南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

弁護士会、自主的に陸海軍に献金を行う

2021年11月29日 | 歴史を振り返る
(弁護士会も陸海軍に献金)
 1942(昭和17)年に弁護士会が陸海軍に献金を行っていたことを知りました。
 このことを記録にとどめているのは、「第二東京弁護士会史」(第二東京弁護士会編;1976年)です。
 ここに書かれているのは、第二東京弁護士会の献金のことですが、大日本弁護士会連合会をあげて行っていたようですので、全国の弁護士会で献金がなされたと思われます。

(第二東京弁護士会の臨時総会での決議)
この献金は、第二東京弁護士会の臨時総会での決議により行われており、決議内容は、
1 献金は一口25円として、会員各自は1~20口の範囲で拠出すること
1 会員各自は少なくとも最小限度一口を義務として拠出献金すること
です。
 今の感覚でいいますと、「献金は一口25円として、会員各自は1~20口の範囲で拠出すること」だけでよさそうなものですが、わざわざ「会員各自は少なくとも最小限度一口を義務として拠出献金すること」とも決議しているところは念には念をということでしょうか。「義務」というところにポイントがあるのかもしれませんが、随分念のいったことです。
 
(献金決議の経緯)
 献金決議は、1942(昭和17)年に行われているのは意味があります。
 前年の1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が開戦となっているからです。
 第二東京弁護士会では、早くも1942(昭和17)年1月14日に、常議員会(会社でいえば取締役会に相当)で献金の議題が取り上げられています。
 
(献金に関する経過報告書)
 第二東京弁護士会では、献金に関する委員会を作って、献金事務にあたったようですが、その報告書が前掲書に掲載されています。この報告書は、「献金に関する経過報告書」というもので、次のような記載があります。
1 我が帝国陸海軍は、大東亜戦争における緒戦以来、赫々たる大戦果を挙げつつある。我が皇軍に対し深甚なる感謝の意を表するため、適当なる方法を講じる必要があるとの議論が起こり、これを大日本弁護士会連合会の事業として取り上げることに決定した。
1 大日本弁護士会連合会は、この趣旨に基づき、各地弁護士会がその会員1名につき50円の負担割合で計上醵出した献金で、陸海軍に飛行機を献納等することを昭和17年1月26日の臨時総会で可決した。
このような文章を見る限りは、どう考えても真珠湾攻撃での戦果を歓迎し、弁護士会の自発的な意図で、陸海軍に献金をしたというようにしかみえません(満場一致で可決されていますし)。
 
(日弁連の立場)
 日弁連は、「戦前、弁護士会は、言論・表現の自由が失われていく中、戦争の開始と拡大に対し反対を徹底して貫くことができなかった。」としています(2015年5月29日、全然保障法制等の法案に反対し、平和と人権及び立憲主義を守るための宣言)。
 この表現からしますと、弁護士会は、戦争の開始と拡大に対し反対はしていたけれども、それが徹底しなかったというようなニュアンスになりますが、太平洋戦争開戦時の陸海軍への献金のときには、戦争に反対していたといったことはなかったといえます。陸海軍に献金し、どうぞ飛行機のために使ってくださいということなのです。
 このときの50円というのがどれほどの価値があるのかわかりませんが、「我が皇軍に対し深甚なる感謝の意を表する」ものであったことは間違いがありません。


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2021年・弁護士自らが刑事事件の被疑者・被告人となったケース

2021年11月25日 | 法律事務所(弁護士)の経営
 弁護士が被疑者・被告人となった報道についてのメモです(2021年)。気が付いたときに記載しているので、網羅的なものではありません(日付は報道のあった日)。

・2021年11月30日
神奈川県弁護士会:11月30日、道交法違反(酒気帯び運転)の罪で罰金50万円の略式命令を受けた会員の弁護士を業務停止(6カ月)の懲戒処分(神奈川県新聞)。

・2021年11月10日 30代の弁護士(大阪弁護士会) 業務上横領で逮捕(153万円)
・(被疑事実)過払い返還金請求を受任しており、消費者金融から自らの預かり口座に振り込まれた153万円を横領した。
 
2021年9月17日 40代の弁護士(大阪弁護士会) 業務上横領で逮捕(830万円)
・(被疑事実)未成年後見人を務めていたが、口座から無断で引き出し、また定額貯金を無断で解約して横領した。 

