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安政4年閏5月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年06月26日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年閏5月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年閏5月11日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時、荒海村の善六殿が平右衛門殿からの書状を持ってきた。幡谷(成田市幡谷)の孫右衛門殿が亡くなったとのことで、一同驚いた。小生は個人的な用もあり、幡谷へ行く一同の代表として、明日十二日に帰村することとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幡谷村(成田市幡谷)の住人が亡くなったとの知らせが届きました。この情報は、隣村である荒海村の平右衛門からもたらされました。幡谷村に近しい関係にある五郎兵衛が、代表として弔問に赴くこととなりました。

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〈詳訳〉
・早朝、茂十郎殿と民之助殿が帰られた。
・縁談のことで幽学先生よりお話あり。
「身分の低い小前の者を妻に迎えることで、旧家の格式や家柄も悪くなり、子どもたちにも影響が出るのではないかと心配だ。また、妻が親を敬わなかったり、親に相談もせず勝手に物事を決めたりということも問題だが、そのことで、夫が妻を叱るのは問題が大きくなるだけだ。
・自分自身の心が正しくないと世間の人も噂をするようになる。自分のことを他人が言ってくれふのだと心得よ。
・四ツ時、荒海村の善六殿が平右衛門殿からの書状を持ってきた。幡谷(成田市幡谷)の孫右衛門殿が亡くなったとのことで、一同驚いた。小生は個人的な用もあり、幡谷へ行く一同の代表として、明日十二日に村へ戻ることとなった。
・晩に幽学先生は久しぶりに大丸へ行き、両国を回ってお戻りになった。

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安政4年閏5月12日(1857年)
#五郎兵衛の日記
〈五郎兵衛は江戸出立し不在。宜平が代筆〉
良左衛門君が出雲寺(本屋)で江戸絵図を購入。代金は五匁。幽学先生は絵図にいくつか橋が抜けている不良品と指摘され、「五匁も出してあのような物を買うとは、良左衛門にも困ったものだ」とお嘆きになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
〈五郎兵衛、帰村中〉
・五郎兵衛は昨日の日記にもあったように弔問のため本日から帰村しています。
・一番弟子ともいえる良左衛門ですが、意外と鷹揚なところがあります。かなりの金額で江戸絵図を購入しましたが、幽学先生の検分により、各所で橋が抜け落ちている不良品であることが判明しました。さすがは転売ヤーをしているだけあって、幽学先生は商品の品質を見極める目が確かですね。
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〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・早朝、五郎兵衛出立。
・五ツ半午、宜平殿が岩井町の泉屋へ迎えに行った。
・そのころ幽学大先生は境町の辺りへ出かけられた。
・同じ頃、佐左衛門殿が訪ねてきた。
・四ツ半時、幽学先生は平太郎殿とともに深川の長左衛門殿のもとへ行き、八ツ時に戻られて風呂に行った。
・又正(又左衛門と正太郎)は根津へ行き、正太郎殿は八ツ時に戻り。又左衛門殿は番町を回ったので八ツ半過に戻り。
・良左衛門君は紙を買いに出かけ、帰りに出雲寺(本屋)へ立ち寄る。江戸絵図を5匁で購入し持ち帰り、幽学先生にお目にかけたところ、各所の橋が抜け落ちているとのご指摘があった。良左衛門君はすぐに交換しに行った。
幽学先生は、「5匁も出してあのようなものを買うとは良左衛門にも困ったものだな」と仰っていた。
・四ツ時に七郎兵衛殿が傳正町へ行き、帰りに馬喰町の丸三へ立ち寄ったところ、今回は奉行所に全員の呼出しがあり、落着する(判決言渡し)のではないかと言われたとのことだった。
七ツ時に戻り。
・文平殿は早朝から外出し、一度帰宅したものの、再び出かけて忙しそうな様子である。
・久左衛門殿は午後9時過ぎに筋もみへ行き、八ツ時に戻り。

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安政4年閏5月13日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君ら四人で池上へ行こうとしたが、途中で良左衛門君が体調不良になった。品川で薬を飲んだが、痛みは治まらない。籠を勧めたが、「揺られるともっと悪くなりそうだ」といい、船で永代まで(400文)。八ツ時にようやく戻り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門君は、今日もどうにも冴えません。昨日は江戸絵図の不良品をつかまされ、今日は池上(大田区池上)へ向かう途中で体調を崩してしまいました。籠の揺れは、体調不良のときには特につらいものです。また、この記事からは、当時、品川から永代(江東区永代)まで船が出ていたことも分かります。

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〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が当面代筆〉
・五ツ時、久左衛門殿は源兵衛殿と一緒に伊草村に灸に行き、七ツ半に戻り。
・良宜七佐(良左衛門、宜平、七郎兵衛、佐左衛門)の四人で池上へ出かける予定だったが、良左衛門君が病気となり、御殿山から七郎兵衛殿と佐左衛門殿が池上へ行った。
・体調が悪くなった良左衛門君は品川で薬を飲み、茶屋で休んで、そろそろ動けるかと思ったところに、また痛みが増してきた。籠で帰ることを勧めたが、「揺られるとかえって良くない」と言い、永代まで船に乗って帰った(400文)。八ツ時にようやく戻り。
・艾左衛門殿は深川の長左衛門殿宅まで、幽学先生の着物を取りに行き、九ツ半時に戻り。
・幽学先生は、良宜七佐(良左衛門、宜平、七郎兵衛、佐左衛門)の四人が池上へ行ったのを聞いて、「源兵衛が池上へ行きたがっていたではない、誰も誘わなかったのか。もう少し気を遣ってやれ」と仰った。
また先生は、「暑さも厳しく、遠方へ出かけるのは危険だ。途中で病気になったら困るから、控えた方がよいだろう」と諭された。
・先生は村松町辺りへ出かけ、八ツ半時にお戻り。
・その後、奉行所からの御呼出しの御沙汰があり、皆が出払っていて対応に困ったが、正太郎一人でよいとのことで、訴所へ米八殿(公事宿の手代)と同行して向かった。
・奉行所では、「宜平の病状が悪化しているとのことであるが、そうであれば再度願い書きを出すように」と指示され、すぐに願書を提出した。
・皆、風呂に行ったが、文平殿は各所へ出かけていった。

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安政4年閏5月14日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・朝五ツ時、米八殿(公事宿の手代)が来た。加害者側も帰村願いを提出したが、却下されそうだとのこと。
・幽学先生は四ツ時に外出し、脇差を一本購入して八ツ時にお戻りになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
米八は公事宿の手代で、幽学一門のもとに頻繁に顔を出しています。今日は、訴訟の進行に関わる情報をもたらしてくれました。加害者側の帰村願いが却下されるのであれば、加害者に対して何らかの処罰が下される見込みがあるということです。
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〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・朝五ツ時、源兵衛殿は山口へ炭を買いに行った。宜平は金龍丸を買いに行った。
・同じ頃、佐左衛門殿、平太郎殿、米八殿が来訪。加害者側も帰村願書を提出したようだが、皆却下されそうだとのこと。
・四ツ半時、又正源七(又左衛門、正太郎、源兵衛、七郎兵衛)が本町岸へ昼食に出かけ、九ツ半に戻り。
・平太郎殿が深川へ引っ越すので、宜平は四ツ時荷物運ぶびの手伝いに行き、九ツ時に戻り。
・幽学先生は四ツ時に外出し、脇差を一本購入して八ツ時にお戻りになった。
・文平殿は昼前に一度、昼過ぎにもう一度外出した。四ツ時に戻り。
・皆で風呂に行ったが、湯屋で地元の祭りの品を無理に見せらた。
・久左衛門殿とともに回向院へ八ツ半時に行き、夕方に戻り。
・夕方、新町の重五郎が訪ねてきて、又左衛門殿のもとへ金の無心をしていった。

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安政4年閏5月15日(1857年)
#五郎兵衛の日記〈五郎兵衛筆〉
今朝六ツ時に長沼村を出発し、白井から八幡まで馬で移動。夕方、公事宿に到着すると幽学先生はお喜びになり、良左衛門と共に出迎え、荷物を持ってくれた。二階に上がり、国元の様子を報告した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が江戸に戻ってきました。これまで日記は宜平が代筆していましたが、今日から再び五郎兵衛自身が筆を執っています。
幽学先生は五郎兵衛の帰りを心待ちにしていたようで、「幽学先生はお喜び」という記事が残されているのは非常に珍しいことです。五郎兵衛も、さぞ嬉しかったことでしょう。

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〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・五ツ時、正太郎殿と七郎兵衛殿が呼び出され、訴所へ向かい四ツ時に戻り。宜平の帰村願いは認められた。加害者側の三人は帰村願いが叶わなかったとのこと。
・四ツ半過、良佐七宜四人(良左衛門、佐左衛門、七郎兵衛、宜平)で本町岸の玉の尾へ昼食に行き、九ツ時に戻り。
・幽学先生は四ツ半時に外出され、八ツ時に脇差を2本購入して帰宅。
・八ツ半時に又左衛門殿は藤元屋へ行った。
・久左衛門殿は九ツ過ぎに梅干しと砂糖を買いに出かけた。
・八ツ時宝田村の平太郎殿が訪ねてきてた。幽学先生は「高橋の家に行って、直接値段をつけてもらいたいといってくれ」と仰られた。

〈五郎兵衛筆〉
・今朝六ツ時に長沼村を出立。白井(白井市)から八幡(市川市本八幡)まで馬に乗った。夕方になって邑楽屋(公事宿)に到着したところ、幽学先生が大変喜ばれ、わざわざ下まで出迎えてくださった。良左衛門君とお二人で荷物まで持ってくださり、二階へ上がった。そこで、国元の様子を申し上げた。
その後、平太郎殿とも話し合った。
・12日の夕方に長沼(成田市長沼)に帰村し、13日に荒海(成田市荒海)へ行って平右衛門殿と打合せ。幡谷(成田市な)へ赴いて様々な打合せをした。善右衛門殿と善三郎が同行し、七ツ過に長沼に戻った。
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安政4年閏5月16日(1857年)
#五郎兵衛の日記
夜五ツ時、明日17日のいつもの刻に奉行所に出頭せよとの呼出しが来た。小網町の佐左衛門殿のもとへ行き、差添の件について打合せ。又左衛門殿と宜平殿も公事宿に集まった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からついに呼出しがありました。明日、17日に奉行所での審理が行われます。江戸での長い待機生活は、すべてこの日のためだったのです。ようやく、その時が来ました。

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〈詳訳〉
・朝、小生が国元の様子を話していると、幽学先生から、「相手が先に話すことをよく聞き、その気持ちに寄り添って話を進めると、相手も気持ちよく聞いてくれる。話も自然と受け入れてかれる。予が又左衛門と情が厚くなったのも、このことによるものだ。良左衛門は話半分になってしまう。
追従をすると、周囲の人もその流れになってしまうが、それでは皆の本来の考えや個性が失われてしまうので、十分に心得ておくべきである。
○自分に不正なことがあると、それを隠すために、他人の悪いところをあげつらい、人に言いふらす者が多い。私がなくなった後は、そのような者が増えるだろう。よく心得ておくべきである。

・五ツ半時に宝田村の善三郎殿が紋左衛門と共に来た。
・四ツ時には足川幸之助殿が来て、九ツ時に帰った。
・同じ頃、幽学先生は外出され、鋼を一つ購入してお戻りになられた。
「皆が気ままになりすぎて、礼儀も法もなく、あまりにも乱れすぎだ。外部の人が来ても、私が不在だと気が緩み、先方から預かった品物の扱いも乱雑になり、礼儀も作法も欠けた状態である。予がいなくなった後にこのような状態では、道友や家庭を導くことなどできない。
今後は、師匠と弟子の礼儀を守り、親がいる者は親への礼節を失わないよう、しっかり心得るべきである。
・夜五ツ時、明日17日のいつもの刻に奉行所に出頭せよとの呼び出しの御沙汰が来た。小網町の佐左衛門殿のもとへ行き、差添の件について打合せ。又左衛門殿と宜平殿も公事宿にしゅうごした。


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安政4年閏5月17日(1857年)
#五郎兵衛の日記
九ツ時御呼込があり、幽学先生、良左衛門君、源兵衛殿、又左衛門殿、佐左衛門殿らが差添とともに御白洲へ入った。これまで述べたことに間違いないか等と尋問された。
本日で御白州での審理は終了。幽学先生と2名以外にはは帰村許可が出た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所での審理が終了しました。長く待たされ続けた日々でしたが、審理自体はあっけなく一日で終わりました。幽学先生を含む3名を除き、他の者は帰村を許可されましたが、幽学先生は判決が出るまで、引き続き江戸での待機となります。
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〈詳訳〉
・早朝、下谷長者町の安馬源太夫殿方に宝田村の九兵衛殿を訪ね、文平の居場所を尋ねる。本所相生町二丁目の奥州屋武兵衛の宿に滞在していると聞いた。同所へ向かい、文平と善兵衛殿に差添を頼む。

五ツ半時に出立。
大原幽学先生
良左衛門君
両名の差添 源兵衛殿

又左衛門殿
差添 新右衛門殿

久左衛門殿
正太郎殿
差添 七郎兵衛殿

佐左衛門殿
差添 五郎兵衛殿、紋左衛門殿

腰掛之留主居
平太郎殿

御懸り御当役様
高木源六郎様
小笠原甫三郎様

・九ツ時御呼込があり、幽学先生、良左衛門君、源兵衛殿、又左衛門殿、佐左衛門殿、牛渡村の忠左衛門、松岸船戸村の半治、鏑木村の永助が差添とともに御白洲へ入った。
まず、「以前から話している内容はこのとおりでよいな」と仮口書の確認があった。

・良左衛門君へのお尋ね。
問:教導所は田ではない場所に建てたのか。
答:未開の地を草を刈るなどして建てました。
改心楼の周りに桜や柳を植え、石垣などを整えました。
問:それは随分な贅沢ではないのか
答:木は自然に生えたものであり、石垣も古い石を持ち寄って土留めに使っいました。
問:八石(改心楼のある場所の地名)の土地については、大まかな絵図でよいので、一筆ごとに区分して提出するように。
高松家で引き受ける旨の書面は所持しているか。
答:この書面でございます。
問:この書面の写しを提出せよ。
とのご指示があったので、書き写して訴所へ提出した。
御役人様方は初めて目にするようであり、「武家介抱となれば、立派な浪人の道を歩む者だ」と仰られた。書面は御上へ提出となった。

・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
「以前から申し立てている内容は間違いないな」との確認があり、二人は提出した始末書のとおり申し上げ、取り調べは終了となった。

○幽学先生から、「お前は口をつぐんで人の方を見ると、にらんで恨んでいるような顔つきになり、見苦しい。道を学ぶ者がそのような態度では非常に良くない。人から見られても、にこやかで、大らかでなければならない」と、何度も諭された。

・八ツ過ぎに呼び出されたのは、又左衛門殿、佐左衛門殿、正太郎殿、久左衛門殿、五郎兵衛殿、そして土浦村の佐左衛門、万才村の治右衛門、新町の重五郎及びその差添である。

・土浦村の佐左衛門の答え。
「先年、八州御三方(関東取締出役)から探索を命じられ、忠左衛門のほか二名を代理として派遣したところ、本件のようなこととなり、申し上げようがございません。」

・万才村の治右衛門は、お尋ねに対し、先年の14日夜八ツ時、金子10両を預かるよう頼まれ、それを預かっていたことは間違いありませんと答えた。
「そのほかに述べたいことはないか」との問いに対し、「特に申し上げることはございません」と答えた。

・新町村の重五郎へのお尋ねの答え。
「先年、鏑木村の仙吉のもとから改心楼へ来た者を引き取ってほしいと頼まれたので、向かいました。又左衛門から「金子三両を渡すので引き取ってほしい」と依頼されました。そこで、関係者と話し合いを行い、最終的に金子十両を差し出すことで、その者たちを引き取ることと致しました。

・正太郎殿(伊兵衛と宜平の代理としても)へのお尋ね。
問:以前から申し上げていることに間違いないか。
答:始末書のとおりであり、間違いございません。
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。

・久左衛門殿へのお尋ね。
問:傳蔵が始末書で述べたとおりで間違いないか。
答:銚子本城村で提出した始末書のとおり間違いございません。

・小生(医師元俊の代理としても)へのお尋ねへの答え。
「銚子本城村にて提出した始末書のとおりでございます」
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。
問:そのほかに述べたいことはないか。
答:一切ございません。

・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
問:その方たちも長部村の改心楼の普請を手伝い、資金を出し、石垣を積み立てるなど世話をしたのか。
又左衛門の答:私の古い土蔵の敷石と、十日市場村の伊兵衛の古い土蔵の敷石を持ち寄り、土留めとして使用しました。石垣ではございません。
問:古い石であろうと何であろうと、石を積み立てたのであるな。それについては以前から尋ねていることでありる。今さら新たに申し立てることは許されない。
その方たちは始末書に記載した内容以外に申し立てることはないのか。
答:何もございません。

奉行「農業が忙しい時期であろうから、帰村願を出せば、病人だけでなく先に村へ帰りたい者は、聞き届けられるだろう」との仰せがあった。
一同腰掛けまで下がった後、米八殿(公事宿の手代)が書面を認め、訴所へ提出したところ、幽学先生・良左衛門君・源兵衛殿以外は呼び出され、願い通りに帰村へ帰ることが許された。ただし、「日限を定めての帰村を命じるが、もし御用がある際には通知を出すので、すぐに出頭するように。これまでは病気のために日数がかかったが、担当者も変わり、来月中には何らかの沙汰に及ぶ(判決をする)はずである。
よって、呼出しがあれば直ちに出頭するように。」とのお達しであった。
七ツ時に宿へ戻った。
この旨を国元へ早急に書面で知らせたいとのことで、宝田村の善兵衛殿に頼んだ。善兵衛殿は18日早朝、大雨の中を帰路についた。

幽学先生への御尋ね。
問:その方、歳はいくつだ
先生:御答
問:出生はどこだ
先生:御当地でございます
問:御当地とはどこのことだ
先生:御答
問:両親が亡くなったのはいつか
先生:御答、
問:兄弟の事、養子のこと、養父と離別のこと、養父死去のことを御尋ね
先生:皆御答
問:その方は多くの者に慕われ、用いられているので、何か異教でもあるのかと詮索したが、書類を見たところ、まったく孝・悌・忠・信の道を教えていることに違いはないようだ。
しかし、どうにも出生がはっきりしない。もう少し確かな素性の者であればよいのだが…
先生:ヘイ
問:桜、柳を植えたことを御尋ね
先生:御答、
問:柳を植えようが桜を植えようが、それ自体が悪いというわけではない。孝・悌・忠・信の道を教え、一村の人々の気風を改め、ついには御賞美を受けるほどになっている。そうなると、大それたことではないとも言えるが、まったくそうとも言い切れないものだ。あまりにも評判が大きいので、こうして尋ねているのだ。
妻子を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:所帯を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:信州でもだいぶ重用されたそうだが、召使いを置いたことはないか。
先生:ございません。
問:心が広く、孝道を重んじ、永続する教えをよく説いている。しかし、どうにも身分がはっきりしない。高松家が正式に引き取るとはいわず、厄介であると言っているのだから、しっかりしい。他に親類はいないのか。
先生:ございません。
問:高松とは本当の兄弟か、義理を結んでの兄弟か。
先生:実の兄弟でございます。
問:何か出生について言えない事情でもあるのか。
先生:返事なし
奉行:また改めて尋ねるから、ひとまず下がれ。

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安政4年閏5月18日(1857年)
#五郎兵衛の日記
米八殿を交えて打合せ。道友一同で幽学先生の歎願を行うことを決め、大雨の中、米八殿の案内で奉行所に書面を提出。役人からは、「いずれ担当者に書付を渡しておく。帰村する者は帰りなさい」との仰せがあった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、奉行所での審理が終わり、あとは判決を待つばかりとなりました。しかし、道友たちはただ黙って待っていることができず、幽学先生の身を案じて、奉行所に嘆願書を提出する決意を固めました。大雨の中を押して、書面を奉行所まで届けに行くその姿からは、先生への深い敬愛の念が伝わってきます。
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〈詳訳〉
・今後についての打合せのため、米八殿(公事宿の手代)を迎えに行った。八石改心楼の願書の下書きを奉行所へ提出することとした。絵図面も併せて提出する。
・「幽学先生は老衰し病身であるため、一件が済んだ後は、良左衛門のいうとおり、邑楽屋にいる者たち全員で歎願を行おう」と決め、九ツ時、大雨の中、良左衛門君・源兵衛殿・正太郎・久左衛門殿・又左衛門殿・小生の六人で出発した。
米八殿の案内で、書面と絵図面を添えて改心楼の願書を提出した。
訴所の御役人からは、「何を願い出ても致し方ないかもしれないが、まずは御上へ提出するので、しばらく控えているように」と言われた。
しばらくして、米八殿が様子を伺いに行ったところ、「いずれ担当者が書付を預かることになる。帰村する者は帰りなさい」との仰せがあった。一同は七ツ時に引きあげ宿へ戻った。
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安政4年閏5月19日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生のお言葉。
「判決により、高松氏への引き取りとなったり、どのような身分となったりしても、一生武士の道を貫き通すつもりである。門人に対して何か工作したように見られてしまっては、道は成り立たない」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
審理が終わり、幽学先生は腹を括っているようです。武士としての身分が認められない判決が出る可能性もあると踏んでいるようですが、「一生武士の道を貫き通す」との覚悟です。これまで死を覚悟する言葉もありましたが、その決意は揺るぎないようです。
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〈詳訳〉
・早朝、宜平殿が帰村した。
・五ツ時、佐左衛門殿が来た。既に小網町では暇乞い(別れの挨拶)をしたとのこと。
・又左衛門殿は地頭所へ届けを出しに行き、正太郎殿、七郎兵衛殿、久左衛門殿も地頭所へ向かった。
・小生は御上屋敷へ足達様を訪ね、届けを提出し、御返翰を頂戴した。その後、蓮屋(公事宿)へ行き、暇乞いを済ませ、檜物町の永田政右衛門殿へ国元からの手紙を届けた。また、深川油堀小松町の大工・清吉の家へ行き、用事を済ませて八ツ時に帰宅。

○幽学先生から一同へのお言葉。
「判決が高松氏への引き取りとなったり、どのような身分となったりしても、一生武士の道を貫き通すつもりである。門人に対して何か工作したように見られてしまっては、道は成り立たない」

○「五郎兵衛は今回のことの事情に一番通じているから、自分が白洲で尋問された内容を書くときは、間違いがないようにせよ。」と仰られたので、同じ場にいた者にも問い合わせてよく調べ、幽学先生がお書きになられた文書を書き写しておいた。

○「長右衛門は、私が留守の間、家をしっかり守り、誠意を尽くしてくれたので、長右衛門に矢立を持って行くように」と命じられ、文治郎をに持って行かせた。

○平右衛門殿にも、「今物事の決着がつく時である。そんなときに、地金(本性)が現れてしまっては、ただの恥さらしとなり、名を汚すだけだ。そのことをよく理解した上で、江戸であったことを話すように」と仰られた。

○国元へ帰村した後は、浮ついた様子にならぬよう、いっそう慎み深く、謹んで過ごすこと。何よりも、常に先々のことを考えることが大切である。

○帰村後は、人の悪口を言わぬと心に決めること。しかし、筋道に沿って言わねばならないことは、きちんと言うべきである。ただし、相手が受け入れないようであれば、無理に言わずにおくことも大事である。

○昔から功績のある家の子孫には、気を配り、親切に世話をしなければならない。そうしなければ、道は立たないものである。

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安政4年閏5月20日(1857年)
#五郎兵衛の日記
早朝、佐左衛門殿と久左衛門殿が帰村のため出発。荒海村の惣右衛門殿を待っていたが、来ないため、四ツに出立。市川(市川市)で昼食。六ツ時白井(白井市)着、藤屋に宿泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛が帰村のため江戸を出立しました。
近くの村の者を待っていましたが、約束の刻限に来なかったので、五郎兵衛一人で出立。市川で昼食を取り、白井の藤屋まで歩を進めました。
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安政4年閏5月21日(1857年)
#五郎兵衛の日記
六ツ時白井(白井市)を出立し、大森御役所へ御返翰を差上げる。小林(印西市小林)の「ふかや」で昼食。八ツ半時帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
白井(白井市)を出発し、淀藩の役所がある大森(現在の印西市大森)で御返翰を手渡しました。その後、小林(印西市小林)で昼食を取っていますが、これは珍しいことです。江戸との往復において、五郎兵衛が小林の地名を日記に記すのは初めてのようです。

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安政4年閏5月の日記は以上です。
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安政4年閏5月上旬・大原幽学刑事裁判

2025年06月16日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年閏5月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年閏5月1日(朔)(1857年)
#五郎兵衛の日記
公事宿の手代の米八と打合せ。幽学先生は「教堂所の石は、石垣ではなく土留めと説明すべき」と念押し。すでに書面提出済だが、口書に知らないことを書かれず、身に覚えのない罪に屈しないよう覚悟せよとお話しになつまていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学と道友たちは教堂所を建築しました。城のような造りとなっていることを、奉行所から問題視されています。石垣のようにみえるが、それは土留めであるというのは苦しい主張です…。文中、「口書」とあるのは裁判の証拠として使われるもので、現代でいえば供述調書のことです。
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〈詳訳〉
・雨天で、一同宿に留まっていたが、小生は五ツ時に藤元屋へ行き、ふき紙を受け取り、佐久間町の山口で炭を買って帰った。
・四ツ時、米八殿が来られたので、幽学先生は今後の奉行所での対応を相談された。
・八石(長部村の地名)の下地の整備として、新たに堀を作ったこと、眺望をよくするために従来の通りを切り開いたこと、石垣のことについては、以前の担当の菊地大助様からも聞かれたところであるが、地頭所へ伺ったが、角石がないからそのままで問題ないと仰せだった、土留めとして積み上げたのであって、石垣ではないと申し上げるのがよい、ということになった。
・幽学先生からは次のお話しあり。
「このことに関しては既に書面を提出してあるが、口書(供述調書)にどのように記載されるか分からない。だから、一同の身に覚えのないような事実を無理に押し付けられて、罪に陥らないように覚悟をもって対応しなさい。
予がこれまで生きてきたことに比べれば、恐れるに足らないことだ。御上からであっても、身に覚えのないことを押し付けられて屈するののは己が柔弱であるからだ。そのようなことは、上への不孝ともなる。弱い心構えでは、自分自身も大いに恥をかき、生きていても生きている甲斐がないことになるのだ」。
これを聞いて道友一同、このたび決して身に覚えのない罪に陥ることとならないよう、たとえ首がちぎれようとも決して屈しないと、心を固く決めた。
・また、幽学先生からはこのようなお話しもあった。
「藤元屋は刀商をしているが、二両以上の取引をしていない。先祖代々の決まりがあるからだ。そのおかげで商売が繁盛している。
柳原通りの店々も、それぞれ決まりがある。合羽屋も合羽の代金しか取らず、欲深く儲けることはしない。そのため、いつまでも商売が繁盛していると、商売の上手な人たち皆からいわれているのだ。」

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安政4年閏5月2日(1857年)
#五郎兵衛の日記
一同で髪結いし、良左衛門君らと出かける。京橋先の「玉の井」で昼食。築地の門跡へ参詣。昨年の嵐で倒壊したため、現在は仮の建物が建っている。浜辺で鉄砲の調練(訓練)が行われており見物。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日はやることもないので、江戸見物。昼食の後、築地の門跡及び浜辺での調練の見物。昼食以外は無料です。「昨年の嵐」というのは、安政3年8月(旧暦)にあった大風災で江戸の街は暴風と高潮に襲われました。安政江戸地震の翌年のことです(五郎兵衛たちは帰村しており被災せず)。現代同様災害続きです。
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〈詳訳〉
・一同で髪結い。
・四ツ時、良左衛門君らと出かける。京橋先の「玉の井」で昼食。築地の門跡へ参詣。昨年の嵐で倒壊したため、現在は仮の建物が建っている。
・門前から浜辺へ向かうと、鉄砲の調練(訓練)が行われていた。大筒(大砲)は八丁、車に乗せられていた。一丁につき七人で担当していた。そのうち、車を扱う者が二人、火蓋を切る者(発射係)が一人、導火線を扱う者が一人であった。
・槍・鉄砲などの隊は一組40人ほどで、隊形を組み、少しも乱れることなくよくそろっていた。それが八組あり、「中之組」というのぼりを持っていて、「講武所」と書かれた印を先頭に立てていた。第一組の先頭には、上下の装束を着て、赤い帯を締めた者が1人いて、祝い槍を持ち、指示(下知)を出した。すると10人が太鼓をそれぞれ打ち鳴らし、先頭の指揮に従って最初は1組ずつ同じ場所で発砲し、次第に陣形を変えながら隊を動かし、最終的には八組が一斉に陣を組んで並びました。
先導の役人が声をかけると、4組ずつ交互に発砲し、しばらくそのようにしていました。その後、先頭の指揮に従って太鼓が鳴らされ、隊はいったん後方へ引き、また整列して出てきて、八組がそろって乱れ撃ちを行い、その轟音は非常に恐ろしいほどであった。さらにその後方の方でも発砲していたようですが、見えない場所だったので詳細は分からない。
・その後、御浜御殿の手前の浜辺へ移動し、御台場を見物。その景色は本当に素晴らしく、しばらく眺めて詠み語って過ごした。
・数寄屋河岸で湯に入り、2階に上がってしばらく休む。御城を見渡しながら詠み語らって、八ツ半時に宿に戻る。
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安政4年閏5月3日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ半時、正太郎ら四人で、築地の調練場を見物。刻限が早すぎ下稽古しか見ることができず。八ツ時に宿に戻り。
・平右衛門殿が奉行所に呼び出され、今月25日までの帰村が許可された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は今日も築地の調練場を見物。
昨日も同じ場所で調練(訓練)を見たので、他の者にも見せたいと思ったのでしょう。しかし、来るのがが早すぎて下稽古しか見ることができず。面白い場面は見ることができなかったようです。
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〈詳訳〉
・五ツ半時、正太郎ら四人で出かけ、築地の調練場を見物。刻限早すぎ下稽古しか見ることができず。八ツ時に宿に戻り。
・平太郎殿、九ツ過ぎに来られた。商談はまとまらずとのこと。
・平右衛門殿が奉行所に呼び出され、今月25日までの帰村が許可されたとのこと。
・幽学先生は四ツ時外出し、八ツ時にお戻り。
・文平が逗留。


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安政4年閏5月4日(1857年)
#五郎兵衛の日記
銭湯に行こうとしたら、十日市場村の七右衛門が飛脚として来訪。手紙には、孝八郎と幸三郎が重病、「きぬ」が急死との知らせで、一同驚き悲しむが、遠方でありどうすることもできない…。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
突然もたらされた仲間の死の知らせ。しかし、江戸で裁判のために待機している者としては、遠方のことゆえ、一同悲しむばかりでどうすることもできません。


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〈詳訳〉
・幽学先生からお話あり。
「どこかに招かれて珍しい料理が出されたとき、口にして味を確かめなければ、相手のもてなしの心を受け取ったことにはならない。しかし、珍しい食べ物だからといって、ただ美味しいと感じて多く口に運んでも、本当の味は分からないものだ。また、そのような行動をすれば、人としての品格を落とし、教養のない振る舞いとなる。これは人間として心得ておくべきことである。よく一同心得ておくべように。」
・幽学先生は佐左衛門殿に話された。
「『近思録』は、予が講釈したものだ。著述の内容と少しも違うところはないのだが、真剣に読もうとする者がいない。良祐等にはぜひ読んで聞かせてやればよい。実際に読んでみると、その意味がよく分かるものだ」
・ちょうどそのとき、米八殿(公事宿の手代)が訪ねてきた。「平右衛門殿に帰村が認められたので、宜平殿は病気ということにして、正太郎殿に代兼をお願いできないか」ということであった。
五ツ半時に、正太郎殿、差添の七郎兵衛殿が、米八殿の案内で奉行所の腰掛へ行き、書付を差し出したところ、奉行所からは、「宜平は病気であるか、それでは帰村はできまい、近々お呼び出しがあるから帰ってはならない、書付は預かるが、おって御沙汰があるまで待っておれ」といわれた。
・幽学先生は揉み療治のために外出され、八ツ時にお戻りになった。
・小生たちが風呂に行こうと外出したところ、
途中で、十日市場村の七右衛門殿が飛脚として来た。宿へ戻って、手紙をみると、孝八郎が重病で九死に一生を得るような状態、「きぬ」が27日の夕方に急病で亡くなり、幸三郎も重病であるとの知らせであった。一同は驚き悲しんだが、遠方のことゆえ、どうすることもできないと諦めるしかない。
・幽学先生も大変心配されたが、「いずれにせよ、どうにもならないことだ。今ここで心配しても無駄なことだ。それよりも、皆が動揺して本来の務めを果たせなくなるのが問題だ」と述べられた。
・七右衛門殿は宿泊。文平は引き続き逗留。宜平殿は浅草黒船町へ買いものに行った。

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安政4年閏5月5日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門が来て、奉行所から帰村許可が出たと報告に来た。全員が呼出されたのに、取調べなしで平右衛門だけ帰村が許されたことを皆不思議がった。幽学先生は「この裁判は長引く。軽く見ることはできぬ」と冷静に話された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
平右衛門だけが帰村してよいこととなりました。平右衛門は荒海村(成田市荒海)の村人で、同村は田安家が領有していることと関係があるのかもしれません。田安家は何とか農民側に有利となるように、これまで動いています。

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〈詳訳〉
・幽学先生が外出前お話しになった。
「手習いをするなら、まず一字をしっかりと習へ。筆の使い方が身につけば、それによって上達する。筆の使い方を覚えなければ、どれだけ練習しても同じで上達しない」
・幽学先生は一昨日に境町の刀屋で金子(お金)を落としたとのことで、刀屋に聞きに出かけられたところ、金子はちゃんと取っておかれており、店の者がすぐに「一昨日、お忘れ物がございました」と申し出た。その正直な対応に大変感心された。
・幽学先生はお礼として、どの程度の品を持参すべきか一同に聞いたので、一分ほどでよいのではないでしょうかと申し上げた。幽学先生は金平糖を一分分持っていかれたが、先方では「どうかお気遣いなく」と固辞された。何度も勧めて、ようやく受け取ってくれた。その後、ご馳走になり、宿にお戻りになった。
・平右衛門殿は昨日、御代官様へ帰村の許可が奉行所から出たことを皆に報告した。
「差紙(呼出状)により呼び出されたのに、一切の取調べもなく、多くの者のうち、たった一人だけ帰村が許されたのは、どうにも訳が分からない」と皆が不思議に思った。
幽学先生は、「何にせよ、この裁判の一件は長引くだろう。そう考えがなければ、判断を誤ることになる」と諭された。
また、「飯野様を予も二度訪ねたが、二度とも留守で話し合いができなかった。明日も行こうと思っているが、会えてもそう急に良くなるということにもならないだろう。」とも仰せになった。
・平右衛門殿が、「私の分家である節五郎や孫右衛門の件についても、近日中に用事があり、出府(江戸に出る)する予定があります。私が帰村すると、行き違いになるかもしれないので、恐れ入りますが、節五郎が出府する際にはご指示をいただきたい」と申し上ると、幽学先生は、「それは孫右衛門の倅のことだから、特に気にすることはない。それならば、節五郎を出府させるようにすればよい」と仰せになった。
・昼から平右衛門殿は、田安家の磯部様のところに行き、暇乞いをした。
・昼過ぎ、大先生は薬研堀方面へ、もみ療治(マッサージ治療)に出かけられた。
・久左衛門殿が昼前に来た。平太郎殿が来て、しばらく話をした後に帰った。
・佐左衛門殿、久左衛門殿、文平は五色(五色湯)へ行き、昼食をとった後、湯に入った。良左衛門、又左衛門、宜平、小生も湯に入った。


