南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年11月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、宜平殿病気のため替わりに勤務。朝掃除、床下げ。大野様の仏事で御家中衆への会食手伝い。
若殿様は四ツ半時頃より雉子橋様へ。七ツ時、提灯持参で小出様方へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。九ツ半まで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本日は非番だったのですが、同僚の宜平が病気のため、仕事。五郎兵衛が病気で仕事を休んだことはないですね。食べ過ぎが問題ですが、頑張って仕事をしています。江戸滞在中は日記を欠かさないのも五郎兵衛の偉いところです。
・本日の記事に「雉子橋様」「小出様」とありますので、五郎兵衛日記の「雉子橋様」=「小出様」と思われます。小出氏は丹波国園部藩で、この当時の藩主は小出 英教(ふさのり)です。五郎兵衛も書状を小出家に持参しています(7月15日条)。

〈詳訳〉
非番の予定だったが、昨日宜平殿病気となり、松枝町の借家で休んでいるので、替わりに小生が勤務。
朝掃除、床下げ。九ツ時に大野様の仏事で御家中衆の会食手伝い。八ツ時に薬店の湯に行く。戻ってから楊枝削り。
四ツ半時頃より若殿様雉子橋様へ。
七ツ時、提灯持参で奥様の迎え。提灯持って小出様へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。
九ツ半まで夜番を勤める。

〈その他の記事〉
○若殿様が雉子橋様に赴かれたときの御供
三浦源蔵
安達安蔵
御近習壱人
御草履取壱人
○九ツ時に御忍供で小出様へ御出になるとのと仰せあり。
先江
御駕籠四人
御取次壱人
御近習壱人
御箱壱人
御草取り壱人
釣台弐人
宮本錠左衛門
若党壱人
草取り壱人
○今夕七ツ半時、御奥様を雉子橋へ御迎えの御供。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、昼前に張物少々、楊枝削り。
松枝町の借家へ。幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人は食べ過ぎで太りすぎだぞ。特に五郎兵衛だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛日記には、食べ物の記述が多く、これは食いしん坊だなと思っていたのですが、やはりそのとおりのようで、幽学先生から五郎兵衛、面と向かって「食べ過ぎ」といわれてしまいました。

〈詳訳〉
本日は非番だが、仕事。朝掃除、昼前張物少々、楊枝削り。大野様からお招きを受け、御馳走を頂く。
外出。安達様から頼まれ、本町で葛を買い、その後松枝町の借家へ。
又左衛門殿、良祐殿おられる。
晩に治郎右衛門殿、節五郎殿来られる。
幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人だけ、顔が太りすぎだ。食べすぎでの不養生だろう。特に五郎兵衛が心配だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君は今日も早起き。朝七ツ時に起きて炊事を始める。小生も手伝い。
その後、御屋敷に戻って添番を勤める。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門は早起きです。日の出前から起きて炊事をするのが日課のようです。以前ならば、借家に泊まった日は休みで、ゆっくりしていくのですが、人手不足なのでしょう、本日は添番を勤めています。

〈詳訳〉
朝七ツ時に良左衛門君起きて炊事を始めたので、小生も起きて手伝い。六ツ半朝食。
煙草一丸、寝巻一枚、お金を借家に置いて、五ツ時に御屋敷に戻る。
本日は添番。
宜平殿と二人で髪結いする。
幸左衛門殿は四ツ時に松枝町の借家へ行った。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月24日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、御床下げ、楊枝削り、御弓場の片付け。夜番も九ツ半から勤める。
・夕方外出した時にキセルを落してしまった。
・宜平殿、五ツ半時松枝町へ行き、幸左衛門殿四ツに御屋敷に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旗本の藪家には幽学一派から3名が奉公人として入り込んでいます。奉公人はこの3名以外にあまりいないようですので、幽学先生のいる借家に行くのは、日程をやり繰りしなけれぱならず大変です。ここのところは毎に一人ずつ行っています。
借家へ行った日
22日 五郎兵衛
23日 幸左衛門
24日 宜平




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月25日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、楊枝削り。昼に松枝町の借家へ。昨日キセルを失くしたが、幽学先生がかわりをくださった。
七ツ時、幸左衛門殿来る。長左衛門殿、良左衛門殿が夜九ツ時迄碁打ち。先生は悦んで、焼干杯を奢ってくれた。
借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が五郎兵衛にキセルをプレゼント。昨日五郎兵衛は外出した際キセルを落としてしまったからですが、それにしても幽学がプレゼントするのは、相手を認めているときです。五郎兵衛はついこの間まで叱責されていたので、キセルをもらって嬉しかったことでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月26日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
五ツ時、御屋敷に戻る。楊枝削り。昼に大野様から頼まれ、諸徳寺村に出す書状を松枝町の借家まで持っていく。幽学先生と話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夜は松枝町の借家で泊まりだったので、日の出前に御屋敷に戻り、シフトに入った五郎兵衛でしたが、大野様からの依頼で昼にも松枝町の借家を訪れています。「大野様」は、殿様が七周忌の御法事の際に参列しており(8月4日条)、ご家中衆の中でも地位の高い方と思われます。

〈詳訳〉
五ツ時、松枝町の借家から幸左衛門殿と二人で布団を御屋敷に持って帰る。
本日は添番。楊枝削り。昼に大野様から諸徳寺村に遣す書状を松枝町へ持っていった。
長部村の次郎右衛門殿と髪結い。
又左衛門殿「幸左衛門、五郎兵衛、宜平の三人は性学の者なのだから、御屋敷で粗相のないように気を付けるよう幸左衛門殿にも言っておいてくれ」
幽学先生ともお話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月27日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝から九ツ時まで、田中様の米を藤助と二人で搗く。藤助と一緒に揚場の湯に行き、帰りにさつま芋一俵を買う。七ツ時、屋敷に戻り。夜番を九ツ半から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「食べ過ぎに注意」と幽学先生などから何回も注意されている五郎兵衛ですが、風呂に行った後に「さつま芋一俵」を購入。日記とはいえ堂々と書いてしまうのは、やはりその点の自覚がないからかもしれません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番だが勤務(藤助殿と交替)。
朝掃除、楊枝削り。
七ツ過ぎに食扶持五人と三斗受取り、しらけ揚げ。夜番も八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
この年の9月は明日が最終日です。月の最終日には道友たちが借家に集うので、明日を休みにしたい五郎兵衛は藤助とシフトを交替しています。
なお、本日の記事中「しらけ揚げ」は意味が掴めなかったので、そのまま記載しました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・月末、松枝町の借家に全員集合。幸左衛門殿はが日本橋で秋刀魚と牡蠣を買ってきた。幽学先生は柿持参。
・各公事宿に袴代持参。
・小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り(幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり)、夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日です。メインは秋刀魚と牡蠣、デザートは柿。食物のことを書き残すのは五郎兵衛らしい!
それにしても幽学先生は柿がお好きなようです。先月も柿でした(8月28日、29日条)。


〈詳訳〉
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日である。朝掃除。後の仕事は大寺藤助に頼んで任せた。
節五郎殿と幸左衛門殿は日本橋に肴(秋刀魚と牡蠣)を買ってきた。おけいさんに料理を頼む。幽学先生は、柿持参で御出になった。
一同で柿をいただく。
各公事宿に袴代を持って行く。
幸左衛門殿は大根を買いに、宜平殿はタバコを買いに出た。両名が戻ってから、三人で両国で膏薬を買いに行った。幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり。
小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り、夜番を九ツまで勤める。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文政12年10月下旬・色川三中「家事志」

2024年11月04日 | 色川三中
文政12年10月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月21日(1829年)晴
ひものや鉄五郎が願書を訂正し、栗山(町年寄)へ提出。夜に入江氏宅で町年寄一同が集まる。鉄五郎の組合全員及び久松時右衛門も呼び、これまでの経緯について念のため確認した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎の願書は不備があったため、保留とされていましたが(10月19日条)、早くも訂正されました。書面の作成には、代書をしているものがいるのでしょう。願書(現代でいえば訴状)は町年寄経由で、藩の役人に提出されます。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎の願書の直しが出された。
・夜に、町役人一同が入江(名主)宅に集まる。ひものや鉄五郎の組合(五人組)と久松時右衛門を呼び出した。
入江全兵衛殿(名主)「各々を呼んだのはほかでもない、鉄五郎の件で、先日請人と組合が、桂助殿(色川三中)方へお詫びをした上で年内は勘弁するとの合意をしたことは皆も知ってのとおりである。このことは、当方へも届けがなされている。この度、桂助殿を相手取って、「願出」が鉄五郎から出されているが、これは一体どういうことかお伺いしたい。」
組合一同「先日、皆でお詫びをし、ご勘弁いただいて合意したことに間違いありません。」
私「なるほどその点は皆さんが仰るとおりです。それならば、鉄五郎が心変わりし、「願出」を出したということになりますね。もし別の意図があるならば、正直に話してほしいものです。
今回、私を相手取って願い出たということは、筋の通らないことが絡んでくると町年寄としての役が立たなくなります。御上がお糺しになられるのですから、請人も組合もそのことを心得えて、お糺しのときに間違いを言わないように心得ていただきたい。改めて一同の認識を承りたい」
組合一同は「合意に至った経緯ですが、組合一同で取組み、鉄五郎もそれで良い申し訳ないということで合意をしたのです。今回の願出は、鉄五郎が心変わりしとしか考えられません。」
以上のことを確認した。