2021年7月27日 60代の弁護士(名古屋弁護士会) 商標法違反で逮捕 
・(被疑事実)依頼を受けて、偽の高級ブランド品のバックを弁護士事務所で保管した。

2021年4月10日 30代の弁護士(千葉県弁護士会) 強制性交致傷で送検
・(被疑事実)女性を自宅に連れ込み顔を殴ってわいせつ行為をしようとした。
・5月17日 別の強制性交致傷で追起訴。

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任意保険会社からの治療費打切り要請にどのように対処するか

2021年11月24日 | 交通事故民事
(任意保険会社からの治療費の打ち切り通告)
交通事故の被害者として治療を続けていくと、加害者側の任意保険会社から、「そろそろ治療を終了してください」とか、「治療費を支払うのは来月くらいまでで、それ以降は出しませんよ。」等という連絡が来ることがあります。この治療費の打ち切り通告に対してどのように対処していけばよいでしょうか。

(任意保険会社が治療費を支払っている理由)
 任意保険会社が治療費を支払っているのは、法律上どのように考えられるかについて、まず押さえておきましょう。
 交通事故で被害を受けると、加害者に対して、損害賠償請求ができます。
 あくまでも、損害賠償請求できるのは、「加害者に対して」であって、任意保険会社に対してではありません。
 では、任意保険会社は、本来誰に支払いをするのかというと、「加害者に対して」です。
 加害者が被害者に対して損害賠償を支払い、それを保険会社に対して支払いを請求する(保険金請求)というのが、保険のもともとの発想です。
 しかし、加害者が一旦支払って、保険会社に請求するというのは二段階のプロセスを踏むことになります。また、加害者も被害者と交渉して損害の支払いをして、保険会社に請求するというのでは、非常に面倒です。そこで、保険会社が、加害者の支払う分を直接被害者側に支払ってしまうということが行われているのです。

(損害賠償として認められる治療費とは)
 このような直接払いをしていく任意保険会社は、「損害賠償として適正な治療費を支払うこと」を考えています。任意保険会社も営利事業ですから、できるだけ治療費を安く抑えたいということを考えている担当者もいるかもしれませんが、本来考えるべきは、「法律上適正な治療費」です。
 そこで、「法律上適正な治療費」とは何かということですが、覚えておいていただきたいのが、”後遺障害が残る場合は、原則として、症状固定前の治療費のみが支払われる”ということです。
 症状固定というのは、これ以上治療を加えても、改善が見込めないことをいいます。
 本当に生身の人間の体で、そんなことになるのかどうか、私は医者ではないのでよくわかりません。「症状固定」という考え方で損害賠償請求は考えられているのだということをおさえていただければよいでしょう。
この考え方からは、症状固定前は治療の対象となり、治療費を原則として支払うが、症状固定後は後遺症の問題であるから、治療は原則として必要ないという考えになります。
 つまり、治療費の支払いは、症状固定までであり、それ以降は、原則、法律上の適正な治療費ではないということになります。
 任意保険会社から見れば、症状固定時が治療費の打ち切りポイントであるのです。

(症状固定はどのように決まるか)
 症状固定となっているのかどうか、またその時期というのは、基本的には主治医の意見が尊重されます。
 ですから、任意保険会社の担当者は、主治医に被害者の症状固定の見込み時期を照会して、主治医の回答をもとに、治療費の打ち切りを通告するのが原則です。 
 もっとも、交通事故で多発するむち打ちについては、症状固定までの時期が3ヶ月~6ヶ月という医学的知見があって、任意保険の担当者もそのことを知っているので、むち打ちの場合は、主治医への照会をせずに、被害者側に治療費打ち切りを通告することもあるようです。

(任意保険会社からの治療費の打ち切り通告への対処方法)
 長々とお話をしてきましたが、要点をまとめると次のようになります。
①被害者側が請求できる治療費は、症状固定までのものであり、症状固定後は治療費は原則請求できない。
②症状固定時期は、基本的には主治医の意見が尊重される。
 このことから、打ち切り通告をうけたときの対処方法は次のようになります。
ア 主治医に自分の症状固定時期はいつごろと考えているのか、その理由を聞くべきです。
 また、その際、任意保険会社から症状固定時期について照会があったか、それにどのように回答したのかも聞いてください。   
イ 主治医が症状固定時期がまもなくであり、これ以上は後遺症の問題であるという説明であれば、後遺障害診断書を書いてもらうよう要請することになります。
ウ 主治医はまだ症状固定と考えていない場合
 ・任意保険会社の担当者が主治医に照会もしていなかったときは、担当者に、主治医の意見は、まだ症状固定ではないということであったので、その点を照会して治療費の支払いを継続してほしいと要請することになります。
・任意保険会社の担当者が主治医に照会をしていたときは、主治医の考えと任意保険会社側の考えが食い違っていることになります。なぜこの食い違いが生じたのかを任意保険会社側に聞くべきでしょう。どのような食い違いが生じているかにより、対処方法が異なってきます。

