南斗屋のブログ

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海軍法務官ーシンガポール赴任後の高木文雄 〈元国鉄総裁〉

2023年03月30日 | 歴史を振り返る
海軍法務官ーシンガポール赴任後の高木文雄

(はじめに)
以前の記事では高木文雄 が海軍法務官の見習尉官であったときのことについて紹介しました。
今回は見習い期間を終えてからのことを紹介します。ネタ本は、前回同様日経『 私の履歴書( 経済人 30)』(2004年)です。

(シンガポールに赴任)
見習い期間を終えて、高木文雄はシンガポール(当時は昭南)に赴任します。高木の職名は、第一南遣艦隊軍法会議法務官兼第十六方面艦隊軍法会議法務官。
日本を離れるときは、これでもう日本には戻れないだろうと思ったとのことなのですが、軍法会議(海軍の裁判所)があるのは、セレター軍港の一角にある美しいところで、専属の中国人コックもいるというノンビリした場所だったそうです。
「仕事もさほど忙しくはなかった」とあり、終戦まで法務官としてどのような業務があったかは記載がありません。

(終戦後の業務)
高木はそのままシンガポールで終戦を迎えます。シンガポールにいた日本軍はイギリス軍に対して名誉降伏を行います。これは武装は解除するものの、日本軍の組織はそのまま維持しるというもの。つまり、軍内の秩序は自ら律することになるので、高木の法務官としての職務も維持されました。

(終戦後の上官殺人事件)
高木は海軍法務官見習尉官のときに、上官殺人事件を担当していますが、終戦後も上官殺人事件を担当します。ある兵が上官から虐待されており、それを恨んで上官を殺してしまったという事件。以前のブログ記事にも書きましたが(高木文雄の海軍法務官見習い期間)、上官殺人事件の法定刑は「死刑」のみ。戦争も終わっているし、何より上官の虐待があったのに、加害者を死刑にしてよいものか…。高木は悩んだあげく、「終戦後の事件であり、海軍刑法は適用されない。一般人にも適用される刑法をもって処罰する」との結論を導き、死刑は回避します。法の適用の問題として興味深いケースです(注)。

(新憲法の制定と海軍刑法)
法の適用といえば、新憲法(現行憲法)の制定も問題となりました。1947年5月3日、新憲法が適用になります。新憲法には「特別裁判所の設置を許さない」との規定があります(憲法76条2項)。軍法会議(軍の裁判所)は特別裁判所でしたから、新憲法の規定により法的根拠を失ってしまうのではないか、というのが問題になったのです。
復員局(陸軍省、海軍省が衣替えしたもの)は、「新憲法は未復員の将兵には適用されない」という解釈を取りました。これにより、戦後も軍法会議は従来の法規のもとで機能していたことになり、高木も法務官を続けることとなったのです。
高木は1947年10月にシンガポールを離れます。帰国した高木は大蔵省に入り、大蔵官僚としての道を歩みました。

(参考条文)
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
② 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
(3項は略)

(注)
海軍刑法が廃止されたのは、1947年(昭和22年)5月17日です。廃止の根拠は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く陸軍刑法を廃止する等の政令」(昭和22年5月17日政令第52号)です。本文で述べた上官殺人事件がいつ起こったのかは書かれていませんが、海軍刑法廃止よりも前の出来事であることが前提となっているようです。



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高木文雄〈元国鉄総裁〉の海軍法務官見習い期間

2023年03月27日 | 歴史を振り返る
高木文雄の海軍法務官見習い期間

(はじめに)
以前、矢口洪一元最高裁長官が海軍法務官の経歴を有していたことについてブログで紹介しました。
矢口浩一『 最高裁判所とともに』では、高木文雄(大蔵官僚・ 国鉄総裁)も 海軍 法務官同期である と書かれていました。そこで、高木文雄の経験談がどこかに書かれていないか調べたみたところ、日経『 私の履歴書( 経済人 30)』(2004年)に行き当たりました。以下、同書から紹介します。

(海軍法務官同期は多士済々)
矢口洪一や高木文雄が任官したのは 海軍 法務官二期生です。 総勢は 35名。 このうち最高裁判事が3人出ています。矢口洪一、 長島敦(注1)、奥野久之(注2)。矢口洪一の著作には、長島敦、奥野久之の名前は挙げられていませんでした。これは、同じ法曹の名前を挙げるのを自制したのでしょう。高木文雄は、戦後大蔵省に入省し、大蔵事務次官となってから、国鉄総裁となるなど、法曹界とはほとんど関係なく過ごしてきたので、その点の遠慮をしなかったと思われます。