〈その他の記事〉
・等覚寺の富願い(富くじを施行したいという願い)、大市が停止するので、23日から27日までと命じられる。
・今日、下高津から畑に札が立てられるという知らせが来た。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月22日(1829年)晴
水戸様の御尊骸は27日に江戸を発ち、土浦にてご休息予定となった。以前は中村宿であったが、対応が難しくなり土浦に変更となった。
これに伴い、割当担当の役人が明日到着し、藩の町奉行と名主と打合せることになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川斉昭の兄の斉脩が亡くなり、水戸街道をご遺体が通過します(10月20日条)。これまでは土浦の一つ手前の中村宿が御休憩地でしたが、今回土浦への宿泊に変更となりました。水戸藩の割当担当役人が前乗りで調整を行うようです。

〈詳訳〉
水戸様の御尊骸は27日に江戸を御立ちになられるとのこと。土浦での御休み所の割当のための御役目の方が明日には土浦にご到来とのことでる。
先年迄は中村宿が担当していたが、中村では差支えということである。近年、中村は衰微して、対応に難渋しているので、土浦での御休憩にとなった。その為、御役人がお出でになり、町御奉行様・名主全兵衛方へ御出になって、打合せをするとのこと。

〈その他の記事〉
・明日、隣主人と間原の両主人が、宍倉(現かすみがうら市宍倉)へ行って、借入れた金銭を受け取って来てもらうことになった。
・夜、新宅の常蔵が来た。「弟が来月1日に結婚する。君山村の藤右衛門の新宅の武兵衛のところだ。」←「君山村」は現稲敷市上君山・下君山。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月23日(1829年)晴
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、16日から22日までとのことであったが、本日(23日)からは物静かに致し、御沙汰があるまでは慎んで過ごすようにとの仰せである。これにより、大市もまた延期となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、昨日22日までだったのですが(10月18日条)、当面延期との仰せです。これはご遺体が水戸街道を通るので(江戸出立は27日)、それに伴うものでしょう。

〈その他の記事〉
・隣主人と間原の主人が早朝に宍倉(現代語訳かすみがうら市宍倉)へ出発。川口の政之助が同行。
・本日家の前を道普請した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月24日(1829年)晴
町奉行、吟味衆、肝煎衆、御目付衆により、座敷の御改めあり。孫ひさし等を取りはらうようにとのお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴い御一行が土浦に御休憩となるので(10月22日条)、土浦藩の役人総出で座敷の総点検です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月25日(1829年)晴
・岩間の伊勢屋から飛脚が来た。
・神龍寺より惣益講を行うとの回覧が来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「岩間」は現笠間市下郷。江戸時代は知人等に手紙を持っていってもらうことも多かったので、飛脚の利用はかなりの急ぎの用です。もっとも、飛脚が持ってきた内容は記事になく、わかりません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月26日(1829年)
一昨日(24日)、鈴木金之丞殿(町年寄)はある事件の関係で呼出され、「遠慮」を言い渡された。本日、見舞に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鈴木金之丞は町年寄の一人(4月1日条)。何らかの事件で、藩から「遠慮」を言い渡されてしまいました。遠慮は、江戸時代の刑罰の一つで、籠居を命じたもの。他者の出入りを制限しないものなので、三中も見舞いにいくことができます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%85%AE

〈その他の記事〉
・昨日来た岩間の伊勢屋からの飛脚には一晩宿泊してもらった。酒代二百文を渡した。
・下総徳兵衛が来た。
←「徳兵衛」は元従業員。佐兵衛と名乗るときもあり。本年2月に退職して下総に帰っていました(2月24日条)。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月27日(1829年)晴
昨夜、水戸藩の役人が土浦に到着。本日、座敷の御改めがあり、町役人は羽織袴で対応。栗山、大国屋、田町をご覧になり、四ツ半時に私の所に到着。店の前で平伏し、二階を案内。一見後に直ちに帰られた。旦那と供回り14人を引き受けることとなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦にて休憩を取ります。休憩場所の割振り担当が昨夜到着。本日各屋敷を見分して割振りをしています。水戸藩の役人には店の前で平伏しなければならず、土浦藩の役人の気取らなさとは随分違います。

〈詳訳〉
昨夜、水戸の御役人(宿割担当者)が土浦に到着。本日、座敷の御改めを行うので、町役人全員が羽織袴で出向く。栗山(町年寄)、大国屋、そして田町までご覧になってから引き返して、私の所へは四ツ半時にお出でになられた。
店の前で平伏し、役人が上がった後は中腰で二階を案内。一見後は直ちにお帰りになった。
旦那お一人と供回りが14人をお引き受けすることとなった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月28日(1829年)晴
当家には、旦那1人と供14人、引き馬1頭が御休憩になる。湯沸かし、入浴準備、茶と菓子の用意等細々とした定めあり。
御休憩先は土浦町内の70軒にわたるが、大町は除外。大町からは案内要員を差出すこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦で御休憩をする準備が進んでいます。御休憩先は土浦町内の70軒であり、大変な数です。色川家でも旦那1人と供14人を接待し、引き馬1頭もお世話しなければなりません。

〈詳訳〉
・水戸藩のご家中衆である弓持頭の庄勘右衛門が、当家で宿泊することとなり、休息のお札を受け取った。今回のご宿泊は土浦町内の70軒。大町は除外。そのため、大町には案内要員を出すようにとのことである。
当方への宿泊は旦那1人と供14人、引き馬1頭に決まり、飼馬は本陣の大塚氏から受け取ることとなった。
・水戸様のご家中衆到着の用意
湯を沸かしておくこと、入浴の用意を整えること、御茶を差し上げた後に菓子を出すこと。大国屋は御弓衆をお引き受けなので、これとは異なる。人足は姓名帳に記載し、逃げ出さないようにすべきとのこと。
その他、御もてなしの詳細については⇒末尾付1

〈その他の記事〉
・江戸和泉町の河内屋孫右衛門殿方への買掛債務(残金1両2分14匁7分4厘)の件で、一昨日、
代人の八兵衛と申す者が来て、催促を受けた。
この買掛は辰年(文政3年 )のものである。
八兵衛は中城美濃屋に泊まり、一昨夜は利兵衛殿が、昨日は私が交渉をした。この十年のうちには父も亡くなる等様々な困難なことがありました等と事情を申し上げた。
今日も交渉をし、「金2分を支払ってくれれば、残りの金額は良い時に払ってもらえればよい」と言っていたどけたので、そのとおりに合意し、今日金200疋(=2分)を渡した。
・鈴木金之丞殿は「遠慮」を仰せ付けられていたが、今日で終了となった。並酒一升を贈った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月29日(1829年)晴
今日、町組小頭や同心たちが最終の見分。店の看板等を取り払った。
後刻、町御奉行と御例座衆が御見分になるときは、御休札を持参して亭主が店の前に出て待つようにとの仰せがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
いよいよ明日(10月は今日までなので、11月1日)、水戸様のご遺体御一行が土浦を通ります。土浦藩の最終チェックは、町組小頭や同心+町御奉行と御例座衆の二重チェックです。粗相があってはイカンのでしょうが、それにしても厳重です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年(1829年)10月は小の月のため、30日は存在しません。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1:御もてなしの様子(10月28日上記の参照)
御到着後
御茶
菓子

汁 豆ふ
青み

長いも
椎茸
な 猪口 煮豆
牛房
ひりうづ

にんじん
大根 す合白ごまをする
あぶらけ
香物切漬

同御手廻り衆の平
のつへいこいたす
いも
にんじん
あぶらけ
こんにゃく
牛房



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義

2024年11月02日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義
第九回講義(明治18年5月19日)
現代語訳(試訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(はじめに)
本日は第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」を説明致しましょう。
━━
第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」

(無告不理の原則)
刑事裁判所で私訴を裁判するということは、被害者が民事の原告人となり、損害賠償を求める申し立てを行うことが必要です(これを私訴といいます)。民事の原告人が請求をしなければ、裁判所は判決を下すことはできません。これが「無告不理」(訴えがなければ裁かれない)の原則です。
しかし、我が国の旧律においては、被害者からの請求がなくても、刑事裁判所は職権で損害賠償を命じていました。被害者の訴えがなくても、刑事裁判所が職権で損害を償わせることは異例なことです。それゆえ、治罪法においては、必ず被害者の訴えを待ってから裁判を行うことになっています。
━━
(無告不理の原則の例外)
しかし、例外はあります。刑法第48条には「裁判費用や盗品、損害賠償については、被害者の請求に基づいて刑事裁判所がこれを審判することができる。ただし、盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐにそれを被害者に還付する」とあります。また、治罪法第308条には「被告人が刑の宣告を受けたかどうかに関わらず、没収に関係しない差押物品については、所有者の請求がなくても還付を言渡す」とあります。これら二つの条文は「無告不理」の原則には反していますが、実務に則した適切なものです。盗品が存在しているにもかかわらず、被害者が訴えなければ処分できないとし、それを犯人に返してしまうことは、犯人に利益を与えてしまうことになるからです。犯人に不正な富を得させることは許されるべきではありません。したがって、所有者が請求しなくても、その物の還付の言渡しをするのは妥当です。
━━
(刑法と治罪法の規定の異同について)
ところで、刑法と治罪法では規定の仕方が異なります。刑法では、「もし盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐに被害者に還付する」と漠然と記載されています。そのため、「犯人の手元にある」とは具体的にどのような場合を指すのかが曖昧です。裁判所が物品を押収しているかどうかにかかわらず、犯人から他者に渡った物も含むのか、それとも犯人の手元に残っていて裁判所が押収しているものに限られるのか、いずれとも決めがたいのです。
しかしながら、治罪法では「没収に係らない差押物品」と非常に明確に規定しています。同法によれば、犯人の手元にあってもる、差押さえられていない物品については、被害者の請求がなければ還付されないこととなります。
一方、刑法では「盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくても直ちに被害者に還付する」と規定されています。刑法と治罪法は矛盾しているようにも見えますが、そうとるべきではありません。刑法の不明瞭な規定を治罪法が明確にしているととらえるべきです。つまり、刑法の「盗品が犯人の手元にある場合」とは、官が差押さえた物品を指すと解釈すべきであり、差押えられていない物品は、被害者からの請求がなければ還付の言渡しができないと解すべきです。なぜなら、単に盗品が犯人の手元にあるというだけでは、その物品がまだ確定しているとはいえず、確定していない以上、裁判所が還付を言渡す理由がありません。
「差押え物品」とは、裁判所が押収した物品に限るものではなく、官吏が他に移すことを禁止した物品すべてを指すと解すべきです。被告人の手元に盗品があっても、差押えの処分がある場合には、裁判所は還付の言渡しができるのです。
━━
(刑事裁判所が刑の言渡しをしない場合の私訴の扱い)
民事の原告人が、刑事裁判所に私訴を提起し、損害賠償を求めるには、いくつかの要件があります。その第一の要件は、違警罪、軽罪、重罪に付随する損害でなければならないこと、つまり犯罪によって生じた損害に限られるということです。
被告人は、刑の判決が言渡されるまで、無罪かつ潔白な存在として見なされるべきであることは重要な原則です。裁判の宣告があって初めて罪の有無が判断されるのです。
被告人の中には全く犯罪に関与していない者もいますし、証拠不十分で無罪となる者もいます。時には公訴の消滅により免訴となる者もいます。
これらの場合には刑が言渡されませんから、刑事裁判所が私訴を受理した理由も消滅することになります。なぜなら、刑事裁判所で私訴を受理するのは刑が言渡されることを前提としているからです。
理論上は当該行為が犯罪とならない場合には、私訴を受理する権利も消滅し、私訴を棄却することになります。
しかし、実際の運用においては必ずしもそうとは限りません。フランス治罪法では、重罪と軽罪とでは扱いが異なります。軽罪及び違警罪は、被告人が無罪または免訴となった場合は、私訴は却下されます。しかし、重罪の場合は私訴の裁判の言渡しがあります。
フランスでは、重罪の審理には陪審官という者がいて、事実の判決を行うため、たとえ無罪の場合でも、私訴の審理を行うことには問題がないのです。
一方、我が国の治罪法はフランスとは異なります。公判において私訴を受理したときは、刑の言渡しがなくても、私訴の裁判を行うのです。同法第306条第1項に「裁判所においては、公訴の裁判と同時に私訴の裁判を言渡さなければならない」とあり、第2項には「私訴についての取調べが十分でない場合は、公訴の判決があった後に、その裁判の言渡しができる」と規定しています。
第401条第1項には「犯罪について証拠が十分でない場合は、無罪の判決を下し、被告人を釈放しなければならない」、第2項には、「原告と被告間の賠償については、第399条の規則に従って判決を言渡さなければならない」とあります。
第306条及び第401条は、公訴が無罪や免訴になった場合であっても、私訴を裁判することを命じています。理論的には、刑事裁判所でこのような私訴の裁判を行うのは、その権限を超えるものであるといわざるを得ません。被告人に犯罪が成立しな場合は、私訴は民事裁判所に提起すべきであり、刑事裁判所は私訴を棄却して、民事裁判所に移すべきです。
しかし、実際の便宜を考えますと、法の規定する扱いをすることは理由があります。
刑事裁判所で十分に取調べを行い、被害者の損害についても全て立証がなされているのに、訴えを却下すれば、被害者はもう一度最初から民事裁判所に訴え出なければなりません。
このようなことでは、原告人だけでなく、被告人の貴重な時間も無駄になります。このような無駄を省くために、立法者は前述のように規定したと考えられます。
━━
(無罪となったときに私訴を判断しても弊害はない)
「被告人が無罪になった場合に、刑事裁判所で私訴を裁判するのは問題がある。悪意を持った者が、刑事事件を口実にして、不当に民事訴訟を刑事裁判所に持ち込むといった弊害が生じないだろうか」という指摘について考えてみましょう。
確かにこの指摘は一理あります。しかし、重罪に関しては、必ず予審を経ます。予審判事が犯罪の成立を認めない場合は免訴の言渡しをし、公判に付しません。予審判事は民事の審判を行う権限がないので、私訴を受理できません。軽罪及び違警罪は、複雑な案件は予審を経ることとなりますし、軽易な軽罪や違警罪については、必ず検察官が起訴することになっていますので、民事の原告人が申立てをしたからといって、検察官がその事実を認めない限り、起訴することはありません。
このように予審判事と検察官がいることで、原告人の専横は防ぐことができます。
フランスでは、軽罪に関して被害者が公訴を提起できますので、前述のような弊害を防ぐことは難しいのですが、本邦においては、被害者は予審判事に申立てを行うことのみが許されており、直接公訴を提起することが許されていないので、前述の弊害を防ぐことができるのです。

(その他)
被害者が予審判事に対して民事原告人として申立てを行う手続きは、治罪法第93条以下および第110条以下の二節に定められています。手続きに関しては、民事原告人の起訴を論じる際に詳しく説明致しましょう。また、民事原告人となることで、様々な権利と義務が生じますが、これらも民事原告人の起訴を論じるときに説明致します。

(第四章第二節 了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第三節 民事裁判所に私訴をなすこと
(治罪法第4条第2項)
治罪法第4条第2項は「私訴は、別に民事裁判所にこれを行うことができる」と規定しています。私訴は刑事裁判所で行うこともできますし、公訴とは別に民事裁判に訴えることもできるのです。
民事裁判所において私訴を提起することができることとしたのは妥当です。
刑事裁判所で私訴を裁判することは便利ですが、それだけの理由で、民事裁判所に訴えることを禁止するのは妥当ではありません。市民同士の争いを扱う訴訟は、本来、民事裁判所で受け付けられるべきであり、刑事裁判所で私訴を審理することは例外なのです。便利であるからといって、本来の管轄権を奪うことは理論的ではありません。
このように、私訴は被害者の選択次第で、刑事裁判所にも、民事裁判所にも提起できます。
━━
(刑事裁判所に私訴を提起する方が便利)
日本では、原告人にとっては刑事裁判所に私訴を提起する方が便利です。印紙税(人々にとって最も嫌われているものです)を免れ、また勧解を経る必要がないからです。
一方、フランスの制度では、被害者は刑事裁判所に訴えず、民事裁判所に訴えることを希望する者が多いとようです。フランスの民事裁判所の構成は非常に充実しており、裁判官も適任者が選ばれているためです。裁判所所長は全ての民事事件を管理し、裁判官の人員も民事局の方が充実しています。初審裁判所の刑事局は5人ですが、民事局は7人です。控訴院も同様です。このため、フランスでは刑事裁判所を避けて民事裁判所に訴える者の方が多いのです。
━━
(治罪法第6条)
治罪法第6条は、私訴が民事裁判所と刑事裁判所双方に関わる場合の規定で、民事裁判所は、公訴の裁判よりも先に私訴の裁判を行うことはできません
同条は一見解釈が難しくないように思えますが、深く検討してみると理解が難しいところがあり、その背景や根本に立ち返ってよく考察する必要があります。
フランス法では、「刑事は民事を中止すべきものである」というのが原則です。この原則は、刑事と民事の訴訟が分離して提起された場合に適用されるべきものです。刑事裁判所において公訴と私訴双方が提起されている場合には適用されません。
━━
(治罪法第6条の趣旨)
なぜ民事と刑事が分離して提起された場合、民事裁判所は刑事の判決を待たなければならないのでしょうか。その理由は以下のとおりです。
第一に、刑事訴訟は民事訴訟とは異なり、その影響は単に財産上の問題にとどまらず、身体・生命にも影響を及ぼすものだからです。刑事事件を裁判するには、充分に証拠を見きわめなければなりません。刑事裁判を後にすると、民事裁判と刑事裁判の結果が抵触することもありえます。二様の判決が出ることは、国民の信頼を失わせます。このため、民事裁判は刑事裁判を待って判決をすると規定されているのです。
第二に、民事裁判を先に行うと、その結果が刑事裁判に影響を与える可能性が否定できないからです。この点については、裁判の確定を説明するときに詳しくお話ししましょう。
第三に、民事裁判を先に行うことで、その影響が被告人に不利益を与える可能性があるからです。刑事裁判官は知らず知らずのうちに民事裁判の判決を頼りにしてしまうことがないとはいえません。民事判決ではなく、証拠を重視すべきです。
以上三つの理由から、民事と刑事の訴訟が分離されて提起されたときは、刑事訴訟を先に行い、民事訴訟を後に行うと規定されているのです。
━━
(公訴が提起される前に私訴が起こされた場合の取扱い)
治罪法第6条を適用する際には、他にも注意すべき点があります。それを以下に説明しましょう。
第一に、公訴が提起される前に私訴が起こされた場合についてです。
公訴が提起されていないときに、私訴が提起された場合、手続きはどのように進めるべきでしょうか。
民事裁判所において、その事件が犯罪に起因するものであると認められたときには、治罪法第96条は「官吏がその職務を行うときに、重罪や軽罪があることを認知し、又は重罪や軽罪があると思料した場合には、速やかにその職務を行う地の検事に告発すべきである」と定めていたす。
民事裁判官がこの告発を行った場合、その民事審判は中止すべきかが問題となりえますが、中止する必要はないと考えます。治罪法第6条には「公訴と私訴が同時に提起された場合」とあり、告発を行っただけで、公訴が提起されていないのですから、民事裁判官が審理を中止する理由がありません。
検察官が告発を受理しても、公訴を提起するとは限りませんから、裁判官が何もせずただ手をこまねいて、検察官がどのようにするかを待つ必要はありません。裁判官と検察官は互いに抑制し合うものではなく、それぞれ独立した権利を持って公平な裁判を維持する者です。告発を行ったとしても、検察官が公訴を提起していない以上、民事裁判官は私訴を審理するのが当然です。
━━
(私訴審理中に公訴が提起された場合の取扱い)
第二 私訴審理中に公訴が提起された場合
私訴の審理中に公訴が提起されると、刑事と民事が並行して進行する状態となりますので、治罪法第6条により、民事訴訟は中止となります。刑事の判決を待ち、判決が出た後に民事裁判を再開すべきです。
━━
(民事裁判の中止は刑事の終局判決が出るまで)
民事裁判を中止して刑事裁判の判決を待つといいますが、どのような判決を待つべきなのでしょうか。条文ではこの点が明確ではありません。私は、刑事の終局裁判を待つべきではありますが、確定裁判まで待つ必要はないと考えています。
確定裁判と終局裁判は異なります。確定裁判は、最終の判決であり、上訴することができない判決です。一方、終局裁判とは、一旦その事件が落着したものです。予審の言渡しにおいても、終局のものとそうでないものがあります。
免訴は、それ以上の異議や上訴ができないものですので、終局裁判です。
これに対して、公判に移す旨の言い渡しは終局裁判ではありません。これからさらに審理し、取調べが必要だからです。
このように、予審における免訴は、終局の判決ですから、民事裁判を進めることができますが、予審から公判に移す場合は、終局の裁判ではないため、民事裁判を審理することができません。
以上のように、民事裁判は終局裁判を待つものであり、確定裁判を待つものではありません。確定裁判を待つと、奇妙な結果を招くことになります。予審における免訴の言渡しは確定裁判ではないため、後日新たな証拠が発見されたときには後日裁判となることがあります。
確定裁判を待つとするならば、公訴時効の満了や欠席裁判の場合には、刑罰の時効に至るまで待たなければなりません。刑罰の時効期間は、短ければ7年、長ければ30年にも及びます。このような長い期間を待つとすれば、民事原告人の損害は非常に大きくなってしまいます。
フランス治罪法第3条第2項においても、「民事を中止するのは、終局裁判を待つべきものでって、確定裁判を待つものではない」と規定されています。
刑事裁判所においては、私訴が提起された場合は、公訴の裁判と同時に私訴の判決を言渡さなければなりません。確定裁判を待つのであれば、民事と刑事を同時に裁判することなどできません。このことからも、確定裁判ではなく、終局裁判を待つべきものであることがわかります。
━━
(私訴の判決を公訴の判決よりも先に言渡した場合の取扱い)
私訴の裁判を公訴の判決よりも先に言渡してしまった場合は、私訴の裁判だけでなく公訴の裁判も効力がなくなります。
民事と刑事が同時に提起されている場合、刑事の判決が先に行われなければ、民事の判決を言渡すことができません。これに反した場合、民事と刑事の両方の判決は効力がありません。形事上の予断を防ぐためです。民事と刑事の両方の判決を取消すためには上告を要することになります。
(第四章 第三節 了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒罪について・仮刑律的例 46

2024年10月31日 | 仮刑律的例
徒罪について・仮刑律的例 46
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(要旨)
・徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。
・窃盗50両以上100両未満は徒罪
・徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法は各藩の裁量に任せる
・女性も徒罪を科すことができる

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【鳥取藩からの伺い】
明治2年3月6日、 鳥取藩からの伺い

先般、刑律御改正がありましたが、次の点についてお伺い致します。
【伺①】どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいでしょうか。

【返答】
徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。また、その他の犯罪は、以下を参考にしてして決めていただきたい。
火附・強盗人ヲ殺ス者⇒梟首
強盗・百両以上窃盗・強奸⇒刎首
窃盗五十両以上⇒徒罪
同二十両以上⇒笞 百
同一両以上⇒笞 五十
同一両以下⇒笞 二十

(コメント)
鳥取藩からの徒罪についての一般的な問合せです。徒罪は現代の懲役刑に相当すると説明されることが多いのですが、この伺いを見ていくと、現代とは様々な相違点があることに気がつきます。
【伺①】は、どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいかというものです。明治政府が明確に示したのは、窃盗50両以上100両未満の場合は徒罪ということだけで、その他の犯罪は、示したものを参考にしてして決めよという、ほぼ丸投げ状態です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺②】
一 徒罪を執行したときに、首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をしてもよいでしょうか。なお、これは、古髠鉗(こりょうかん)と呼ばれる刑罰によるものです。鐶(かせ)は銅・鉄・真鍮等で作るということでよいでしょうか、またその製法があればお教え下さい。
一 斬髪というのは、髻(もとどり)から斬るという方法だけでよいでしょうか。剃下げや惣髪にすることはいけないということにして良いでしょうか。

【返答】
徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法については、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよい。

(コメント)
【伺②】は、徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法についてです。懲役刑は、刑務所に収容して自由を奪い、労務作業(木工、印刷、洋裁など) を義務づけるものですが、その他の「恥ずかしめを与える方法」等は想定されておりません。しかし、鳥取藩は首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をするという方法で、徒罪に服していることを明らかにしておきたかったようです。明治政府は、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよいと、鳥取藩の自由裁量を認めています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺③】
一、婦人も徒罪に処して良いでしょうか。

【返答】
良い。なお、婦人徒罪における苦役方法は、各藩の独自の裁量で取り扱ってよい。

(コメント)
女性に対して徒罪(徒刑)を科してよいとの明治政府の考えは、「仮刑律的例24」(京都府からの明治元年12月26日付け伺い)により明らかになっています。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/133cb0047bf2f05e8879cae5ff01a305
仮刑律的例24では笞刑を女性に科すことは相当ではないので、徒刑でよいかとの伺いに対して、明治政府がこれを是認し、女性の徒刑は、場所を区別して行うのが最も良いこと、徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよいことという返答がなされています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺④】
一、流罪に処するのはどのような犯罪の場合でしょうか。

【返答】
流罪は、死罪よりも軽く、徒罪よりも重い犯罪に対して科される刑罰である。

(コメント)
明治初年にはまだ流罪(流刑)が残っていました。新しく徒罪(徒刑)が導入されたため、鳥取藩としてはどのような場合に流罪を適用したら良いのか迷っていたようです。
明治政府の返答は、徒罪〈流罪〈死罪 という関係を示した素っ気ないもので、これだけでは鳥取藩も困ったことでしょう。仮刑律的例23では、「流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。」との考えを明治政府は示しているのですが、鳥取藩にはこの返答を示しておらず、明治政府内でも明確な方針が打ち出せていなかったようです。
なお、他の仮刑律的例での流罪事例は次のとおりです。
・高額窃盗事案(被害額100両超)であり、本来死罪とすべきところ、大赦があったことを理由として流罪7年とした事例(仮刑律的例 17、度会藩)
・兵庫県の判事の下男が、2名の者に脇差しで切り付け、一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたことにつき、流罪としたもの(仮刑律的例 27、兵庫県)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45

2024年10月28日 | 仮刑律的例
御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(要旨)御預け罪人への食事は一汁一菜で良い

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【筑前福岡藩からの伺い】
明治2年3月8日、 筑前福岡藩から御預け罪人の取扱について心得方伺い

伺①三人の者を一つの間とすることでよいでしょうか、それとも、それぞれ別の間とした方がよいでしょうか。
伺②罪人を引き受けるときは、網乗物が良いでしょうか。
【返答】
引戸駕で錠を締めるべきである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(伺①、②へのコメント)
・本件の伺いは「御預け罪人」とあり、この意味が定かではありませんが、内容からして「罪人」は未決の者を指すと思われます。現代的にいえば、被疑者の扱いをどのようにすべきかという問合せです。
・伺い①は、被疑者を雑居とすべきか、独居とすべきかについての問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い②は、被疑者をどのように護送するかという点に関するものです。福岡藩は、「網乗物」を使用した方が良いかと尋ねています。
「網乗物」とは、士分以上の重罪人の護送に用いた青い網をかけた乗物(かご)のことですので、「御預け罪人」というのは、身分的には士分以上であったのかもしれません。
これに対して、明治政府の返答は、「引戸駕で錠を締めるべき」というもので、福島藩の問合せよりも格の低いもので良いとの返答です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伺③ 罪人を御請取りするときには、警衛一小隊を出してもよろしいでしょうか。
伺④食事については、御作法に則ったものはお出しできないと思います。
【返答】
一汁一菜でよい。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(伺③、④へのコメント)
・伺い③は、被疑者の受取りに際して警衛一小隊を出してもよいかとの問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い④は、食事に関する問合せです。「食事については、御作法に則ったものはお出しできない」といっているので、やはり「御預け罪人」は身分の高い方なのでしょう。
明治政府の返答は、「一汁一菜でよい」と実に素っ気ない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伺⑤帯や下帯等は着用させないように致します。その他御作法があれば御指図下さい。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(伺⑤へのコメント)
・福岡藩の問合せは、被疑者の自殺防止の観点から帯や下帯等は着用させないというもので、その他指示があればご指示下さいとしておりますが、明治政府は何ら返答をしておりません。
福岡藩はかなり気をつかっているように見えますが、明治政府が返答もしていないものも散見されます。自分で考えて実行せよということなのでしょうか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正10年の千葉の弁護士

2024年10月26日 | 歴史を振り返る
(大正10年の千葉市の様子)
千葉市史編纂委員会編『千葉いまむかし』の第5号には、「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)と題して、大正10年の千葉市が紹介されています。
「千葉案内」には、千葉市について次のように記しており、当時の千葉市の勢いが感じられます(現代語訳)。
〈明治6年に千葉県庁が設置され、それから裁判所やその他の官庁も出来た。医学校をはじめ、官公私立の各種学校、鉄道連隊、陸軍歩兵学校、同教導連隊なども設置され、現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。〉
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(大正10年の千葉の弁護士)
「千葉案内」には大正10年の千葉の弁護士名が列記されています。
(弁護士)高橋八郎、松野信次郎、鹿島千太郎、 高橋栄蔵、一瀬房之助、羽生長七郎、杉山弥太郎、中川真太郎、古川与、信太武治、清古平吉、遠山重義、神田仲二、長戸路政司、阿部遜、青木勝見、松沢亀治郎
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(安部遜弁護士)
本文には上記のように氏名が記載されているだけなのですが、「千葉案内」には広告欄があり、弁護士の広告も見えます。

━━━━
弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
━━━━
弁護士一覧には「阿部遜」の名前が見えますが、広告で「安倍」となっています。どちらが正しいのかですが、明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)の弁護人に「安部遜」の名が見えます。同判決は、第一審が千葉地方裁判所ですので、「安部遜」が正しいことが確認できました。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(一瀬房之助弁護士)
一瀬房之助弁護士の広告です。
━━━━
千葉市新通町(電話252番)
弁護士、特許弁理士、日本法律学士
一瀬房之助
出張所 木更津町、北條町 佐倉町、一ノ宮町、八日市場町
━━━━
この広告によれば、一瀬房之助氏は、千葉市新通町の事務所以外にも木更津町(現木更津市)、北條町(現館山市)、佐倉町(現佐倉市)、一ノ宮町(現一宮町)、八日市場町(現匝瑳市)に出張所を持っていたことがわかります。当時の弁護士法では複数事務所が禁止されていませんでした。現行弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されていますので、個人の弁護士はこのような「出張所」を設けることができません。
一瀬房之助は市議会議員でもあり、副議長及び議長職についています(千葉市歴代正副議長名簿)。
副議長:大正14年3月〜昭和4年3月
議長:昭和11年12月〜12年3月


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(羽生長七郎弁護士)
羽生長七郎弁護士の広告です。
━━━━
千葉市本町一梅屋敷(亀井橋通り)
弁護士 羽生長七郎
出張所 香取郡佐原町佐原イ3369
浮島屋旅館裏
匝瑳郡八日市場町イ340
下出羽宿
━━━━
羽生長七郎弁護士も、事務所以外に出張所(佐原及び八日市場)を持っています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高橋栄蔵弁護士)
高橋栄蔵弁護士の広告です。
━━━━
千葉市市場474番地
弁護士 高橋栄蔵事務所
弁護士 高橋栄蔵
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(鹿島千太郎弁護士)
鹿島千太郎弁護士の広告です。
━━━━
千葉市事務所
千葉県庁前(電話556番)
弁護士 鹿島千太郎
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(杉山弥太郎弁護士)
広告を掲載している弁護士は以上です。広告はないものの、その他情報を得られた弁護士について記しておきます。
杉山弥太郎弁護士は、『千葉繁昌記』(明治28年)にもその名を記されています(過去記事)。
生年月日は明治元年九月八日 (1868)とのことであり、大正10(1921)年時点では53歳ということになります。

同弁護士の事務所は千葉市本町二丁目にあり、『千葉街案内』(明治44年)には大要以下のとおり紹介されています(現代文にしてあります)。
「弁護士杉山弥太郎氏の法律事務所は、千葉町本町二丁目にある。民事訴訟や、刑事訴訟だけでなく法律に関する幅広い業務を親切かつ丁寧に扱っており、信頼を得ている。杉山氏は山武郡大網町の出身で、故父杉山安蔵氏に従って法律業務に従事し、千葉中学校を卒業後、上京して英語学校に通い、その後法学院に進んで学問を深めた。明治22年に法学院を卒業するとすぐに弁護士試験に合格し、静岡市に事務所を設立した。しかし、明治24年に千葉町に戻り、現在の場所に法律事務所を開設して以来、大変な繁盛を見せ、現在に至っている。彼は千葉町でも有数の信頼を集める人物であり、現在は千葉県議会議員の要職についている。」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(清古平吉弁護士)
清古 平吉(せいこ へいきち)氏は、大正10年当時千葉市の議員であり、「千葉案内」の市会議員欄にもその名が見えます。
1901年(明治34年)の法律新聞の『千葉通信』には次のような記載があり、千葉で最も多忙な弁護士の一人に数えられています。
◎千葉通信(現代語訳)
弁護士界:当地の弁護士界で最も忙しいのは、神田仲二、清古平吉、杉山弥太郎の三氏のようである。現在の弁護士組合会長である浅井蒼介氏の任期は、来たる5月で満了するため、その後任には清古平吉氏が就任する予定である。もともと、当組合の会長選任は、最も公平な方法が取られており、開業順に順次就任するのが慣例となっているので、他の地方に見られるような金銭に関する問題とは異なっている。

━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番のはずだったが、朝掃除、着物の洗濯、昼から障子張り、御弓場の設営。九ツ時に平作殿が「用事で下町に行くから後はよろしく」といわれ、引き続き仕事。
幸左衛門殿は八ツ半時に松枝の借家町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日休み(非番)なのですが、結局一日中仕事。同僚の平作は五郎兵衛に仕事を押し付けて下町へ。平作はこのところサボり気味です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月12日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時、幸左衛門殿と一緒に、牛込揚場の湯に行く。帰りに問屋で黒餅一抱を232文で買って帰る。本日夜番は休み。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は現在は「新宿区揚場町」。夕方が比較的暇なのか、七つ時から銭湯に行っています。帰りに黒餅を一抱も買っています。やはり五郎兵衛は食いしん坊です。これでは幽学先生ならずとも、食べ過ぎに注意といいたくなります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
同僚と一緒に田中様と安達様の米搗き。暮方から同僚は外出してしまい(宜平殿は松枝町の借家へ、平作殿は麹町大崎方へ)、小生一人で仕事。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいただく。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
旧暦9月13日は十三夜のお月見。五郎兵衛はお祝いの品(団子、芋、栗、豆)をもらっています。食いしん坊五郎兵衛だけあって、食べ物はきっちり記録しています。

〈詳訳〉
本日は本番。六ツ時から田中様の米搗き、宜平殿、平作殿と三人で替わるがわる九ツ半迄。七ツ時から安達様の米搗き。暮方に宜平殿は松枝町の借家へ行き、平作殿は麹町大崎方に行ってしまって、小生一人で夜具上げ。時触れ。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいたはだく。九ツ半より夜番を勤める。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、平作とシフト交替。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻る。安達様及び宮本様の米つき暮方まで。平作殿は、小川町の御門番に異動することになり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「平作殿」は、五郎兵衛が藪家で働き始めた当初からの同僚(7月13日条)でしたが、この度、小川町の門番に転勤となりました。荷物が少ないからか、命じられたら、すぐ小川町に行ったようです。


〈詳訳〉
非番予定だったが、平作とシフト交替となり、勤務。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻ってきたので、かわるがわる米搗き。九ツ時安達様の米つき終わり、次いで宮本様の米搗き暮方まで。平作殿は、小川町の御門番は勤めることとなり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月15日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
殿様の御登城日。
朝掃除、楊枝削り。四ツ谷まで使い。
幸左衛門殿と松枝町の借家に灰を持っていく。本町へ廻り安達様の為に砂糖購入。飯田町の湯へ行き、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「安達様」(旗本籔家の家来か)は、五郎兵衛にちょくちょくお使いを頼んでいます。こうしてみると砂糖が多いですね(今日も砂糖です)
・砂糖(本町の小西利左衛門)(閏7月4日条)
・砂糖(8月13日条)
・葛(9月9日条)

〈詳訳〉
本日殿様は六ツ半時に御登城。
添番。朝掃除、宜平殿と二人で髪結い。楊枝削り。八ツ半時、田中様から四ツ谷までの使いを頼まれる。七ツ半に戻り。幸左衛門殿と二人で松枝町の借家に灰を持っていく。日暮れ後に本町へ廻って安達様の為に砂糖を買って帰る。飯田町の湯に入って、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番も勤める。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月16日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、宜平殿と二人で着物洗濯。楊枝削り。夜番を九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本番と九つ(深夜0時)までの夜番勤務。よく働くので、籔家でも五郎兵衛は珍重されたのではないでしょうか(それにしても働かせ過ぎのようではあります)。奉公人の人員は明らかに減っていますが、五郎兵衛は文句も言わずに仕事をこなしています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番のはずだったが、仕事(宜平殿も)。掃除、床下げ、馬場の仕度。昼から御弓場の設営。九ツ半から夜番。真夜中(四ツ半時)に平作殿が来て道具を持って行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事には「馬場の仕度」とか「御弓場の設営」があり、藪家の家来が御屋敷内で練習していることがわかります。昨年にはペリーが来航しており、軍事対応の必要性が増していたのでしょうが、相変わらずの弓馬の調練で大丈夫でしょうか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月18日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時に牛込薬店の湯に行く(大寺と)。九ツまで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、大寺さんとはよく一緒に風呂に入りに行ってます。今日もまた一緒に銭湯へ。
・幸左衛門殿と大寺と堀田の湯へ(7月28日条)
・幸左衛門殿、大寺と牛込の薬店湯へ(閏7月17日条)
・大寺と二人で薬店の湯(8月7日条)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月19日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、四ツ時に御奥様が外出なさるとの御触れを聞く。八ツ時に御奥様は雉子橋様へ行かれた(御供揃)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は「御奥様」の公式の外出。五郎兵衛はどのような供がついていたのか、日記に記録してくれています。
行き先は「雉子橋様」。「雉子橋」は橋の名前なので、橋近くに屋敷がある方のところに行かれたのでしょう。

〈その他の記事〉
本日は御供揃で御奥様は雉子橋様へ行かれたとありますが、御供を次のとおり記録したいます。
御駕籠四人
御脇
御取次壱人
奥附壱人
御近習二人
御先 半助、安左衛門
御箱持壱人
御草履取壱人
押壱人
釣台弐人
女中供
腰添壱人
草履取壱人
もの持壱人
五味庄太夫
若党壱人
草履取壱人

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月20日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・今日は三峯様の御祭り。
朝掃除の後、赤飯を作り御家中衆へ配る。
晩に御家中衆は大座敷で酒盛り。
・宜平殿は腫物が痛み、休むために九ツ半時に松枝町の借家へ行った。御屋敷の仕事は
藤助殿と二人で勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「三峯様」は三峯神社の神社のことでしょうか。御家中衆は午前中に赤飯を配られ、晩には大座敷で酒盛りに興じています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひものやの奇行続く・文政12年10月中旬・色川三中「家事志」

2024年10月21日 | 色川三中
ひものやの奇行続く・文政12年10月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月11日(1829年)晴
夜に、入江(名主)宅にて町年寄一同参集。
道の普請のこと
役人の交代のこと
鉄五郎のこと
その他。詳細は略す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「鉄五郎」というのは、ひものや鉄五郎のこと。ついにひものやの件は、色川家(大家)とひものや(店子)の賃貸借のトラブルから、町役人一同の議題へと広がりを見せるまでになってしまいました。といっても、鉄五郎が訳の分からない行動に出ているのが問題なのですが…

〈その他の記事〉
・大町の松本源兵衛が、酒一升を持って来た。
「内々の願いごとについてご尽力いただき感謝申し上げます」とのこと。願主は松本源兵衛と伝兵衛の二人、東崎は大和田庄右衛門の件である。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月12日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ、明日再開)
#色川三中 #家事志


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月13日(1829年)晴
ひものや鉄五郎は「遠慮」を命じられ、藩から三日間(昨日まで)で終了と言われたのに、今朝になっても戸を開けず、組合の者たちが促しても拒否。組合(五人組)の者も困惑し、町役人に報告があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎は「遠慮」を命じられ(10月11日条)、昨日で終了と言われても、命令を無視して引き籠もるという奇行にでています。組合(五人組)は町役人にこのことを報告しなければいけませんし、いい迷惑です。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎は「遠慮」の言渡しを受け、昨日までで三日間の「遠慮」していた。昨日、組合の一員が役元に呼ばれて、「鉄五郎の遠慮は本日まで」と言渡された。
しかし、鉄五郎は今朝になっても戸を開けない。組合の者たちが開けるように言っても、鉄五郎も親類の者も「戸は開けない」と言い張っているとのこと。組合の者から役元にこのことが報告された。
・昼過ぎに入江(名主)宅に行く。船で浦の方からいった。
私「鉄五郎の親類の者たちがしきりに願い出ていたので、箱訴をしてくる可能性もあるだろう。そのことも含めて藩にご報告しておいた方がよいのでは」と申し伝えたところ、入江は即刻藩に報告に行った。

〈その他の記事〉
・朝、利助出立。西ルートの新しい取引先開拓のため。
・喜兵衛を安食村(現かすみがうら市安食)に派遣。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月14日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ、明日再開)
#色川三中 #家事志

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月15日(1829年)曇
夜に五香屋に行き、町年寄の役をお受けできないかお話ししたが、承諾いただけなかった。その他様々な話しをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町年寄の後任の打診で五香屋さんを訪れた三中ですが、あっさりと断られてしまったようです。町年寄の仕事は多忙なのに、それに伴った実入りが少ないので、よほど経済的に余裕がないと受けることはできないのでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月16日(1829年)晴
本日、ひものや鉄五郎の「願書」が栗山(町年寄)に提出されたとのこと。大家(色川家)と名主を相手としたもので、受理されなければ、箱訴狙いかと思われる。組合(五人組)も困惑している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
いつの世にも変な人はおります。ひものや鉄五郎氏もその一人。三中から店を借りているのですが、トラブルを起こし、組合(五人組)も呆れてしまっています。今回は「願書」を藩に提出しており、混乱がさらに続くようです。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎の組合一同が来た。
鉄五郎が大家と名主を相手どり願いを出したとのこと。鉄五郎は、組合の者へ願書を取次いでくれるように述べたが、 組合も相手方となるかもしれず取次ぐのはいかがなものかと考えた為、ひとまず内々に報告することにしたとのこと。
・組合が取り次がなければ、箱訴を起こすつもりであろう。中高津の甚左衛門と大竹の瀬兵衛は、このようなことに長けていると評判である。
・九ツ過ぎに川口へ船で行く。
隠居(祖父)「ひものやの件が一応の解決したと思ったら、またまた珍事だな。町年寄を退任してもとの五人組に入った途端に、この件を片付けなければならないことになるのは、どうも見苦しい。町年寄としての出勤も不適当だし、病中の御尋ねということで進めるしかないだろう」
・このことで、入江(名主)宅に行って打合せし、奥井(町年寄)とも話す。
本日、ひものや鉄五郎の「願書」は栗山(町年寄)に提出されたとのこと。

〈その他の記事〉
・従業員の政之助を安食村(現かすみがうら市安食)へ遣わした。
・七ツ時に小白村の与兵衛が馬で土浦に来た。百日ぶり。←奉公人。病気となり、小白村で療養していたり
・木下から新酒一升が届く。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月17日(1829年) 曇
栗山(町年寄)がひものや鉄五郎の願書を町組小頭へ提出した(栗山、鈴木、奥井の各町年寄が奥書印)。夜、ひものやの組合(五人組)の大竹が町組小頭に呼ばれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎の「願書」の処理。町年寄に提出された後、町年寄が奥書印をして、町組小頭(藩の役人)に提出。町組小頭は、ひものやの組合(五人組)を呼んで、事情聴取をしています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月18日(1829年) 曇
水戸中納言様が御逝去された。今月16日から来月22日まで鳴物は停止、普請は今月16日から3日間は遠慮。
以上のお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「水戸中納言」は水戸藩の藩主であった徳川 斉脩(なりのぶ)のこと。文政12年10月4日死去。享年33。斉脩の弟があの徳川斉昭です。兄の死により斉昭が水戸藩の藩主となります。

〈その他の記事〉
谷津稲苅たば覚
十六日 百四十わ《きさ、しめ》
十七日 弐百わ 女二人
十八日 弐百五十わ《喜兵衛 女二人》
十九日 九十わ 喜兵衛 九十五わ きさ 百わしめ



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月19日(1829年)晴
町組小頭様が、鉄五郎の組合(五人組)と差添を呼出し。
小頭様「この願書では、訴えとはいえない。鉄五郎ではなく『源七煩に付き伜鉄五郎』と書くように。公事名も付けよ、趣意を明らかにせよ。願書は保留とし、追加の書面をみて判断する」
#色川三中 #家事志
(コメント)
町組小頭(藩の役人)がひものや鉄五郎の「願書」への判断を示しています。どのような場合に訴えとして受理するのかが分かり、興味深い。鉄五郎の家の当主は父親の源七なので、鉄五郎の名だけでは訴えができず、『源七煩に付き伜鉄五郎』と書かないとダメなのですね。

〈詳訳〉
・町組小頭様が、夕方、鉄五郎の組合(五人組)及び差添えの八兵衛を呼び出された。
今回の願書では、訴えとして取り上げるほどのものではなく、また鉄五郎の名だけでは不十分で、「源七煩に付き伜鉄五郎」と書くこと、公事名を付け、趣意を明らかにすることを指示されたとのこと。願書の扱いは保留で、追加の書面をみての判断となるとのことである。

〈その他の記事〉
・今回、ひものや鉄五郎から願書が提出されたが、無視するのもどうかと思い、入江全兵衛(名主)と連名の趣意書を提出した方が良いのではと考え、川口隠居(祖父)に見せた上で、入江に持参した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月20日(1829年)晴
水戸様御尊骸が水戸街道を御通行になられるので、道普請をするようにとの指示があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸藩の藩主徳川斉脩が亡くなり(10月18日条)、水戸街道を通って、水戸徳川家累代の墓所のある茨城県常陸太田市瑞龍町にある瑞龍山に運ばれます。街道沿いには道普請の命令が出て、色川家も駆り出されるようです。

〈その他の記事〉
・鉄五郎の組合(五人組)の竹中屋七兵衛を呼び、先日組合が約束したとおり、ひものや鉄五郎が店の賃料を支払うよう催促した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1
ひものや鉄五郎の一件の覚え

一昨年(亥年)(注:文政10年)夏:勝右衛門(利兵衛より)、ひものやに申入れを行った
同年9月ころ:当方の留主中に勝手に相手方が普請した事について父親の源七へ事情を聞いた。
其後、何ら挨拶はなし。

去年(子年)(注:文政11年)春:手代の与市を遣して交渉する。
8月: 相手方の代理人の竹中七兵衛に話しをする
10月:相手方と合意
10月下旬:相手方が合意を破棄して、軒を勝手に伸ばしてきた。その後何回も久松と交渉。
同年暮から賃料をなくなった支払わなくなった

当年(注:文政11年)
6月:名主に頼んで相手方に意見してもらった
7月:相手方は相変わらず賃料を支払わない
9月15日: 入江(名主)から相手方に不行届ありとの話し。
9月18日:組合の者と共に鉄五郎が一緒に来るべきと伝える。久松時右衛門にも同様に伝えたところ、時右衛門から一両日待ってほしいという話あり。同夜、内田六蔵が来る。
9月23日: 高砂屋来る。
9月24日: 組合から、相手方が不埒である旨の申し出あり。
9月28日:入江から相手方に厳重に申入れをしても、相手方が取り合わなかったため、町組小頭様に届出る。
9月29日: 相手方が小頭様に呼び出された。同じころ安達氏来られる。
9月30日:組合が詫びに来る。
10月2日: 組合の者がまた来た。
10月3日:組合の者は頼りにできないと断る。
10月4日:安達氏より頼まれたとのことで、また組合の者が来た。
10月7日:また組合の者が詫びに来た。
10月8日:朝、利兵衛(叔父)を相手方の組合へ行かせ、当方の考えを伝えた。
10月9日:組合の者が来て、年内は御勘弁とのこと有難くお受けする旨の話しあり。
その旨、入江(名主)へも届ける。
10月10日:鉄五郎が「遠慮」を言い渡される。
10月13日:鉄五郎、「遠慮」が終了しても戸を開けず。
10月16日:組合から鉄五郎が「願書」を提出するとの話しあり。同日夜に、鉄五郎、栗山(町年寄)へ願書を提出。
10月17日:「願書」が町組小頭へ提出され、夜に鉄五郎の組合の者と大竹瀬兵衛が小頭様に呼ばれる。差添奥井吉右衛門殿(町年寄)。
10月18日:「願書」が御奉行様へ提出された。
10月19日:公事名及び「源七煩に付き鉄五郎」と記載するようにとの指示が小頭様から相手方にあり。また、これは訴えとはいえないとの考えが小頭様から示される。
10月21日:鉄五郎が願書を修正し、栗山(町年寄)へ提出。
夜に入江氏宅で町年寄一同が集まる。鉄五郎の組合全員及び久松時右衛門も呼び、一同の考えについて念のため尋ねた。
11月6日:趣意書を仰せ付けられる。
11月8日:5日日延べ。
11月9日:内六(内田六蔵)来る。
11月14日:朝、同人がまた来る。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」 明治28年千葉繁昌記より

2024年10月19日 | 歴史を振り返る
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」の項を現代語訳したものです。記述の大半は裁判所の権限についてですが、これは裁判所構成法をそのまま述べたものであり、あまり面白いものではありません
裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあるとされています。おそらく現在(千葉市中央区中央4丁目)と変わらない位置だったと思われます。
「庁舎は昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」等の記載や職員の名前が記載されており、後に大審院長となった横田秀雄の名が見えます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○千葉地方裁判所
○千葉区裁判所

地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。
・地方裁判所の権限
【民事事件】
1 「第一審」として、区裁判所の権限や裁判所構成法第38条に定められた控訴院の権限に属するものを除き、その他の請求を扱う。
2 「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
【刑事事件】
1「第一審」として、区裁判所の権限や大審院の特別権限に属さない刑事訴訟
2「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
・区裁判所の権限
【民事事件】
1 100円を超えない金額または価値100円を超えない物に関する請求
2 価格に関係なく、
(イ)住居やその他の建物の受け取り、明渡等(ロ)不動産の境界に関する訴訟
(ハ)占有のみに関する訴訟など
【非訟事件】
1 後見人や管財人の監督
2 不動産や船舶に関する権利関係の登記
3 商業登記や特許局に登録された特許、意匠および商標の登記
【刑事事件】
1 違警罪
2 本刑50円以下の罰金を付加し若しくは付加せざる2月以下の禁錮、または100円以下の罰金に該当する軽罪
3 刑法第2編第1章を除く軽罪で、罰金200円以下または禁錮2年以下に該当する軽罪または300円以下の罰金に該当し、その情状が2に掲げた刑より更に重い刑 に処することを要しないと認め地方裁判所若くはその支部の検事局より区裁判所に移付したるもの等

このように千葉町は人事百般の裁決を下す所であり、弁護士や代書人、訴訟当事者が多く住み、また行き来するため、町の繁栄にも寄与している。

千葉町の裁判所の沿革
明治6年6月に印旛裁判所と木更津裁判所の二ヶ所が合併して千葉裁判所が設置される。
明治9年10月にその名称が廃されて東京裁判所千葉支庁と改められ、この時に千葉区裁判所が設置される。
明治15年1月には東京裁判所千葉支庁が廃止され、千葉県始審軽罪裁判所に改称され、千葉区裁判所は千葉治安裁判所に改められた。
明治22年11月、裁判所構成法の施行により、千葉地方裁判所と千葉区裁判所に改められた。

明治27年9月5日時点の職員は次の通りである。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
従七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
監督書記 大野秀之
書記(略)

検事局職員
正六位勲六等 検事正検事 大井治義
従七位検事 諸岡良位
監督書記内田有方
書記(略)

千葉区裁判所職員
監督判事 中岡藹
従七位判事 高橋良之輔
従七位 検事渡辺助治郎
司法官試補 検事代理藤波元雄
監督書記 芝沼明
書記(略)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月17日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。

嘉永7年は閏7月が存在したため、一か月ズレが生じています。年末の帰村で帳尻が合いますので、年内は一か月ズレたままとなります(今月は9月の日記となります)。 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月1日(朔)(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、楊枝削り。本日殿様は御登城。正六ツ半時に出発(御本供)、九ツ時に御帰館。八ツ半過ぎ、幸左衛門殿は松枝町の借家へ行って泊まり。良左衛門君が江戸に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・殿様の御登城日。正六ツ半(午前7時)出発で、御帰館が九ツ(正午〜午後1時)ですから、現代よりも早い。現代は夜型です。
・幽学先生の一番弟子格の良左衛門は、息子(良祐)の結婚の関係で村に戻っていました(8月22日条)。必要な用を済ませただけですぐに江戸に戻ってきたようです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月2日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
掃除、楊枝削り。八ツ半時に松枝町の借家へ行くと、幽学先生、良左衛門君と大家の三人で碁を打っていた。晩の九ツ時まで碁を打っていて、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
休みを利用して松枝町の借家へ行くと、幽学先生、碁を打っていました。幽学先生が碁を打つことが記録されているのは珍しい。ついこの間までは、五郎兵衛が借家に来ると、幽学先生は顔も見たくないと、出かけてしまっていましたから、落ち着きを取り戻した光景です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、幽学先生からの奉公の心得。
「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ」
御屋敷に戻る。初午の準備で忙しい。夕方から御家中衆は酒盛り。小生は九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・五郎兵衛は旗本藪家で江戸滞在費稼ぎのバイト(奉公)をしています。幽学先生からは、奉公先で御家中衆が感心されるように勤めよ、とのお言葉。屋敷に戻ると、明日は初午の祭りなので、奉公人は初午の準備に忙しく、一方で御家中衆は酒盛り。
・「初午祭」は稲荷神社の祭りです。毎年2月の最初の午の日=初午(はつうま)の日に行われるとされていますが、なぜか今回の日記では9月です。

〈詳訳〉
六ツ時に起床。借家で朝飯を食べる。帰りがけに、幽学先生からお声をかけられた。「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ。性学者と名乗りながら、つまらない者と思われてしまうようでは道がすたる。これまで学んだことを、一緒に奉公している幸左衛門や宜平とよく相談して、日々過ごすようにしなさい」
五ツ時、借家を出る。藪様の御屋敷に戻って、宜平殿と二人で髮結い。
初午の仕度のため、御用多し。
昼より幸左衛門殿、宜平殿と三人で薬店の湯に入る。
宜平殿は松枝町の借家に行った(本日泊まり)。御屋敷に戻ってから、楊枝づくり。暮れに御床上げ、四ツ半頃迄御次で御家中衆は酒盛。九ツ半から夜番を勤める。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月4日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ。初午の祭礼で賑わしい。御用多く、九ツまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨夜は途中から夜番、今日は本番ですから、ほとんど寝ていないのではないでしょうか(それとも暇を見て寝ているのか)。初午の祭礼ですが、奉公人は楽しむ余裕もなく、様々な仕事をこなされなければなりません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だが、平作が二日酔い(原文:「前夜の酒つかれ」)のため添番。朝掃除、時触れ。夕方御床上げ。九ツ半から夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
同僚の平作が二日酔い。昨日は初午祭で、かなり飲んだのでしょう。五郎兵衛は休みの予定を返上して、添番勤めです。五郎兵衛が幽学先生に会いにいくのに、シフトを替わってもらうこともありますから、この辺りはお互い様です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だったが、同僚の平作が病気というので勤めを替わる。朝掃除、宜平殿と二人で御床下げ、時触れ。九ツ時に宜平殿と湯に行き、帰りに芋一俵買って帰る。平作は夜に用事があるとのことで下町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、平作のために本日も休みを返上して仕事。平作は「病気」を理由としていますが、夜に下町に行っているところをみると、どうやらサボりのようです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月7日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、楊枝削り。昼から池田様に頼まれ牛込の質屋へ、田中様に頼まれ飯田町へ行く。暮れ方に御床上げ。九ツから夜番も勤める。
・幸左衛門殿と宜平殿は七ツ時に松枝町へ行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事に出てくる「池田様」「田中様」は藪様家のご家中と思われます。池田様からは、牛込の質屋に行ってくれとのオーダーが出ています。藪家の用事か、個人の用事なのか判然としませんが、いずれにせよ武家の財政が楽ではないことが窺えます。わ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番だったが、松枝町の借家に行くため、平作殿に仕事を替わってもらう。四ツ時に出たが、御成りがあり、小川町出口で止められる。借家に九ツ過ぎ着。この日、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛がいる旗本藪様の御屋敷は番町にあり、神田松枝町の借家までは4キロほどですから、いつもなら1時間あれば行ける距離です。しかし、今日は御成りがあり、通行規制がかかっているため、小川町出口で足止め。借家についたのは九つ過ぎというので、2時間以上かかったのかもしれません。

〈詳訳〉
・本日は本番で朝掃除、御床下げまでしたが、
松枝町の借家に行くため、以降の仕事は平作殿にお願いした。
・髪結いの後、四ツ時に出発。しかし、御成りがあり、小川町出口で足止め。松枝町の借家に到着したのは九ツ過ぎ。
・文平・儀八が来ていて、腰物についての話しをした。文平から国元の様子を色々伺った。
・稲荷下の太次兵衛が今回の出府について相談に来た。
・龍角の七郎右衛門殿から手紙が届いたので、返書を作成。幽学先生に確認してもらいってから送る。
・夕方、節五郎殿が来る。国元へ送る手紙を認める。田安家の磯部様の御検見前に国元の問題をお頼みしなければならない。
・そんな話しをしていたら、小生が土用の日程を間違えていたことが分かった。幽学先生からは、「そんな大切なことをなをざりにして大丈夫か。奉公勤めばかりに気がいってしまっているのではないか。」と心配をおかけしてしまった。
・夜、借家に泊まり。

(解説)
「検見」とは
検見(毛見)
之は収税吏が毎年村方に出張して坪苅を行ひ、田一坪当り初幾合の収穫あるか、合毛を 実見して其の村田地の総収穫を算出し、其の年の取米を定むる方法である。
(中田 薫『日本法制史講義』)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
暗いうちから良左衛門君起き出し、炊事を始める。朝食後、幽学先生から「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できないぞ」とご指導いただく。七ツ時に御屋敷に戻り、夕方から仕事。九ツ半から夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は松枝町の借家に泊まった五郎兵衛。幽学先生から食欲にとらわれないようにと注意を受けてしまいました。五郎兵衛、やはり食いしん坊のようです。

〈詳訳〉
・七ツ時に良左衛門君が炊飯を始めたため、皆起きて御茶の準備。幽学先生もお目覚めされ、お茶をお出しした。
・食事を終えると、幽学先生からお話し。
「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できない。このことさえ、改善してくれれば、予も気楽になれるのだ。自分で食べるよりも人に振舞いたくなり、それが楽だという腹になってほしい。汚い根性が無くなれば、予の前でも遠慮なく、誠に気持ちも良く、清々としていられるだろう。食べ物に執着しているような心境では、何かと気が引けて、心も清らかではなく、実につまらない。良いことをすれば、後から気持ちも良くなる、楽しみも尽きることがなくなる、また多くの人にも慕われる、人のことを思う心になれば良いだけである、難しいことは何もないと、色々とご指導いただいた。
・文平と儀八が幽学先生に暇乞い。江戸から出立。扇橋から船に乗るというので、浜町まで一緒に行った。
・本町で安達様から頼まれた葛を買い、両替町で髪付油を買って四ツ時に御屋敷に戻る。
・昼より田中様からの頼まれ事で、酒井雅楽頭様御屋敷にお使いに行き、七ツ時に戻り、夕方には御弓場の片付け、御床上げ。九ツ半から夜番も勤める。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年9月10日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝に麹町の大崎方へ給金を受取りに行ったが留主。御屋敷へ戻り、夜具上げ、楊枝削り、御弓場の設営。七ツ時に再度大崎方へ行き、暮六ツ頃迄待って、ようやく給金受け取り。九ツ迄夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「給金の受取り」というのは、これまでの記事に出てこないので、何の給金なのかははっきりしません。奉公人の給金であれば、給料の支払い方が現代とは違い、職場ではなく、別のところで支払われることに仕組みであったことになりますが…

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする