南斗屋のブログ

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明治時代、弁護士は代言人と言われておりました

2018年04月16日 | 歴史を振り返る
明治150年なんて言われているので、明治時代のことを考える機会が多くなりました。そういえば、弁護士という名称も明治時代からだよなと思って調べてみたら、1893(明治26)年からで、この年に「弁護士法」が制定されたことによります。

では、それ以前はというと、弁護士は「代言人」(だいげんにん)と呼ばれていました。代言人という制度ができたのは、1872年(明治5年)8月3日「司法職務定制」によってです。代言人時代は1872年か1893年の21年間に過ぎません。

1893年以降、弁護士という言葉が定着したかというと、そんなこともなかったようです。代言という言葉の方が一般的には慣れ親しんだものであったようで、夏目漱石の「吾輩は猫である」には、弁護士を指す言葉として「代言」が使われています。

「吾輩は猫である」は「ホトトギス」の1905年(明治38年)1月号にその第一話が掲載されています。1893年の弁護士法から12年が経っていますし、知識人の漱石が弁護士という名称を知らなかったとは考えにくいので、代言の方が定着していたんでしょう。

因みに、この「代言」が住んでいるのは苦沙弥先生の隣家。三毛という猫を飼っています。この三毛がいうことが奮っていて、今でも通じる弁護士批判になっています。

三毛曰く「人間というのはちっとも所有権が分かっていない。猫の世界では目刺しの頭なぞは先に見つけたものがこれを食べられることになっているのに、人間はそんな観念がないものと見えて、猫から食べ物を掠奪する」と、代言(弁護士)は所有権というものが分かっておらんと憤っています。

「吾輩は猫である」で代言がでてくるのはここだけのようです。三毛の物語と絡めて後に展開してほしかったところなのですが、残念ながら代言人は第一話でこんな形でしか登場してきません。

ところで、弁護士が書いたものをみると、「代言人」というのはなくすべきものであったという論調になってきます。例えば、「千葉県弁護士会史」では「司法職務定制は代言人の資格を定めなかったため、無学・無識の代言人を多数排出させ、いわゆる『三百代言』の悪名も残している」とあります。

当初、代言人は免許制度ではなく、つまり無試験で代言人として振る舞うことができたというのは事実なのですが、それが「無学・無識の代言人を多数排出させた」というのは史料上の裏付けがあるのかなと疑問に思っています。

夏目漱石のからかい方からすると、この時点で「三百代言」というような悪名が世間一般の風潮であったようには思えないんです。そこまで悪徳だったら、隣人なのだから第二話以降で苦沙弥先生の悪口が炸裂しそうなものですが、そうはなったいないですから。

明治時代の人が、弁護士に対してどのような感情を抱いていたのかは、もっとほかの明治時代の小説にあたってみる必要があるのかなと思っています。


(写真は本文と関係ありません)
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