(見習い期間中に上官殺人事件を担当)
 高木文雄、矢口洪一らは1943(昭和18)年9月に海軍法務見習尉官に任官します。見習い期間は横須賀で過ごしています。見習尉官の教育訓練は、首都圏で行なわれていたことが分かります。
 高木『私の履歴書』には「見習い勤務中に上官殺人事件を担当させられ、銃殺執行に立ち会うなど緊張した」という一文があります。
 「担当した」というのは、見習尉官として、指導教官と共に案件処理を担当したということでしょう。法務官であるとはいっても、つい数ヶ月前までは学生です。高等文官試験を一回でパスした秀才でも、いきなり実務処理を一人でできるわけはありません。現代の司法試験をパスした後の教育期間である司法修習でも、指導教官と共に案件処理をしますので、おそらく同様の教育をしていたのではないかと思われます。 
 
(上官殺人事件)
それにしてもいきなり上官殺人事件という重大事件を、卒業して間もない見習い期間に一部でも担当させていたというのは、恐れ入ります。もっとも、上官殺人事件というのは、海軍刑法では刑は一つしかありません。そうです「死刑」のみです。
海軍刑法
第六十一條ノ三 上官ヲ殺シタル者ハ死刑ニ處ス
 「上官を殺した」という事実関係自体に争いがなく、死刑以外はありえないと指導教官が判断したから、見習尉官にも担当させることができたのでしょう。
 また、上官殺人というのがそれほど珍しくはないと読み込むことも可能かもしれません。指導教官が見習尉官に教育をさせる手間を考えると、自分が経験したことのある案件で、処理の仕方が自分の中で確立している案件にするはずです。ほとんど発生しない事件は、処理の仕方が確立していないため、指導教官自ら手探り状態になりますが、そういう姿は見せたくないもの。とすれば、上官殺人事件というのは、それほど頻繁にというわけではないにしても、珍しくはなかったといえるのでしょう。
その一つの傍証として、先ほど引用した上官殺人の条文は、第六十一條ノ三という枝番であることもあげられます。枝番というのは、後から追加した条文でして、同条は
「(昭一七法三六・追加)」とあることから、昭和17年改正で追加されたものです。上官殺人が起こっていなければ、このような条文は追加しないので、法改正前には上官殺人が起こることが問題視され、この条文が追加されたのでしょう。

(死刑執行は銃殺)
高木文雄は「見習い勤務中に上官殺人事件を担当させられ、銃殺執行に立ち会うなど緊張した」と述べており、見習尉官のときに、早くも死刑執行に立ち会っています。死刑執行の方法は海軍刑法に規定があり、「銃殺」とされています。なかなかショッキングではあります。

第十六條 海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス

(注1)長島敦は昭和16年京都帝大法科卒。海軍に入り終戦のときは法務大尉。伯父で戦時中の大審院長だった長島毅よ影響で司法官を志望(野村二郎著『最高裁全裁判官』)

(注2)奥野久之の海軍法務官の経歴は以下のとおり(奥野判例研究会『秋の蝉ー奥野久之最高裁判事の足跡』)。
1943(昭和18)年9月 海軍法務見習尉官
1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉
同年9月  海南警備府臨時軍法会議法務官
1945(昭和20)年3月 海軍法務大尉
1946(昭和21年)4月 復員

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嘉永6年3月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月23日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年3月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時ころ湊川の借家へ行く(元俊医師は行かずに宿で書き物)。大原幽学先生は今日はご機嫌で、先生の奢りで宴会。そのため湊川に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
ここのところ、大原幽学は小言ばかりが目立っていましたが、なぜか今日は上機嫌。宴会が夜まで続き、しかも全部大原幽学の奢り。どういう心境の変化かわかりませんが、五郎兵衛は大いに楽しんだようです。

嘉永6年3月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日は宴会で湊川の借家に泊まってしまった。元俊医師らが湊川の借家に午前9時ころ来る。日暮れに元俊医師らと宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の大宴会で五郎兵衛はおそらく二日酔いにでもなったのでしょう。湊川の借家に泊まったため、朝は遅く、夕方まで何もしなかったのかもしれません。五郎兵衛がしたのは、日暮れに山形屋に戻ったことだけの簡潔な記事です。

嘉永6年3月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前11時ころ湊川の借家へ。元俊医師は京橋に買い物に行ってしまった(湊川には来ず)。今日も何もなく終わると思ったら、午後8時ころになって奉行所から、明日出頭せよとの呼び出し。湊川に泊まって、明日の準備。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日、奉行所から呼び出しがありました。呼び出しの連絡はが来たのは午後8時。これで明日の朝には出頭しなければならないのですから、大変です。奉行所での調べがなかなか入らなかったり、呼び出しが夜遅くであるのは、事務が渋滞して奉行所も忙しいからかもしれません。

嘉永6年3月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝に一度宿(山形屋)に戻ってから、午前9時、山形屋の下代、重吉の案内で奉行所へ。着届を提出し、腰掛で待機。午後1時呼込。我々は菊地様のお取り調べを受ける。先祖株組合関係の資料の提出を要求された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日呼び出しがありましたので、奉行所に出頭。公事宿の従業員(下代)が案内をしてくれます。奉行所へ行き、着届⇒腰掛(控所)での待機。午前中はひたすら待たされ、午後1時にようやく呼出されましたた。調べを担当した「菊地様」は与力でしょうか。

