南斗屋のブログ

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700万円の横領で業務停止 弁護士の懲戒-2021年10月号から

2021年10月28日 | 法律事務所(弁護士)の経営
(はじめに)
日弁連の会誌「自由と正義」には、懲戒処分の公告が掲載されます。
弁護士の懲戒処分には、戒告、業務停止、退会命令、除名の4つがあります(弁護士法57条1項)。
2021年10月号掲載分の懲戒処分の公告では、業務停止処分が2件、戒告が6件ありましたが、この中から、気になったものを紹介します。

(業務停止1年6月とされたケースー示談金の流用)
 業務停止期間は1か月~2年の間とされているので、1年6ヶ月というのは長期間の業務停止となります。
このケースでは、4つの事実が認定されています。①委任契約を作成せず、②依頼者に報告すべきことを報告しなかった、③弁護士報酬についての適切な説明をせず、かつ、委任契約を作成せず、④依頼者からの預かり金700万円の流用および弁護士会への虚偽説明です。このうち、業務停止の理由の最大の要因は④であると思われます。被害者への弁償がされている場合は、被害弁償をしたことが処分理由に記載してあることが多いのですが、本件では記載されていないところをみると、処分時点では被害弁償がなされていなかったのかもしれません。
 それにしても、依頼者からの横領事案は後をたちません。
 この700万円は、依頼者の交通事故の示談金であり、保険会社から弁護士の預かり金口座に振り込まれたようです。弁護士にとっては、預かり金口座から弁護士報酬を差し引いて支払うという点がメリットとされ、預り金口座への振り込みが当然視されていましたが、ここまで不祥事があると預り金口座への振り込みということ自体辞めた方がよいのかもしれません。
 弁護士の会計を監査する者がいないので、弁護士としても流用の誘惑を断ち切れないものが一定数いるのでしょう。また、被害にあってもすぐに発覚しないことも問題です。
 ①預り金口座の利用には、「特別の理由」が必要であり、②弁護士会からの監査を義務付けるくらいやらないと不祥事は減らないのではないかと思います。

(業務外の非行)
 10月号の8件の事案のうち、業務外の非行が1件ありました。
 事案としては、配偶者との離婚をめぐるやり取りで、配偶者の両親の一人に対し、「その肩付近を手で押し、その足をつかんで引きずる暴行を加え」、もう一人に対し、「その肩付近を手で押し、襟口付近と袖口付近をつかんで押す暴行を加えた」というものです。

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戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝

2021年10月25日 | 横浜BC級戦犯裁判
(戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝)
 花山信勝(はなやま しんしょう)は、東京裁判及び横浜BC級戦犯裁判の教誨師を務めた人物です。
 戦犯裁判では、未決・既決の区別なくの教誨が行われていたようです。
 死刑判決が多数でたこともあり、教誨師の役割は非常に重要でした。

(BC級戦犯についても教誨を行う)
 花山は、「巣鴨の生と死ーある教誨師の記録」(中公文庫)という著作を残しています。
 ウィキペディアでは、「1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会った」と記されており、A級戦犯の教誨を務めたという点のみ指摘されておりますが、BC級戦犯の教誨も行っていることも見過ごすことはできません。花山は、横浜BC級戦犯において死刑を宣告されたうち27人について付き添いを行っています。前掲書では1章を割いて27人の死刑前後の様子について記録しています(前掲書第4章「二十七死刑囚の記録」)。

(教誨師となった経緯)
 花山は、1898年金沢市生まれ、1924年東京大学大学院修了、1946~1959年、東京大学教授。退官後は、本願寺派の北米開教区開教総長を十年務める、との経歴を有しており、1995年3月に没しております(前掲書)。
 東京大学の教授を務めながら、教誨師を務めたことになります。
 花山は、教誨師となった経緯を次のように記しています。
 1946年(昭和21年)1月下旬のある日に花山は友人から「ある話」を聞きます。花山が聞いた話というのは、米軍が、巣鴨の拘置所で、日本の仏教僧を一人送ることを政府に対して要求している、司法省行刑局の第一課長中尾文策氏がその選考にあたって、仏教各界から物色しているというものでした。
 花山は、「では、君と二人で、二人三脚でやってみょうか」と気軽に話をしたのですが、その友人とやらは教誨師を受けなかったのでしょう、花山一人が教誨師の職につくこととなったのです。
 ところで、このエピソードからは、教誨師は、米軍が要求していたことがわかります。これは、米軍には従軍教誨師がいることと関係があるのでしょう。
 日本軍には教誨師がいたのかどうか…。そのようなことを聞いたことがなありませんが、いなかったとすれば、やはり彼我の文化の違いを感じざるを得ません。

(キリスト教の教誨師は米軍が行っていた)
 花山は仏教僧として教誨師となりましたが、キリスト教はどうだったのかというと、米軍が担当していたようです。
 「キリスト教徒の戦犯者については、米軍の従軍教誨師であるチャプレンがいるから、その人によって司式し、説教は、2世の通訳をつければ足るのだけれども、仏教については未知であるから、どうしても仏教の僧侶がいるということになったわけである。」と花山は記しています。

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横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯と渡邊治湟弁護士

2021年10月21日 | 横浜BC級戦犯裁判
(横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯)
 横浜BC級戦犯裁判は、横浜地方裁判所の法廷で1945(昭和20)年12月17日に、その第1号事件の審理が開始されたのですが(第1号事件は、ティーズ一等兵が被害者の事件です。過去記事参照)、日本人弁護人として渡邊治湟弁護士が決まったのは、その2日前である12月15日でした。
 12月15日、新聞は17日から横浜で軍事裁判を行うと報じました。
 この後の経緯については、史料により異なります。
 一つは、鈴木九萬外交官の昭和20年12月16日付本省宛報告書であり、もう一つは、横浜弁護士会史(上巻)です。
 前者には、新聞で横浜軍事法廷の開始が報じられた12月15日午後、第一復員省(元陸軍省)法務局担当官が鈴木九萬外交官と会い、「第1号事件の弁護人を東京弁護士会に依頼したが間に合わなかったので、弁護人選任を横浜弁護士会に一任したい」との話しがあり、鈴木外交官が当時横浜弁護士会の会長であった渡邊弁護士と会い、同弁護士が日本人弁護人になることの了解を取り付けたとあります。
 後者、即ち横浜弁護士会史によれば、渡邊弁護士のもとに来たのは、大日本弁護士連合会の林逸郎会長の使いの若い弁護士で、「明後日、日本で初の戦犯裁判が横浜で始まるので、弁護人をつけろといってきた。横浜弁護士会が引き受けるか否かで、永久に日本人弁護人が締め出しを食うかもしれん。兎も角引き受けろ。」と要請してきたからであるとなっています。
 参考文献1は、以上の両説をあげるだけで、どちらの説が信用できるのかについての考察を行っていません。
 以上、参考文献1により日本人弁護人選任の経緯について紹介しました。

(いずれの経緯が信用できるのか)
 このように参考文献1によれば、2通りの説があるという紹介のみがなされています。
 なぜ日本人弁護人が選任されるに至ったのかという経緯を解明することは、なぜ日本人弁護人が選任されなければならなかったのか、いったいどこがそのような発案をし、日本人弁護人をいつ選任しようということになったのかという問題点につながるものであり、重要であると考えます。
 しかし、この点については参考文献1においても問題意識がなく、両説を併記するにとどまっています。
 史料の質からすれば、前者、すなわち鈴木九萬外交官の報告書に軍配をあげざるをえません。鈴木九萬外交官の報告書は、本省宛の正式な報告書であり、報告書の作成日も12月16日であって、直後に作成されたものです。
 後者は、1980年に出版されており、渡邊弁護士は1973(昭和48)年にお亡くなりになっています。渡邊弁護士が書いたものが残されていたのか、口頭でのものを誰かが書き残したのかは不明ですが、いずれにせよ当事者が後で回想したものである可能性が高いと思われます。
 であれば、鈴木九萬報告書の方が信用性が高いのではないかと思われます。

(渡邊弁護士の経歴)
 最後に渡邊治湟弁護士の経歴等を記しておきます(参考文献2、3)。
明治32年生まれ。
大正11年10月20日は、横浜弁護士会に入会(弁護士として稼働)。
昭和20年横浜弁護士会会長。同年横浜BC級戦犯裁判第1号事件の日本人弁護人となる。
昭和48年1月31日、横浜弁護士会の登録を取消す。同年7月31日死去。
同弁護士の著作。
「戦犯弁護第一陣」(法律新報昭和21年2月号)
「公事方御定書の研究」(昭和58年:国立国会図書館蔵)

追記:参考文献3には、渡邊の経歴につき次のように記しています(同文献3では、「渡辺」としていますので、そのまま引用しました)。
「渡辺は小学校卒業した後、横浜地裁の職員として働いていた。その後中学の修了試験に合格し、苦学して弁護士の登用試験に合格した経歴を持つ。まだ大正時代である二十三歳の時から、横浜で事務所を開業していた。横浜弁護士会の会長をしていたのも、まじめで研究熱心なところと、請われれば人の先頭に立つことを厭わない性格が、多くの弁護士から支持されたためだった。」

