南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

高安宗悦

2023年09月30日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
高安宗悦については、色川三中の日記『家事志』中に言及されていたことから、以前記事にしたことがあります(→「十三枚と高安宗悦」)。
今回、高安宗悦について詳しく記載されていたものを見かけましたので、ご紹介します(『香取郡誌』大正10年)。

(十三枚)
高安宗悦は、香取郡新島村扇島(現千葉県香取市扇島)の人。先祖は河内国高安郡で楠木氏に臣事したが、扇島に移ってきたという。その住むところを「十三枚」といい、「本世堂」と号し、代々接骨を行って著名となった。そのため、十三枚の地名は、高安医師を指すこととなった。

(十三代宗悦)
十三代高安宗悦の技は妙を極め、神技といわれた。患者も遠くから来て、門に並ぶ者が引きも切らなかった。扇島は便がよいとはいえないが、入院する患者の数は毎日50〜60人以上。家伝の薬である本世散は毎年数万包を製造するまでになった。
十三代宗悦は天保の飢饉に際し、私財をなげうって困窮した者を助けた。老中水野越前守(忠邦)は金200枚と銀銭を与えて、これを賞した。
また、水戸斉昭に招かれて治療に当たり、銀及び三人扶持を与えられた。斉昭の臣藤田東湖も馬から落ちて怪我をしたので、十三代宗悦に診てもらったことがある。
十三代宗悦は明治27年2月19日に没した。

(十四代宗悦)
十三代宗悦の子は、その名を凌節といった。宗悦の名を継ぎ十四代宗悦となった。医業の傍ら書画を嗜み、「松園」と号した。大正8年1月26日に没した。

(十五代宗悦)
十四代宗悦の子は、その名を宗春といった。宗悦の名を継ぎ、十五代宗悦となった。専門医学校を卒業し、明治38年陸軍三等軍医となり正八位に叙せられ、戦功により勲六等を賜った。十五代宗悦は祖業を継ぐばかりでなく、公益特に郷里の発展に尽くした。


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死んだ者を裁いて良いですか? 仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置

2023年09月28日 | 仮刑律的例

#仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置
(紀伊藩)からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
うちの家来が京都出張中に犯罪に関与していることがわかりました。出張から戻ったら、取調べようとしておりましたが、京都で病死してしまいました。この者の死体はどうすればよいですか。
【返答】
藩主から親類へ引き渡してやるがよい。

以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
(徳川新中納言(紀伊藩)から)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
当藩の家来川端文四郎は、本年九月から公用で京都に出張させておりましたが、不審な事実が判明し、吟味をすべきこととなりました。しかし、同人は京都にて病死致しました。その際、検死にどのようにすべきかと問い合わせましたら、「仮埋めにするがよかろう」との返答でした。この度、共犯者には禁錮を申し付けましたが、川端文四郎の死骸についてはどのように取りはからえばよいか御沙汰のほどお願い致します。
【返答】
川端文四郎については、不審の筋があり、吟味をすべきであったところ、病死したというのであるから、死骸はまず紀伊藩藩主に渡されるべきであり、その上で親類どもへ引き渡されるべきである。

【コメント】
・紀伊藩からの伺いです。江戸時代は徳川御三家の一。徳川新中納言と呼ばれているのは、徳川 茂承(もちつぐ)。紀伊藩の最後の藩主です。
・今回の伺いは、裁判にかけたかったのに、かける前に死んでしまった者の遺体をどうすべきか?というもので、明治政府は「最終的には親類に引き渡せ」と回答しております。現代では当たり前のことなので、何でこのような伺いや返答をしなければならないのか不審に思われる方もおられるでしょう。
・江戸時代は、現代と異なり、死体に対して判決を行っていたのです。シーボルト事件に関与した高橋景保のケースを見てみます。し
文政11年(1828年)10月10日、逮捕。伝馬町牢屋敷にて身体拘を受ける。
翌文政12年2月16日、牢屋敷で死去。
死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられる。
・現代では起訴されていても、裁判中に死亡すれば、遺体は遺族に引き渡され、裁判は終了(公訴棄却)となります。
しかし、江戸時代は、一部の犯罪(注)について、死体は遺族には引き渡されず、塩漬けで保存され、裁判の対象となり、判決を言い渡されて、刑の執行まで受けるのです。
・紀伊藩は江戸時代の感覚で、家来の死体は保存して裁判にかけるべきなのかどうかを明治政府に伺い、明治政府は江戸時代の考えから決別して、死亡した場合は裁判の対象とはならないと回答したのです。今の視点からは当たり前に見えますが、当時は画期的なことだったのではないでしょうか。

(注)刑の執行前に死亡した場合に死体を塩詰めの上に処刑する犯罪は、主殺し、親殺し、関所破り、重謀計です(公事方御定書)。




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公金横領した家来でも改元前の犯罪は処罰できず #仮刑律的例 #14大赦による罪科の扱い

2023年09月25日 | 仮刑律的例

#仮刑律的例 #14大赦による罪科の扱い
(信濃飯山藩からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿日
一 藩の家来が、昨年藩の印を偽造し、四名の者とつるんで貸主から650両を騙しとりました(藩が貸主に弁償)。また、それとは別に藩の金を千両以上使い込んでおりました。 家来は死罪、その他四名は永牢(終身刑)でよいでしょうか。
【返答】
当春に大赦の布告をしている。昨年以前の犯罪は赦さないとダメ。

以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

【伺い】明治元辰年十二月廿日
当藩の家来が、昨年藩の印を偽造し、他四名と連印して650両を借入れるという詐欺事件を起こしました。650両は藩の方で貸主に返済し、藩には返済されておりませぬ。また、この者、調べましたら、藩の金を千両余り使い込んでおりました。
家来は重々不埒であり死罪申し付けるべきですが、先般のご布告もありますので、如何に処置すべきかご教示ください。
一 650両をだまし取ったその他四名については、藩の方への被害弁償もありませんが、家来と異なり藩の金の使い込みはありませんので、死罪から一等減じて永牢(終身刑)としたいがよろしいでしょうか。
【返答】辰十二月廿七日
当春に大赦の布告をしており、昨年の罪科は赦すべきである。
但し、このような家来を置くことは藩に迷惑であろうから、家来から外してもよい。
【コメント】
・信濃飯山藩からの伺いです。現在の長野県飯山市に藩庁がありました。同藩は、享保2年(1717年)、本多氏が越後糸魚川藩より入封、以降本多氏10代が明治維新まで飯山城に居を構えていました。この伺いは、正式には本多乙次郎(本多助寵)の名前で出されております。
・問題となっているのは、家来の詐欺・横領事件。家来がその他4名(おそらくこよ4名は家来ではないのでしょう)と共謀し、貸主から650両を詐取。この事件をきっかけにして調べてみたら、千両以上の使い込み(業務上横領)が見つかりました。
・この犯罪、昨年以前に起きています。伺いの日付が明治元年十二月ですから、飯山藩さんは今まで何をやっていたんだろうかということになりますが、この辺り小藩(2万石)の弱みなのかもしれません。
・ところで、明治に改元となったことで大赦が出されており、この年一月以前の犯罪は大赦の対象となってしまいます。明治政府の返答はこれを踏まえており、昨年以前の犯罪は処罰できず、赦さなけれぱならないとされています。
・本来であれば、死罪になっていた飯山藩家来・その共謀者ですが、飯山藩の処理の遅さから命拾いしました。
・以前備中浅尾藩のケースを紹介しました。このケースは、家来が藩の公金1640両を盗んだというものですが、大赦以後の犯罪なので、死罪は間違いなしというものでした。たった一年の違いでこのような違いが出てしまうのが、大赦のスゴいところです。

主家の大金を盗んだ者はさらし首 仮刑律的例 #4梟首 - 南斗屋のブログ

#仮刑律的例#4梟首(要約)(明治元年九月、備中浅尾藩からの伺)当藩の家来が①本年7月、留守居役の者から提出された証文をすり替えて百両を藩から...

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裁判所構成法 を読む 第1編 裁判所及檢事局  第1章 總則

2023年09月23日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

第1編 裁判所及檢事局
第1章 總則
#裁判所構成法 第1条〜第10条 
第1条 左ノ裁判所ヲ通常裁判所トス
第一 區裁判所
第二 地方裁判所
第三 控訴院
第四 大審院
(コメント)
裁判所構成法は1890(明治23)年2月10日公布、同年11月1日施行。裁判所百年史という本が最高裁判所事務総局 編から1990年に出版されています、が、その起点はこの裁判所構成法にあります(裁判所構成法前にも裁判所はあったはずですが)。
裁判所構成法1条は四種類の通常裁判所を規定しています。現代に置き換えるとこのような感じでしょうか。
一 區裁判所⇒簡易裁判所
二 地方裁判所⇒地方裁判所
三 控訴院⇒高等裁判所
四 大審院⇒最高裁判所
法施行時の裁判所数は、大審院1、控訴院7、地方裁判所48、区裁判所300でした。

#裁判所構成法
第2条 通常裁判所ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス。但シ、法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ屬セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス。
(コメント)
・「通常裁判所」と「特別裁判所」が対置されていることがわかる条文。特別裁判所の管轄にしたものは、通常裁判所では裁判できないという規定。明治憲法第60条「特別裁判所ノ管轄ニ属スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と軌を一にしています。なお、現行憲法では特別裁判所は設置できません(憲法76条)。
・通常裁判所は「民事刑事」を裁判することはできますが、行政事件は対象から外れています。行政事件は司法裁判所の対象外となり、行政裁判所の管轄となっていました(行政裁判法)。

#裁判所構成法
第3条 地方裁判所、控訴院及ビ大審院ヲ合議裁判所トシ、數人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ總テノ事件ヲ審問裁判ス。但シ訴訟法又ハ特別法ニ別段規定シタルモノハ此ノ限ニ在ラス。
(コメント)
地方裁判所、控訴院、大審院は原則合議裁判所であり、法律で例外を設けた場合は判事単独で裁判ができるという規定。ここには区裁判所は入っていないので、区裁判所では判事単独での裁判ということですね。

#裁判所構成法
第4条 裁判所ノ設立、廢止及管轄區域竝ニ其ノ變更ハ、法律ヲ以テ之ヲ定ム。
(コメント)
裁判所の設立、廃止、管轄区域、その変更は法律事項であるという規定。
裁判所法2条2項(現行)
「下級裁判所の設立、廃止及び管轄区域は、別に法律でこれを定める。」

#裁判所構成法
第5条 各裁判所ニ相應ナル員數ノ判事ヲ置ク。
(コメント)
各裁判所の判事の員数は「相応」なので、人数は決められていなかったということですね(大審院も)。現行では地裁、高裁は同様の規定がありますが、最高裁判所判事は員数が決められています。「相応な員数」という文言は裁判所法にも引き継がれています。
現行法(裁判所法)の規定は次のようなものです。
第十五条(構成) 各高等裁判所は、高等裁判所長官及び相応な員数の判事でこれを構成する。
第二十三条(構成) 各地方裁判所は、相応な員数の判事及び判事補でこれを構成する。

#裁判所構成法
第6条1項 各裁判所ニ檢事局ヲ附置ス。檢事ハ刑事ニ付公訴ヲ起シ、其ノ取扱上必要ナル手續ヲ爲シ、法律ノ正當ナル適用ヲ請求シ及び判決ノ適當ニ執行セラルルヤヲ監視シ、又民事ニ於テモ必要ナリト認ムルトキハ通知ヲ求メ其ノ意見ヲ述フルコトヲ得。又裁判所ニ屬シ若ハ之ニ關ル司法及行政事件ニ付公益ノ代表者トシテ法律上其ノ職權ニ屬スル監督事務ヲ行フ。
(コメント)
・現行法では、検察庁は法務省の外局ですが、裁判所構成法では、「検事局」という名称で裁判所に付置されています。
・検事の権限。刑事に関しては、公訴を提起し訴訟行為を行い、法律の正当な適用を請求し、判決が適切に執行されるか監視する。民事に関しては、報告要求権、意見陳述権を有していました。さらに公益の代表者として裁判所を監督するものとされています。
・刑事に関しては現在と比べてもそれほどの違いはないですが、民事や裁判所監督事務については随分違います。フランス法と同様検事に大きな役割を持たせています。

#裁判所構成法
第6条(続き)
2 檢事ハ裁判所ニ對シ獨立シテ其ノ事務ヲ行フ
3 檢事局ノ管轄區域ハ其ノ附置セラレタル裁判所ノ管轄區域ニ同シ
(コメント)
検事は裁判所に付置されますが、裁判所から独立して権限を行使します(2項)。検事局の管轄区域は裁判所の管轄区域と同一です(3項)。

#裁判所構成法
第6条(続き)
4 若一人ノ檢事若ハ數人ノ檢事悉ク差支アリテ、或ル事件ヲ取扱フコトヲ得サルトキハ、裁判所長又ハ區裁判所ニ於テ、判事若ハ監督判事ハ、其ノ事件猶豫スヘカラサルニ於テハ、判事ニ檢事ノ代理ヲ命シ其ノ事件ヲ取扱ハシムルコトヲ得。
(コメント)
判事が検事の代理ができるとする規定。まだ検事の人数が少なかったからでしょうか。

#裁判所構成法
第7条 檢事局ニ相應ナル員數ノ檢事ヲ置ク。
(コメント)
検事局にも「相応なる員数」の検事を置くという規定。裁判所と同様、検事局の人数も法律では規定していません。

#裁判所構成法
第8条 各裁判所ニ書記課ヲ設ク。書記課ハ往復會計記録、其ノ他此ノ法律又ハ他ノ法律ニ特定シタル事務ヲ取扱フ。
2 裁判所ニ附置セラレタル檢事局ニ於テ、前項ノ如キ事務ヲ取扱フ爲、必要ナリト認メタルトキニ限リ別ニ、書記課ヲ設クルコトヲ得。但シ合議裁判所ノ檢事局ニ限ル。→
→3 司法大臣ハ裁判所ノ會計事務ヲ専任スル爲、特別官吏ヲ裁判所ニ置クコトヲ得。
(コメント)
「書記課」についての規定。現行法では、「書記官」について定めていますが、書記官とは明らかに別物です。書記官は、裁判所の事件に関する記録を主な職務としていますが、書記課は「往復会計記録」等の事務を行うとされています。

#裁判所構成法
第9条 區裁判所ニ執達吏ヲ置ク。執達吏ハ、裁判所ヨリ發スル文書ヲ送達シ及び裁判所ノ裁判ヲ執行ス。
2 前項ノ外、執達吏ハ此ノ法律又ハ他ノ法律ニ定メタル特別ノ職務ヲ行フ。
(コメント)
執達吏に関する規定。執達吏ノ職務は送達及び執行他であり、区裁判所に置かれていた。現行法では「執行官」。地方裁判所に所属する裁判所職員で、裁判の執行などの事務を行い、送達事務は扱わない(裁判所法第62条、執行官法第1条)。

#裁判所構成法
第10条 法律ヲ以テ特定シタルモノヲ除ク外、左ノ場合ニ於テ適當ノ申請アルトキハ、關係アル各裁判所ヲ併セテ之ヲ管轄スル。直近上級ノ裁判所ハ、何レノ裁判所ニ於テ本件ヲ裁判スルノ權アルヤヲ裁判ス。
第一 權限アル裁判所ニ於テ、法律上ノ理由若ハ特別ノ事情ニ因リ、裁判權ヲ行フコトヲ得ス且此ノ法律第十三條ニ依リ、之ニ代ルヘキコトヲ定メラレタル裁判所モ亦之ヲ行フコトヲ得サルトキ。
第二 裁判所管轄區域ノ境界明確ナラサルカ爲、其ノ權限ニ付疑ヲ生シタルトキ。
第三 法律ニ從ヒ又ハ二以上ノ確定判決ニ因リ、二以上ノ裁判所裁判權ヲ互有スルトキ。
第四 二以上ノ裁判所權限ヲ有セストノ確定判決ヲ爲シ、又ハ權限ヲ有セストノ確定判決ヲ受ケタルモ其ノ裁判所ノ一ニ於テ裁判權ヲ行フヘキトキ。
(コメント)
管轄に関する規定。管轄の問題は実務では時にシビアな問題を生じるが、そうでないと面白いとはいえないので、これ以上のコメントは省略。



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弟、江戸より帰る 文政11年9月中旬・色川三中「家事志」

2023年09月21日 | 色川三中
文政11年9月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年9月11日(1828年)
弟の金次郎、江戸から土浦に戻る。日向医師同道。夕方、知り合い(戸崎村の塚本宗哲)の母君が土浦を通った途中、金次郎の荷物を馬で先に持ってきてくれた。我孫子宿で会った由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
金次郎(三中の弟)が江戸から土浦に帰ってきました。途中の我孫子宿で知り合いが、荷物を持っていってあげると、先に荷物だけ土浦に持っていってくれたのでした。知り合いは馬で、金次郎は徒歩だったようです。
我孫子宿は現在の千葉県我孫子市。我孫子〜土浦は約34 km。
我孫子宿本陣跡-土浦城 大手門跡
(国道6号経由)(34 km)

我孫子宿本陣跡 to 土浦城 大手門跡

我孫子宿本陣跡 to 土浦城 大手門跡




文政11年9月12日(1828年)雨
トラブルとなっていた件は、ひものやから証文の差し入れをする方向で話しが動いている。久松時右衛門殿や組合(五人組)の丸屋重兵衛殿が間に入って話しを進めてくれている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの一件は、交渉が長引いていますが、終わりが見えてきました。仲介に入っている人々が、それぞれきっちり仕事をしてくれると良い解決に向かうのは、今も昔も同じ。


文政11年9月13日(1828年)
ひものやとのトラブルは、ひものやが証文を差し入れたことにより、本日解決。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ついにひものやとのトラブルが解決。差し入れた証文の内容も三中は日記に記していますが長いので省略。

文政11年9月14日(1828年)
本日、金次郎(三中の弟)元服。
髪結いさんに祝い金として金一朱を渡す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
金次郎(三中の弟)が江戸から戻ってきたのは、元服するためでした。これから金次郎も色川家の一員として家業に勤しむことでしょう。金次郎は「美年(みとし)」と名乗り、兄の書いた家事志を書き継いでいくことになります。
「次弟の色川美年は三中が分家し醤油業を引き継いだ際に、本家の薬種業を引き継ぎ、徳右衛門を名乗り、田宿町で製薬・歯磨き製造販売に従事した。」(ウィキペディア

文政11年9月15日(1828年)曇
筑波山に参詣。採薬も行う。従業員の利助を連れていく。北条の佐助方に寄るも不在。山下では晴れていたが、山上は折々曇。筑波山の宿に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日から二泊三日で筑波山登山。目的は筑波山神社への参詣と薬草の採取。近くの山にハイキングに行くかのような記載ですが、三中の家から筑波山神社は約20キロ。今なら20キロ歩くとなると、それだけで丸一日と考えてしまいがちですが、江戸時代の感覚だと半日くらいなのでしょう。朝早くでて、5時間歩いて昼には到着というような感じ。
土浦城 大手門跡-筑波山神社(19 km)

土浦城 大手門跡 to 筑波山神社

土浦城 大手門跡 to 筑波山神社



文政11年9月16日(1828年)曇
朝早く、北条の佐助が筑波山の宿に来。利助、佐助と共に風返峠、十三塚峠を下る。案内人を頼んでいたが、なんだかんだで断られた。やむなく、柿岡(現石岡市)の玄隆老方に泊めてもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
北条は筑波山の麓にある町。北条の佐助は三中の従業員だったのですが、昨年(文政10年)6月に解雇されています。内容は漢方薬の紛失、持ち去り。そんな重要なことをやらかしたのに、ふらっと会いに行くのはちょっと理解できません。双方が和解するような出来事がこの間にあったのか、それとも別人でしょうか。


三中たちのルート
十三塚峠で案内人から見放され、引き換えして反対側の柿岡(石岡市柿岡)に降りざるを得なかったことが分かります。
筑波山神社⇒風返峠⇒十三塚峠⇒柿岡(23 km)

筑波山神社 to 柿岡

筑波山神社 to 柿岡




文政11年9月17日(1828年)雨
雨の中、柿岡(現石岡市)から土浦まで戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
筑波山の参詣と採草の旅も今日で終わり。あいにくの雨ですが。江戸時代の人はこの程度では愚痴りません。
柿岡〜土浦(22 km)

柿岡 to 土浦城 大手門跡

柿岡 to 土浦城 大手門跡





文政11年9月18日(1828年)曇
夜、隣りの家に心学の講師来る。隣りから声をかけられたので聴講。川口のババや母も聞きに来ていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
心学はこの時期流行っていたことが分かる記事。心学の聴講に、三中の母親など女性陣も加わっており、男性と女性の差別もなく、誰でも聴講できています。
⇒末尾参照(付:土浦藩の石門心学について)

文政11年9月19日(1828年)
蜘蛛病の論考(「蜘蛛病考」)が土浦藩から本日返ってきた。一ヶ月前に日向医師が藩の大野様宛に提出したもの。大野様は、題名を「食毒変虫考」としたが良かろうとのご見解。私は「一異疾考」の方が良いと思うが。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛を吐き続ける女性について三中は、日向医師にアドバイスをして、女性を治しました。三中はこれを「蜘蛛病」と呼び、論稿を作成して土浦藩に提出。藩の役人と町人との間にこのような交流があったのですね。

文政11年9月20日(1828年)晴
いせや太郎右衛門が水戸から土浦に来て、親類別家惣評が行われた。借金返済のため、在庫・蔵・諸道具は売払う。正油蔵・穀物蔵・文庫蔵は存続させる。140両の借金があり、毎年30両を支払う予定とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親類別家惣評は、記事の内容からして、財産処分に関する親族会議のことのようです。水戸のいせや太郎右衛門が土浦に来て会議をするのは、親戚が土浦にいるからで、三中もその一人なのでしょう。
正油蔵等は存続し、他の資産を売却して借金を返済していくというリストラ策。三中も多額の債務を負っており、この時期どこもかしこも債務整理が必須だったことが伺えます。親族会議をしても、親戚が資金援助をするという話しになっていないので、どこも余裕がないのでしょう。

(付:土浦藩の石門心学について)
土浦藩の内の小田村(現つくば市小田)では、1794年(寛政6年)に石門心学の拠点が尽心舎が設立されています。ここを拠点に各地に講師を派遣して道話や講釈を行っていました。道話は心学の趣旨を誰にでもわかりやすく、くだけた俗語・比喩を用いて面白く聞かせるもので、一晩に5回ほどあり、一回の聴衆は約10人です(筑波町史)。土浦藩は心学を奨励しており、舎屋建設資金の貸与をしています。
もっとも、この心学天保期になると、その人気は翳り、新規の入門者は急減し、衰退の一途を辿ったとのことです(同書)。



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ニセ金づくりは原則死刑 #仮刑律的例 #13贋金処置

2023年09月18日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #13贋金処置
(明治元年十二月、高山県からの伺)
【伺い】贋金を作ったもの等を死刑にしてよろしいでしょうか。朝敵ですら寛刑となる場合がありますが、贋金作りは朝敵に比すれば刑は軽くても良いとも考えられます。如何なる処置とすればよいか至急御沙汰下されるようお願い致します。
【返答】
朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものであり、本件は法に照らして処断すべきである。
もっとも、本年正月以前の犯罪であれば大赦となるから、犯行の行われた年月を調べて処置をすべきである。


以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

#仮刑律的例 #13贋金処置
高山県からの明治元年十二月の伺い
【伺い】
一 大野郡高山町の源兵衛は、弥助・甚兵衛両人に頼まれて贋金を作りました。
一 高山壱之町の弥助は、源兵衛に依頼し、贋金を作らせたものです。
一 高山壱之町の甚兵衛は、当初贋金を拵えるよう依頼しましたが、その後後悔して贋金を使いませんでした。しかし、贋金事件の主謀者の一人ではあります。
一 高山三之町の利七及び大谷村の清三郎は、それと知りながら、源兵衛から贋金を買い取ったものです。
一 町方村の又右衛門は、清三郎及び藤兵衛の持っていた贋金をそれと知りながら質入をする周旋を行ったものです。
一 高山町方の儀助及び高山壱之町村の藤兵衛は、源兵衛に依頼して、贋金を作らせたものですが、十月から脱走して行方がわからなくなっています。

旧幕府においては贋金に関わったものは、全てこれを死刑に処することになっておりますした。しかし、大逆無道であり、殺してさえ赦してはならない朝敵をも寛刑に処せられております。贋金を者は、もとより重罪ではありますけれども、朝敵に比すればその罪は軽いとも思えます。そこで、贋金作りの者には如何なる処置をすればよいかお伺いします。至急御沙汰ください。

【返答】
朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものであり、本件は法に照らして処断すべきである。
もっとも、①本年正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるので、犯行の行われた年月を調べて処置をすべきである。


【コメント】
・高山県からの伺い。同県は1868-1871年に岐阜県北部に存在したいた県。幕府領であった飛騨国一円を管轄するために明治政府によって設置されました。
・これまでの伺いは藩からのものが多かったのですが、今回の伺いは県からのもの。藩では、江戸時代から刑事裁判に携わっている人材がいて、明治になってからもその担当者が引き続き刑事裁判を担当していたのでしょう。しかし、今回の伺いを見る限り他の伺いよりも文章の構成からして、練れていない感じを受けます。
・贋金作りは公事方御定書では死刑と定められています。ですから、本件に関わった者は全員死刑とすべきとは思いつつ、朝敵でさえ赦されるのだから、贋金作りの者も赦されて良いのではないかとの発想が、初々しくて面白い。
・明治政府からは「朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものである」とあっさりとかわされてしまっています。
・朝敵が赦されるかどうかを考えるよりも
本件犯行の日時がいつかを念頭において、処断すべきというのが、明治政府のアドバイスです。
①本年正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じることになります。高山県の伺いからは、この布告の認識が不明なため、あえてこの点を返答として指摘したのだしょう。
・②は、明治元年9月8日行政官よりの布告によるものです。
「今般御即位、御大礼を済まされ改元を仰せられたので、天下の罪人の当年9月8日までの犯事は、逆罪、故殺及び犯情許し難きものを除いて、全て罪一等を減じることとする。但し、犯情許し難きものについては、府藩県より口書を添付して刑法官へ伺いを出すべきこと」
・明治天皇の即位大礼は明治元年8月27日に、明治への改元は9月8日に行われています。
・布告に「口書」とあるのは、自白調書のこと。自白があれば有罪とすることができましたので、この口書を証拠として判決を言い渡していました。口書を見れば、事件の全体像が把握できるため、減刑しない例外的なケースといってよいかを見極めるために、明治政府は口書の提出を要求したことになります。




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八日市場の裁判所〈千葉地裁〉の沿革

2023年09月16日 | 歴史を振り返る
・千葉地方裁判所の支部の一つに八日市場支部があります。現在の住所は、千葉県匝瑳市八日市場イ2760。
・八日市場には明治9年までには裁判所が設置されています(明治9年10月に八日市場区裁判所設置)。(注)
・その後、裁判制度の改変と共に次のように名称等が変更されています。
明治15年1月 八日市場治安裁判所と改称(治罪法施行のため)
明治16年1月 千葉始審裁判所八日市場支庁を併置
明治23年 裁判所構成法施行
八日市場治安裁判所⇒八日市場区裁判所
千葉始審裁判所八日市場支庁⇒千葉地方裁判所八日市場支部
と改称。
・八日市場の裁判所の庁舎について
当初は八日市場村当町の福善寺、見徳寺等の寺院の一部を借り受けて使用していました。明治10年9月当町字仲町に庁舎を新築、明治30年3月には改築をして、大正10年当時は同庁舎で執務をしています(『匝瑳郡誌』)。

(注)明治8年12月とする説もあり(千葉県弁護士会『千葉県弁護士会史』)。

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井伊家も明治政府には低姿勢 仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い

2023年09月14日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い

(明治元年十二月、近江彦根藩からの伺)
【伺い】死刑については、政府に伺いを致しますが、その他の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか。
【返答】
そのとおり。死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてもよい。

以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い


近江彦根藩の井伊中将より明治元年十二月の伺い
【伺い】天下は府藩県の三治制との仰せであり、藩を治めるにあたっては朝廷の政を遵奉することと承知しております。
さて、死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか。租税など会計のことは違算がないように、従前のとおりその筋へ伺いや届けを致しますが、刑事事件につきましては死刑以外については伺いはどうでしょうか。その点を伺うよう中将が申し付けております。以上
【返答】
刑事事件に関しては伺いのとおりであり、死刑以外については政府に伺いをしなくてよい。

【コメント】
・近江彦根からの伺い。近江彦根藩は井伊家が藩主。明治初年の藩主は井伊直憲。井伊直憲は井伊直弼の子で、このときは中将。
・前回高知藩の伺いを紹介しましたが(#11刑律問合)、高知藩は非常に挑戦的な伺いだったのに比較して、近江藩は甚だ気弱な伺いとなっています。幕末のそれぞれの藩が抱えていた事情が色濃く反映されているのでしょう。
・近江藩の伺いの要点は、「死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか」ということなのですが、それ以外は無駄な部分が多い。
・やたら政府に気を遣ってます。
冒頭の「天下は府藩県の三治制との仰せであり、藩を治めるにあたっては朝廷の政を遵奉することと承知しております」等は、わざわざ我藩は朝廷の政を遵奉致しますとっているのであり、言わずもがな。
・「租税など会計のことは違算がないように、従前のとおりその筋へ伺いや届けを致します」←伺いは刑部省に対してのものなので、会計のことに言及する必要はありませんし、言及しても刑部省が回答できないのは明白。政府の返答が「刑事事件に関しては」という限定を付しているのは、この余計な伺いの一文の故でしょう。
・この伺いから近江彦根藩の当時の立場をうかがい知ることができるのは興味深い。
・この伺いが仮刑律的例として記録された意味。
⇒このときの明治政府の方針が死刑判決に限定されているということです。
裁判担当能力の限界を自白しているといってもよいかも。明治政府が回答できるのは、死刑に関してだけであり、それ以外の刑事裁判は府藩県に任せるしかない、それだけの実力しかなかったということが明白です。
・明治初年のこの時期、明治政府がコントロールできるのは死刑だけであって、そのほかは一切コントロールしないし、できないというのが明治政府の限界であったわけです。
・府藩県の方でも対応に温度差がありました。日本法制史の教科書では次のように指摘されています(牧英正外『日本法制史』)。
「廃藩置県までの新政府の指示は各府藩県により遵守の時期とその態度においてかなりの相違がみられ、各府藩県は政府の方針に従いつつも、比較的自由にその管轄内の刑事司法を実施していた」





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色川家に長女誕生!文政後期は天候不順 文政11年9月上旬・色川三中「家事志」

2023年09月11日 | 色川三中
文政11年9月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年9月1日(朔)(1828年)
大雨降り止まず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦は霞ヶ浦のほとりにあり、水害には極めて弱い町です。大雨が降ると、三中も気になります。「大雨降り止まず」との一言から心配が伝わってきます。
土浦市役所のホームページでは過去の地震・水害の状況が一覧になっています。三中の心情は現代の土浦市民のメンタリティに通じています。

文政11年9月2日(1828年)
雨止む。惣三郎祝儀に来る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は大雨を心配していた三中ですが、今日は雨も止んで一安心。色川家には新しい命が誕生したので、お祝いラッシュ。雨が止んで、知人が祝儀を持ってきてくれました。

文政11年9月3日(1828年)
今日、産婦七日。小児の名を選ぶ。
論語より「子曰、有美玉於斯」から「有美」(ゆみ)と名付ける。湯浴みさせ、初毛剃り、真綿着せる。利兵衛殿にて初生衣着せる。宮参り。とり揚嫗へ祝儀。金百疋、鰹節二本。
#色川三中 #家事志
(コメント)
お七夜。「赤ちゃんの健康を願う想いから始まった行事」と子の為の祝いと現代では説明されていますが、記事には「産婦七日」とあり、子よりも産婦が無事七日を過ごせたことを重視しているようにも見えます。宮参りまでの行事も興味深い。
子は「有美」と命名。論語が典拠。しかし、「子曰」は「子貢曰」の間違いのようです(「子貢曰、有美玉於斯」)。子貢が孔子に「ここに美玉があります」と言ったの意。名前が可愛いから良しとしましょう。

文政11年9月4日(1828年)晴
七兵衛を当ヶ崎(鉾田市塔ヶ崎)に催促に遣わした。七兵衛は昨月22日から病気で、昨日まで12日休んでいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
七兵衛は先月半ばに、大宝八幡宮や千勝神社(いずれも現下妻市)に代参していた従業員(8月15日条)。その後、病気になり、仕事を休まざるを得なかったようです。病み上がりなのに、土浦から鉾田まで(片道35 km)行く債権回収。三中も仕事のこととなるとかなり厳しい。


土浦城 大手門跡-塔ケ崎(国道354号経由)(35 km)

土浦城 大手門跡 to 塔ケ崎

土浦城 大手門跡 to 塔ケ崎



文政11年9月5日(1828年)
叔父の利兵衛殿に入江(名主)のところに行ってもらった。ひものやとのトラブルの件、内々に名主にも話しをしておく。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとのトラブルにつき名主の耳に入れていたことがわかる記事。裁判になっていなくても、早めに名主に話しをしておいた方が良いとの判断でしょう。
裁判となれば、名主は調停役を担います(ブログ記事参照)。

調停役をする名主-色川三中「家事志」より - 南斗屋のブログ

色川三中の日記にみる名主の役割(色川三中の日記の債務支払い交渉)色川三中は父親の死去により、薬種商の経営を20代で継がざるをえず、父親が残した多額の債...

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文政11年9月6日(1828年)晴
与兵衛と佐助を鹿嶋の営業に向かわせる。
佐助に金二朱を遣わす。与兵衛が病気となったときに、佐助一人で働いてくれたこと、東在(東部地方)の営業実績も上がったことの褒美。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛と佐助には鹿嶋方面の営業担当。6月にも派遣の記事があります(6月23日条)。与兵衛が病気になったのは4月下旬。奥様も重病でしたが、元気に働けるようになってよかった。
与兵衛の病気



文政11年9月7日(1828年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年9月8日(1828年)
本日は休筆です。明日再開します。
#色川三中 #家事志

文政11年9月9日(1828年)晴
当年は雨が多く、なかなか水が引かなかったが、昨日ようやく稲の刈りはじめができた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今年(文政11年)は多雨。昨年は雨らしい雨が降らず、水田は悉く渇水という状態で、8月上旬には稲の刈り取りが行われていました。三中は高持百姓で年貢を納める義務がありますので、天候不順⇒米の取れ高には敏感にならざるをえません。


文政11年9月10日(1828年)雨
ひものやの組合(五人組)のとり彦らが来る。組合でもひものやの言い分はさっぱり分からないが、厳しく言っておくから、大家である当家からはあまりひどいことはしないでほしいとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五人組=連帯責任というイメージがありますが、この記事に見る限り必ずしも一枚岩ではありません。やはりひものやさん、変な主張のようです(笑)。突飛な意見をいっているひものやの主張は、五人組の中でも分からない。
でも突き放すでもなく、家主である三中にもあんまり強烈な手段はとってくれるなと話合いをしていくのは、物事の交渉・解決方法としてはなかなか興味深いです。


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高知藩と明治政府の刑法論争 仮刑律的例 #11刑律問合

2023年09月07日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #11刑律問合

(明治元年十二月、高知藩からの伺)
今般、刑法改定につき御沙汰がありましたこと、承知致しました。一、二不明な点がありますので、早急に御下知いただきたくお願い致します。

【伺い】新しい律は、唐以降、明や清までの中国の律を採用されますか。それとも旧幕の罰例を取捨した上で、更に御新律を出すご予定でしょうか。
【返答】
新律については、おって御撰定になられて御布告がある予定であり、そのときに承知されたい。

【伺い】焚刑を梟首に変更するようにとの仰せでありますが、本藩では焚刑を行ってきており、これをもって威令としておりました。新しい律が御布告になるまでは、従来どおり焚刑を行うことを認めていただきたい。
【返答】
焚刑は廃止である。

【伺い】被害が百金以下は死刑とはしないとの御趣意は承りましたが、公庫・器械・財物を盗んだ場合、奴僕が主人の金を盗んだ場合、監守が倉庫から銭糧を盗んだ場合は如何取りはからいますか。
【返答】行為ごとに罰を増減することは、従前の律令においても認められており、そのようにするべきである。

【伺い】死刑判決をするには勅裁を経るようにとの仰せでありますが、斬決といって即決での斬首も必要でございます。即決できなければ、機会を失うこともございます。また、高知は遠国でありますので、いちいち伺いをするとなれば、その往来にも疲れてしまいます。是非、斬決については藩にお任せいただくような御新律を御布告いただきたい。
【返答】民の命は至重であり、死刑については必ず勅裁を経るべきである。但し、しばらくもとどめ難い非常の大獄(重大事件)であってやむを得ない場合は、即決することは可能である。その場合おってその事情を詳細に報告すべきである。

【伺い】当時藩では最近明律を研究し、取捨選択しながら裁判を行っておりますが、御新律の御布告までは従来のとおり藩の裁量に任せて運用していただきたい。
【返答】
新律の御布告あるまでは、これまでに出した御布令に従っていただきたい。


【コメント】
・高知藩からの伺い。これまでの伺いとはかなり趣きを異にしており、法律学の論争、これからの刑法いかにあるべきかという観点からを含む伺いとなっています。
・幕末に有力な藩として、政治を動かしてきた高知藩だけあって、自藩の考え方に自信があったようです。また、従来からやってきたものを変えたくないということもあったのかもしれません。焚刑や即決の死刑(斬決)等はその例です。
・明治政府も焚刑(火炙りの刑)は廃止、死刑について勅裁を経るという方針は堅持しており、高知藩の伺いにもブレてはいません。

〈追記〉今回の伺いと返答の超訳を作成しました。

【伺い】火炙りの刑は禁止ってことですが、うちの藩ではずっとやってて、それで藩内をビビらせていたんで、このままうちの藩だけ火炙りの刑をやらせてもらっていいですか?
【返答】
火炙りの刑は廃止。そう言ったよね。

【伺い】死刑判決をする場合、天皇の許可をえよってことですが、そんなことでは斬決(即決での斬首) できなくなるじゃないですか。高知から都まで遠いんですよ。斬決は藩に任せてもらえませんか。
【返答】 死刑判決をする場合、天皇の許可が必要っていっただろ。例外的に、非常重大事件は例外として即決を認めても良いぞ。但し、ちゃんと詳細な報告をすること。

【伺い】うちの藩では最近中国刑法を研究してるんですよ、すごいでしょ。もちろん我が藩流にアレンジしてますけどね。藩の裁量でやらせてもらっていいですよね?
【返答】
今後、ちゃんと新しく刑法を作るから、それまで政府が言ったとおりにやれ!





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