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安政4年閏5月6日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、平右衛門殿が帰村の挨拶に来た。幽学先生は、「旧家の家格を損なわぬようにせよ、身分不相応なものが身につくと、良いものが欲しくなる。実に贅沢の極みだ。家格維持さえ考えていれば、身代は保つことができるはずだ」
と諭された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
平右衛門は本日江戸出立。幽学先生や道友らに帰村の挨拶に来ています。幽学先生は、平右衛門の贅沢癖を問題としていましたので(嘉永7年2月3日条)、説教しないではいられないようです。
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〈詳訳〉
・五ツ半時、平右衛門殿が帰村の挨拶に来た。
幽学先生は次のようにお話しになった。
「国元へ帰ったら、旧家の家格を損なうようなことをしないように気をつけよ。予はそれが心配なのだ。
以前は七十歳になる老人に頼まれて、そのために盆の時にも馳走したり庭の掃除や草むしりまでして、お前に不都合なことはさせまいと骨を折ったが、今となってはどうしようもない。
身分不相応なものが身につくと、良いものが欲しくなり、実に贅沢の極みだ。
正太郎、良祐、平右衛門はいずれも旧家で、金に困らない者たちであるから、このことに気をつけよ。旧家の家格を保つことだけを考えていれば、それで身代は保つことができるものだ。ただ目先の自分のことばかり考えて、『これは得だ』『これは損だ』と言うことばかりだと、この先は困つまたことばかりだ。
息子は長部村の八石(幽学の拠点)に来るが、親は何でもしてよいということではいけない。
息子が自分だけは責務を全うしようという意気込みで村に帰っても、お前が無理やり引きずり下ろしてしまうのではどうにもならないことだ。」
「文平のことも心配だが、今となっては人の本質は変わらぬものだ」
・幽学先生は久左衛門殿とともに米沢町へ揉み療治にお出かけになった。
・良(良左衛門)、宜(宜平)、佐(佐左衛門)、小生の計四人で浅草へ参詣にいく。植木市を一通り見て昼食を取り、馬喰町の桜井の湯に入り、八ツ時頃に宿へ戻った。文平は逗留。

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安政4年閏5月7日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ時、幽学先生は遠方へお出かけになられた。
・四ツ半頃、又左衛門ら五人が両国回向院の方に出かけていき八ツ時に宿に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸に呼出された幽学一門ですが、平右衛門以外の帰村申請が却下されたため、江戸に逗留を続けます。公事宿には誰かが待機していればよく、今日は五郎兵衛か待機番だったようで、五郎兵衛の外出の記事はありません。
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〈詳訳〉
・五ツ時、幽学先生は遠方へお出かけになられた。
・四ツ半頃、又左衛門ら五人が両国回向院の方に出かけていき八ツ時に宿に戻った。
・おけい殿がやってきて、「長左衛門殿が少し病気で寝てます」と話していた。
・良左衛門君がおけい殿に商売の話を聞いたところ、「下谷方面へは昨日五両を持って出かけ、今後の必要に応じてさらに貸していただける見込みがあります。三河町の方々にもご心配いただいていたが、二日に手紙が届き、晩には長左衛門殿が来訪し、いろいろと困難な状況を語られた。いずれ家も売却して、買い手との交渉も進める予定で、五七日ほどお待ちなさいとのことですが、これはあまり当てにならないでしょう。
長左衛門の考えでは、調練場の普請にあたって人手を大幅に増やし、今では三千人で工事を進めているとのこと。来年一年間かかる見込みで、作業に当たっています。ずいぶん儲かりそうだというのが皆の話です。
平太郎様を一旦外してしまうのも気の毒ではございますが、一つにして頂ければ誠に都合もよろしゅうございます。いずれ幽学先生も御帰りに相成りますれば、その旨を相談致しましょう。平太郎さんに損をさせては済まないと思い金子を持参致しましたが、留守でいらっしゃいますので、お預かりになってお渡し下さいますよう。」
と、金子を置いて帰ろうとするので、無理やり渡して帰ってもらった。
・平太郎殿が来た。
・幽学先生が宿にお戻りになり、又左衛門殿へへ何かのお商売をされた褒美に、お持ちになっていた巾着を譲り、ご自分は新しいものをお求めになられた。
・幽学先生に、おけい殿の話しをご報告したところ、普請場の商売はご心配に思われ、明日でも行ってよく打合せるようにとの仰せであった。
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安政4年閏5月8日(1857年)
#五郎兵衛の日記
小生と良左衛門君含め五人で、五ツ時に出発。上野池之端、谷中や日暮里、飛鳥山などを巡って景色を楽しみ、王子で昼食と稲荷神社参詣、滝川や不動尊、染井の植木市を見物し、神田の銭湯に入って八つ半時に宿へ戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日、五郎兵衛は仲間と共に王子・飛鳥山方面へ出かけました。節約を心がけているため、ほとんどお金をかけず、景色を楽しめる場所を巡っているようです。

━━━
〈詳訳〉
・五ツ時、良左衛門君ら四人と小生で、上野池之端、谷中を通って、日暮里の景色を見物した。その後、飛鳥山で休憩し、王子で昼食をとり、稲荷神社に参詣。滝川を一見。涼しげで景色の良い場所である。坂を登って不動尊を参詣。染井を廻り、植木市を見物した後、本郷通りを通り、神田の湯(銭湯)に入り、八つ半時に宿に戻った。
・長部の安左衛門殿と諸徳寺村の民之助殿が来訪され、孝八郎殿は重態から全快されたので、ご心配なくとの知らせ。
・長部村、諸徳寺村、十日市場村、米込村から手紙が届いた。幽学先生は七ツ時に戻られ、手紙を読まれた。「ようやく自分の考えを分かってもらったようだが、十日市場村の若者からの書状は、予の考えを分かっていない。」と仰った。
・伊兵衛の父からの書状については、「親父(伊兵衛父父はあまり朝早く起きすぎるのは良くない。年寄りは年寄りらしく努めなければ、周りの人々から疎まれるようになるし、また病人が多く出てしまう。十分気をつけるように」と、茂十郎殿から伊兵衛父に伝えるようにと仰られた。
・幽学先生のお話し。
「皆の本音は、どうも予を疎むような雰囲気である。その中で、又左衛門、宜平、佐左衛門、五郎兵衛、それと良左衛門は本当に、言うべきことがあっても言いづらそうにしている。無理に言えば、顔を合わせづらくなり、非常に困る。
この一件で間違った事実を無理に押し付けられるようなことがあった場合は、気を奮い立たせて対応しなければ、どうにもならなくなってしまう。それでは大変なことになるぞ」等とさまざまなお話をされた。

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安政4年閏5月9日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・良(良左衛門)、佐(佐左衛門)、宜(宜平)、小生の四人で集まり、自分たちの行き届かない点について話し合った。今後は道友に対しても、幽学先生に対しても腹を割って話そうと決めた。
・夜には、一同で弁慶橋通りの夜市に出かけた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛を含め、江戸にいる大原幽学一門は、皆ある程度の年齢に達していますが、自らの立ち居振る舞いについて改善に努めています。組織的でも継続的でもありませんし、幽学先生からたびたび叱責を受けることもありますが、それでも何度でも反省し続けるのが、彼らの特徴といえるでしょう。
━━━
〈詳訳〉
・朝、茂十郎殿と国元の話をしているときに、幽学先生がお話しになった。
「会合の際に最初に杯を取る者は、一同に気を配って、その場にいる人々の腹に入れさせたいと思う事を、人を使って語らせべきである。一人がよく呑み込んでいれば、自然と一同の腹に落ちるものだ。自分の思い通りに話すのは心得違いと言うものであって、五郎兵衛などはよく心得ておくべきことである。」
・「又左衛門は、腹を立てることもあり、気ままに振る舞うこともあるが、根底には親を安心させ、苦労をかけまいとする心がある。そのため、「このままではいけないな」と思うことがあっても、どうしても憎みきれず、つい見過ごしてしまう。誠に親孝行の心は尊ぶべきものであり、こうした心根を持つ者は大切にすべきである。」
・「予が日々勤め励む姿を見ている者は多いだろう。本当はもっと寝ていたいのを我慢して早く起きるのである。
話を始めると、側にいた者たちが脇の座敷へ行って寝てしまうようなこともあるが、そのままにしている。予が毎日外出するのも、いないほうが皆が気楽であろうと思ってのことだ。
・先に立つ者は、どこまでも責任を持って勤め続けなければならない。道友内では自分以外の者を主人のように思い、家の中でも自分以外の者を主人と思って励まなければ、物事を正しく治め、成し遂げることはできないものである。
・四ツ時に、茂十郎殿、民之助殿、その他三名と共に、丸の内から麹町へ調練(軍事訓練)を見物しに出かけた。
・幽学先生は薬種を買いに出かけ、八ツ時に帰宅された。
・良(良左衛門)、佐(佐左衛門)、宜(宜平)、小生の四人で集まり、自分たちの行き届かない点について話し合った。今後は道友の間でも、幽学先生にも腹を割って話そうと決めた。
・夜には、一同で弁慶橋通りの夜市に出かけた。

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安政4年閏5月10日(1857年)
#五郎兵衛の日記
六人で神田明神や加賀様の御屋敷を見物。大雨に降られてうどん屋で雨宿り。天候回復後、湯島天神・上野・浅草観音を参詣し、奥山の植木市を見物。五色で昼食を取り、両国の回向院も訪れ、八つ時に宿へ戻った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛たちは今日は江戸見物へ出かけています。神田明神、湯島天神、上野、浅草観音、両国の回向院などは現代の観光ルートと大きくは変わりません。「加賀様の御屋敷」は加賀藩邸のことで、現在の東京大学本郷キャンパスです。
屋敷内には立ち入ることができなかったと思われるため、外周を巡って楽しんだのでしょう。


━━━
〈詳訳〉
茂十郎殿と民之助殿と共に、良(良左衛門)、宜(宜平)、佐(佐左衛門)、小生の計六人で、神田明神、本郷の加賀様御屋敷を見物。
途中で大雨となり、うどん屋で雨宿り。天気が回復したの後、湯島天神、上野、浅草観音を参詣。奥山で植木市を見物し、帰りには五色で昼食。両国の回向院に参詣・見物し、八つ時に宿に戻り、湯に入った。

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大原幽学の刑事裁判の最後の審理

2025年06月15日 | 大原幽学の刑事裁判
大原幽学の刑事裁判の最後の審理
安政4年閏5月17日(1857年)
幽学の弟子である五郎兵衛の日記。

・早朝、下谷長者町の安馬源太夫殿方に宝田村の九兵衛殿を訪ね、文平の居場所を尋ねる。本所相生町二丁目の奥州屋武兵衛の宿に滞在していると聞いた。同所へ向かい、文平と善兵衛殿に差添を頼む。

五ツ半時に出立。
大原幽学先生
良左衛門君
両名の差添 源兵衛殿

又左衛門殿
差添 新右衛門殿

久左衛門殿
正太郎殿
差添 七郎兵衛殿

佐左衛門殿
差添 五郎兵衛殿、紋左衛門殿

腰掛之留主居
平太郎殿

御懸り御当役様
高木源六郎様
小笠原甫三郎様

・九ツ時御呼込があり、幽学先生、良左衛門君、源兵衛殿、又左衛門殿、佐左衛門殿、牛渡村の忠左衛門、松岸船戸村の半治、鏑木村の永助が差添とともに御白洲へ入った。
まず、「以前から話している内容はこのとおりでよいな」と仮口書の確認があった。

・良左衛門君へのお尋ね。
問:教導所は田ではない場所に建てたのか。
答:未開の地を草を刈るなどして建てました。
改心楼の周りに桜や柳を植え、石垣などを整えました。
問:それは随分な贅沢ではないのか
答:木は自然に生えたものであり、石垣も古い石を持ち寄って土留めに使っいました。
問:八石(改心楼のある場所の地名)の土地については、大まかな絵図でよいので、一筆ごとに区分して提出するように。
高松家で引き受ける旨の書面は所持しているか。
答:この書面でございます。
問:この書面の写しを提出せよ。
とのご指示があったので、書き写して訴所へ提出した。
御役人様方は初めて目にするようであり、「武家介抱となれば、立派な浪人の道を歩む者だ」と仰られた。書面は御上へ提出となった。

・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
「以前から申し立てている内容は間違いないな」との確認があり、二人は提出した始末書のとおり申し上げ、取り調べは終了となった。

○幽学先生から、「お前は口をつぐんで人の方を見ると、にらんで恨んでいるような顔つきになり、見苦しい。道を学ぶ者がそのような態度では非常に良くない。人から見られても、にこやかで、大らかでなければならない」と、何度も諭された。

・八ツ過ぎに呼び出されたのは、又左衛門殿、佐左衛門殿、正太郎殿、久左衛門殿、五郎兵衛殿、そして土浦村の佐左衛門、万才村の治右衛門、新町の重五郎及びその差添である。

・土浦村の佐左衛門の答え。
「先年、八州御三方(関東取締出役)から探索を命じられ、忠左衛門のほか二名を代理として派遣したところ、本件のようなこととなり、申し上げようがございません。」

・万才村の治右衛門は、お尋ねに対し、先年の14日夜八ツ時、金子10両を預かるよう頼まれ、それを預かっていたことは間違いありませんと答えた。
「そのほかに述べたいことはないか」との問いに対し、「特に申し上げることはございません」と答えた。

・新町村の重五郎へのお尋ねの答え。
「先年、鏑木村の仙吉のもとから改心楼へ来た者を引き取ってほしいと頼まれたので、向かいました。又左衛門から「金子三両を渡すので引き取ってほしい」と依頼されました。そこで、関係者と話し合いを行い、最終的に金子十両を差し出すことで、その者たちを引き取ることと致しました。

・正太郎殿(伊兵衛と宜平の代理としても)へのお尋ね。
問:以前から申し上げていることに間違いないか。
答:始末書のとおりであり、間違いございません。
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。

・久左衛門殿へのお尋ね。
問:傳蔵が始末書で述べたとおりで間違いないか。
答:銚子本城村で提出した始末書のとおり間違いございません。

・小生(医師元俊の代理としても)へのお尋ねへの答え。
「銚子本城村にて提出した始末書のとおりでございます」
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。
問:そのほかに述べたいことはないか。
答:一切ございません。

・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
問:その方たちも長部村の改心楼の普請を手伝い、資金を出し、石垣を積み立てるなど世話をしたのか。
又左衛門の答:私の古い土蔵の敷石と、十日市場村の伊兵衛の古い土蔵の敷石を持ち寄り、土留めとして使用しました。石垣ではございません。
問:古い石であろうと何であろうと、石を積み立てたのであるな。それについては以前から尋ねていることでありる。今さら新たに申し立てることは許されない。
その方たちは始末書に記載した内容以外に申し立てることはないのか。
答:何もございません。

奉行「農業が忙しい時期であろうから、帰村願を出せば、病人だけでなく先に村へ帰りたい者は、聞き届けられるだろう」との仰せがあった。
一同腰掛けまで下がった後、米八殿(公事宿の手代)が書面を認め、訴所へ提出したところ、幽学先生・良左衛門君・源兵衛殿以外は呼び出され、願い通りに帰村へ帰ることが許された。ただし、「日限を定めての帰村を命じるが、もし御用がある際には通知を出すので、すぐに出頭するように。これまでは病気のために日数がかかったが、担当者も変わり、来月中には何らかの沙汰に及ぶ(判決をする)はずである。
よって、呼出しがあれば直ちに出頭するように。」とのお達しであった。
七ツ時に宿へ戻った。
この旨を国元へ早急に書面で知らせたいとのことで、宝田村の善兵衛殿に頼んだ。善兵衛殿は18日早朝、大雨の中を帰路についた。

幽学先生への御尋ね。
問:その方、歳はいくつだ
先生:御答
問:出生はどこだ
先生:御当地でございます
問:御当地とはどこのことだ
先生:御答
問:両親が亡くなったのはいつか
先生:御答、
問:兄弟の事、養子のこと、養父と離別のこと、養父死去のことを御尋ね
先生:皆御答
問:その方は多くの者に慕われ、用いられているので、何か異教でもあるのかと詮索したが、書類を見たところ、まったく孝・悌・忠・信の道を教えていることに違いはないようだ。
しかし、どうにも出生がはっきりしない。もう少し確かな素性の者であればよいのだが…
先生:ヘイ
問:桜、柳を植えたことを御尋ね
先生:御答、
問:柳を植えようが桜を植えようが、それ自体が悪いというわけではない。孝・悌・忠・信の道を教え、一村の人々の気風を改め、ついには御賞美を受けるほどになっている。そうなると、大それたことではないとも言えるが、まったくそうとも言い切れないものだ。あまりにも評判が大きいので、こうして尋ねているのだ。
妻子を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:所帯を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:信州でもだいぶ重用されたそうだが、召使いを置いたことはないか。
先生:ございません。
問:心が広く、孝道を重んじ、永続する教えをよく説いている。しかし、どうにも身分がはっきりしない。高松家が正式に引き取るとはいわず、厄介であると言っているのだから、しっかりしい。他に親類はいないのか。
先生:ございません。
問:高松とは本当の兄弟か、義理を結んでの兄弟か。
先生:実の兄弟でございます。
問:何か出生について言えない事情でもあるのか。
先生:返事なし
奉行:また改めて尋ねるから、ひとまず下がれ。


