南斗屋のブログ

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文政13年閏3月中旬・色川三中「家事志」

2025年04月07日 | 色川三中
文政13年閏3月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年閏3月11日(1830年)晴
先日五頭氏が『本朝食鑑』を持ってきてくれたので、お借りしている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
『本朝食鑑』は江戸時代に出版された本草書。元禄10年(1697年)刊。三中は後に国学者として知られるようになりますが、この頃は仕事(薬種商)に直結する本草学に夢中だったようです。
「五頭氏」は土浦藩の藩医五頭玄仲。三中とは、本の貸借も含め頻繁に交流しています。
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〈その他の記事〉
留守中のこと
八日に、湊(現ひたちなか市湊地区)の雨宮鉄五郎殿が仏参に来られた。香典100疋と肴代金2朱を持参された。寺には金100疋を納めた。八日と九日は滞在され、十日に成田へ出立された(私はこの間留守であった)。
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文政13年閏3月12日(1830年)晴
夕方、雨宮殿が土浦に来られた。川口(土浦市川口)でお迎えし、お泊めした。夜通し酒を酌み交わし、膃肭臍(おっとせい)や竜筆のことについて話しあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雨宮殿は湊(現ひたちなか市湊地区)で住んでおり、夜通し酒を飲んで話していますから、三中とは親しく付き合いがあるようです。会話の内容に「膃肭臍(おっとせい)」がでてきますが、湊の海岸にでも現れたのでしょうか。
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文政13年閏3月13日(1830年)晴
・雨宮鉄之助が本家に来たので、酒や料理を振る舞った。八つ過ぎに川口(土浦市川口)へ向かい、府中(石岡市)まで馬の手配を行った。
・雨宮鉄之助は、昨年郷士に取り立てられたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・本日も昨日に引き続き知人の雨宮殿歓待の記事。昨日は川口(土浦市川口;三中の祖父が住んでいる場所)での歓待でしたが、今日は本家(土浦田宿町)での歓待です。雨宮家からは郷士に取り立てられた者が出たとの記載もあります。
・郷士とは、武士の身分のまま農業に従事した者。また、武士の待遇を受けていた農民。
水戸藩の郷士の研究として、瀬谷義彦著『水戸藩郷士の研究』があり、同書に所収されている安政2年「御領内義民賞典姓名録」には湊村の「雨宮鉄之助」が郷士として記載されています。

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文政13年閏3月14日(1830年)曇
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政13年閏3月15日(1830年)雨
・延方(潮来市延方)の柏崎氏へ、書状とともにお借りした秘蔵の本2冊を返却した。
・一昨日、御上の『若水本草』を拝借し、本日木原様へお返しした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の勉強が本格化しています。本草学に関する書籍をあちこちから借りています。土浦藩の武士木原氏とは懇意の仲なので、藩所蔵の書籍も借りています。『若水本草』というのは、よく分からないのですが、稲生若水の著した本草学関係本のことかと思われます。

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〈詳訳〉
・先日、入江氏から「異木の図」を完成させたとの連絡があった。また今日は、「馬の便が北条(つくば市北条)まであるので、花立村の異木を取り寄せてくれるように」との連絡があった。
・延方(潮来市延方)の柏崎氏へ、書状とともにお借りした秘蔵の本2冊を返却。その際、異木の赤枝などもお贈りした。
・一昨日、御上の『若水本草』を拝借し、本日木原様へお返しした。
・塚本喜右衛門殿へ、高割金の五両分の割合、1石につき550文とのこと、昨年の分を既に納めたかどうか確認したが、年々の例で納めることになっているため、支払いが難しい状況とのことでご挨拶があった。
・古い帳簿を調べ、ひとまとめにして江戸へ送ることとした。わたや貞右衛門へ依頼する予定。
合計6貫100匁
風引(風袋=包装の重さ)300匁
正味5貫800匁
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借用申金子証文之事(借用証)
一、金五両也
右の金額はよんどころない要用により、本書面の通り借用したものです。
返済については、1ヶ月につき金15両あたり1分の利息を付け、元金と利息を合わせて7月末日までに間違いなく返済することをお約束します。このため、証文を差し入れた次第です。以上、念のため記しておきます。
文政13寅年閏3月
大宮斎 様
色川圭助
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文政13年閏3月16日(1830年)晴
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政13年閏3月17日(1830年) 晴
茂吉と嘉兵衛が鹿嶋(鹿嶋市)に向けて行商に出発した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の茂吉と嘉兵衛を鹿嶋(鹿嶋市)の営業に行かせています。鹿嶋の行商は三中がいつもは担当しているのですが、三中は今年の年始に体調を崩して鹿嶋への営業活動ができていません。

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文政13年閏3月18日(1830年)晴
曉天、柿岡(石岡市柿岡)へ向けて出立。柿岡に泊。夜に上曽村(石岡市上曽)の源右衛門殿にお会いした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
柿岡(石岡市柿岡)を一泊二日で尋ねています。柿岡までは三中の家から20キロ強あります。柿岡に行った目的は記載されていませんが、近くの上曽村(石岡市上曽)に知人を訪ねているので、行商目的ではないのかもしれません。

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文政13年閏3月19日(1830年)晴
・八ツ半時に柿岡を出立して、六ツ過に土浦に戻った。
・伊藤与市から返信が届き、石渡庄助殿との交渉は問題なく進んでいるとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊藤与市はある村の名主まで務めた人物で、三中の父の代から色川家に出入りして様々な仕事をしています。今回は石渡庄助氏という人物と大切な交渉をしているようです。
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〈詳訳〉
・八ツ半時に柿岡を出立して、六ツ過に土浦に戻る。
・入江(名主)から異木を取りよせたとの連絡があった。
・わたや貞右衛門へ古い帳面(五貫八百匁)を渡した。手間賃として金子二分も渡した。今川勾当方へ返してくれるように堀田原へ頼むよう要請した。
・昨夜、隣主人が江戸から帰ってきた。
・伊藤与市から返信が届いた。石渡庄助殿からは一札をとり、同家から公儀へ届け出もあったので、ご安心くださいとの内容であった。
このことは川口隠居の方へすぐに連絡した。
・谷田部母に極めて内密の件を相談。

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文政13年閏3月20日(1830年)晴
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志
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文政13年閏3月上旬・色川三中「家事志」

2025年04月03日 | 色川三中
文政13年閏3月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年閏3月朔日(1日)(1830年)曇
・我が家に泊まっていた細井氏が出立。今日は柿岡(現石岡市柿岡)や片野(同市片野)の方へ行くとのこと。
・宍塚(現土浦市宍塚)に金策に行く予定だったが、中止となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・風流友達の細井氏は、土浦の三中宅に何日か滞在した後に、石岡市方面に行くことが多く、今回も同様の行動です。
・三中は宍塚村の者に金銭の借入れをお願いしておりましたが、急遽訪問中止となり、金策失敗の可能性がでてきました。
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文政13年閏3月2日(1830年)
利兵衛(叔父)に宍塚(現土浦市宍塚)に行ってもらったが、状況はどうもよろしくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は宍塚村の者に金銭の借入れを依頼してきたのですが、昨日急遽来訪中止となり、本日は叔父の利兵衛に宍塚(現土浦市宍塚)を訪れてもらいましたが、どうも借入れはダメのようです。

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文政13年閏3月3日(1830年)雨
一昨日、東光寺に新しい住職が赴任してきた。本日、半紙一状を持参してご挨拶に伺った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
東光寺は色川家からもほど近い寺。現在も土浦大手町にあります。色川家は神龍寺の檀家ですが、東光寺は神龍寺と同じく曹洞宗であり、関係性も深いようです。
この東光寺に新しい住職が赴任してきたので、三中は半紙一状を持参して挨拶に赴いています。
東光寺由緒
https://tsuchiura-tokoji.com/aboutus/
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〈その他の記事〉
指上申一札之事
1. 金55両 持合金の利息
1. 金15両2分459文 下付金
1. 金5両 高持百姓からの出金
合計 金75両2分459文
この他、虫掛(現土浦市虫掛)の負担分あり。

これについては、中城町の人足や物品一式に必要な費用として、上記の金額でお請負致しました。すべてお指図通りに仕立て致します。町内の人足や物品について問題が生じないように配慮し、各々方にも、少しでもご苦労をおかけすることがないようにします。
後日の為、書面を差し入れます。

文政13年寅年3月
田宿町惣代
大国屋 由兵衛
木の下 庄左衛門
熊野屋 平兵衛
鳥屋  権右衛門
鳥屋  伊右衛門
鳥屋  七兵衛

町役人衆中
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文政13年閏3月4日(1830年)晴
いかや喜右衛門は、神龍寺から法華宗に移りたいと言い出し、説得や働きかけも効果なし。同人は以前色川家で働いていたので、入江(名主)から、「以前から法華宗だったか?」と聞かれた。祖父に尋ねたりしたが、古い話であり分からず。手掛かりもなし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名主から宗旨替えを巡る問題についての問合せがあったとの記事。喜右衛門が神龍寺(曹洞宗)から法華宗に移ろうとしたことが問題となっています。だいぶ昔の従業員のようで、記録も記憶もないため、名主の問合せには的確な答えが出せませんでした。

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〈詳訳〉
・入江(名主)から急ぎの用との知らせを受け、入江宅に行く。いかや喜右衛門のことであった。
入江「この者は、今年まで住吉屋庄兵衛のところにおり、神龍寺の檀家であったのだが、このたび神龍寺から抜けて荒川の法華宗に入りたいと希望しているのだ。
このようなことは決して許されないと伝えたが、一向に承知しない。いろいろと手を回して御屋敷にも取り入れを願い出ましたが、採用されることはなく、却って厄介な話になってしまった。
当人自身が初めから法華宗であったと主張している点も疑わしいのだが、色川家で働いていた頃は、果たしてどうであったのか、お聞きしたかったのだ。」
私の方では一切事情が分からなかったので、川口の隠居(祖父)のところへも尋ね、いろいろと調べたが、どうにも分からない。何年も前のことなので記憶もおぼろげであり、控えの書類も焼失してしまっているため、何も手掛かりがない。その旨を入江に話した。

〈その他の記事〉
・坂田重蔵の家に利兵衛殿を遣わしたが、状況はよくなさそうである。
・土浦屋太兵衛の妻が、昨年の礼として盃を持参して挨拶に来た。


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文政13年閏3月5日(1830年)晴
笠間のおたせ様が来訪された。風呂敷一枚をいただく。利兵衛殿には菓子一折を持って来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「笠間のおたせ様」がどのような人かは、よく分かりません。笠間は行商の際に宿泊等しているので、そのような知合いの一人なのでしょう。

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文政13年閏3月6日(1830年)晴
早朝、霞亭(木原氏)と江民(入江)の両人が来られ、一緒に郊外を散策。小田(現つくば市小田)では長嶋治左衛門という者のもとを訪ね、酒肴を携えて山見物へ向かった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中が長嶋治左衛門(長島尉信)と初めて会った記事。長島尉信は、小田村(現つくば市小田)の名主を務め、隠居した後、江戸に出て算法や暦法、度量衡などを学び、その力量を評価され、水戸藩や土浦藩に仕えた人物です。
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〈詳訳〉
・早朝、霞亭(木原氏)と江民(入江・現名主)の両人が来られ、一緒に郊外を散策。入江氏は二三種の肴を持ってきていた。私は吸筒を手に出発。
・巳の刻頃、新田村というところに辿り着いた。そこには百姓の五左衛門という者の住む屋敷があり、その畑にはひときわ異彩を放つ一本の珍しい樹があった。木の周囲は三尺ほど、高さは二丈余りあり、枝振りや樹の模様から異木であることがわかった。木を折ると芯が赤く、まるで蘇木のようである。三年前、この地にあった家が失火で焼け、その際に木も半分焼失したが、西北方向に伸びた枝だけが枯れていた。
この家に変わった木があると知れ渡り、人々が皮を剥こうとするのもよろしくないので、私は「よく保護した方がよい。ついては枯れ枝をそのままにしておくのはよくない。枯れた部分は切り取って我々にいただけないかくれないか」と提案したところ、五左衛門は快く受け入れてくれた。
しかし、切ろうとしたが、うまくいかない。
幾ばくか金を渡し、「誰か適当な者に切らせなさい。切り取った物は五左衛門の家に置いておくが良い。また連絡をするから、馬に載せて送ってほしい」と頼んでおいた。
・取手の台という場所に移り(斗利出;現土浦市藤沢)、松の下の芝生で酒肴を楽しみ、興趣に浸った。
・その後、小田(現つくば市小田)に住む長嶋治左衛門という者のもとを訪ね、少量の酒肴を携えて山見物へ向かった。
昼食を用意し、筍を掘り取り、岩で焼きながら酒を酌み交わした。素行は岩に登って横笛を奏で、その清らかな音色は耳を澄ませるにふさわしかった。
草薬を採取などもし、それぞれが山の楽しみに興じた。また、長嶋治左衛門からは珍しい話しを聞くなどし、何とも面白かった。
・日が暮れ始めたため名残惜しくも帰路についた。日も暮れ果ててしまったので、藤沢(現土浦市藤沢)の茶店でひと休みし、夜五ツ過ぎに帰宅した。
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〈その他の記事〉
・河原代の篤君(細井氏)が今日柿岡(現石岡市柿岡)から土浦に戻られ、宿でお待っているとの連絡があった。早速お会いし、さまざまな話をした。

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文政13年閏3月7日(1830年) 晴
・九つ過ぎ頃より細井氏と共に河原代(現龍ケ崎市川原代町)へ向かった。道中では歌を詠み、大変に興を覚えるひとときとなった。夜は西道内(現龍ケ崎市川原代町内)に泊まった。
・西道内の老母が病状が相当悪く、危篤に近い状態という。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏が河原代(現龍ケ崎市川原代町)へ帰るので、三中も同道。道中では歌を詠み、楽しいひとときを過ごしています。
一方、西道内にいる老母(三中とどのような関係かはよく分かりません)は危篤に近い状態で、かなり心配です。
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〈その他の記事〉
・広瀬のおたせ殿が先日笠間より訪れたので、肴一種をお贈りした後、ご挨拶に行った。


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文政13年閏3月8日(1830年)曇
西道内(現龍ケ崎市川原代町内)を出立し、成田不動尊を参拝。道中甚だ興があったが略す。
谷田川の渡しを経て帰路につき、小山町まで進んだが、足が疲れ切ってしまい、頼りとする知人も近くにおらず、やむなく宿に泊まった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今回川原代を訪れたのは、成田不動尊の参拝が目的の一つであったようです。町役人をやっていては、気ままに旅行するということもためらわれたでしょうから、やはり辞めて正解でしま。道中も甚だ興があり、楽しい参拝だったことが分かります。
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文政13年閏3月9日(1830年)雨
・雨の中、河原代を訪れ、西道内の老母を見舞うが、病状は悪化している様子。
・細井氏宅を訪問。請われるまま同人宅に宿泊。夕食には菊酢の吸い物と菊飯でもてなしていただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・西道内の老母のお見舞い。病状は悪化しており、心配です。
・細井氏宅で宿泊。風流人だけあって、三中を菊酢の吸い物と菊飯でおもてなし。三中にとっては至福のときでしょう。
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〈詳訳〉
・雨の中、河原代(現龍ケ崎市川原代町)に行く。西道内の老母の病状は変わらないと言われたが、見たところ病が悪化している様子だった。やむを得ず別れを告げて退出。
・細井氏を訪ね、引き止められたためそのまま宿泊することに。夕食の菊酢を使った吸い物と菊飯が非常に美味であった。
・木村市兵衛殿のご子息と初めて対面した。

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文政13年閏3月10日(1830年)晴
朝、西道内の老母が昨夜亡くなったと聞き、驚く。弔問してそのまま帰路につく。夕方には土浦着。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「西道内の老母」は昨夜お亡くなりになってしまいました。閏3月7日には病状が相当悪く、危篤に近い状態と記されており、その後も病状は好転せず、残念なこととなってしまいました。
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〈その他の記事〉
・七日、若芝村(現龍ケ崎市若柴町)の野口曽右衛門殿の子息・千之助殿に初めてお目にかかった。千之助殿は外城又は新宅と呼ばれている。才子と聞き、以前から一度会いたいと思っていたところ、幸いな機会に恵まれ対面を果たした。



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文政13年3月下旬・色川三中「家事志」

2025年03月31日 | 色川三中
文政13年3月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年3月21日(1830年)晴
通二丁目の山城屋へ書籍の値段の問合せ(覚え)。
本草一家言、篆刻目録、文章軌範、唐宋八大家読本、新刻書籍目録、抱朴子、金匱玉函、肘症方、千金翼
<新刻素本>万葉集、和蘭薬撰、本草啓蒙、本草纂疏、腹証奇覧四編揃、大同薬品解、同薬能解
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の興味関心がよくわかる記事。本草学の本は本業(薬種商)に関係しますが、万葉集にも興味を持っています(三中は後に国学者として知られるようになります)。
この時代は土浦の町に三中の好奇心を満たす本屋はなかったようで、問い合わせ先は江戸日本橋の本屋です。
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〈詳訳〉
・通二丁目の山城屋へ書籍の値段の問合せ(覚え)。
『本草一家言』『篆刻目録』『文章軌範』
『唐宋八大家読本』『新刻書籍目録』『抱朴子』『金匱玉函』『肘症方』『千金翼』
<新刻素本>『万葉集』
『和蘭薬撰』『本草啓蒙』『本草纂疏』
『腹証奇覧四編揃』『大同薬品解』『同薬能解』
・九つころ、谷田部の佐助が本年初めて土浦に来た。昨年重病で在所(実家ないし自宅)に帰っておりましたが(文政12年9月6日条の与市宛の書状)、病はすっかり癒え、土浦に戻ってくることができました。
←(コメント)「谷田部の佐助」は、昨年6月18日に在所(実家ないし自宅)に帰り、重病で寝たきりとなっていました(9月6日条)。ようやく、病は癒え、職場復帰できるほどになりました。佐助にとっては大変な時期だったことでしょう。

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文政13年3月22日(1830年)晴
田宿年番
持合金の集金。今日は中城町、23日に田宿、24日に大町。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「持合金」は、町民の積立て金。本来は困窮人の夫食金や営業資金として貸付け、利分を凶作時の手当や町費とするという趣旨で開始されたものです。しかし、町役人又は特権商人にのみ貸付されていたような運用が行われていた町もあり、後々大きな問題になります。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/1828a6f132c6559f617f48464679d07a
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〈詳訳〉
田宿年番
・持合金の集金。今日は中城町、23日に田宿、24日に大町。
・御用調達金の残金三両を25日までに支払うよう連絡があった。
・五頭玄仲が所持していた『本草綱目』を確認したところ、これが鮮明な版であり、類焼以前に所持していたものと同様であることがわかった。素晴らしい。
・本日、納めた金員の覚え。
元金:37両2分
この内2両2分は向利兵衛殿の分である。
利息:3両3分
元金は隣主人より借りて支払った。


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文政13年3月23日(1830年)曇
〈御触書の写し〉
近年、奥州地方で贋金や贋銀が作られていることが代官寺西蔵太の調べにより分かった。
以後厳重に取調べを行うので、御料所(幕府直轄地)で疑わしい者が見つかり、他領に逃げた場合は捕縛されたい。私領(藩)においても厳しい調べを行われたい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は時々御触書を日記に書き写しており、彼の興味関心とともに、当時の出来事が分かるので貴重。今日掲載されている御触書は贋金作りの取締りについて。この中で代官寺西蔵太(元栄とも)の名が見えますが、名代官として知られた寺西封元(たかもと)の子息です。

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〈詳訳〉
御触書
近年、奥州地方で贋金や贋銀が作られているとの情報があり、代官寺西蔵太の調べにより怪しい者らを召捕って吟味したところ、共謀して贋金を作ったことを自白した。
贋金銀の件については以後厳重に取調べを行うので、御料所(幕府直轄地)で疑わしい者が見つかり、他領に逃げた場合は捕縛されたい。
既に御勘定奉行から奥州の御代官には通知されているが、私領においても同様である。近隣の御代官と相談し、厳重に取調べて疑わしきものは召捕るべきである。悪事を聞いたならば、そのままにしてはいけない。
山奥や人里離れた辺鄙な場所で密かに贋金が作られれば、それを簡単に知るのは難しいことである。特に注意を払い、調べを行うように。一度逃げた者も再び戻ってくる可能性もあるため、それに備え、適切に手配されたい。
以上は伺を立てた上で老中の指示によるものである。
寅年三月
以上のとおり公儀から仰せがあったので、町方に触れる。
以上のとおり町奉行所から仰せがあったので、触れるものである。
中城町



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文政13年3月24日(1830年)晴
・伊勢屋の「おひてさま」の百ヶ日。五ツ時に西寺へ仏参。その後中城へ行き、四ツ過時に戻った。
・八つ時、霞亭(木原氏)と入江素行に誘われて一緒にのんびりと散策しながら小松村(現土浦市小松)の桜を見に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
木村氏(土浦藩の武士)や入江素行(名主)とは風流を解する仲。昨年は東城寺駒ヶ滝の瀑布に行きましたが(文政12年4月19日条)、今年は小松村(現土浦市小松)の桜を見に行っています。現在も丁度桜のシーズンとなりましたが、三中の日記は旧暦なのです。ということは、1ヶ月ほど季節は早く進んでいるということで…。
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〈詳訳〉
八つ時、霞亭(入江隠居)、木原氏と入江素行に誘われて一緒にのんびりと散策しながら小松村の桜を見に行きました。とても太い木が二本に分かれており、西側の一本はまだ花が開ききっておらず、東側の一本は花が咲き乱れていた。その中でも特に大きな木の花の色は、普通の桜とは違い、真っ白で浅碧を帯びているように見えた。
この家の主人が病に伏せていると聞いたため見舞いの話をしようとしたが、それは適わず、仕方なくあちこちを行き巡ったが、松の木の掛け軸や草むらに乱雑に倒して置かれたものを目にし、少し残念な気持ちになった。
ある者は丘に登り春蘭の花を摘み取っていた。山桜があちらこちらに咲いている。木こりやわらわべ等は心なく枝を折ったり取ったりしているが、そうされても何事もないように咲きそめているのは何ともいじらしい。

遠くにコブシの花が咲いているのを見つけ、道もない草むらをかき分けて近づいてそれを見たのも趣があった。新しく芽吹いた葉が手を差し出すような姿は、人の手を握るように感じられた。それでこの木を「コブシ」と名付けたのか、などと話しながら歩いていたのも興が深い。
咲き乱れている桜、そこに広がる草の葉、蜘蛛の巣に花びらが散りかかっていた。そよ風にゆらめいている散りゆく桜の花びらを惜しんで、誰かが静かに歌を口ずさんでいたのも、とても趣深いことであった。

ちる花を我すに置てささかにのくもかとのみや詠めするらん

あちらこちらを歩き回り、草深い松の木のもとに腰を下ろして、取り立てて特別なものではないが、酒を飲むのは実に趣深かった。入江素行が横笛を吹き、山のふもとの道を行き交う人々が不思議そうにこちらを見ているのも面白かった。
洗練された景色を前にして、心を奪われるだけでもなく、良い酒や甘い肉を美味しいと楽しむことだけを目的とするわけでもなく、普通の酒や普通の肴さえなくても、草むらや松林にそのまま身を横たえ、他のものを漁って求めるでもなく、その場の興趣を感じながら酔いを楽しむのは、まさに特別な趣があった。そうして、世の春を満喫するような気分を味わえた。

やがて日がすっかり暮れ、周囲の物事の違いもわからなくなるほどに暗くなり、心を少し驚かされて、一同連れ立って帰途についた。
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文政13年3月25日(1830年)晴
藩の御用調達金三両を本日納めた。旧冬に一両納めており、計四両。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦藩の御用調達金というのは、御船講のことで、色川家のノルマは4両(文政12年12月8日条)。年内に半金(2両)支払うように言われていましたが、手元不如意で年内は1両支払うのがやっとでした(同月23日条)。残金3両を納めることができ、ホッとしたことでしょう。

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〈その他の記事〉
・夕べ近江から小兵衛と手代が来られ、我が家にて一泊。本日昼時にお帰りになられた。
・谷田部の茂吉が昨夕来て、薬を買って帰った。

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文政13年3月26日(1830年)雨
七蔵(13歳)が兄の安蔵と共に来た。この子は金次郎(三中の弟)が水海道(現常総市)に営業でいったときに小供として雇う約束をした者である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
数え年13歳といえば、これから中学生という年齢ですが、この時代、働くことは当たり前のようです。その背景として慢性的な人手不足があります。色川家で働く者の質は悪く、解雇せざるを得ない奉公人も少なくありません。
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〈その他の記事〉
・秋葉可明老から書状が届いた。
・近小(近江屋小兵衛)向けに正油25樽を送った。
・借用書の写し(下記)
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借用申す一札の事(借用証文の件)
一 玄米20俵
代金 11両2分と265文
やむを得ず代金分を書面のとおりお借りします。代金については今年7月晦日限りにご返済致します。後日のため一札差し入れるものです。
土浦 色川三郎兵衛
文政13寅年3月27日

中根村 庄兵衛殿
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文政13年3月27日(1830年)
風が止み水面が穏やかな池が月を映すように、才能が乏しくても心静かに深く考えれば、何ほどか考えつくことができる。そのように私に話してくれた者がいたが、誠に至言である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は今年で数えで30歳。30にして立つといいますが、家業を立て直さなければならない三中は聖人の言葉と自らのあり方のギャップに苦しんでいます。欲しい書物を買うことができる環境にはありませんが、「心静かに深く考えれば、何ほどか考えつくことができる」という言葉が刺さった三中でした。

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〈詳訳〉
・佐助が谷田部へ帰った。
・昔、世の中が平穏でなかった時代のことは、ものの本を読むことで知ることができる。このような荒々しい時代に、今の人が生まれたならば、泰平の世の中を想い望むことだろう。
それなのに、ささいなことでも利益を得ようとする貪欲さで利益を追求することだけに一生懸命となったまま滅びてしまうのは、なんとも悔しいことではないだろうか。

幼い頃から草木鳥獣を愛し、成長するにつれて本草学を好むんだ。物事の道理が少しずつ分かり、草木の是非を弁ずることができるようになった。日々研究し、我が国諸家の説を考究し、大成することを望んで十数年になる。
しかし、文化13年(1816年)の土浦の大火により家を焼失し、所蔵の書物は乏しく、苦学しようとする時間もない。
ああ、自分が無益に滅び去ることを恥じ、このような志を抱いたものの、天はまだその時を与えてくれない。家業は紛冗であり、治めることは難しく苦しい。それでも、一日たりとも学業を怠けようとは思わない。

今年30(歳)となった。このままひたむきに働き続けて終わるよりも、速やかに大事を成し遂げるべきではないかと考え、何度も深く思い巡らせた。しかし、書物もなく、さらに財布の中も空では、どうしようもない。ああ、これは何ということだろうか。君子はその地位をわきまえつつ志を抱くというが、私のように庶民の家に生まれ、限られた小さな才能しか持たない者が、大きな志を抱いて行動しようとするのは分不相応なことだ。また、文儒に没頭しようとするのも私には向いていない。私ごときは、ごく簡単で平易な生活原則を守り、家を守って生き終えることこそ、自分の身の丈に合った生きかもしれない。

しかし、今この泰平の恩恵を十分に享受できず、世間の雑事に追われて朽ち果てるのは、儚くも悔しいことに思えて仕方がない。かえって、その思いが心をますます縛りつける。30にして立つといわれるが、ああ、それは本当に聖人であればこそのことだろう。凡人である私は、30になってもなおひどく迷い、進むべき道を知らないのだ。

このようなことを言った人がいる。
月が明るく、風が静かな夜に、ひとり池のほとりを歩いていたとき、不意に思い当たることがあった。普段見れば清らかな水ではない池も、風が止んで水面が穏やかだと、こんなにもありありと月の姿を映し出す。才能が乏しく、心が鈍い者であっても、静かに深く考えを巡らせるなら、何ほどか考えつくことができると思った―と、その人が私に話してくれた。

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文政13年3月28日(1830年)晴
・今日、金談の事(借金)について宍塚村(現土浦市宍塚)の日高玄撰老を訪問。鰹節を2本を持参。
・同村の忠七の家にも立ち寄る。忠七は、昔、長く奉公してくれていた者で、一昨年までは毎年土浦を訪れてくれていた。去年亡くなってしまい、昔話もできなくなってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
金策に走る三中。資金繰りは相変わらず苦しいようです。人的関係を頼りに借入をしなければならず、鰹節をお土産に持っていく等気遣いが大事。

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〈その他の記事〉
朝六ツ頃、西真鍋(現土浦市西真鍋町)のあいやから失火。あいや一軒は焼けたが、延焼はなし。人が多く出た。

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文政13年3月29日(1830年)晴
・八ツころ、入江全兵衛殿(名主)宅に行く。長い時間いろいろな話しをした。河原代(現龍ケ崎市川原代町)の細井氏が来られたとの連絡があり、家に戻った。
・金談をしていた宍塚の日高氏が土浦に来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入江氏との会話を楽しんでいるときに、友遠方より来るありです。15キロほど離れた河原代から細井氏が土浦に来ました。三中の風流友達の一人。細井氏が土浦に来るのは昨年6月以来です(文政12年6月24日条)。
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文政13年3月晦日(30日)(1830年)雨
・細井氏と一緒に真鍋(現土浦市真鍋)の善応寺の康哉和尚のもとを訪ね、様々なお話を伺った。
・昨日は春林酔霞信士の三十五日法要があり、関係者にはおはぎを贈った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
善応寺の康哉和尚に会うのは2年ぶり。和尚は万葉集に詳しく、国学では高名、悪い噂のない清僧と三中自身書き残しています(文政11年2月27日条)。当代の英才であって、その名は関八州にまで響いているほどの人ですので、博識多才。様々な話しが聞けたことでしょう。

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安政2年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年03月27日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政2年4月11日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼過ぎに松枝町の借家へ。明日奉行所に帰村願いを出すことになった。本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ね、主人と打合せ。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
年末年始の帰村が2月15日までだったので、江戸に来て2ヶ月も経たないのですが、また帰村願いを出すという話しになっています。五郎兵衛は帰村の意思決定には関与してないので、なぜこのタイミングでの帰村願いなのかは日記ではわかりません。

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〈詳訳〉
朝掃除、写し物。治助殿は五ツころ松枝町から戻ってきた。昨日米込村の伝蔵殿が来て、明日12日に帰村願いを出すことになったとのこと。九ツころ松枝町へ行き、幽学先生、平右衛門殿と小生で泉之湯へ。かけ湯を汲む際に盲目の方が来られたが、気を遣わずにいたら、幽学先生から叱られ、松枝町へ戻ったときに「のろい」と言われて、道友一同大笑い。
八ツころ本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ねたが、主人が留守のため一度戻り。夜に再び訪れ、主人と会って打合せをした。邑楽屋(公事宿)には翌朝伺う相談をして松枝町の借家に戻った。
蓮屋(公事宿)には、平右衛門殿が八ツ過に行き、帰村願のため、差添人を頼んできた。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。


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安政2年4月12日(1855年)
#五郎兵衛の日記
昼過ぎ御奉行所の腰掛へ一同出頭。幽学先生は病気と称し欠席。帰村願を提出。奉行所は「おって呼出す」とのご指示。折角なので日本橋で鰯を買い、松枝町の借家で料理し食す。一同は借家に泊だが、小生は番町に帰り、夜番を九ツまで勤めた
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村願いを提出するには関係者(呼出しを受けている者+差添)が出頭しなければなりませんが、幽学先生は病気と称して欠席。毎度毎度この手を使ってますが、奉行所からも咎められておらず、結構緩い(笑)。幽学先生だけ武士身分だからでしょうか⋯。

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〈詳訳〉
昨晩は松枝町の借家泊。朝飯を食べた後、良左衛門君は手代の米八殿のところへ行った。
平右衛門殿と平太郎殿が四ツころ来たので、九ツに昼食を取った後、御奉行所の腰掛へ出向いた。
出頭した者以下のとおり。
良左衛門君
差添人:治助殿

又左衛門殿
差添人:藪様御作事頼み

傳蔵殿
差添人:久左衛門当病

伊兵衛父
差添:藪様奉公人頼み

平右衛門殿
差添:蓮屋で頼み

五郎兵衛
差添:蓮屋で頼み

幽学先生は病気と称して欠席。蓮屋の主人と手代の米八殿が奉行所への帰村の願書を作成し、九ツ半ころ奉行所に提出。「おって呼出すので今日は帰ってよろしい」との指示。せっかくだから何か買って帰ろうということになり、又左衛門殿が日本橋で鰯を買ってきて、小生と治助殿で鰯料理を作り食べた。一同松枝町の借家に泊まり。小生は夕方番町の屋敷に帰り、夜番を九ツまで勤めた。



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安政2年4月13日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。飯田町へ米を持参す。治助殿と髪結い。写し物。八ツころ大野様の米搗き。暮方までかかる。夜五ツ松枝町より平太郎殿来る。奉行所からお呼び出しあり、明日五ツ半に出頭とのこと。夜番を九ツから明六ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日帰村願書を奉行所に提出し、今日早くも奉行所から呼び出しがありました。随分早く結論が出ているので、何らかの根回しがあったのかもしれません。五郎兵衛は夜番を九ツから明六ツまで勤め、そのまま奉行所に出頭するつもりです。

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安政2年4月14日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。九ツ、訴所に呼込あり。奉行所は帰村を認め、幽学先生は村預けとなった。帰村の期限は決めず、出頭を求めるときは呼出しをするとのこと。
九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ、賑やかに祝い事を行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村が認められました。期限を切られていないのは異例です。幽学先生もホッとしたのか、いつもより優しいお言葉。鰯料理ではありますが、道友一同珍しく楽しみ、賑やかに祝っています。
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〈詳訳〉
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。

幽学先生 当病(病気として欠席)

良左衛門君
差添:治助殿

又左衛門殿
差添:平太郎殿

傳蔵殿
差添:当病

伊兵衛父
差添:藪様御作事頼み

平右衛門殿
差添:蓮屋に頼み

五郎兵衛
差添:蓮屋に頼み

邑楽屋主人
蓮屋手代


四ツ半時に着届を提出。九ツ時、訴所に呼込があり一同まかり出る。その場で、銘々の名前が呼ばれ、「その方余儀なきことであるので、願いどおり帰村を許可する。今後、御差紙(役所からの正式な指示書)が届いた際には、一同が支障なく出頭するように」「幽学は帰村の上、村預けを申付る。良左衛門は請書を差出すように。その外一同は請書は不要である。」 とのご指示であった。

九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ賑やかに祝い事を行った。夕方、治助殿だけ番町のお屋敷へ戻った。



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安政2年4月15日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
淀藩の御上屋敷を訪れ、足達鏡蔵様に届書を渡す。「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村が決まりましたので、村に帰るのに必要な
御返翰の申請を藩の屋敷にしています(五郎兵衛の居村は淀藩領)。お世話になった公事宿の万徳には「袴代」と称してのお礼を渡すのも忘れてはいけません。万徳は元々は三河町(現内神田町)にありましたが、火事で焼失した為本郷で仮営業をしています。
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〈詳訳〉
朝に淀藩の御上屋敷の御勘定様と御留守居様へ提出するため、届書を二通作成。四つ時に御屋敷へ出向き、足達鏡蔵様からは、「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。また、御留守居様にも届書を提出。

本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。松枝町へ戻る。平太郎殿と良左衛門君が居ったので、茶を飲み、その後番町のお屋敷へ引き上げた。
又左衛門殿は大崎方へ出向き、給金を受け取って帰ってこられた。

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〈奉行所宛の書面〉
乍恐以書附奉願上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)

常州牛渡村の一件に関わる者たちが一同、謹んで申し上げます。
現在、この件については御吟味中でございます。しかしながら、私どもの近郷で、感染症が流行しており、家ごとにその病症に悩まされております。そのため、看病などに手が回らず、さらに農作業の重要な時期を迎えておりますが、自然と耕作が遅れ、結果として一同は困難極まりない状況に陥っております。

右の事情は御吟味中のことであり、まことに恐れ多いことではございますが、何卒特例としてお許しいただき、一同まず帰村させていただけますようお願い申し上げます。なお、後日に御用がございます際には速やかに出府いたし、少しも御差し支えのないようにいたします。

何卒、御慈悲をもって、一同を先に帰村させるようお取り計らいくださいますよう、心からお願い申し上げます。

卯四月十二日
一同連印
但し差添人共
御奉行所様
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〈淀藩の御勘定様宛書面〉
乍恐以書附御届奉申上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)

下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が謹んでお届け申し上げます。

私どもは本多加賀守様ご担当のもとで御吟味を受けておりますが、近郷では流行する熱病が広がり、家ごとに病に悩まされている状況でございます。そのため、看病に支障をきたし、加えて農事の大切な時期に耕作が遅れ、私ども一同は非常に難儀いたしております。このような事情から、一度帰村を願い出ましたところ、昨十四日にお呼び出しいただき、願い通り一旦帰村するようお許しいただきましたので、お届け申し上げます。

つきましては、明十六日に出立し帰村したいと存じますので、何卒ご慈悲を賜り、御返翰を下さいますようお願い申し上げます。以上

安政二卯年
四月十五日

御領分
下総国埴生郡長沼村
百姓 五郎兵衛
百姓代
差添人:甚左衛門

ご勘定様 御役所
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安政2年4月16日(1855年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御家中の方々に暇乞い。小石川に行き高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買う。松枝町の借家で夜遅くまで碁を打って過ごした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学一門は明日江戸出立の予定。江戸には当分来ないということもあり、五郎兵衛もお買い物。バイト代(筆工代)が入ったので、剃刀や羽織を購入しています。夜遅くまで碁を打って過ごしており、解放感の感じられる記事になっています。

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〈詳訳〉
朝の掃除後、御家中の方々に暇乞い。五つ過ぎに全て挨拶を済ませたので、四つ時に松枝町へ向かう。幽学先生は買い物にお出かけされ、御親父は役所へ行っていて留守。
良左衛門君や平太郎殿と語らっていた。四つ半時に平右衛門殿と昼食を食べ、小石川の高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買って、七つ半時に松枝町の借家に戻る。
晩には長左衛門殿とおけい殿が来訪し、四つ時まで碁を打って過ごした。

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安政2年4月17日(1855年)
#五郎兵衛の日記
筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩上屋敷へ。御返翰を受取る。松枝町に戻り荷物の準備。幽学先生は干物を買いにお出かけ。公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いし、九つ時に江戸出立。八幡から鎌ヶ谷まで馬。鎌ケ谷の鹿嶋屋で泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、本日江戸を離れ帰村の途につきました。出立の前に淀藩上屋敷で御返翰を受取ったり、公事宿に挨拶に行ったりと忙しく動きますが、お買いものは欠かせません。筒井屋で茶を買う五郎兵衛、干物を求める幽学先生が書き記されています。本日は鎌ケ谷まで。定宿の鹿嶋屋さんに泊まりです。

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〈詳訳〉
五つ時、平太郎殿が番町の藪様の御奉公に出かけた。十日市場村の御親父様は明十八日に江戸を立つとのこと。
小石川へ参り、帰村についてご報告。その後、筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩御上屋敷に足達様を訪ね、御返翰を受け取った。
帰宅後、荷物の準備と昼食の支度を行いました。その間、幽学先生は干物を買いにお出かけになっていた。
九つ前には昼食の御膳の準備を整え、九つ時に松枝町を出発し、公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いに回った。

その時、幽学先生から次のような話があった。
「帰村したら、まず自分の身を修めること。これが何よりも大切だ。善右衛門や太次兵衛たちも、出府の時にはその覚悟を持っていたに違いないが、帰村するとその心構えがなくなってしまった。だからこそ、その時にはしっかりとした覚悟を持つよう心得なければならない。また、身上(家計や財産)を持つには、仕事をきちんと分担し、毎晩家族で相談しながら進めるべきだ。必要な支出については、きちんと入用帳に記録をつけ、毎月晦日には厳密に調べ直さなければならない。おろそかにしていては出費がどんどん膨らんでしまう。それでは持続することはできない。だからこそ、家族でよく相談して計画を立てるのが大事だ。そして、出府中に得た経験を活かし、知識を深められるよう心がけるのがよい。」

このように話があった後、九つ時に江戸を出発し、八幡で鎌ヶ谷まで馬に乗って、夕方に鎌ケ谷の鹿嶋屋に到着し、泊まり。



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安政2年4月18日(1855年)
#五郎兵衛の日記
六ツ半時、鎌ケ谷を出立。四ツ時大森着。御役所へ御返翰を差上げ、角屋で昼食。七ツころ長沼村に帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市)から大森(現印西市大森)を経て、長沼村(現成田市長沼)へ。大森は淀藩の御役所があったので、ここで江戸の上屋敷で発行された御返翰を渡さなければなりません。角屋で泊まったこともありますが(嘉永6年1月28日条)、今日は昼食だけ。夕方には我家に戻れました。

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安政2年(1855年)4月の日記は以上です。
なんとここから2年間、裁判は放置されます。
その間のことは五郎兵衛日記には記載されていませんが、各人が村で普通の生活を送っていたと思われます。
呼出があったのは2年後の安政4年4月となります。


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文政13年3月中旬・色川三中「家事志」

2025年03月24日 | 色川三中
文政13年3月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年3月11日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志

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文政13年3月12日(1830年)晴
川口の隠居宅の隣地を購入したいという話が、昨年から持ち上がっている。また、火除けのために隠居宅の一部を購入したいという申し出もある。これについて関係者の間で打合せが続いている。今夜も一同で話し合いの予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
川口(現土浦市川口)の隠居というのは三中の祖父のことです。祖父は、色川家の本家からは少し離れたところに住んでいます。隣地の買取りについて関係者一同で話合いをもつというのは、面倒といえば面倒ですが、このような話合いがこの時代を生きる知恵なのかもしれません。

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〈詳訳〉
川口(現土浦市の隠居の住んでいるところの隣地は表口が28間(約51メートル)、奥行きが26~27間(約47~49メートル)ほどだが、昨年に江戸油屋という名前で購入の話しをしにきた者がいた。
その土地は江戸崎屋・大橋吉平、豆腐屋清兵衛、戸山半左衛門らが借り受けているのだが、その者らが購入したいとのこと。また、色川家の土地も火除けのために少しだけ譲ってほしいとのこと。このことにつき、以前から度々川口の隠居のところへ集まって相談しているとのことだが、今夜一同で集まって話したいと連絡があった。

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文政13年3月13日(1830年)曇
四つ時、谷田部(現つくば市谷田部)に向けて出発。今川家と飯塚家の両家(いずれも親戚)に金平糖を一袋ずつ持参。九つ半に到着。馳走になり、長居をしてしまったので泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は一人で谷田部の親戚を訪ねています。お土産は金平糖。土浦から谷田部の中心地まで15キロ位ありますが、3時間程度で着いています。三中は親戚宅に行くとノンビリしてしまうので、だいたい泊まり。今日もそのとおりになりました。
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〈詳訳〉
四つ時、谷田部(現つくば市谷田部)に向けて土浦を一人で発つ。今川家と飯塚家の両家(いずれも親戚)に金平糖を一袋ずつ持参。九つ半に到着、馳走になる。長居をしてしまったので泊まる。
今川家のおさと殿は体調がすぐれない様子。症状からして三黄湯(さんおうとう)が効くはずである。医師が気がつかなかったのが不思議である。昨年十月の出産後、下り物がいつもの日数通りに来ず、その後から体調を崩し、今に至るまで折々に何となく心細くなることが日に何度もおり、時に頭が割れるかと思う頭痛、足がだるいようで、座れば腰から下がしっくりこないようでもあります。胸のあたりは常につかえているよう。時々顔が赤くなり、特に食後にそのようになるという。

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文政13年3月14日(1830年)曇
夜に土浦に戻る(昨夜は谷田部にて泊)。
駒市が開かれ、去年より馬が多くでていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦で駒市が毎年開催されています。昨年は3月15日条に駒市の記事があります。昨年は三中は町年寄であったため、駒市開催時に夜回りの警備をしていましたが、町年寄は辞めてしまいましたから、今年は気楽なものです。

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文政13年3月15日(1830年)晴
夜に入江(名主)のところに牛肉のお礼に行き、ついでに色々と話しをしてきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入江氏は名主ですが、三中と同年輩で仲の良い友人でもあります。先般牛肉を分けてもらったので(3月2日条)、そのお礼方々様々な話しをしています。何の話しをしたかは記事になっていませんが、楽しい会話だったことでしょう。

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文政13年3月16日(1830年)晴
・谷田部の茂吉は今日も滞留。
・藤沢村の政之助が玉子十個持参して土浦に来た。
・今朝弟の金次郎が喜兵衛を連れて西在(西ルート)の営業に出かけた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・今日の三中の日記は断片的でまとまりがありません。「谷田部の茂吉は今日も滞留」とありますが、以前の記事に茂吉の話しがでてきていません。
・本日の記事中に卵十個持参して来た客人の記事がありますが、この当時卵は貴重品だったはずです。
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文政13年3月17日(1830年) 晴
谷田部の茂吉は今日帰っていった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の記事はこれだけ。昨日、「谷田部の茂吉は今日も滞留」とあり、それに引き続く記事です。茂吉のことが気にかかっているのは間違いありませんが、何の関係の話しなのかはさっぱり分かりません。
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文政13年3月18日(1830年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日は天気のみの記事です。
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文政13年3月19日(1830年)晴
夜に内々の相談(内談)があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の記事はこれだけです。内々の相談(原文「内談」)だけではさっぱり分かりません。最近の記事はこういうのな多いです。

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文政13年3月20日(1830年)晴
昨夜の内談の件で、谷田部の母方へ「お手数ですが、お会いして話したいので、土浦までお越しいただきたい」と従業員の庄蔵(南ルートの営業に出ているついで)に伝えてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の日記もはっきりしません。昨日が「夜に内々の相談(内談)があった」だけで、今日はその続きであり、何か内密の話しであることはわかりますが、詳しいことはわからずじまいです。

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千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年9月17日判決 詐欺取財の件

2025年03月20日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年9月17日判決 詐欺取財の件

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(はじめに)
・この判決は大審院明治29年9月17日判決(大審院刑事判決録(刑録)2輯8巻16頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・事件の概要は次のとおりです。
「被告らは共謀の上で虚偽を装い、実際には渡すべき金額がないのに、馬代金の残額および借金の返済に応じるとして受取証を渡すよう欺いた。しかし、仲蔵らがそれを拒否したので、忠次郎が仲蔵の横腹を蹴り、被告房松と共に強いてこれを認めさせて渡すよう迫り、仲蔵らをして恐怖させ、遂に仲蔵と丑蔵の連名による受取証をだまし取った。」
被告らの行為は恐喝取財罪に該当します。
恐喝取財罪とは、虚偽の言葉等を用いて恐喝し、相手を畏怖させて財物や証書類を騙取することで成立する犯罪です。
・この事件がいつ起きたか及び一審判決の時期は不明です。
第二審東京控訴院判決:明治29年6月26日
被告に重禁錮1年6か月、罰金20円、監視6か月を言い渡す
大審院判決:明治29年9月17日
上告を棄却(原判決維持)
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。
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詐欺取財の件
大審院刑事判決録(刑録)2輯8巻16頁
明治29年第754号
明治29年9月17日宣告

◎判決要旨
虚偽の言葉を用いて他人を畏怖させ、財物または証書類を騙取する行為は、恐喝取財罪に該当する。被害者がその言葉を信じたか否かは、犯罪の構成には影響しない。

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

被告人 石井房松 
弁護人 宮古啓三郎

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(緒言)
被告房松の詐欺取財事件について、東京控訴院は千葉地方裁判所の判決に対する被告の控訴を審理し、明治29年6月26日、次のように判決を言渡した。
・原判決中、被告に有罪を言い渡した部分を取消す。
・被告房松を重禁錮1年6か月、罰金20円、監視6か月に処す
この判決が不法であるとして、被告が上告した。原院(控訴院)の検事は、これに対して答弁書を提出しなかった。
よって、刑事訴訟法第283条の手続きを履行し、次のとおり判決する。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(上告の要旨について)
上告の要旨は次のとおりである。
被告はかつて詐欺取財を行ったことはなく、証書の類は全て馬の代金などを支払った結果、正当な理由で受け取ったものである。
告訴人らは自身の浪費を理由に言い訳のため告訴したものであるのに、原裁判所は法律に違反して不当に事実を認定し、被告を有罪とすると判決した。

〈大審院の判断〉
この論旨は、原院(控訴院)の職権である事実の認定を批難するものであり、適法な上告理由ではない。
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(上告拡張書の第一点について)
上告拡張書の第一点は次のとおりである。
原院(控訴院)の判決は、被告房松が倉持又五郎所有の牡馬1頭を買い受けたと認定されたが、これは事実と異なる。被告は又五郎と売買をしたのではなく、丑蔵から直接買い受けたものである。

〈大審院の判断〉
これもまた事実認定を批難するものであり、適法な上告理由ではない。

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(上告拡張書の第二点及び第三点について)
上告拡張書の第二点は次のとおりである。
原院は、被告の行為について、倉持仲蔵および丑蔵の告訴状、さらに証人である丑蔵、松下ワカ、金子佐助らの証言を採用し、これを断罪の証拠として用いた。しかし、元来これらの証言は信用するに足りない虚偽の陳述であり、被告が詐欺を行ったと認定されるようなものではない。また、佐助に至っては、被告が売買を行った当時その場にいなかったため、彼が知っていると主張する内容は虚偽の陳述である。

上告拡張書の第三点は次のとおりである。
松下ワカの証言については、そもそも同人は前借金を理由に雇われていた立場にあり、倉持丑蔵がその当時、彼女を身請けすると言い聞かせたため、ワカはその実現を図ろうとして、彼らの言うがままにこのような虚偽の陳述を行ったものである。

〈大審院の判断〉
上告拡張書の第二および第三の論旨とも、原院の職権に属する証拠の採否についての批判にすぎず、適法な上告理由にあたらない。

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(宮古弁護士上告弁明書の第一点について)
宮古弁護士の上告弁明書の第一点は次のとおりである。

原院(控訴院)は次の事実を認定した。即ち、
『被告房松は、被告忠次郎と共謀し、倉持仲蔵および丑蔵から金30円の受取証を騙取しようと企て、仲蔵と丑蔵を呼び出し、「金を借りてきたので、馬代金29円とその時の借金1円を全て渡すから、金30円の受取証を渡してほしい」と持ち掛けて欺いた。
仲蔵らは「馬はすでに引き渡してあるため、金を受け取る際に受取証を出す必要はない」と言ったので(第一段)、忠次郎は仲蔵の脇腹を蹴り、「金を受け取るのに受取証を出さないとは太い野郎だ」と怒鳴り、さらに房松も同調して受取証を認めるように強く迫って、仲蔵を恐怖せしめ、最終的に丑蔵との連名の金30円の受取証を作成させ、二人に拇印を押させた上で、これを騙取したというものである(第二段)。』

第一段の「30円の金を渡すから受取証を渡してほしい」と言って欺き、結局仲蔵らが拒否したのを強いて認めさせて受取証を受け取ったという点につき、詐欺取財罪は成立しない。
詐欺取財罪は、通常の注意や知識をもっていれば防ぐことが可能な事柄については成立しないものである。
「金を受け取らないのに受取証を渡す」という行為を、通常の知識と注意力を持つ者がすることはない。実際に仲蔵や丑蔵もそのような知識があったため、これを拒否している。
この点については、原院(控訴院)も認めているところであるから、人を欺罔して詐欺取財を行ったとは言えない。

また、第二段で述べられている「仲蔵らが受取証を出すのを拒んだため、忠次郎が仲蔵の横腹を蹴って『金を受け取るのに受取証を出さないとは太い野郎だ』と言い、房松もこれに同調して強いて認めさせ、仲蔵らを恐怖せしめた云々」との点についても、詐欺取財罪は成立しない。

恐喝罪は、人に向かってある事柄を述べ、相手を畏怖させ、その心意に基づいて行為をさせることが必要である。この場合、畏怖を起こさせる言葉は、あくまで現在に属するものではない。これに対して、恐迫というものは、その害は現在のものであって、被害者に信用を起こさせるものではない。

原院(控訴院)は、「被告らは仲蔵らが受取証を出すのを拒んだため、これに暴行を加え、悪口を言い、強いて認めるよう迫り、彼らを恐怖せしめ受取証を得た」と事実認定しており、心意に信用を起さしめて受取ったものではなく、またその害は現在に属するものではないから、これにより恐喝して騙取したともいえない。
よって、原院認定事実では、詐欺取財の要素である欺罔行為ではないし、恐喝行為でもない。したがって、「騙取した」とはいえないのであり、詐欺取財の刑を適用すべきではない。
原院(控訴院)が刑法第390条及び第394条を適用したのは、擬律錯誤(法令適用の誤り)による判決である。

〈大審院の判断〉
論旨は要するに、「被告の行為は詐欺取財罪には該当しない」というものである。
原判決文は以下のように判示している。
「被告らは共謀の上で虚偽を装い、実際には渡すべき金額がないのに、馬代金の残額および借金の返済に応じるとして受取証を渡すよう欺いた。しかし、仲蔵らがそれを拒否したので、忠次郎が仲蔵の横腹を蹴り、被告房松と共に強いてこれを認めさせて渡すよう迫り、仲蔵らをして恐怖させ、遂に仲蔵と丑蔵の連名による受取証をだまし取った。」
このように原判決は、被告らの行為を恐喝取財罪として認定している。
恐喝取財罪とは、虚偽の言葉等を用いて恐喝し、相手を畏怖させて財物や証書類を騙取することで成立する犯罪である。その際、被害者の心意に信用を起こさせるか否かは、本罪の成立には影響しない。
したがって、原院が被告の行為に対して刑法第390条第1項および第394条を適用して処断した判断は相当であり、上告論旨がいうような不法はない。
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(宮古弁護士上告弁明書の第二点について)
宮古弁護士の上告弁明書の第二点は次のとおりである。
上告弁明書第一点で述べたように、詐欺取財罪が成立するためには、被害者を欺き、その心意に信用を抱かせ、任意に財物を渡させる行為が必要不可欠である。被害者の心に信用を抱かせることなく、任意の引き渡しがなされない状況で無理やり渡させた場合、その行為は強奪であるか、単純な脅迫罪が成立するにすぎない。

原判決には、仲藏等に対して金を受取ったのだから、受取証を渡してくれ等との記載はあるが、仲藏等がこの言葉を信じて任意に受領証を渡したという記載はないのであるから、裁判に理由を欠いており失当の判決である。

〈大審院の判断〉
原院(控訴院)は、被告の行為を恐喝取財罪であると認定し、その事実について判示していることは、前項で説示しているから、この点についても上告理由にはあたらない。

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(宮古弁護士上告弁明書の第三点について)
宮古弁護士の上告弁明書の第三点は次のとおりである。
刑事訴訟法第219条第2項は、「必要な調書その他証憑書類は、書記に朗読させなければならない」と定めている。この規定によれば、調書等は必ず法廷で朗読されるべきである。
原院(控訴院)では、証拠書類全般の朗読を省略するが異議がないかとの問いに対し、被告は「省略されても異議はない」と答えているが、
「必要な調書の朗読を省略してよいか」という具体的な問ではないのであるから、この点についての省略を承諾したものではない。
したがって、原院(控訴院)は必要な調書の朗読せず手続きを進めており、刑事訴訟法の手続きに違反する失当の裁判である。

〈大審院の判断〉
裁判上、証拠となるべき書類の中に、調書が含まれていることは明白であるから、上告論旨のいうような違法はない。
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〈結語〉
以上の理由に基づき、刑事訴訟法第285条に則り、本件上告を棄却する。
明治29年9月17日、大審院第二刑事部の公判廷において、検事安居修蔵が立会いのもとで宣告。

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〈原文〉
詐欺取財ノ件
大審院刑事判決録(刑録)2輯8巻16頁
明治二十九年第七五四號
明治二十九年九月十七日宣告
◎判决要旨
虚僞ノ言語ヲ用ヒ他人ヲ畏怖セシメ財物若クハ證書類ヲ騙取シタル所爲ハ恐喝取財罪ナリトス而シテ被害者ニシテ其言語ニ對シ信用ヲ起シタリヤ否ハ固ヨリ犯罪ノ構成ニ影響アルコトナシ

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

被告人 石井房松 
辯護人 宮古啓三郎

右房松カ詐欺取財被告事件ニ付明治二十九年六月廿六日東京控訴院ニ於テ千葉地方裁判所ノ判决ニ對スル被告ヨリノ控訴ヲ審理シ原判决中被告等ニ有罪ノ言渡ヲ爲シタル部分ヲ取消ス被告房松ヲ重禁錮一年六月罰金二十圓監視六月ニ處ス云々ト言渡シタル判决ヲ不法トシ被告ハ上告ヲ爲シ原院檢事ハ答辯書ヲ差出サス因テ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ判决スルコト左ノ如シ

上告ノ要旨被告ハ曾テ詐欺取財ヲ爲シタルコトナク證書ノ如キハ全ク馬代金等ノ辨濟ヲ爲シタルカ爲ニ正當受取リタルモノニシテ告訴人等ノ如キハ全ク自己ニ浪費シタル結果言譯ノ爲メ告訴シタルカ眞實ノ事實ナルニ原裁判所ハ法律ニ違背シテ不當ニ事實ヲ認定シ被告人ヲ以テ有罪ト判决シタルハ不當ナリト云フニアレトモ◎該論旨ハ原院ノ職權ニ特任セル事實ノ認定ヲ批難スルモノニシテ上告適法ノ理由ナシ

上告擴張書ノ第一點
原院ノ判决中被告房松ハ倉持又五郎所有ノ牡馬一頭ヲ買受ケタルカ如ク認定セラレタルモ右ハ事實ニ違ヒタル認定ニシテ决シテ被告ハ又五郎ヨリ賣買ヲ爲シタル者ニ之ナク丑藏ヨリ直接ニ買受ケタルモノナリト云フニアレトモ◎是亦事實認定ノ批難ニ外ナラサレハ上告其理由ナシ』

同第二點
原院ハ被告ノ所爲ニ對シ倉持仲藏同丑藏ノ告訴状及證人丑藏同松下ワカ金子佐助等ノ證言ヲ採リ斷罪ノ證據ニ供セラレタルモ元來彼等ノ證言ハ採ルニ足ラサル虚述ニシテ决シテ被告ニ詐欺セラルヽ如キ者ニアラス云々又佐助ハ被告カ賣買ヲ爲ス當時ハ居ラサリシヲ以テ彼レノ知リ居ル等ノ申立ハ虚述ナリト云ヒ」

同第三點ハ松下ワカノ證言ニ就テハ元來同人ノ身上ハ前借金ヲ以テ被雇中ノ者ニ之アリ然ルニ倉持丑藏ハ其當時同人ヲ身受爲シ呉レンコトヲ申聞カセタルヲ以テワカハ其事ノ實行ヲ求メンカ爲メ彼等カ云フカ儘如斯虚僞ノ陳述ヲ爲シタルモノナリト云フニアレトモ◎第二第三論旨共原院ノ職權ニ屬スル證憑ノ取捨ヲ論難スルモノニシテ上告適法ノ理由ナシ

宮古辯護士上告辯明書ノ第一點
原院ノ認定シタル事實ハ被告房松ハ被告忠次郎ト共謀シ仲藏丑藏ヨリ金三十圓ノ受取證ヲ騙取センコトヲ企テ此二人ヲ呼ヒテ金ヲ借リ來リシ故馬代金廿九圓ト時借金一圓ト悉皆渡スヘキニ付金三十圓ノ受取證ヲ渡シ呉レヨト欺キタルニ仲藏等ハ馬ハ已ニ渡シアルコト故金ヲ受取ルニ受取證ニハ及フ間敷ト云ヒタルヨリ(第一段)忠次郎ハ仲藏ノ横腹ヲ蹴リ金ヲ受取ルニ金ノ受取證ヲ出サスト云フハ太ヒ野郎タト云ヒ房松モ共ニ強テ之ヲ認ムヘシト迫リ仲藏ヲ恐怖セシメ遂ニ仲藏ヲシテ丑藏連名ノ三十圓ノ受取證ヲ認メサセ兩人ニ拇印セシメタル上之ヲ騙取シタリ(第二段)ト云フニアリ
此事實ノ中第一段ノ三十圓ノ金ヲ渡ス故受取證ヲ渡シ呉レト申欺キ結局仲藏等カ拒ミタルヲ強テ認メサセ受取リタリトノ點ハ决シテ詐欺取財罪ヲ構成セス抑モ詐欺取財ナルモノハ尋常ノ注意智識ヲ以テ何人ト雖モ防キ得ル事柄ニ付テハ構成セス
今金ヲ受取ラサルニ受取證ヲ渡スト云フコトハ尋常ノ智識アリ注意アルモノハ爲サヽルハ固ヨリナリ現ニ仲藏丑藏モ其智識アルカ故ニ拒ミタル次第ナリ
此點ハ原院モ認ムル處ナレハ人ヲ欺罔シテ詐欺取財ヲナシタリト云フ可ラス
又第二段ノ仲藏等カ受取證ヲ出スヲ拒ミタルヨリ忠次郎カ仲藏ノ横腹ヲ蹴リ云々ト云ヒ房松モ共ニ強テ之ヲ認ムヘシト迫リ仲藏等ヲ恐怖セシメ云々トアル點モ詐欺取財罪ヲ構成セス抑モ恐喝ナルモノハ人ニ向テ或ル事柄ヲ述其人ヲ畏怖セシメ其心意ニ信用ヲ起サシムルモノニシテ其言タル現在ニ屬スルモノニアラス之レニ反シ恐迫ナルモノハ其害現在ニシテ被害者ヲシテ信用ヲ起サシムルモノニアラス

今原院カ認定セシ事實ヲ見ルニ被告等ハ仲藏等カ受取證ヲ出スヲ拒ムヨリ之ニ暴行ヲ加ヘ惡口ヲ言ヒ強テ認メヨト迫リ同人等ヲ恐怖セシメ之ヲ受取リタリト云フニ在レハ其心意ニ信用ヲ起サシメテ受取リタルモノニアラス
又其害現在ニ屬スルモノニアラサレハ决シテ之ヲ恐喝シテ騙取シタルモノト云フヘカラス
故ニ原院ノ認定シタル事實トセハ詐欺取財ノ要素タル欺罔ノ所爲ナク恐喝ノ所爲ニアラス
從テ騙取シタリト云フ能ハス之ヲ要スルニ詐欺取財ノ刑ヲ適用スヘキモノニアラス
然ルニ原院カ刑法第三百九十條第三百九十四條ヲ適用シタルハ法則ヲ不當ニ適用シタルモノニシテ擬律錯誤ノ裁判ナリト云フニアリテ

◎要スルニ第一段第二段ノ論旨共被告ノ所爲ハ詐欺取財トナラスト云フニ外ナラス
因テ原判文ヲ査スルニ「被告等ハ共謀上詐辯ヲ設ケ實際渡スヘキ金員ノ調ハサルニ馬代金ノ殘額及時借金共返濟スヘキニ付受取證ヲ渡シ呉レト申欺キタルニ仲藏等カ其渡シ方ヲ拒ミタルヨリ忠次郎ハ其側ニ立チ仲藏ノ横腹ヲ蹴リ當被告房松共々強テ之ヲ認メ渡スヘシト迫リ仲藏等ヲシテ恐怖セシメ遂ニ仲藏丑藏連名ノ受取證ヲ騙取シタリ」トアリテ被告ノ所爲ヲ以テ恐喝取財罪ナリト認メアルヤ明カナリ

而シテ恐喝取財罪ナルモノハ虚僞ノ言語等ヲ用ヒ恐喝シテ他人ヲ畏怖セシメ財物若クハ證書類ヲ騙取スルニ因テ其罪成立スヘキモノニシテ被害者ノ心意ニ信用ヲ起サシムルト否トハ本罪ノ構成ニ關係セサルモノトス
故ニ原院カ被告ノ所爲ニ對シ刑法第三百九十條第一項同第三百九十四條ヲ適用處斷シタルハ相當ニシテ上告論旨ノ如キ不法アルコトナシ』

同第二點
第一點ニ於テ述ヘタル如ク詐欺取財ノ罪ヲ構成スルニハ被害者ヲ欺キ其心意ニ信用ヲ起サシメ任意ニ物件ヲ渡スモノナラサルヘカラス若シ然ラスシテ其心意ニ信用ヲ起サス又任意ニ渡スニアラス強テ之ヲ渡サシメタルモノナレハ是レ強奪ナリ又單純ノ脅迫罪ナリ原判文ヲ見ルニ仲藏等ニ對シテ金ヲ受取リ來リシ故其受取證ヲ渡シ呉レ云々ト記載アレトモ仲藏等カ此言ヲ信シテ任意ニ渡シタルモノト見ルヘキ記載ナシ云々其記載ナキハ即チ裁判ニ理由ヲ欠キタル失當ノ判决ナリト云フニアレトモ◎原院ハ被告ノ所爲ヲ恐喝取財犯ナリト認メ而シテ其事實ノ具備シ居ルコトハ前項ニ説示シアルニ依リ付テ了解スヘシ』

同第三點
刑事訴訟法第二百十九條第二項ニ依レハ必要ナル調書其他證憑書類ハ書記ヲシテ朗讀セシムヘキモノトス故ニ朗讀セシムヘキモノハ敢テ證憑書類ニテ足ルニアラス然ルニ原院ニ於テハ一切ノ證憑書類朗讀省畧スルモ異議ナキカトノ問ニ對シ被告ハ省畧セラルヽモ異議ナシト答ヘタレトモ必要ナル調書ノ朗讀ヲ省畧スル云々ノ問ニアラサルヲ以テ此點ニ付テハ省畧ヲ諾シタルニアラス左スレハ原院カ必要ナル調書ノ朗讀ヲ爲サシメサリシハ刑事訴訟法ノ手續ニ違背スル失當ノ裁判ナリト云フニアレトモ◎裁判上證據トナルヘキ書類中ニ調書ノ包含シ居ルコトハ勿論ナルニ付上告論旨ノ如キ違法アルコトナシ

以上ノ理由ナルニ依リ刑事訴訟法第二百八十五條ニ則リ本件上告ハ之ヲ棄却ス
明治二十九年九月十七日大審院第二刑事部公廷ニ於テ檢事安居修藏立會宣告ス


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千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年3月30日判決 私印盜用私書偽造行使詐欺取財の件

2025年03月17日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年3月30日判決 私印盜用私書偽造行使詐欺取財の件
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(はじめに)
・この判決は大審院明治29年3月30日判決(大審院刑事判決録2輯3巻108頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・事件の概要は次のとおりです。
「被告人外一名が共謀して、土地所有者(私訴上告人)の実印を盗用し、その土地を書入れして(抵当にいれて)登記し、私訴被上告人らから金銭を借り入れて騙し取った事件」。
・この事件がいつ起きたか及び一審判決の時期は大審院判決からは分かりません。
第二審の東京控訴院判決は明治29年2月24日、大審院判決は同年3月30日に言渡されています。
・この判決は公訴部分と私訴部分とがあります(この当時は附帯私訴の制度がありました)。
・公訴部分について
一審千葉地方裁判所の判決内容は不明です。
第二審の東京控訴院判決は、一審判決を取消し、被告人に重禁錮3年、罰金30円、監視1年という刑が言い渡されています。
被告人は大審院に上告しましたが、上告理由はいずれも理由がないとされ、上告は棄却されています。
・私訴部分について
東京控訴院は、「民事原告人の訴えはこれを却下する」との判断を示していましたが、大審院はこの判断は誤りであるとし、私訴部分の控訴院判決を破棄しています。
問題となったのは、当時の刑訴法2条の解釈です。同条は、「私訴は、犯罪によって生じた損害の賠償、贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する」と規定していました。
本件では登記抹消請求ができるかが問題となっていましたが、同条には登記に関して明示されていないため、登記抹消請求ができるか否かにつき裁判所の見解が分かれたのです。
・大審院は、犯罪に基づく登記取消の請求は、刑事訴訟法第2条の「贓物の返還を目的とするもの」として、私訴を提起することができると判断して、この問題に決着をつけました。
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。

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私印盜用私書偽造行使詐欺取財の件
明治29年第284号
明治29年3月30日宣告
大審院刑事判決録(刑録)2輯3巻108頁

◎判決要旨
犯罪に基づく登記取消の請求は、刑事訴訟法第2条の「贓物の返還を目的とするもの」として、私訴を提起することができる(明治28年第1228号及び第1285号、第1輯第5巻118頁及び121頁登載参照)。
(参照)
私訴は、犯罪によって生じた損害の賠償、贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する(刑事訴訟法第2条)。

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

公訴上告人 小出市太郎 
辯護人 城數馬
私訴上告人 小出勝次郎 岡本昂
私訴被上告人 中井藤右衛門 川奈部喜兵衛
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(緒言)
市太郎(被告人)の私印盜用私書偽造行使詐欺取財被告事件の公訴及び私訴について、明治29年2月24日、東京控訴院は次の判決を言渡した。
【公訴に関して】
・原判決中、被告市太郎に関する部分は取消す。
・市太郎の被告事件中、予審決定書第7及び第9に記載された事件についての公訴はこれを受理せず。
・市太郎に対して以下の刑を言い渡す。
重禁錮3年
罰金30円
監視1年
【私訴に関して】
・原判決中、岡本昂・中井藤右衛門・川奈部喜兵衛に係る部分はこれを取消す。
・岡本昂・中井藤右衛門・川奈部喜兵衛に対する民事原告人の訴えはこれを却下する。

この判決に対し、被告・市太郎は公訴に関する判決を不服として、また民事原告人・小出勝次郎は私訴に関する判決を不服として、それぞれ上告を行った。
よって、刑事訴訟法第283条の手続きを履行し、次のとおり判決する。


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(被告人の上告趣意について)
市太郎(被告人)の上告趣意書の要点は、「自分に関わる私印盗用の件は不当であるため上告する。小出勝次郎はもちろん、その家族の者も承諾の上で金員の周旋を行ったものである」というものである。
これは原院(東京控訴院)が私印を盗用したと認定した事実について不服を申し立てるものである。
〈大審院の判断〉
しかしながら、事実認定は原院の職権に属するのであるから、上告の適法な理由とはならない。

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(弁護人の上告趣意について)
弁護人城数馬からも、第一審以降の公判記録や証拠物件などを検討しても、被告が原院(東京控訴院)の認定したような犯罪行為を行ったとする十分な証拠がないため、原院は不当な事実認定を行ったものであるとの上告趣意書が提出されている。
〈大審院の判断〉
しかしながら、この論旨もまた原院が認定した事実を非難するに過ぎないため、上告理由とはならない。

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(私訴の上告趣意について)
私訴の上告趣意は次のとおりである。
「本件は、小出市太郎外一名が共謀して、上告人の実印を盗用し、上告人の所有する土地を書入れ(抵当にいれて)、被上告人らから金銭を借り入れ、それを騙し取った。このため市太郎外一名は、重禁錮刑を言渡された。したがって、被上告人らが上告人の土地を書入れて(抵当にいれて)登記を受けた証書や、上告人名義の借用証書はいずれも犯罪に基づくものであるため、これらの取消を請求した。
原院(東京控訴院)はこれを却下したが、違法であるので、原判決全部の破棄を求める。」

〈原判決〉
原判決は次のように判断した。
「①借用証書偽造行使に関する被告事件は、公訴を受理しないと判決したので、該事件に関連する附帯私訴は成立しない。
②土地書入れ(抵当)登記取消の請求についてその当否を審理したところ(中略)、本件民事原告人の請求は、不動産書入れ登記取消を求める訴えであり(中略)、犯罪によって生じた損害の賠償を求めるものではなく、また、賍物の返還を目的とするものでもない。したがって、私訴として訴えることができない。」

〈大審院の判断〉
私訴は公訴に附帯して行うことができるものであり、公訴が成立しないときは私訴は成立しない。したがって、原判決の第一の理由は相当である。
しかしながら、第二の理由に基づいて原告の登記取消請求を却下したことは、不当であることを免れることはできない。
なぜなら、不動産の書入(抵当)契約は登記を待って成立するものではないが、その登記が行われているのであれば、外観上は書入(抵当)契約が成立したものと同じ結果を生じており、所有者はその登記が取消されない限り、不動産を自由に処分することができないからである。したがって、登記取消の請求は、刑事訴訟法第2条にいう「賍物の返還を目的とする」に該当するというべきであって、本件のように公訴が成立した場合には、私訴を提起することが認められる。
よって、原判決のうち私訴については、破棄すべき理由がある。

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〈結語〉
以上の理由に基づき、刑事訴訟法第285条により、公訴判決に対する上告はこれを棄却する。私訴判決は、刑事訴訟法第286条および第290条により、登記取消の請求を却下した部分はこれを破棄し、本件を名古屋控訴院民事部に移送する。

明治29年3月30日、大審院第二刑事部公廷において、検事安居修蔵の立会いのもとで宣告。

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〈原文〉
私印盜用私書僞造行使詐欺取財ノ件
大審院刑事判決録(刑録)2輯3巻108頁
明治二十九年第二八四號
明治二十九年三月三十日宣告
◎判决要旨
犯罪ニ基因スル登記取消ノ請求ハ刑事訴訴法第二條ニ所謂贓物ノ返還ヲ目的トスルモノタルニ外ナラス從テ私訴トシテ提起スルコトヲ得(明治二十八年第一二二八號及第一二八五號第一輯第五卷一一八頁及一二一頁登載參看)
(參照)私訴ハ犯罪ニ因リ生シタル損害ノ賠償贓物ノ返還ヲ目的トスルモノニシテ民法ニ從ヒ被害者ニ屬ス(刑事訴訟法第二條)

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

公訴上告人 小出市太郎 
辯護人 城數馬
私訴上告人 小出勝次郎 岡本昂
私訴被上告人 中井藤右衛門 川奈部喜兵衛

右市太郎カ私印盜用私書僞造行使詐欺取財被告事件ノ公訴私訴ニ付明治二十九年二月二十四日東京控訴院ニ於テ公訴ニ對シテハ原判决中被告市太郎ニ關スル部分ハ之ヲ取消ス市太郎ノ被告事件中豫審决定書第七第九ニ掲ケタル被告事件ノ公訴ハ之ヲ受理セス市太郎ヲ重禁錮三年罰金三拾圓監視一年ニ處ス云々ト言渡シ私訴ニ對シテハ原判决岡本昂中井藤右衞門川奈部喜兵衛ニ係ル部分ハ之ヲ取消ス岡本昂中井藤右衛門川奈部喜兵衛ニ對スル民事原告人ノ訴ハ之ヲ却下ス云々ト言渡シタル判决ニ對シ被告市太郎ハ公訴ノ判决ニ對シ民事原告人小出勝次郎ハ私訴ノ判决ニ對シ上告ヲ爲シタルニ付刑事訴訟法第二百八十三條ノ式ヲ履行シ判决スルコト左ノ如シ

市太郎上告趣意書ノ要旨ハ自分ニ係ル私印盜用ノ件ハ不當ナルヲ以テ上告ス小出勝次郎ハ勿論其家内ノ者ニ於テモ承諾ノ上金圓ノ周旋致シタル者ニ相違ナシト云フニ在リテ◎原院カ私印ヲ盜用セシト認メタル事實ニ對シテ不服ヲ申立ツルニ外ナラス然レトモ事實ノ認定ハ原院ノ職權ニ屬スルヲ以テ適法ノ上告理由トナスヲ得ス』

又辯護人城數馬ヨリモ第一審以來ノ公判始末書若クハ證據物件等ニ徴スルモ被告ニ於テ原院カ認メタル如キ犯罪行爲アリトスルニ足ルヘキ證憑ナキヲ以テ原院ハ不當ニ事實ヲ確定シタルモノナリトノ上告趣意書ヲ提出セリ◎然レトモ此論旨モ亦原院ノ認メタル事實ヲ非難スルニ過キサルヲ以テ上告理由トナラス』

私訴上告趣意ハ本案ハ小出市太郎外一名共謀シテ上告人ノ實印ヲ盜用シ上告人所有ノ土地ヲ書入レ被上告人等ヨリ金員ヲ借リ之ヲ騙取セシ爲メ市太郎外一名ハ既ニ重禁錮ノ刑ヲ受ケタリ因テ被上告人等カ上告人ノ土地ヲ書入レ登記ヲ受ケタル證書其他上告人借主名義ノ證書ハ何レモ犯罪ニ原因スルモノナルヲ以テ之カ取消ヲ請求シタルモノナルニ原院ニ於テ此請求ヲ却下シタルハ不法ナルヲ以テ原判决全部ノ破毀ヲ求ムト云フニ在リ◎而シテ原判决文ニハ「借用證書僞造行使ニ關スル被告事件ハ公訴判决ニ説明シタル如ク公訴受理スヘカラサルモノナルニ付該事件ニ關スル付帶私訴モ亦從テ成立スヘキモノニ非ス又地所書入登記取消ノ請求ニ付其當否ヲ審按スルニ(中畧)本件民事原告人ノ請求ハ不動産書入登記取消ノ訴ニシテ(中畧)犯罪ニ依リ生シタル損害ノ賠償ヲ要求スルモノニ非ス又賍物ノ返還ヲ目的トナスニ非ス故ニ私訴トシテ訴フヘキモノニ非ス」トアリ依テ按スルニ私訴ハ公訴ニ付帶シテ之ヲ爲スコトヲ得ヘキモノナレハ公訴ノ成立セサル塲合ニ在テハ私訴ノミ成立スヘキ道理ナキヲ以テ右第一ノ判决理由ハ相當ナリト雖モ其第二ノ理由ニ依リ原告ノ請求ヲ却下シタルハ上告論旨ノ如ク不法タルヲ免レス何トナレハ不動産ノ書入契約ハ登記ヲ待テ成立スヘキモノニ非スト雖モ既ニ其登記アリタル以上ハ外見上書入契約ノ成立シタルト同一ノ結果ヲ生スルノミナラス其所有者ニ在テハ之ヲ取消シタル後ニ非サレハ隨意ニ其不動産ノ處分ヲ爲スコトヲ得ス故ニ登記取消ノ請求ハ所謂賍物ノ返還ヲ目的トスルモノト謂フヲ得ヘク從テ本件ノ如キ登記ニ關スル公訴ノ成立シタル塲合ニ在テハ私訴トシテ提起スルヲ得ヘキモノナルヲ以テナリ依テ私訴ニ對スル原判决ハ此點ニ付キ破毀スヘキ理由アルモノトス

右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ公訴判决ニ對スル上告ハ之ヲ棄却ス私訴判决ハ刑事訴訟法第二百八十六條及ヒ第二百九十條ニ依リ登記取消ノ請求ヲ却下シタル部分ヲ破毀シ本件ヲ名古屋控訴院民事部ニ移ス
明治廿九年三月三十日大審院第二刑事部公廷ニ於テ檢事安居修藏立會宣告ス



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安政2年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2025年03月13日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政2年4月1日(朔)(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
六ツ半時に殿様御登城、四ツ時御帰館。
早朝掃除。殿様の御供の者の弁当のおかず作り。昼前に治助殿と二人で田中様の薪割り。
昼過ぎ又左衛門殿、治助殿の二人は松枝町の借家に行ったが、小生は牛込わら店の湯に入りに行った。八ツ時にお屋敷に戻り、夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は殿様の登城日です(月次御礼)。月次御礼は「つきなみおんれい」と読み、原則毎月1日、15日、28日。江戸城に大名らが一斉に登城するので、早くに屋敷を立たねばなりません(六ツ半時出発)。昼前(四ツ時)には戻るのに、朝食抜きのためか御供の者は弁当持参です。

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安政2年4月2日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。殿様は五ツ時に御半供で大橋の辺りに御出掛けになられた。昼前まで写し物。
九ツ時、松枝町の借家へ向かう。
良祐殿が逗留しており、十日市場村の御親父と碁を打っていた。この夜松枝町に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は非番であり、朝に掃除、昼まで書物の写しのバイトをこなした後、松枝町の借家へ。良祐が滞在していました。長部村の名主遠藤家の跡取り息子良左衛門が江戸にいるので、連絡役として度々国元と江戸を往復しているようです。

〈詳訳〉
朝掃除。又左衛門殿と治助殿は五ツ時にお屋敷に戻ってきた。殿様は五ツ時に御半供で大橋の辺りに御出掛けになられた。昼前まで写し物。九ツ時に松枝町の借家へ行く。良祐殿が逗留しており、十日市場村の御親父と碁を打っていた。
暮方に平太郎殿が来た。元岩井町の泉屋に依頼した件について、引き取りのために石川様の門まで良左衛門君と2人で道具を取りに行った。
長左衛門殿は留守であったが、帰り道で会つた。「親方が2、3日留守であり、話しを進められない」といっていたが、小生は明日が非番であり、何かと相談の上で出向くつもりだとして帰宅し、その夜は松枝町に泊まり。


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安政2年4月3日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
四ツ時に良祐殿は出立。小生も松枝町を出て、番町のお屋敷には四ツ半着。昼から治助殿と髪結い。夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は昨日に続き今日も非番。そのため、番町にある屋敷に戻るのも昼前(四ツ半)と遅め。五郎兵衛の非番が2日続くのは珍しく、奉公人が少しは増えたのでしょうか。

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安政2年4月4日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。勤務中に本の書き写し。五ツ半に又左衛門殿、お屋敷に戻り。夜番を九ツから明けまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は本番の勤務のほかに、夜番を
九ツ(午前零時)から明けまで勤めており、かなりの長時間勤務です。もっとも、勤務中に本の書き写しのバイトをしていますから、それほど忙しくはなかったのかも。
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安政2年4月5日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。四ツまで扶持米を搗き直し。洗濯。昼から写し物。七ツ時に出かけ、大伝馬町の高木で筆と墨を買い、泉之湯に入ってから、暮方に松枝町の借家に行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
扶持米とは、主君から家臣に給与した俸祿の米のこと。五郎兵衛の日記には米搗きの記事がよく出てきます。殿様(藪家)から家臣が頂戴した米を、奉公人に精米させているのでしょう。


〈詳訳〉
朝掃除。四ツまで扶持米を搗き直し。洗濯。昼から写し物。七ツ時に出かけ、大伝馬町の高木で筆と墨を買い、泉之湯に入ってから、暮方に松枝町の借家に行く。
治助殿からもらった綿入の仕立て直しを松村に相談したところ、「三浦の御新造ができるはずで、江戸に来るかも知れないから、三、四日様子を見てはどうか」と。
幽学先生からは、「自分勝手な判断で決めたり、規律を乱してはいけない。慎重に行動するように」と注意を受ける。結局、このことは一旦保留。
また、先生からは、昨年、幸左衛門殿が蔵方の半助から頼られ、銀座で金銭の支払いを行ったことがあったと国元から聞いているが、小生や宜平殿も知っていながら隠していただろう」とのご指摘を受ける。
御親父様からは「今後も互いに気を付け合い、問題を起こさないように。先生に心配をかけないように」とお言葉をいただいた。

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安政2年4月6日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
藤助から頼まれ雉子町で紙帳を買い、五ツ前にお屋敷に戻る。五ツ時、殿様は昌平坂へお出かけ。
小生は添番勤務。八ツ半まで書物の写し。
平右衛門殿が文平方からの手紙を持って来てくれ、しばし語り合う。その後九ツまで夜番の勤め。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日松枝町の借家に泊まった五郎兵衛は、雉子町(現千代田区神田美土代町付近)で、藤助(同僚)から依頼されたものを買い、お屋敷に戻りました。殿様は昌平坂学問所に御用だったようです。殿様がお屋敷に不在であり、家臣不在なので、勤務時間中にバイト(書物の写し)をしダブルワークをこなしています。

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〈詳訳〉
早朝茶を飲む。藤助からの頼みで雉町へ紙帳を買いに行き、五ツ前に戻る。五ツ時、殿様が昌平坂へお出かけになられた。小生は添番の勤めをし、書物の写しを八ツ半時まで行う。
平右衛門殿が文平方からの手紙を持って来てくれ、一時語り合う。
又左衛門殿は九ツ時に松枝町の借家へ出かけ、小生は九ツまで夜番の勤め。

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安政2年4月7日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。治助殿は五ツ半時に松枝町の借家へ出かけた。夕方床上げ。九ツより六ツまで夜番を勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本番勤務をした後に、九ツ(深夜12時)から朝六ツ(午前6時)まで夜番を勤めた五郎兵衛。長時間勤務ですが、あまり忙しそうではなさそう。書物の写しバイトを勤務時間中にしてしまうくらいですから。

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安政2年4月8日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。昼前に写し物。八ツに出掛け、泉之湯に入り、松枝町の借家へ。御親父様から「幽学先生は夜具の整理をご自分でされている。規律をしっかり守るよう、一同が心を一つにして取り組むことが大切」とのお言葉をいただいた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が幽学先生と共に松枝町の借家に住んでいたときは、五郎兵衛が幽学先生のお世話係だったのですが、五郎兵衛が武家に奉公に行ってからは、幽学先生は夜具の上げ下げもご自分でされているそうです。

〈詳訳〉
朝掃除。治助殿は松枝町の借家から五ツ時にお屋敷に戻ってきた。昼前に写し物し、二人で髪結い。殿様は四ツ半に下屋敷に出掛けられた。平右衛門殿は石川様の新部屋に御奉公のため七ツ時に出掛けた。
夕方良左衛門君が治助殿の荷物を持ってきた。
八ツ時に治助殿と共に出掛ける。藤助に頼まれて新石町板新屋の大工与市方に米を持参する。泉之湯に入った後、松枝町の借家へ八ツ半時に行く。
幽学先生、良左衛門君、御親父がおり、先生から次のような話しがあった。
「良左衛門は、全体を把握しないで、何事もその場限りで済ませようとする。その場を良くすしようとしてつまらない話しをするから、話しがまとまりのないものになってしまうのだ。
予は道友の話なら、どれだけ話しても尽きるということはないのだし、良左衛門もそのことであれば、予と意見が合わないということもないのだが、どうも自分のことで悲観的になりがちだから、そのせいで予が厳しい人物のように見られてしまう。去年も今年も国元の人々から「予が良左衛門を酷くいじめている」と思われているので、それで予の言うことが何一つ通らない。どうしようもないので、何事も構わぬよりほかに方法がない。」

御親父様からは、「夜具の整理なども、幽学先生はご自分でされている。これまで立ててきた規律をしっかり守るよう、一同が心を一つにして取り組むことが重要なのだ」とお言葉をいただいた。

豆腐とか干物等の人数割りにして、全員の食費とは別に各自の分を割り増しで計算すると話し合った。
晩に平太郎殿が来て、碁を打ち、四ツ時に就寝。

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安政2年4月9日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
朝五ツ時にお屋敷に戻る。殿様は御半供で昌平坂へお出かけ。写し物をする。又左衛門殿は八ツ時に松枝町の借家へ出掛けた。小生は夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のところの藪家の殿様は先日(4月6日条)と同様、本日も昌平坂学問所へお出かけです。
殿様の外出は常にお供を伴うため、私的な時間を確保するのは大変そうです。

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安政2年4月10日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。殿様は六ツ半時に御供を揃えて本庄安芸守様方へ御出掛けに。田安御馬場にも御廻りになられ、九ツ時に御帰館になられた。
小生は写し物の後、七ツころ御弓場の支度。夕方その片付けをし、夜番を九ツから明六ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛日記は大原幽学一門の裁判日記なのですが、ここ最近は武家屋敷での奉公人日記となってしまっています。幽学先生の動静は道友でもある同僚から聞いているはずですが、日記には書き残されていません。お殿様の動静が記録されており、五郎兵衛にはどうもそちらの方が気になってしまっているようです。

〈詳訳〉
朝掃除。殿様は六ツ半時に御供を揃えて本庄安芸守様方へ御出掛けに。田安御馬場にも御廻りになられ、九ツ時に御帰館になられた。
五ツ前に又左衛門殿が戻ってきて、九つには治助殿が松枝町の借家へ出かけ。小生は写し物の後、七ツころ御弓場の支度。夕方その片付けをし、夜番を九ツから明六ツまで勤める。
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文政13年3月上旬・色川三中「家事志」

2025年03月10日 | 色川三中
文政13年3月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年3月朔日(1日)(1830年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日は天気の記載のみです。

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文政13年3月2日(1830年)晴
名主の入江郷助殿が来た。大坂の牛肉を買ったとのことで、分けてもらった。
塩漬け500匁(1.875kg)
味噌漬け500匁(1.875kg)
合計一貫匁
代金は金一分。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日本人は、明治時代以前は牛肉をたべる習慣はなく、明治天皇が初めて牛肉を食べたとするネット情報もありますが、それは誤りであることが分かる記事。大坂から送ってもらっているので、関東産のものはなかったのかもしれません。

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〈詳訳〉
・今日は牛肉と、讃岐(佐土州)産の蒼朮(そうじゅつ/オケラの根)が手に入った。江戸の白木屋からの船が土浦に着いた。
・四つ時、入江郷助殿(名主)が来られ、大坂から牛肉を取り寄せたが食べてみないかと言われたので、従業員を使いに出して入江から牛肉を購入。
塩漬け500匁(1.875kg)
味噌漬け500匁(1.875kg)
合計1貫匁
代金は金一分。
牛肉は木原行蔵様と川口に送った。
・手に入れた佐土州産の蒼朮は約600匁(2.25kg)。色は唐産(中国産)のものよりやや薄く、中に含む脂が唐産より多い。芳香しく馥郁。味は辛甘であり、ほろ苦さも持つ。口に含むと独特の余韻が舌に残り、少し噛むだけで体が温まるような効能を即座に感じられる。
この蒼朮は粉にすると、まるで白粉を塗るように滑らかに仕上がる。その粉成りの速さや豊富さは、唐産のものと比べても類を見ないほどである。香りや品質が優れている。
後日、この蒼朮をさまざまな病に試して、その効能を記録しようと思う。これほどの良品が我が国で採れることを知り、喜びに耐えない。驚きと感動に心が躍り、思わず喜びを記しておくことにした。

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文政13年3月3日(1830年)曇
大枝清兵衛殿が来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛は、江戸の薬種問屋。取引先の色川家を折りをみて訪れており、直近では11月に土浦に来て色川家に泊まっています(文政12年11月23日条)。マメに顔を合わせることが、営業活動の基本ですね。
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文政13年3月4日(1830年)晴
以前に書き記した「蜘蛛病考」について、大野氏から尋ねられた。江戸の方から問合せがあったとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛を吐き続ける女性について三中は、日向医師にアドバイスをして、女性を治しました。「蜘蛛病考」という論稿を作成して土浦藩の大野様に提出したことがあります(文政11年9月19日条)。そのことが江戸でも反響を呼んだようです。

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〈その他の記事〉
・庄蔵を従業員として雇う。
証文の人主は安右衛門、請人は義兵衛。
給金は二両二分。二分を前貸しした。
寺は神龍寺。
・本日、入江惣益の講の二回目が行われた。
・今日、与兵衛が谷田部から土浦に戻って来た。子どもが疱瘡にかかって帰っていた。

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文政13年3月5日(1830年)
昨日、伊勢屋から、「祖父の五十回忌を行うので、四つ時に茶を差し上げたい」との話しあり。本日、九ツころ伊勢屋に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五十回忌についての記事です。法事というと飲酒飲食というイメージがありますが、四つ時(午前10時)にお茶というので、今の法事とはだいぶ違うようです。

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文政13年3月6日(1830年)雨
朝、東覚寺(等覚寺)へ参詣す。百銅をお供え。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の菩提寺は神龍寺であり、日記にも頻繁に登場しますが、等覚寺もよく登場します。同寺は現在も土浦にあり(土浦市大手町)、境内には国指定重要文化財の同鐘があります。

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文政13年3月7日(1830年) 雨
以前書いた「蜘蛛病考」を、大野様(土浦藩家臣)よりの要請で、校正し、「破網治験」と改名。大野様に贈呈した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「蜘蛛病考」について江戸から問合せがあったことから(3月4日条)、三中は早速校正を行い、名前も「破網治験」と改名して大野様(土浦藩家臣)に贈呈。後に国学者として名を残す三中もこの当時は新進気鋭の本草学者でした。

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文政13年3月8日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(10日再開)。
#色川三中 #家事志


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文政13年3月9日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志


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文政13年3月10日(1830年)雨
大坂堂嶋の大和屋金三郎殿に、昨年頼んでおいた牛肉が届いた。江州(近江国)の彦根あたりで入手したものを、飛脚の都合でやむを得ず味噌漬けに加工し、初便の飛脚で送ってくれたとの手紙が添えられていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が、昨冬には大坂に依頼していた牛肉が届きました。つい先日入江氏から牛肉を分けてもらったばかりです(3月2日条)。
「彦根あたりで入手」とあるのは、彦根藩が江戸時代、公式に牛の屠殺が唯一認められていた藩だからという理由でしょう。

━━━━━━
〈詳訳〉
・下男の庄兵衛は悴の金治が病気のため宿下りした。
・上田養伯老が在(地方)へ引越されたとの噂である。上田老には売掛金が十両ほどあり、また畑のこともあるので、下男の庄蔵を行かせた。
・利兵衛殿に金談のため笠間へ行ってもらった。
・大坂堂嶋の大和屋金三郎殿に、昨年頼んでおいた牛肉が届いた。先日入江氏からもらった牛肉は、大坂で土浦藩の知人である藤木様に依頼した備前産の肉とのことである。

(大和屋金三郎殿書状)
生牛肉は伏見町の薬店に聞いてみましたが、手に入らないとのことでした。枠の作次郎は伏見町の隣町に住んでおり、懇意にしている者も多いので、そちらも当たってみましたが、やはり手に入りませんでした。
あちこち尋ねているうちに、江州(近江国)の彦根あたりだと手に入ることもあると聞きました。
幸いにも知り合いの者が彦根方面に掛取りに行く予定がありましたので、お願いをしましたら、首尾よく牛肉を手に入れることができました(私はその間、三田というところに掛取りに行っておりました)。
是非とも寒中のうちにお送りしたいと思いつつも、飛脚(配送業者)の都合でやむを得ず味噌漬けに加工し、本日出発した初便の飛脚に託しました。

一 牛肉といっても、薬用となるのは"鞍下" といわれる特別な部分に限ったものであるとのことです。そのあたりの事情にはお詳しいかと存じます。

一 私の体調につきご心配をおかけしているようですが、どうやら中風というわけでもなさそうです。

一 昨冬以来、暖かい日が続き、冬なのにまだ雪を見ることがありません。氷が張ることも稀でございます。今日の天候は、まるで二月の初午頃のような気候に見受けられます。

一 昨冬の中頃、当地で切支丹(キリシタン)への処分が行われました。一昨年に逮捕され、同類についても順次取り調べが進められているところです。その首謀者は「貢」という名の女で、土御門家の配下にあり、もとは嶋原(島原)の浪人から教えを受けて伝法し、人々を惑わせて仲間を増やしたようです。同類も多数発覚し、全員が磔(はりつけ)の刑となりました。また、その仲間で死罪を免れた者については、女房や子供たちも含めて永牢(終身刑)となる者が相当数おりました。
この事件は以前に申し上げた大塩平八郎殿のご担当です。この件の吟味は、大変なご苦労があったようで、関東(幕府)からも特別な称賛の書状が届けられたと聞いております。この件に関してはさまざまな興味深い話もあるのですが、忌むべき宗教の話ゆえ、文面では詳細を省略いたします。
大塩平八郎殿のご担当するものとして、京の都で寺院二ヵ所が破却となり、当地でも寺十六ヵ所が退院、追放、押込などの処分を受けたとのことです。近年では珍しい事件でございます。

一 この3月から4月頃にかけて加州様(加賀藩)の米が出回り、北国の米が34万から35万俵余りが入荷しているため、米に困ることはなくなりました。しかし、在方(地方)からの米はまったく出ておりません。昨年秋の凶作の影響で、地方の米価は値上がりし、諸家(武家)の年貢米の払い分を除いて売りに出る米はありません。
そのため、万が一、今年の秋の収穫が半分にでもなれば、予想外の事態に陥るでしょう。金儲けはさておき、日々食べ続けるための備蓄米を用意するよう心がけるのが良いかと思われます。
現在、米の相場は1石あたりおおよそ68~69匁から72~73匁ほどとなっており、江戸へ送るにはかなり引き合う値段となっていますので、今後は追々、米が港へ送られてくることと思われます。
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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第13回講義

2025年03月06日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第13回講義
第13回講義(明治18年6月5日)
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第二款 公訴の抹殺
(緒言)
公訴の抹殺とは、犯罪は成立していても、裁判権を奪却して公訴を許さないことをいいます。
大別すると二種あり、一つは治外法権、もう一つは不問令です。以下、二つの節に分け、第一節では治外法権について説明し(今回)、第二節では不問令について論じます(次回)。
━━━━
第一節 治外法権
今回取り上げる治外法権は、万国で一般的に認められている、欧米諸国で一般的に行われている普通の治外法権です。現在、東洋諸国で行われている不正不当な治外法権についてではありません。
━━━━
(治外法権の種類)
治外法権には二つの種類があります。
第一に外交官の犯罪、第二に内海や港内で起きた犯罪及び軍旗の下にある外国兵士の犯罪です。
━━━━
(治外法権の根拠)
治外法権がどの範囲まで及ぶかについては、各国で違いがありますが、治外法権それ自体は全ての国で認められています。
公訴は、刑罰を科すことを目的としており、刑罰は、一国の安寧(平和)を守るために設けられているものです。よって、犯罪を犯した者には公訴を行う必要があります。
たとえ外国人であっても他国に滞在している間は、その国の法律の保護を受けます。保護を受ける以上、その国の法律を遵守する義務も当然に生じます。一方で利益(保護)を受けるならば、もう一方では羈束(義務)を負うというのが自然の道理です。
そうであるならば、法律上外国人と自国民を区別する必要はありません。「外国人だから法律を守らせる必要はない」とするならば、その国の安寧と秩序を維持することができなくなってしまうでしょう。安寧と秩序を維持することができなくなれば、その国は滅亡するでしょう。
そうならないためには、外国人であってもその国の法律を守らせなければなりません。これが、法律は土地(領域)を支配するという原則です。

この原則は自然の道理に基づくものなので、万国すべてがこれを認めています。古代ローマの時代から世に行われており、欧米の各国もすべて、自国の安寧を守るための法律を外国人にも適用してきました。
これは今日に始まったことではなく、遠い昔から行われてきたことです。
━━━━
(治外法権を論じる理由)
犯罪を罰するには、犯罪が起きた場所で行うことが必要があり、かつ正当です。なぜなら、犯罪が行われれば、多かれ少なかれその地の安寧や秩序が害されるものだからです。その土地で安寧や秩序が損なわれた以上、それを回復する権利はその土地に属します。

犯人が犯罪地を離れ、遠く数千里も離れた場所にいるような場合、その場所で罰する必要はありません。例えば、アフリカのある孤島で罪を犯した者が日本に逃れてきたとしても、日本はその犯罪によって何ら被害を受けておらず、その人物を罰する必要がありません犯罪地であるアフリカの孤島こそが、犯罪を罰する必要性を持ち、またその罰が正当であるとされるべき場所なのです。

以上の理由からは、今日、欧米諸国が東洋諸国に対して治外法権を持つことは、極めて正理に反するものであると言わざるを得ません。
しかし、さまざまな事情から、この不当な治外法権を受け入れざるを得なくなったことは、我が国をはじめとする東洋諸国にとって、深く嘆息せざるを得ない事態です。
この不正で不当な治外法権は、いずれその廃止の日が訪れるでしょう。私はそう信じています。
不正で不当な治外法権については、このくらいとし、一般的な治外法権について説明を進めます。
━━━━
(外交官の不可侵)
まず、外交官の不可侵についてです。
外交官の不可侵(アンビオラビリティ)とは、外交官が他国に駐在している場合でも、自国の法律の保護を受け、駐在国の法律の保護を受けないことを指します。
まるで自国にいるかのように、他国に滞在している間もその国の裁判を受けず、またその国に対して租税を納めないのです。

欧米の学者の間では治外法権それ自体を認めることは一致していますが、「不可侵」の権限がどの範囲に及ぶかについては議論があります。
これは万国公法(国際法)の問題です。万国公法は慣例と道理に基づくものであって、強制力を持ちません。そのため、この「不可侵」のような問題においても、具体的な範囲がいまだ確定していない部分があるのです。

外交官に対して治外法権という特例を設けるのは、各国の相互利益に基づくものです。
使臣を外国に派遣する際に、独立した立場に置かなければ、その使命を全うすることができません。
使臣の役割は、他国に駐在し、自国の主権を代表して、両国間の交際に関する諸般の応接と談判を行うものです。時には駐在国政府の意に反して、自国の意見を主張しなければならない場合もあります。
したがって、使臣を保護し、独立を維持させなければ、その使命を果たさせません。使節が駐在国の干渉や制約を受けるようなことがあれば、自国の主権を代理することは到底できません。
このような理由から、各国は互いにその使臣に治外法権を認めるに至ったのです。
━━━━
(外交官の不可侵の及ぶ範囲)
外交官の治外法権がどこまで及ぶのか、その範囲については議論があります。フランスで説かれている三つの説を簡単に説明します。

第一説は「外交官はすべて駐在国の裁判権から免除され、自国の君主と同等の待遇を受けなければならない」とするものです。
この説では、外交官がどのような行為をしたとしても、駐在国の政府はその行為に干渉せず、ただ傍観するほかありません。行為を黙認することができない場合に、最終的に取れる対応は、その外交官を国外に退去させるだけです。
しかし、この説は極端すぎます。
この説では外交官が駐在国の内部で徒党を組み、国の秩序を乱そうとしたとしても、その本国に対して処分を求めることになってしまいます。このような行為であっても放置すべきだというのは、極端としか言いようがありません。

第二説は「外交官は治外法権に属する。しかし、駐在国に対する内乱の陰謀に加担したり、兵器を扱ってその国の安寧を害する場合には、治外法権の範囲外である」というものです。
これは第一説に例外を加えたものといえます。駐在国に対する内乱の陰謀やその国に対する兵器の使用といった行為については、外交官の特権を放棄したとみなし、その者を外交官として扱わず、外寇(外部からの侵略)とみるべきだとする考えです。
外交官が駐在国に対して罪を犯した場合には、その国は正当防衛権を行使して国の安寧を守ることができる、ともいえます。

第三説は、前の二つの説とは趣旨を異にします。国家に対する犯罪だけでなく、殺人、放火、強姦等にかかる現行犯の場合には、治外法権として扱わないとする説です。こうした場合には外交官としての資格を失ったものとみなし、通常の外国人と同じように扱うべきだという考え方です。

私は第三説が最も正当であると信じています。たとえ外交官であっても、人を殺し、あるいは強姦というような暴行を行う場合には、それは国家の安寧を損なうものであり、ただちに逮捕して処罰するのは当然です。
しかし、この説にも弱点があります。処罰をどこまで及ぼすべきか、その範囲を定めるのが極めて難しいからです。
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(外交官の治外法権の及ぶ人的範囲)
外交官とは特派全権大使、全権大使、全権公使、弁理公使など、国の政府を代表するすべての使節を総称したものです。これらの者はすべて治外法権に属し、特別な待遇を受けるべきです。

公使館附書記官や外交官の家族、その使用人や従者も治外法権の特例の対象とすべきです。その理由は、たとえ外交官に特例があったとしても、その付属者に特例の適用がなければ、外交官自身が独立性を保つことができなくなるからです。
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(外交官の使用人について)
以上が、使用人に至るまで治外法権の特例を及ぼすべき理由ですが、使用人が内国人(国内の人間)であるか外国人であるかによって、区別する必要があります。

使用人が内国人(国内の人間)である場合には、その国の裁判権が及ぶべきであることは当然です。外国の公使に雇われているという理由だけで治外法権が与えられる道理はないからです。もっとも、内国人の使用人を処分する場合には、必ず公使の同意を得る必要があります。これは一般的な慣例です。

使用人が外国人である場合には、その国の裁判権を適用しないのが慣例です。
もっとも、外国人であってもその国の裁判権を適用すべきだとする見解もあります。この説では、使用人が殺人、放火、強姦などの重大な罪を犯した場合、公使はこれを黙認することはできず、処分を受けさせるために、その使用人を本国に送還する手続きを行わなければならなくなりますが、使用人を本国へ送還するには費用がかかり、逃亡などの懸念もあるため、むしろ駐在国の裁判所に処理を委ねるほうがよいとも説かれています。
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(領事について)
領事は公使と同じように扱うべきでしょうか。この問題に関してはさまざまな議論があり、いまだ結論は定まっていません。

著名なファースターンエリー氏は、「領事は外国に滞在する自国民やその商業活動を保護する役割を持つ者であり、公使のように自国を代表する者とは大きく異なる。したがって、裁判における扱いも異なるべきである。たとえば、軽罪を犯した場合に直ちに逮捕や未決勾留を行うべきではないが、重罪を犯した場合には、一般の人々と同様に処分すべきだ」と説いています。

「領事は重大な犯罪を犯した場合を除いて、すべて公使と同等の待遇を受けるべきである」との説もあります。この説は、1814年にフランス外務省が「領事は重大な犯罪を除き、公使と同等の待遇を受けるべきである」と通達したことを根拠としています。

外国公使に関する事項については、日本にも規程があります。明治7年9月の第128号公達第1条には「外国公使は我が国憲に拘束されるべきではないのが原則であり、この原則を拡張し、公使の家族および公使館職員、その家族、さらには車馬に至るまで同様と考えられるべきである」と規定されています。
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(内海および港内における犯罪〜内海の意味)
以上、外交官の不可侵について述べました。次いで、内海および港内における犯罪について説明を進めます。

内海とは、陸地と同じく領土の一部を構成するものであり、これには二つの種類があります。

一つは、陸地から弾丸が届く最遠距離に至る海岸線であり、もう一つは通常の内海です。この二種類の内海はいずれも国家の所有権が及ぶ範囲とされます。内海および港内は、十分に取締りを行うことが可能であり、必要に応じてこれを閉鎖したり、砲台を築いたり、軍艦を配置して守ることができます。

しかしながら、これを領土とするためには、取締りできる実力を有することを要します。万国公法では「封鎖がもし実力を伴わないときは、効力を持たない」といわれており、実力が必要であることを指摘しています。

かつてあるロシア人が、「横浜港には十分にこれを取り締まるための兵備、すなわち実力が備わっていない。したがって、この港は日本の領土外と言うべきである」といったということです。この発言の妥当性については、ここでは論じませんが、このことからも、取り締まりの実力が必要であることを知るべきです。

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(大洋の中で犯罪が発生した場合)
大洋の中で犯罪が発生した場合は、すべて船舶の所属国の法律によってこれを処理するのが原則です。例えば、フランスの便船に乗り、大平洋を航行中に、船内で犯罪を犯した者がいた場合、その者はフランスの法律に基づいて処罰されることになります。
もっとも、船内での犯罪に関しては、各国がほぼ例外なく別個の法律によってその処罰方法を定めているようです。
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(内海での犯罪が発生した場合)
内海で犯罪が発生した場合はどうなるのでしょうか。フランスの法律では、フランス港内に停泊している外国商船内で起きた犯罪を処理する際、次のように処理されます。

犯罪が港内の安寧を害さない限り、その処理は船内の規律に委ねられ、フランスの法律を適用しません。例えば、マルセイユ港内に停泊しているイギリス船の中で暴行等の犯罪が起きた場合でも、フランスの司法官はこれに干渉することはありません。船内においては船長が司法権を有していますし、その港にイギリス領事がいれば、その領事がこれらの問題の処理を行うことになっているからです。

しかしながら、重大な犯罪であり、かつ港内の安寧を害する場合は、フランスの法律が適用されます。
もっとも、その裁判権がどこまで及ぶべきかについては明確な規定がなく、港内の安寧を害する程度の大小によってどちらの国の法律を適用するかが判断されます。
要するに、港内での犯罪は基本的にその国の法律によって処理されるべきですが、些細な事件については干渉しない、ということです。
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(軍艦の犯罪)
軍艦は商船とは異なり、その所属国の法律の適用を受けるものであって、外国の法律を適用すべきものではありまそん。軍艦というものは、その本国の国権の一部であり、艦内には官署が備えられています。
軍艦にその停泊地の法律を適用すべきとすれば、他国の主権を支配するという結果を生じてしまいます。これは国家間の主権の原則に反します。
このように、軍艦は完全に治外法権の対象とされていますが、しかし、軍艦による暴力的な行為があった場合には、処分をしないわけにはいきません。
検疫規則を破って航行した場合がその例としてあげられるでしょう。その外にも、軍艦が敵対的な行動を取る場合には、こちらもそれに対抗すべきことは当然のこととされています。
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(軍艦の乗組員の犯罪)
軍艦内で外国人が罪を犯した場合、軍艦の所属国の法律が適用されて処分が行われます。これが軍艦と商船との大きな違いです。
もっとも、その乗組員が上陸してから罪を犯した場合には、その土地の法律によって処罰されるべきであることは言うまでもありません。
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(外国軍旗の下にある兵士の犯罪)
外国軍旗の下にある兵士の犯罪については、軍艦が治外法権を有する理由とほぼ同じですので、繰り返しません。
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(終わりに)
以上で治外法権についての説明を終えます。
次回は「不問令」について説明を行います。

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