明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 信濃-帰郷編(完) 5月18日-5月27日
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五月十八日 #明治18年伊勢参詣
牟礼を出立。一里二十六丁で古間村、同村から十七丁で相原村、同村から三十四丁で野尻駅、同所から三十丁で関川駅。村越平衛門方で昼食。
関川から三里二十五丁で関山駅、同駅から三十四丁下って新井村、同村から壱里二十丁の高田駅までは(人力)車に乗る。茨城屋紋右衛門殿で泊。宿料十六銭。
(コメント)
・本日は北国街道を高田(越後高田;現新潟県上越市)まで進みました。
牟礼駅〜高田城まではグーグル地図では約49 km。途中からは人力車に乗ったとはいえ、かなりの移動距離です。
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五月十九日 #明治18年伊勢参詣
高田を出立。大雨。高田から黒井までは馬車に乗る。柿崎駅の住吉屋善平殿方で昼食。山道三里、米山峠を越えて鯨波。同所から一里で柏崎。天王屋三太夫殿方で泊。宿料十八銭。
(コメント)
本日は、越後高田(上越市)〜柏崎(柏崎市)。グーグル地図では約45 km。今日もほぼ移動です。
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五月二十日 #明治18年伊勢参詣
柏崎を出立。雨。一里十八丁行き、荒濱。同所から二里で宮川駅。二十四丁で椎谷駅。それより三里の出雲崎で昼食。
出雲崎から寺泊までの四里は(人力)車に乗る。寺泊から三里で弥彦に到着。みのや弥市殿方で泊。二十二銭。
(コメント)
本日は、柏崎(柏崎市)〜弥彦(西蒲原郡弥彦村)。グーグル地図では約53km。雨の中ひたすら移動です。ここのところ宿泊料は二十銭以下が続いていましたが、弥彦では二十二銭。弥彦神社の参拝客で賑わっていたことが、宿泊料からも窺えます。
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五月二十一日 #明治18年伊勢参詣
越後一ノ宮の官幣中社、弥彦神社を参拝。(人力)車に乗り赤塚まで行く(この間四里)。赤塚から二里で内野駅。和泉屋藤助殿方で昼食。
同所から三里、新潟港古町通五番通町の住吉屋栄太殿方で泊。宿料二十四銭。
(コメント)
・本日は弥彦神社を参拝。寺社を参拝したのは、5月17日の善光寺以来です。この3日間はひたすら移動でした。
・本日は新潟まで移動。新潟の宿泊料は24銭であり、この旅で2番目の高さ。1位は有馬温泉の25銭であり、大阪でも22銭でした。新潟の人のにぎわいがこの点からも窺えます。
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五月二十二日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。新潟港の港内を見物。次いで白山神社を参拝。社内は皆公園地である。新潟の議事堂、県庁、裁判所等を見物。日和山から海を眺める。佐渡ヶ島まで見えて風景佳し。地引網を見物し、午前十二時には宿に戻る。
(コメント)
本日は新潟の街を見学。
住吉屋栄太殿方には連泊です。
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五月二十三日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。新潟を出立し、小舟で亀田駅まで行く(里程三里)。同所から二里、窪ケ原で昼食。同所から三里で安田駅。さらに二里で小松村到着。川上屋長治郎方で泊。宿料十七銭。
(コメント)
新潟を出立し、会津若松へと向かいます。
本日は新潟〜小松(阿賀野市小松)。グーグル地図では30 km。
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五月二十四日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。小松村を出立。二里行き、岩谷村。同村内には平維茂公の石碑がある。将軍杉という大木があり、その大木を切ろうとしたところ、前日には枝下が十間もあったものが、枝全てが残らず土中に入ってしまい、大木を切る事ができなかったという。
岩谷村から一里で白崎、さらに三里で津川駅に着き、昼食。
津川駅から二里で栄山村、同村から一里で福取村、又半道で八ツ田。同所から二里で野尻に到着。村松屋林吉殿で泊。宿料十五銭。
(コメント)
・本日は小松(新潟県阿賀野市小松)〜野尻(福島県耶麻郡西会津町上野尻)。グーグル地図では41 km。新潟県から福島県に入りました、常吉たちの家も近くなっています。
・途中、岩谷村(所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷)で平等寺薬師堂、将軍杉を見ています。
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五月二十五日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。野尻を出立。二里で野沢、さらに四里で柳津に到着。虚空蔵尊を参拝し、昼飯を取る。気多宮まで行き、同所から(人力)車で若松へ(五里)。川原町山中へで泊。
(コメント)
・野尻(西会津町上野尻)を出立し、若松
(福島県会津若松市)に着きました。
常吉たちの家(猪苗代町)まではあと少しです。
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五月二十六日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。この日は若松に滞在。
(コメント)
今日は会津若松に滞在です。
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五月二十七日 #明治18年伊勢参詣
若松から出立。天気曇り。二里行き、大寺。同所から一里半、午前十一時頃、御上覧場に着く。出迎える人多数。宴会を催す。土津神社・磐椅神社を参拝。社内で分酒を開く。三時間ほど親類連中の門を巡った後、目出度く帰宅。
(コメント)
御上覧場(福島県耶麻郡猪苗代町大字長田地内)で坂迎えが行われました。坂迎えとは、
旅から郷里に帰る人を、国境・村境などに出迎えて供応すること。その後、親類連中に挨拶をして、ようやく帰宅となりました。
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 近江-善光寺編 5月10日-5月17日
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五月十日 #明治18年伊勢参詣
高宮を出立。雨。約三十丁の脇街道を行き、御多賀大社を参拝。三十丁の峠を越えて、鳥居本で昼食。十銭。
醒ヶ井から(人力)車で垂井駅まで。四里、賃金十四銭。垂井の亀丸屋金兵衛方で泊、宿泊料十七銭。
(コメント)
・高宮(現彦根市高宮町)のことは全く知らなかったのですが、調べてみると、天保14年(1843)当時で総戸数835軒、人口3560人、中山道第二の大きさで(一位は本庄)、本陣1、脇本陣2、旅籠数23などの施設を持つ宿場だったそうです。
・高宮は、多賀大社一の鳥居が宿中程に建っており、同社の門前町という性格も持っています。多賀大社は、中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わい、「お伊勢参らば多賀へ参れ」といわれたほど。常吉たちが多賀大社を訪れたたのもこの辺りを念頭に置いてのことでしょう。
・一行は中山道を通っています。
本日出立したのは高宮宿。途中、多賀大社に寄りましたが、昼食を取った鳥居本宿は高宮の次の宿です。
鳥居本⇒番場宿⇒醒井宿、この間は歩いて移動したようですが、醒井宿〜垂井宿は人力車。
ちなみに、醒井宿〜垂井宿間の宿は、
醒井宿⇒柏原宿⇒今須宿⇒関ヶ原宿⇒垂井宿です。現代であれば、関ヶ原の古戦場を見物するところですが、常吉たち一行に古戦場を見る習慣はなかったようです。会津城が攻められ、会津藩士たちが酷い扱いを受けたことの記憶が生々しい時代であり、古戦場を眺める余裕などなかったのかもしれません。
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五月十一日 #明治18年伊勢参詣
垂井を出立。天気晴天。赤坂まで一里半、名物の石工芸あり。赤坂から五里半で加納駅、立花屋忠八殿で昼食。料金は九銭。
同所から五里で今渡村、綿屋文吉殿で泊、宿泊料十七銭。
(コメント)
・午前中に垂井から加納まで移動しています。常吉たちが今歩いているのは中山道。江戸時代の垂井から加納までの宿場は、
垂井宿⇒赤坂宿⇒美江寺宿⇒河渡宿⇒加納宿
の順です。加納は、現在の岐阜市です。午前中だけでこの移動距離はすごいです。常吉日記によれば7里移動したことになります。
・午後は加納から今渡まで移動しています。
今渡(現岐阜県可児市今渡)は、中山道の宿場ではありません。太田宿(現岐阜県美濃加茂市太田町)からから木曽川を渡ったところを渡ったところにある町です。この渡しあります。
(太田の渡し)には、常吉たちが訪れたときも橋がありませんでした。太田の渡しは、中山道三大難所の一つとされ、明治時代にはワイヤーを用いた岡田式渡船による渡し舟が運航されたそうです。橋が完成したのは、1926年(大正15年)のこと。今では橋は当たり前ですが、明治時代はそうではなかったのですね。
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五月十二日 #明治18年伊勢参詣
今渡を出立。天気晴天。三里で御嵩村。同所から二里は(人力)車に乗り、次月村(しづき)へ。賃金五銭。同所からは峠を越える。三里で釜戸村。同所から三里馬車で行き、大井駅。賃金六銭。松島屋三郎兵衛殿で泊、宿泊料十八銭。
(コメント)
・本日は今渡〜大井駅(大井宿)。
今渡からの中山道の宿場は、伏見⇒御嶽⇒細久手⇒大湫⇒大井の順です。
大井宿は、現在の恵那市大井町。
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五月十三日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。大井から馬車に乗り中津川まで行く。二里半、賃金六銭。山路の登り下りが悪路。馬龍峠、綿屋忠七殿で昼食(六銭)。同所から六里で野尻駅、加納屋儀右衛門殿宅に午後四時着。同所泊、宿料は十六銭。
(コメント)
・本日は大井駅(大井宿)〜野尻駅(野尻宿)。大井からの中山道の宿場は、大井⇒中津川⇒落合⇒馬籠⇒妻籠⇒三留野⇒野尻
の順です。
野尻宿は、現在の長野県木曽郡大桑村野尻です。今日もひたすら中山道を東京方面へと向かう旅です。
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五月十四日 #明治18年伊勢参詣
野尻を出立。晴天。木曽川に沿って四里進み、寝覚村に到着。越前屋喜兵衛殿で昼食。名物のそば、料金八銭。裏の川の中央に浦島太郎の旧跡あり。川を見渡すと、多数の岩が並んでいる。 川の幅は約五間ほどであるが、川の深さは何丈に及ぶのであろうか。浦島太郎が腰を掛けて釣りをしていた岩や釣り竿が今も残っている。風景は非常に佳し。