参考文献1 「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」(横浜弁護士会)
参考文献2 「会長渡邊の決断ー戦後70年と横浜軍事裁判」(間部俊明:神奈川県弁護士会新聞2015年6月号)
参考文献3 「戦犯を救えーBC級「横浜裁判」秘録」(清永聡:新潮新書)


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藤谷竜児弁護士(2021年7月6日逝去:千葉県弁護士会物故者)

2021年10月20日 | 千葉県弁護士会
千葉県弁護士会に登録していた藤谷竜児弁護士が、本年(2021年)7月6日に逝去されたことを知りました。
謹んで哀悼の意を表します。
日弁連の会誌自由と正義2021年10月号に、同弁護士が死亡により弁護士登録が取消となったことが告示されていました。
同弁護士とは面識がありましたが、もう何年もお会いしていなかったので、これ以外の情報をもっておりません。私よりもお若かったはずです。
松戸市内の弁護士事務所に在籍をしておられたはずですが、同事務所のホームページもこれといった記載がなく、その事務所にお亡くなりになった当時もいたのかどうかすらわからずにおります。

【2022年4月追記】
藤谷竜児弁護士。千葉県弁護士会所属。2021年7月6日逝去。
司法修習50期。
細野卓司弁護士の事務所に入所。
2009年千葉県弁護士会副会長。
ユーカリ総合法律事務所に長年在籍していたが、2020年3月退所。

・参考文献
小見山大「藤谷竜児先生を偲んで」(千葉県弁護士会2021年度会報「槙」)




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小池金市弁護士の経歴と戦犯裁判後のこと

2021年10月18日 | 横浜BC級戦犯裁判
(飛鳥田一雄回想録による小池金市軍法務官の裁判)
 前回の記事で小池金市軍法務官が戦犯裁判の被告人となった事件をとりあげました。
 参考文献1から同事件をとりあげたのですが、今回、別の文献(参考文献2)を参考にすることができたので、その点から事件を補足しておきます。
 参考文献2は、小池金市軍法務官の弁護人を務めた飛鳥田一雄弁護士の回想録です。
 飛鳥田は大正4年4月生まれ。昭和14年に高等試験司法官試験に合格し、東京弁護士会所属の弁護士試補、16年7月1日には横浜弁護士会に登録しています。
 この弁護士試補の時代の同期生が小池金市でした。
 「忘れられないのは戦後のBC級先般の弁護だね。A級は東京だったけど、BC級は横浜地裁。あそこの特号法廷っていう一番でかい部屋で審理したの。ボクもかり出されて、七つばかり、事件を受け持ったよ。先般の中に、修習時代の同期生で小池金市ってやつがいてね。法務将校として入隊したんだけど、配属された台湾で、アメリカ兵十四人を起訴して死刑を言い渡した、その責任を問われたんだ。」(参考文献2)
 飛鳥田は、小池が「アメリカ兵十四人を起訴して死刑を言い渡した」と述べていますが、参考文献1によれば、起訴されたのはそのうちのアメリカ兵3人だけとされています。
 飛鳥田と小池はだいぶ親しかったようです。
「修習時代から「金ちゃん」「いちを君」って呼び合うすごく仲の良かった友達だったし、オレ頑張ったよ。」(参考文献2)
 飛鳥田が頑張ったとする弁護活動は、死刑となったアメリカ兵は、無差別爆撃をしていたという事実の立証を行ったことです。無差別爆撃は国際法違反であり、戦争犯罪となります。戦争犯罪を行ったアメリカ兵を、正当な手続きに則って行った小池軍法務官は何ら法に触れていないという論陣を張ったのです。
 飛鳥田は、「これが立証されたらアメリカも困るわけよ。こっちの作戦が分かると、検事が折れてきてね。有罪を認めてくれさえすれば、重労働三年の求刑で手を打とうっていうんだ。」(参考文献2)
 結局、この流れで、小池は事実を認め、重労働三年の求刑となったのです(もっとも、判決では重労働四年)。

(小池金市の経歴)
 参考文献3には小池金市の軍法務官に至るまでの経歴が記載されています。
 明治43年生まれ。出身は島根県出雲市。小学校卒業後、16歳で大阪に出て阪急電車の車掌として働く。法律家になることを目指して24歳のときに上京。中央大学の夜間専門部に入る。その後司法科の試験に合格し、昭和16年に弁護士を開業した。
 昭和19年、自ら志願して、法務見習士官となる。激戦のフィリピン赴任を希望したが、同年12月に台湾についた時には、既にフィリピンまで飛行機は飛ぶことができなくなっており、昭和20年1月に台湾軍へ臨時転属された。
 この台湾軍への配属のときに、戦犯裁判となったアメリカ兵への軍律裁判が行われたのです。
 
(小池金市の戦犯裁判後)
 参考文献1では、「小池は、釈放後弁護士に復帰して活躍し、東京および関東周辺十県の弁護士会の連合組織である関東弁護士連合会理事長などを歴任している」と簡潔な記載があるだけです。
 小池が釈放されたのは、昭和24年だったようです。小池の子息が生まれたのは、「3年の服役を経て巣鴨プリズンを出所した翌年の昭和25年だった。」(参考文献3)とあるからです。
 ここからは、①未決勾留されていたのと同じ巣鴨プリズンで、重労働の刑の執行も行われたこと、②小池にとって仮釈放はなかったか、あってもほとんどなかったことがわかります。
 もっとも、この点については、参考文献には明確に書いていることではなく、断片的な記載から推論したものなので、他の文献から補う必要があるところです。
 小池が関東弁護士連合会理事長となったのは、昭和49年度ですが(参考文献4)、その前に司法研修所の弁護教官を3年間(昭和37年4月から昭和40年4月)務めています。
 司法研修所教官のときには、修習生に対して、次のような話をしていたそうです(参考文献5)。
「民弁の故小池金市教官からは,財産三分法をアドバイスされた。報酬が入ったら全部使わず、3分の1は老後のため、3分の1は不時の出費のため蓄えろというものだった」
 非常に手堅い蓄財法をも教える良き教官であったことが窺えます。
 小池の没年は今のところ尋ねあたりませんが、105歳のときに参考文献3の著者の取材を受けており、長命であったことが知られています(参考文献3)。


参考文献
1 横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」
2 「飛鳥田一雄回想録」(1987年、朝日新聞社)
3 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
4 「残された課題ー戦後70年と横浜軍事裁判」(間部俊明著、2016年12月号神奈川県弁護士会新聞)
5 神山美智子「昔々の物語」LIBRA2020年7・8月合併号






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軍法務官が戦犯として訴追されたケース-横浜BC級戦犯裁判170号事件

2021年10月14日 | 横浜BC級戦犯裁判
(概要)
 本件の被告人は小池金市法務大尉です。小池大尉は、当時台湾軍の法務部に所属し、検察官の職務を行っていました。本件はその職務に関するものです。
 小池大尉は、台湾で捕虜になったアメリカ人飛行士を起訴しました。起訴されたアメリカ人飛行士は死刑の判決を受けて、処刑されたため、捕虜を違法に死亡させたという点が問題とされたのです。
 そのため、検察官のみならず、裁判官を務めたものも戦犯に問われました。台湾軍法務部の将校8人は上海のアメリカ裁判で裁かれましたが、小池金市法務大尉のみは横浜裁判で裁かれ、懲役4年の判決を受けました。

(起訴理由の概要)
 参考文献1によれば、起訴理由の概要は次のとおりです。
「小池金市は、台湾台北市所在の台湾軍法務官であったが、同軍軍法会議検察官に指名され、昭和20年5月21日ころ、虚偽活詐害的な証拠に基づいて米軍飛行機搭乗員3名を故意かつ不法に訴追して同年6月19日ころこの3名の不法殺害に寄与したこと、台湾軍軍法会議判士に指名されて同年5月21日ころ虚偽活詐害的な証拠に基づいて訴追された米軍搭乗員3名の審理に当たり搭乗員らに抗弁の機会を与えず、かつ公正なる審理を怠って死刑の判決を宣告し、もって同年6月19日ころ、この3名の不法殺害に寄与しこたこと、並びに同年2月より同年5月に至る間、米軍搭乗員3名の捜査を命じられ、周到かつ公正無私の捜査をなすことを故意かつ不法に怠って、同年6月19日ころ、この3名の不法殺害に寄与した。」
 なお、参考文献1は、ここに「軍法会議」とあるのは、「軍律会議」の誤りではないかと指摘しています。