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安政4年5月下旬・大原幽学刑事裁判

2025年06月05日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年5月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年5月21日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が来た。田安の御代官様の話しでは、訴訟所では「これは厄介な案件である」との評判とのこと。御代官様からは帰村を勧められたとのことだが、道友一同で協議し、このタイミングでの帰村願いは御上を軽んじることになるとして提出しないこととした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
平右衛門は田安家の領有する村(荒海村)の百姓なので、同家代官とパイプがあります。田安家はこの訴訟に裏から介入しており、何とか百姓サイドに有利となるようにとアドバイスをしてくれています。

━━━
〈詳訳〉
・五つ半時、久左衛門殿が差添の平太郎殿と共に訴訟所へ出向いたが、既に傳蔵殿から聴取したとのこと、九つ時に戻り。
・平右衛門殿が九つ半時に来る。「訴訟所では、「この件は厄介な案件なので、すぐに決着がつくかどうかわからない」と言っているとのこと。昨日、蓮屋からそういう手紙が来ていた。御代官様からは「一度、村に戻って様子を見た方がよいのではないか」とお話しがあったので打合せにに来た」
・一同で打合せ、「今回、帰村の許可を願い出るのは宜しくないだろう。2年前に帰村が許可され、先月御差紙が来て江戸に呼び出されたのだ。今回帰村願いを出しては、御上をないがしろにすることにもなってしまうだろう。」と決め、帰村願いは出さないこととした。
・又左衛門殿は地頭所へ刀鍔を売りに行き、七つ時に戻り。

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安政4年5月22日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良宜七(良左衛門、宜平、七郎兵衛)と小生の四人で、芝の増上寺、泉岳寺、五寺如来を巡り、御台場経由で御殿山に登り海を眺めた。帰りは裏通りや赤羽橋、新橋通り等を経由し、三河町へ向かい暮方に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も物見遊山。「五寺如来」とあるのは、「五智如来」の誤りでしょうか。五智如来像が安置されていた如来寺で、当時は高輪にあり、「高輪の大仏」として知られていました(明治時代に大井に移転)。

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〈詳訳〉
・四ツ時に長左衛門殿と平太郎殿が来て、三河町の家の購入の打合せに行った。
・良宜七(良左衛門、宜平、七郎兵衛)と小生の四人で、芝の増上寺から泉岳寺、五寺如来を巡り、御台場を経て御殿山に登った。しばらく休んで海を眺めた。帰りは裏通りを通り、赤羽橋から芝切通し、愛宕下を抜け、虎ノ門下の新橋通り、西丸下を経て神田橋へ出て、三河町へ向かった。暮方に戻り。

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安政4年5月23日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時に長左衛門殿が来た。平太郎殿と共に三河町の売家を20両で購入。手付金を支払い、残金は月末までに支払うことを約束した。翌日からの改修工事に向けて打合せを行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学の道友たちは借家を探していたのですが、交渉しているうちに家を買ってしまおうという気になり、ついに売買契約をしてしまいました。江戸の住人の長左衛門の名前で買うようですが、そんなにお金があるのでしょうか…。

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〈詳訳〉
・五ツ時、又正久源善(又左衛門、正太郎、久左衛門、源兵衛、善右衛門)の五人が高輪から御殿山へ行き、御台場を見物した。折良く大筒数十丁を撃つの見ることができた。八ツ時戻り。
・四ツ時、長左衛門殿が来て、平太郎殿と二人で三河町の売家へ行き、20両で購入。手付金を渡し、残金は月末までに支払う約束をした。明日からの改修工事の打合せをした。
・幽学先生は四ツ過ぎに外出され、八ツ時に戻られた。

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安政4年5月24日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平太郎殿が来訪し、長左衛門殿の資金不足により家の残金支払いを来月14日まで延期することを決定。必要な普請費用は35両で、資金が用意できれば工事開始、できなければ中止と決まった。平太郎殿が長左衛門殿に伝える予定。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
家は昨日売買契約をし、残金は月末払いと約束したばかりですが、早くも資金不足が露呈。一日でこのような状態になるとは、かなり無理な計画だったと言わざるを得ず、先行きが危ぶまれます。

━━━
〈詳訳〉
・五ツ半時、平太郎殿が来る。長左衛門殿が家の購入代金残額の金策ができないため、残金支払いは来月14日まで延ばすことになった。そのことで打合せ。
・家の普請等必要な費用を計算したところ、35両必要である、その金額が用意できればすぐに普請を始めるべきだが、用意できなければ普請は止めざるを得ないと決まった。長左衛門殿には平太郎殿が話す予定。
・四ツ時良佐宜七(良左衛門、佐左衛門、宜平、七郎兵衛)と小生の五人で出かける。浅草から東橋を渡り、三囲稲荷を参詣。牛御前、白髪明神、木母寺へ向かい、梅若塚を参詣。昼食後、千住から浅草へ行き、八ツ時に戻り。

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安政4年5月25日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が来訪。昨日、帰村を願い出たが、「今日は係の役人が不在のため書類は預かる、追って沙汰するまで宿(公事宿)にいるように。2、3日中には呼び出しがあるかもしれないが、ひとまず書類は預かっておく」と言われたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学の道友たちは今のタイミングで帰村願いは提出しないと決めたのですが(5月21日条)、平右衛門は単独で帰村願いを奉行所に提出。田安家の代官からのサジェスチョンがあったからでしょうが、道友たちの決定した方針に従わないことが明らかになっています。
━━━
〈詳訳〉
・五ツ時、平太郎殿が来る。
・又正源七善(又左衛門、正太郎、源兵衛、七郎兵衛、善右衛門)の五人が根津権現から上野を見物。八ツ時に戻り。
・四ツ時、幽学先生がお出かけになった。
・良左衛門君と平太郎殿は三河町へ行き、家の絵図を作成して戻る。
・平右衛門殿が来訪。昨日、帰村を願い出たが、「今日は係の役人が不在のため書類は預かる、追って沙汰するまで宿(公事宿)におるように。2、3日中には呼び出しがあるかもしれないが、ひとまず書類は預かっておく」と言われたとのこと。
・諸徳寺村の喜左衛門殿が来た。上記の話を伝えたところ、「今月中の帰村は見合わせるべきだろう」と言って帰った。
・幽学先生「岡引の知合いがいないかと思って、公事宿に聞いてみたが、あまり乗り気でないはないようだから、それ以上は自分も動いていない。それにしても、皆それぞれ勝手な判断をして困ったものだ。全員、本性(地金)が出ているようだ。私が何か言っても、むやみに言うつもりはない。ただ、今は苦しい時なので、無駄に騒ぎ立てたくないから言うのだ。」
・佐左衛門殿は、明日早朝に馬喰町の桝屋へ立ち寄り、情報を聞いてくる予定。七ツ半時に皆帰った。

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安政4年5月26日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、良左衛門ら5人と一緒に神田明神、湯島天神、根津権現を参詣。根津権現の宇右衛門は四代将軍の奢りを諫め処刑されたが、その忠義が将軍の心を動かし、将軍は酒を断った。社殿周囲は大木が茂り閑静な場所だった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の五郎兵衛神田明神、湯島天神、根津権現を参詣。根津宇右衛門については、いろいろと間違っていますが(四代将軍ではなく、甲府藩主徳川綱重ですし)、記憶だけで日記を書いているので、このくらいは仕方ないでしょう。

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〈詳訳〉
・五ツ半時、良佐宜久(良左衛門、佐左衛門、宜平、久左衛門)と小生の5人で神田明神、湯島天神、根津権現を参詣。
・根津権現の宇右衛門は、第四代将軍の奢りを諫めたが、それが将軍の気分を害し、処刑されてしまった。しかし、彼の忠義の心が一途であったため、将軍は夜も夢に宇右衛門を見てしまうようになり、その志に感銘を受け、ついには酒を断つようになったとのことである。社殿の周囲は大木が茂り、広々としており、誠に閑静な場所である。
・9月21日の祭礼の飾り物は町内ごとに50番まであり、前回の祭りの図が額に収められている。近年は祭りが行われていないとのことであった。その後、谷中の天王寺へ参り、上野でしばらく休み、神田の湯に入って、八ツ時に戻った。
・幽学先生は四ツ時にお出かけになり、八ツ時にお戻りになった。

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安政4年5月27日(1857年)
#五郎兵衛の日記
九ツ時には平太郎殿と長左衛門殿が訪れた。金策に支障が生じたので、支払期限を延長してもらおうと、家主のもとへ向かったが留守だった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
家購入の件。先日は、残金支払いは来月14日までといってあましたが(5月24日条)、それもまた難しくなったようです。家主のもとへ交渉に向かうも留守。この計画、どうなってしまうでしょうか…。


━━━
〈詳訳〉
・幽学先生から次のように教えられた。
「手習いをしても、筆法を知らなければ、いくら練習しても決して上達することはない。
字を書くときには、気持ちの込め方によって文字に生気が宿るかどうかが決まる。筆の使い方にも、立てて使うかどうかで大きな違いが出る。上手に書を習う者は筆を大切に扱う。馬に乗る者は馬を大切に扱うが、いざ乗るときには馬を制する覚悟で乗るものだという。筆の扱いも同様であり、普段は大切にしつつ、使うときにはしっかりと制する心構えが必要なのだ」
・四ツ時、又正善平源(又左衛門、正太郎、善右衛門、平右衛門、源兵衛)が上野へ出かけ、九ツ半時に戻った。
・幽学先生は四ツ時に外出され、八ツ時にお戻りになった。
・九ツ時には平太郎殿と長左衛門殿が訪れた。金策に支障が生じたので、支払期限を延長してもらおうと、家主のもとへ向かったが留守だった。
・八ツ半頃に宝田村の善兵衛殿が来訪し、文平に手紙を書いてほしいという。夕方には文平が来た。
・夜に俊泰のことが話題にのぼった。
良祐殿から婚礼の祝儀として贈られた短刀は、数日前に押畑の者と鍔を交換したことがわかり、幽学先生は大変不快に思われた。「これは鏑木村の平右衛門殿から無理に頼んで譲り受けた品であり、それを軽々しく交換してしまったとは何事か」。これには一同も呆れてしまった。
「こんなことでは今後何を上げても無駄である、鏑木村には済まぬことである。帰村後はすぐに話し合うように」
・稲荷下は家族に病人が多く、家族からも不満の声が上がっているため、一旦帰村させることになった。奉行所から呼び出しがあれば飛脚で知らせ、すぐに江戸へ戻ってくると決まった。

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安政4年5月28日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君ら6人で深川八幡を参詣。三十三間堂を訪れるが、昨年の大嵐で倒壊していた。その後、海岸へ出て越中島の調練場を見学。洲崎で休憩し、潮が引いて沖まで洲が現れる光景を楽しみ、歌を吟じて過ごした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
文中「三十三間堂を訪れるが、昨年の大嵐で倒壊」とありますが、安政3年8月25日に江戸が台風による猛烈な暴風と高潮に襲われたことを指します。死者10万人とも。安政は元年に東海・南海地震、二年に江戸地震、三年に台風と災害に見舞われ続けています。


━━━
〈詳訳〉
・朝食後、幽学先生は文平に様々な教えを説かれた。「道具商いをする上で、全ての品に目を配らなければダメだ。わずか一分で仕入れた品を一両やそれ以上の値で売ろうとする考えは非常に問題である。そのようなことをすれば、目の利く客に見抜かれた時に深く恨まれ、子の代まで悪評が残ることにもなりかねない。そのため、不正な商売は避けるべきだ」。先生は、危険な行為や災いを招く行いについても深く心配し、丁寧に教えを説かれた。
・幽学先生「善右衛門は非常に温厚で愚痴のないことについては無類の人物である。
五郎兵衛と入れ替わればお互いに助かるし、大勢も助かるだろう。今後は互いの意見に賛同し合いながら行動することで、自然と一体感が生まれるはずだと述べた。そのため、大切なことは相談の上、すぐに帳面に記録するべきだ」
・その後、良宜佐久七(良左衛門、宜平、佐左衛門、久左衛門、七郎兵衛)と小生の6人で深川八幡を参詣し、三十三間堂を訪れたが、昨年の大嵐で倒壊していた。その後、海岸へ出る。
越中島の調練場は普請の最中。杭が立てられ、矢来を回してあった。立ち入り禁止で、多くの人が土を運んでいた。敷地は約八万坪とのこと。
・洲崎へ向かい、浜辺で休憩。折良く潮が引いて沖まで洲が一里ばかりも表れる様子を眺めることができた。一同で歌を吟じ、楽しむ事一時余りに及んだ。
・弁才天と五百羅漢を参詣。大地震や大嵐の影響で荒廃した様子に心を痛めた。立川を渡り、本所通りを経て両国へ戻り、八ツ時に戻った。
・松岸の差添(古き門人である)が来た。
・十日市場村幸蔵殿が来た。
・七ツ時に文平戻り。
・晩、薬研堀の夜市、 両国花火、一同見物に行く。五ツ時に戻り。

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安政4年5月29日(1857年)
#五郎兵衛の日記
九ツ半時に長左衛門殿が来る。金策はやはりすぐには難しいとのことで打合せ。万が一の際は下谷の親類から借りることとする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
家購入の件続報。やはり金策はうまくいきません。「万が一の際は下谷の親類から借りることとする」というのですが、本当に借りられるのかどうか。今回の右往左往ぶりを見ると、資金調達は絶望的なように見えます。
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〈詳訳〉
・五ツ半時に又正七久源善(又左衛門、正太郎、七郎兵衛、久左衛門、源兵衛、善右衛門)と文平の七人で麹町の調練見物に行き、八ツ半時に戻り。
・九ツ半時に長左衛門殿が来る。金策はやはりすぐには難しいとのことで打合せ。万が一の際は下谷の親類から借りることとする。
・稲荷下の帰村の打合せをした後、月末の勘定を行う。
・幽学先生「振り返ってみると、五郎兵衛に代わって道友が骨を折ってくれなければ、自分も助からなかった。私は改心楼ができてこの方、後々の始末がつくように情を断ち切っている。それを真似して威張ったり決めつけたりするのでは誰も納得しない。私のやり方をやって良いのは良左衛門だけだ。五郎兵衛のような者がそれをやれば、皆から嫌われる。こうしたことを今から心得ていれば、遠く離れても情が通じ、互いの心が分かるものだ」
・幽学先生
「予が選び、良祐が婚礼の祝いとして贈った短刀を、些細なものと交換したことに大いに呆れ、一同も驚き呆れ果てた。これは藤四郎作の正真の品であり、金を出したからといって容易に手に入るものではない。鏑木村の平右衛門が秘蔵の宝としていたものであり、予が無理に頼み込んで譲ってもらったほどの貴重なものだった。予が選んで涯の魂とすべき刀を手放してしまったことは、到底理解しがたい。この件について善右衛門が帰り次第、詳しく話すように」
・文平のことについても先生は深く心配し、細かな点を色々と指摘された。道具商を続けるのは無駄だからやめるよう、親身になって諭してくださったが、どうも改心する気配は見られないようである。

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安政4年5月30日(晦日)(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が来訪。御代官様から「呼び出しがなく強引に押し込まれるのは難儀。飯野様と奉行所役人は懇意なので頼むのがよい」との話があった。昨日飯野様宅を訪ねたが不在で、今日再訪するもまた不在で、早昼をとり戻った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
田安家ルートによる裁判工作の記事。代官から直接奉行所に掛け合うのは問題となってしまうので、奉行役人と懇意な飯野様を頼りなさいというサジェスチョン。裁判に介入しようという動きは、褒められたものではありませんが、当事者にとっては必死なのでしょう。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、善右衛門殿が江戸から出立した。
・平右衛門殿が来た。
「昨日、御代官様から、『あまりに呼び出しがないし、強引に押し込まれるようなことがあれば難儀だである。拙者から直接手紙を送るのはまずいが、飯野様と奉行所の役人は懇意な間柄であり、いずれ話をつけることも可能かもしれないので、頼んでみるのがよいだろう』との話しであった。昨日飯野様方に伺ったものの、ご不在だったため、明日昼から出向くようにとのお達しがあった。そこで本日、飯野様のもとへ参上したが、またもご不在であった。そのため、早めに昼食をとり、すぐに引き返すこととなった。」
・これを聞いた幽学先生かは、「村の資金を借りるのはやめたほうがよい。村のためのつもりだろうが、かえって後々の災いとなる。お前が経済のやりくりをしっかりすれば、十分に身を立てられるはずだ。経済が整わないうちは無駄なことを考えないほうがよい。村からの借金は一見手軽に思えるが、たとえ一両でも余計な借金をすれば、後々苦しむことになり、自分も人から恨まれ、身を持ち崩すことになる」と諭された。しかし、平右衛門殿はそれを一切聞き入れず、暇乞いをして帰った。
・四ツ時に幽学先生は外出され、八ツ時にお戻りになられた。
・平太郎殿が訪ねてきて、日暮れに帰った。
・一同、いつものように勘定を行った。
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安政4年5月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月26日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年5月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年5月11日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時、良左衛門君らと大橋手前の団子屋で休憩し、亀戸天神を参詣。柳島妙見浦や浅草観音の植木を見物し、歯入師を訪問。上野広小路から御成道を通り再び団子屋で休憩。神田明神下の湯屋に寄り、七ツ時に帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた名所巡り。五郎兵衛にとって名所巡りに団子屋は欠かせず、大橋手前の団子屋で休憩し、帰り道でも再び団子屋で休憩。


