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高松彦七郎及びその家族

2024年07月27日 | 大原幽学の刑事裁判
高松彦七郎及びその家族

(高松様とは)
五郎兵衛日記(大原幽学の江戸裁判の様子を記録した弟子五郎兵衛の日記)には、「高松様」が頻繁にでてきます。例えば、嘉永6年(1853年)6月11日条。
「湊川の借家へ行く。夕方、高松様来られる。『この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。』」
異国船騒動というのは、ペリー来航のことです。この非常時に陣所の見分を命じられた高松様というのは何者でしょうか。

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(高松彦七郎は幕府の役人)
「高松様」は高松彦七郎という小人目付です。
参考文献には以下のように紹介されています。

▼高松彦七郎茂雅 1787~1865。小人目付、俸禄15俵 一人扶持、屋敷は江戸小石川同心町。
1856(安政3)年、御小人頭に昇任して80俵。

御小人頭に昇任していますから、かなり優秀であり、評価された人物であることがわかります。先ほど紹介した五郎兵衛日記でも、多数の小人目付の中から4名の枠の中に選ばれており、その活躍ぶりが分かります。なお、高松彦七郎は、嘉永6年(1853年)時点で満年齢では66歳で、高齢となっても充実した働きぶりでした。
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(高松様の家)
高松様の屋敷は「江戸小石川同心町」にありました。現在の文京区春日二丁目、小日向四丁目付近です。
大原幽学らが拠点としていた神田松枝町までは
約4km、歩けば1時間かかりますから、あまり近いとはいえません。

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 2丁目

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 2丁目


大原幽学や弟子たちは頻繁に高松家を訪れていますし、高松彦七郎らも神田松枝町の借家を来訪しています。
彦七郎は小人目付として出仕しますが、その帰り道に神田松枝町まで寄ることもあります。

嘉永6年6月13日(1853年)
昼過ぎ、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は本日正午に出帆し、立ち去りました」

この記事からはペリー来航への対応で、高松彦七郎は小人目付としての仕事で四日四晩徹夜し、まっすぐに小石川の屋敷には帰宅せず、大原幽学らのいる借家に足を運んだことがわかります。ペリーは既に出航し、江戸に戦争の危険がないことを真っ先に知らせたかったのでしょうか。高松彦七郎が大原幽学らを大切にしているかがこのことからも分かります。
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(高松彦七郎の両親)
高松彦七郎の両親もこの当時は健在です。

嘉永6年6月12日(1853年)の五郎兵衛日記の記事
昨日、幽学先生は高松様がご出立なされてから、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」
高松彦七郎は満年齢では66歳となるので、両親は80代以上ですから、この血気盛んさはスゴいですね。
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(高松家と大原幽学の接点)
幕府の役人である高松彦七郎がなにゆえ大原幽学らと接点をもったのでしょうか。
参考文献は、次のように説明しています。

「彦七郎の父悦次郎は元長部村百姓の生まれで、江戸にでて苦労の末、金を貯め御家人株を買って下級幕臣になったとされる。悦次郎没後、息子の彦七郎が 御小人目付高松家を継ぐことになった。幕臣株の売買は珍しいことではなく、 江戸には公然と市場まであった。融通無碍の江戸社会は、形式さえ整えば何でもありであった。
れっきとした幕臣の高松彦七郎は何ゆえに窮地の浪人幽学を救ったのか。幽 学が潰れ百姓となっていた長部村の生家遠藤茂兵衛家を再興したことを、彦七 郎はたいそう恩義に思っていたといわれ、また幽学の性学に共鳴し二人には強い絆があったといわれる(松沢和彦・木村礎「高松家と大原幽学」『ひかたの歴史と民 俗』四号)。」

前項の五郎兵衛日記の記事によれば、嘉永6年6月の時点では、高松彦七郎の父親は存命です。
「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。」との発言からは、幕府の役人であったことが窺われます。
そうしますと、参考文献の記載のうち「悦次郎没後、息子の彦七郎が 御小人目付高松家を継ぐことになった」というのは不正確です。「悦次郎没後」ではなく、「悦次郎隠居後」が正確なのではではないでしょうか。
いずれにせよ、幕臣がもとは千葉の一農村の百姓身分であり、幕臣株を購入して江戸でその子孫が役人として出世していくものの、一方で生まれ故郷のことは忘れずにいるということにはなります。
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(高松彦七郎の子)
高松彦七郎には2人の男子がいたことがわかっています。長男は彦三郎茂省。次男は力蔵です。
参考文献には以下のように紹介されています。
▼嗣子彦三郎茂省(1818~63)も小人目付、小日向服部坂上。1861(文久元)年には遣欧使節に随行、その後福沢諭吉とも交友があった。
次男力蔵も幕府に出仕。

彦三郎も力蔵も五郎兵衛日記に出てきます。特に、次男力蔵は大原幽学を頻繁に訪れています。

嘉永6年4月2日(1853年)
早朝、湊川の借家へ。力蔵様がおいでになっており、大先生(大原幽学)の教えを書面で奉行所に提出したほうがよいのではないかと大先生と協議されていた。

この記事の「力蔵様」が高松力蔵です。大原幽学は刑事裁判の被告人になっているので、どうやったら有利になるのかを打合せしています。

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参考文献
高橋 敏『大原幽学と飯岡助五郎』



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