一里進むと、木曽の桟(かけはし)に到達。この橋は昨十七年の洪水で流されたという。男女岩あり。西側はみな大岩で風景は特に美しい。六里半進んで藪原に到着、川上屋作右衛門殿に泊、宿料十六銭。
(コメント)
本日は野尻〜藪原。藪原からの中山道の宿場は、藪原⇒須原⇒上松⇒福島⇒宮ノ越⇒藪原の順です。
藪原宿は現長野県木曽郡木祖村藪原。
今日もひたすら中山道を東京方面へと向かう旅ですが、途中寝覚村で浦島太郎の旧跡を見ています。ここは「寝覚めの床」という景勝地です。花崗岩地帯を木曽川が削り、姿を現したもの。花崗岩特有の割れ方が、大きな箱を並べたような不思議な造形をもたらしているのです。
浦島伝説の地でもあります。浦島太郎が竜宮城に行った後の後日譚のようです。 諸国漫遊の旅に出た浦島太郎が、寝覚の床にやってきて魚釣りをしたという話しが伝わっているようです。
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五月十五日 #明治18年伊勢参詣
薮原を出立。晴天。村端には鳥居峠あり。登り下り各三十町、奈良井村に着。一里三十町進んで贄川。同所から二里で本山駅。中扇屋彦三郎殿で昼食(料金八銭)。
その後、馬車で浅間温泉へ。賃金は十四錢。午後五時ころ浅間温泉に着。地本屋形三殿方で泊、宿料十八銭。
(コメント)
本日は藪原〜浅間温泉。中山道を藪原⇒贄川⇒本山⇒洗馬(せば)と辿り、ここで中山道と分かれて、善光寺へ通ずる北国西街道を行きます。「浅間温泉」は、現松本市浅間温泉です。松本城下を通過しているはずですが、見学もせず、一行は善光寺を目指して旅路を急いでおります。
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五月十六日 #明治18年伊勢参詣
浅間温泉を出立。天気晴天。刈谷原峠を登る。二十町で頂上、隧道が八十間、一里下ると刈谷原駅。同駅から一里で會田駅。
立峠にかかり、峠頂上の見晴屋忠助殿で昼食。料金六銭。
同所から二里で青柳、青柳から一里十丁で麻績駅。猿ヶ馬場峠に掛かり、一里進んで頂上からは姥捨山を見物。稲荷山駅に到着。丸屋平衛門殿で泊。宿料十五銭。
(コメント)
・一行は善光寺を目指して北国西街道を進んでいます。本日は浅間温泉〜稲荷山駅(稲荷山宿;現長野県千曲市)。同街道の宿場は
松本⇒岡田⇒刈谷原⇒会田(ここまで長野県松本市)⇒青柳(長野県東筑摩郡筑北村)⇒麻績(長野県東筑摩郡麻績村)⇒桑原⇒稲荷山(ここまで長野県千曲市)です。
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五月十七日 #明治18年伊勢参詣
稲荷山を出立。天気悪し。一里進んで篠ノ井駅、その後二里進んで丹波島駅に至り、更に十六丁進んで善光寺駅に十時に到着。善光寺様を参拝。大門町の扇屋金四郎殿で昼食(料金は六銭)。雨が降りだしたので、(人力)車で牟礼駅に移動。その間の距離は四里、料金は十五銭。牟礼駅の和久屋政衛門殿で泊。宿料は十六銭。
(コメント)
・常吉一行は稲荷山⇒篠ノ井⇒丹波島宿(篠ノ井・丹波島は現長野県長野市)と進み、善光寺に到着しました。
・善光寺を参拝し、大門町(現長野市善光寺大門町)で昼食。雨が降りだしたので、牟礼(現長野県上水内郡飯綱町牟礼)まで人力車で移動しました。善光寺からは北国街道となり、越後高田方面に向かいます。
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 神戸−京都、近江編 5月2日-5月9日
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五月二日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。兵庫、神戸を見物。湊川神社を参拝。海邊には外国人の家。家の前は皆公園地であり、風景佳し。三ノ宮から汽車に乗り、住吉へ(里程二里半)。賃金九銭。住吉からは山。登り道二里、下り道一里で有馬温泉。午後三時頃、有馬温泉の池ノ坊直助方に着。同所にて泊まる。温泉に入浴。泊料二十五銭。
(コメント)
・湊川神社は、現神戸市中央区多聞通にある神社。祭神は楠木正成。明治になってから創建された神社です。明治創建の神社としては、豊国神社がありました(4月22日条)。常吉たちは古来からの神社仏閣だけでなく、最近できた神社もまめに回っています。
・外国人居住地を見学。これも明治ならではです。東京では築地の外国人居留地を見学し、「異人館」と記していましたが、今日は「外国人家」と表現しています。
・三ノ宮から住吉まで汽車。これもまた明治になってからのものです。常吉たちは、関東では、川崎から横浜までも汽車に乗っていましたが(3月25日条)、関西でも汽車を体験しています。関西では1874(明治7)年に大阪駅 - 神戸駅間に鉄道が開業しています。
・住吉からは徒歩で六甲山を越え、有馬温泉へ。温泉宿だからでしょうか、他よりも宿代が高いです(25銭)。
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五月三日 #明治18年伊勢参詣
有馬を出立。天気晴天。有馬から山路を四里。この山は景色が特に美しい。西ノ宮に到着し、西ノ宮神社を参拝。郡司利兵衛方で昼食。料金は七銭。その後六里進む。尼ヶ崎ではあちこちに川があり、橋の通行料を取られること多し。大阪の戎橋西詰の大和屋称三郎方で泊。宿料は二十二銭。
(コメント)
・有馬温泉から西宮方面へ。晴天であり、山上から瀬戸内海を臨み、常喜たちのモチベーションも上がっているようです。
・尼崎付近では川を渡るのに、橋の通行料を結構取られています。明治になって橋を新設して、有料の橋となっていたのでしょう。
・道頓堀戎橋際にある大和屋にて泊。ここは一度泊まっています(4月20日条)。
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五月四日 #明治18年伊勢参詣
大阪を出立。天気晴天。淀川を蒸気船に乗り、橋本まで川を遡上。賃金十五銭。そこから十八丁進み、石清水八幡宮を参拝。非常に立派な大社である。同所から二里半進み、伏見。福田屋元吉方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・大阪を出立し、淀川を蒸気船で遡ります。
橋本でおりて、石清水八幡宮を参拝。橋本は、現京都府八幡市の地名です。
・石清水八幡宮から伏見までは徒歩。本日は伏見に泊まります。
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五月五日 #明治18年伊勢参詣
伏見を出立。雨。官幣大社御香宮および府社藤森神社、官幣社伏見稲荷大社を参拝。その後、京都に行く。官幣社豊国神社や三十三間堂、大仏を参拝。大仏の高さは九百一尺。桃山御殿も参拝。午前十一時、西京(京都)三条橋東詰の扇屋正七方(宿所)に荷物を置き、午後二時から御所と博物館を見学。午後五時頃に宿に戻る。泊料は二十二銭。西京(京都)で三日間滞在予定。
(コメント)
・伏見を出立して、伏見の神社を参拝。参拝したのは、官幣大社御香宮、府社藤森神社及び官幣社伏見稲荷大社です。本日の日記から神社に「官幣大社」等との記載がつけられています。
官幣社とは、近代社格制度においては、皇室から幣帛(へいはく)を奉った、社格の高い神社のことで、大社・中社・小社・別格官幣社があります。府社は、府から幣帛 を供進した神社です。近代社格制度は明治に創設され、戦後に無くなりました。
・京都の大仏が、豊臣秀吉により建立されたことは有名ですが、破却されました。これは初代大仏で、江戸時代に2代目〜4代目大仏が造られています。4代目が造られたのは、天保14年(1843年)。常吉たちが見たのは、この大仏です。4代目大仏は1973年(昭和48年)に失火によって焼失し、以後再建されておりません。
・「桃山御殿」とは、養源院のこと。は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。
・京都のことを「西京」と呼んでいるのが興味深い。東京に対する語でしょうが、今では使われていません。京都府立大学は、1949年に「西京大学」として新設されましたが、1959年には京都府立大学と改称しており、この辺りで「西京」は使われなくなっていったのでしょう。
・「博物館」。京都の国立博物館は1897年(明治30年)に開館ですので、常吉たちのみたものは、国立博物館ではなく、府営博物館と思われます。しかし、ウィキペディアには以下のような記載があり、これを前提とすると、明治18年には博物館は存在しないことになっています。常吉たちが見た博物館とは何だったのでしょう。
「京都には帝国京都博物館開館以前に府営の博物館があった。府営博物館は1875年(明治8年)、京都御所の御米倉に設けられ、翌1876年に河原町二条下ルの府立勧業場に移転したが、1883年(明治16年)に閉鎖されている。」
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五月六日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。市中見物し、神社仏閣を参拝。寺町通の法華宗本山の本能寺、同寺は信長公の寺である。西国第十九番札所である一条革堂。御霊神社、禁裏御所を訪れる。官幣大社下鴨神社では、社内には柳の夫婦の木あり。浄土宗本山の百万遍、官幣中社の吉田神社。銀閣寺は足利八代義政公の寺である。真如堂、净土宗総本山の黒谷寺には熊谷直実の墓あり。また、会津藩の墓もある。浄土宗総本山の知恩院。華頂山の大谷寺は、三大将軍家光公の建立である。大釣鐘あり、厚さ九寸五分、幅九尺五寸、高さ一丈三尺で、重さ二万貫目である。青蓮院では千畳敷の座敷も拝見。さらに、官幣中社の八坂神社では、祇園午頭天王社、八坂ノ塔に上る。西京(京都)を眼下に見渡す。西国十六番札所である清水寺では音羽ノ滝を見る。西大谷寺にはお俊伝兵衛の墓あり。西国十七番札所の六波羅蜜寺など、古い神社や寺も参拝。午後六時頃に宿に戻る。
(コメント)
・常吉たちは京都には三泊予定です。今日は京都の寺社をたっぷりと参拝しています。
・本能寺⇒一条革堂(行願寺)⇒御霊神社⇒下鴨神社⇒百万遍⇒吉田神社⇒銀閣寺⇒
真如堂⇒黒谷寺⇒知恩院⇒大谷寺⇒青蓮院⇒八坂神社⇒清水寺⇒六波羅蜜寺⇒宿
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五月七日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天、日蓮宗の立本寺(西国十八番札所)、官幣中社の北野天満宮、御室の御所を訪れる。嵐山では、桂川の流れ。川岸に遊歩小屋が建てられ、その景色は特に美し。官幣大社の松尾神社、嵐山の虚空蔵や東西本願寺も参拝。午後六時に宿に戻る。
(コメント)
・本日も京都の寺社の参観です。
・立本寺⇒北野天満宮⇒御室の御所⇒嵐山⇒松尾⇒嵐山の虚空蔵⇒東西本願寺⇒宿。
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五月八日 #明治18年伊勢参詣
京都を出立。晴天。山道三里で、比叡山へ。山内には寺院多数。
その後、唐崎の松を見物。松下にある官幣大社日吉神社を参拝。五十丁で三井寺。弁慶の引釣鐘観音社を参拝。同所から琵琶湖の湖水を目の下に見る。近江八景なども眼下に見る。その風景は特に素晴らしい。大津駅の札の辻󠄀、桝屋徳兵衛方に泊。宿料は二十銭。
(コメント)
・京都をたっぷりと見た後、一行は比叡山を越えて、延暦寺へ。
・山を降りて、日吉神社へ。唐崎の松を見物。この松は、歌川広重が描いた唐崎夜雨(近江八景)にも登場します。松に対する愛着は強いですね(5月1日条)。