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三文字正平弁護士と日弁連の戦犯釈放委員会

2021年11月22日 | 歴史を振り返る
 三文字正平弁護士は、東京裁判で小磯国昭元首相の弁護人を務めた人物です。
 このことだけでも大物弁護士であることが窺われますが、ウィキペディアでも紹介されておらず、現代では埋もれてしまっているようです。

(経歴)
 三文字弁護士が、戦後朝日カルチャーセンターで昭和50年又は51年ころに講演をした記録が出版されております(参考文献1)。これによると、三文字弁護士の経歴は次のとおりです。
 明治23年4月宮城県生まれ。大正6年東大法学部卒業。昭和18年海軍省嘱託となり、大陸の物資調達などを行う。戦犯処刑者の遺骨をひそかに集め、後に愛知県三ヶ根山上に合祀して話題を投げた。昭和27年日本弁護士連合会戦犯釈放委員会の副委員長。

(東京裁判の弁護人)
 小磯国昭元首相の弁護人を務めただけあって、朝日カルチャーセンターでの講演は東京裁判のことがメインです。
 東京裁判では、被告一人につき主任弁護人が日本人一人、副弁護人としてアメリカ人弁護士が一人、また、被告一人に対し、日本人の補佐補弁護人が二人ないし四人任命されることが許可されたそうです。
 横浜BC級戦犯裁判とは、
①東京では、日本人弁護士が主任だが、横浜ではアメリカ人弁護士が主任弁護士
②東京では、被告一人について複数の弁護士がついていたが、横浜では、被告一人に対して弁護人がついていたわけでは必ずしもない(一対一対応ではない事案が多い)。
という点が違います。
 やはり東京裁判の方が、全世界の耳目を集めるだけに、被告人一人に対し、複数の弁護人をつけて手厚くしていたのでしょう。

(日弁連の戦犯釈放委員会)
 昭和27年5月27日、日本弁護士連合会(以下、「日弁連」)に戦犯釈放委員会という委員会が設立されます。会長は林逸郎弁護士、副会長が三文字弁護士です。
 名前のとおり戦犯を早期に釈放しようという目的のために設立された委員会です。
 衆参の議長訪問、総理大臣への訪問、戦勝各国の大使官や公使官への訪問を行い、要請を繰り返したとあります。
 アメリカの上院議員シュッペル氏にもかけあったら(昭和32年11月)、12月30日には大部分の人が釈放され、巣鴨を出られた、これには非常に感激したというエピソードも語られています。
日弁連の委員会の一つとして戦犯釈放委員会といったものがあり、政治家に要請を繰り返していたというのは、この本で初めて知りました。

(軍とのかかわり及びジラード事件の弁護)
 経歴のところで紹介しましたが、三文字弁護士は海軍省の嘱託となっています。戦前から海軍とは縁が深い人物であったことは間違いなさそうです。
 それにしても、経歴にある、「大陸の物資調達を行う」というのは何なのでしょう。どんな理由でそのような仕事に携わっていたのかもわかりませんし、弁護士でどのようにかかわっていたのかも参考文献1からは明らかにならないので、興味をひかれます。
 東京裁判では小磯元首相の弁護人となっていますが、小磯元首相は陸軍なので、海軍・陸軍関係なく顔が広かったのかどうなのか、この辺もよくわかりません。
 1957(昭和32)年、前橋に駐屯していたアメリカ軍の兵隊が、タマ拾いに来ていた日本人を射殺したという事件が起こりました(ジラード事件)。この事件は、前橋地裁で刑事裁判となったのですが、三文字弁護士は、「この裁判に林逸郎君と私がアメリカ大使館から弁護を頼むという依頼を受けまして弁護致しました。」と講演しており、アメリカ大使館からも信頼を勝ち得たようです。