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〈詳訳〉
・四つ時、良左衛門、又左衛門、宜平と小生の四人で、大橋手前の団子屋で休憩。その後、高橋の向こうで売家を見、亀戸天神を参詣。そこから柳島妙見の浦から東橋通り、浅草観音の脇にある植木を一見。
・門跡前の歯入師(入れ歯屋)に立ち寄り、上野の広小路に出、御成道を戻り、団子屋に立ち寄り休む。神田明神下の湯屋に入り、筋違通りを通って、七つ時に戻る。
・幽学先生は四つ時にお出かけになった。
・佐左衛門殿が二人の差付添えと共に来た。
・五つ時に、「鏑木の者」と申す迷い女が、宿に「十日市場の者」を連れてきた。
・邑楽屋の主人のもとへ行き、その女性について尋ねたところ、精神が錯乱しているようで、話が支離滅裂だった。このような者は気の毒ではあるが、女性のことなので下手に関わると厄介事になりかねない。「あなた方も迷惑でしょうし、私も困る。気の毒だが、連れてきた人に預けて、関わらないほうがよい」と話していたところ、その女性は連れてきた人のもとから逃げてしまった。
・その後、主人が彼女を探しに出て、柳原から筋違いに進んだ道で、偶然にも女性の夫と出会った。これはまさに運命的な巡り合わせであり、一同は大喜びした。そして後日、邑楽屋にお礼に訪れた。
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安政4年5月12日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ時に浅草門跡前の歯入師を訪れ、20匁を支払い、四ツ時に帰宅。
・正善源傳の4人が五ツ時に芝方面へ行き、八ツ時に帰宅。幽学先生も芝方面へ出かけ、同じく八ツ時に帰宅。その後、湯屋に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
安政4年の日記では、多くの道友の名前が出てくるため、「正善源傳」のように名前を一文字で表しています。この4人は、正太郎、善右衛門、源兵衛、傳藏を表しています。

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〈詳訳〉
・五つ時、浅草門跡前の歯入師(入れ歯屋)に行き、20匁を支払い、四つ時に戻り。
・五つ時に、正善源傳の4人(正太郎、善右衛門、源兵衛、傳藏)が芝方面へ向かい、八つ時に戻り。幽学先生も芝方面へお出かけになり、八つ時にお戻り。その後、湯屋に行った。

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安政4年5月13日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が外出後、又左衛門殿が「皆のもの、また自由気ままになっていないか。幽学先生に相談して物事を進めるべきだ」と意見した。
一同は今日から改め、幽学先生にご心配をかけないようにすることを心を一つにして決めた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
最近一同あちこちに物見遊山ばかりしていました(五郎兵衛日記からもこのことは明らか)。こちらはてっきり幽学先生も同意の上でと思っておりましたが、又左衛門殿の意見からはさにあらず。幽学先生のことはそっちのけで、欲求の赴くままに物見遊山していたようです。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、佐左衛門殿の差添(付添)が交代となり、挨拶に来た。
・一同は国元へ送る手紙を書くため宿にいた。
・九つ時に幽学先生が外出。
・八つ時に又左衛門殿が意見を述べた。
「皆のもの、また自由気ままに振る舞ってはいないか。自分のために書き物をするとしても、幽学先生に聞いて役に立つものであれば、みんなのためにもなるのだから、打合せをしながら何事も進めるほうがいいだろう。この裁判は長くかかるかもしれないし、いつ終わるかもわからない。先生のご身分がもどうなるかもわからないのだから、皆で改革して、先生にご心配をかけないようにすべきだろう」
この言葉を受けて、一同は今日から改め、幽学先生にご心配をかけないようにすることを心を一つにして決めた。


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安政4年5月14日(1857年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に髪結い。四ツ時、小生や又左衛門ら6人で両国の回向院へ向かい、芝山仁王の開帳を見物。竹田細工のからくり人形を見たが、実に珍しい細工であった。ぜんまい仕掛けの生きているような人形であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
両国回向院へ物見遊山。見物しているだけなので、お金がかからないように過ごしているのでしょう。ぜんまい仕掛けの人形劇がよほど印象に残ったのか、五郎兵衛は詳細に日記に記しています。
━━━
〈詳訳〉
・朝食後に髪結い。四ツ時、小生や又左衛門ら6人で両国の回向院へ向かい、芝山仁王の開帳を見物。竹田細工のからくり人形を見たが、実に珍しい細工であった。ぜんまい仕掛けの生きているような人形で、表には猿田彦大神や木花咲耶姫(うすめ尊)、ほかに伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)などがあった。
・中に入ると坂があり、段々と登っていくと、以下のような場面があった。
1番目は和藤内(わとうない)が虎を生け捕る場面。
2番目は住吉大明神。
3番目は日蓮上人。
4番目は不動尊、祐天、さらに中将姫や観世音の場面。
・坂を下ると、坊太郎と乳母(うば)のお辻(場面)があり、その先には大石に縄が締められていた。この石が割れると、中から骸骨が現れ、手を振りながら引っ込んだ。さらに、女性の幽霊が現れた。その後、飛脚が安達原の一軒家を訪ね、黒塚での化け物の場面は恐ろしくも哀れなものであった。しかし、そのそばに観世音菩薩が現れる。
・さらに、中に入ると左右に幣があり、それが割れて伊弉諾尊と伊弉冉尊が現れた。
この幣が両側から橋となり、その上にセキレイ(鳥)が2羽飛び出し、羽を動かした。すると、両尊が橋の上で進み、互いに寄り添って舞を披露した。その後、三味線を弾く子どもが2人、歌を歌う少女が2人登場し、尊たちの舞が終わると、上席へとせり上がった。
・続いて、龍宮王が杯を交わし、碁を打つ場面があり、その下では雨蛙やフグ、魚が登場し、下では琴の音に合わせて拍子を取り、タコが歌を歌う。これらはすべて人形であったが、まるで生きているかのような見事な細工であった。
さまざまな舞や芸が披露された後、最後に乙姫が琴を奏でながらせり上がり、実に珍しいものを見た一日であった。
・八ツ半時に戻る。晩に傳蔵殿と帰村の打合せ。

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安政4年5月15日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・良左衛門君らとともに計7人で、(大名の)登城の見物。その後両国へ回り、からくりを見る。
・山口へ炭を買いに行った。晩に平太郎殿と借家について打合せ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は登場見物と両国でからくり見物です。からくりは昨日も見に行っているので、五郎兵衛にとってはよほど興味深かったようです。
登城見物は4年前にもをしておりまして、その際には、当時の老中主座阿部正広の行列の壮観さが記録されていました(嘉永6年3月3日条)。
なお、この年(安政4年)の老中主座は堀田正睦です。

━━━
〈詳訳〉
・早朝、傳藏殿帰村のため出立。
・良左衛門君、小生ら7人で登城の見物。その後両国へ回り、からくりを見物。九つ半時に戻り。
・幽学先生は五つ半時に外出され、八つ時に戻られた。
・山口へ炭を買いに行き、又左衛門殿は艾茶を買いに行った。晩に平太郎殿と借家について打合せ。

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安政4年5月16日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五つ時、良左衛門君らと共に計4人で借家を探しに行く。佐柄木町と三河町では売物件があった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学一門は2年前(安政2年)までは神田松枝町の借家で暮らしていましたが、長期の帰村となったことから、借家を引払い、現在は公事宿で暮らしています。ここにきて、江戸での滞在が長くなる可能性がでてきたので、借家を見つけるべく調査を開始しましたが、売家の情報が入り、購入方向でも考えているようです。

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〈詳訳〉
・五つ時、良左衛門君、又左衛門殿、宜平殿と小生の4人で借家を探しに出かけた。佐柄木町と三河町に売物件があった。
・元岩井町の平太郎殿と打合せをし、その後、深川の長左衛門殿とも打合せ。一緒に三河町から雉町の方へ回って戻ってきた。
・平太郎殿が来た。
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安政4年5月17日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四つ時、正太郎殿と七郎兵衛殿が麻布の地頭所へ行った。善源と久平は浅草の方へ出かけ、八つ時に戻った。その後、一同で髪結いし、湯屋にいった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、五郎兵衛自身の動静か又は幽学先生の動静が記載するのが普通なのですが、今日の記事では「髪結いし、湯屋にいった」以外は五郎兵衛の行動が記録されていません。宿で無聊をかこっているということなのでしょうか。


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安政4年5月18日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・大雨のため、一同宿に留まる。
・佐左衛門殿と同村の喜左衛門殿が来た。七つ時帰り。
・幽学先生は両国へ外出された。
・稲荷下が病気になった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「佐左衛門」は石毛佐左衛門。香取郡入野村(旭市入野)の百姓で、幽学一門です。裁判初期から名前は出ていましたが、安政4年になってからは頻繁に名前が記されています。何かの活動をしていたのでしょうが、内容が記録されておらず不明です。


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安政4年5月19日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、幽学先生や又左衛門殿ら七人で麹町で調練の見物。八ツ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
調練見物。5月9日条にも調練見物の記事がありますが、今回は珍しく幽学先生も一緒に見物しているのが特徴。無料で見物できるので、幽学先生も心理的抵抗がなかったのでしょう。

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〈詳訳〉
・五ツ半時、幽学先生、又左衛門殿ら七人で麹町で調練の見物。八ツ時に戻り。
・荒海村(成田市荒海)から飛脚が来た。惣右衛門殿から手紙が届いたため、返書を書いて夕方に蓮屋(公事宿)へ行き、届けるよう頼んだ。

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安政4年5月20日(1857年)
#五郎兵衛の日記
三河町の家を購入することとなり、打合せ。22日に平太郎殿と二人で家主と交渉し、購入したらすぐに改修工事に取り掛かる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸での滞在化長くなる可能性がでてきたので、借家を見つけようとしていましたが、売家の情報が入り(5月16日条)、三河町の家を購入する計画が進んでいます。長期間借りるよりも経済的であると踏んでいるのでしょうが、それにしてもその資金はどこから出るのでしょうか…。


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〈詳訳〉
・四ツ時に平太郎殿が来て、幽学先生と共に三河町の売家を見に行き、大家とも話しをした。
・平太郎殿は深川の長左衛門殿のもとへ行ったが、不在だったため戻ってきた。
・八ツ時に長左衛門殿が来て、三河町の家を購入する打合せをした。22日に平太郎殿と二人で家主と交渉することを決め、購入したらすぐに改修工事に取り掛かることを打合せ。
・四ツ時に又左衛門殿が小網町本町へ、万才村の治右衛門殿に刀の鍔を売りに行った。九ツ時に戻り。
・七郎兵衛殿は深川へ行き、七ツ時に戻り。
・夕方五ツ時に久左衛門殿に奉行所から呼出しがあった。


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安政4年5月上旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月15日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年5月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年5月1日(朔)(1857年)
#五郎兵衛の日記
五つ半時、神田明神の手前にある刀屋へ、傘を持って幽学先生をお迎えに行った。
その後、小生は又左衛門殿と共に小網町の東屋へ、腰物を売りに行ったり、宜平殿と共に山口へ炭を買いに行ったりした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が刀屋に行ったり、五郎兵衛が腰物を売ったりしているのは、幽学の副業(刀等の転売)のためでしょう。江戸の滞在費稼ぎの為に始めたようですが、武士身分である幽学先生の興味関心が高いことも動機の一つかと思われます。
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〈詳訳〉
・五つ半時、神田明神の手前にある刀屋へ、傘を持って幽学先生をお迎えに行く。久保彦という者は親孝行な者だなと先生がおっしゃった。
・四つ時、平右衛門殿のもとへ、国元の惣右衛門殿から飛脚で手紙が届いた。
・四つ時、佐左衛門殿が来た。
・九つ半時、又左衛門殿と二人で小網町の東屋へ、腰物(刀など)を売りに行き、七つ時に帰った。
・宜平殿と二人で山口へ炭を買いに行った。
・夕方、良左衛門君が外川屋(公事宿)へ行った。

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安政4年5月2日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君から話しあり。
「幽学先生への裁きの行方を見届けられるのは我々江戸に出た者だけだ。判決の内容次第では故郷に戻れない。どのような結果でも覚悟を決め、一人でも志を貫くべきだ。たとえ死が待とうとも、志を継ぐ者が現れるはず。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の道友の良左衛門の言葉からは、かなり厳しい判決も予想していたことが分かります。本文では長部村に建設した教導所の取壊しや幽学先生の武士身分の否定への言及もあり、間近な判決への危機感が顕著です。死をも恐れず志を継ごうとする力強い決意に溢れています。
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〈詳訳〉
・早朝、蓮屋(公事宿)へ行き、国元へ送る手紙を持参した。五つ時に戻ったが、手紙に誤りがあるのがわかったため、別の紙に書き直して再び頼みに行った。
・磯部様の書物を拝借して帰った。
・五つ半時、佐左衛門殿が来た。
・昼から大先生が買い物に出かけられた。
・又左衛門殿、宜平殿、源兵衛殿、七郎兵衛殿、善右衛門殿の五人は十軒店(現日本橋室町)の方へ遊びに行った。
・茂兵衛殿が来た。
・良左衛門君の話し。
「幽学先生の今後を見届けるのは、出府した(江戸に出た)者だけができることである。一件落着(判決)により、改心楼を取壊し、大小(刀)の取上げということになれば、どの面下げて国元へ帰ることができようか。先日、江戸に出立する際に皆に暇乞い(別れの挨拶)をして出府した。江戸にいる者は、どのような落着(判決)になろうとも、一心決定して腹の備えをし、村の者一人でもその覚悟を貫くべきである。死が待っていたとしても、その志を継ぐ者が必ずでる。そのような覚悟をして過ごしてもらいたい」とのこと。
・このような重要な話をしているところへ長左衛門殿が来た。店が深川にあるとのことで相談しに来たが、幽学先生が留守のため、明日改めて来ることになって帰った。
・七つ時、茂兵衛殿は自分の宿へ戻った。
・夕方、蓮屋へ書物を返しに行った。平右衛門殿が留守だったので、座敷に置いて帰った。


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安政4年5月3日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は国元の若者たちに手紙をお送りになった。
・良祐殿に、幽学先生は「子孫が分け前の計算ばかりすれば、その家は滅びる。どこの家でもそうだった」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生も厳しい判決が出るであろうことはを予想しています。しかし、直接口には出しません。自分の運命がそう長いものではないと思い、若者たちに遺言代わりに言葉を残そうと務めているようです。
━━━
〈詳訳〉
・五つ半時(午前9時頃)、大先生がお出かけになる。
・宜平殿、源兵衛殿、傳蔵殿の三人は両国の回向院の開帳に参詣。九つ時に戻り。
・良左衛門君と善右衛門殿は日本橋方面へ字引を買いに行き、九つ時に戻り。
・俊斎、九つ半時に来る。同時刻に平右衛門殿も来る。
・八つ時、幸左衛門殿と啓一郎殿が来る。
・幽学先生は国元の若者たちに手紙をお送りになった。
・茂兵衛殿が来て、七つ時に帰った。
・平太郎殿が来て、夕方に帰った。
・良祐殿が来られたときに、幽学先生は次のようにお話しになられた。
「子孫の間で分け前の計算ばかりするようになれば、その家は滅びるものだ。世間を見れば分かることだが、どこでも同じことが言える。」


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安政4年5月4日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿から話しあり。
「昨日奉行所から役人が田安様へ来て御沙汰があり、「流れた」とのこと。本日、田安様のお役所に伺ってこの話しを聞いてきた。今後一同が呼び出される可能性もあるが、どうなるかは分からない」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本件では田安家の領地(荒海村;現成田市)が絡んでいるので、奉行所も田安家には配慮せざるを得ず、水面下で調整が行われているようです。「流れた」という意味が、はっきりしませんが、調整がうまくいっておらず、先行きが不透明な状況なようです。
━━━
〈詳訳〉
・幸左衛門殿と啓一郎殿が逗留。幽学先生、四つ半時ご教諭。内容は聞き書きに記す。
・幽学先生、四つ半時過ぎに買い物に出かけられ、八つ時にお戻りになった。
・啓一郎殿と傳藏殿は麹町へ薬を買いに行った。幸左衛門殿は人形町から本町へ買い物に出た。
・七つ時、平右衛門殿が来た。
「昨日奉行所から役人が田安様へ来て御沙汰があり、「流れた」とのこと。本日、田安様のお役所に伺ってこの話しを聞いてきた。今後一同が呼び出される可能性もあるが、どうなるかは分からない」
・幽学先生から「名乗り」のことにつき次の話しがあった。
「そもそも名乗りというものは、旧家がその家名を大切にし、失わないようにするために決意して守り抜くものだ。その覚悟もなく、守ることもできないのであれば、名乗る必要はない。筋はこの通りであるから、守るべきなら守ったほうがよいだろう。」
このように荒海村(現成田市荒海)に飛脚で手紙を送った。

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安政4年5月5日(1857年)
#五郎兵衛の日記
俊斎子と茂兵衛殿が明日出立するので、夜、幽学先生は次のように話された。
「親と子の生き方には様々な形がある。表裏のある親もいれば、子のために患難辛苦しながら永続の法(道)を築く者もいる。俊斎子が今あるのも親の努力のおかげだ。

あとは結局は当人の考え方次第。先を見据えて行動すれば不可能はない。
今となっては、予からいうことは何もない。あとは皆それぞれ自分で考えることだ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友(弟子)が江戸を去るにあたっての幽学先生の言葉。厳しい判決を念頭に置いての別れの言葉のようにも読めます。
親の姿勢が子の人生に大きく影響を与えることを示しつつも、最終的には本人の考え方次第で未来が決まる、最後は自分で考えなさい、そんなメッセージです。