・「 弁慶の引き摺り鐘」
・近江八景
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五月九日 #明治18年伊勢参詣
天気は曇り。石山寺を参拝。月見堂から近江八景を遠望する。その風景は特に美しい。瀬田の唐橋を渡る。草津の藤屋与左衛門方で昼食。十銭。
草津から(人力)車に乗って高宮に到着。距離十里、運賃二十五銭。かぶとや忠蔵殿で泊。宿料は二十銭。
(コメント)
・大津を出立し、石山寺。同寺からも近江八景を遠望しています。
・瀬田の唐橋を渡り、草津で昼食。その代金は10銭で、宿料(20銭程度)の半額はかなり高い。現代では外食が気軽にできますが、この時代は外食自体がかなりの贅沢だったのでしょう。
・草津からは人力車を使って、高宮へ(現滋賀県彦根市高宮町)。高宮は中山道の宿場町。中山道の宿場町は、草津⇒守山⇒武佐⇒愛知川⇒高宮ですから、草津からはかなりの距離があります。常吉日記にも「距離十里」(40キロ)と書かれています。しかし、運賃は25銭で、宿泊代金とさほど変わりません(有馬温泉での宿泊代金が25銭でした)。
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 宮島、広島、金毘羅−兵庫編 4月24日-5月1日
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四月二十四日 #明治18年伊勢参詣
午前六時、宮島の亀屋福松方に着。亀屋方で朝食。宮島を見物。奥の院へ十八丁、宮島の御山ら大石散じて大石より海を見渡せば、甚だ風景佳し。眼下には紅葉茶屋が有る。 また、川があって、あちこちに小滝がある。
。滝に添って休屋が造られており、風景佳し。また豊臣秀吉公が造った千畳敷の塔あり。近くには五重塔。いずれも宏大で風景甚だ佳し。
宿へ帰って昼食。宮島から小舟で広島へ。午後四時頃着。大手町の津森直助方で泊。宿料は二十銭。
(コメント)
午前は宮島。昼食後、宮島から広島へ船で移動し、広島で泊。
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四月二十五日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。広島市内を見物。広島城址、鎮台等を見る。二月社を参拝。
宿へ帰って昼食。午後六時、小舟で宇品港に戻り、岡千保丸という蒸気船に乗り、真夜中に四国の多度津港へ向けて出帆。
(コメント)
午前中は広島市内を見物し、午後には広島から宇品港に戻りました。同港からは蒸気船に乗り換え、真夜中に四国に向けて出帆しています。
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四月二十六日 #明治18年伊勢参詣
午後一時ころ、多度津港へ着。多度津までは宇品港から海上を五十里、賃金は一円二十五銭。多度津から一里で善通寺という寺に着く。この寺で弘法大師が御誕生になられた。午後四時に金比羅町に着く。虎屋惣右衛門方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・昨夜遅く広島の宇品港を出帆し、午後一時に多度津港(現香川県仲多度郡多度津町)に到着。
・多度津から善通寺へ。善通寺は弘法大師が誕生した場所といわれております。
・善通寺から金比羅町(琴平町)に移動し、同町で泊まりです。
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四月二十七日 #明治18年伊勢参詣
めでたいことに金毘羅大社を参拝することができた。多度津港へ戻る。桝屋彦平方(七階建)で昼食。 小舟で備前下津井まで移動(海上五里、賃金二十三銭)。笹屋三六方で泊。宿料二十銭。
(コメント)
・昨夜は金毘羅の門前の宿に泊まりましたので、朝イチで金毘羅大社を参拝。多度津港へ戻ります。
・昼食後、小舟で備前下津井へ(現岡山県倉敷市下津井)。本日は金毘羅大社参拝以外は移動ばかりでした。
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四月二十八日 #明治18年伊勢参詣
下津井を出立。天気良し。同所から九十丁で龍ヶ山にある由加神社。同社を参拝。
同社から十三丁で尾原駅。今屋嘉平方で昼食(五銭)。尾原駅から百丁で備中吉備津神社、さらに十五丁で備前の吉備津彦神社。それぞれ参拝。同社から(人力)車で岡山まで乗る(賃金十三拾三銭)。京橋東詰の西中島町。阿波屋治作方で泊。宿料は十七銭。
(コメント)
・下津井(現倉敷市下津井)を出立。下津井港は、江戸時代から明治のはじめにかけて西回りの北前船の中継地として繁栄していとました。
・由加神社(現倉敷市児島由加)を参拝。
同社は、江戸時代から明治にかけて金毘羅大社との両参りがブーム。常吉たちが同社をお参りしたのも、そのためです。
・由加神社から北参道を下って尾原(現倉敷市尾原)。尾原で昼食をとった後、吉備津神社、吉備津彦神社を参拝し、岡山まで人力車で移動しています。
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四月二十九日 #明治18年伊勢参詣
岡山から出立。雨。馬車で一日市まで行く(四里)。香登村の信濃屋栄治郎方で昼食。
そこから大内村まで行く(三四丁)。同村の戸長宅に臥龍の松がある。高さ二丈余、巾は三十五六間である。
大内村から片上に移動(二里)。入海を小舟で行き、赤穂塩浜に午後八時頃着。城市まで十八丁、紙屋町の浜方屋庄助方で泊。宿料十八銭。
(コメント)
・本日もあいにくの雨。この旅はだいぶ雨に降られています。岡山からは馬車。一日市(ひといち;現岡山市東区一日市)までは馬車の便があったのでしょう。
・本日は大内村の臥龍の松を見物した以外は、ほとんど移動です。赤穂塩浜(現赤穂市)で泊まり。
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四月三十日 #明治18年伊勢参詣
赤穂から出立。天気晴天。播州灘を小舟に乗り、飾磨(しかま)湊に午後一時頃上陸(海上六里)。賃金は昼食付で十四銭。一里行き、姫路城下に至る。市中は賑わっている。御城を見物。城内には鎮台兵がいる。
曽根村へ行き(二里)、天満宮を参拝。名松あり。かつて菅公相(菅原道真)が植え、現在のは二代目の松であるという。甚だ佳し。
十五丁行き、石の宝殿。高見倉の神社を参拝する。神社の後ろにはニ三間四方の大浮岩がある。神社の内外は皆岩であり、大岩に添って所々に松がある。甚だ佳い風景である。
高砂まで五十丁。廣田屋惣兵衛方で泊 。宿料二十銭。
(コメント)
・赤穂に泊まった一行は、播州灘を小舟に乗り、飾磨(しかま)湊に到着。飾磨は現姫路市飾磨区。飾磨津は播磨灘に面しており、港湾として栄えていました。かなり埋立てられてしまっていますが、小豆島行きのフェリーが飾磨からは出ています。
・飾磨で船を降りた一行は、姫路城へ。徒歩で一里。
・姫路城。城内には鎮台兵(陸軍の兵士)がいるのは、名古屋城と同様です(四月六日条)。名古屋では城内を見ることすらできなかったのですが、姫路では城内見物をしています。
・曽根村の天満宮は、曽根天満宮。現兵庫県高砂市曽根町。菅原道真ゆかりの「曽根の松」が有名。常吉たちが見たのは2代目ですが、この松も枯死して、現在は5代目の松だそうです。・石の宝殿。高砂市の竜山丘陵にある生石神社(おうしこじんじゃ)の神体として祭られている巨石。日本三奇の一つといわれており、シーボルトの「日本」にもスケッチが収録されています。
・本日は高砂(現兵庫県高砂市)で泊まります。
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五月一日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。高砂で相生の松を見物。
十八丁行き、尾上神社で尾上の松がを見物。藤の白花は満開であり、風景甚だ佳し。
濱天満宮を参拝。別府村で手枕の松を見物。
明石まで行く(四里)。王子橋西詰山本屋藤衛門方で昼飯。料金九銭。
(人力)車で柿本の人丸神社(柿本神社)に行き、参拝。市中より高所にあり、見渡せば浜には松が並んでいて、向いには淡路島。海には蒸気船が往復している。風景甚だ佳し。
一ノ谷に行き、平敦盛公の御墓を参拝。 源平戦争場と須磨寺を参拝。
兵庫に行き、和田岬を見物。岬は市中海中に出ること約一里位であり、遊歩している人が多い。兵庫の福屋庄兵衛方で泊。宿料二十銭。
(コメント)
・午前は、相生の松(高砂市)、尾上の松(加古川市尾上町)、手枕の松(加古川市別府町東町)の見物。この辺り、現代とは感覚が違うのかもしれません。
・明石(現明石市)では柿本の人丸神社(柿本神社)を参拝。白砂青松、向いには淡路島、海には蒸気船を見ることができ、風景に感動しています。
・一ノ谷(現神戸市須磨区)。平敦盛公の御墓は、現在は神戸市須磨区の須磨浦公園にあります。
・兵庫に行き、和田岬を見物。和田岬は、明治時代中期以降に、先端部に三菱造船や川崎造船所等の重工業が進出して工業地域として発展していきましたが、常吉たちが見た風景は失われてしまいました。
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 奈良、高野山、大阪、広島編 4月15日-4月23日
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四月十五日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。奈良の名所猿沢池を訪れる。衣掛柳あり。春日神社、大佛様等を参拝する。苑に博覧会、また、三笠山、手向山等も見え、風景佳し。十二時に宿へ戻り昼食。
午後は大和七寺の内、法華寺、西大寺、菅原天神、唐招提寺、西の京を参拝。皆宏壮であるが、屋根等が破損している。
夜は、法隆寺大黒屋鶴松方へ泊。宿料二十銭。
(コメント)
・奈良に着きました。見どころは沢山ありますが、まず訪れたのは猿沢池。興福寺の放生池。周囲は360mほどですが、興福寺五重塔が近くにあり、それとあいまって美しい風景となっています。「猿沢池月」 は南都八景のひとつ。衣掛柳というのは、采女が衣を柳に掛けて入水してしまったという話しなので、その柳が明治時代に本当に存在したというわけではないのでしょうが、常吉は「衣掛柳あり」と記しています。現在では、衣掛柳の碑があるのみです。
・春日神社、奈良の大仏。これは現代でも有名ですから、コメントの要はありませんが、「苑に博覧会」という記載が興味を惹きます。これは、奈良博覧会です。奈良博覧会は、明治8年、東大寺大仏殿・回廊で初めて開催され、明治27(1894)年までに18回開催されたそうです。
・常吉たちは、昼食後、大和七寺を廻っています。寺は「屋根等が破損」しており、荒廃している様子も常吉は記しています。廃仏毀釈の影響は、明治18年にもまだ残っていたようです。
・法隆寺までたどり着き、寺近くの宿に泊まっています。
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四月十六日 #明治18年伊勢参詣
法隆寺近くの宿を出立。天気良し。法隆寺を参拝した後、龍田に行き、龍田神社を参拝。その後、達磨寺に行く。達磨大師の古跡有り。五十丁先に染井寺(石光寺) という寺有り。昔、中将姫が井戸の水を五色に染めたため、染井戸という。寺もそのゆかりから、染井寺という。
そこから、七・八丁行き、當麻寺を参拝。