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戦後ハイパーインフレとBC級戦犯の弁護費用

2021年11月18日 | 横浜BC級戦犯裁判
(ある弁護士の回想)
 BC級戦犯の弁護にあたる日本人弁護士への報酬について、ある弁護士は次のように回想していました。
ア 日額150円であったが、当時でも安いといえた。
イ 昭和20年ころといえば、経済違反の事件が多数あり、その弁護は何千円、何万円になって、それ専門で一財産作った人もいる。
ウ BC級戦犯裁判は日額150円で徹夜続きだ。間尺にあわない。
エ 担当する弁護士は、ほとんどが義務として一つの事件をやって、それが終わるともう来ないという人ばかりでした。
 さて、以上の回想のうち、日額150円というのが本当であったのかどうかについて考えてみました。

(弁護費用は日額150円であったのか)
 政府の正式報告書によれば「弁護人の手当は、最初一日150円(予審から結審の日まで)であったが、物価の変動につれ昭和22年8月、日額500円に増額、さらに23年8月、日額700円に改められた」とあります(参考文献1)。日額150円であったのは、昭和22年8月までであり、それ以降は増額されています。ある弁護士は増額されたことについては発言していないので、この点で正確性を欠いています。
 ところで、政府の公式報告では、増額された理由は「物価の変動につれ」と素っ気なく記載されているだけです。しかし、値上げするかどうかについては、弁護士会と米軍との間でシビアな交渉があったようです。NHK記者(清永聡)はこの点を明らかにしています(参考文献2)。
 昭和22年7月21日(このときはまだ日額150円)、横浜弁護士会が米軍に対して増額要求した史料が残っており、そこでは次のような弁護士会の要求が書かれています。
・昭和21年12月の日額150円という決定は、最近の我が国の経済状況から見て、甚だしく不当なものになりました。
・横浜商工会議所の資料によれば、物価指数は、昨年12月に比べて約2.6倍になっています。
・そうすると、弁護費用は日額390円になりますが、この7月には交通費・通信費が引き上げられて3倍になっており、その他諸物価も上がっています。そこで、日額500円にすることを希望致します。
 この点について米軍は、最終的には日額500円案を受け入れたようです。
それにしても、物価がほんの7ヶ月で2.6倍になるというのは、すごいインフレです。
 今の日本はデフレなので、インフレを思い出すことすら難しいですから。
 ハイパーインフレを裏付けるエピソードは、昭和23年8月の弁護士会の陳情によってもでてきます。
 此の時には、日額1000円を求めているのですが、その理由の一つとして、「配給主食のみについて見るに、五人家族で昨年8月、月額480円であったのが、現在では935円となっております。米価についてみても、昨年8月現在10キロ99円であったのが、現在では266円となっております。」といずれも2倍の物価になっていることを挙げています。
  
(当時の修習生の給与)
 司法修習生というのは、司法試験に合格して、まだ法曹資格、即ち裁判官、検察官、弁護士になる資格がない者が、裁判所のもとにおいて司法の「修習」、つまり勉強をする期間の身分です。
 司法修習生には昭和22年から給与が支払われており、月額200円~300円であったとする回想があります(参考文献3)。米価(10キロ)が昭和23年8月時点で266円であったということですから、これと変わらないことになりますから、信用できるかどうか自信がありません。

参考文献1 「戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚」(厚生省引揚援護局法務調査室編集、昭和29年)
参考文献2 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
参考文献3 「千葉県弁護士会史」(千葉県弁護士会編、1995年)




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交通事故被害者が利用できる弁護士費用特約

2021年11月17日 | 交通事故民事
(交通事故被害者が利用できる弁護士費用特約)
 交通事故の被害者になってしまったときに活用すべきものとして、弁護士費用特約があります。
 自分や家族の誰かが、自動車の任意保険に加入していれば、この弁護士費用特約の有無について確認してみてください。

(弁護士費用特約とは)
 弁護士に相談したい、弁護士を依頼したいというときに活用できるのが、弁護士費用特約です。交通事故の被害者になったときに使える特約です。
 あくまでも、自分(又は家族)の任意保険であることに注意してください。
 「特約」とあるように、任意保険に加入していても、当然にこの保障がでるのではなく、「弁護士費用特約」に加入している必要があります。加入しているかどうかは、任意保険証券をみてください。「弁護士費用特約」「弁護士特約」という文字が記載されていれば、この特約に加入していることになります。
 それでもよくわからなければ、保険証券に記載してある保険会社に電話で問い合わせするとよいでしょう。

(弁護士費用特約の内容)
 ①弁護士への相談、②弁護士への依頼のときにその費用を一定限度で保険から支払ってもらえます。弁護士特約のみを使っても、等級は下がりませんので、その意味では使った方がお得な内容になっています。
 ①弁護士への相談
 相談費用の合計が10万円まで使えます。
 弁護士の相談費用は、一般的には30分で税込み5500円ですので、30分の相談ならば18回使えます。
 通常はそこまで弁護士に相談することはないですから、相談費用としては十分保険で賄えます。
 ②弁護士への依頼
 弁護士の着手金・報酬金合計で300万円まで使えます。
 相談費用とは別枠ですので相談費用で10万円を使ってしまっても、弁護士への依頼費用は300万円までという枠は変わりません。もっとも、これはあくまで枠でして、実際にいくらまで保険で支払ってもらえるかは、保険会社内の内規があるようです。
(まとめ)
 以上弁護士費用特約について説明をしてきましたが、弁護士特約のみを使っても、等級は下がらないというのが、被害者にとっては優しい保険内容です。この特約に入っていない状態で弁護士に相談や依頼をすれば、その分は自分持ちということになってしまいますが、特約に入って入れば、負担がかかりませんので、経済的な負担を考えずに、弁護士にアクセスできることになります。
 弁護士の知り合いがいなければ、保険会社が紹介してくれますが、自分で弁護士を選んでもよいので、その点からも自由度のある使い方ができます。

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武士道裁判-横浜BC級戦犯23号事件  (千葉県で起きた事件)

2021年11月15日 | 横浜BC級戦犯裁判
(事件の概要)
 1945年5月25日夜、米軍B29機が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に撃墜された。日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊が処理にあたった。中隊長はM中尉(当時)(以下、「M中隊長」)であった。B29の搭乗員11人であり、4人は墜落現場で死亡が確認された。翌26日、残りの7人のうち、5人は捕虜として茂原憲兵隊員によって連行されたが、残り2人は瀕死の重傷を負っていたこともあり、第1挺身中隊に預けられた。
 2人の米兵のうち、1人は間もなく死亡した。もう1人のダーウィン・T・エムリー少尉(以下、「エムリー少尉」)も重傷であったところ、M中隊長は、同人の命が助かる見込みはないとして、S曹長に命じて斬首させた。その後、K見習士官の指示によって、エムリー少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。
 エムリー少尉の斬首につき、M中隊長は、武士道に基づく介錯であったと主張したことから、本件は武士道裁判ともいわれている。

<事件の概要についてのコメント>
 概ね争いのない事実をもとに事件の概要を書きました。
 本件事件は「茂原事件」とも呼ばれていますが、被告人となった者や被害者エムリー少尉も茂原には赴いていません。事件は、日吉村内で起きていますので、日吉村事件と呼ばれるべきでしょう。POW研究会も「千葉県日吉村事件」としていますし、長柄町史でも茂原事件とするのは正確ではないとしています。
 ところで、長柄町史では、本件について5月24日にB29が墜落、翌25日に本件事件が起きたとしています。しかし、他の参考文献はいずれも5月25日墜落、26日本件事件発生としていますので、この点長柄町史は間違っています。

(M中隊長の起訴内容)
 M中隊長は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
1 昭和20年5月26日前後、被告人Mは己が指揮下の兵たるSに対し、B29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜を殺害するを命じたり。ここにおいてSは、前記不法なる命令に随い、残忍かつ非道にも刀を以て該米軍俘虜の脊柱を頚部にて切断し、殺害せり。
2 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜に対し、適当かつ十分なる医療を施すを怠りしにより、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った
3 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる一米軍俘虜の死体をあるいは部下の銃剣にて刺突し、あるいはこれを切断するを許容せることにより部下を取締り抑制すべきを怠り、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った。

(K見習士官の起訴内容)
 K見習士官は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
 被告人Kは、昭和20年5月26日ころ、B29の爆撃手エムリー少尉と認められる米俘虜の死体を、故意且つ不法に銃剣を以て刺突し、以てこれを損壊したるものである。

