南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

軍の法務官の役割とその教育

2023年04月27日 | 歴史を振り返る
(法務官の経歴のあった矢口洪一と高木文雄)
これまで矢口洪一(元最高裁長官)や高木文雄(元大蔵官僚、元国鉄総裁)が若かりし頃、海軍の法務官だったことを紹介してきました。

(法務官の役割)
軍という組織を維持していくためには、規律を保たなければなりません。規律の最たるもの刑罰です。刑罰を適用するには裁判が必要であり、軍の中で裁判を運用するのが法務官の役割です。
刑罰法規の適用、即ち刑事訴訟を担うのは検察官と裁判官なので、軍の法務官は、検察官役となったり、裁判官役となったりします。同じ事件で検察官と裁判官を兼ねることはなく、事件によって検察官役となる場合、裁判官役となる場合があったそうです。

(法務官になるための試験と教育)
当時法務官になるには、高等文官試験司法試験に合格することが必須でした。既に紹介した矢口洪一も高木文雄も同試験をパスしています。この試験に合格した上で、陸軍又は海軍に法務官候補として採用されるのが、法務官となる第一歩です。
矢口洪一の場合は、海軍法務見習尉官として任官しています。ところが、これ以前ですと「法務官試補」として任官していたようです(原秀男『法の戦場』)。
呼び方が違うのは、時期の違いによるのかもしれません。原秀男は1940(昭和15)年に任官、矢口洪一は1943(昭和18)年9月 に任官しており、矢口洪一の方が時期的に後で、矢口洪一のときから学徒出陣が始まっており、その影響から制度が変わっているのかもしれません。

法務官は軍法会議(軍の裁判所)で裁判官役と検察官役を務めなければならないので、法務官試補の教育(実務修習)も両方のカリキュラムがありました。
裁判官の修習は、軍法会議を取り仕切っている法務官のもとについて実務を習っています。
検察官の修習は、検察官職務取扱に任命され、憲兵隊(軍の警察)が送致して来た者を取調べ、起訴するか否かを決するという捜査を学ぶこと、軍法会議で検察官役として立ち会っている法務官についていき法廷に立ち会う法廷立ち会いに関することがあります。
 また、刑が確定すれば、検察官役として、形の執行を指揮するという役目もあります。高木文雄は「見習い勤務中に上官殺人事件を担当させられ、銃殺執行に立ち会うなど緊張した」と書いており(『私の履歴書』)、これも、刑の執行指揮の教育の一環であったということになります。

なお、法務官の実務修習は本来1年6ヶ月ですが、原和男は戦争の影響で8ヶ月に短縮されたと述べています。





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嘉永6年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年4月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師のために薬を取りに行くのが、小生の仕事。薬は岸部屋から調達している。
本日も岸部屋の清蔵さんのところに薬を取りに行った。雨が降ってきたので、傘を借りて、湊川の借家へ行く。
(コメント)
五郎兵衛は元俊と同じ村のもの(長沼村;現成田市)。両名は山形屋という公事宿に宿泊しています。元俊は医師で多忙であり、五郎兵衛が率先して元俊医師の薬を取りに行っています。今日は途中で雨が降り、岸部屋さんから傘を借りて、作戦本部のある湊川の借家へ行くのでした。


嘉永6年4月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
早朝、源兵衛の父親が病気なので診てほしいとの連絡があり、元俊医師と湊川の借家まで行く。源兵衛父の病状は大したことなし。小生は著述の読み合わせを行う。夕方、宿(山形屋)へ戻る。
(コメント)
仲間が病気となり、元俊医師にみてもらったところ、大したないとの診断。一同ホッとしてたことでしょう。江戸に出てきてストレスがかかり、病気になる者が多い中、仲間に医師がいるのは心強いことです。


嘉永6年4月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
市右衛門殿が本日村に帰るので、大原幽学先生に暇乞いに来られた。先生からは市右衛門にお言葉をかけられていた。
 (コメント)
帰村者の暇乞いの記事。大原幽学や村の有力者が江戸にいるため、様々な用で村から人が江戸まで来ていたようです。裁判で呼び出しを受けていない者は、自由に村と江戸間を往復しています。

嘉永6年4月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
奉行所に提出する書類は仕上げてしまったので、奉行所からの呼び出し待ち。午前中に湊川の借家へ行くが、やることもないので本の書き写しをする。夕方には本銀町の岸部屋に行き、傘を返してから宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
これまで奉行所に提出する書類を作成するのに懸命でしたが、それも終わったので、呼び出しがあるまで暇になってしまいました。書物の書き写しをして暇を潰しています。



嘉永6年4月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昼過ぎ湊川の借家へ行く。高松様が湊川に来られていたので、打合せを行う。その後、一同髪結いし、湯に入る。夕方、宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
奉行所に提出する書類を作成しおえたので、暇になっています。いつもは昼前に湊川に行くのに、昼過ぎ。打合せが終わった後は、髪を結いに風呂とノンビリした様子が伝わってきます。

嘉永6年4月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。元俊医師は多忙で山形屋に留まる。多忙な元俊にかわって、小生が湊川で情報を集める役目。とはいえ、本日も特にやることがないので、本の書き写しをした。
(コメント)
大原幽学の刑事裁判で呼び出された被告人は、いくつかの村民です。公事宿は村毎に分かれています。湊川の借家は作成本部となっており、五郎兵衛は毎日ここに行って、情報収集をしています。元俊医師は多忙であり、湊川に行かないこともしばしば。元俊医師との連絡調整役も五郎兵衛の仕事です。

嘉永6年4月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
奉行所から呼び出しもないので、今日は七人で集まって江戸見物。芝権現様を参詣。大僧正様のお帰りを拝する。増上寺参詣。愛宕社で周囲を見渡す。霞ヶ関、赤坂、麹町を通って音羽護国寺参詣。同寺に富士山あり。「参詣の者神妙にすべし」とのはり札があった。
(コメント)
ここのところ公事宿と作戦本部(湊川の借家)の往復ばかりでしたが、今日は息抜き。仲間と江戸見物です。芝権現⇒増上寺⇒愛宕神社⇒護国寺と現代でもそのまま理解できるルートです。護国寺の富士山とは音羽富士のことです。


嘉永6年4月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
宿で書物の写し。そこへ忠兵衛が遊びに来て、「今日は西丸様の橋馬御成があるから、馬喰町通りまで木戸は締切りだ」とのこと。
その後、大原幽学先生が長部村と縁を切ると言っているとの話しにびっくり。急いで湊川の借家へ行き、対応に追われる。湊川に泊。
(コメント)
五郎兵衛は今日もやることなく、書物の写し。そこへ仲間が遊びに来て、「西丸様(徳川家定)が馬で外出されるので木戸が締切りだぞ」と交通規制情報を持ってきてくれました。とそこへ、大原幽学が長部村(幽学の最重要拠点)と縁を切るとのトンデモ発言。その対応に追われる五郎兵衛でした。

嘉永6年4月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
大原幽学先生が「長部村と縁を切る」と言っていることに門弟一同で対応。皆と話合い「この上はお互いに道を行うに障りのあることは腹蔵なく話そう。先生の教えを守り、村に帰るまで先生を安心させて過ごそう。道一筋の心で帰村しよう。」と取決めた。
(コメント)
昨日の大原幽学のトンデモ発言に対応する門弟たち。奉行所からいつ呼出されるか分からず、奉行所がどのような判断をするかも分からないという不安定な立場に立たされながらも、一旦事あれば一致結束して対処するのは立派です。

嘉永6年4月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
大原幽学先生が「長部村と縁を切る」と一昨日から言い始めたことは、昨日門弟が一致結束したこともあり、事態は収まった。やることがなくなったので、小生は湊川で書物の写しをした。
(コメント)
先日来の大原幽学のトンデモ発言は門弟たちの対応で収まり、五郎兵衛はまた手持ち無沙汰になってしまいました。湊川の借家でやることといえば、書物の写し。ここ数日は緊張していたでしょうから、ホッとする一時も必要なのです。

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文政11年4月中旬・色川三中「家事志」

2023年04月20日 | 色川三中
文政11年4月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年4月11日(1828年)
従業員の与兵衛の子(7歳)が突然高熱を発し、気絶。そのまま息絶えてしまった。与兵衛の実家(谷田部)に連絡のため、利助を遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は色川三中の従業員。先日、中城の店を任されたばかりです(3月24日条)。妻子と共に新生活を始めたのに、子どもが突然死してしまう悲劇に見舞われました。


文政11年4月12日(1828年)
夜八つ(午前2時)、谷田部から与兵衛の親類、組合計6名が加籠で来る。夜明けまで協議し、葬式は谷田部で行うと決まったとのこと。与兵衛らが谷田部へ行こうとしたら、与兵衛の女房が産気づいてしまった。朝五つ(午前8時)、女子を出産。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の子どもが突然死してしまい、葬式をどちらで(谷田部か土浦か)が問題になっていましたが、そのような事を話し合っているうちに、与兵衛の女房が産気づき、女子を出産。死ぬる命もあれば、生きる命もあり、悲喜こもごもです。

文政11年4月13日(1828年)
従業員の与市を菅谷に遣わす。要助から爪判の書付を取ってきてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
爪判とは文字通り爪を押印の代わりとするもの。要助は印鑑を持っていなかったようです。押印なしの現代では署名で十分ですが、当時は爪判が必要とされていました。



文政11年4月14日(1828年)
入樋の設置費用について、隣り主人らと協議。工事費用は60両かかる。高持百姓がこれを負担せざるを得ないのだが、まとめるのが難しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
3月30日の高持百姓の会合で悪水入用金の分担が話し合われており、今日の記事での入樋の件もこのときのものと関連していると思われます。自治体や組合がない時代ですから、工事費用は高額となり、各家が分担しなければなりません。それぞれの事情があり、まとめるのは難しい状況です。



文政11年4月15日(1828年)
昨夕から与兵衛の女房が発熱、咳もひどく、寒熱往来。本日夕方見舞いに行くが、咳、上衝発熱、脈浮大。産後の脈にして悪症。医者の処方では効果なく、持参したサフランを飲ませる。与市が昼夜看病している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の女房は4月12日に産気づき、女子を出産していますが、産後、体調をかなり崩してしまいました。
三中は、医者の処方は当てになないと、持参のサフランを飲ませています。与市は昼夜看病。頭が下がります。
サフラン


文政11年4月16日(1828年)
入樋の設置費用分担の件。費用60両のうち、15両は御上様から、虫掛村からは5両拠出。土浦の高持百姓は残り40両であるが、やはり高額にすぎる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の設置費用については、4月14日にも協議されていて、このときも話しがつかず。土浦の高持百姓の分担は40両であることがこの記事で分かりますが、それでも高額なようです。皆、そこまでの余裕がないのでしょう。


文政11年4月17日(1828年)曇
・せい(妻)が政之助らと谷田部から戻る。
・昨日の夕方、与兵衛の本家の夫婦来る。亭主のみ今日谷田部へ帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
せいは三中の妻。4月9日に実家(谷田部)に久しぶりに里帰りしていました(父親の七年忌のため)。一週間弱ほど実家でノンビリできたようです。


文政11年4月18日(1828年)晴
・与兵衛の妻の看病のために、与兵衛の姉(きえ)が来る(本家の女房は亭主と共に谷田部へ帰った)。
・川口で芝居をやっているので、店の者が見に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・与兵衛の妻は持ち直したものの、まだ看病が必要なため、長期戦覚悟で与兵衛の姉が土浦に来ました。本家の夫婦が最初に動いているので、本家がイニシアティブを取って動いています。
・「川口」は土浦市川口。芝居小屋が常設で存在するわけではなく、地方巡業で興行をしているようです。
川口

川口 · 〒300-0033 茨城県土浦市

〒300-0033 茨城県土浦市

川口 · 〒300-0033 茨城県土浦市



文政11年4月19日(1828年)
・与兵衛の女房の具合はだいぶ良くなったが、脈の具合からするとまだ予談を許さない。 
・せい(妻)や利兵衛ら家内の者8、9人で、川口でやっている芝居に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の女房の体調はだいぶ良くなり、命に関わる心配はなくなりました。それもあってか、今日は三中の家族が芝居を見に行っています。今とは異なり娯楽が少ないので、寄り集まって観劇に行ったのでしょう。
 
文政11年4月20日(1828年)曇
入樋の件を、町内の高持百姓には全て説明した。誰もが高額の負担を望まず、減額を希望している。享保・延享のときの例を調べるため、そのころの帳面を調べ直している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の工事費用の分担の話しは、なかなか進まず。皆余裕がなく、分担金の減額を希望しています。享保(1716年– 1736年)、延享(1744年-1748年)まで遡って前例を調べています。百年前の帳面がきっちりと残してあることが分かります。



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嘉永6年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月17日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年4月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師は今日も病気(三日目)。小生は湊川に立ち寄った後、皆と小石川で土普請。高松様が購入された古家にいずれ大原幽学先生が住むため。高松様も普請に参加され、夕方ころまで働く。湊川に戻って風呂に入り、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小石川には、高松氏が買ったばかりの古家があります。あまり整備されていないらしく、高松氏も加わって整備の工事。
高松氏は、大原幽学の身元引き受けを決意しており、弟子たちと共に汗を流しています。

嘉永6年4月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
早朝、湊川の借家へ。力蔵様がおいでになった。教えを書面で奉行所に提出したほうがよいのではないかと大原幽学先生と協議されていた。
帰りは本銀町に寄り、「ふらそこ」を取りに行く。日暮れ時に山形屋に戻る。 
(コメント)
・「力蔵様」は、高松力蔵。大原幽学の身元を引き受ける高松彦七郎の次男です。父親の高松彦七郎は、御家人で御小人目付として幕府に勤めていました。五郎兵衛日記で「様」の尊称が付されているのはそのためです。
 高松力蔵は安政4(1857)年から長崎海軍伝習所三期生となっています。このことは下記参考文献に記載されています。
参考文献:藤井哲博 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中央公論社〈中公新書〉、1991年。
・五郎兵衛が本銀町に「ふらそこ」を取りに行ってます。「ふらそこ」=フラスコですが、ここではガラス製の首の長い徳利、酒瓶を意味すると思われます。江戸時代でもこのような外来語が既に入ってきており、五郎兵衛のような農家にも知られているのは興味深いです。

嘉永6年4月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
蓮屋に寄った後、小石川の古家で普請。藪を起こし、地形を決める。正午ころ仕上がる。中食を食べ、帰りに伝通院、駿河台等に立ち寄る。湊川で大原幽学先生から訴訟の心得を聞く。
(コメント)
古家の土地の普請は今日で終わり。この後は外構に移ります。「伝通院」は小石川にある浄土宗の寺で徳川将軍家の菩提寺。仕事を終えた後の遊山は楽しかったでしょう。

嘉永6年4月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。夕方、磯部様(田安家代官)のところに行き、資料を写す。暮れに山形屋に戻る。
 (コメント)
以前は奉行所からの呼び出し待ちで、江戸見物ばかりしていた時期がありますが、最近は裁判準備の記事が続きます。本日は田安家代官の磯部寛五郎のところで、資料の写しの作成。田安家は荒海村を所領としており、大原幽学には好意的です。

嘉永6年4月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。平右衛門らと著述の読み合わせ。昼過ぎ、兵右衛門らが来る。荒海村で綿を作りたいとのこと。
(コメント)
荒海村は、現在の成田市荒海。米とは別に綿を作ろうという多角化経営の話しが出始めています。大原幽学の弟子たちは、村の有力者が多いので、裁判に呼出されていない者も江戸に来て、今後の村の経営について話合いをしています。

荒海 · 〒286-0818 千葉県成田市

〒286-0818 千葉県成田市

荒海 · 〒286-0818 千葉県成田市



嘉永6年4月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。大原幽学先生の話。「荒海村で綿を作りたいということだが、まあそれは良いであろう。若い者が四書を読みたいということだが、色情に走るのも怖いので、大学、中庸くらいは良いだろう。覚えが良いものは四書も読むがよい。だが、夕方までは仕事をしなければならないぞ。」
(コメント)
四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』であり、これを下総の農家の若者が読みたいというのですから、現代とは随分違います。色情(死語?)と四書とを対比させているのも面白い。当時の感覚が伺えます。

嘉永6年4月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
山形屋に兵右衛門らが来る。荒海村での綿作の話題。小生は、話しがよく飲み込めず、目を白黒させていたら、皆にそのことを指摘されてしまった。恥ずかしく思う。自己改革せねば。
(コメント)
やはりどうもこの日記の記述者五郎兵衛は、おっとりとしていて、皆のスピードについていけないようなところがあるようです。まあ、そこが五郎兵衛の良いところです。自己改革せねば、と真面目に日記に書いているところもかわいい。

嘉永6年4月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
大原幽学先生の話し。
「情けがなくては人を救うことができない。門人を勘当や破門したとしても、後で時が来たらどうにか救えないかと思うものだ。その者から気が離れるということはない。」
 (コメント)
大原幽学が門人たちのことを、大切に思っていたことがよくわかる言葉です。集団のトップにいるものとして、勘当や破門をすることもあるけれども、どうにかやり直すことができないかどうか、そこのところは常に考えており、情がない者には人を救うことができないのだと語られています。

嘉永6年4月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。大原幽学先生の話し。「相手にあわせて話すことが大事である。言葉が静かな人には静かに話し、せわしない人にはせわしなく話しなさい。芝居のようだと思って、狂言を習うつもりで一生懸命修行しなさい。相手の心持ちがよいように心がけなさい。」
(コメント)
相手にあわせて話すことが大事というと、普通は内容のことかと思いますが、大原幽学は、話し方で合わせるということを言っています。静かな人には静かに話すのは良いと思います。しかし、せわしない人にはせわしなく話すというのはどうなんでしょうか…。

#ペリー来航
嘉永6年4月9日(1853年)
ペリー艦隊、上海を出港。琉球に向かう。
(コメント)
五郎兵衛日記は嘉永6年(1853年)をツイートしてますので、そのときのペリーの動きも随時お伝えします(日本への来航は6月3日)。


嘉永6年4月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。平右衛門は下谷の奥山様のところに行ったまま、なかなか帰らず。ようやく日暮れころ帰ってきた。山形屋に戻るとき、平右衛門と共に帰り、今日の様子を聞いた。
(コメント)
五郎兵衛は公事宿(山形屋)に泊まっており、毎日打合せ拠点である湊川の借家へ行っています。五郎兵衛は借家に詰めていることが多いのですが、平右衛門は外に行くことも多く、外交好きな性格なのかもしれません。五郎兵衛にっては、宿と借家との往復は仲間との情報交換の貴重な機会。今日の帰り道もそのような場となったようです。



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文政11年4月上旬・色川三中「家事志」

2023年04月13日 | 色川三中
文政11年4月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年4月1日(朔)(1828年)
玉造(行方市)の佐野本益様から『東国闘戦私記』(全7巻)を借りた。読んで初めて自分の先祖の功績がわかった。この書の校合をしてみたいが、多忙ですぐにはできそうにない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
『東国闘戦私記』は、正確には『東国闘戦見聞私記』。著者は 皆川広照、 大道寺重祐 という現代風の名前ですが、皆川広照は 1548-1627、大道寺重祐は1639-1730とかなり昔の人。この本、茨城県の常野文献社から1997年に復刻販売されており、現代でも図書館に行けば、手に取ることができそうです。

文政11年4月2日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年4月3日(1828年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は休筆からのお天気だけ。長い年月日記をつけていれば、こんな日もあります。

文政11年4月4日(1828年)晴
母は利助と共に江戸に旅に行っていたが、本日夜に帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の母親が従業員の利助同行で江戸に向けて出立したのは、3月19日のことでしたから、江戸を満喫されたのでしょう。旅から無事帰ってきた母親を見て、三中もホッとしたことと思います。


文政11年4月5日(1828年)
母の江戸土産
・隣り主人には、花かつみ。楊の枝を刺して遣わした。
・伊勢屋には菓子。
・間原には風呂敷紬。
・向かいのおふみさんにはタバコ入れ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日江戸旅行から帰ってきた三中の母の江戸土産リストです。
「花かつみ」という言葉は初めて聞きましたが、調べてみると『万葉集』を始め、古くから和歌などに多く詠まれた花だけれども、古来どの植物を指しているのか不明とのこと。それぞれの想いをこめて「花かつみ」の言葉が使われてきたようです。

文政11年4月6日(1828年)曇
清蔵のために与市を惣代との交渉役として遣わした。清蔵は惣代から12両借りて、返せなくなってトラブルになっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
他人の法律上のトラブルに三中が介入しています。好意で無料でやっているのかなと思っていましたが、当時は弁護士法もないので、こういう案件に介入してお金をもらってもよいので、人への奉仕の気持ちもありつつ、金銭的な利得もあるという可能性もあるかなと。日記にはこの点は何も書いていないので、あくまで可能性があるというだけですが。

文政11年4月7日(1828年)雨
井の口屋から屋敷を借りて、井戸を掘ったことがある。井戸かいが残ったため、たたりがあり、病人が絶えなかった。井の口屋からは井戸かいを掘りだすよういわれたが、同意を得て掘ったのだから、そんなことをする理由はない。が、あまりにもうらみがましくいうので、いうとおり掘ることにした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ここでの「井戸かい」が何を意味するのかよくわかりませんが、それによって「たたり」があったと言われては穏やかな話ではなくなります。現代では「たたり」という言葉は聞かなくなりましたが、江戸時代にの人々にリアルに聞こえたのでしょうか。

文政11年4月8日(1828年)雨
せい(妻)が谷田部の実家に行く予定だったが、本日雨のため延期。付き添いのために来た小白村の惣兵衛には、家に泊まっていってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の妻せいは実家に帰る予定でしたが、雨のため延期。荷物があるからでしょうか、小白村の惣兵衛さんが付き添いできています。土浦ー谷田部間は、約14キロ。歩けば3時間ほどです。小白村は谷田部村の近く。現在のつくば市小白硲(こじらはざま)と思われます。

土浦城 大手門跡 to つくば市立谷田部小学校

土浦城 大手門跡 to つくば市立谷田部小学校



文政11年4月9日(1828年)
雨があがり、せい(妻)は谷田部の実家に出立。今月、妻の父親の七年忌があるため。小白村の惣兵衛が付き添い。荷物は従業員の徳兵衛に持っていかせた(徳兵衛は少し先に出発)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の里帰りは昨年6月ぶり。今回の里帰りは父親の七年忌が理由になっていますので、なかなか里帰りできなかったのですね。
前回の里帰り


文政11年4月10日(1828年)晴
体調不良のため、仕事を休んで家で静かに過ごす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中はまだ20代ですが、体調を崩してこのように一日静養していることがあります。結構、あれこれとやってしまうので過労になりやすい方ですね。

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関東大震災・横浜地方裁判所の崩壊

2023年04月10日 | 歴史を振り返る
関東大震災・横浜地方裁判所の崩壊
(はじめに)
 関東大震災というと、東京の被災のイメージが強いですが、震源に近い横浜も甚大な被害を受けています。横浜の被災状況について書かれたものとして、今井清一『横浜の関東大震災』(2007年)があります。

(横浜地方裁判所は崩壊)
関東大震災により、横浜地方裁判所は一瞬のうちに崩壊しました。末永所長をはじめ108人が圧死。左右両翼に突き出した木造部分は倒壊を免れ、同所にいた長岡熊雄判事は難を逃れました。

(長岡熊雄判事)
長岡熊雄判事の経歴は、『人事興信録』データベースによると次のとおりです(第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)。
明治五年十月 (1872)生
明治三十四年日本法律學校を卒業し、判檢事登用試驗に合格。
同三十六年判事。
前橋區兼同地方裁判所
長岡區新潟地方裁判所
東京地方兼同區裁判所
千葉地方裁判所
函館地方兼同區裁判所
長野地方裁判所
橫濱地方裁判所←ここで被災
橫濱地方裁判所部長
東京地方裁判所監督・東京區裁判所監督・東京控訴院部長
昭和二年現職水戸地方裁判所長に轉ず
 その後、横浜地方裁判所所長となります。

(横浜地方裁判所の慰霊碑と『震災略記』)
現在の横浜地方裁判所入口横に関東大震災の慰霊碑があります。これは1935(昭和10)年9月1日に建立されたもので、当時の所長が長岡熊雄でした。慰霊碑の建立に合わせて、『横浜地方裁判所震災略記』も出版されました。
 『横浜地方裁判所震災略記』はインターネットで全文読むことが可能です。
 





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嘉永6年3月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年3月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋に行き、朝から昼過ぎまで帳面の調査。調べがついたところで、湊川の借家へ。作成したものをご覧にいれたところ、間違いが見つかり、手直し。夜には近所で火事もあり、落ち着かない。午後10時頃ようやく作業終了。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛らは、奉行所へ提出する資料(証拠)の作成をしています。作業場所は蓮屋(公事宿)。朝から昼過ぎまで作業をしましたが、残念なことに間違いがあり、修整にまた時間がかかっています。作業が終わったのは午後10時ころでした。

嘉永6年3月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日とは別の帳面(先祖株関係)の調査。早朝、蓮屋に行き、日が暮れるまで必要箇所を手書きする。夕飯を食べてから、湊川の借家に行き、作成したものをご覧にいれた。ところどころ修整あり。午後8時ころ蓮屋に戻り、手直しをしたが、終わらないので蓮屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日も五郎兵衛らは、奉行所へ提出する資料(証拠)の作成。作業場所は昨日同様蓮屋(公事宿)。今日は元の帳面から必要箇所をピックアップする作業のようです。湊川の借家に行って、大原幽学らに資料を確認してもらってから、また作業。今日予定している作業か終わらず、蓮屋に泊まりとなりました。

嘉永6年3月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
・昨日に引き続き、帳面の調査や奉行所へ提出する書面の作成。公事宿である蓮屋の助言も受けつつ進める。
・平右衛門が荒海村のお代官様にお話しを伺ってきた。お代官様の見立てでは、この裁判厳しい結果となるかもしれぬとのこと。
・湊川の借家へ行き、平右衛門から大先生(大原幽学)に報告。「これまで落度なくやってきたのであるから、どのようになってもせん方なし」と一同覚悟を決める。
・「たとえ性学が潰されても、教導所が取壊されても、江戸に呼出された者が死ぬことがあっても、この道を立てないではおかれぬ」と皆決心する。
(コメント)
公事宿=弁護士というイメージだったのですが、これまであまり助言している感じではありませんでした。本日の記事では、蓮屋さんが助言しているとの記載があります。昨日まで間違いが後でわかって修整する作業を繰り返していたので、公事宿のアドバイスを受けた方がよいと思ったのかもしれません。
・裁判が厳しい結果となるかもしれないとの情報に、一致結束し怯むことなく、この道を進むという悲愴な決意を固める大原幽学とその弟子たち。

嘉永6年3月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
・早朝から書面の作成を行う。
・昼前に湊川の借家に行く。高松様がおいでになられていた。
・大原幽学先生ご自身が出自を明らかにしておられず、無宿者という嫌疑をかけられているのだが、高松様は大先生を自分の弟と主張し、大先生を無宿者とはさせないとの固いご決意。
(コメント)
大原幽学らが裁判にかけられたきっかけは、立派な教導所を作ったことにありましたが、関東取締出役の調べで、無宿者の嫌疑もかけられています。大原幽学は尾張の武士の出身のようなのですが、その出自を頑なに明かさなかったからです。このままでは無宿者として処分されかねません。

そこで、長部村出身の高松氏は幽学の兄であることにしょうというのが、関東取締出役に調べられてから出てきたアイデアでした。これは身分の偽装ですので、高松氏にとっては甚だ危険な行為です。危険をおかしてでも幽学を守ろうとする長部村の人々の熱意が表れています。

嘉永6年3月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
朝から蓮屋で打合せ。昨日の高松様のご決意を聞いて、「今日一日は酒を飲まない!」と目標を口にするものもいる。我々一同も決意を固め、湊川の借家で大先生にそのことを述べる。代表が高松様方に行き、「我々や性学がどのようになろうとも、高松様方には恥はかかせられない」との我々の決意を伝える。
(コメント)
公儀に対して身分を偽装してでも幽学を守ろうとする高松氏の決意を聞いて、弟子たちの意気もあがっています。それにしても、「今日一日酒を飲まない」ことが目標となるとは、皆さんどれだけ毎日酒を飲んでいたんでしょうか。それだけ江戸時代後期はストレスフルな世の中だったのかもしれません。

嘉永6年3月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
蓮屋に途中寄ってから、湊川の借家へ。中食。高松様がご登城のお帰りに湊川に立ち寄られる。「長部村の教導所は農民が学ぶ場であり、拙者には何も問題ないようにみえるが、奉行所で裁判となっているのだから、何もないというわけにはいくまい。」高松様が仰ったのはこれだけだが、固いご決意のお言葉である。
(コメント)
記事に出てくる「教導所」は、嘉永3年(1850年)に門人数急増のため、長部村に建設されたもの。幽学はこの教導所を「改心楼」と名付けていました。この教導所建設が関東取締出役に目をつけられてしまったので、裁判で問題にされるのは致し方ない、その覚悟はせよとの意味を含めた高松氏の言葉を五郎兵衛は記録しています。

大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」 - 法律事務所南斗のブログ

(大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」について)大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」というものがあります。日記原本は...

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嘉永6年3月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ行く。正午、大原幽学先生が高松様と共においでになる。高松様は、大先生の身元引き受けのため、古家を買うとのこと。
(コメント)
公儀に対して身分を偽装してでも幽学を守ろうとする高松氏の決意は固く、幽学を引き受けるために中古の家を購入するとのこと。経済的に負担がかかりますが、それさえも厭わない高松氏の決意は現代からは理解しにくいですが、性学集団、ひいては村を守るためのものなのでしょう。

嘉永6年3月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。
大原幽学先生がこんなことを言われた。「自分の考えだけで物事の是非を決めてしまうのは、人に話しを聞く機会を忘れてしまう。いろんな考え方があるときは、自分の考えを押し通そうとすると間違いが生じやすい。誰かに聞いたというだけで、物事を決めるは愚かだ。よくよく考えて了見を定めていかなければなるまい。」
(コメント)
要約すると、「人のアドバイスを聞いた上で自分でよく考えて決断しなさい」というう内容。この時代の農民には大原幽学の言いまわしや、人柄の暖かさが心に刺さったことでしょう。

嘉永6年3月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師は本日病気。宿で臥せっている。小生は中村屋で昼食を食べ、湊川の借家へ行く。義論集の読み合わせ。午後4時ころ宿(山形屋)に戻る。その後、元俊医師のために薬を取りに行く。
(コメント)
五郎兵衛と元俊は同郷(長沼村)で、同じ宿(山形屋)。元俊の動向は、五郎兵衛日記では頻繁にでてくるのはそのためです。本日、元俊は病気で臥せっています。五郎兵衛は元気で病気になった形跡がないのですが、元俊は割りと病気勝ちです。

嘉永6年3月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
本日も元俊医師は病気。蓮屋から人が来たので、病床で話合っていた。小生は正午ころ湊川の借家へ。
「忠恕」の意味。己にしないことは、人にもしないということと大原幽学先生から教わる。
(コメント)
元俊医師はまだ病気で臥せっていますが、話合いには同席できる状態。感染症ではなく、ストレスや疲労から体が弱っているのかもしれません。慣れない江戸での宿暮らしですから、無理もありません。ひたすら元気な五郎兵衛は大したものです。今日も大原幽学先生から教えを受け、日記に書き記しています。

嘉永6年に3月31日は存在しませんので(旧暦に31日はありません)、#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。

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文政11年3月下旬・色川三中「家事志」

2023年04月03日 | 色川三中
文政11年3月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年3月21日(1828年)庚申 雨
山口長屋の仁兵衛さんが、江戸から土浦に戻ってきた。昨日正午ころ、私の母親と松戸でばったり会ったとのこと。母は無事なようで安心。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中の母親は江戸旅行中。知り合いから、「松戸(千葉県松戸市)でお母さんに会ったよ」といわれ、母親の無事を安堵しています。土浦ー江戸間の往来は頻繁でそう心配するほどではないはずですが、知り合いからの消息は嬉しいものです。

文政11年3月22日(1828年)
(編集より)
本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年3月23日(1828年)雨
江戸崎の大庄屋である松兵衛殿から「なべや一件」について書状が届いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎は現在の茨城県稲崎市。2005年に合併で江戸崎町は消滅してしまいましたが、それまでは江戸崎村⇒江戸崎町として江戸崎の名前が残っていました。「〇〇一件」とありますから、何か訴訟になりそうな紛争でしょうか。庄屋からの書状が届いたので対応をせざるを得ません。

江戸崎 · 〒300-0504 茨城県稲敷市

〒300-0504 茨城県稲敷市

江戸崎 · 〒300-0504 茨城県稲敷市



文政11年3月24日(1828年)晴
新しい店を中城(土浦市)に出し、従業員の与兵衛に任せることとした。守るべき心得の書面を、与兵衛から提出してもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は昨年末に店を辞めるといっていましたが(12月23日条)、その後仕事を続けており、妻も土浦に呼び寄せていましたが、店を任せることで話しがついていたようです。与兵衛の店は中城にあります。中城の地名は失われましたが、中城通りとして現在でも土浦市にその名が残っています。




文政11年3月25日(1828年)甲子 曇
・与市を江戸崎の松兵衛殿(庄屋)に遣わす。先日、なべや一件で書状が届いたので、庄屋と交渉をしてもらうため。
・いつもどおり大黒天を祭る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎の庄屋から「なべや一件」について書状が届いており(3月23日条)、その対応で与市を派遣しています。従業員の中で最も交渉力のある与市を派遣するとは、やはりかなり難しい案件のようです。

土浦城 大手門跡 to 稲敷市立江戸崎小学校

土浦城 大手門跡 to 稲敷市立江戸崎小学校


文政11年3月26日(1828年)
(編集より)
本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年3月27日(1828年)曇
与市が江戸崎から戻ってきた。なべや一件につき江戸崎の庄屋と交渉したことの報告を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎の庄屋から「なべや一件」について書状が届き(3月23日条)、一昨日江戸崎に行かせていた与市が戻ってきました。江戸崎への二泊三日の出張。交渉内容は記載がありませんが、与市がうまく交渉してくれたのでしょう。


文政11年3月28日(1828年)
・江戸に旅行に行った母から無事との書状が届く。
・板橋不動尊に参詣。昨年来、代参のみであったので、今日ふと思いたって自ら参詣に来た。近くの知り合い宅にも寄る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中の母親は伴を連れて江戸に旅に行っています。知り合いから、松戸でであったとは聞いていたものの(3月21日条)、本人からの書状が届くのは、また別の嬉しさがあります。現代では海外にいてもスマホで簡単に連絡がとれてしまいますが、不便な時代には、そのときなりの心の通わせ方があります。


毎月28日は板橋不動尊の縁日です。
板橋不動尊の本尊は不動明王で、その縁日が28日。色川三中がふらっと参詣に赴いたのも、縁日だからという理由があったようです。

文政11年3月29日(1828年)
昨日、勅使河原勘兵衛殿死去。この方には大変世話になった。ご厚恩は忘れてはいけない。本日、従業員の徳兵衛を手伝いのために遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勅使河原さんの名前は先月にも日記にあり、そのときはご息女の訃報でした(2月15日条)。そのときも「高恩ある人なので、以後も付き合いを欠かさずに行うべき」と記していましたが、今回も同様の記載。もっとも、その内容は記載されていません。


文政11年3月30日(1828年)
高持(百姓)の会合。悪水入用金の分担につき話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高持百姓は本百姓ともいい、年貢付きの田畑を持って、持高相当の年貢、諸役を勤める中堅の百姓のこと。色川三中は高持百姓です。悪水とは、水田や畑からの排水等のことで、このような共用物にかかる費用の協議をしています。この一件は、これからかなり問題になってきます。

文政11年に3月31日は存在しませんので(旧暦に31日はありません)、#色川三中 #家事志はお休みです。


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