嘉永6年3月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行き、昼食。奉行所へ提出する資料につき話合い。夕方、荒海村(成田市)の平右衛門らが湊川に来。「領主(田安家)のお代官様に奉行所からの要求をご報告した」とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の奉行所での取調べで先祖株組合関係の資料の提出を要求されたので、どのように資料を作成し、提出するのかの打合せ。荒海村組は、領主の田安家に報告をしており、田安家もこの裁判にかなりの関心を持っていることがわかります。

嘉永6年3月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時ころ、湊川の借家へ行く。大原幽学先生から、「まず、心法を立てるべきである」とのお話しあり。「五郎兵衛はとにかくのろいのだから、何事も素早くやるのが心法だ。客にご馳走するときに、料理の支度の内容を客に分かるように喋ってはいかぬ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛ののろさや大らかさは天然であったようです。大原幽学からは以前ものろさをいわれてますが、今日もまた指摘されてしまいました。お客様への接待をするのに、料理支度をべらべらと喋ってしまっては、接待にはならないので、注意されるのももっともです。

嘉永6年3月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行き、風呂に入る。一同で先祖株帳面を調べる。荒海村の平右衛門が夕方に来て、別の話しになったが、それが終わるとまた帳面の調べ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も裁判の作戦会議のために、対策本部(湊川の借家)へ。ほぼ一日中、奉行所に提出する先祖株帳面を調べ、提出資料について検討しています。これまでの江戸見物のノンビリした雰囲気から一転し、緊張した様子が伝わります。

嘉永6年3月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ。先祖株帳面の調べの続き。午後4時、蓮屋へ行き提出する資料の打合せ。そこへトラブル発生。乱心の母親の駆け込みに、一同で取り押さえて落ち着かせる。午後8時、奉行所から、明日出頭せよとの呼び出しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日も奉行所提出資料の検討。蓮屋(荒海村の者が宿泊)での打合せの際には、乱心の母親が駆け込んで来るというトラブルが発生しました。全員でその母親を取り押さえて、宥めすかしたようです。そんなときに、奉行所から出頭命令。忙しいときには、忙しいことが重なるようです。

嘉永6年3月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時、下代の重吉の案内で奉行所へ。着届を提出し、腰掛で待機。午後2時まず大原幽学先生が呼出される。その後、一同呼び出される。奉行所「先祖株組合関係の資料に数字の間違いがあるので、修整して提出せよ。近々呼び出すので、本日は帰れ」と。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日まで懸命に奉行所提出資料の検討をしてきたのですが、数字の間違いがあって、再提出を余儀なくされてしまいました。明日からもう一度やり直しです。

嘉永6年3月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行き、先祖株組合関係の資料の検討。午後10時ころまで検討するが、終わらず。その後、宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の奉行所からの指摘を受け、一同で先祖株組合関係の資料の再検討。夜遅くまで検討しましたが、終わりません。


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文政11年3月中旬・色川三中「家事志」

2023年03月20日 | 色川三中
文政11年3月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年3月11日(朔)(1828年)
雨。風もあって天気は悪いが、従業員の与市と共に谷田部(妻の実家)に出かける。道のほとりの桜ははや散り始めており、雨中落花といった様子。昼前に知人(宅三郎)宅により酒を飲み、夕方妻の実家に着く。酒を出されたので、夜中まで飲む。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦から谷田部(妻の実家)に向けて、春の雨の中を進みます。旧暦3月、桜は早くも散り始めています。谷田部に着いた後は宴会。だいぶお酒を飲んでいますね。明日の体調、大丈夫でしょうか。

文政11年3月12日(1828年)
飲みすぎて二日酔い。与市も同様。昼前まで寝てしまった。起きたら、妻の実家では酒を出してくれたので、また飲む。帰り道、知人(宅三郎)と共に土浦へ。宅三郎は土浦で婿入りするのだ。目出度いので、帰宅後も酒。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日夜中まで酒を飲んでいましたから、案の定二日酔い。三中だけでなく、従業員の与市もです。起きたら迎え酒。婿入りする宅三郎を連れて土浦に帰って、また酒。三中には珍しく宴会続きです。

文政11年3月13日(1828年)雨
土浦で婿入りする宅三郎を町の人に紹介しに、羽織袴で出かけた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日土浦に着いた宅三郎を町の人に紹介するため、雨の中、正装(羽織袴)で一緒に出かけています。三中は27歳(数え)なのですが、当時は20代でも家の当主となれば、このような役割を果たすことが求められていたのでしょう。

文政11年3月14日(1828年)
朝、親友の間原と隣主人、宅三郎のお祝いに来る。結婚した両家と共に酒を飲む。皆、興にのる。夕方にようやく散開。
#色川三中 #家事志
(コメント)
宅三郎(谷田部から土浦へ婿入り)のお祝いイベントは、今日が最高潮。両家が揃っているところをみると、結婚披露宴に当たるような日なのでしょうか。朝から三々五々集まり、夕方まで。形式は現代とはだいぶ違いますが、お祝いをする心は変わりません。