<起訴内容についてのコメント>
 23号事件で起訴されたのは、M中隊長及びK見習士官の2人です。2人は、1946年3月に起訴され、共同被告人として、審理されています。
 M中隊長は、①俘虜の殺害、②適切な医療を施さなかった、③部下が行った死体の刺突・切断を許容したという3点で起訴され、K見習士官は被害者の死体の損壊で起訴されています。
 本件は、横浜裁判で、B29乗員に関するものとしては初めてのケースです。
 本件事件はM中隊長が起訴された23号事件を含めて3裁判に分かれています。23号の次に起訴されたのが、死体の刺突等を実行した兵士たちであり、最後に起訴されたのがエムリー少尉を斬首したSです。斬首の実行行為者であったSが最後に起訴されたのは、Sが逃走していたからです。

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BC級戦犯横浜裁判で弁護人となった日本人弁護士

2021年11月11日 | 横浜BC級戦犯裁判
(横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人)
 日本国内では、BC級戦犯裁判は主に横浜で行われました。そのため、この戦犯裁判を「横浜裁判」と呼ぶこともあります。横浜裁判では、331件、1039人が起訴されました(参考文献1)。裁判ではアメリカ人の弁護人がつけられましたが、日本人の弁護士も弁護人となりました。
 横浜が裁判地となったため、神奈川県内の弁護士のうち44人が担当しました。当時、神奈川県内にいた弁護士は118人であり、戦争の影響で実際に活動していた弁護士はその半分ともいわれています(参考文献1)。44人という人数は、実働していた弁護士が概ね横浜裁判を担当したといってよい数です。

(横浜弁護士会の決議)
 これは横浜弁護士会(当時;現在は神奈川県弁護士会)が同会に登録している弁護士の義務として横浜戦犯裁判を引き受けることを義務とする旨の決議をしていたことが関係しています(昭和22年1月28日決議)。
 この決議の提案理由は、「当裁判所法廷で行われている戦犯裁判は、近く急速に且つ大規模に進展する傾向にあるが、これら裁判の対象である被告人の弁護士は、対外的見地からしても又国内的見地からしても、将来当会に課せられた重大な事業であり、これを完遂するためには会員各位の絶大なる協力と、且つある程度の義務制を定める必要があると思料し、この臨時大会を召集した。」というものでした(横浜弁護士会史(下))。」
 この決議がなされたこともあり、横浜戦犯裁判は、横浜弁護士会(当時)に登録されていた弁護士、すなわち、事務所所在地が神奈川県内の弁護士によって担われたのです。

(神奈川県内の弁護士の担当件数)
 起訴件数331件、被告人1039人にもなったので、全ての事件を神奈川県内の弁護士が担当したというわけではないようです。東京の弁護士会も支援体制を整え、大阪、福岡等各地の弁護士も弁護活動を引き受けたとされています(参考文献1)。
もっとも、地元であった神奈川県内の弁護士が担当した事件数は多かったことは想像に難くありません。
1人で8件を担当したものもいるそうですし(参考文献1)、飛鳥田一雄弁護士は7件務めたと回想しています。同弁護士は、小池金市軍法務官事件の弁護を担当したほか、池上宇一中尉の弁護も担当したと語っています(参考文献2)(飛鳥田一雄が担当した小池金市軍法務官の事件にご興味のある方は、過去記事もご参照ください)。

参考文献1 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
参考文献2 「飛鳥田一雄回想録」(1987年、朝日新聞社)

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ラブホテルは法的にどのように扱われているか

2021年11月08日 | 地方自治体と法律
(風営法での扱い)
 風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)では、ラブホテルという用語は使われていません。ラブホテルとはこれこれであるという規定はありません。法律上の用語ではないということになります。
 風営法は、ラブホテルという建物にだけ着目するのではなく、営業に着目し、その営業を規制するという手法をとっています。風営法では、ラブホテルの営業を、店舗型性風俗特殊営業としています(風営法2条6項4号)。 
 「専ら異性を同伴する客の宿泊(休憩を含む。以下この条において同じ。)の用に供する政令で定める施設(政令で定める構造又は設備を有する個室を設けるものに限る。)を設け、当該施設を当該宿泊に利用させる営業」
 風営法では、ラブホテルは店舗型性風俗特殊営業の「店舗」という位置付けなのです。
 店舗型性風俗特殊営業では、当該営業について公安委員会に届出をする義務があります(風営法27条)。届出をすればよいのであって、許可をもらう必要はありません。ですから、風営法上はラブホテルの建築にとりたてて許可は必要ないということになっています。

(風営法上のラブホテル)
 風営法でいうラブホテルとは何かを確認しておきましょう。 
 風営法2条6項4号からは、
”専ら異性を同伴する客の宿泊の用に供する政令で定める施設で、政令で定める構造又は設備を有する個室を設けるものに限る”
と定義できることになります(ここにいう「宿泊」には休憩が含まれます)。
 詳細は政令で定めることとなっております。具体的には、風営法施行令3条等で規定されています。規定が詳細なので、すべては紹介しきれませんが、「政令で定める設備」には、いまだにこんな規定が残っているのかというものがありますので、それだけ紹介しましょう(風営法施行令3条3項)。
 まず、回転ベッドがでてきます。条文どおりにいえば、「動力により振動し又は回転するベッド」です。回転ベッドは、回転だけするものとばかり思っていましたが、どうやら振動するものもあったようです。一体これのどこが性的興味を誘ったのでしょうか…。
 それと、「特定用途鏡」というものがでてきます。これは、横臥している人の姿態を映すために設けられた鏡なのですが、鏡は様々な用途で用いられるからか、限定の仕方が細かくなります。
ア 面積が一平方メートル以上のもの
イ 二以上の特定用途鏡でそれらの面積の合計が一平方メートル以上のもの
これらは、天井、壁、仕切り、ついたてその他これらに類するもの又はベッドに取り付けてあるものに限るとされています。
また、ソファが目の敵にされています。条文では、「長椅子その他の設備で専ら異性を同伴する客の休憩の用に供するもの」とあります。ソファが珍しい時代に作られた条文なのでしょうか。それにしても、もっぱら異性を同伴する客の休憩の用に供するソファというのが何なのか、私には全然わかりません。
 このように今となっては、歴史上このようなものもあったのだという証拠に使えそうな条文が風営法施行令には残っています。

(条例上のラブホテル)
 法律では、用語としてすらでてこない「ラブホテル」ですが、自治体の制定する条例では、「ラブホテル」という用語が使用されています。使用されているだけではなく、条例の中にもこの用語がでてきます。
 ここでは、市川市(千葉県)の条例(市川市ラブホテルの建築規制に関する条例)を紹介します。
 同条例では、「ラブホテル」そのものが定義されています(2条2号)。
 ラブホテルとは、専ら異性を同伴する客に休憩又は宿泊させるホテル等で、次に掲げるもののいずれかに該当するものをいう。
ア 規則で定める基準を満たす会議室、集会室、大広間、宴会場等各種の集会の用に供する施設、帳場、フロント等受付及び応接の用に供する施設又は玄関を有しないもの
イ ロビー、食堂等の共用施設付近に設けられた規則で定める基準を満たす男女別の便所及び洗面所を有しないもの
ウ 食堂、レストラン、喫茶室等客の飲食の用に供する施設(調理室を含む。)及びロビー、応接室、談話室等客が自由に利用できる施設の使用上有効な床面積が、規則で定める数値に達しないもの
エ 客が他の者と対面せず客室に出入りできる規則で定める構造を有するもの
オ 帳場、フロント等受付及び応接の用に供する施設が、当該施設内における従業員と客とが開放的に対面できない規則で定める構造を有するもの
カ 専ら性的好奇心をそそるために設けられた規則で定める設備を有するもの
キ ホテル等の形態、意匠及び屋外照明が総合的にみて、周辺地域における生活環境及び教育環境と調和しないもの
 ア~キのどれかにひっかかってしまうとラブホテルの認定がされてしまうわけです。
 ラブホテル認定をされないためには、どれも引っかからないようにホテル等を建築するしかありません。

(ラブホテル認定はどのようになされるのか)
 ラブホテルの認定をするのは、市川市長ですが、市長は、ラブホテルかどうかを市川市ホテル等審議会に諮問することとしています(8条)。審議会は非常勤の委員13名で構成され、委員が誰であるかは、市川市のホームページで公表されています。
 市川市でホテル等を建築するということになると、ラブホテルか否かを調査し、この審議会にかけて、ラブホテルである(又はそうではない)ということを認定する作業をしていくのです。

(ラブホテル認定されるとどうなるのか)
 ラブホテル認定されると、規制区域内では、ラブホテル建築ができなくなります(4条)。規制区域内でラブホテルを建築しようとする者に対しては、行政は中止命令ができます。
 規制区域は、4条で詳細に決められています。第一種住居地域、第二種住居地域及び準住居地域は規制区域となっており、学校、公民館、図書館や病院から200メートル以内も規制区域とされています。
 規制区域外ではラブホテルの建築はできますが、規制区域外であっても、ラブホテルの建築について必要な指導、勧告を行うことができるものとされています(6条)。
 ここで注目したいのは、「ラブホテルの建築について」という文言です。
 建築についての指導、勧告なので、ラブホテルの外観をけん制しようという狙いでしょう。建築してしまった後の運用については規定されていないので、その点を規制することができません。このように条例では、あくまでもラブホテルの建築物としての側面に注目して規制しています。これは、風営法が営業について規制していることが関係しているものと思われます。条例は、法律とは別の視点から規制をしているのであるから、法律とは異なる規制となっても法的に問題はないという論法なのでしょう。

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謎の多い大日本弁護士報国会

2021年11月04日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 戦前の弁護士の任意団体として、大日本弁護士報国会なるものが存在していました。「報国会」とは、いかにも戦争翼賛体制っぽい名前なのですが、この大日本弁護士報国会が何をしていたのか謎の多い会のようです。

(大日本弁護士報国会はどのように見られているか) 
 第二東京弁護士会の「憲法記念日を迎えての会長声明」(2015年5月3日)には、「戦争は最大の人権侵害です。この国を「戦争ができる国」にしてしまっては、弁護士法1条の趣旨を貫くことはできません。」と不戦の声明を行っています。大日本弁護士報国会については、「過去、第二次世界大戦のときには、弁護士が「大日本弁護士報国会」を結成するなどして総戦力体制に組み入れられてしまった苦い教訓があります。」と述べています。
 ここからは、総戦力体制のために報国会がつくられ、弁護士が協力してしまったという認識が読み取れます。
 また、参考文献1では、日本弁護士協会や、帝国弁護士協会は、1938(昭和13)年ころまでは、戦争反対の意見を主張していたが、その後戦争翼賛体制に移り、1944(昭和19)年には、大日本弁護士報国会が設立されたというように書かれれています。ここからも第二東京弁護士会の会長声明と同様の認識が読み取れます。

(大日本弁護士報国会は何をしていたのかはよくわからない)
 しかし、報国会がどのような戦争協力をしていたのかについては、インターネットを検索していっても、ほとんど書いておらず、何をしていのたかよくわからないのです。
 大日本弁護士報国会は、1944(昭和19)年2月、佐藤博・小林俊三らを中心として、「不断に皇国の現実に即する積極果敢なる実践活動を展開し法曹報国の誠を致さん」という目的をもって設立されたのですが、全弁護士が加入していたわけではなく、現実の積極的活動も行われていない、同年4月から「法曹報国」という機関誌を出しているが、わずか数号で休刊しているとの指摘を大野正男はしています(参考文献2)。
 理事などの役員には、過去の分裂の経緯から第一東京弁護士会は加わっていなかったということからすると、一致協力して戦争協力というような実態はなかったのではないかという印象です。
 大野は、「戦争に協力するにせよ、反対するせよ、弁護士会階層は無力であったといってよい」と言っていますが、何をしていたのかよくわからないのであれば、そのような結論はやむを得ないでしょう。

(大日本弁護士報国会がいつ解散したのかどこにも書いていない)
 活動実態もよくわからないのですが、いつこの会が解散したのかもわかりません。比較的報国会に詳しい参考文献2ですら書かれていません。
 この辺もまた謎なのです。

(敗戦から日弁連成立までの弁護士史の空白)
 弁護士の書いているものは、戦後の話になると、いきなり弁護士法改正の話しになり、日弁連の誕生(1949(昭和24)年9月1日)から新しい歴史が始まったと結論付けるのですが、敗戦から1949年まで弁護士法制定以外の弁護士会の活動に何ら触れられないものばかりです。
 この間の弁護士の活動は何だったのか?この点の問題意識がないまま今日を迎えている気がします。
 例えば、この間には戦犯の弁護活動がありましち。BC級戦犯では、戦犯とされた者も多いので、それに伴い相当数の弁護士が活動していたはずなのですが、弁護士史の問題としては何ら言及されていません。スルーされてしまっています。
 このような穴を少しでも埋めていかなければなりません。 


参考文献1 金子武嗣「私たちはこれから何をすべきなのかー未来の弁護士像」(2014年;日本評論社)
参考文献2 大野正男「職業史としての弁護士および職業団体の歴史」(1970年;「講座現代の弁護士2 弁護士の団体」所収;日本評論社)

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