━━━
〈詳訳〉
・四つ時、佐左衛門殿来る。
・俊斎老は昼から良左衛門君と小石川へ行く。
・又左衛門殿と宜平殿は本町の大橋で茶を買い、日本橋まで行く。
・十日市場の老人来る。
・又右衛門殿と啓一郎殿逗留。
・俊斎子と茂兵衛殿は明日出立するので、夜、幽学先生は次のように話された。
「ほかに何も言ってやることはないが、この世には、こういう親を持つ者もいれば、こういう子を持つ者もいる。
表と裏のある考え方で生きている親もいる。一方で、子のために患難辛苦しながら永続の法(道)を築く者もいる。永続の法は、ただそれを守りさえすれば、生涯安心して暮らせというものである。
俊斎子がここまで無事にいられるのも、親がしっかり守られたからだ。
あとは結局は当人の考え方次第。先を見通して守っていくことができるのであれば、できないことはない。
今となっては、予からいうことは何もない。あとは皆それぞれ自分で考えることだ。」


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安政4年5月6日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、幸左衛門殿、啓一郎殿、俊斎子、茂兵衛殿の四人が江戸を出立。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳蔵殿、正太郎殿の五人は、五つ半時に浅草をはじめとして、各所を見物。九つ半時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
浅草見物。平凡な記事に見えますが、初期を除いて江戸滞在費を捻出することに全力を挙げていた中期以降は金のかかる見物は行われていませんでした。ここにきての物見遊山は、やはり江戸はこれで最後=落着(判決)近しと皆意識しているからでしょう。
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〈詳訳〉
・早朝、幸左衛門殿、啓一郎殿、俊斎子、茂兵衛殿の四人が出立。
・幽学先生は五つ半時にお出かけになり、八つ時に戻り。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳蔵殿、正太郎殿の五人は、五つ半時に浅草をはじめとして、各所を見物。九つ半時に戻り。
・四つ時、佐左衛門殿が来て、夕方帰った。
・良左衛門君は泉屋へ行き、平太郎殿と打合せ。
・夕方、小生蓮屋へ参る。

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安政4年5月7日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君、宜平殿、佐左衛門殿と小生の四人で浅草観音を参詣。小雨が降ってきたため、急ぎ両国方面へ向かい、五色で昼食。回向院へ行き、芝山仁王の開扉を見物し、諸方を巡り、八つ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は、浅草・両国の物見遊山ツアーに参加。浅草観音や回向院といった現代でも名だたる寺院を参観しています。「五色」は幽学組の人気料理屋だったのでしょう。五郎兵衛は4年前にも五色で昼食をとっています(嘉永6年2月15日条)。
━━━
〈詳訳〉
・五つ半時、佐左衛門殿が来る。本多様の御配領知の杭がなくなり、また御門のくぐりが締まっていると言っていたので、源兵衛殿と善右衛門殿が確認しに行ったが、そのような事実はなかった。
・幽学先生は小石川の高松様方へお出かけになり、八つ時にお戻り。
・良左衛門君、宜平殿、佐左衛門殿と小生の四人で浅草観音を参詣。小雨が降ってきたため、急ぎ両国方面へ向かい、五色で昼食。回向院へ行き、芝山仁王の開扉を見物し、諸方を巡り、八つ時に戻り。
・平右衛門殿、四つ時に来る。八つ半時に帰る。平太郎殿も同じ時刻に帰る。


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安政4年5月8日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は少し病気がちのためお休み。
・八つ時、佐左衛門殿と他の者たちが宿に集まり、帰村の願書を訴所へ提出。「追って沙汰する」との仰せあり。七つ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村の願書を訴所へ提出。裁判の為に2年ぶりに呼出しを受けたのは先月のことなので、この時機に帰村願いをするのは随分と早いのですが、5月4日条の田安家への奉行所の回答を踏まえてのことなのでしょう。奉行所との駆引きの一貫と思われます。
━━━
〈詳訳〉
・幽学先生は少し病気がちのためお休み。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳藏殿、正太郎殿、七郎兵衛殿の六人は、五つ半時に四ツ谷方面へお出かけ。あいにく御成(将軍の外出)にあい、三河町で待機。道が空いてから向かって九つ時過に戻り。
・平右衛門殿、四つ時に来て、湯島の「りき」方へ行く。
・八つ時、佐左衛門殿と他の者たちが宿に集まり、帰村の願書を訴所へ提出。「追って沙汰する」との仰せあり。七つ時に戻り。
・八つ時、(高松)力蔵様が来られ銭湯に行く。
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安政4年5月9日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、良左衛門君、宜平殿、小生の三人で、麹町一丁目の裏馬場にある小笠原家の調練を見物。調練は九ツ半時に終わった。田安御門の外にある九段坂で皆が集まり、しばらく談笑。それから道を変えて御門を越え、大国屋で味噌団子を食べた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・武家の調練の見学。武家の調練は誰でも見学できたのでしょうか。五郎兵衛はこの調練の様子を詳細に記録しており、本日の日記はかなりの長文です。
・調練見学の後は九段坂で談笑。締めに味噌団子とは、食いしん坊五郎兵衛の面目躍如です。

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〈詳訳〉
・五ツ半時、良左衛門君、宜平殿、小生の三人で、麹町一丁目の裏馬場にある小笠原家の調練を見物。
・東西に源氏と平家に分かれ、東方は赤い旗を掲げ、各自の背中に印をつけ、馬に乗った37人が並ぶ。西方は浅葱色の旗を掲げた37人が同じように支度。
・一番貝(最初の合図の貝)が吹かれ、しばらくして二番貝が吹かれると、両軍の者たちはそれぞれ印のある笠をかぶり、陣羽織を着て馬上で静かに並んだ。互いに鞭を上げ、引き返し、また一人ずつ馬で進み、扇を開いて掲げては戻るという所作を繰り返した。両軍の各37人は馬を静かに歩かせ、一巡して元の位置に戻ると、
両軍ともに貝や鐘、太鼓を勢いよく鳴らした。
・最初に先立が采配を振り、弓を持った十人が陣形を定めた。次に槍を持つ者十二人が先立の下知でのもと陣形を定めた。大将は五本の旗印で登場し、采配を持った者の右に八人ずつが附添場に進んだ。
・両軍ともに貝を吹き、太鼓を打つと、互いに先立の馬を駆けさせ、枕のような物に網をつけて馬を締めて駆け回らせた。それを後方から弓で射ることがしばらく続いた。その後、貝や太鼓の音が鳴ると、両軍は槍を持ってしばらく戦った。
・次に互いに大将を囲んで、五人または三人ずつ馬を走らせ、追ったり追われたりしながら戦った。わずかな隙を狙い、両軍ともに大将を討ち取ろうと必死である。
・平家方は逃げてばかりで、源氏方の勝利と見えた。そのとき平家の大将は先頭に立ち、一騎で敵陣に突入し、駆け回った末、馬を跳ばして逃げ去った。源氏方は次々と馬を駆けて追いかけた。平家の大将はただ一騎で馬を飛ばして駆け去った。後ろから源氏が追いかけてきて、平家の大将は敵に囲まれ、危うくなったが、その中を飛鳥の如く逃げ去った。
・すると、源氏の大将が先馬で追いかけてきた。それを四天王の一人と名乗る者が横切りに馬を駆けさせ、大将のそばに寄ると、素早く一太刀浴びせた。その瞬間、味方の歓声が上がり、敵方の者たちは馬を走らせて逃げ去った。
源氏方は十七人が残ったが、戦場の中央に陣形を整え、静かに隊列を組んで引き揚げていった。実に勇壮である。
・調練は九ツ半時に終わった。田安御門の外にある九段坂で皆が集まり、しばらく談笑。それから道を変えて御門を越え、大国屋で味噌団子を食べた。
・八つ時に宿に戻り、髪を剃り整えていたところ、幽学先生が戻られた。しばらくして、十日市場村の幸蔵殿が同村の者二人と来た。
・晩に、弁慶橋通りの夜市へ、良左衛門君、又左衛門殿、正太郎殿、宜平殿、七郎右衛門殿、傳蔵殿と共に遊びに出かけた。
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安政4年5月10日(1857年)
#五郎兵衛の日記
晩に、幽学先生、良左衛門、又左衛門、宜平、正太郎、源兵衛、傳藏、善右衛門、小生で薬研堀の夜市へ遊びに行き、五つ時に戻る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日五郎兵衛は幽学先生や道友らと薬研堀の夜市へ。同所の夜市を訪れたのは4年ぶり(嘉永6年11月28日条)。厳しい現実に向き合いつつも、今を楽しむ幽学と道友たちです。

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〈詳訳〉
・正太郎殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳藏殿、七郎兵衛殿の五人で麹町へ行き、騎馬稽古を見物。八つ時に戻り。
・九つ時に長左衛門が来る。
・幽学先生は四つ時にお出かけになり、八つ時に戻られた。
・晩に、幽学先生、良左衛門、又左衛門、宜平、正太郎、源兵衛、傳藏、善右衛門、小生で薬研堀の夜市へ遊びに行き、五つ時に戻る。

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安政4年4月下旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月08日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年4月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年4月21日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、長左衛門殿とおけい殿が焼き団子持参で来訪。幽学先生は、商売や生活の仕方について話され、「天の陽気が万物を育て恵むのと同様に、自然の理に従って成り立っており、それに従えば生活も良くなる」と仰っていた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸在住の長左衛門らが、幽学先生を訪れてきました。幽学の話しの内容は平凡ですが、人々を引き付けるものをもっていたのでしょう。
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〈その他の記事〉
・源兵衛殿と二人で山口に炭を買いに行った。
・正太郎殿と源兵衛殿は、昌平橋向かいの内田屋へ煙草を取り替えに行った。
・佐左衛門殿と差添が四ツ時に来た。諸徳寺村の差添も来た。
・八ツ時善右衛門殿が到着。新四郎殿も蓮屋に到着。
・岩元町の泉屋には薬を買いに三度足を運び、岸部屋へは右附子を買いに行った。

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安政4年4月22日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生、四ツ時に外出し、脇差を2本購入した(八ツ時お帰り)。
・八ツ時に米込村の名主が来た。文平、平右衛門殿、惣治郎殿、佐左衛門殿の来訪あり(七ツ半帰り)。
・源兵衛殿と宜平殿は深川仲町の長左衛門殿のもとを訪れた(九ツ戻り)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生が脇差2本を購入しています。
江戸に長期滞在を余儀なくされ、収入を得ようと以前は刀剣売買ビジネス(転売ヤー)を幽学先生はしておりましたが、まだ続けていたようです。
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〈詳訳〉
・早朝、本多元俊医師宛に手紙を書いた。幽学先生も元俊医師宛に医道についての教えを説かれた。
・幽学先生、四ツ時に外出し、脇差を2本購入した(八ツ時お帰り)。
・八ツ時、米込村の名主がお出でになった。
・文平、平右衛門殿、惣治郎殿も来た(七ツ半帰り)。佐左衛門殿も同様。
・源兵衛殿と宜平殿は深川仲町の長左衛門殿のもとを訪れた(九ツ戻り)。
・昼から髪結い。

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安政4年4月23日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は七ツ時に藤元屋へお出かけになられた。
・佐左衛門殿の呼出しの御沙汰が届かなかったことで、邑楽屋(公事宿)の下代が奉行所の腰掛まで行き、なかなか帰ってこなかった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は藤元屋へ。以前転売ヤー活動をしていたときに頻繁に通っていた店なので(嘉永7年5月1日、2日条)、昨日仕入れた脇差2本を早速藤元屋に持っていったのでしょう。

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〈詳訳〉
・五ツ時、諸徳寺村の差添の来訪あり。
佐左衛門殿の呼出しの御沙汰が届かなかったことで、邑楽屋(公事宿)の下代が奉行所の腰掛まで行き、なかなか帰ってこなかった。
・五ツ時、蓮屋にも様子を聞きに行く。
・善右衛門殿は荒海村の惣治郎殿のもとへ相談に行き、七ツ時に戻り。
・茂兵衛からウドンを奢ってもらった。
・幽学先生は七ツ時に藤元屋へお出かけになられた。

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安政4年4月24日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は芝方面へお出かけになり、脇差を一本購入された(八ツ時お戻り)。
・夕方、俊斎子(元俊医師)が来て公事宿に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は本日は芝へお出かけになり、脇差を一本購入。以前の転売ヤー活動を思い出すしたのか、連日の動きです。一方で元俊医師が江戸にやってきました。病気を口実に(実は仮病)、嘉永6年6月24日に帰村を認められ、以後江戸には来ていませんでした。

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〈詳訳〉
・五ツ半時、又左衛門殿と宜平殿が、高松様方に挨拶に出かけた。二人は牛込の神谷様宅にも行った(九ツ半時に戻り)。
・幽学先生は芝方面へお出かけになり、脇差を一本購入された(八ツ時お戻り)。
・茂兵衛殿は本日も逗留。
・七ツ半時、平右衛門殿と惣治郎殿が御役所へ向かった。江戸見物してから帰村する相談をしたとのこと(夕方に戻り)。
・夕方、俊斎子(元俊医師)が来て公事宿に泊まり。

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安政4年4月25日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は四ツ半時に深川仲町の長左衛門殿を訪れた。貸金10両未返済の相談を受け、「商売人に貸せば回収困難も普通」と諭し諦めるよう助言。商売替えの相談も行う。
・八ツ時に幽学先生と風呂へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、今日は転売ヤー活動はお休み。深川仲町(江東区富岡一丁目)に住む長左衛門を訪れ、人生相談をしています。長左衛門は以前は深川仲町ではなかったはずなので、いつの間にか引っ越していたようです。
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〈詳訳〉
・四ツ時、平太郎殿来る。
・幽学先生は髪結いし、四ツ半時に四人で一緒に深川仲町の長左衛門殿のもとへお出かけになった(八ツ時お帰り)。その際、長左衛門殿が店子に10両ほど貸し付けた件について相談があった。返済がされていないため、貸金番所に勤める等とも言っていたが、「商売人に貸したら取り立てられないことも珍しくないものだ」との幽学先生の教えにより貸金については諦め、商売替えについて相談していた。
・八ツ時、幽学先生と一緒に風呂に出かけた。
・善右衛門殿と正太郎殿は蓮屋(公事宿)へ行った(八ツ半時戻り)。
・佐左衛門殿と差添人が来た(八ツ半時お帰り)。
・茂兵衛殿は九ツ時に戻り。
・俊斎子(元俊医師)は本日逗留。碁を打って過ごしていた。

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安政4年4月26日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が朝食をとっていると、七軒町の者が迎えに来た。先生は急な用事でお出かけになった(四ツ半時お戻り)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
七軒町(中央区日本橋茅場町三丁目)の者が朝からやってきて幽学先生はお出かけ。ゆっくり朝食をとることもできません。幽学が江戸にいるのは刑事裁判を受けるためで、被告人の立場なのですが、そのことは幽学先生の人気とは関係ないようです。
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〈詳訳〉
・幽学先生が朝食をとっていると、七軒町の者が迎えに来た。先生は急な用事でお出かけになった(四ツ半時お戻り)。
・宝田村の善兵衛殿が来られた(九ツ時お帰り)。
・手紙を書き、庄内屋へ行って送ってくれるよう頼んだ。
・八ツ時、茂兵衛殿が来た。又左衛門殿と碁盤と碁石を買ってきて宿に泊まっていった。


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安政4年4月27日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ時に魚屋と紙屋へ買い物に行った。
(来訪者)
・佐左衛門殿と差添:四ツ半時に来訪(夕方帰り)。
・平右衛門殿:九ツ半時に来訪(暮方帰り)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
裁判が長い中断を経ていよいよ開始されそうであるということからか、関係者が頻繁に出入りしています。事件が起こってからだいぶ経っていますから、どういう風に供述するのか念入りに打合せをしているのでしょう。

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〈詳訳〉
・五ツ時に魚屋と紙屋へ買い物に行った。
・佐左衛門殿と差添が四ツ半時に来訪(夕方帰り)。
・平右衛門殿も九ツ半時に来訪(暮方帰り)。
・茂兵衛殿は九ツ半時に戻り髪結い。

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安政4年4月28日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ時、源兵衛殿と一緒に小石川の高松様のもとへ碁盤を取りに行った(四ツ時帰り)。
・幽学先生は九ツ半時にお出かけになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「高松様」は幕府の役人(小人目付)高松彦七郎。幽学先生の支援者の一人ですが、その関係はなかなか複雑です(下記記事参照)。
幽学一門では碁が流行っており、まだ続く江戸滞在の楽しみのために碁盤を借りてきたのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/914b2183c790e68e77180ca326101d87

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〈詳訳〉
・五ツ時、源兵衛殿と一緒に小石川の高松様のもとへ碁盤を取りに行った(四ツ時帰り)。
・同じ頃に平右衛門殿来られる(夕方帰り)。
・俊斎子(元俊医師)は八ツ時に外出。
・幽学先生は九ツ半時にお出かけになられた。
・夜、米八殿来られる(四ツ半時帰り)。

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安政4年4月29日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・八ツ時、平右衛門殿と長左衛門殿が借家を探しに出かけた(七ツ時帰り)。
・宿の勘定を済ませ、一同で月末の勘定を行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生と一門が江戸に到着して2週間ほど経ちましたが、奉行所から呼び出される気配がないため、以前と同様借家住まいを画策しているようです(この方が経費削減になるため)。安政4年の4月は今日が最後の日であり、会計の締めもしています。
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〈詳訳〉
・四ツ時、佐左衛門殿来られる。
・平太郎殿と長左衛門殿が煮豆を持ってきて、昼食をともにとった。
・八ツ時、平右衛門殿と長左衛門殿が借家を探しに出かけた(七ツ時帰り)。
・正太郎殿と七郎兵衛殿は地頭所に挨拶に行った(九ツ半時帰り)。
・茂兵衛殿来られる(八ツ時帰り)。
・宿の勘定を済ませ、一同で月末の勘定を行った。