文政11年3月15日(1828年) 雨
入江氏が町役人を終えられたので、退職のお祝いに金二朱とわり酒一升を持っていかせた。夕方、隣主人と共に入江氏に挨拶。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入江氏は土浦の町役人を務めていましたが、3月上旬に終え、子息の郷助が同役を引き継いでいます(3月3日条)。宅三郎のお祝いイベントが一段落したからでしょうか、本日お祝いを贈り、挨拶に赴いています。


文政11年3 月16日(1828年)
妻子を土浦に連れてきた与兵衛の為に、高砂屋清左衛門宛に引請証文を書いた。
(引請証文の要約)
この度、与兵衛は妻子を引取り、土浦の中城町の奥井吉右衛門殿の長屋(高砂屋所有)を借りましたが、私たち(三中と叔父の利兵衛)が身元を引き受けます。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻子を連れてきた与兵衛の為の身元引受書。原文は長く、御公儀の御法度は勿論のこと当町の規則も守らせます、本人に問題があれば我々が足を運んで解決します、仏教徒に間違いありません、寺の請状は我々の方で保管していますから、必要ならばお見せします等と書いています。

文政11年3月17日(1828年)雨
釜屋伊右衛門から「13歳になる子どもを従業員にどうか」との書状が届いた。従業員はほしいが、この間初五郎(11歳)を雇って失敗したので、どうするか…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
薬種商の事業は順調で、人手が足りないようです。知り合いから、13歳の子どもを紹介できるとの手紙が届きました。つい3ヶ月前ほど従業員をほしがって11歳の初五郎を雇って失敗しており(12月22日条)、今回どうするつもりでしょうか。


文政11年3月18日(1828年)
母が江戸に行くという話しは出ていたのだが、明日から行くことになった。昔、母が江戸見物に行ったときは、貸座敷を借りたり、今日は大平だ、今日は中条だとご馳走を食べ歩いたという。今回は地味な江戸行となる予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家も昔は羽振りが良かったときがあるようで、母親は江戸に遊びに行き、かなりお金を使ったことがあるようです。グルメスポットの食べ歩きのことが記録されています。

文政11年3月19日(1828年)
母が江戸に向けて出立。利助が同行。今回の小遣いは金2両・銭800文とのこと。母親は以前は毎日芝居を見て、歌舞音曲を楽しみ、江戸から籠を乗り継いで土浦まで帰ってきたらしい。今回は慎ましい江戸行にならざるを得まい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の母親の以前の江戸での散財はすごかったようです。毎日芝居を見て、歌舞音曲に親しみ、帰りは全て籠で帰ってきた由。
江戸は一大消費地であり、現代よりももっと地方の人の憧れの的だったのかもしれません。

文政11年3月20日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中先生は休筆です。



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戦後の民事裁判は開店休業状態

2023年03月20日 | 歴史を振り返る
(戦後の裁判所)
戦後、日本の裁判所がどのような状況にあったのかについて、まとめて論じられてあるものにいまだ出会えません。断片的まのもの繋げていくしかないのかなと思っています。
矢口洪一『最高裁判所とともに』(有斐閣、1993年)には、戦後すぐの大阪地裁民事部の様子が記載されていました。

(戦後の大阪地裁民事部はほとんど事件がなかった)
矢口洪一は元最高裁長官。
昭和18年から20年には海軍法務官の職にありましたが、同年11月に復員。司法官試補・司法修習生を経て、1948(昭和23)年1月には大阪地裁判事補となり、民事部に勤務となりました。矢口洪一は1949(昭和24)年3月まで大阪地裁に在籍しているのですが、この間に「ほとんど事件がなかった」「審理する事件がなかった」としています。
大阪地裁に京都から通勤した後、「裁判所で20分か30分法廷にいたら、それで一日よスケジュールが済んで、あとは家から持ってきた乏しい弁当を食べて、それで帰るということの繰り返しでした」というのです。

(民事事件がなかった理由)
民事事件がなかった理由について、矢口洪一は次の理由をあげています。
①戦前でいえば、1万円、2万円という事件は大きな事件であったが、戦後のインフレで価値がなくなってしまい、そんな金額では誰も相手にしなくなった。
②そもそも世の中がまともではないので、民事訴訟等というものが進むはずはない
 一方、刑事事件はかなり事件数があり、「統制法のもとで経済事犯は沢山事件があつた」と述べています。

以前、「戦後すぐの司法修習生・新人弁護士の生活」という記事で、戦後すぐは国選事件の取り合いがあったというインタビューを紹介しましたが(下記)、民事事件で稼げないのであれば弁護士はそのようにしてでも食べる道を見出すほかなかったでしょう。
「中堅の弁護士も食えなかった。弁護士会の会長が”新人弁護士に国選を回してやれ”と言ったら、中堅の弁護士から不公平だと苦情がでた。相当の大家の中でも、新聞記事を呼んで警察の留置場に面会に行き、弁護士を自分に依頼しろと弁護届を取っていたという人もあるくらい」

また、次のように回顧している弁護士もいます(戦前は陸軍の軍法務官、戦後は弁護士になった原秀男)。
「独立しては見たけど、 ひどい目に遭っちゃった。事件を頼む人がいないもの。 大学の1年生から陸軍に入って 、戦地で 6年、復員してきて2年目の弁護士に仕事 頼む人なんて誰もいないですよ。 おまけに 当時はものすごいインフレ時代。 そもそも弁護士のやる仕事がない。 闇取引時代です 。正常な経済取引はないから民事事件は皆無 。あるのは 借家追い出し事件だけでした。」(原秀男『法の戦場』)。



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嘉永6年3月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月16日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年3月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行く。幸左衛門から「昨日から幽学先生が少々体調が悪く、養生のためにと鯉を差し上げたのだ。ところが、先生は『どうも鯉のハラワタは消化に悪いようだ』と仰っしゃる。そこで、鯉はもう差し上げないことにした」という話しを聞く。また、幽学先生は幸左衛門にもグチを言っているようだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸に呼び出しを受けて1ヶ月以上が経ちますが、いまだに奉行所から呼び出しはなく、放っておかれた状態にあります。見通しの経たない中で、大原幽学のストレスもかなり溜まっているとみえ、弟子がよかれと思って鯉を差し上げれば、消化に悪いといい、さらにグチまでいっています。

嘉永6年3月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋に行く。昼食は蓮屋でとる。蓮屋に泊まっている者が気前よく寿司を奢ってくれた。
元俊医師と平右衛門が話し合っていたが、どうも意見が一致しない。八つ時には太次兵衛らが蓮屋に来たので、道友の様子を聞く。その後、太次兵衛と山形屋に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
元俊医師と平右衛門は、どちらも大原幽学の高弟です。なにやら議論をしているようですが、意見が一致せず。五郎兵衛はこれを横で見ながら、昼食の寿司に舌鼓を打ったり、仲間の様子を聞くなどしています。ストレスが溜まらないような過ごし方です。

嘉永6年3月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
五つ時に湊川の借家に行き、その後、大名のご登城の様子を見物。御老中阿部様のご登城のときには、大名・旗本はみな阿部様のお上りを拝んでいて壮観であった。
その後、湊川に戻って風呂に入った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は江戸城への大名登城の様子を見学に行っています。当時の老中首座は阿部正弘(1819~1857)。老中首座の登城の際には、大名・旗本がみなこれを拝しており、壮観さを五郎兵衛も日記に記しています。

嘉永6年3月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
喜太郎らと、浅草門跡前の入歯屋に行く。店が手間取っていて時間がかかるようだったので、自分一人で上野の桜を見物に。花見客が大勢いた。湊川の借家に顔を出した後、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
浅草門跡前の入歯屋には、以前は別の者と同伴していた五郎兵衛でしたが(2月23日条)、評判を聞きつけたのか、他の者も同じ入れ歯屋に行っています。折りしも桜の時期。上野の桜はこの時代にも既に有名だったようです。


嘉永6年3月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行った。喜太郎は浅草の入歯屋へ、太次兵衛は書物を買いに日本橋へ行った。私も仲間と散歩。幽学先生から甚右衛門に渡す書き物をいただき、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
喜太郎は浅草の入歯屋へ。昨日は五郎兵衛が同行していましたが、道を覚えたのでしょう、今日は一人で行ってます。五郎兵衛は、他の仲間と散歩。ピンチヒッターの差添役であった甚右衛門への書き物(2月28日条参照)を大原幽学から預かって、宿に戻りました。


嘉永6年3月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行く。大先生(大原幽学)のところへ、足川村の孝之助の母親から歌が送られてきた。大先生は「歌の意味が本当に素晴らしい。このような心境に到達するのは容易ではない」と感心し、自ら返歌をしたためた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
支援者からの手紙(歌)に大原幽学が感心したエピソードです。「足川村」は現在の千葉県旭市足川。大原幽学の拠点であった長部村(旭市長部)から10キロほど離れております。大原幽学の影響が様々な地域に及んでいたことがわかります。

長部 to 足川

長部 to 足川




嘉永6年3月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行く。元俊医師は湊川には行かず。「2、3日休息したい」とのこと。小生は七ツ半(午後5時)に宿に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本件裁判で長沼村(成田市長沼)から呼出されたのは、元俊医師と五郎兵衛の二人で同じ公事宿(山形屋)に泊まっています。そのため、元俊医師への言及は多く、本日の記事では、元俊医師が休息をとっていたことが記されています。疲れているのでしょうか?五郎兵衛は相変わらず湊川に通っています。

嘉永6年3月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師は、「2、3日休息したい」といって湊川に来ない予定だったが、本日、又左衛門が「幸左衛門が病気なので来てほしい」と言って来たので、一緒に湊川の借家に行く。元俊医師「大したことはない。静養しておれば治るよ」とのこで、一同安心。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仲間が病気となり、元俊医師にみてもらったところ、特に問題ないとの診断に一同ホッとしています。江戸に出てきてストレスがかかり、病気になる者が多い中、仲間に医師がいるのは心強いことです。

嘉永6年3月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。本銀町に薬を取りに行き、徳島町で白雪糕を、丁子屋でタバコを買う。湊川に戻ったのは日の入り前。既に元俊医師は宿へ戻ったようだ。小生も宿に戻ろうとしたところへ、大先生(大原幽学)から「のろすぎる」といわれてしまった。
小生の帰りがけに良左衛門が外まで出てきて、「そんなことで大先生(大原幽学)に気をつかわせないで、もう少し気をつけてください」とのお叱りを受けた。時々刻々顧みて慎まなければならない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は、いろんなところでお買い物。薬のほかは、白雪糕とタバコの嗜好品です。湊川の借家に戻ったのは日の入り前とのんびりとしたもの。大原幽学もあまりの五郎兵衛の手際の悪さに「のろすぎる」と言わざるを得なかったようです。高弟良左衛門も同じ考え。五郎兵衛のノンビリさがよく表れています。

白雪糕 - フォトライブラリー

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嘉永6年3月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門たちと連れ立って、金毘羅参詣に行く。その後に湊川の借家へ。大原幽学先生からは、金毘羅参詣などしているヒマがあるのかと小言をいわれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、仲間と共に金毘羅(こんぴら)参詣。金毘羅大権現は、虎ノ門の近くの丸亀藩江戸上屋敷に四国の金毘羅から勧請したもの。江戸時代の後期には、水天宮(久留米藩)と並ぶ2大人気スポットになっていました。

【知られざる東京】丸亀藩上屋敷の金毘羅大権現(虎ノ門金刀比羅宮) | 東京とりっぷ

江戸時代、江戸市中にあった大名屋敷には各藩なだたる寺社の分社・分寺が勧請されていました。月に1回の縁日を決めて公開されて人気を博したのが、金毘羅(こんぴら)さんで...

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文政11年3月上旬色川三中「家事志」

2023年03月13日 | 色川三中
文政11年3月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年3月1日(朔)(1828年)庚子 雨
与兵衛が谷田部(現つくば市)から土浦に引っ越してきた。荷物は三駄。本日、長屋にかまどを立てたとのこと。妻子はまだ谷田部であとから土浦に来る予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛は昨年8月半ばころ三中に酷使され(水戸や江戸に早朝から出張を命じられた)、その上9月には親が亡くなっていました。12月23日には、「当年限りで暇をもらいたい」と言っており、辞めたと思っていたのですが、なんと土浦に引越し(これまでは単身赴任だった模様)。三中と何らかの話し合いができたのでしょう。

文政11年3月2日(1828年)雨。昼より晴。
細井氏が柿岡(石岡市)から土浦に戻ってきた。家に寄ってくれたので、引き留めて泊まってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市)に住んでおり、2月下旬には三中のところに遊びにきて、所用で柿岡(現石岡市)に行っていました。帰り道に土浦に寄ったところ、三中に引き止められてしまいました。三中もよほど細井氏と合うのでしょう。

文政11年3月3日(1828年)快晴
・細井氏が本日帰った。帰り際に、別れを惜しむ歌を詠み交わした。
・入江氏が町方の役を免ぜられ、子息の郷助殿が同役を仰せつけられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・細井氏は川原代(現龍ヶ崎市)に帰って行きました。別れ際にら歌を詠み交わしています。歌を詠むことが普通の時代らしい別れ方です。
・町方の役が交代。父親から子へと代替りしました。子息の郷助殿は三中と同世代で20代後半。

文政11年3月4日(1828年)晴
九つ時に与兵衛が谷田部(現つくば市)から妻子を連れてきた。中食をご馳走になる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の妻子は谷田部(現つくば市)にいたのですが、今回土浦に引越してきました。今までは与兵衛が土浦に単身赴任をしていたようです。

文政11年3月5日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年3月6日(1828年)
(編集より)色川三中、本日も休筆です。明日から再開します。
#色川三中 #家事志

文政11年3月7日(1828年)
夕べからの雨がようやく上がって、晴れた。忙しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、一昨日と日記を書かなかったのは多忙が理由のようです。今日の日記もほとんど内容がありません。

文政11年3月8日(1828年)
入江親子が改名との触書。新たに町役となった入江郷助が、今後は入江全兵衛を名乗る。これまで入江全兵衛を名乗っていた父親は、入江呂右衛門となる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦の町方役人を務める入江家。入江郷助(息子)が当主となったため、「入江全兵衛」を名乗ります。父親は隠居となり、入江呂右衛門となります。
父親:入江全兵衛⇒入江呂右衛門
息子:入江郷助⇒入江全兵衛(当主)
3月3日条参照


文政11年3月9日(1828年)
日本橋本石町の新薬店三川屋善兵衛の代人太介が来た。扇子一対をいただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代、薬種問屋は日本橋本町に多くありましたので、本石町の三川屋さんは新興勢力。三中に会いにきたのも、自分のところの薬を仕入れてもらいたいがための営業でしょう。

第1回 日本橋本町はなぜ「くすりの街」になったのか<江戸時代編>

江戸の商いの中心地としてにぎわい、今も多くの老舗がひしめく日本橋本町。そんな日本橋本町、実は「くすりの街」でもあることを知っていますか?そう言われてみると確かに...