當麻寺から一里半位行き、高田に到る。辻屋甚三郎方で昼食。十五銭。
そこから四十丁行き、神武天皇の御陵を参拝。御陵は畝傍山の麓にある。
五十丁行き、飛鳥村。飛鳥明神社を参拝。紀ノ国屋善治郎方へ泊。宿料は二十銭也。
(コメント)
・法隆寺から龍田神社へ。法隆寺は有名ですから、コメントの要はないでしょう。龍田神社は現在の奈良県生駒郡斑鳩町龍田にあり、法隆寺とも縁が深い神社です。
聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた際、龍田大明神に逢い、お告げを受けて法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという伝承があります。
・達磨寺。この寺もまた聖徳太子との関係が深いのです。そのエピソードは、『日本書紀』におり、聖徳太子が道中に飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えましたが、亡くなってしまいました。聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えており、この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになりました。
今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があり、これが達磨大師の墓をといわれていたのです。常吉が「達磨大師の古跡有り」というのは、この古墳のことを指していると思われます。
・染井寺。正式には石光寺。奈良県葛城市染野にあります。常吉が、「昔、中将姫が井戸の水を五色に染めたため、染井戸という。寺もそのゆかりから、染井寺という」と記しているとおり、中将姫伝説に因む寺。次に訪れた當麻寺も中将姫と関わりがあります。同寺に伝わる『当麻曼荼羅』は中将姫が織ったとされています。
・昼食を取った「高田」は、大和高田(現大和高田市)のこと。
・昼食後、神武天皇陵へ。常吉が「御陵八畝火山(畝傍山)の麓にある」と記しているように、畝傍山の北東のふもとに位置しており、「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」とも呼ばれています。
・常吉一向は飛鳥村(現奈良県高市郡明日香村)へ。本日は同村で泊まりです。
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四月十七日 #明治18年伊勢参詣
飛鳥村を出立。雨。五丁行き橘寺。橘家の古跡である。四丁先の西国第七番札所岡寺を参拝。多武峰に至る。藤原鎌足公の古跡。談山神社は日光に次ぐ位である。宝物御座敷等を参拝。
四軒茶屋の松屋善次郎方で昼食。九銭。
峠が険悪で難渋する。峠から四里で吉野山。桜は満開ではないものの、満山桜木で風景の佳き事この上ない。後醍醐帝御陵を参拝。吉野の佐古屋平衛門方へ泊。泊料は十八銭。
(コメント)
・本日はまず飛鳥(現明日香村)の神社仏閣を参拝。橘寺、岡寺、多武峰、今猶神社を回っています。
・橘寺は聖徳太子誕生の地といわれる寺。常吉は聖徳太子には言及せず、「橘家の古跡」とのみ紹介しています。
・岡寺は約1300年前、天智天皇の勅願によって建立された寺。西国第七番の札所となっています。
・多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のことをいいますが、常吉は寺院のことを指しているとのでしょう。『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されており、常吉も「藤原鎌足公の古跡」と記しています。
・午後は多武峰から吉野へ峠道を行きます。峠越えには難渋しましたが、吉野山の桜木には感動の面持ち。桜は満開ではなかったものの、景色は素晴らしいものでした。
・吉野について、後醍醐帝御陵を参拝しています。
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四月十八日 #明治18年伊勢参詣
吉野を出立。晴天。吉野川に添って五里、宇野駅に至る。笠屋源兵衛方で昼食(四銭)。
同所より小舟で学文路(かむろ)まで行く(里程四里)。午後二時ころ、米屋才右衛門方へ荷物を預け、高野山へ。
午後七時頃、高野山へ着く(山路百五拾丁)。逼照光院に泊。「宿料はいかほどにてもよく、お心のままに」といわれて、酒代と合わせて三十銭、さらに先祖供養のために五十銭を奉納致した。今日の里程十二里、その内舟路は四里。
(コメント)
・本日は晴天。午前に吉野からうの駅まで移動。吉野は後醍醐天皇陵のほかは参拝していません。満開の桜を期待していたのかもしれませんが、桜は満開ではなく残念なことでした。それにしても、4月下旬近くなっても、吉野の桜が満開ではないというのは驚きです。今がそれだけ温暖化しているということでしょう。現代では、例年の見頃は4月上旬~4月中旬と説明書されており、2023年の夜桜ライトアップは、4月1日(土)~4月16日(日) でした。
・吉野から吉野川沿いに宇野へ。宇野からは船で学文路(かむろ)(現和歌山県橋本市学文路)へ。学文路の米屋で荷物を預けて、高野山を目指します。米屋では昼食を食べただけで、宿泊はしていないので、学文路にはそのような荷物預かりの場所があったのでしょう。
・高野山の宿坊は逼照光院。「宿料はいかほどにてもよく、お心のままに」といわれてしまい、酒の勢いもあったのか、酒代と合わせて三十銭+先祖供養のために五十銭=80銭と普段の宿代の4倍を支払っています。
・本日の旅程。吉野から高野山。
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四月十九日 #明治18年伊勢参詣
高野山を参拝してから出立。天気晴天。学文路(かむろ)駅まで戻り、米屋才右衛門方で昼食(十銭)。
同所から(人力)車で紀見峠の下まで乗る(里程二里半)。峠から百丁下った三日市の油屋庄兵衛方で泊。宿料十八銭。
(コメント)
・午前は高野山を参拝し、学文路(かむろ)の米屋まで戻ります。米屋には昨日荷物を預けていたのでした。米屋さんは荷物預けや昼食の需要に応えているようです。
・この後は移動です。米屋さんから人力車で紀見峠の下まで。紀見峠(きみとうげ)は、紀伊国と河内国の境。現在の和歌山県橋本市と大阪府河内長野市の境にある峠です。そこから、三日市(現大阪府河内長野市三日市)までは1キロ強です。本日は三日市泊。
・本日は和歌山県から大阪府南部にたどり着いたことになります。
学文路⇒紀見峠⇒三日市
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四月二十日 #明治18年伊勢参詣
三日市を出立。雨。五里行き、堺の山家喜兵衛方で昼飯。(人力)車に乗る。妙国寺のソテツ、難波屋の笠松を見物する。住吉四社を参拝。島津公の御誕生の石で安産石取替、大海神、奥の天神社を参拝。天下茶屋、豊臣秀吉公の御殿、御宝物を拝する。
大坂。四天王寺、生魂神社、高津の神社、北向の八幡宮を参拝。午後五時頃、道頓堀戎橋際にある大和屋孫三郎殿方に泊。宿料二十三銭。
(コメント)
・三日市(現河内長野市)を出発。残念ながら雨の中を歩いていかなければなりません。五里(約20キロ)歩いて、堺(現大阪府堺市)に到着。
・堺で昼食を取って、人力車で各所を巡ります。堺では、まず妙国寺⇒難波屋の笠松を見ています。妙国寺では蘇鉄、難波屋では笠松といずれも樹木を見るのがメインだったようです。
・妙国寺(現堺市堺区材木町東)のソテツは、国指定天然記念物となっており、現存しています。
・難波屋は茶屋で、その前栽には大小2本の老松があり、地をはうばかりに四方に枝先をひろげていた形が、笠に似ており、笠松とよばれていました(昭和20年に枯死)。
・「住吉四社」は、住吉大社のこと。元大阪市住吉区住吉。常吉が「四社」と記しているのは、祭神が四柱だからでしょう。
・奥の天神社は、生根(いくね)神社が正式名。現大阪市生野区。本殿は淀君の寄進で、桧皮葺・壱間社流造りの桃山時代の様式を残し、慶長5~6年(1600ごろ)の建立と伝えられている。境内に天神社も併祭しているので、一般に「奥の天神」といって親しまれている。
・天下茶屋。豊臣秀吉の故事に因み、常吉が訪れた当時は約5000平方メートルの敷地に屋敷や茶室・井戸・池などを備えていたといた屋敷跡の一部が残っていたのですが、1945年の大阪大空襲で焼失し、現在は天下茶屋「跡」として偲ばれております。
・道頓堀戎橋際にある大和屋にて泊。ロケーションが良いからか、宿料はこの旅行でも最も高い金額となる23銭です。
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四月二十一日 #明治18年伊勢参詣
曇。道頓堀朝日座で芝居見物。料金三十銭。午前七時頃から出かけ、午後五時頃宿に戻る。
(コメント)
・今日は終日芝居見物。東京では千歲座(今の明治座)に芝居見物に行っていました(3月18日条)。この旅行で芝居見物は2回目。東京では物料一人前61銭(昼飯付)でしたが、大阪では30銭。倍以上違います。その理由は歌舞伎と浄瑠璃の違いのようです。朝早く出かけ、夕方までたっぷりと見学できるのが、当時の芝居見物のようで、午前七時頃から午後五時頃まで外出しています。
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四月二十二日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。造幣局等見物、天満宮、中の島、豊国神社、東西本願寺を参拝。宿に戻り昼食。午後三時、天保山の下まで小舟に乗り、徳山丸という蒸気船に乗りかえ、午後七時広島へ向けて出帆。
(コメント)
・本日はまず造幣局、天満宮を見学。今も大阪の名所ですが、明治18年も同様だったようです。
・豊国神社。明治になってからの神社です(徳川政権下では豊臣秀吉を祀る神社を建立できるわけかありません)。現在は大阪城内にありますが、明治時代、大阪城は陸軍省が所管しており、城内に神社を建てることができず、北区中之島の現在大阪市中央公会堂がある場所に創建されました。
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四月二十三日 #明治18年伊勢参詣
諸港に寄り、午後十時広島。広島から一里程手前の宇品港に上陸(海上百二十里)。大坂から広島までの蒸気船運賃は二円二十五銭。この値段でも中等である。
島で少々休んでから、小舟に乗って宮島へ。
(コメント)
・大阪から船で広島へ。昨夜の午後7時に大阪を出発し、本日午後10時に広島ですから、24時間以上かかっています。時間の感覚が現在とは違いますね。現代では新大阪〜広島は1時間半程度です。
・現在の広島港の旅客ターミナルは、「広島港宇品旅客ターミナル」といい、広島の海の玄関口です。常吉らが到着した宇品港が発展して現在の形となったのでしょう。
・宇品港から宮島は小舟で。舟運がまだまだ現役で活躍している時代です。
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 伊勢−奈良編
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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四月九日 #明治18年伊勢参詣
雨。伊勢神宮の内宮、外宮社を目出度く奉拝。午後四時頃宿へ戻る。
(コメント)
・伊勢神宮を参拝。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。9日連続。
・本日は伊勢神宮参拝の記事のみ。「内宮、外宮社を奉拝」と書いているので、内宮⇒外宮の順で回ったようです。現在は、外宮⇒内宮の順で回るのが良いとされておりますが、明治18年にはそのようなことは言われていなかったのでしょうか。
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四月十日 #明治18年伊勢参詣
ようやく晴れ。午前七時頃宿を出立し、二見ヶ浦へ(二里)。同所から二里行き、朝熊神社を参拝。十町程下って、豆腐屋佐吉方で昼食。午後六時頃 宿へ帰宅。
(コメント)
・本日ようやく晴れました。雨の連続記録は9日でストップとなりました。
・伊勢の古来の参拝ルートは次のように紹介されています。
二見 → 伊勢神宮外宮(豊受大神宮)→伊勢神宮内宮(皇大神宮)→朝熊岳
ルートこそ違いますが、伊勢神宮、二見ヶ浦、朝熊神社の三点セットは常吉たちも押さえております。
・朝熊神社
「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊をかけねば片参り」。
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四月十一日 #明治18年伊勢参詣
山田を出立。雨。馬車で六軒まで戻る(四里)。賃金12銭。 磯部屋利吉方で昼飯(十銭)。六軒から大和路に入る。三里行き、大の木村(大仰村)の油屋新七方で泊。泊料17銭。
(コメント)
・山田尾上町(現伊勢市尾上町)には3泊しました。伊勢を離れ、奈良に向かいます。
・山田尾上町から六軒へ。「六軒」は現松坂市六軒町。六軒は初瀬街道の起点であり、初瀬(現奈良県桜井市)まで街道が続いています。常吉は「大和路」と記しています。
・本日の宿泊は初瀬街道沿いの大仰村(おおのきむら)(現一志町大仰)。
常吉は「大の木村」と書いているのですが、正確には「大仰村」。読み方は、どちらも「おおのきむら」ですので、読み方だけ聞いて漢字をあてたのでしょう。
・本日の旅程
グーグル地図では約38 km。山田尾上町(伊勢市尾上町)-大仰村(津市一志町大仰)。六軒までは馬車ですが、それより後は雨の中を徒歩での旅でした。
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四月十二日 #明治18年伊勢参詣
大の木村(大仰村)を出立。曇。かいど村(二里)で休息。次いで、青山峠に掛かる。この峠は伊勢から伊賀との境である。伊賀茶屋で昼飯(十銭)。峠から三里二十九丁で名張駅。小竹屋彦兵衛方で泊、宿料は酒代込で三十二銭。
(コメント)
・大仰村(津市一志町大仰)を出立。青山峠は、日記にもあるように伊勢国と伊賀国の境。現在の地名でいいますと、三重県津市と三重県伊賀市の間にある峠です。峠には茶屋があり、ここで昼食。峠の茶屋というのは、徒歩での旅行が一般的だった時代に必要な施設だったことがわかります。
・青柳峠を下ると名張(現名張市)。同所で泊まりです。
・本日の旅程
グーグル地図では約42 km。昨日に引き続き、今日も移動のみで見学・参拝はなし。山道で、この距離、しかも徒歩行でしたからタイヘンだったはずです。
大仰(津市一志町大仰)-名張(名張市)
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四月十三日 #明治18年伊勢参詣
名張を出立。天気よし。名張から五里二十丁で榛原駅。油屋三郎平方で昼飯(九銭)。そこから一里で長谷駅。西国八番霊所長谷観音を参拝。長谷駅から一里半(人力)車に乗り、三輪に着く(賃金六銭)。三輪明神を参拝。明神前の竹田屋甚七方で泊。宿料二十銭。但し、その宿は梅川忠兵衛の隠れ家である。
(コメント)
・名張(名張市)を出立し、昼には榛原(現奈良県宇陀市榛原)に着きました。
・榛原は、江戸期には伊勢参宮・初瀬詣の宿場として発展した宿場。伊勢本街道と初瀬街道の分岐点にあります。
・午後には長谷観音を参拝しています。
『枕草子』『源氏物語』『更級日記』などの古典文学にも登場する古くからの寺。現奈良県桜井市初瀬。
・次いで三輪(現桜井市三輪)にある神社)に移動し、三輪明神を参拝。
三輪明神は、明治時代に「大神神社」(おおみわじんじゃ)と改名されていますが、常吉は江戸時代まで呼ばれていた「三輪明神」と日記に記しています。
・本日は三輪で泊まりです。
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四月十四日 #明治18年伊勢参詣
三輪を出立。雨。(人力)車に乗って奈良へ(この間四里、賃金十二銭)。魚屋佐平方へ十一時頃着。大雨。午後は休みとする。泊料は二十錢。
(コメント)
・三輪(現桜井市三輪)を出立。昨日は晴れていたのですが、今日は雨。どうも常吉たちの旅は雨にたたられています。奈良までは人力車。昼前には奈良に着きましたが、大雨となってしまいましたので、参拝等は明日に延期としました。
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 静岡−伊勢編 4月1日-4月8日
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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四月一日 #明治18年伊勢参詣
静岡を出立。町外れに安倍川。名物安倍川餅を食べる。安倍川の幅は二百八十間。橋は修繕中。仮橋を渡る。
そこから二里行き宇津ノ谷峠。峠には隧道あり、その長さ約二町、巾は約二間。中は暗く燈火を五つ照らす。
そこから一里行き、藤枝駅。かき屋傳造方で昼食。
雨が降ってきたので、大井川橋まで(人力)車に乗る。里程三里、賃金十銭。大井川橋の長さは七百四十間。
金谷駅を通って、小夜の中山峠新道を通る。峠の茶屋前に夜啼石あり。
日坂駅の川坂屋治郎殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・静岡を出発し、安倍川へ。名物安倍川餅を食べます。名物についての言及は、この日記では初めてではないでしょうか。名物に目が無いのは、今も昔も変わりません。
・宇津ノ谷峠。1876年(明治9年)に隧道が開通しており(日本初の有料トンネル)、常吉たちが通ったのはこの隧道です。なお、この初代隧道は1896年(明治29年)に坑道内を照らしていたカンテラの失火によって崩落、閉鎖されてしまいました(現存する宇津ノ谷隧道は二代目)。
・藤枝で昼食を取った後、大井川にかかる蓬莱橋(常吉日記では「大井川橋」)。江戸時代に大井川には橋はなく、蓬莱橋が完成したのは明治12年(1879年)です。現存しており、今も昔も有料です。
・小夜の中山峠は、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にあり、急峻な坂の続く街道の難所でした。明治13(1880)年に中山新道(有料道路)が完成。常吉たちが通ったのはこの新道です。
中山新道は明治22(1889)年に国鉄東海道線の全通により利用者が激減し、明治35(1902)年に公道に編入され、有料道路ではなくなりました。
・夜啼石は伝説ですが、夜啼石といわれる石を常吉たちも見ており(「峠の茶屋前に夜啼石あり」)、現在も存在します。
・本日の宿泊場所「川坂屋」。現在は、川坂屋・茶室ともに掛川市指定有形文化財となっており、無料公開されています。
・本日の旅程は静岡の伝馬町〜日坂宿。グーグル地図上では約42 km。宇津ノ谷峠、小夜の中山峠といった難所が多い旅程ですが、隧道や新道ができており、途中人力車をりようしたこともあって、40キロ以上の距離を行くことができました。
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四月二日 #明治18年伊勢参詣
日坂を出立。雨。袋井駅まで(人力)車に乗る(賃金二十銭)。約五里。
袋井駅から右へ二十町程入り、可睡村の秋葉三尺坊社を参拝。同社の後ろ一町は四面庭である。庭内に長さ約三間のホラ穴がある。かつて徳川家康公が戦争のときに御隠れになった由。
同社門前の三島屋成三郎方で昼食。料金七銭五厘。
二里半行くと天竜川。川幅百四十八間。
浜松までは(人力)車に乗る(約二里)。賃金八銭。
浜松の傳馬町五社明神の角、大末屋市郎衛門方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・日坂宿(現掛川市)を出発しますが、雨のため、袋井駅までの約20キロは人力車に乗っています。
・「可睡村の秋葉三尺坊社」を参拝しています。現袋井市久能にある秋葉総本殿可睡斎のこと。「可睡斎」とは不思議な名前ですが、徳川家康のエピソードが名前の由来にあるそうです。
・「同社の後ろ一町は四面庭」。
秋葉総本殿可睡斎はかなり宏大な敷地を有しているようです。ホームページには以下の記載があります。
「4時間30分。それは可睡斎を一通り見学するために使う時間です。 10万坪(東京ドーム10個分以上)の境内、建造物数25棟、拝観箇所40、季節に応じて咲く花5万本、 日本有数の典座が用意した精進料理を体感することもできます」
・本日の参拝は秋葉総本殿可睡斎だけでした。天竜川から浜松まで人力車。頻繁に人力車が利用されており、明治10年代の旅は人力車が欠かせなかったことがわかります。
・浜松の伝馬町(現浜松市中区伝馬町)で泊。本日の旅程は、日坂宿〜浜松・伝馬町。
グーグル地図上では約40 km。
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四月三日 #明治18年伊勢参詣
浜松を出立。雨。入海(浜名湖)には長さ五十丁の橋があったが、新居までは汽船に乗った(六里)。 賃金十銭。
新居から二川まで(人力)車に乗る(二里)。賃金四銭。山家屋助五郎方で昼食。
そこから一里半で豊橋駅。札木町桝屋庄七郎方で泊。泊料十八銭。
(コメント)
・浜松を出立し、浜名湖は汽船で移動。新居から二川までは人力車。二川で昼食を取って、豊橋までは歩き。今日は移動ばかりの記事で、参拝・見学はなしのようです。
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四月四日 #明治18年伊勢参詣
豊橋を出立。雨。二里脇道に入り、豊川稲荷社を参拝。そこから馬車に乗って御油駅まで(二里)。賃金五銭。ゑびや安左衛門方で昼食。
御油駅からは 、岡崎まで馬車で乗る(約四里)。賃金十五銭。志きの屋篤治郎方に泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・豊橋を出立し、東海道を外れて豊川稲荷社を参拝。「稲荷社」とありますが、豊川稲荷は寺院。寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。室町時代の創建です。
・豊川稲荷〜御油駅は馬車。御油は東海道五十三次の一。現在の御油駅は国道一号線沿いですが、JRの駅はありません(名古屋鉄道の駅はあります)。明治18年時点ではこの辺りの東海道線は開通しておらず、東海道五十三次を念頭においた日記の記載となっています。
・御油〜岡崎も馬車。鉄道がない代わりに、馬車便があったのでしょう。本日、岡崎泊。
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四月五日 #明治18年伊勢参詣
岡崎を出立。雨。知立神社を参拝。有松へ四里、團子屋利助方で昼食。名物の絞を求める。有松から(人力)車で熱田神宮まで行って参拝。名古屋で泊。 本町八丁目通、丸屋さとし方で泊。泊料十五銭。
(コメント)
・岡崎を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。
・知立神社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられており、その意識が常吉たち一行にもあったので、知立神社を参拝したのでしょう。
・なお、東海道三社とは、三嶋大社、知立神社及び熱田神宮(東から西の順)。常吉たちは、本日熱田神宮も参拝しており、この旅で三社全てを参拝しています。
・有松絞りは、名古屋市の有松町・鳴海町地域でつくられる木綿絞りの総称です。江戸時代から有名で、1975年には「有松・鳴海絞」の名前で国の伝統的工芸品に指定されています。
・本日は宿泊場所は名古屋。東海地域随一の城下町ですから(東海道の宿場ではありませんが)、名古屋城を見学する予定なのでしょう。
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四月六日 #明治18年伊勢参詣
名古屋を出立。雨。名古屋城を外から見学。城内には鎮台兵がいるので、城内は見学できず。名古屋から津島神社まで馬車(里程約四里)。津島神社を参拝し、三好屋源六方で昼食。津島神社から、入海七里の渡場を小舟に乗って桑名へ上陸(賃金六銭)。丹羽善右衛門方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・名古屋を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。6日連続。どこまで連続記録が続くのでしょうか。
・名古屋では、やはり名古屋城を見学に行っていますが、陸軍兵が名古屋城を使っていたため、城内は見学できませんでした。
「鎮台」は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位で。鎮台は、明治21年に「師団」に変更となり、その名称は消滅しました。常吉たちが訪れた明治18年にはまだ「鎮台」だったのです。
・名古屋から津島へ。津島街道という東海道の脇街道です。
・津島神社を参拝。津島神社は、京都・八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社として知られています。
・津島からは小舟で桑名へ。本日は桑名泊です。
・東海道の正式ルートを通らず、名古屋→津島→桑名というルートは、江戸時代からありました。
「東国からの参宮客は、宮 (熱田)から桑名への七里の渡しではなく、佐屋や津島からの三里の渡しを利用した。 七里の渡しは東海道の正式なルートであるが、伊勢を目指す旅人たちは宮(熱田)を過ぎ名古屋の町を見物し、津島大社を参拝してから、三里の渡しを用いて東海道四十二番目の 宿、桑名に至る。参宮街道が始まるのは次の四日市宿を過ぎ、日永の追分で東海道と分か れてからであるが、参宮客にとっては、伊勢が間近いことを感じる起点は桑名であった。」(塚本 明『伊勢参宮文化と街道の人びと ケガレ意識と不埒者の江戸時代』)
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四月七日 #明治18年伊勢参詣
桑名を出立。雨。四日市(三里二十丁)、追分(壱里)。追分の浅草屋五兵衛 方で昼食。神戸(壱里半)まで行き、神戸から(人力)車に乗って津まで(里程五里、賃金十銭)。村田屋与兵衛方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・桑名を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。7日連続。
・四日市は東海道五十三次の一つ。追分(現四日市市追分)から伊勢参道に入ります。
・今日は見学・参拝はなく、ひたすら先を急ぎます。神戸からは人力車に乗り、津(現津市)に到着し、同所で泊まりです。
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四月八日 #明治18年伊勢参詣
津を出立。雨。六軒(二里)、櫛田(二里)。櫛田駅の紅九郎兵衛方で昼食。料金九銭。櫛田から(人力)車で山田尾上町。松島屋善三郎殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・津を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。8日連続。
・津⇒六軒⇒櫛田と雨の中を徒歩。櫛田で昼食を取っています。「六軒」は現松坂市六軒町、「櫛田」は現松坂市櫛田町。
・櫛田からは人力車に乗り、山田尾上町(現伊勢市尾上町)。いよいよ伊勢に到着です。「山田」は伊勢神宮外宮の鳥居前町として発展してきた地域。山田地区の中に複数の町があり、尾上町もその一つです。
山田尾上町
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京−静岡編 3月24日-3月31日
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月二十四日 #明治18年伊勢参詣
東京を九時頃出立。泉岳寺、赤穂義士四十七人木像を見物する。十一時頃から大雪降る。
品川の大津屋宇衛門殿方で昼食。
川崎へ二里二十一丁、朝日屋武衛門殿方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・馬喰町で6泊し、東京見物をした一行。いよいよ東京を後にして、伊勢に向かって東海道を下って行きます。
・高輪の泉岳寺。「赤穂義士四十七人木像を見物」とあり、墓よりも木像の方が印象に残ったようです。現在は泉岳寺の講堂2階が義士木像館となっています。
・ここで大雪が降ってきました。3月下旬の東京での降雪は珍しいので(ここ40年では1988年と2020年)、旅にはアンラッキーでした。
・品川で昼を取ったあと、川崎まで歩いて、この日は川崎泊となっています。大雪の影響でしょうか。
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三月二十五日 #明治18年伊勢参詣
川崎から出立。汽車で横濱迄乗る。里程三里、賃金十五銭。十時頃から横濱市中を見物 。福井屋忠兵衛方で昼食。
二時頃横濱から蒸気船に乗り、横須賀に四時頃着。松阪屋藤蔵殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・昨日の大雪による遅れを取り戻す為か、川崎〜横浜まで汽車に乗っています。運賃(当時は「賃金」)は15銭。川崎での一泊が22銭ですから、宿泊料に比べると割高ですね。
汽車の時速は約30キロ、川崎〜横浜間は20分だったそうです。
・「横濱市中を見物」とだけありますが、横浜の外国人居留地を見たのでしょう。
・横浜から横須賀までは蒸気船で向かい、横須賀に宿泊しています。
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三月二十六日 #明治18年伊勢参詣
横須賀の機械場、軍艦等を見物。宏大である。松坂屋方で昼食。
小舟で金沢へ。金沢八景を眺める。風景佳し。
鎌倉に行き、官幣社鎌倉宮を参拝。往時大塔の宮という。八幡社を参拝。
半里行き、長谷村。三ツ橋與八殿方で泊。泊料二十二銭。
(コメント)
・横須賀には、1866年(慶応元年)、江戸幕府により横須賀造船所が開設され、1884年(明治17年)には横須賀鎮守府が設置されています。造船と海軍の拠点であり、当時は工場見学、軍艦見学ができたようです。常吉は、「宏大なること上げて数ふ能わず」と評しています。
・金沢八景
かつては景勝地であった金沢ですが、現在ではその景勝は失われており、「金沢八景駅」という駅名にその名残りがあります。明治18年の時点ではまだ金沢八景の形式は保たれていたようです。
・一行は金沢から、鎌倉の官幣社鎌倉宮に行きます。鎌倉宮(かまくらぐう)は、鎌倉市二階堂にあり、護良親王(後醍醐天皇皇子)を祭神としています。1869年(明治2年)2月に造営された新しい神社です。
・八幡社(鶴岡八幡宮)を参拝しています。八幡宮は現代でも鎌倉観光の定番ですね。
・横須賀から金沢(横浜市金沢区)へ。横須賀からはグーグル地図上で約7キロですが、常吉たちは小舟で金沢へ渡ります。
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三月二十七日 #明治18年伊勢参詣
鎌倉を出立。大佛様、その高さ四丈八尺。
観音社、権五郎社を参拝。
小舟で江ノ島まで乗る。賃金二銭。江ノ島に十時頃着き、辦天社を参拝。恵比寿屋茂八殿方で昼食。
江ノ島から三里二十五丁で平塚駅。笹屋伊兵衛殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・昨日は、長谷村(現鎌倉市長谷)に泊まりましたので、まずは鎌倉大仏を参拝します。
・「観音社」は長谷寺のこと。同寺の観音です。また、「権五郎社」は御霊神社(現鎌倉市坂ノ下)のことです。
・鎌倉から江ノ島までは小舟で渡っています。江ノ島に橋が初めて掛けられたのは、1891年(明治24年)です。明治18年には橋は存在していませんでした。
もっとも、干潮時には徒歩で渡ることができました。葛飾北斎の富嶽三十六景「相州江の島」にはその光景が描かれています。
・江ノ島では弁天社を参拝。
・本日は平塚(現平塚市)に泊まっています。
・本日の旅程は鎌倉市長谷〜平塚。
グーグル地図上では約20 kmですので、ノンビリした感じです。
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三月二十八日 #明治18年伊勢参詣
平塚から出立し、一里で大磯。そこから小田原(四里)。斎藤福松方で昼食。
小田原から箱根湯元へ(二里)。二時頃着、福住九蔵殿方へ泊まり、入浴。泊料二十三銭。
(コメント)
・江戸後期の浮世絵に描かれた箱根湯本
・本日の旅程は平塚〜箱根湯本。
グーグル地図上では約25 kmですが、これは明日の箱根越えに備えているからでしょう。
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三月二十九日 #明治18年伊勢参詣
箱根湯元を出立。天気悪し。箱根峠は険阻。湯元から箱根駅(四里)。土生(はふ)屋で昼食。
三嶋駅へ(三里)。三嶋神社を参拝。馬車に乗って沼津駅(一里半)、原駅(一里)、鈴川駅(二里)。馬車には五里ほど乗り、賃金十五銭。甲州屋喜衛門殿方で泊。泊料十六銭。
(コメント)
・箱根湯本を出発し、箱根越え。あいにく天候が悪く、険阻な峠道を行くのも難儀したことでしょう。
・昼食を食べた土生(はふ)屋は当時、はふやホテルを名乗っており、後に買収されて現在は箱根ホテルとなっています。
・箱根を越えてからは、三嶋(現三島市)までは徒歩で行き、その後は馬車に乗り換えています。沼津(現沼津市)、原(現沼津市)を通って、本日は鈴川(現富士市)泊。
・本日の旅程 箱根湯本〜鈴川。グーグル地図上では約48 km。うち約20キロは馬車でした。
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三月三十日 #明治18年伊勢参詣
鈴川今井村を出立。出立の際雨。倉沢(鈴川から四里)の富士屋七兵衛方で昼食。
午後二時頃興津(倉沢から二里)に着。
水口屋半十郎方に到着。
清見寺を参拝。その御座敷、今上帝(明治天皇)の行在所、御庭等全て奇麗。
水口屋の二階から、三保の松原を眺める。その風景佳し。水口屋にて名物の興津鯛を食べる。水口屋泊。泊料二十六銭。
(コメント)
・鈴川今井村(現富士市)を出発し、雨の中倉沢(現静岡市清水区)まで。
・倉沢で昼食後、興津(現静岡市清水区)へ。倉沢〜興津は二里しかなく、午後二時には興津に着いています。
・興津の清見寺(せいけんじ)。奈良時代の創建と伝えられています。常吉は「御庭等全て奇麗」と評していますが、庭園清見寺庭園は現在国の名勝に指定されています。
・本日の旅程 鈴川(現富士市)〜興津(現静岡市清水区)。グーグル地図上では約25 km。
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三月三十一日 #明治18年伊勢参詣
興津を出立。曇り、風荒れる。久能山(興津から三里)の東照宮、徳川家康公の墓を参拝。坂ノ下の豆腐屋直兵衛方で昼食。
静岡(久能山から四里)の浅間権現社を参拝。七社有り、その上には公園地。四方を見渡すことができ、風景佳し。
傳馬町の東萬屋清三郎方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・興津を出立し、久能山(静岡市駿河区)へ。久能山東照宮と徳川家康公の墓を参拝しています。
・久能山から静岡市街へ。静岡浅間神社(静岡市葵区)を参拝しています。
・本日の旅程 興津(現静岡市清水区)〜傳馬町(静岡市葵区)。グーグル地図上では約26 km。
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京編 3月18日-23日
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月十八日 #明治18年伊勢参詣
午前九時頃、人形町千歲座に芝居見物に行く。(福島の)県庁よりも広く、宏大。 午後十時頃終わり宿へ戻る。見物料一人前六十一銭(昼飯付)。
(コメント)
・本日は歌舞伎見物。午前9時に始まり、午後10時まで。昔の歌舞伎は一日中やっていたとは言われますが、実際に終日見ている観客がいるとは、やはり驚きです。芝居の入場料は昼食込みのセット料金となっています。
・「人形町千歲座」は今の明治座。
1873年(明治6年)、喜昇座として開場したのに始まり、久松座、千歳座と改称を経て明治26年に明治座となっています。明治18年には人形町、現在の久松警察署の前あたりにありました(現在の浜町に移ったのは昭和3年)。
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三月十九日 #明治18年伊勢参詣
午前八時頃出発、役場等を見物。九段坂で四方を眺め、招魂社(靖国神社)を参拝。
上野下神崎で昼食。上野の公園地は桜樹で充ちており、風景佳し。眼下には不忍池 。動物館、博物館を見物。宏大である。午後七時頃宿へ戻る。
(コメント)
・本日午前はまず役場を見物し、九段坂へ。招魂社(靖国神社)を参拝しています。
・午後は上野。上野公園の桜、不忍池、動物園、博物館を見物しており、現代とかわりがないようです(もちろん見ている景色はだいぶ違うはずですが)。
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三月二十日 #明治18年伊勢参詣
洲崎の弁天社、深川成田山八幡社、亀戸天神社を参拝する。亀戸天神社の近くの梅屋敷にも行く。
鮒林茶屋で昼食。向島の水天宮社を参拝する。隅田川ノ土手に桜木が充ちており、風景佳し。浅草観世音、回向院社を参拝する。午後四時頃宿へ戻る。
(コメント)
・今日は東京東部の寺社を回っています。
・「洲崎の弁天社」元禄13(1700)年に建立された神社。洲崎は、現在の東京都江東区東陽一丁目。洲崎は元禄年間に埋め立てられた土地であり、弁天社は海岸に面した土手の先端に位置にあった。周辺は初日の出や潮干狩り、月見の名所として賑わったといいますから、元禄が生み出したウォーターフロントといえるでしょう。
・「深川成田山八幡社」は富岡八幡宮のこと。
・亀戸天神社は現代でもそのままの名称で存在しています。
・「梅屋敷」は江戸時代から続く梅の名所でした。常吉が訪ねたときは江戸時代そのままに梅が咲きほこっていたのでしょうが、明治43年の洪水によって廃園となり、現在は「梅屋敷跡」としてかつての名が伝えられています。
○安藤広重 「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」
・「向島の水天宮社」と常吉日記にはありますが、「水神宮」「水神社」が正しく、正式名称は「隅田川神社」です。
・その後、浅草観世音、回向院も回っています。
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三月二十一日 #明治18年伊勢参詣
築地の海辺を見物。その後、東西本願寺、芝神明神社、増上寺、徳川公の奥の院を参拝する。愛宕山へ行き、参拝。四方を見渡すと東京中が眼下に見え風景佳し。
徴兵練を見る。雨が少々降って来たので、(人力)車に乗る。ステーション鉄道を見る。電信を見る。針金53本あり。異人館を見る。午後四時頃宿に戻る。
(コメント)
・本日はまず「築地の海辺」に。かつて築地は海辺でした(江戸切絵図参照)。
・その後は、築地本願寺→芝大神宮(「芝神明社」)→増上寺→徳川将軍家墓所(「徳川公の奥の院」)→愛宕神社(「愛宕山」)を参拝しています。
・愛宕山からの景色を、井上安治が「東京名所 ー 愛宕山」として描いています。明治10年代ですから、常吉が見た景色も同様と思われます。
・社寺参拝の後は各種施設の見学。鉄道、鉄道駅、電信施設を見ています。
・「異人館」を見たのは、築地でしょう。当時ここには外国人居留地がありました。居留地は、明治元(1868)年にでき、外国公館のほか、教会や学校がありました(居留地は明治32年まで存在)。
・築地の外国人居留地は、明治十年代の後半、日比谷に鹿鳴館時代が開幕するまで、銀座と共に「文明開化」の同義語であったとの指摘もあります(川崎晴朗『築地外国人居留地』)。
・常吉が「徴兵練を見た」のは日比谷の陸軍練兵場。場所は現在の日比谷公園及び霞ヶ関の官庁街。
・練兵場から、当時の新橋駅(日記では「ステーション鉄道」)はさほど遠くないのですが、雨が降ってきたため人力車で移動しています。
・また電信局を見学しています。
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三月二十二日 #明治18年伊勢参詣
八時頃出発。支那、英国公使館を見物す。神田明神社を参拝する。勧工場を見物する。午後五時頃(人力)車で宿に戻る。
(コメント)
・「公使館」とは、「公使を長とする在外公館」という意味です。今は、中国もイギリスも大使を派遣していますので、「大使館」ですが、この時代はまだ「公使館」の時代だったようです。
・イギリス公使館は、当時千代田区一番町(現在のイギリス大使館と同じ場所)にありました(⇒末尾付1)。常吉が「支那公使館」と呼んでいるのは、駐日清国公使館のことで、永田町二丁目にあったそうです。
・神田明神を参拝したあと、「勧工場」を見物しています。工場ではありません。商品を陳列し、客が自由に手にとって品定めするもので、百貨店(デパート)の前身といわれています。上野公園で開催された明治10年の出品物の売れ残り展示即売するために開設され、最盛期には東京に20箇所以上あったといわれています(塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』)。
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三月二十三日 #明治18年伊勢参詣
午前八時頃出発。(人力)車で王子稲荷社に行き、参拝する。その後、糸取機械を見物する。一日の取上げは250斤位との由。織機械を見物する。一分間に250尺位取上る由。(人力)車で午後四時頃宿に戻る。東京には六日滞在。七夜の泊りであった。
(コメント)
・王子稲荷神社は、東京都北区岸町にある神社。徳川将軍家代々の祈願所と定められ、現在の社殿は十一代将軍徳川家斉から寄進されたもの。
・その後、鹿島紡績所を見学します。同紡績所は、明治初年に設置された民間最初の紡績工場。設置者は鹿島万平。設置場所は滝野川の幕府の反射炉の跡地でした。
・糸取機械の一日の取上げは250斤(約150キログラム)、織機械は一分間に250尺(約45メートル)取上げということを、常吉は日記に記録しています。
・本日が東京宿泊の最後です。東京見物編は本日をもって終わります。明日からは、東海道を伊勢へ向かって下る旅が始まります。
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付1 英国公使館について
「英国公使館はよい場所にある。外務省をはじめとする政府の諸省や大臣たちの官邸に近い。これらの建物は大半が英国の郊外の大邸宅風の煉瓦造りである。公使館は入口に英国王室の紋章の付いたアーチ門があり、敷地の中には、公使官邸や公使館事務局、公使館付きの書記官二名の官舎そして護衛兵の宿舎がある。」
(新訳日本奥地紀行 東洋文庫 840 イザベラ・バード/[著]、金坂清則訳)
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 福島・栃木・茨城・千葉編
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月七日 #明治18年伊勢参詣
午前九時に猪苗代町を出立。関脇村まで三里。白岩政吉殿方で昼食 。
同村から三里で熱海駅。会津屋五衛門殿方で泊。泊料は十六銭。
(コメント)
・猪苗代町新町で酒造業を営んでいた塩谷常吉(当時22歳)の道中日記です。塩谷常吉の子孫である塩谷和子の『明治十八年の旅は道連れ』に同日記が翻刻されております。
常吉を含め総勢9名で旅に出ます。
・本日の旅程は猪苗代新町(猪苗代町新町)〜磐梯熱海(郡山市熱海町)。グーグル地図では23 km。全て徒歩です。
・今日の宿は「熱海駅」です。「熱海駅」は現郡山市熱海町熱海のこと。静岡県熱海市と区別するため、現在では磐梯熱海と呼ばれています。なお、当時磐梯熱海に鉄道駅はないので(明治31年開業)、「熱海駅」は宿駅の意味です。この時期には鉄道は、ほぼ通っておりませんので、特に記載のないときは徒歩で移動しています。
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三月八日 #明治18年伊勢参詣
熱海を出立。四里で開成山。大神宮を拝す。三河屋徳蔵殿方で昼飯。一里で郡山。公園地を見物した後、海老屋冶衛門方で泊。泊料十八銭也。
(コメント)
・磐梯熱海を出立し、「開成山」へ(開成山大神宮・現郡山市開成)。同神宮は明治9年、安積開拓民の拠り所として、伊勢神宮から分霊して創建された神社ですので、当時からすれば新しい神社です。新名所で伊勢神宮からの分霊ということで、参詣となったのでしょう。
・今日の旅程。熱海(郡山市熱海町)〜郡山(郡山市)。グーグル地図では約15 km。参拝や公園を見物に時間を割いたのか、さほどの移動距離ではありません。明日からは奥州街道に入ります。
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三月九日 #明治18年伊勢参詣
郡山を出立。須賀川(三里九町)、矢吹(二里十八丁)。この間は(人力)車に乗る。筑前屋で昼食。大雪が降ってきた。小田川(二里)、白河(二里廿二丁)。この間も(人力)車に乗る。白河の勇屋祐吉方で泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程。郡山(福島県郡山市)〜白河(福島県白河市)。グーグル地図では約38キロ。福島県内のほぼ南端まで来ました。明日からは栃木県に入ります。
・日記では「車に乗る」とあるのは、人力車に乗ることです。人力車は明治初年に考案されたものです。日記の書かれた明治18年には普及していたのですね。この旅は基本徒歩ですが、時々人力車も利用しています。
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三月十日 #明治18年伊勢参詣
白河を出立。境の明神社を参拝。白坂へ二里、そこから芦野へ三里。芦野駅で昼食。ここから脇道、関東筋に入る。芦野から五里程で黒羽駅。中屋義衛門殿方へ泊まる。泊料十六銭。
(コメント)
・本日の旅程。白河(福島県白河市)〜黒羽(栃木県大田原市)。グーグル地図では約34 km。福島県から栃木県に入りました。今日は全行程徒歩で、30キロ以上歩いています。現代人にはなかなか考えられない距離です。現代のモータリゼーション&公共交通機関が、長く歩くという習慣を奪ってしまったのですね。
・「境の明神社」は、白河市と栃木県那須町の県境に二社並立している神社の通称。古来より国境を往来する際には両神社を参拝し、道中の安全を祈願したといわれています。現存する社殿は、火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたもの。白河市指定史跡。
・奥州街道は、白河→白坂→芦野と来て、→越堀→鍋掛→大田原と行くのですが、一行はこのルートを取らず、芦野から関東筋といわれる脇道に入り、黒羽で泊まります。
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三月十一日 #明治18年伊勢参詣
黒羽を出立。佐良土村まで一里程。そこから
河井村まで那珂川を船で行く。里程八里。河井村から二里陸行し、茂木町。備前屋小八郎殿方に泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程。黒羽(栃木県大田原市)〜茂木町(栃木県茂木町)。グーグル地図では約42キロ。栃木県を移動し、南端近くまで来ました。明日からは茨城県に入ります。
・「佐良土村」は、現大田原市佐良土(さらど)。ここから那珂川を下る船便があり、「河井村」(現栃木県茂木町河井)まで8里(約32キロ)を船で下っています。船での移動はこの旅でも相応にあり、舟運が暮らしに根付いていた時代であることがわかります。
・佐良土では門前町並屋号宿という取組みを現在行っています。光丸山法輪寺の門前町の繁栄を今に残す取り組みです。
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三月十二日 #明治18年伊勢参詣
茂木町を出立。五里で仏山峠(仏ノ山峠)。同所で昼飯 。そこから笠間まで三里。午後三時頃到着。笠間の稲荷社を参拝。井筒屋彦兵衛殿方泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程は、茂木町(栃木県茂木町)〜笠間稲荷神社(茨城県笠間市)。グーグル地図だと約23 km。本日は全行程徒歩。距離としては稼げていませんが、途中県境の仏ノ山峠を越えなければなりませんので、結構キツかったかもしれません。
・徒歩での旅行では峠越えは肉体的にもきつく、峠で休憩は自然な流れだったのでしょう。そのため、峠には茶屋があり、昼食も取ることができたのですね。
・午後は、仏ノ山峠から笠間稲荷神社まで。
仏ノ山峠〜笠間稲荷神社はグーグル地図では6.5 km。午後の旅程は距離が短く下りでしょうから、一行にとっても気楽だったのでは。
・笠間稲荷神社。日本三大稲荷に数えられることもある有名な神社です。「井筒屋彦兵衛殿方」は、笠間稲荷神社近くの宿屋。2011年の東日本大震災による被災で廃業。現在は「かさま歴史交流館井筒屋」として明治期の建物が保存されています。
https://www.kasamaidutsuya.com/
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三月十三日 #明治18年伊勢参詣
笠間を出立。水戸の城市まで馬車に乗る(賃金十五銭)。この間五里。十一時頃着。和泉屋文三郎方で昼食。
昼食後、雷神社及び常磐社を拝す。常磐社の後方は公園地で梅木に充ちている。下方に千波湖が見え、風景佳し。
弘道館を見物。寒水石の大石碑あり(高さ二間余、巾九尺位)。水戸市中を見物。役場は甚だ宏大である。
水戸から船で湊まで行き(水戸市内から二里)、蛭子屋藤吉殿方で泊。泊料十六銭。
(コメント)
・本日の旅程は笠間(茨城県笠間市)〜水戸(茨城県水戸市)〜湊(茨城県ひたちなか市)。グーグル地図上で約35 km。本日は水戸までは馬車、初めての馬車の利用ですが、市部では馬車の利用が可能だったようです。料金は5里で一人15銭ですから、人力車に比べると実は高くはありません(人力車6里で16銭払ってます)。
・「雷神社」は、水戸市元山町にある別雷皇太神(べつらい こうたいじん)。つくば市の金村別雷神社、群馬県板倉の雷電神社とともに関東三雷神と呼ばれている神社。
・「常磐社」は常磐神社(ときわじんじゃ)。水戸市常磐町所在。徳川光圀・徳川斉昭を祀っています。常磐神社に隣接して偕楽園があり、日記では「公園地で梅木に充ちている」と記しています。眼下には千波湖が見え、風光明媚です。
・その後、弘道館や役場も見学しており、現代の観光旅行的な雰囲気も感じられますが、やはり寺社の参詣がメインの旅です。
・本日の宿が所在する「湊」は那珂湊(現ひたちなか市)のこと。町村制施行時には那珂郡湊町。その後、那珂湊町→那珂湊市と名を変更し、平成の大合併時に、ひたちなか市となっています。
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三月十四日 #明治18年伊勢参詣
湊を出立。磯浜(湊から一里)の海辺に沿って大洗山社があり。同社を拝す。(人力)車で鉾田まで。里程六里、賃金二十銭。午後一時頃鉾田に着。
午後九時に、沢屋方から利根川(注:北浦の間違い)を蒸気船に乗り大船津に上陸。里程十里位。午後十二時頃 に若松屋方へ着き、同所泊。泊料十一銭(半泊のため)。
(コメント)
・本日の旅程は湊(茨城県ひたちなか市)〜 大船津(現鹿嶋市大船津)。約51 km。茨城県の県央から南部まで来ました。今日の交通手段は徒歩、人力車。蒸気船とバラエティーに富んでいます。
・「磯浜」は磯浜村、現在の大洗町磯浜町。1954年(昭和29年)以前は「磯浜」が自治体名でした。同年に合併して、大洗町となっています。
・「大洗山社」は、大洗磯前神社のこと。太平洋に面した岬の丘上にあります。
・大洗磯前神社から鉾田(現鉾田市)までは6里あるので、人力車。人力車を多く利用しており、この時代旅行には欠かせなかったようです。
・鉾田から大船津(現鹿嶋市大船津)まで蒸気船。蒸気船はこの日記では初出。鉄道がまだ普及していない明治前半には舟運が力をもっていましたが、蒸気船も登場していたことがわかります。
・大船津には鹿嶋神宮一之鳥居があり、鹿島神宮の玄関口。旅館も参道又はその近くにあったのでしょう。なお、現在ある一之鳥居は2013年6月に建てられたもの。
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三月十五日 #明治18年伊勢参詣
大船津を出立。そこから二十丁程で鹿嶋神社あり。その社を参拝す。
利根川を小舟で横切り、津宮に上陸(川里程三里位)。香取神社を参拝す(津宮から十六丁)。同社から二十丁で佐原町。この町はなかなか盛況である。(人力)車で滑川まで(五里)。賃金は二十銭。梅屋道太郎殿方へ泊。泊料十七銭。
(コメント)
・本日の旅程。大船津(茨城県鹿嶋市大船津;鹿島神宮)〜滑川(千葉県成田市滑川)。グーグル地図上では38 km。茨城県から千葉県に入りました。
・茨城県南部といえば、鹿島神宮への参詣は落とせません。鹿島神宮は言わずとしれた常陸国一宮。大船津に一の鳥居があり、神宮までは参道。参道は約2キロ強あり、常吉たちが泊まった宿も参道沿いにあったのでしょう。
・次いで香取神宮へ向かいます。大船津からは利根川を小舟で横切り、津宮(現香取市津宮)に上陸します。津宮鳥居河岸には香取神宮の一の鳥居が利根川に面して立っています。ここが香取神宮への表参道口でした。鹿島神宮も香取神宮も、一の鳥居が水面に建てられており、そこから参道になっています。
・陸上交通が発達途上である明治10年代には、江戸時代と同様、舟運がまだ力をもっていたことがわかります。
・香取神宮から佐原町(現香取市佐原)まで20丁(2キロ強)。この間は徒歩のようです。佐原から滑川(成田市滑川)までの五里(20キロ)は人力車。運賃は宿泊代よりも高く20銭支払っていますが、長旅で疲れないようにするためには必要な投資ということでしょうか。
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三月十六日 #明治18年伊勢参詣
滑川を出立。成田まで五里。成田には十二時に着く。成田山社(成田山新勝寺)を参拝する。その御社は宏壮。 若松屋貞次殿方で昼食。大雨が降って来たため、(人力)車で佐倉まで。佐倉まで三里、賃金は三十銭。駿河屋又兵衛門方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・本日の旅程。滑川(千葉県成田市滑川)〜佐倉(千葉県佐倉市)。グーグル地図上では24 km。千葉県内を移動し、佐倉まで来ました。本日のメインは成田山新勝寺。
・滑川(成田市滑川)を出発。同地には坂東三十三箇所の滑河山龍正院(滑河観音)があるのですが、日記には記載がないので、素通りのようです。
・滑川から歩いて、成田山新勝寺へ。
・昼食を「若松屋貞次殿方」でとありますが、若松楼という旅館で経営者は土井貞次が正しいようです。若松楼は現在、「旅館若松本店」という名で新勝寺の門前にあります。
・旅館の経営者土井貞次氏は嘉永六年二月 (1853)生まれ。人事興信録にその名あり。明治21年に『成田山独案内』を著しています。
・成田から佐倉までは大した距離ではなく当初は徒歩行を予定したようですが、大雨の為に人力車に変更。三里で運賃30銭と従前よりもかなり高い(一昨日は5里で20銭でした)。
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三月十七日 #明治18年伊勢参詣
佐倉を出立。(人力)車で大和田まで乗る。里程三里二十九丁。賃金二十銭。大和田から船橋まで二里二十丁。船橋の佐渡屋方で昼食。
船橋から(人力)車で東京両国橋まで乗る。里程六里。賃金三十三銭。馬喰町二丁目の會津屋利兵衛殿方へ着いたのは夜八時頃。同所泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・本日の旅程。佐倉(千葉県佐倉市)〜両国橋(東京都墨田区)。グーグル地図上では45km。一気に東京に入りました。
・佐倉(佐倉市)を出発し、大和田(八千代市大和田)まで人力車に乗ります。大和田〜船橋(船橋市)までは徒歩。
・船橋で昼食後、東京両国橋まで人力車。6里(24キロ)と記載されていますが、実際は20キロ位。距離の記載は不正確なものが散見されます。
・宿は馬喰町の會津屋。馬喰町に宿があるのは、江戸時代以来の伝統であり、この時期にもまだその伝統が生きています。
猪苗代を出てから11日目で東京に到着。
次回からは東京見物編となります。