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安政4年4月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 

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安政4年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年04月24日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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#五郎兵衛の日記
差紙(呼出状)
安政4年4月8日(1857年)
「尋ねたいことがあるので、早々に江戸に出頭せよ。不参の場合は曲事とする」
奉行所(本多加賀守様)からのもので、呼出されたのは、小生、元俊医師、荒海村の平右衛門
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
安政4年の弟子五郎兵衛日記は、差紙(呼出状)が五郎兵衛に届いたところから始まります。この呼出しには小生、元俊、平右衛門の名前しかありませんが、これはこの3名が近くの村に住んでいるからです(現成田市)。大原幽学は現千葉県旭市に住んでおり、別の呼出状となっているようです。

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安政4年4月12日(1857年)
#五郎兵衛の日記
早朝長沼村(成田市長沼)を出立。大森(印西市大森)の御役所で御添翰を受領。大森宿で中食。行徳(市川市行徳)まで行き「しがらき」に泊り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
行徳の「しがらき」には過去2回泊まっていますが、いずれも江戸から村に戻るときでした(嘉永5年12月14日条、同6年12月23日条)。江戸に行くときは鎌ケ谷あたりで泊まるのですが、今回は早目に江戸に到着したいようです。

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安政4年4月13日(1857年)
#五郎兵衛の日記
朝五ツ時に行徳(市川市行徳)で船に乗り、扇橋(江東区扇橋)で下船し、四ツ時に邑楽屋(公事宿)に到着。干潟組を待ったが、来ず。一人で泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
行徳から船で扇橋まで。その後は公事宿までは徒歩です。午前中には公事宿に着き、幽学先生を含め干潟方面の道友たちを待ったのに、結局今日は来ず。同じ村の元俊医師は今回も江戸に来ていないので、やむなく五郎兵衛一人で泊まりです。

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安政4年4月14日(1857年)
#五郎兵衛の日記
八ツ時、幽学先生一行が邑楽屋に到着。蓮屋(公事宿)を訪れ、荒海村の平右衛門殿が出頭しないので、その対応につき打合せ。蓮屋の主人は疲れてしまい、翌朝再度打合せすることとした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生ほか干潟組の道友達が江戸に到着。しかし、荒海村の平右衛門殿が来ていません。同人の担当公事宿は蓮屋なので、五郎兵衛が打合せに赴いています。なぜか蓮屋の主人は疲労困憊しており、打合せは明日に延期になってしまいました。
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〈詳訳〉
・五ツ時、邑楽屋(公事宿)の主人と協議。
・その後、淀藩の御上屋敷(足達鏡蔵様)に参上。公事宿につきこれまでのいきさつのを説明申し上げたところ、「全員が邑楽屋に宿泊するのであれば、その方も邑楽屋に泊まるがよい。他の宿から何かいうこともあるまいが、もし何か言ってきたとしても、当方から断るから心配するな。」との仰せ。
・八ツ時、幽学先生、良左衛門君、又左衛門子、源兵衛子、傳蔵子、正太郎子、宜平子と差添一人が邑楽屋に到着。協議の上、蓮屋(公事宿)に行くが不在。
・晩に再び蓮屋に行き、平右衛門殿が出頭しないことにつき協議したが、宿の主人は途中で疲れて休みたいというので、明朝また協議することとし、邑楽屋に戻る。

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安政4年4月15日(1857年)
#五郎兵衛の日記
早朝から蓮屋(公事宿)で平右衛門殿不出頭の対応を協議。「途中で病気となった」というほかないが、差添えも来ていないため対応に苦慮。結局「途中で病気となり五郎兵衛に対応を一任」とする。九ツ時に奉行所に着届けを行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
差紙(呼出状)を付けられているので、江戸に着いたら奉行所に着届けを提出しなければなりませんが、ひとり荒海村の平右衛門殿だけが江戸に着いていません。無理やり「病気」ということにしてやり過ごそうとする、公事宿の主人と五郎兵衛の協議が何とも興味深いです。
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〈詳訳〉
早朝、蓮屋(公事宿)に行き、平右衛門殿不出頭の対応につき打合せ。蓮屋の主人は、「平右衛門殿は出頭する途中で病気になったと申し立てするほかないが、差添が来ていないのでは、そのような説明をすることもできない…」
「それに差紙(呼出状)の返還もしていませんし、どうにも都合がよくありません」と困り果てていた。
様々な案を検討した結果、「平右衛門殿が途中で病気となり、小生に対応を依頼した」と奉行所に申し立てることとした。
九ツ時に一同、奉行所に以下のとおり着届けを行った。
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・幽学先生
差添は源兵衛殿
・良左衛門子、又右衛門殿、七郎右衛門殿
3名の代理として又左衛門殿
差添は喜左衛門殿
・傳蔵殿
差添は病気につき不在
・正太郎殿、宜平殿
差添は七郎右衛門殿
・元俊老
代理として五郎兵衛
差添は勘左衛門の代理人の紋左衛門
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・手代の米八殿の案内で、邑楽屋(公事宿)から腰掛に行った。本日は15日であり、御役所が休みで腰掛には人が少なく、八ツ時には着届けを済ませた。
・淀藩の御上屋敷の御勘定様へも着届けのことを報告し、書面を足達様宛にお渡ししていただくようお願いして、邑楽屋に戻った。
・七ツ時、高松様がお越しになり、力蔵様もお出でになった。
・小生、蓮屋へ行こうとしたところ、途中で平右衛門殿と会えたので、一緒に邑楽屋へ戻った。
・夜に馬喰町三丁目の桝屋三右衛門のところへ行ったが、文平は残念ながら留守。やむなく手紙を認めて、国元の元俊老、善右衛門殿の名前で、宝田村の九兵衛殿を通じて頼み送ることにしました。
・今回の入用(費用)は、干潟組と長沼組は別にした方が良いだろう、と良左衛門君から申し入れがあった。持参した金はすべて良左衛門君に預けた。
幽学先生からは、「従前どおりのやり方を守るように」とのお言葉があった。

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安政4年4月16日(1857年)
#五郎兵衛の日記
荒海村(成田市荒海)の平右衛門殿が江戸に来たことが分かったので、蓮屋(公事宿)と打合せし、明日の昼前に平右衛門殿の着届けを行うこととした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
荒海村の平右衛門は奉行所から呼出しを受けても、江戸に来た形跡が見られなかったことから、五郎兵衛らはどうやって奉行所にごまかして報告するか苦慮していましたが、本人が来ていることがわかったので、正式に着届けをする手はずを整えています。

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〈詳訳〉
・早朝、馬喰町の桝屋を訪ね、宝田村の者に平右衛門殿の手紙を頼んだ。
・その後、石町三丁目にある高田屋治兵衛という宿で、飛脚が持ってきたものを172文で買って帰った。
・又左衛門殿は外出し、蓋付きの茶碗を買ってきた。幽学先生は一腰買って八ツ時にお帰りになられた。佐左衛門殿は着届けを済ませて七ツ時に戻ってきた。
・高松様親子と幽学先生のご意向が食い違っているという話があり、良左衛門君と源兵衛殿は明日小石川の高松様方へ行くこととなった。
・その後、一同で資料を調べた。
・晩に蓮屋(公事宿)に行き、明日の昼前に平右衛門殿が着届けを行うことに決め、邑楽屋に戻った。
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安政4年4月17日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が田安家の御代官様と面会。幽学先生は高齢で多病であり、長部村に引取りたいとの意向を伝えた。御代官様は「師匠と弟子の情けによる歎願であり問題はなかろう。願いが聞き届けられれば、一同の仕合せであろう」との仰せ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
平右衛門は従前幽学先生に折檻され、怒って村に帰ってしまったのですが(嘉永7年2月4日条)、幽学先生の為に田安家の代官と折衝を行っています。田安家の代官も寛容な心の持ち主です。ただ、奉行所がそれを認めてくれるかどうか…。
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〈詳訳〉
・五ツ半時、平右衛門殿を迎えるため蓮屋へ行ったが、途中で道を間違えてしまった。
・幽学先生は買い物に出かけられた。
・良左衛門君と源兵衛殿は小石川の高松様のもとを訪問した。今回の件でお世話になることについては、長引けば一同の生活に大きな影響が出てしまうこと、非常に厳しい状況であることを申し上げた。幸左衛門親子は日雇いで働き、「すわ」殿は賃縫物をしている。このような事情なので、今回の御世話は止めていただきたく存じます、と参上して申し伝えた。
・宜平殿は四ツ谷新宿の御地頭所へ赴き、九ツ時に戻った。又左衛門殿は番町の御地頭所へ行き、四ツ半時に戻った。
・平右衛門殿は四ツ時に邑楽屋(公事宿)と協議。その後御代官様に参上し、「幽学先生は老いて衰えており、しかも多病ですので、長部村に引き取りたいと思っております」と申し上げた。これに対し御代官様は、「それは何も差し障りになることはない。誠に師匠と弟子の情けによる歎願であれば、問題はないだろう。また、門人の思いを晴らすためにも良いことだ。もし願いが聞き届けられれば、一同の仕合せであろう」と仰せになった。
・七ツ時、良左衛門君は神田明神下の外川屋へ赴き、右の件について打合せし、書き付けを作成して夕方に戻った。
・傳蔵殿が地頭所に赴き、八ツ時に戻った。
・一同髪結い。
・幽学先生は京橋方面へ出かけ、二腰分買い、八ツ時に帰宅された。その後、山崎甚蔵という揉み屋へお出でになられた。
・夕方に佐七殿がやって来た。
・夜、小生と良左衛門君の二人で蓮屋に向かいました。平右衛門殿を明朝に御代官様方へ行かせることについて打合せをした。
・力蔵様がお出でになられ、四つ時までおられた。

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安政4年4月18日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿は今日も御代官様のところに行かれた。「御代官様も皆によろしくとのことでございました」との報告を聞いて、幽学先生は、「平右衛門は人と話し、その人の知恵を借りて物事を進めて行くことができるのだな」と感心されていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
一度は幽学一門と絶縁したかのような状態が続いていた平右衛門ですが、田安家代官とうまく折衝して物事を進めていくのはさすがです。
なお、五郎兵衛は幽学先生からこんなことを言われてしまいました。「あまり食べ過ぎて腫病となってはいけない。特に五郎兵衛は気をつけないとな」
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〈詳訳〉
・五つ時、幽学先生は西のくぼの方へ散歩に行かれた(八つ時にお戻り)。
・又左衛門殿は池の端で提灯を買ってきた。
・正太郎殿と源兵衛殿は、昌平橋の向いでタバコを買い、小石川へ行って箪笥を持って来た。
・佐左衛門殿が五つ時に来た。七つ時に帰り。
・良左衛門君と又左衛門殿は深川の長左衛殿の屋敷へ行った。八つ時に戻り。
・平右衛門殿が引き続き御代官様のところに行かれた。七つ時に戻り。「御代官様も皆によろしくとのことでございました」との報告を聞いて、幽学先生は、「平右衛門は人と話し、その人の知恵を借りて物事を進めて行くことができるのだな」と感心されていた。
・昼前に平太郎殿が来た。
・一同で湯に入りに行く。
・傳蔵殿が病気のため、又左衛門殿は両国の桐山へ薬を買いに行った。
・夕飯の後、幽学先生から一同に、「あまり食べ過ぎて腫病となってはいけない。特に五郎兵衛は気をつけないとな」とのお話しあり。

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安政4年4月19日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生を長部村(旭市長部)で引き取りたい旨の書面を良左衛門君が作成したが、外川屋(公事宿)では書面の内容にダメ出し。邑楽屋の米八殿と相談し書面を修正後、奉行所へ提出。奉行所では「受け取った、今日は下がれ」と言われたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
(遠藤)良左衛門は長部村の名主の息子なのですが、達意の文章を書くのは苦手なようで、今回もダメ出しを受けています(以前は幽学先生にも呆れられていました)。邑楽屋の手代の援助を受け、書面を完成させ、奉行所に提出することができました。


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〈詳訳〉
・早朝、良左衛門君が明神下の外川屋に書き付けを持って打合せに行ったが、「これでは文章が良くないので、皆さん一同でよく相談し、落ち度がないようにした方がよいのではありませんか」と言われて帰ってきた。
その後、米八殿と打合せし、書面を書き直し、
四つ時に良左衛門君は源兵衛殿と共に、米八殿の案内で御奉行所へ書面を出しにいった。
良左衛門君の帰りは遅かったが、書面は御上(奉行所)に提出したとのこと。「書面は受け取った。(おって連絡するので)今日は下がれ」とのこと。
・幽学先生は切通しの方へ行かれ、藤元屋や元岩井町の泉屋へもお出かけになった。
・昼、又左衛門殿は、先生の「はつち直し」にを深川仲町の長左衛門殿のところへ行った。
・宜平殿は池之端仲町へ提灯を誂えに行ったが、「印が目立ちすぎるのは、町家では好ましくないでしょう」と言われてしまった。


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安政4年4月20日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生からのお話し。
「相手方の者と奉行所の腰掛(待合)で会っても、距離を保ってただ静かにニコニコしていなさい。相手から罵詈雑言を浴びせられたときも、私はそのようにしていただろう。困難に際しても相手を恨まず。それが性学の評判を高めることとなる」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学一門が裁判となっているきっかけは、いちゃもんを付けられて金を脅し取られたという事件が発端となっています。この事件では幽学一門は被害者なのですが、幕府側は幽学一門の問題を狙い撃ちしてきています。恨みたくもなる状況ですが、困難に際しても相手を恨まずと説いています。



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〈詳訳〉
・今日、御成があるはずだったが延期となった。
・良左衛門君は外川屋へ行き、五つ時に戻り。
・幽学先生は髪を結い、五つ半時にお出かけになった。
幽学先生のお言葉「相手方の者と腰掛で会っても、ただ静かににこにことして、距離を保っていなさい。八石での騒ぎのときに、『このままでは切るぞ』と罵詈雑言を浴びせられても、静かににこにことしていたため、相手が立ち去るときには「どうも先生には感心する」と言って帰っただろう。今回もその時と同じように振る舞いなさい。探索を命じられて難儀したとしても、相手を恨むことなければ、性学の評判も良くなるものだ」
・八つ半時、小見川の茂兵衛殿と俊斎子が来た。諸徳寺村の若者からの書状が届いた。

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安政2年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年03月27日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政2年4月11日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼過ぎに松枝町の借家へ。明日奉行所に帰村願いを出すことになった。本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ね、主人と打合せ。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
年末年始の帰村が2月15日までだったので、江戸に来て2ヶ月も経たないのですが、また帰村願いを出すという話しになっています。五郎兵衛は帰村の意思決定には関与してないので、なぜこのタイミングでの帰村願いなのかは日記ではわかりません。

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〈詳訳〉
朝掃除、写し物。治助殿は五ツころ松枝町から戻ってきた。昨日米込村の伝蔵殿が来て、明日12日に帰村願いを出すことになったとのこと。九ツころ松枝町へ行き、幽学先生、平右衛門殿と小生で泉之湯へ。かけ湯を汲む際に盲目の方が来られたが、気を遣わずにいたら、幽学先生から叱られ、松枝町へ戻ったときに「のろい」と言われて、道友一同大笑い。
八ツころ本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ねたが、主人が留守のため一度戻り。夜に再び訪れ、主人と会って打合せをした。邑楽屋(公事宿)には翌朝伺う相談をして松枝町の借家に戻った。
蓮屋(公事宿)には、平右衛門殿が八ツ過に行き、帰村願のため、差添人を頼んできた。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。


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安政2年4月12日(1855年)
#五郎兵衛の日記
昼過ぎ御奉行所の腰掛へ一同出頭。幽学先生は病気と称し欠席。帰村願を提出。奉行所は「おって呼出す」とのご指示。折角なので日本橋で鰯を買い、松枝町の借家で料理し食す。一同は借家に泊だが、小生は番町に帰り、夜番を九ツまで勤めた
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村願いを提出するには関係者(呼出しを受けている者+差添)が出頭しなければなりませんが、幽学先生は病気と称して欠席。毎度毎度この手を使ってますが、奉行所からも咎められておらず、結構緩い(笑)。幽学先生だけ武士身分だからでしょうか⋯。

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〈詳訳〉
昨晩は松枝町の借家泊。朝飯を食べた後、良左衛門君は手代の米八殿のところへ行った。
平右衛門殿と平太郎殿が四ツころ来たので、九ツに昼食を取った後、御奉行所の腰掛へ出向いた。
出頭した者以下のとおり。
良左衛門君
差添人:治助殿

又左衛門殿
差添人:藪様御作事頼み

傳蔵殿
差添人:久左衛門当病

伊兵衛父
差添:藪様奉公人頼み

平右衛門殿
差添:蓮屋で頼み

五郎兵衛
差添:蓮屋で頼み

幽学先生は病気と称して欠席。蓮屋の主人と手代の米八殿が奉行所への帰村の願書を作成し、九ツ半ころ奉行所に提出。「おって呼出すので今日は帰ってよろしい」との指示。せっかくだから何か買って帰ろうということになり、又左衛門殿が日本橋で鰯を買ってきて、小生と治助殿で鰯料理を作り食べた。一同松枝町の借家に泊まり。小生は夕方番町の屋敷に帰り、夜番を九ツまで勤めた。



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安政2年4月13日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。飯田町へ米を持参す。治助殿と髪結い。写し物。八ツころ大野様の米搗き。暮方までかかる。夜五ツ松枝町より平太郎殿来る。奉行所からお呼び出しあり、明日五ツ半に出頭とのこと。夜番を九ツから明六ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日帰村願書を奉行所に提出し、今日早くも奉行所から呼び出しがありました。随分早く結論が出ているので、何らかの根回しがあったのかもしれません。五郎兵衛は夜番を九ツから明六ツまで勤め、そのまま奉行所に出頭するつもりです。

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安政2年4月14日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。九ツ、訴所に呼込あり。奉行所は帰村を認め、幽学先生は村預けとなった。帰村の期限は決めず、出頭を求めるときは呼出しをするとのこと。
九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ、賑やかに祝い事を行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村が認められました。期限を切られていないのは異例です。幽学先生もホッとしたのか、いつもより優しいお言葉。鰯料理ではありますが、道友一同珍しく楽しみ、賑やかに祝っています。
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〈詳訳〉
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。

幽学先生 当病(病気として欠席)

良左衛門君
差添:治助殿

又左衛門殿
差添:平太郎殿

傳蔵殿
差添:当病

伊兵衛父
差添:藪様御作事頼み

平右衛門殿
差添:蓮屋に頼み

五郎兵衛
差添:蓮屋に頼み

邑楽屋主人
蓮屋手代


四ツ半時に着届を提出。九ツ時、訴所に呼込があり一同まかり出る。その場で、銘々の名前が呼ばれ、「その方余儀なきことであるので、願いどおり帰村を許可する。今後、御差紙(役所からの正式な指示書)が届いた際には、一同が支障なく出頭するように」「幽学は帰村の上、村預けを申付る。良左衛門は請書を差出すように。その外一同は請書は不要である。」 とのご指示であった。

九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ賑やかに祝い事を行った。夕方、治助殿だけ番町のお屋敷へ戻った。



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安政2年4月15日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
淀藩の御上屋敷を訪れ、足達鏡蔵様に届書を渡す。「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村が決まりましたので、村に帰るのに必要な
御返翰の申請を藩の屋敷にしています(五郎兵衛の居村は淀藩領)。お世話になった公事宿の万徳には「袴代」と称してのお礼を渡すのも忘れてはいけません。万徳は元々は三河町(現内神田町)にありましたが、火事で焼失した為本郷で仮営業をしています。
---
〈詳訳〉
朝に淀藩の御上屋敷の御勘定様と御留守居様へ提出するため、届書を二通作成。四つ時に御屋敷へ出向き、足達鏡蔵様からは、「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。また、御留守居様にも届書を提出。

本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。松枝町へ戻る。平太郎殿と良左衛門君が居ったので、茶を飲み、その後番町のお屋敷へ引き上げた。
又左衛門殿は大崎方へ出向き、給金を受け取って帰ってこられた。

---
〈奉行所宛の書面〉
乍恐以書附奉願上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)

常州牛渡村の一件に関わる者たちが一同、謹んで申し上げます。
現在、この件については御吟味中でございます。しかしながら、私どもの近郷で、感染症が流行しており、家ごとにその病症に悩まされております。そのため、看病などに手が回らず、さらに農作業の重要な時期を迎えておりますが、自然と耕作が遅れ、結果として一同は困難極まりない状況に陥っております。

右の事情は御吟味中のことであり、まことに恐れ多いことではございますが、何卒特例としてお許しいただき、一同まず帰村させていただけますようお願い申し上げます。なお、後日に御用がございます際には速やかに出府いたし、少しも御差し支えのないようにいたします。

何卒、御慈悲をもって、一同を先に帰村させるようお取り計らいくださいますよう、心からお願い申し上げます。

卯四月十二日
一同連印
但し差添人共
御奉行所様
---
〈淀藩の御勘定様宛書面〉
乍恐以書附御届奉申上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)

下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が謹んでお届け申し上げます。

私どもは本多加賀守様ご担当のもとで御吟味を受けておりますが、近郷では流行する熱病が広がり、家ごとに病に悩まされている状況でございます。そのため、看病に支障をきたし、加えて農事の大切な時期に耕作が遅れ、私ども一同は非常に難儀いたしております。このような事情から、一度帰村を願い出ましたところ、昨十四日にお呼び出しいただき、願い通り一旦帰村するようお許しいただきましたので、お届け申し上げます。

つきましては、明十六日に出立し帰村したいと存じますので、何卒ご慈悲を賜り、御返翰を下さいますようお願い申し上げます。以上

安政二卯年
四月十五日

御領分
下総国埴生郡長沼村
百姓 五郎兵衛
百姓代
差添人:甚左衛門

ご勘定様 御役所
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安政2年4月16日(1855年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御家中の方々に暇乞い。小石川に行き高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買う。松枝町の借家で夜遅くまで碁を打って過ごした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学一門は明日江戸出立の予定。江戸には当分来ないということもあり、五郎兵衛もお買い物。バイト代(筆工代)が入ったので、剃刀や羽織を購入しています。夜遅くまで碁を打って過ごしており、解放感の感じられる記事になっています。

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〈詳訳〉
朝の掃除後、御家中の方々に暇乞い。五つ過ぎに全て挨拶を済ませたので、四つ時に松枝町へ向かう。幽学先生は買い物にお出かけされ、御親父は役所へ行っていて留守。
良左衛門君や平太郎殿と語らっていた。四つ半時に平右衛門殿と昼食を食べ、小石川の高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買って、七つ半時に松枝町の借家に戻る。
晩には長左衛門殿とおけい殿が来訪し、四つ時まで碁を打って過ごした。

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安政2年4月17日(1855年)
#五郎兵衛の日記
筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩上屋敷へ。御返翰を受取る。松枝町に戻り荷物の準備。幽学先生は干物を買いにお出かけ。公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いし、九つ時に江戸出立。八幡から鎌ヶ谷まで馬。鎌ケ谷の鹿嶋屋で泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、本日江戸を離れ帰村の途につきました。出立の前に淀藩上屋敷で御返翰を受取ったり、公事宿に挨拶に行ったりと忙しく動きますが、お買いものは欠かせません。筒井屋で茶を買う五郎兵衛、干物を求める幽学先生が書き記されています。本日は鎌ケ谷まで。定宿の鹿嶋屋さんに泊まりです。

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〈詳訳〉
五つ時、平太郎殿が番町の藪様の御奉公に出かけた。十日市場村の御親父様は明十八日に江戸を立つとのこと。
小石川へ参り、帰村についてご報告。その後、筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩御上屋敷に足達様を訪ね、御返翰を受け取った。
帰宅後、荷物の準備と昼食の支度を行いました。その間、幽学先生は干物を買いにお出かけになっていた。
九つ前には昼食の御膳の準備を整え、九つ時に松枝町を出発し、公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いに回った。

その時、幽学先生から次のような話があった。
「帰村したら、まず自分の身を修めること。これが何よりも大切だ。善右衛門や太次兵衛たちも、出府の時にはその覚悟を持っていたに違いないが、帰村するとその心構えがなくなってしまった。だからこそ、その時にはしっかりとした覚悟を持つよう心得なければならない。また、身上(家計や財産)を持つには、仕事をきちんと分担し、毎晩家族で相談しながら進めるべきだ。必要な支出については、きちんと入用帳に記録をつけ、毎月晦日には厳密に調べ直さなければならない。おろそかにしていては出費がどんどん膨らんでしまう。それでは持続することはできない。だからこそ、家族でよく相談して計画を立てるのが大事だ。そして、出府中に得た経験を活かし、知識を深められるよう心がけるのがよい。」

このように話があった後、九つ時に江戸を出発し、八幡で鎌ヶ谷まで馬に乗って、夕方に鎌ケ谷の鹿嶋屋に到着し、泊まり。



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安政2年4月18日(1855年)
#五郎兵衛の日記
六ツ半時、鎌ケ谷を出立。四ツ時大森着。御役所へ御返翰を差上げ、角屋で昼食。七ツころ長沼村に帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市)から大森(現印西市大森)を経て、長沼村(現成田市長沼)へ。大森は淀藩の御役所があったので、ここで江戸の上屋敷で発行された御返翰を渡さなければなりません。角屋で泊まったこともありますが(嘉永6年1月28日条)、今日は昼食だけ。夕方には我家に戻れました。

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安政2年(1855年)4月の日記は以上です。
なんとここから2年間、裁判は放置されます。
その間のことは五郎兵衛日記には記載されていませんが、各人が村で普通の生活を送っていたと思われます。
呼出があったのは2年後の安政4年4月となります。


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安政2年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2025年03月13日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政2年4月1日(朔)(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
六ツ半時に殿様御登城、四ツ時御帰館。
早朝掃除。殿様の御供の者の弁当のおかず作り。昼前に治助殿と二人で田中様の薪割り。
昼過ぎ又左衛門殿、治助殿の二人は松枝町の借家に行ったが、小生は牛込わら店の湯に入りに行った。八ツ時にお屋敷に戻り、夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は殿様の登城日です(月次御礼)。月次御礼は「つきなみおんれい」と読み、原則毎月1日、15日、28日。江戸城に大名らが一斉に登城するので、早くに屋敷を立たねばなりません(六ツ半時出発)。昼前(四ツ時)には戻るのに、朝食抜きのためか御供の者は弁当持参です。

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安政2年4月2日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。殿様は五ツ時に御半供で大橋の辺りに御出掛けになられた。昼前まで写し物。
九ツ時、松枝町の借家へ向かう。
良祐殿が逗留しており、十日市場村の御親父と碁を打っていた。この夜松枝町に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は非番であり、朝に掃除、昼まで書物の写しのバイトをこなした後、松枝町の借家へ。良祐が滞在していました。長部村の名主遠藤家の跡取り息子良左衛門が江戸にいるので、連絡役として度々国元と江戸を往復しているようです。

〈詳訳〉
朝掃除。又左衛門殿と治助殿は五ツ時にお屋敷に戻ってきた。殿様は五ツ時に御半供で大橋の辺りに御出掛けになられた。昼前まで写し物。九ツ時に松枝町の借家へ行く。良祐殿が逗留しており、十日市場村の御親父と碁を打っていた。
暮方に平太郎殿が来た。元岩井町の泉屋に依頼した件について、引き取りのために石川様の門まで良左衛門君と2人で道具を取りに行った。
長左衛門殿は留守であったが、帰り道で会つた。「親方が2、3日留守であり、話しを進められない」といっていたが、小生は明日が非番であり、何かと相談の上で出向くつもりだとして帰宅し、その夜は松枝町に泊まり。


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安政2年4月3日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
四ツ時に良祐殿は出立。小生も松枝町を出て、番町のお屋敷には四ツ半着。昼から治助殿と髪結い。夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は昨日に続き今日も非番。そのため、番町にある屋敷に戻るのも昼前(四ツ半)と遅め。五郎兵衛の非番が2日続くのは珍しく、奉公人が少しは増えたのでしょうか。

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安政2年4月4日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。勤務中に本の書き写し。五ツ半に又左衛門殿、お屋敷に戻り。夜番を九ツから明けまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は本番の勤務のほかに、夜番を
九ツ(午前零時)から明けまで勤めており、かなりの長時間勤務です。もっとも、勤務中に本の書き写しのバイトをしていますから、それほど忙しくはなかったのかも。
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安政2年4月5日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。四ツまで扶持米を搗き直し。洗濯。昼から写し物。七ツ時に出かけ、大伝馬町の高木で筆と墨を買い、泉之湯に入ってから、暮方に松枝町の借家に行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
扶持米とは、主君から家臣に給与した俸祿の米のこと。五郎兵衛の日記には米搗きの記事がよく出てきます。殿様(藪家)から家臣が頂戴した米を、奉公人に精米させているのでしょう。


〈詳訳〉
朝掃除。四ツまで扶持米を搗き直し。洗濯。昼から写し物。七ツ時に出かけ、大伝馬町の高木で筆と墨を買い、泉之湯に入ってから、暮方に松枝町の借家に行く。
治助殿からもらった綿入の仕立て直しを松村に相談したところ、「三浦の御新造ができるはずで、江戸に来るかも知れないから、三、四日様子を見てはどうか」と。
幽学先生からは、「自分勝手な判断で決めたり、規律を乱してはいけない。慎重に行動するように」と注意を受ける。結局、このことは一旦保留。
また、先生からは、昨年、幸左衛門殿が蔵方の半助から頼られ、銀座で金銭の支払いを行ったことがあったと国元から聞いているが、小生や宜平殿も知っていながら隠していただろう」とのご指摘を受ける。
御親父様からは「今後も互いに気を付け合い、問題を起こさないように。先生に心配をかけないように」とお言葉をいただいた。

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安政2年4月6日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
藤助から頼まれ雉子町で紙帳を買い、五ツ前にお屋敷に戻る。五ツ時、殿様は昌平坂へお出かけ。
小生は添番勤務。八ツ半まで書物の写し。
平右衛門殿が文平方からの手紙を持って来てくれ、しばし語り合う。その後九ツまで夜番の勤め。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日松枝町の借家に泊まった五郎兵衛は、雉子町(現千代田区神田美土代町付近)で、藤助(同僚)から依頼されたものを買い、お屋敷に戻りました。殿様は昌平坂学問所に御用だったようです。殿様がお屋敷に不在であり、家臣不在なので、勤務時間中にバイト(書物の写し)をしダブルワークをこなしています。

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〈詳訳〉
早朝茶を飲む。藤助からの頼みで雉町へ紙帳を買いに行き、五ツ前に戻る。五ツ時、殿様が昌平坂へお出かけになられた。小生は添番の勤めをし、書物の写しを八ツ半時まで行う。
平右衛門殿が文平方からの手紙を持って来てくれ、一時語り合う。
又左衛門殿は九ツ時に松枝町の借家へ出かけ、小生は九ツまで夜番の勤め。

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安政2年4月7日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。治助殿は五ツ半時に松枝町の借家へ出かけた。夕方床上げ。九ツより六ツまで夜番を勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本番勤務をした後に、九ツ(深夜12時)から朝六ツ(午前6時)まで夜番を勤めた五郎兵衛。長時間勤務ですが、あまり忙しそうではなさそう。書物の写しバイトを勤務時間中にしてしまうくらいですから。

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安政2年4月8日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。昼前に写し物。八ツに出掛け、泉之湯に入り、松枝町の借家へ。御親父様から「幽学先生は夜具の整理をご自分でされている。規律をしっかり守るよう、一同が心を一つにして取り組むことが大切」とのお言葉をいただいた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が幽学先生と共に松枝町の借家に住んでいたときは、五郎兵衛が幽学先生のお世話係だったのですが、五郎兵衛が武家に奉公に行ってからは、幽学先生は夜具の上げ下げもご自分でされているそうです。

〈詳訳〉
朝掃除。治助殿は松枝町の借家から五ツ時にお屋敷に戻ってきた。昼前に写し物し、二人で髪結い。殿様は四ツ半に下屋敷に出掛けられた。平右衛門殿は石川様の新部屋に御奉公のため七ツ時に出掛けた。
夕方良左衛門君が治助殿の荷物を持ってきた。
八ツ時に治助殿と共に出掛ける。藤助に頼まれて新石町板新屋の大工与市方に米を持参する。泉之湯に入った後、松枝町の借家へ八ツ半時に行く。
幽学先生、良左衛門君、御親父がおり、先生から次のような話しがあった。
「良左衛門は、全体を把握しないで、何事もその場限りで済ませようとする。その場を良くすしようとしてつまらない話しをするから、話しがまとまりのないものになってしまうのだ。
予は道友の話なら、どれだけ話しても尽きるということはないのだし、良左衛門もそのことであれば、予と意見が合わないということもないのだが、どうも自分のことで悲観的になりがちだから、そのせいで予が厳しい人物のように見られてしまう。去年も今年も国元の人々から「予が良左衛門を酷くいじめている」と思われているので、それで予の言うことが何一つ通らない。どうしようもないので、何事も構わぬよりほかに方法がない。」

御親父様からは、「夜具の整理なども、幽学先生はご自分でされている。これまで立ててきた規律をしっかり守るよう、一同が心を一つにして取り組むことが重要なのだ」とお言葉をいただいた。

豆腐とか干物等の人数割りにして、全員の食費とは別に各自の分を割り増しで計算すると話し合った。
晩に平太郎殿が来て、碁を打ち、四ツ時に就寝。

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安政2年4月9日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
朝五ツ時にお屋敷に戻る。殿様は御半供で昌平坂へお出かけ。写し物をする。又左衛門殿は八ツ時に松枝町の借家へ出掛けた。小生は夜番を九ツまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のところの藪家の殿様は先日(4月6日条)と同様、本日も昌平坂学問所へお出かけです。
殿様の外出は常にお供を伴うため、私的な時間を確保するのは大変そうです。

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安政2年4月10日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。殿様は六ツ半時に御供を揃えて本庄安芸守様方へ御出掛けに。田安御馬場にも御廻りになられ、九ツ時に御帰館になられた。
小生は写し物の後、七ツころ御弓場の支度。夕方その片付けをし、夜番を九ツから明六ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛日記は大原幽学一門の裁判日記なのですが、ここ最近は武家屋敷での奉公人日記となってしまっています。幽学先生の動静は道友でもある同僚から聞いているはずですが、日記には書き残されていません。お殿様の動静が記録されており、五郎兵衛にはどうもそちらの方が気になってしまっているようです。

〈詳訳〉
朝掃除。殿様は六ツ半時に御供を揃えて本庄安芸守様方へ御出掛けに。田安御馬場にも御廻りになられ、九ツ時に御帰館になられた。
五ツ前に又左衛門殿が戻ってきて、九つには治助殿が松枝町の借家へ出かけ。小生は写し物の後、七ツころ御弓場の支度。夕方その片付けをし、夜番を九ツから明六ツまで勤める。
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