インタビュー・コラム



文政11年3月10日(1828年)
日向亮元医師に70品ほど薬を作って送った。ぜひ流行の医師になってほしいものである。それまで万端の世話をしたい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向亮元は土浦出身で現在は江戸にいる医師。先日母親が亡くなり、土浦に戻ってきていました。三中は日向医師をバックアップしており、今回は薬品を送っています。
文政11年2月14日条参照


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矢口洪一元最高裁長官と海軍法務官

2023年03月09日 | 歴史を振り返る
(軍法務官とは)
 戦前の日本には、特別裁判所として、軍法会議というものが存在していました。「会議」という名前がついていますが、会議を行うのではなく、これで軍事の裁判所という意味になります。根拠法令としては、陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法があり、いずれも1921(大正10)年成立、1922(大正11)年4月に施行されています。
 この軍法会議の裁判官役は、「判士」と呼ばれる武官(4名)と法務官という文官(1名)で構成されていました。武官は、法律のプロではありませんから、法律のプロは法務官のみということになります。検察官役も法務官が行いました。もっとも、検察官役を務めた場合は、その事件ではその法務官は裁判官役は務めず、別の法務官が裁判官役になります。
 法務官は検察官役、裁判官役が固定ではなく、ある事件では検察官役、別の事件では裁判官役というように、事件ごとにどちらかの役目を務めました。

(矢口洪一は海軍法務官の経歴あり)
最高裁判所長官を務めた矢口洪一(1920年- 2006年)は、海軍法務官の経歴があります。
1943(昭和18)年9月 海軍法務見習尉官
1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉
1945(昭和20)年3月 海軍法務大尉
同年11月 復員

(学徒出陣と矢口洪一)
この背景には、学徒出陣(1943年10月)があります。
矢口洪一自身も、「司法省から司法官試補採用の内定の通知をもらったが、当時は何人も兵役の義務を免れることはできない。私は卒業と同時に2年現役の海軍法務官士官の道を選んだ。」と書いています(『最高裁判所とともに』)。
1943(昭和18)年10月、文科系の学生に対して、それまで兵役法で認められていた徴集延期の制度が廃止され、適齢期の学生たちは直ちに戦場に向かうことになりました。これがいわゆる学徒出陣です。矢口洪一はこの学徒出陣の影響を受けたため、司法官試補に進むことができず、海軍法務官に士官せざるを得なかったのです。

(海軍法務官は狭き門)
矢口洪一はあっさり士官できたように書いていますが、海軍法務官は狭き門でした。同期は35人しかおらず、検事総長になった安原美穗(1919年- 1997年)でさえ、法務官になることができませんでした。

(海軍法務見習尉官)
矢口洪一は、1943(昭和18)年9月に海軍法務見習尉官となり、横須賀海軍砲術学校で訓練を受けました。
「法務見習尉官になると、最初の四ヶ月、士官として恥ずかしくないように広い意味の躾教育があるわけです。横須賀にあった海軍砲術学校で講習員として軍隊の常識教育を受けました。」
教育の仕方については、次のように述懐しています。
「カリキュラムを組んで、次の一週間の日程はこうであるというカリキュラムがあって、それにしたがって教育があり、たとえば、軍艦の話というのがあると、隣の海軍工廠から技術士官が教えにきてくれるわけです。それは考えようによっては贅沢な話しです。それで最小限度の軍艦の復元力とか速力とか、大砲の話しなどをしてくれる」
聞きっぱなしではなく、一週間ごとに試験があり、合格点を全員が取らないと次の教科に進めない方式だったようです。

(佐世保鎮守府軍法会議)
矢口洪一は、1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉となり、終戦まで佐世保鎮守府軍法会議に勤務しました。ここでの勤務については、前掲書では言及がありません。
軍法会議での法務官の日常がどのようなものであるかは興味のあるところなので、またどこかでそのような記事があったらブログにアップしたいところです。




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嘉永6年2月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年2月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年2月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と甚右衛門が病気で寝込んでしまった。しかし、湊川の借家(裁判対策本部)には毎日顔を出さざるを得ないので、天神前と共に行く。小見川(香取市小見川)から門人の茂兵衛が来ていた。いつもより早めの八ツ半(午後3時)には宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸での疲れが溜まったのか、元俊医師だけでなく、甚右衛門も病気で寝込んでしまいました。甚右衛門は、昨日は元気だったのですが。裁判の見通しが立たないのもストレスでしょう。


嘉永6年2月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。元俊医師は昨日に引き続き病気で臥せっている。小生も終日宿(山形屋)にて過ごす。昼過ぎに四名来て、元俊の病気見舞い。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
元俊医師は本日も引き続きダウン。甚右衛門は回復したようです。大雨もあり、終日宿にいたところ、元俊医師が病気なのを心配して、仲間が病気見舞いに駆けつけています。

嘉永6年2月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幡谷村(成田市幡谷)の古老が浅草で入歯を作るというので同行。朝、出発。浅草門跡前の貞次という歯入屋。古老は歯を二本作った。同行のお礼に昼食はご馳走になる。夕方に宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は古老が入歯を作るのに同行。入歯を作る「歯入屋」は浅草門跡前が有名だったのでしょうか。同行したお礼に昼食は奢ってもらった五郎兵衛でした。

嘉永6年2月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幡谷村(成田市幡谷)の村人の相続問題について協議するため、湊川の借家に全員集合。「千年続いてきた家の存続に関することである」からと、一同念を入れて協議した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幡谷村(成田市幡谷)にある古くからの家の相続問題について、大原幽学を初め江戸にいる全員が集まり協議をしたという記事。大原幽学の門弟の重要問題は江戸で話し合われたことがわかります。「千年続いてきた家」はオーバーな表現なのでしょうが、古くから続いてきた家だったのでしょう。

嘉永6年2月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前、幡谷村(成田市幡谷)の古老半十郎が帰村。昨日の相続問題の協議の結論がでたので、それを持ち帰るのであろう。宝田村(成田市宝田)の甚左衛門夫婦がやってきて、我々の宿(山形屋)に泊まる。本日は終日宿過ごした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は長部村(旭市長部)に居住しており、同村周辺にのみ影響があったと思っていました(大原幽学記念館も同所にある)。しかし、今日の記事からは成田付近にも大きな影響を与えていることがわかります。幡谷村、宝田村の成田周辺の村です(五郎兵衛の長沼村も同様)。

嘉永6年2月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼から湊川へ。平右衛門が「大原幽学先生から話しがあったが、グチをこぼされただけだった。」と愚痴っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
湊川の借家は、裁判の作戦本部であり、大原幽学は同所に詰めています。江戸に呼び出されて1ヶ月。奉行所からは何の音沙汰もないので、ストレスが高まっています。平右衛門(大原幽学の高弟)に対して、グチばかり言ってしまい、弟子もストレスを感じています。


嘉永6年2月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記
五兵衛が昨日暮れ方に我々の泊まっている宿(山形屋)に着いた。今後五兵衛が、甚右衛門にかわって長沼村(成田市)の差添人となる。その旨奉行所にも届出でる。
長沼村に帰村する前に、甚右衛門は昨日も今日も江戸見物(昨日は浅草とのこと)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長沼村の差添人が、甚右衛門から五兵衛に再び交替。どうやら五兵衛は急ぎ短期間村に帰らなければならない事情があったようです(甚右衛門が江戸に来たのは2月12日)。甚右衛門は帰村前にお約束の江戸見物。


嘉永6年2月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記
甚右衛門が長沼村(成田市長沼)に本日帰る。湊川へ行き、大原幽学先生に帰村のご挨拶。先生は、「親や子が理解してくれなくても、孝行を尽くすのだ。自分ひとりでもという性根でいきなさい。」といって夫孝の書き物を後で送ると約束した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
甚右衛門が長沼村(成田市)に帰村。その前に大原幽学に帰村の挨拶をしているところをみると、甚右衛門も門弟のようです。先生からは有り難いお言葉をかけていただき、後で大原幽学が書き記したものを送ることが約束されました。

嘉永6年2月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ寄った後、昼から田安御門の馬場で馬の稽古を見る。田安様、清水様の御屋敷脇を通り、竹橋へ出て、伊勢町の中条で尾張味噌を買う。日暮れ方に宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判が長引いており、皆にストレスが溜まっていますが(元俊医師ですら病気;2月22日)、日記の筆者五郎兵衛は元気です。今日は尾張味噌の買出し。その合間に田安門の馬場で馬の稽古を見たりして、江戸をぶらぶらしています。困難な状況にあっても、その中で楽しみを見つけるのが五郎兵衛流。






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金子宰慶について

2023年03月02日 | お知らせ

金子宰慶(かねこ ただちか)について

ご用のある方はtkproject1212■gmail.com(■を@に直してください)へメールください。

(経歴)
千葉県立長生高等学校卒業
京都大学法学部卒業
1995年〜2000年 法律事務所に勤務
2000年〜2018年 法律事務所を主宰
2019年〜2022年 自治体内弁護士
2023年〜2024年2月 企業内弁護士
2024年4月〜 自治体職員

以下の役職を経験。
☆社会福祉法人監事:2001年〜2005年、2008年〜2010年
☆社会福祉法人評議員:2010年〜2019年
☆千葉大学ロースクール(法科大学院)非常勤講師:2004年〜2007年
☆千葉市精神医療審査委員:2004年〜2006年
 






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