(経過)
1947年
6月25日 被告人、軍事委員会から訴追される
9月9日 第1回公判
参考文献1には、本件の裁判官、検察官、アメリカ人弁護人の名前はなく不明。日本人弁護人は飛鳥田一雄弁護士です。
9月12日 第2回公判、判決 重労働4年
 被告人はこの判決に対して異議申し立て。
1948年
6月9日 被告人側、異議申立書を提出。
9月12日 異議申立てに対する決定。重労働4年という判決は承認するが、被告人の判決前の収容期間を考慮し、重労働期間中11か月半は免除する、との内容。

 (軍法務官とは)
 本件は、軍法務官が戦犯に問われたものです。
 戦前の日本には、特別裁判所として、軍法会議というものが存在していました。「会議」という名前がついていますが、会議を行うのではなく、これで軍事の裁判所という意味になります。根拠法令としては、陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法があり、いずれも1921(大正10)年成立、1922(大正11)年4月に施行されています。
 この軍法会議の裁判官役は、「判士」と呼ばれる武官(4名)と法務官という文官(1名)で構成されていました。武官は、法律のプロではありませんから、法律のプロは法務官のみということになります。検察官役も法務官が行いました。もっとも、検察官役を務めた場合は、その事件ではその法務官は裁判官役は務めず、別の法務官が裁判官役になります。
 法務官は検察官役、裁判官役が固定ではなく、ある事件では検察官役、別の事件では裁判官役というように、事件ごとにどちらかの役目を務めていたのです。
 軍法務官については、参考文献2および3があり、上記の記載もこの参考文献を参考にさせていただきました。

参考文献
1 横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」
2 西川伸一「軍法務官研究序説ー軍と司法のインターフェイスの接近ー」(2013年)
3 西川伸一「戦前期日本の軍法務官の実態的研究ー軍法務官193人の実名とその配属先をめぐって」(2014年)」


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千葉県の睦沢町歴史民俗資料館での企画展、「太平洋戦争 日本史上最大の歴史体験」

2021年10月11日 | 歴史を振り返る

千葉県の睦沢町歴史民俗資料館での企画展、「太平洋戦争 日本史上最大の歴史体験」を見てきました。
 今年、墜落した零戦が千葉県内の休耕田から見つかり、それらを含めた展示がされています。
 

朝日新聞にも書かれていますが、当初は9月までの予定だったのですが、好評なためか12月まで展示期間が延びています。







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日本での死亡者数の増加

2021年10月07日 | 相続関係
 高齢化社会というのは、出生数の減少、死亡者数の増加の2つの要素が同時に生じていることから起こります。
 死亡者数の増加は、相続に絡む問題が増えるということを示しています。
 どのくらいの人数が1年間に死亡しているのかを、令和2年版高齢社会白書から見てみましょう。
  2006年 108万人
  2010年 120万人
  2018年 136万人
 以上は確定値です。
 2006年から12年間で28万人死亡者が増えています。 
 今後はどうなるでしょうか(以下、前記白書による推計値)。
  2025年 152万人
  2030年 160万人
  2040年 168万人
 2040年が死亡者数のピークとされており、この後は徐々に死亡者が減りますが、それでも2065年に156万人と現在よりも多くの人数がお亡くなりになると推計されています。
 人が死亡すれば相続が起こりますから、相続件数も増加しますので、法律的な処理が各所で増えることは間違いありません。

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ティーズ一等兵傷害致死事件−横浜BC級戦犯裁判1号&75号事件

2021年10月04日 | 歴史を振り返る
 本件は、長野県平岡村(現天竜村)に所在した満島俘虜収容所に収容されていた米軍のティーズ一等兵が、1943年3月5日ころ、看守等により暴行を受け、死亡したという傷害致死事件です。

1 横浜裁判1号事件
 被告人はT軍属です。軍属とは、軍人以外で軍隊に所属する者。
 T軍属は、当時満島俘虜収容所に勤務していましたが、他の者と共同してティーズ一等兵に対して暴行を加えたということ等で起訴されました。
(裁判官)トレッチャー裁判長他
(検察官)ゲッヘン主任検事他
(アメリカ人弁護人)デッキンス中佐以下10名。
(日本人弁護人)渡邊治湟
 第1回公判 1945年12月18日
 判決日 同月27日
 判決内容 重労働終身刑(ティーズ一等兵傷害致死事件につき有罪、他2件につき有罪)(求刑・死刑)

2 横浜裁判75号事件 
 1号事件ではT軍属のみ起訴されていたが、その他の被告人は75号事件として起訴されたようです。
 6名の警備員及び満島分所長が起訴され、分所長以下に絞首刑が言い渡されました。
 判決日 1947年2月21日判決
 執行 1948年8月21日

参考文献 横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」
(同書の概要は2017年4月の過去記事

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