南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

裁判所構成法を読む 第3編司法事務ノ取扱 第4章-第6章 125条-144条 終

2024年02月29日 | 治罪法・裁判所構成法
裁判所構成法を読む 第3編司法事務ノ取扱
第4章-第6章 (125条-144条)

公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

第4章 裁判所及ビ檢事局ノ事務章程
#裁判所構成法
第125条 裁判所及ビ檢事局ノ標準ト爲スべキ規則ハ、司法大臣之ヲ定ム。
2 控訴院長及ビ檢事長ハ、前項ノ規則ニ依リ、各自管轄區域内ノ裁判所及ビ檢事局ニ對シテ、事務ノ一般ノ取扱ニ關リ、成ルべク統一ヲ旨トシ、殊ニ裁判所及ビ檢事局ノ開廳時間及ビ開廷ノ時日ニ付、訓令ヲ發ス。
3 大審院ハ、自ラ其ノ事務章程ヲ定ム。但シ、之ヲ實施スル前、司法大臣ノ認可ヲ受ク。
(コメント)
①裁判所及び検事局の標準規則は、司法大臣が制定する、②控訴院長及び検事長は、この規則によって、事務取扱について訓令を発する、③大審院は自身の事務章程を制定する。
標準規則こそ司法大臣が制定するが、管轄区域内の裁判所についての事務取り扱いは、各控訴院(現高裁に相当)が訓令を出すことができるので、地域毎に事務取り扱いが異なったことが窺える。

   第5章 司法年度及ビ休暇
#裁判所構成法
第126条 司法年度ハ、一月一日ニ始マリ十二月三十一日ニ終ハル。
(コメント)
司法年度とは司法事務の取り扱いについての年度であり、1月〜12月である。このことは本条により規定されていたが、戦後、裁判所構成法が廃止されてからは、下級裁判所事務処理規則2条で定められている。

#裁判所構成法
第127条 裁判所ノ休暇ハ、七月十一日ニ始マリ九月十日ニ終ハル。
(コメント)
裁判所構成法では、裁判所の休暇が定められていた。その期間は7月11日〜9月10日である。現在は夏期の休廷期間が設けられているが、その法的根拠についてはすぐには探し当てられなかった(「裁判所の休日に関する法律」には夏期休廷期間について定めていない)。

#裁判所構成法
第128条 休暇中ハ左ノ事件ノ外、既ニ著手シタル民事訴訟ヲ中止ス。且ツ、新ナル訴訟ニ著手セズ。
第一 爲替手形、若ハ約束手形、其ノ他ノ流通證書ニ關ル請求
第二 船舶、又ハ運送賃、又ハ積荷ニ對スル請求
第三 財産差押事件
第四 住家其ノ他ノ建物、又ハ其ノ或ル部分ノ受取・明渡・使用・占據若ハ修繕ニ關リ又ハ賃借人ノ家具若ハ所持品ヲ賃貸人ノ差押ヘタルコトニ關リ、賃貸人ト賃借人トノ間ニ起リタル訴訟
第五 養料ノ請求
第六 保證ヲ出サシムルノ請求
第七 取掛リタル建築ノ繼續ニ關ル事件
第八 前數項ニ掲ゲタルモノヲ除ク外、區裁判所ノ判事ニ於テ、又ハ民事訴訟法ノ定ムル所ニ從ヒ、休暇部若ハ休暇部長ニ於テ直チニ著手スべキ緊急ノモノト認メタル請求若ハ事件
(コメント)
裁判所の休暇中(127条;7月11日〜9月10日)は原則として、係属中の民事訴訟は中止となる。また新たな訴訟には着手しない。

#裁判所構成法
第129条 休暇中ニ拘ラズ、刑事訴訟、非訟事件、判決執行、破産事件竝ビニ民事訴訟法ニ依リ略式ヲ以テ取扱フコトヲ得ヘキ訴訟ハ、之ヲ停止スルコトナシ
(コメント)
裁判所の休暇中に停止となるのは民事訴訟であって、刑事訴訟等本条に記載されている類型の事件は停止しない。

#裁判所構成法
第130条 合議裁判所ニ於テハ、休暇中事務取扱ノ爲、休暇部ト稱スル一若ハ二以上ノ部ヲ設ク。
2 休暇部ノ組立ハ、休暇ノ始マル前裁判所長之ヲ定ム。第二十三條ハ此ノ部ニモ亦之ヲ適用ス。
3 二人以上ノ判事ヲ置キタル區裁判所ノ休暇事務取扱方法ハ、監督判事之ヲ定ム。
(コメント)
裁判所の休暇中に停止となるのは民事訴訟であって(民事訴訟でも例外あり)、刑事訴訟等は停止しない。そこで、本条により休暇部を設け、休暇中の事務を取扱わせる。

 第6章 法律上ノ共助
#裁判所構成法
第131条 裁判所ハ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依リ、互ニ法律上ノ輔助ヲ爲ス。
2 法律上ノ輔助ハ、別ニ法律ニ定メタル場合ノ外ハ、所要ノ事務ヲ取扱フべキ地ノ區裁判所ニ於テ之ヲ爲ス。
(コメント)
「法律上の共助」は、現行法では「裁判所の共助」といい、裁判所が事件を処理する際に相互に与える法律上の援助をいう。
現行法は以下のとおり規定(裁判所法)。
第七十九条(裁判所の共助) 裁判所は、裁判事務について、互に必要な補助をする。

#裁判所構成法
第132条 檢事局モ亦、各自ノ管轄區域内ニ於テ、取扱フべキ事務ニ付キ、互ニ法律上ノ輔助ヲ爲ス。
(コメント)
検事局についての法律上の共助に関する規定。

#裁判所構成法
第133条 裁判所書記課モ、亦其ノ權内ノ事件、又ハ其ノ配下ノ執達吏ノ權内ノ事件ニ付キ、互ニ法律上ノ輔助ヲ爲ス。
(コメント)
裁判所書記課についての法律上の共助に関する規定。

  第4編 司法行政ノ職務及ビ監督權
#裁判所構成法
第134条 合議裁判所長、區裁判所ノ判事、若ハ監督判事、檢事總長、檢事長、檢事正ハ、司法大臣ノ由テ以テ、司法行政ノ職務ヲ行フノ官吏トス。
(コメント)
本条に規定されている者が、司法行政の職務権限を行うことができる。「合議裁判所長」とは、大審院長、控訴院長、地方裁判所長のこと。各々の権限は次条(135条)に規定されている。

#裁判所構成法
第135条 司法行政監督權ノ施行ハ、左ノ規程ニ依ル。
第一 司法大臣ハ、各裁判所及ビ各檢事局ヲ監督ス
第二 大審院長ハ、大審院ヲ監督ス
第三 控訴院長ハ、其ノ控訴院及ビ其ノ管轄區域内ノ下級裁判所ヲ監督ス
第四 地方裁判所長ハ、其ノ裁判所、若ハ其ノ支部及ビ其ノ管轄區域内ノ區裁判所ヲ監督ス
第五 區裁判所ノ一人ノ判事若ハ監督判事ハ、其ノ裁判所所屬ノ書記及ビ執達吏ヲ監督ス
第六 檢事總長ハ、其ノ檢事局及ビ下級檢事局ヲ監督ス
第七 檢事長ハ、其ノ檢事局及ビ其ノ局ノ附置セラレタル控訴院管轄區域内ノ檢事局ヲ監督ス
第八 檢事正ハ、其ノ檢事局及ビ其ノ局ノ附置セラレタル地方裁判所管轄區域内ノ檢事局ヲ監督ス
(コメント)
本条は、前条(134条)に規定されている者が、各々のどの範囲で司法行政の職務権限(監督権)を行うのかを規定している。

#裁判所構成法
第136条 前條ニ掲ゲタル監督權ハ、左ノ事項ヲ包含ス。
第一 官吏不適當、又ハ不充分ニ取扱ヒタル事務ニ付キ、其ノ注意ヲ促シ、竝ビニ適當ニ其ノ事務ヲ取扱フコトヲ之ニ訓令スル事
第二 官吏ノ職務上ト否トニ拘ラス、其ノ地位ニ不相應ナル行状ニ付キ、之ニ諭告スル事。但シ、此ノ諭告ヲ爲ス前其ノ官吏ヲシテ、辯明ヲ爲スコトヲ得セシムべシ。
(コメント)
本条は、司法行政の職務権限(監督権)の内容についての規定である。

#裁判所構成法
第137条 第十八條及ビ第八十四條ニ掲ゲタル官吏ハ、第百三十五條ニ依リ行フべキ監督ヲ受クルノ官吏中ニ之ヲ包含ス。
(コメント)
司法行政の職務権限(監督権)は、内部職員だけに限らない。例えば、本条法18条は、「
區裁判所檢事局ノ檢事ノ事務ハ、其ノ地ノ警察官・憲兵・將校・下士又ハ林務官、之ヲ取扱フコトヲ得」と規定しており、憲兵等にも及ぶ。監督権はこれらの官吏にも及ぶ。

#裁判所構成法
第138条 裁判所、若ハ檢事局ノ官吏ニシテ、適當ニ其ノ職務ヲ行ハザル者、又ハ其ノ行状其ノ地位ニ不相應ナル者ニ付キ、第百三十六條ヲ適用スルコト能ハザルトキハ、懲戒法ニ從ヒ之ヲ訴追ス。
(コメント)
裁判所・検事局の官吏を懲戒すべき場合についての規定。監督権者は、訓令・諭告を行うことができるが(裁判所構成法136条)、同条を適用することが不適当なほど、職務を行わない者等については懲戒法により対処すべきである。

#裁判所構成法
第139条 前數條ニ掲ゲタル司法行政ノ職務及ビ監督權ハ、判事、若ハ檢事其ノ官吏タルノ資格、又ハ其ノ他ノ資格ヲ以テ爲シタル事ニ對シテ起リタル請求ニ付キ、其ノ請求ヲ滿足セシムル爲、之ヲ執行スルコトヲ得ズ。
(コメント)
司法行政の職務及び監督権は、判事・検事の官吏の資格又はその他の資格による行為に対して起こった請求については、執行することができない。

#裁判所構成法
第140条 司法事務取扱ノ方法ニ對スル抗告、殊ニ或ル事務ノ取扱方ニ對シ、又ハ取扱ノ延滞、若ハ拒絶ニ對スル抗告ハ、此ノ編ニ掲ゲタル司法行政ノ職務及ビ監督權ニ依リ之ヲ處分ス。
(コメント)
司法事務取扱方法に対する抗告は、司法行政の職務及び監督權によって対処する。

#裁判所構成法
第141条 裁判所及ビ檢事局ハ、司法大臣、又ハ監督權アル判事若ハ檢事ノ要求アルトキハ、法律上ノ事項又ハ司法行政ニ關ル事項ニ付キ意見ヲ述ブ。
(コメント)
①司法大臣、②監督権ある判事又は検事が要求すれば、裁判所・検事局は法律上の事項、司法行政に関する事項について意見を述べなければならない。

#裁判所構成法
第142条 司法官廳ニ對シテ起リタル民事ノ訴訟ニ於テハ、其ノ訴訟ヲ受ケタル裁判所ノ檢事局ハ、司法官廳ヲ代表ス。
(コメント)
司法官庁を被告として訴訟が提起されたときは、その訴訟を受付た裁判所の検事局が司法官庁を代表する。

#裁判所構成法
第143条 此ノ編ニ掲ゲタル前各條ノ規程ハ、裁判上執務スル判事ノ裁判權ニ影響ヲ及ボシ、又ハ之ヲ制限スルコトナシ。
(コメント)
本編(司法行政ノ職務及ビ監督權)の各規定は、裁判を執務する裁判権に影響を及ぼしたり、制限することはできない。

附則
#裁判所構成法
第144条 此ノ法律ノ施行ニ關ル規程、竝ビニ從來ノ法律ニシテ、此ノ法律ニ牴觸ストモ當分ノ内仍ホ効力ヲ有セシムルモノハ、別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム。
(コメント)
附則。以下は別に法律をもって定める。
①本法律の施行に関する規程
②本法に抵触するが、当分の間は有効とするもの





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月26日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
江戸で仕事を見つけるのはタイヘン。辻番の口があるといわれたが、場所が小網町。知り合いと会いそうで、身バレしたらやばいので断念。元浜町の本屋(尾張屋市蔵)が仕事をくれた。軍書関ヶ原の写し作成。二冊持ち帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛が小網町で辻番バイトを避けたのは知り合いと会いそうだからです。江戸小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面からの江戸の窓口なのです。
・五郎兵衛に軍書の写し作成のバイトが見つかりました。本屋のある元浜町は、五郎兵衛らの居住地(神田松枝町)からそれほど遠くない場所です。元浜町は、現在の日本橋大伝馬町と日本橋富沢町に跨る地域。

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
軍書本の写しに取り掛かる。幽学先生は買い物に行かれた。惣左衛門殿はいつもどおり弁当持参で早朝から掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が写しを作成しているのは、関ヶ原関係の軍書本です。この年(嘉永7年)1月16日にはペリーが再び浦賀に来航しております。軍書本の写し作成のバイトが入ったのは、ペリー来航による軍事的なニーズの増大が背景にあるのかもしれません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
今日も軍書本の写し。高松力蔵様が来られ、夕方にはお帰りになった。惣左衛門殿は早朝からいつもの掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も五郎兵衛は、関ヶ原関係の軍書本の写し作成のバイト。五郎兵衛は書くのが好きなのでしょうね。江戸在府中は一日も欠かさず、日記を付けていますし、筆まめです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は馬喰町肴店で美濃紙を買って来られた。惣左衛門殿のバイトは休みなので、小生と一緒に髪結いし、昼から風呂に入る。その後、小石川の高松様方に行き、義論集を借りてきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は五郎兵衛の仕事(軍書の写本作成)も休みのようです。同じく休みの惣左衛門とノンビリ。『義論集』というのは、大原幽学と道友らの討論を編纂し記録したもの。大原幽学記念館で入手可能です。
発行 大原幽学120年祭奉賛会
昭和53年11月30日
A5/97頁 ¥700


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣左衛門殿はいつもの掃除バイトのほかに、日雇いの仕事あり。
小生、丁子屋でタバコを買う。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨日、髪結いと昼風呂、小石川まで行き義論集を借り、今日はタバコを買いに行っています。軍書本の写しのバイトが一段落したからでしょうか。ノンビリした様子です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

嘉永7年2月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
帰村の挨拶に来る者多し。小生は元浜町の本屋で、写し用の本(軍書)を三冊持ち帰った。馬喰町で紙を買い、写しを行う。幽学先生から「忙しさにかまけて、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届いていない!」と叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
関ヶ原関係の軍書二冊を写し終えたようです。軍書三冊を本屋から持って帰ってきており、新しい仕事に取り掛かる五郎兵衛でした。しかし、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届かず、幽学先生に叱られてしまっています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除バイト(弁当持参)。帰りに京菜を買ってきてくれたので、漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記に出てくる「京菜」は水菜のこと。ミズナ(水菜)は京都で発達した菜類で、関東ではキョウナ(京菜)とも呼ばれています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
雨が降って寒し。軍書の写しを行う。昨日惣右衛門殿が買ってきたくれた京菜の漬け直しもする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「雨が降って寒し」
旧暦2月中旬ですから、太陽暦だと3月中旬〜下旬でしょうか。この時期に南岸低気圧が通ると、関東には北風が入り込み、冷たい雨(又は雪)になります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が辻番のバイトの話しを持ってきてくれた。「五郎兵衛は借家の掃除や賄いをしてくれているので、辻番のバイトではなく、本の写しの仕事の方が良いだろう」と幽学先生から話しがあった。引き続き本の写しを行うことなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「辻番」とは江戸時代、江戸市中の武家屋敷の辻々に大名・旗本が自警のために設置した見張り番所。この時期辻番のバイトの口が結構あったことは、道友たちの中でも辻番をしている者がいることからもわかります。
⇒本ブログ末尾「付 辻番」参照

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
元浜町の本屋に行く。写しの注文あり。三冊持って帰る。
夕方から肩の張り、口内の痛みで休む。
晩に京橋の辺りで火事。三丁ばかり焼いたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、元浜町の本屋から新たな本の写しの仕事を取ってきました。今回も三冊。結構ハイペースで無理をしてるようにも見えます。肩の張りは写しの仕事のし過ぎ、口内の痛みはストレスから来ているようにもみえます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付 辻番(2月上旬ブログの続き)
今回の日記でも辻番のことが話題になっています(2月19日条)。
石井良助『江戸の町奉行』によって、辻番の実際を見てみましょう。
江戸の土地の六割は武家地(大名や旗本の屋敷のある所)です。江戸の辻番の数はある統計では899あったとされており、うち大名設置が219、旗本設置が680でした。
この辻番には配置基準があり、1万石〜1万9000石までの大名の場合は、昼3人、夜5人、2万石以上の場合は昼4人、夜6人です。旗本の組合 で作った辻番では昼2人、夜4人です。夜に厚く配置しなけれぱならないため、夜の辻番の求人が多くなるのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎府での死刑は事後報告で処置してもよいですか 仮刑律的例 25 死刑臨機処置

2024年02月24日 | 仮刑律的例
長崎府での死刑は事後報告で処置してもよいですか
仮刑律的例 25 死刑臨機処置

【長崎府からの伺】明治二年正月
明治2年正月、長崎府から問い合わせあり。
【伺い】
先般死刑は刑法官に伺うべき旨の御布告がありました。問題が生じた時々に伺いをなすべきではありますが、当府は遠路隔絶した場所にありますので、伺書の往復は時間がかかります。特に刑事事件は、その者を斬に処し、衆人に対する戒めとするタイミングというものがあります。時宜により当府限りで処置させていただき、その内容につき至急お届けすることにしたいので、この点につきお伺致します。以上。
【返答】
正月十七日に押紙で返答。
伺いの書面の通り取り計らってよし。

(コメント)
・長崎府からの伺いです。このときは「長崎府」でした(長崎府は、慶応四年(明治元年)五月から明治二年六月まで存続し、以後は、長崎県)。
・伺いにあるように、このときは死刑につては刑法官に伺いを立てなければなりませんでした。長崎は遠方の地であり、速やかに刑を宣告し、執行を行いたいことから、長崎府は刑法官に伺いを立てることなく、後でそのことを報告するようにしたいと要請しており、刑法官としてはそれで良いとの返答です。
・「刑法官」は慶応四年(明治元年)閏四月の政体書の発布に伴って設けられた司法機関で、明治二年七月には「刑部省」に改組されています。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町役人就任の儀式続く 文政12年2月中旬・色川三中「家事志」

2024年02月22日 | 色川三中
町役人就任の儀式続く 文政12年2月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月11日(1829年)少々雨
町奉行らに振舞い。御奉行の藤井様、小幡様には、それぞれ土佐ぶし七つ、上酒一升。町役人には吸物三通とかさめし。町組小頭の野口殿には味鴨一番、並酒一升。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。むし平目三枚、上酒一升。
(コメント)
の御奉行土浦藩土浦藩の町奉行二名(藤井様、小幡様)に土佐節と上酒を献上しています。土佐節とは、高知県に伝承されてきた、枯れ節と呼ばれる硬質の鰹節。無形民俗文化財に指定されています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月12日(1829年)
町役人の入用道具。
杖、ぬり笠、提灯、火事羽織、袖合羽、脇差。脇差は、先祖の徳右衛門のものを使わせていただく。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉3名。鰹節二つ、酒肴代として金一朱、酒一升。
(コメント)
町役人として必要な道具が列挙されています。脇差は先祖から伝わるもの(三中の先祖は町役人を勤めていました)。先日の血判を押す儀式でもこの脇差を使用したのでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月13日(1829年)晴
朝から(土浦藩の)御奉行や町組小頭へ羽織袴でご挨拶に行く。御奉行の藤井様にお目通りできた。小幡様は留守だったので、昼過ぎに再訪。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉7名。青銅二百疋、めばる二つ、大むし平目鰹節二枚、酒一升、カナガシラ五つ、半紙五状扇子一対添、半紙五状。
(コメント)
町役人に就任後の儀式が続いています。今日は、藩の御奉行へのご挨拶。藤井様にはすぐ会えましたが、小幡様はあいにく留守。アポイントして会うという時代ではありませんので、昼過ぎに再訪せざるをえませんでした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月14日(1829年)晴
祖父のいる川口の蔵の者に祝儀として、酒二升と平目を贈った。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉4名。酒一升、酒一升、むし平目五枚、半紙五状。
(コメント)
三中の祖父は川口(土浦市川口)の蔵で醤油を作っており、蔵にいる者に三中が祝儀として、酒二升と平目を贈っています。世話になっている祖父に対してという意味と、醤油業の方の立て直しも計っており、働いている者へのモチベーションアップの狙いもあるように思われます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月15日(1829年)晴
御代官所で博奕をした者への裁判があった。町役人は立会人として同席。博奕をさせた宿に対し、科料二貫五百文、出会人三名に各一貫五百文を明後日までに支払うよう言い渡し。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉5名。餅二せいろ(組合9名一同から)、酒一升、酒一升、大そひ二つ、酒一升手札。
(コメント)
土浦藩の刑事裁判。町役人の立会いが必要。町役人の押印は、今はお白州から小玄関に降りた後に押す(以前はお白州で押していた)とか、お白州に入るときは羽織は脱いで入ると等細かいことも書き記しています(本文では略)。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月16日(1829年)
みの(大町喜兵衛の後家;当69歳)は、14年前に自宅で博打をし、その後逃亡していたところ、先非を悔いて戻ろうと願書を作成してきた。町役人として、奥印を押すことについてお伺いをした。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉5名。酒一升、大平目二枚、平目三枚と上酒一升、大平目一枚、酒一升。
(コメント)
奥印とは、書類に記載された事実の正しいことを証明するために奥書に印をおすこと。当時は町役人がこの役割を担っていました(現代では公証人の役割でしょう)。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月17日(1829年)南風少々雨
彼岸の中日であり、朝、神龍寺に参詣。和尚から「この度は町役人になられてお目出度いことです。ところで、以前名主であった入江のご隠居さんは、貴殿のよろしくないところを私にも話しているので、気を付けてください。他の役人の方々を困らせるような詮索はしないように。」との話しあり。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。半紙五状扇子一対添、酒一升。
(コメント)
三中は日記であまり人の悪口は書かないのですが、さすがに今日の神龍寺の和尚から聞いた入江の隠居の話しは無視できなかったのでしょう。人の悪口というのは、所構わずベラベラと喋るものではありませんね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月18日(1829年)
先日、鹿島大長様へご祈祷料として金百疋を奉納したところ(与兵衛に持っていかせた)、今日御祈祷御札が届いた。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。カナガシラ、古きだち一つ
(コメント)
三中の鹿島神宮への信仰は篤いですね。
今回は祈祷料の奉納。鹿島地域は重要な営業対象になっていることもありますが、行商でも鹿島神宮に立ち寄ることが多いので、鹿島神宮への尊崇の念は日記の端々は表れます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月19日(1829年)晴
先日、いせ山茂兵衛が、いいだや屋敷を購入した。茂兵衛から金一朱の礼をもらう。不動産売買の書類に町役人として奥印をしたことへの礼。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉本日はなし
(コメント)
奥印とは、書類に記載された事実の正しいことを証明するために奥書に印をおすこと。町役人が公証機能を果たしていたのです。その手数料はこんな形の御礼として収められるのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月20日(1829年)晴 南風猛
堰とめ切りのため、町役人栗山八兵衛殿と共に堰場へ行く。藩からは郷目附来栖殿、皆川殿、御代官の手代軍蔵殿がお出でになった。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉1名。あこ魚三つ。
(コメント)
「堰とめ切り」とあるのは、堰を切って用水路に水をいれることでしょうか。用水の重要性からか、藩の役人及び町役人の立ち会いで行われるようです。
祝儀でもらった「あこ魚」→アコウダイのこと?

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判所構成法を読む 103条-124条 第3編司法事務ノ取扱第1章-第3章

2024年02月19日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

裁判所構成法を読む 103条-124条
第3編司法事務ノ取扱第1章-第3章

第3編 司法事務ノ取扱
第1章 開廷

#裁判所構成法
第103条 開廷ハ裁判所又ハ支部ニ於テ之ヲ爲ス。
2 司法大臣ニ於テ、事情ニ因リ必要ナリト認ムルトキハ、區裁判所ヲシテ其ノ管轄區域内ノ一定ノ場所ニ於テ職務ヲ行ハシムルコトヲ得。
(コメント)
「開廷」につき規定しているのが本章である。開廷は裁判所又は支部においてするのが原則である(区裁判所につき例外あり;本条2項)。

#裁判所構成法
第104条 訴訟審問ノ上席及ビ指揮ハ、合議裁判所ニ於テハ、開廷ヲ爲シタル裁判長ニ屬シ、區裁判所ニ於テハ、開廷ヲ爲シタル判事ニ屬ス。
2 裁判長ニ屬スル權ハ、裁判上一人ニテ執務スル判事ニモ亦屬ス。
(コメント)
訴訟審問の上席及び指揮権は、合議裁判所では裁判長にある。区裁判所は単独裁判官であるので、開廷をなした判事がその権限を行使する。

#裁判所構成法
第105条 裁判所ニ於テ、對審ノ公開ヲ停ムルノ決議ヲ爲シタルトキハ、其ノ決議ハ其ノ理由ト共ニ公衆ヲ退カシムル前之ヲ言渡ス。此ノ場合ニ於テ、裁判所ノ判決ヲ言渡ストキハ、再ビ公衆ヲ入廷セシムべシ。
(コメント)
裁判は公開が原則であるが、安寧秩序又は風俗を害するおそれがあるときは、法律により、又は、裁判所の決議をもって、対審の公開を停めることができる(帝国憲法59条)。裁判所構成法では、裁判所の決議で対審公開の停止をするときの手続きにつき定める。

#裁判所構成法
第106条 裁判長ハ、公開ヲ停メタルトキモ、入廷ノ特許ヲ與フルコトヲ至當ト認ムル者ヲ入廷セシムルノ權ヲ有ス。
(コメント)
前条で裁判公開原則の例外を規定しているが、そのような場合でも、裁判長の裁量で入廷を認めることはできることを本条は規定する。

#裁判所構成法
第107条 裁判長ハ、婦女・兒童及ビ相當ナル衣服ヲ著セサル者ヲ、法廷ヨリ退カシムルコトヲ得。其ノ理由ハ之ヲ訴訟ノ記録ニ記入ス。
(コメント)
裁判は公開が原則であることは帝国憲法にも規定されているが、本条により婦女や児童は退廷を命じることができた。現行法にはこのような差別的な規定は存在しない。

#裁判所構成法
第108条 開廷中秩序ノ維持ハ裁判長ニ屬ス。
(コメント)
法廷の秩序維持に関する規定。現行裁判所法にも同様の規定がある。「法廷における秩序の維持は、裁判長又は開廷をした一人の裁判官がこれを行う。」(裁判所法71条1項)

#裁判所構成法
第109条 裁判長ハ、審問ヲ妨グル者又ハ不當ノ行状ヲ爲ス者ヲ、法廷ヨリ退カシムルノ權ヲ有ス。
2 前項ニ掲ゲタル違犯者ノ行状ニ因リ、之ヲ勾引シ閉廷ノトキマデ之ヲ勾留スルノ必要アリト認ムルトキ、裁判長ハ之ヲ命令スルノ權ヲ有ス。閉廷ノトキ裁判所ハ之ヲ釈放スルコトヲ命ジ又ハ五圓以下ノ罰金若ハ五日以内ノ拘留ニ處スルコトヲ得。
3 此ノ處罰ニ對シテハ、上告ヲ許シ、控訴ヲ許サズ。且其ノ所爲ノ輕罪若ハ重罪ニ該ルべキモノナルトキハ、之ニ對シテ刑事訴追ヲ爲スコトヲ得。
(コメント)
法廷の秩序維持のため、裁判長は退廷権限を有する。退廷させることができる者は、「審問ヲ妨グル者又ハ不當ノ行状ヲ爲ス者」であり、この点は現行裁判所法71条2項とほぼ同様である。

#裁判所構成法
第110条 前條ノ規程ハ、左ノ變更ヲ以テ當事者・證人及ビ鑑定人ニモ亦之ヲ適用ス。
第一 裁判所ハ閉廷ヲ待タズシテ、本條ノ違犯者ヲ即時ニ罰スルコトヲ得。
第二 違犯者原告ナルトキハ、裁判所ハ處罰ノ上、仍本人宥恕ヲ請フカ又ハ恭順ヲ表シテ不敬ノ罪ヲ謝スルマデ其ノ審問ヲ中止スルコトヲ得。
(コメント)
当事者・証人らが、「審問ヲ妨グル者又ハ不當ノ行状ヲ爲ス者」の場合の特則。①開廷中でも違反者を処罰できる、②違反者が原告のときは本人が謝罪するまで審問を中止できる。

第2章 裁判所ノ用語
#裁判所構成法
第115条 裁判所ニ於テハ、日本語ヲ用ウ。
2 當事者・證人又ハ鑑定人ノ中、日本語ニ通セザル者アルトキハ、訴訟法又ハ特別法ニ通事ヲ用ヰルコトヲ要スル場合ニ於テ、之ヲ用ウ。
(コメント)
裁判所では日本語を用いる(現行法にも規定あり;裁判所法74条)。しかし、すべての場合に通事を用いるのではなく、訴訟法又は特別法に通事(通訳)が必要と規定している場合にのみ裁判所は通事を用いる。

#裁判所構成法
第116条 通事ノ任命及ビ使用、竝ビニ訴訟手續上其ノ行フべキ職務ニ關ル規則ハ、司法大臣之ヲ定ム。
(コメント)
通事(通訳)の法的根拠については前条(115条)。本条で、通事に関する規則を司法大臣に委任している。

#裁判所構成法
第117条 通事ノ得難キ場合ニ於テ、書記其ノ言語ニ通ズルトキハ、裁判長ノ承諾ヲ得テ、通事ニ用ヰラルルコトヲ得。
(コメント)
適切な通事が見当たらないが、書記が当該言語に通じるときは、書記が通事を行うこともできるとの規定。通事や書記の育成システムができておらず、裁判所の書記に多様な人材がいたことがうかがえる。

#裁判所構成法
第118条 外國人ノ當事者タル訴訟ニ關係ヲ有スル者、及ビ其ノ訴訟ノ審問ニ参與スル官吏ノ或ル外國語ニ通ズル場合ニ於テ、裁判長便利ト認ムルトキハ、其ノ外國語ヲ以テ、口頭審問ヲ爲スコトヲ得。但シ其ノ審問ノ公正記録ハ、日本語ヲ以テ之ヲ作ル。
(コメント)
裁判所では日本語を用いるというのが原則であるが(裁判所構成法115条1項)、本条により例外的に外国語で審問を行うことができるとの規定。条約改正問題で外国人に配慮した規定でおる。現行法にはこのような規定は存在しない。


   第3章 裁判ノ評議及ビ言渡
#裁判所構成法
第119条 合議裁判所ノ裁判ハ、此ノ法律ニ從ヒ、定數ノ判事之ヲ評議シ及ビ之ヲ言渡ス。
(コメント)
区裁判所は判事一人で裁判を行うが、地裁、控訴院、大審院は合議裁判所である。この場合、定数の判事が評議をし、言渡しを行わなければならない。

#裁判所構成法
第120条 四日以上引續クべキ見込アル刑事ノ審問ニ於テ、裁判所長ハ補充判事一人ヲ命ジ、之ニ立會ハシムルコトヲ得。此ノ補充判事ハ、其ノ審問中或ル判事ノ疾病其ノ他ノ事故ニ因リ、引續キ参與スルコトヲ得ザル場合ニ於テ、之ニ代リ審問及裁判ヲ完結スルノ權ヲ有ス。
(コメント)
補充判事に関する規定。現行法でも、「補充裁判官」の表題のもとに同趣旨の規定が存在するが(裁判所法78条)、活用されてはいないようだ。連日開廷を前提とした規定だが、実務では五月雨式が定着してしまったからであろう。

#裁判所構成法
第121条 判事ノ評議ハ之ヲ公行セズ。但シ、豫備判事及ビ試補ノ傍聴ヲ許スコトヲ得。
2 判事ノ評議ハ、其ノ裁判長之ヲ開キ且ツ之ヲ整理ス。其ノ評議ノ顛末、竝ビニ各判事ノ意見、及ビ多少ノ數ニ付テハ、嚴ニ秘密ヲ守ルコトヲ要ス。
(コメント)
評議の秘密。現行法(裁判所法75条)にもこの条文がほぼ受け継がれている。
裁判所法第七十五条(評議の秘密) 合議体でする裁判の評議は、これを公行しない。但し、司法修習生の傍聴を許すことができる。
② 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。

#裁判所構成法
第122条 評議ノ際、各判事意見ヲ述ブルノ順序ハ、官等ノ最モ低キ者ヲ始トシ、裁判長ヲ終トス。官等同キトキハ、年少ノ者ヲ始トシ、受命ノ事件ニ付テハ、受命判事ヲ始トス。
(コメント)
評議の際の意見を述べる順序についての規定。官等の低い者、年少の者から始めるべきというのは、長幼の序が重んじられていた時代背景があるのでしょう。現行法では、このような規定はなく、裁判官が評議で意見を述べなければならないとの規定のみ置かれている(裁判所法76条)。

#裁判所構成法
第123条 裁判ハ過半數ノ意見ニ依ル。
2 金額ニ付、判事ノ意見三説以上ニ分レ、其ノ説各々過半數ニ至ラザルトキハ、過半數ニ至ルマデ最多額ノ意見ヨリ順次寡額ニ合算ス。
3 刑事ニ付、其ノ意見三説以上ニ分レ、各々過半數ニ至ラザルトキハ、過半數ニ至ルマデ、被告人ニ不利ナル意見ヨリ順次利益ナル意見ニ合算ス。
(コメント)
評決について。現行法(裁判所法77条)にもこの条文がほぼ受け継がれている。裁判は過半数の意見によること、意見が三説以上に分れ、その説が各々過半数にならないときの処理方法。

#裁判所構成法
第124条 判事ハ、裁判スべキ問題ニ付、自己ノ意見ヲ表スルコトヲ拒ムコトヲ得ズ。
(コメント)
判事の意見表明義務を期待したもの。評議をするためには意見表明が必要だからである。現行法でもこの点は引き継がれている(裁判所法76条)。
第七十六条(意見を述べる義務) 裁判官は、評議において、その意見を述べなければならない。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸でバイト探しする幽学一門 嘉永7年2月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月15日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸でバイト探しする幽学一門 嘉永7年2月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方、三河町の万徳(公事宿)へ挨拶に行き、その後、御奉行所へ着届け。(淀藩の)上屋敷に行き、御添翰(旅行手形)を足立様に提出する。昼過ぎに借家に戻ると、幽学先生おられる。病気願いを出していて奉行所にはいかなかったよう。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判の被告人とされている者は、江戸に着いたら、①奉行所に着届けを出し、②所領を管轄する役所に御添翰(旅行手形)を提出して所在をはっきりさせます。五郎兵衛らは、奉行所には万徳という公事宿にいることにしているので(実際は借家暮らし)、公事宿にも挨拶は欠かせません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿ほか三名が邑楽屋(公事宿)から借家に引っ越してきた。その手続きで、良祐殿と惣右衛門殿は御役所へ行き、武三郎殿は地頭所へ行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学や五郎兵衛ら道友が借家暮らしをしているのは、江戸滞在費を浮かせたいからです。今日、4名が借家に引越してきたのも、それが目的でしょう。居住地の役所には話しをつけておいた上で、奉行所には借家暮らしは内緒にしています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿は渋谷に出かけて、夕方に借家に戻られたところ、幽学先生に叱られた。キセルで三回も打たれた。「孫の世代が我々の江戸滞在費のために奉公までしているのに、お前は硯箱等を買いに行くというのはどういう根性なのだ」。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学の道友(糸川)平右衛門への怒りが炸裂。平右衛門に贅沢志向があるからといって、キセルで三回も打擲するのは、現代であればどう考えても行き過ぎ。指導者なのですから、教え諭せばよいことです。それができないほど、幽学先生も精神的に追い込まれていたのかもしれません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昨日ハデに叱られた平右衛門殿は、江戸を立って荒海村に戻られるそうだ…。今日も幽学先生は大荒れで、武三郎にも当たり散らし、良祐殿にも「お前も平右衛門と同じだ、どういう根性をしてる!」と怒っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は道友平右衛門が怒られていましたが、今日は武三郎(米込村の差添人)が標的になっています。昨日ハデに叱られた平右衛門は、荒海村に戻ってしまいました。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昨日の平右衛門殿に続き、今朝は武三郎殿が帰村してしまった。幽学先生に怒られたのが原因か…。
江戸滞在費稼ぎのためのバイト。幸左衛門殿は地頭所藪様の門番(昼から)。良祐殿は、佐竹様の辻番(夜から)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
叱られた武三郎は村に戻ってしまいます。一方、江戸滞在費稼ぎのためのバイトが始まりました。門番や辻番のバイトの口があったようです。五郎兵衛はまだバイトが決まりません。
(菅谷)幸左衛門が見つけてきた、「地頭所藪様の門番」。幸左衛門は諸徳寺村(香取郡)の出で、藪様こと旗本藪富次郎が同村を治めています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿、夜の辻番を終えて、昼に帰ってきた。石川様のところで辻番・下掃除番のバイトの口があるとのこと。通いで惣右衛門殿がやることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐殿が辻番のバイトをしているのは、久保田藩(秋田藩)佐竹家が建てた辻小屋(内山朝治「武士にて候」)。辻番小屋は大名・旗本が建てることを義務づけられていましたが、実際の辻番は非正規雇用のバイトだったのですね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿の辻番&掃除バイト、今日最終的に決めてきたそうだ。小生も何かやらないと。夜の辻番だったら、バイトの口はあるらしいが(長左衛門からの情報)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、まだバイトが決まりません。仲間内ではバイトの口が決まってきているので、五郎兵衛も焦りを隠せません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿、今日から掃除バイト。早朝に弁当持参で出かけていった。幽学先生は、藤元屋で木刀四本買って来られた。これを売って儲けるそうだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の日記は裁判日記なのですが、ここ最近は江戸のバイト事情日記になっています。皆がバイトに精を出しているのに、幽学先生は木刀等の転売ヤーを目指しているようです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

嘉永7年2月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
長左衛門がバイト情報を教えてくれた。「今すぐは夜番のバイトはなかった、三月になれば見つかるかも」とのこと。この間は夜番はすぐ見つかるといってたぞ!
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長左衛門は一昨日は「夜の辻番だったら、バイトの口はあるらしい」と話していたのですが(2月7日条)、今日になって「やっぱりなかった、3月まで待って」というちゃぶ台返し。いい加減な情報に五郎兵衛も振り回されちゃっています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年2月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿、今日も早朝から掃除バイト(弁当持参)。幽学先生は仕入れの為の買い物。昼過ぎに戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門殿は毎朝早朝から弁当持参で掃除よバイト。幽学先生も転売ヤーに精を出しています。五郎兵衛のバイトは未だ決まらず。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

付1 辻番
2月5日条以降「辻番」との記載が多いので、辻番とはどのようなものかを補足しておきます。
辻番とは、武家地に設置された番所です。江戸の町には「自身番」がありましたが、これは町人が自分たちの経費、責任で設置するものです。「自身番」は町屋敷のものであり、武家地にあったのが「辻番」です。
「武家地には自身番がありませんから、代わりに辻番が設けてありました。寛永六 年(一六二九)に、その頃辻斬が多く行なわれて、諸民が難儀したので、これに備えて設 けたものといわれます。」(石井良助『江戸の町奉行』)
辻番所は、大名または旗本が幕府の命令により設けられます。幕府設置の公儀辻番は八代将軍吉宗の享保年間に廃止され、以後設置されていません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2:地頭について
2月5日条に「地頭所」という言葉が出てきています。
地頭とは、幕府の家臣である旗本、御家人のことです。旗本、御家人を領知との関係で呼ぶときの用語で、旗本では知行所、御家人では給知といいます。
藪家は、藪忠通が徳川吉宗に従い、紀伊藩臣より移ってきた旗本。5000石。下総国相馬郡・香取郡・結城郡、下野国河内郡・都賀郡内に知行を持っていました。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三中、町役人に就任す 文政12年2月上旬・色川三中「家事志」

2024年02月12日 | 色川三中
文政12年2月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月朔(1日)(1829年)
晴 乙丑
#色川三中 #家事志
(コメント)
2月スタート。天気の記載のみ。相変わらず
三中先生は多忙なようです。いつもと変わらぬ生活が続いているように見えて、突然の変化は忍びこんでくるもの。
☆想定外の事態が起こるまであと二日。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年2月2日(1829年)晴
せい(三中の妻)が実家の谷田部から土浦に戻ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻が実家(谷田部)から戻ってきました。せいさんが、実家に行ったとの記事はないので、いつから実家に戻ったのかは不明。三中先生は、結構こういう記載の仕方が多いのですよね。クセですね。
☆想定外の事態が起こるまであと一日。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年2月3日(1829年)晴
昼前に入江(名主)から、お出でいただきたい旨の書状が届く。行ってみると、「先日、中村九平次が町年寄を辞められたので、奉行所からそこもとに町年寄となるよう仰せがあった」と。辞退したい旨申し上げたが、奉行所からの話しでもあり検討して返答することとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
なんと三中が町年寄に就任!?
奉行所(土浦藩)からいきなりの連絡(実際の連絡は名主から)。事前の告知はなく、三中もビックリ仰天。本日の日記はかなり長く、三中の心中を表しています(もっとも、ツイートではバッサリと要約)。三中としては、多忙な上に持病(喘息)をかかえており辞退したいようですが、どうなりますか…。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年2月4日(1829年)南風 天気暖
昨夜、町年寄就任の可否について親族で相談。多忙、持病(喘息)あり、弟も元服したばかりで面倒を見ないといけない。町年寄はムリ。本日、親族の総意を色川庄右衛門殿から伝えてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親族会議を開きましたが、三中としては町年寄は請けない方向性。しかし、町年寄は奉行所(土浦藩)の任命であり、断ることができるのでしょうか…。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月5日(1829年)雨
町年寄就任の相談にのってもらった親類宅へ先日相談にのってもらった礼に行く。町年寄は断ることはできなさそうだ。請けてよいかどうかの相談をする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雨の中、親類宅へ御礼参り。やはり土浦藩の方では、三中の個人的な都合は聞いてくれず、町年寄の役職は請けざるを得ないようです。その点についても親族に相談。この時代は親族コミュニティの理解が大切なのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月6日(1829年)晴 初午
この度大国屋勘兵衛殿が、家督を相続した。御上に御礼に行った帰りに、我ら方へも挨拶に来た。扇子一箱、風呂敷一つを頂戴する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大国屋勘兵衛という方が家督相続の御礼参り。町人の有力者だからでしょうか、御上(土浦藩の上層部?)の他、町役人に就任予定の三中にまで挨拶に来ています。挨拶回りの習慣が社会の隅々にまで行き渡っています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月7日(1829年)晴 西風
町役を請けることとなった。
昼過ぎ入江(名主)から、御奉行所の御用のため、羽織袴で名主宅まで来られたしとの書状来る。同じく町役となる奥井吉右衛門と共に入江宅へ行く。入江同道で町奉行所へ行く。→
#色川三中 #家事志
→奉行所で町年寄の仰せあり。その後夕方まで各所に挨拶回り。夜五つ過ぎ(午後8時)からは、知り合いが宿で酒肴を出すお祝い。八ツ(午前2時)までかかる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が町年寄に正式に任命されました。挨拶回りからの宴会というパターンは今と同じ。夜遅くまでの宴会も。なお、挨拶回り先ですが、三中は丁寧にも全て記録しています。「御年寄衆、吟味衆、御目附衆、組頭、御代官、御歩行目附、郷目附、下目附等」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年2月8日(1829年)晴
町年寄となったことを、五人組や親類等に伝える。親類には自ら挨拶に行った。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉4名。それぞれ酒一升。
(コメント)
町年寄に就任した為、今日からお祝いが届きます。三中は「祝儀覚」として記録しています。名前は煩瑣なので省略し、人数と何をもらったかをツイートしていきます。今日は酒一升。これが最上級のお祝いなのでしょうね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月9日(1829年)晴天 風静か
町年寄就任。奉行の面前で血判を押す。土浦藩の町奉行から「この度、町年寄を仰せ付けられたので、誓紙神文に血判を仰せ付ける」とのお言葉あり、お請けすると答える。町組小頭が誓紙を読み上げた後、小づかを抜いて薬指で血判した。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉3名。酒一升。酒一升とひらめ一枚。鴨一羽。
(コメント)
町年寄就任に際しては、誓紙神文に血判を押すという儀式をしなければならないようです。奉行の面前で差している刀の小柄で薬指を切って、血判を押します。文政といえば江戸後期ですが、このような武士文化が残っていたのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年2月10日(1829年)少々雨
町役に振舞い。入江(名主及び隠居)や親類を呼ぶ。七つ(午前10時)に客揃う。吸物五通、本膳。引菓子として羊羹、五文まんじゅう。八つ半(午後3時)までに客は帰った。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉7名。味鴨一番。割酒一升。酒一升。扇子一対+小半紙10状。メバル五つ。メバル小五つ。カナガシラ七つ。
(コメント)
町年寄就任関係の儀式が続きます。本日は役振舞。名主や親類を自宅によんで、ご馳走をだします。このような儀式をこなすのは喜びもあり、また準備や気づかいも大変かと思います。日記を読んでいる方としては、当時の儀式が分かって勉強になります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
色川三中の町年寄の就任について、中井信彦『色川三中の研究 伝記編』に以下の記載があり、参考になります。
「文政十二年(一八二九)二月七日、三中は南町奉行所に呼び出されて、中城分町年寄の任命をうけた。三中二十八歳の春である。
城下町土浦の町々は、中城町と東崎町との二つの町組に編成され、南北両町奉行所の支配に属していた。そして、両町組にそれぞれ一名の町名主と、それを補佐する複数(二一四名)の町年寄が任命され、また百姓代(一三名)が置かれていた。幕領の名主・年寄・百姓代の村方三役制が、城下町土浦の町組に準用されていたわけである。三中の薬種店(「本店」と称した)のある田宿町は中城町組に属し、醤油店のあった川口町は東崎町組に属していたのである。」






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性に笞刑はできないので、どうすれば… 仮刑律的例 24 徒刑処置

2024年02月08日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 24 徒刑処置

【京都府からの伺】明治元年十二月廿六日
穢多の身分の女性四人が共謀等して窃盗等を致しました。被害額を規則に引当ててみますと、笞百回又は五拾回に相当します。女性でありますので、笞刑は避けたいと考えております。
そこで、徒刑場を作った上で、徒刑を宣告することを考えましたが、穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりましたので、徒刑を宣告することもできないようにも思えます。
どのような刑とするか当府において検討すべきところですが、明治政府のお考えも承知致したく、お伺いするものです。
①無宿の穢多りう、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金弐両壱歩三朱と銭百四拾文。
②無宿の小鶴、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金五両弐歩弐朱と銭五百文。
③無宿のとく、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金六両弐歩壱朱と銭四百文。
④無宿の小せん、共謀して盗取した品物 売捌いて配分された金額は、金弐両老朱。

【返答】
非人や婦女は、それぞれ区別をして徒刑を行うのが最も良い。徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい。


(コメント)
・この伺いが出されたのは明治元年ですので、穢多非人等の称や身分が残っていました。これらがされたのは、明治4年8月28日(1871年)の太政官布告です。
・本件伺いに名前が挙げられている者たちが、どのような理由により窃盗に及んだかは書かれてはいないものの、政治経済が不安定な世の中で、経済的弱者が一層弱い立場に置かれていたであろうことは、容易に想像できます。
・窃盗の刑は被害額によって定められていました。公事方御定書では重敲、軽敲といった笞刑をすべき旨規定されており、明治政府はこの回数を次のとおり仮定めしていました(明治元年十一月四日の京都府の伺いへの回答)。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
(以下略)
これを当てはめると、女性たちには笞50回又は100回という刑になってしまいます。
・しかし、ここで京都府は「女性でありますので、笞刑は避けたい」と考えます。こういう感覚は非常に重要です。公事方御定書では、笞刑としか書いていないのです。ですから、笞刑を宣告してもそう書いてあるから仕方ないで済ませることも可能です。
・しかし、京都府の担当者は、女性だから笞刑はやり過ぎだろうという感覚をもっていました。そこで、本件の伺いとなったのです。
・「女性だから笞刑はやり過ぎ」という考え方は現代の人権感覚に通ずるものがありますが、一方で「穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりました」というところは、差別そのものの発想であり、人権感覚とは対極にあります。
・明治政府は、①徒刑を行うのがよい、②徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい、③徒刑を行う場合は、婦女、非人は区域を別にすべきとの回答でした。
女性には笞刑を避けるが、非人との差別は残すとの京都府の考え方と同じです。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸へと出府する五郎兵衛 嘉永7年1月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月05日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年1月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

今回は1月28日から始まります。
五郎兵衛は嘉永6年12月16日(1853年)〜嘉永7年1月27日までありません(帰村しているときは日記をつけていないため)。
1月28日、五郎兵衛が長沼村(現成田市長沼)から出立するところから、日記は再開します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年1月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長沼村を朝方出立。七郎右衛門殿、勘左衛門殿と一緒に龍角寺村で休憩。大森宿に昼過ぎ着。暮方に元俊医師来られ、大森の御役所の松村様に会いに行く。松村様からは、江戸での宿替えのことにつきお話しがあった。日暮れの後、大森の宿へ戻り、夕食を取る。荒海村の平右衛門殿と惣右衛門殿と宿で合流し泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長沼村(現成田市長沼)から龍角寺村(栄町龍角寺)を経由して、大森宿へ(印西市大森)。大森役所(淀藩の役所)に元俊医師と共に赴き、公事宿を替えたことについて話しをしています。本日は大森宿で泊まりです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

嘉永7年1月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方に大森宿を出立(元俊医師は長沼に戻った)。行徳には昼過ぎに着き、泡雪で昼食。夕方、船に乗り江戸へ着く。松枝町には日暮れ後に到着。平右衛門殿と惣右衛門殿は蓮屋に行く。干潟組は邑楽屋へ。幽学先生、伊兵衛父、幸左衛門殿と小生は、松枝町の借家。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は大森宿(印西市大森)を出立。行徳に着いて一休みし、ここから江戸までは船。公事宿(蓮屋、邑楽屋)に宿泊する者と松枝町の借家暮らしをする者とに分かれます。また、明日から奉行所からの呼び出し待ちの江戸での日々が始まります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

嘉永7年1月に30日はありません(小の月のため)。#五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

旧暦に31日はありませんので、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文政12年1月下旬・色川三中「家事志」

2024年02月01日 | 色川三中
文政12年1月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月21日(1829年)晴
本日は三中先生休筆につき、お休みですが、別の日に御触書を写したものがあるので、要約しておきます。
#色川三中 #家事志

御触書
・人別改めは毎年公儀に届出るものであるから、厳重に行わなければならない。
・借地、店借りの者はもちろんのこと、婿や嫁等厄介となっている者も身元を聞きただして、村役人から人別を送ってもらい、当地の人別に加えるべきてある。
・他所へ引っ越した者、離縁して里に帰した者はは、その者の村の役人に人別を送って、当地の人別から除くべきである。
・このような手続きが近年はお座なりとなっているので、小前の者にまでこのことを知らせ、厳重に行うべきである。
丑正月
以上のとおり、町御奉行所から仰せ渡しがあったので、町方の御触れとする。
中城町 役元
#色川三中 #家事志

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月22日(1829年)晴
・色川助右衛門が、向かいの屋根の普請を初めて頼んできた。
・色川庄右衛門が密談に来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代には苗字はなかったというのは俗説で、苗字を公称できなかったというのが正しいそうです。三中の日記でも、武士でなくても苗字を付しているものは多数でてきます。今日の日記もその一つです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年1月23日(1829年)晴
叔父の利兵衛が江戸に向かって出立。
与兵衛と佐助は鹿嶋へ営業のため出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店を手伝っている叔父の利兵衛、従業員の与兵衛と佐助がいずれも出張。江戸や鹿嶋への旅なので、しばらくは帰ってきませんね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

文政12年1月24日(1829年)晴
色重(色川重兵衛)と(大町)久七が、「左官利兵衛との借入れ交渉は難しく、我々ではできそうにない」と交渉の仲介役を断りにきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、左官利兵衛からの借入れ交渉を大町久七に依頼していましたが(昨年12月17日条)、ここに来て暗礁に乗り上げてしまったようです。仲介役は交替させて交渉するしかありませんね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月25日(1829年)晴 西風
左官利兵衛との借入れ交渉を田中清吉、間原平右衛門に頼む。30両借りたいのだが、左官は10両しか出さないという。平右衛門は左官と話しをしてくれたが、増額はほとんどできなさそうである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
左官利兵衛との交渉の内容が本日の記事でようやくわかりました。借入れ金額は、三中が30両、左官が10両。双方がこの金額を突張ねては、まとまる訳がありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月26日(1829年)晴
左官利兵衛から金銭借入れ交渉の件、沼畑藤吉が小作している田を質に入れ、11両を3年返済で借入れることで話しがついた。質入れする田からすると借入れは安いものだが、義理もあるのでやむを得ないところであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
借入れ金額につき開きがあったこの交渉ですが(三中30両、左官10両)、最終的には11両で決着。三中が妥協しました。仲介役が変わったのですが、10両から1両しか上乗せになりませんでした。この辺りでやむを得ないところだよ、と説得されたのでしょうか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月27日(1829年)晴 風
昨日左官利兵衛から金銭の借入れが無事できたので、名主の入江に礼として酒一升を遣わす。田中清吉には醤油粕二駄遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日金銭貸借契約を無事成立させることができましたので、名主と田中清吉に祝いの品を贈っています。田中清吉は、三中と相手方との間に入って交渉をまとめることを仕事としているようです。このような仲介の仕事をしている人は少なからずいたのでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月28日(1829年)晴
春になったのに寒い(余寒甚だし)。しかし、ここのところ天気は穏やか。板橋不動尊へ参詣に行きたいが、利兵衛殿が江戸へ行って不在であるし、今いる従業員には留守を任せられないし、残念である、嗚呼…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は板橋不動尊が好きなんですね。
土浦からは結構距離があるのですが(片道20キロ)、天気が穏やかだ(まだ寒い)というだけで板橋不動尊に行きたいなぁと思うのですから。28日は不動明王の縁日なので、こんな風に思ってしまうのでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年1月29日(1829年)甲子 晴
天気晴朗。昨夜、色川庄右衛門殿が参られた。五人組には話しておかなれければならないことなので、組には今日話しをしなければ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川庄右衛門については1月22日に「密談に来た」という記事があります。密談したというだけあって、日記には内容への言及はありません。話しが進んで、五人組には話しておかなければならなくなったようです。相変わらずどんな話しかはわかりませんが、重要なことではあるのでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1月30日
#色川三中 #家事志 お休みのお知らせ。
文政12年1月は小の月のため、30日は存在せず、お休みです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1月31日
#色川三中 #家事志 お休みのお知らせ。
旧暦には31日は存在せず、お休みです。









  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする