが目的でしょうから、こういうところをウロウロしている行商人はカッコウな売り捌き相手だったのでしょう。その後の犯行でも衣類や縞布は善光寺町で行商人に売ってしまっています。

〒380-0852 長野県長野市長野東之門町

〒380-0852 長野県長野市長野東之門町

〒380-0852 長野県長野市長野

〒380-0852 長野県長野市長野東之門町






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永6年6月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年6月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年6月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。夕方、高松様来られる。「この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。」
(コメント)
現在は東京湾と読んでいますが、当時は「内海」。ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっており、各藩の陣屋がありました。高松氏は御小人目付として、見分(監察)するように命じられています。


嘉永6年6月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昨日、幽学先生は高松様がご出立なされてから、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」と。
(コメント)
高松氏の両親の発言はまるで戦時中の日本人の発言です。というより、戦時中の日本人がこのような考え方を植え付けられたのでしょう。注意すべきは、高松父は武士(軍人、戦闘員)であり、非戦闘員(幽学、五郎兵衛ら)はこんな発想をしていないことです。

#ペリー来航
嘉永6年6月12日(1853年)
ペリー、東京湾を離れ、琉球に向かう。

嘉永6年6月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昼過ぎ、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は本日正午に出帆し、立ち去りました」
 (コメント)
ペリー来航で、高松氏は四日四晩徹夜と激務。見分を終えた高松氏はその足で幽学らのいる借家に来ているようです。いかに高松氏が幽学らを大切にしているかがこのことからも分かります。ペリーは出航しており、江戸に危険がないことを知らせたかったのでしょうか。

嘉永6年6月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行ったあと、小石川の高松様宅へ行く(幸左衛門殿と同道)。門弟一同の惣代(代表)として、高松彦三郎様にお祝いを述べた。彦三郎様は上機嫌であった。
(コメント)
昨日は高松氏が借家の方に来たので、本日はご自宅にお祝いを述べに行っています。五郎兵衛がこのような役を担うのは珍しい。文中の「高松彦三郎様」は、御小人目付高松彦七郎の嫡男です。

嘉永6年6月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
土用。湊川の借家へ行く。昼、弁慶橋の餅屋に行き、土用餅を食べる。
(コメント)
「弁慶橋」は今は港区にありますが、五郎兵衛の頃は、神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていました。現代では、土用は鰻の方が知名度が高いですが、五郎兵衛にとっては土用といえば餅。この日を待っていたかのような書きぶりで、食いしん坊の五郎兵衛らしい。

嘉永6年6月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。良左衛門君と二人で出かける。丸ノ内、竹橋御門を通り、田安御門、九段坂から駿河台を廻って休憩していたら、幽学先生御一行とバッタリ。小石川の高松様宅からの帰り。高松様から此度の御役目の話しを詳しく聞かれたと
(コメント)
五郎兵衛は、年下の良左衛門と江戸の町をぶらついています。用事が書いていませんが、この頃は門弟中に経費節減が叫ばれていることもあり、単なる散歩なのかもしれません。


嘉永6年6月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。正午、淀藩の上屋敷に参れとの御沙汰。御代官様に御目通りする。「この度の裁判で江戸に延々といなければならないのは困りものだな。医師が村にいなければ困るだろう。元俊は病気ということで、帰村させてもらうが良い」と仰られた。
(コメント)
五郎兵衛、元俊医師は長沼村(成田市長沼)の者で、同村は淀藩領でした。医師不在のため村も代官も困ってしまったのでしょう。藩の方から仮病を使って、帰村(一時的に村に帰ること)を奉行所に申請せよとの指示が出ています。

嘉永6年6月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
幽学先生が御病気になられたとのこと。元俊医師ともども湊川の借家へ。診察の結果、特に問題はないとのこと。その後、小生は平右衛門と共に、今回の裁判の諸経費を調べた。
(コメント)
幽学先生が病気で寝込んでいますが、元俊医師の見立てでは大したことないとのこと。環境の変化に適応できず、今でいう適応障害のような状態になってあるのかもそれません。五郎兵衛は経費の調査。裁判の費用がどれだけかかるのか、平右衛門と一緒に調べています。
江戸訴訟にかかる経費
・出府と帰村の旅費
・公事宿の宿泊費、謝礼
・腰掛その他勘定奉行所での費用
・着届帰村時領主地頭への贈答(贈賄ではない)
・中食代、髪結い、銭湯、たばこ代など必要最小限の日常生活雑費等
高橋敏「大原幽学と江戸訴訟」(『紛争と訴訟の文化史』所収)による。


嘉永6年6月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊医師と共に淀藩上屋敷へ。御代官様からは、「必ず帰村願いを奉行所に出すように」との仰せ。公事宿の山形屋に帰村願い作成について相談すると、「御代官様への御礼が先では」とのこと。
幽学先生にも相談すると、「それは当然のことだ」とのお話し。そこで、使番衆へ酒一升、御代官様へも御礼のお品をお贈りした。
(コメント)
元俊医師の帰村を代官から指示された五郎兵衛は、書面を書いてもらおうと公事宿に頼みますが、公事宿は「御代官様への御礼が先」との指摘。幽学先生の了解を得て、贈答の品を代官に送っています。現代では賄賂になってしまいますが、江戸時代はこのような贈答なしには円滑に社会が動かなかったのでしょう。

嘉永6年6月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師を仮病扱いするので、元俊帰村の願いは、小生が元俊に代わりに奉行所に出す(代兼願い)。差添は蓮屋に頼む。腰掛で待機し、昼前に呼び出される。「願いについてはおって沙汰に及ぶので、本日は帰られよ」とのこと。
腰掛の支払いをして、湊川の借家に行く。
幽学先生が、幸左衛門殿が強情なこと、良左衛門君が気配りのないことを叱っておられた。
(コメント)
元俊を仮病扱いにして、帰村にさせる願いを五郎兵衛が奉行所に出しています。このことは淀藩代官もご存知のこと。いや、贈答もしましたし、代官から奉行所にも話しはしてくれているのでしょう。湊川の借家に行くと、幽学先生が他罰的になっています。一昨日の記事で「病気」となっていますから、体調が良くなく、易怒的になっているのかも。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文政11年6月中旬・色川三中「家事志」

2023年06月22日 | 色川三中
文政11年6月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年6月11日(1828年)
篩屋の刃傷沙汰の件。藤沢村の名主の取扱いがうまくなく、内済では済まない様子。先日、御検使・御地頭・御代官・御徒目付が来られて、加害者(三次)の口書を取ったとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
篩屋が被害者の刑事事件の続報。刑事事件ではあっても、現代と違って示談(内済)で済ますこともできるのが江戸時代。しかし、加害者側の村の名主が話しをうまく持っていくことができず、刑事事件として判決となりそうな様子です。文中「口書」というのは、現代でいえば自白調書のことです。




文政11年6月12日(1828年)
新町の飯塚伊賀七なるものは、堂塔の墨出しが練達の大工よりもうまくできる男で、先年五角形の家を建てた。時が来ると自動的に半鐘を撞くようにした。その他にも様々な工夫をしているという。こんな地方にも名人がいるとは!
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦周辺でもプロと並ぶか超えるような技量を持つ者が出てきているという記事。
五角形の家を建ててしまうとか、自動半鐘装置を作ってしまうとか。三中も地方で名人級の者の登場にビックリしています。

文政11年6月13日(1828年)曇
祇園祭り。夕方、天王様が御立ちになる。途中で長柄の毛鞘を外して、風呂敷に包んでしまったので、どこにいったか分からなくなった。当方にも入江(名主)からも所在の問い合わせが来た。ようやく、大町の屋根の上で見つかったとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今年の祇園祭りは例年どおりの開催(旧暦6月13日がメイン行事)。昨年の祇園祭りは、将軍の子の死去で延期でした。ところが、今年は長柄の毛鞘がどこかに行ってしまうトラブルに見舞われてしまいます。祭りには様々なトラブルがつきもののようです。


文政11年6月14日(1828年)
一昨日の深夜、大雨、暴風、大雷あり。近所の空き家に雷が落ちて、壁に穴が空いた。火が燃え上がったので、水をかけて消したという。雷の火は水で消すことができないと世の中の人は言っているが、そんなことはないのだろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
かなりの雷雨。空き家に雷が落ちて、ボヤになりましたが、大事には至りませんでした。「雷の火は水で消すことができない」という言い伝えがあったようですが、三中は冷静に考えています。実際に消火できているので、言い伝えは真実ではないと判断しています。

文政11年6月15日(1828年)雨
入樋の件は、昔の例どおり、高持百姓の負担分は持合金から出すべき。各所を回って話した。藩にも願いを出すつもり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、入樋の件で高持百姓の負担分を押さえるべく持合金から支出するようにとの主張です。以前も持合金から出しており、三中は古例どおりにすべきとの考え方です。


持合金とは、明和元(1764)年9月に当時の町奉行の発案によって、町民が「門並」に日掛け一文を積み立て、これを年利一割で困窮人の夫食金や営業資金として貸付け、利分を凶作時の手当や町費とするという趣旨で開始されたもの
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/1828a6f132c6559f617f48464679d07a

文政11年6月16日(1828年)雨
与市と利兵衛を深谷村(かすみがうら市)に交渉に行かせた。卯兵衛と常治が「我々は書面に押印した覚えは一切ない、今回のこの騒動は要助の奸計に相違ない」と述べているとのこと。鷺を烏と言うような、明白な悪意の主張である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市(従業員のエース)を交渉に行かせているので、、かなり難しい交渉のようです。相手方は、無茶苦茶な主張であり、鷺を烏と言うような主張であると評しています。
深谷村は現在の茨城県かすみがうら市深谷。土浦からは約10 km。深谷村の清水家は、三中の曽祖父の実家。曽祖父は清水家から色川家に養子に来ています。

土浦城 大手門跡 to 深谷

土浦城 大手門跡 to 深谷




文政11年6月17日(1828年)曇
深谷村の一件は、藩の役人の木原様のお力を借りなければならないと思い、内々にお話ししようと思っていたところ、木原様が拙宅にお出でになられ、親身にお話しを聞いていだいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の記事にあった深谷村の件(相手方がトンデモ主張をしている)、あまりにも相手方の主張が無茶苦茶なため藩役人の力を借りようとする三中です。木原様とは本を借りたりする仲でかなり懇意なのです。


文政11年6月18日(1828年)曇
ここ二三日冷気があって天候不順。雨は降らなかったが、晴れもしない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨年も天候不順、今年も天候不順と三中は日記に記しています。再来年には「天保」となり、不作から飢饉が起こる年号となります。文政後期にもその兆候が出てきているようです。


文政11年6月19日(1828年)
昨日、村役人から呼び出しがあった。持合金の利息が12両あるという。役元から、「惣代からこのことは聞いていませんか」とお尋ねがあったが、初めて聞く話しである。こんな大切なことを知らせてくれないのはどういうことだ、全く不可解である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の件で、高持百姓の負担を押さえる方針の三中は、持合金から入樋費用を出すようにと主張していました。ここにきて、持合金の利息が想定以上にあることが分かり、唖然としている三中です。どうも村役人の中にシャキッとしない方がいるようです。
 
文政11年6月20日(1828年)
三中先生は本日休筆です
#色川三中 #家事志




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色川三中が過大な債務を負っていた理由

2023年06月19日 | 色川三中
色川三中が過大な債務を負っていた理由

〈文化13年の土浦の大火〉
「色川家の経営は文化4年( 1807)頃から 困難な様相を呈し始めていましたが、文化13年2月 、土浦の城下町をほぼ焼き尽くした 大火 に大きな打撃を受けました。 田宿町の薬種店は全焼、川口町の醤油蔵も類焼 しました 。」「火事後すぐに営業を始めたものの復興投資のため 借財は 2400から2500両にも上った といいます 」
(『次の世を読み解く 色川三中と幕末の常総』)

色川家は土浦の町中に二つの店を出していました。一つが薬種商(田宿町)、もう一つが醤油蔵(川口町)です。田宿町の薬種店も川口町の醤油蔵も文化13(1816)年の大火により被害を受けました。この大火を三中は「子年の火事」と呼んでいます。
この大火のときに経営を行っていたのは、三中の父親であり、三中はこのときまだ満年齢で15歳でした。
この大火により、店が焼けてしまったので、再建しなければなりません。この費用が2400〜2500両に上りました。
 一方、事業自体もすぐに従前どおりというわけにはいきません。雇用していた従業員に暇を出し、再雇用できない者がいました(家事志;文政10年9月24日条)。
 借金は膨れ上がったのに、マンパワーは低下したのですから、経営が苦しくなるのは明らかです。
 
〈三中の父親の死〉
経営再建に奔走していた三中の父親ですが、土浦大火の9年後である文政8年(1825)に亡くなります。48歳という若さでした。
父親が死去したときの借金は1600〜1700両。うち利付のものが1200両でした。大火の際の借入れからは債務額が減少しているのは、三中の父親が有給資産を売却し、返済にあてたからです。
三中が家業を継がざるを得なかったのは、このような状況下でした。ときに三中24歳(満年齢)。まだまだ若く、家業を建て直しつつ、この膨大な債務を整理していかなければなりません。
三中の日記(『家事志』)に債務整理の記事が多く出てくるのはこのような事情によるものなのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永6年6月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月15日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年6月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年6月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
入野村の佐左衛門殿と共に湊川の借家へ行く。家主の留守居の母様より、雪をもらったので一同賞翫した。 
(コメント)
「佐左衛門」は石毛佐左衛門。香取郡入野村(旭市入野)の百姓です。入野村は、大原幽学が居住した長部村からは4キロほどの距離です。五郎兵衛は長沼村(成田市長沼)で入野村からはかなり離れていますが、大原幽学の同門なので、交流があって親しくなったのでしょう。
入野-大原幽学記念館

入野 to 大原幽学記念館

入野 to 大原幽学記念館



嘉永6年6月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
・湊川の借家へ行く。荒海村の差添えが、作左衛門殿に交替。
・村の運営がうまくいかないとの便りが届く。大原幽学先生に申し上げると、「そんなことだから困る。しっかりと御代官様や御手代衆へもご相談をすべきだ。」とのコメント。
(コメント)
江戸時代の裁判は裁判の当事者だけではなく、村から付添人(差添え)を出さなければなりませんでした。差添人は江戸にいる限り村での仕事ができませんから、今回の記事のように時々交替しています。荒海村は、現在の成田市荒海。五郎兵衛の長沼村の隣村です。

嘉永6年6月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。幽学先生から「日々を漫然と過ごし、自分の行いを省みないのは災いとなる。この世は変化するので、その変化についていかなければならない。そのように心法を立て、勤行すべき。」
(コメント)
大原幽学先生の教え。「この世は変化する。変化についていかなければならない」と柔軟な思考も見せています。偶然にも本日嘉永6年6月3日はペリーが来航した日です。激動の幕末が切っておとされました。
五郎兵衛日記でも今後異国船への言及がありますので、お楽しみに。

#ペリー来航
嘉永6年6月3日(1853年)
・正午。彦根藩の三崎陣屋に「4隻の異国船が城ヶ島沖を航行している」との情報が届く。三崎町の漁師からの情報。
#ペリー来航
・ペリー艦隊、浦賀に到着。午後5時過ぎ、浦賀沖に錨を下ろし、町に搭載砲を向ける。
#ペリー来航
・与力中島三郎助が通詞堀達之助と共に小船でサスケハナ号に赴き、副官コンティ大尉と交渉。コンティは国書を渡すことが目的と来航の目的を明らかにする。中島は艦隊を長崎に開航することを求めるが、コンティは拒否。
#ペリー来航
・午後10時、浦賀からの早船による報告が浦賀奉行井戸弘道の江戸屋敷に着く。井戸は直ちに老中阿部正弘の屋敷に届けを持参。
阿部は老中、若年寄を招集し、江戸城内で協議。協議は夜を徹して行われた。

嘉永6年6月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。平右衛門殿(荒海村)が田安家の御代官様に会いに行ったところ、「領地の百姓が潰れるのを、奉行所も良しとはしないだろう。村が難渋していることを申し上げれば帰村はかなうのではないか」とのお話しがあった由。
(コメント)
荒海村(成田市荒海)の領主は田安家(御三卿の一つ)。同家の代官磯部は、大原幽学の教えには同情的です。教えそのものより、村が繁栄して年貢を順調に納めてくれることを重視していたのかもしれませんが。百姓が潰れてしまうと、年貢の取立てがそれだけ減ってしまいますから。大原幽学裁判は領主の利害にも関わるものとなっているのです。

#ペリー来航
嘉永6年6月4日(1853年)
・午前7時、与力香山栄左衛門が通詞とともにサスケハナ号へ。香山は「国書受領は浦賀ではできない。受領の回答も長崎で行う」と述べたが、拒否される。
#ペリー来航
・なお、香山は与力に過ぎなかったが、「浦賀奉行であり、浦賀最高位の役人」と身分を偽っていた(浦賀奉行戸田の指示による)。
#ペリー来航
・浦賀奉行戸田は香山に、江戸に行き、幕閣に報告するよう命じる。香山は直ちに江戸に向かう。
#ペリー来航
老中阿部正弘を中心とした協議が終了。夕刻、浦賀在勤の浦賀奉行に宛てて対処方針が送られる。

嘉永6年6月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。平右衛門殿(荒海村)は、今日も田安家の御代官様の御屋敷に行った。平右衛門の案に代官様がご加筆。代官様からは、これを清水家へ差し出すようにとのお指図とのこと。思召し誠にありがたい。
(コメント)
田安家の代官(磯部様)は大原幽学の裁判にだいぶ肩入れしています。幽学個人というよりも村の存立、発展を重視してのことでしょうが。それにしても、書面への加筆やアドバイス等は本来の代官の仕事を超えているといえましょう。このような心ある代官が味方についていることは心強いことです。


#ペリー来航
嘉永6年6月5日(1853年)
・幕府の異国船来航の対処方針が浦賀奉行戸田氏栄に届く。対処方針は「穏便専要」。即ち、穏便が第一というものであり、戦闘を避けることが重要視された。乗組員が日本に上陸して民家に立ち入っても、乱暴をしなければ放置してもよいとも。もっとも、国書受領については指示はいまだなし。
#ペリー来航
・江戸城にて国書受領の是非についての評議。夜に、老中首座阿部正弘は徳川斉昭に、書簡でペリー来航への良策を求める。



嘉永6年6月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 湊川の借家へ。書付の件で、良左衛門君はいかにも弱腰なので、幽学先生はご立腹。書付は外川屋(公事宿)に任せ、村が潰れそうになることを強調して書いてもらった。
(コメント)
「良左衛門君」は、長部村の名主の息子遠藤良左衛門。五郎兵衛の方が年上なので、五郎兵衛日記では君付で呼ばれています。名主の息子なのに放蕩して親を困らせていた過去あり。今回もガツンとぶつかっていかなければならないのに弱腰。幽学先生にまで叱られています。しかし、幽学死後に、幽学教団の二代目となるのですから、わかりません。


#ペリー来航
嘉永6年6月6日(1853年)
・徳川斉昭は書簡で、「今となっては外国船を打ち払えとはいえない、評議に委ねるほかなし」と回答。
・老中首座阿部正弘が将軍徳川家慶にペリー来航を上申。家慶は、外国のこと、実に国家の大難であり、徳川斉昭と協同して事に対処せよとの指示をだす。
・浦賀沖に停泊していたペリー艦隊のうち、ミシシッピ号が東京湾の内側に進行。
・江戸城での評議で、一時の権策として国書受領方針を決定。



嘉永6年6月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生のお話し「女性のことは、よほど心得て置かないと色情の念ばかり出てしまうぞ。情愛をもって世話が行き届くようにするのだ。常に心の運びを考えて、すこしでも甘ったるい根性ではないようにしていかなければならないぞ」
(コメント)
幽学先生、ご結婚はされていないのですが、過去にいろいろあったのでしょうか、今日は女性についての教えを五郎兵衛らににぶっています。「色情」という言葉は「若者が色情に走るのも怖いので、大学、中庸くらい読むのは良い」と以前もいっていましたから、お気に入りの言葉なのかも。



#ペリー来航
嘉永6年6月7日(1853年)
・浦賀奉行が、東京湾警備にあたっていた四藩に、「明後日国書受領、久里浜の警備をせよ」と命令する。
・午後、与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かい、ブキャナン中佐は「明後日に国書を久里浜で受領する」ことを伝える。
#ペリー来航
・会談後、香山は砂糖入りのリキュールを飲みながら、ブキャナン中佐と雑談。ペリー側は、香山の洗練されたマナーと西洋の科学や世界の地理に対する知識の高さに驚く。
#ペリー来航
・幕府、万一に備えて東京湾の警備を増強する。熊本藩他六藩に東京湾の防衛を命じる。なお、ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっていた。
・幕府が、船を繰り出して艦隊に接近して見物することを禁止する触書を出す。好奇心で艦隊に近づく船が後をたたなかったため。

嘉永6年6月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊と共に湊川の借家へ。平右衛門殿は、清水様のお役所に行き、願書を提出。清水様から、「早々にその筋に訴えでる」とのお言葉があったとのこと。
夜、高松様が山形屋にお出でになり、深夜までお話し。この日泊まり。
(コメント)
「清水様」は御三卿のうちの一つ清水家。大原幽学の重要拠点である長部村(旭市)は清水家の所領であるので、願書は清水家に提出されています。裁判を担当する奉行所とも掛け合ってくれるとの好意的な返事です。田安家代官の根回しがあってのことでしょう。

「高松様」は高松彦七郎のこと。御家人で御小人目付として幕府に勤めています。高松様が山形屋(元俊医師と五郎兵衛の公事宿)に来ることは珍しく、深夜までの話し、しかも泊まり。6月3日にペリーが来航したこととも関係があって元俊医者と話したかったのでしょうか。

#ペリー来航
嘉永6年6月8日(1853年)
・与力の香山(米国には浦賀奉行を詐称)がサスケハナ号に赴き、国書受領の詰めの会談を行う。
・幕府が触書で、定火消しに、ペリー艦隊が江戸に接近した場合は、半鐘を打ち鳴らすように命じる。
#ペリー来航
・町奉行所が達書で、町火消に、半鐘が打たれた場合は持ち場につき、与力・同心の指示に従うよう命じる。

嘉永6年6月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昨夜泊まられた高松様は早朝小石川にご帰宅。昼前に元俊と共に湊川の借家へ。
平右衛門の話しでは、磯部様(田安家の代官)は「今般の異国船騒動のことは決して人に聞いたり、語ったりしてはならない。どんなことがあっても驚いてはならない。」と仰っていたとのこと。
(コメント)
「異国船騒動」としてペリー来航が初めて五郎兵衛日記に登場。ペリー来航は6月3日。9日には人々の噂になっていたのでしょう。田安家の代官からの口止めとも取れる言葉が日記には綴られていますが、既に「騒動」となっているのに、人に聞いたり、話したりしてはダメといわれても無理でしょう。

#ペリー来航
嘉永6年6月9日(1853年)
・午前9時ころ、ペリー、久里浜に上陸。幕府、急造の応接所でフィルモア大統領からの国書を受領。
「単なる受領であって、交渉ではない」という立場を幕府がとったため、会話らしい会話もなく、国書受領の式典は終了。

嘉永6年6月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。異国船の話しでもちきり。諸大名・御旗本が各所に陣取り、今日明日中にも戦となるかもしれぬとのこと。
(コメント)
湊川の借家へ行くと、既に異国船の話しでもちきり。「今日明日中にも戦となるかもしれぬ」と書いていますが、五郎兵衛日記にさしたる緊張感はなく、好奇心的が先立っている記事となっています。
五郎兵衛日記に記載されている江戸の様子。
・御府内は町方まで合図の鐘が鳴り響いている。
・十人火消しは配置につき、火事があってもよいようにとのお触れ。
・諸大名・御旗本は、今や今やと合図の鐘を待っている。
・出立の際は、水酒盃の覚悟を致すほどとのこと。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文政11年6月上旬・色川三中「家事志」

2023年06月12日 | 色川三中
文政11年6月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年6月1日(朔)(1828年)
村役人の色川庄右衛門(百姓代)と入樋の件について話す。「その件なら昨日、名主からお伺いがあったので、自分の印鑑をついて御代官書に願書を出しておいたぞ」とのこと。願書提出という重要事なのだから、事前に相談してほしかった。事後報告では困る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「百姓代」は江戸時代の村方三役の一つ。総百姓に代って名主や組頭の執務を監督する村方の目付。百姓代が高持百姓に相談もせず、願書を役所に提出してしまったことに、色川三中はご立腹。入樋の負担金がいくらになるかも絡んでおり、いい加減なやり方は許せないようです。

文政11年6月2日(1828年)晴
昨日から家内一同、麦飯を食べることにした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一家全員麦飯にするというので、倹約に務める決意。色川家は薬種商としてだいぶ儲かっていると思われますが、父の代からの負債の返済もまだ残っているからでしょうか、倹約志向を強めています。この時代、既に米飯が定着していたことも分かります。

文政11年6月3日(1828年)晴
江戸から大枝清兵衛殿来る。病気のためしばらく土浦にお出でになられていなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛は江戸の薬種問屋。三中(薬種商)の取引先。大枝清兵衛の本拠は江戸で、土浦には営業に時々来ます。昨年、8月、11月と土浦に来ていましたが、その後病気の為、土浦に来ることができませんでした。


文政11年6月4日(1828年)
・ひものやのババが死去(75歳)。
・坂村の大宮史敬老、来る。酒肴出して歓待する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「ひものや」は屋号。「ひものや権七」(80歳)の妻かもしれません。屋号で呼ぶ習慣は廃れつつありますが、私の母(昭和十年代生)は屋号を代名詞としてよく使っていましたので、その世代は江戸時代の習慣を引き継いでいたのですね。


文政11年6月5日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月6日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月7日(1828年)曇
一ノ矢の八坂神社の例祭。下男の茂兵衛を代参させた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・一ノ矢八坂神社は、創建が平安時代とされており(伝・貞観元年(859年))、古くからある神社です。(旧暦)6月7日は例祭(祇園祭)。「ニンニク祭り」というユニークなネーミングだそうです。
・色川三中宅から一ノ矢八坂神社までは10キロ強。徒歩であれば3時間近くかかるでしょうから、お参りして往復するのは一日掛かりになってしまいます。そのため三中はお参りに行かず、従業員に代参されています。従業員すれば、例祭の日でもあり、楽しみだったと思われます。
土浦城 大手門跡-一ノ矢八坂神社 (11 km)

土浦城 大手門跡 to 一ノ矢八坂神社

土浦城 大手門跡 to 一ノ矢八坂神社



文政11年6月8日(1828年)曇
隠居(祖父)と話しをした。弟の金次郎から隠居宛の書簡のことが話題になった。金次郎が15歳のときのもの。立派な筆跡だ。父親が存命であれば、学問を積み、書家にでもなることができたであろうに、残念なことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の父親は既に亡くなっており、ここでの隠居というのは祖父のことです。「金次郎」は三中の弟。弟が祖父宛に書いた書簡の筆跡が見事であり、父親が亡くならなければ学問をつむことができ、書家にでもなっていたろうにと残念がっています。その思いは自らにも向けられており、三中も学問がしたかったのでしょう。

文政11年6月9日(1828年)曇
・佐助と徳兵衛を鹿嶋(鹿嶋市)に出張にさせた。
・在医への売上げは近年好調。
酉年(3年前)は年間42両(一年間)
戌年(一昨年)は半期で15両
亥年(昨年)は半期で125両
子年(今年)は半期で150両
これは父祖のおかげである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
在医への売上げがメモされており、昨年から顕著な売上増です。「在医」というのは、土浦の町方ではない地方の医者という意味で、三中自身営業に回っており、売上増にはその効果もあるのでしょう。


文政11年6月10日(1828年)晴
昨日佐助らが鹿嶋に出立した後、書付を渡そうと思い、香取の茂吉(15歳)に、「まだそれほど遠くではないだろうから、追いかけていって渡してくれ」といった。しかし、正午になっても戻って来ず、夕方ようやく帰ってきた。
どこまでいったか聞いたら、「会えなかったので柏崎まで行った」とのこと。「追いかけましたが会えなかったので、気がついたら柏崎まで行ってしまいました」と言っている。どうも気の回らぬ者である
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の香取の茂吉は当年15歳。三中が書いた書付を渡すのに、先輩従業員を追いかけていって会えず、「柏崎」(かすみがうら市)まで行ってしまったといいます。調べてみたら、土浦から片道20キロ。これではなかなか帰ってこないはずです。気がきかないといわれても仕方がありません。
土浦城 大手門跡-柏崎

土浦城 大手門跡 to 柏崎

土浦城 大手門跡 to 柏崎




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永6年5月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月08日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年5月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年5月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
浅草の入歯屋に行き、喜多郎の入歯に鋲を打ってもらってから、湊川の借家へ。
大原幽学先生から皆に「物事を人に尋ねずに、自分勝手に話すことは不徳であり、人物がすたれる。村方を束ねて指導などできない」とのお話しあり。
(コメント)
浅草の入歯屋の話題は、3月4日以来。そのときに作ってもらった喜多郎の入歯の調子が悪いのか、鋲を打ってもらっています。


嘉永6年5月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。特にやることもないが、倹約もしなくてはならぬ。源兵衛殿と将棋。宿に戻ってからは、重吉(山形屋の下代)に「今後は倹約するから。万事質素に」と頼む。 
(コメント)
奉行所から課せられたタスクも終わってしまい、呼び出しを待つだけの日々に戻ってしまいました。これまでは結構外に遊びに行ってしまうことが多かったのですが、さすがに財政が逼迫してきたのでしょう倹約志向になっています。娯楽は将棋。山形屋(公事宿)の従業員にも倹約志向を伝えています。

嘉永6年5月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。幽学先生は、幸左衛門他3名と小石川の高松様方へおでかけ。小生は湊川で写し物。幸左衛門が小石川から帰ってきて、「力蔵様と話しをしたが、どうもこちらの意図が分かっていただけない」と言っていた。
(コメント)
小石川には、支援者の高松氏(幕府の役人)の居宅があり、大原幽学らは門弟と打合せにでも出かけたのでしょう。もっとも、五郎兵衛はお留守番。ひたすら本の写しをしています。「力蔵様」は高松氏の次男で、忙しい親にかわって大原幽学らとの折衝にあたっている人物です。

嘉永6年5月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
早朝から湊川の借家へ(朝飯は湊川でいただく)。駒込の植木屋でヒバを買って小石川へ。小石川の古家にヒバを植えて、裏の板縁をこしらえた。幽学先生もお出でになられていた。
(コメント)
今日は小石川の古家の整備。この仕事には五郎兵衛もよく駆り出されています。今日はヒバを買って植えています。駒込の地名が見えますが、駒込染井町のことではないかと思います。染井はソメイヨシノの名の元になった地名。



嘉永6年5月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生は今日も小石川の高松様方へ。ところが、行き違いで高松様は正午ころ湊川に来られた。ご出仕の後、お寄りになったのだ。大原幽学先生がおられないので、小生らと将棋を指し、夕方に小石川にお戻りになられた。
(コメント)
大原幽学は本日も小石川の高松氏方に門弟とでかけています。三日連続。五郎兵衛は、古家の整備以外は、お留守番なのもいつもどおり。今日は高松氏本人が湊川の借家へ来たのが珍しい。大原幽学らとはすれ違いになってしまっています。そのことを気にするでもなく、門弟らと将棋。ノンビリとした様子が伝わってきます。

嘉永6年5月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ行く前に、炭屋と岸部屋に寄って用を足す。痔がでてしまって痛くてかなわぬ。幽学先生から「門弟の中には、自分は食べないでも人にはご馳走を食べさせたい、自分は損をしても人には得を取らせたいという者がいるが、このような心がけをする者が大勢の手本となるのだ」とのお話しあり。
(コメント)
・「岸部屋」は薬屋で、同じ村で同宿の元俊医師のために五郎兵衛が薬を取りに行くことがあります。今日も岸部屋には薬を取りにいったのでしょう。
・他の仲間が次々と体調不良を訴える中、五郎兵衛はピンピンしていたのですが、ここにきて痔の痛みに見舞われてしまったようです。お大事に。

#ペリー来航
嘉永6年5月26日(1853年)
ペリー艦隊が那覇を出航。浦賀に向かう(浦賀到着まであと一週間)。


嘉永6年5月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。(高松)力蔵様は昨日湊川にお泊まりになり、本日は元俊医師と書き物の話し等をされていた。小生は写し物をした。
(コメント)
昨日は岸部屋に薬を取りにいったり、痔が出て痛かったり、大原幽学先生からお話しがあったりといろいろありましたが、奉行所からの呼び出し待ちであって何もすることがない状態。五郎兵衛は今日も写し物をしています。ゆったりとした時間が流れています。

嘉永6年5月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生から「どうだ今日は気晴らしに花火でも見に行かないか」とのお話しがあったが、一同「倹約の約束をもう破った等と国元に悪い噂を流されたくないので」と返答し、花火には行かなかった。
(コメント)
・大原幽学は、自ら裁判の被告人当人であり、どのような刑になるか分からないプレッシャーがかかっています。また、奉行所からの呼び出し待ちであって何もすることがない状態の門人たちを律していくリーダーでもあります。ここのところ引き締める発言ばかりだったので、今日は花火(両国の花火)を見に行くことを提案。しかし、門弟は真面目になり倹約志向を愚直に表面しています。
・本日の記事で言及されてる花火は、両国の花火。1733年(享保18年)、隅田川の両国橋付近で花火が打ち上げられ、そのことに因んで5月28日は「花火の日」とそれています。江戸時代は両国の花火大会は5月28日だったのですね。


嘉永6年5月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生が皆にうんとん(うどん)をご馳走したくれた。晩には先生と私ども8名で両国に夕涼みに行った。
(コメント)
大原幽学は昨日花火見物を提案。これは門弟たちの緊張を緩和するような施策です。本日のうどんのご馳走、両国への夕涼みも同じような試みですね。

#ペリー来航
嘉永6年5月29日(1853年)
薩摩藩主島津斉彬がペリー艦隊の琉球来航の事実を知る。江戸から薩摩藩に向かう途中の備前国(岡山県)でのこと。

嘉永6年に5月30、31日はありません。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の裁判 審理促進の願書 -大原幽学の刑事裁判より

2023年06月05日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸時代の裁判 審理促進の願書

大原幽学は江戸に呼び出され刑事裁判の被告人となりました(その経緯については過去記事大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」)。

大原幽学の江戸での裁判は嘉永5年8月(1852年)から始まっていますが、遅々として進まず、嘉永6年3月19日(1853年)の審理後、奉行所からの呼び出しがない状態が続いていました。
江戸では公事宿に滞在せねばならず、その費用は自己負担であるので、奉行所から放っておかれるのは経済的な面からも負担となります。
大原幽学の裁判では、大原幽学本人だけだはなく、門弟が多数呼び出されています。門弟たちは村の有力者だったので、村の存立そのものにも関わる事態ともなりえます。そこで、裁判の審理を促進してもらおうと、大原幽学らは書面を提出します。その内容が五郎兵衛日記に記されています。

(嘉永6年6月6日の願書)
長部村は以前は亡村にもなるべき様相でありましたが、大原幽学の教えに従い、徐々に立ち直りました。木挽渡世の者も改心して農業に精を出すようになったのです。代官様からもご褒美を頂戴するほどになりました。その後、先祖株組合についてお願いを致しましたところ、幸いにも代官様からご許可いただきました。これにより、利益をあげることができるようになり、村の運営も順調となりました。
そのように思っていた矢先に、今回の件が出来したのでございます。昨年銚子で八州廻り様のお取調べがあり、それ以降必要経費はかなりの金額となっております。お取調べは致し方ないことでございますが、そのは村全体が潰れになるほどでございまして、大変難渋しているのでございます。
御奉行様にもお願い申し上げたいところではありますが、御奉行様に申し上げても詮方ないことでございますので、御代官様に嘆願する次第でございます。

(ポイント1 領主宛の願書であること)
 この願書の最後には「御代官様に嘆願する次第でございます」とあり代官宛、領主宛のものであり、裁判を行っている奉行所宛ではありません。
 裁判を行っている奉行所に直接訴えかけるのではなく、領主から奉行所に圧力をかけてもらおうという戦略です。
 宛名とされている領主は清水家です。御三卿の一であり、大名よりも格上です。大原幽学の重要拠点である長部村(旭市)は清水家の所領であったのです。

(ポイント2 代官への周到な根回し) 
 願書はいきなり提出されたのではなく、大原幽学の門弟によって周到な根回しがされたものでした。
 根回しを担当していたのは、平右衛門という人物。平右衛門は、長部村(旭市長部)ではなく、荒海村(成田市荒海)の農民です。荒海村は、清水家ではなく、田安家(これも御三卿の一)の領地であるため、平右衛門は田安家の代官と緊密に連絡を取りあいます。田安家代官は、磯部寛五郎という人物であり、大原幽学による改革に好意的でした。
 平右衛門-磯部代官ラインにより、領主経由で奉行所にプレッシャーをかけるという考えが考案されています。磯部代官は願書の文章に手も加えており、これを清水家に持っていくようにとも指示しています。平右衛門と清水家は直接的なパイプがなさそうなので、清水家との根回しをしたのは磯部代官かもしれません。
 





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文政11年5月下旬・色川三中「家事志」

2023年06月01日 | 色川三中
文政11年5月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年5月21日(1828年)
雨が降り続いていたが、一昨日からはようやく快晴が続く。谷津地域の田植えは、昨日から始めて今日で終わった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月、梅雨の季節です。江戸時代の土浦ではこの時期に田植えだつたようで、色川三中が持っている田んぼも徐々に田植えが進んでいます。

文政11年5月22日(1828年)庚申 曇
ここ四日間は雨降らず。されど長雨のため水引かず。田の水が引かぬゆえ、田植えできぬところもあり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月で梅雨。長雨となり、水かさが増しています。色川三中のいる土浦は霞ヶ浦のほとりで低地。このため水害が頻繁に起こり、三中も敏感にならざるをえません。そこまで行かなくても、水が引かないと田植えができないので、農家には気が気ではない状況です。

文政11年5月23日(1828年)
入樋の費用分担の件で藩の役人と内々に話し(隣主人宅にて)。藩の役人からは「前例とは違うが、高持百姓にも応分の負担をお願いできないか。従前の案よりも負担額は下げるから」といわれる。従前の案よりはよい提案ではあるが…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の設置費用分担の件は、だいぶ揉めていますが、藩が軟化して、色川三中の属する高持百姓チームに有利な条件になってきました。現代とは違って、公共工事をどのように行うのかというスキームが確立していないので、一旦利害対立が起こると、その解決が大変です。

文政11年5月24日(1828年)雨少し降る
知り合いの子息が疱瘡(天然痘)でなくなった。疱瘡は去年流行し、もう終わったと思っていたが。以前とは違って年中見られるようになってきた。感染者が増えたためであろうか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
疱瘡(天然痘)で知り合いの子どもが亡くなってしまいました。疱瘡は昨年大流行。しかし、昨年6月以降は痘瘡の記事はなくなっていました。大流行ではなく、日常の風景になってしまった、そんな感じを三中も感じとっています。新型コロナも同じようになっていくのでしょうかね。


文政11年5月25日(1828年)朝は曇
刃傷沙汰の被害者(篩屋)は隣組の寺嶋清兵衛殿のところで療養しており、隣組のよしみで、篩屋にも見舞いに行っている。段々と傷は良くなっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
5月16日の記事(殺人未遂事件)の続報。被害者は三中の隣組のところで療養しています。病院がありませんので、誰かの家の厄介になるしかなく、その家だけに負担を負わせるのではなく、隣組がサポートする仕組みだったのですね。



文政11年5月26日(1828年)甲子 雨
友人の細井氏宅へ行く。土浦は小降りだったが、道中かなりの雨で、道路は甚だしく艱難。正午に川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に着く。このころようやく雨上がる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市川原代)に住んでいる三中の風流友達。今年の3月にあっているので、頻繁に交流しています。三中の家から-川原代町までは約22 km。徒歩なら半日はたっぷりかかります。今日はかなりの雨で大変です。

土浦城 大手門跡 to 川原代町

土浦城 大手門跡 to 川原代町



文政11年5月27日(1828年)曇
夕方からは大雨。土浦や牛久ではこの大雨は降らなかったとのこと。
川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に連泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に着き、今日は終日細井氏宅で過ごしています。夕方からは大雨。局地的なもののようですが、それにしてもこの年の梅雨はよく雨が降ります。

文政11年5月28日(1828年)
細井氏宅から出立。細井氏、竜ヶ崎まで見送り。竜ヶ崎で所用を足し、八ツ時(午後2時)、竜ヶ崎出立。牛久を通り、中村で茶飯を食べる。六ツ時(午後6時)帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏とは別れ、所用を足して土浦に戻ります。「牛久」からは水戸街道。「中村」は同街道の中村宿。中村宿から土浦宿までは一里(約4キロ)なので、一息ついてから帰ったようです。

文政11年5月29日(1828年)雨
昨日、中村宿で休んだとき、水戸の人があるものを示して、「これは何かご存知かな」と尋ねる。水戸の海辺で見つけたものという。「眼茄ではないでしょうか」と答えると、「これは驚いた。水戸でも江戸でも答えられる人はいなかったですよ」という。確かに、本草家でなければ答えられないであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中村宿(水戸街道の宿駅;土浦まで約一里)でのエピソード。「本草家でなければ答えられないであろう」との記述からは、三中の本草学への造詣の深さとプライドが伺えます。なお、「眼茄」は何のことか調べつかずでした。

文政11年5月30日(1828年)
朝大雨、傾くが如し。連日の雨天。大水の上にこの雨では如何ともしがたい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この5月下旬は雨、水位についての記事がが多く、今日もまた大雨。「傾くが如し」との表現は、傾盆大雨という四字熟語(杜甫「白帝」)からでしょう。激しく降る雨、豪雨のたとえ。中国語では今でも四字成語で使いますね。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする