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五郎兵衛 ようやく仕事にありつく 嘉永7年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年4月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は早朝から高輪に出かけられ、腰物を一本買ってこられた。
・昼過ぎに幸左衛門殿が収支の帳面の確認に来たが、小生が帳面を仕上げておらず、幸左衛門殿は泊まり。14日にも来られることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
経費削減策のため、月の末日で締めて収支の帳面を作成しています。他の者はバイトに行ってしまっているので、帳面作成の責任者は五郎兵衛の役割。しかし、五郎兵衛は会計帳面の作成はかなり苦手です。11日になってもまだ帳面が作成できておらず、幸左衛門が借家に来ても空振りになってしまいました。
(菅谷)幸左衛門

大原幽学の門人 菅谷幸左衛門 - 南斗屋のブログ

大原幽学の門人菅谷幸左衛門(はじめに)大原幽学の刑事裁判を記した『五郎兵衛日記』には大原幽学の門人の名が多く記されています。しかし、同日記を読んでい...

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嘉永7年4月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が石川様の御門番の仕事をしたいといいだし、幽学先生に相談。幽学先生「甚だ筋が悪い。夜番の仕事についたのは、素読もできる所だったからではなかったか。それをまた門番に変えるとは不義理・私欲である」とお叱りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
(遠藤)良祐はこれまで、久保田藩(秋田藩)佐竹家の辻番⇒旗本石川家の辻番と転職してきましたが、今度は門番に着きたいと言い出しました。若い良祐には辻番の仕事はつまらないのでしょう。大原幽学に相談したところ、あっさりと断られてしまいました。

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嘉永7年4月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
神谷様が来られて、高松力蔵様の事について色々と話しをされた。幽学先生「神谷様は才のある考え方をされるから、徳も失われるのです。眼前の事だけ考え、あまり先のことは考えない方がよい。十年先の事とか、子供の代にはどうとか、自分が死んだ後はどうと一々考えないで、ゆるりとした方が道に叶います。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「神谷様」は水戸藩の隠密のようです(内山朝治「武士にて候」)。高松力蔵関係で大原幽学のところに来たのですが、色々と悩みがあるようで、一度幽学先生と話したところ心酔(4月4日条)。本日の幽学先生の話しからすると、だいぶ繊細な神経の持ち主のようです。

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嘉永7年4月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は買い物に出かけ、夕方にお帰りになられた。
・幸左衛門殿が早朝から来て、収支の帳面の確認。真夜中までかかっても終わらず。幽学先生から小生の帳面の付け方、金銭の取り扱い方が未熟。筋のたった帳面の付け方になっていない、と叱られた。帳面の確認は終わらず、幸左衛門殿は、また後日来ることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友の生計費等の帳面作成は五郎兵衛の仕事ですが、こういう仕事が苦手な五郎兵衛は期限までに帳面を作成できていませんでした( 4月11日条)。そのため、幸左衛門は今日また確認に来たのですが、今度は間違いだらけ。幸左衛門が深夜までかかっても確認が終わらず、別の日にまた確認に来ることになりました。


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嘉永7年4月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿が借家に来られて髪を結いをし、昼に帰られた。
・長左衛門殿の内室が来た(良祐殿が連れてきた)。幽学先生は、身上の持方の方法や亭主との相談の仕方等を御教諭された。
・小生、井筒屋で茶を買い、通り油町の加賀屋に寄って眼鏡を取って帰った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「長左衛門」は江戸での仕事の紹介役として日記に登場しておりました。本日は奥様登場。やはり夫婦して江戸に住んでいるようです。幽学先生、夫婦関係の悩み事相談をしておりますが、結婚歴もなくして、夫婦関係相談をするとは、そういう才能をお持ちだったのでしょう。


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嘉永7年4月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、節五郎殿が借家に来る。小生と二人で手紙の下書きを書く。夕方節五郎殿は帰った。
・幽学先生は腰物を買ってお帰りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎は、旗本石川家に住込みで足軽奉公の仕事をしています。早朝に借家に来ていますから、夜の仕事なのでしょう。五郎兵衛とは親しい間柄で、日記にもちょいちょい顔を出します。今日は五郎兵衛と共に手紙の下書きを書いています。


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嘉永7年4月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が先生頼りで金を相談無しに渡したとのこと。幽学先生「以後このようなことのないように。手前もこの頃気の附け所がどうも気に入らぬ、食事を世話してもらっているが、世話される程嫌になる、どうもそれでは困る、この上は自分からは何も差図をしない、しかし分からないことは聞けば話す。難しいことはこれきり言わぬ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛では時々大原幽学先生の発言内容が記録されているのですが、今ひとつ何が言いたいのか分からないときがあります。本日もその一つ。良祐が「先生頼りで金を相談無しに渡した」というのもわからないし、幽学先生が逆ギレ気味に、「自分からは何も差図をしない」という理由もよく分かりません。


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嘉永7年4月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝早く借家に来た節五郎殿と小生とで、国許への手紙を認め、蓮屋(公事宿)に手紙をお願いした。
・昼前に幽学先生は買物に出かけられ、小道具や脇差し1本を買って昼過ぎに戻られた。
・本屋から筆工の仕事の話しあるとのことで、小生、晩に本屋へ参り話しをしてきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀等の転売ヤーで稼いでいるはずなのですが、五郎兵衛日記では買物に行く⇒刀を買ってきたという記載ばかりで、売ったという記載が出てきません。仕入れの資金をどこから得ているのかもよくわからず、謎だらけです。


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嘉永7年4月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿が来られる。写し物をして日暮れには帰っていった。
・幽学先生は買物に出かけ、夕方にお帰りになられた。
・晩になって小生は、元浜町の本屋から真書太閤記一巻を借りてきた(写し作成の仕事用)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仕事のなかった五郎兵衛ですが、昨日、本屋から声がかかり、今日、真書太閤記一巻を借りてきて、写し本の作成の仕事に取り掛かるようです。

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嘉永7年4月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、邑楽屋(公事宿)から秤を借り、鰹節や味噌の目方を測る。早めに昼食を取ってから、幽学先生は幸左衛門殿と一緒に買物に出かけた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が公事宿から秤を借りてきて、鰹節や味噌の目方を測っています。唐突にこんな記事が出てくるので、これが何を意味するのかはよくわかりません。それにしても、幽学先生一派と公事宿の付き合い方は面白い。本来は被告人ですから、公事宿に泊まっていないといけないのですが、借家住まい。これでも双方に利益となっているのでしょう。


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ひたすら待機の日々 嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月15日 | 大原幽学の刑事裁判
ひたすら待機の日々
嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年4月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、幸左衛門殿が帰っていった。小生は万徳(公事宿)へ袴代を持って行った。節五郎殿は長左衛門殿の所へ行き、部屋での奉公(バイト)について相談してきたとのこと。小生は、蓮屋(公事宿)へも袴代を持参。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
⇒上記をアレンジしてみました。
朔日であり、お世話になっている公事宿にご挨拶。万徳(公事宿)と蓮屋(公事宿)に袴代を持っていった。
こういう仕事は弟子の役目である。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が「袴代」を公事宿に届けています。「袴代」は、おそらく公事宿への付届け。大原幽学たちは、本来公事宿に宿泊しなければならないのですが、経費節減のために借家に住んでいます。そのことを公事宿に黙認してもらうためのお金が「袴代」の正体ではないでしょうか。
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嘉永7年4月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は旗本の石川様の新部屋で足軽奉公をすることが決まり、長左衛門殿が付添って石川様方に行った。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は仕事先を探しており、昨日長左衛門殿の所へ行って相談してきた。旗本の石川様の新部屋で足軽奉公の仕事があり、今日、長左衛門殿と一緒に石川様のところに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐は先日バイト先を変え、旗本石川家の足軽部屋に住込みで仕事をしています(3月10日条)。節五郎も同じ旗本石川家の足軽奉公の仕事に決まりました。長左衛門が付き添っているところを見ると、彼は仕事の紹介をしているものと思われます。

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嘉永7年4月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は昨日石川様方に行ったが、今日の夕方道具を取りに借家に一度戻ってきた。小生は石川様の門まで布団を持参した。
幽学先生が買物に出かけて、夕方に帰って来られた。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は昨日から住込みの仕事が決まったが、何も持っていかなかったので、身の回りの物を取りに借家に戻ってきた。節五郎殿の布団は小生が持っていった。
幽学先生は本日も買物。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
足軽奉公は住込みです。節五郎は昨日から旗本石川家で住込みで働きはじめましたが、足りないものを取りに借家に戻ってきました。五郎兵衛は布団を担いで、節五郎に同道。その間、幽学先生はのんびりとお買い物です。
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嘉永7年4月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼前に高松力蔵様と神谷様が借家に来られた。力蔵様のことでお詫びをされたが、幽学先生は取り成しをされた。夕方まで様々な話があり、神谷様は夫婦の中での問題についてもご相談になった。幽学先生のお話しに感服され、こんどは妻を連れて相談に来ると言ってお帰りになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記からは高松力蔵と神谷様の関係がよくわかりませんが、おそらく力蔵の養子縁組上のトラブル(3月17日条)ではないかと思われます。であれば、神谷様はトラブルの相手方のはずですが、話しをしている間にすっかり大原幽学に心酔。これが幽学先生の魅力なのでしょう。

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嘉永7年4月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が借家に来て、小生と共に会計の帳面に誤りがないか調べた。間違いが多くみつかり、幽学先生から厳しく叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛またもや幽学先生に叱られてしまいました。五郎兵衛は性格も優しく、江戸滞在中は一日も欠かさず日記をつけていたほどの筆まめですが、数字の方の才能はなかったようです。会計帳面に誤りが多く、幽学先生から雷が落ちました。
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嘉永7年4月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は高輪へお出かけになり、昼過ぎに戻られた。
茂兵衛殿は昼前に出かけ、惣右衛門殿が借家に来て髪を結い、湯に入って昼飯を食べて帰った。伊兵衛父も借家に来て、夕方には仕事場に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、高輪(現東京都港区高輪)へお出かけ。高松彦七郎に会いに行ったものと思われます。「高輪」はペリー来航以降、幕府の外交上、防衛上の拠点となっており、御家人の高松彦七郎は同所で勤務しています。
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嘉永7年4月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に借家に来て、小生に「節五郎殿が入った旗本石川家で辻番の夜番の口がありますよ」との話しあり。早速、幽学先生にご相談したところ、「夜番で勤めて、借家に来る人への世話が行き届かなくなるではないか!」と叱られた。
昼過ぎ、高松彦七郎様が借家にお出でになられ、二時間ほどでお帰りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事がなかなか決まりません。道友の良祐殿が心配して、仕事を紹介してくれました。しかし、紹介してくれたのは辻番の夜番。五郎兵衛は借家の雑事を担当しているので、両立の見込みはありません。それがわからず幽学先生に話しをもっていくから、叱られてしまうのです。

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嘉永7年4月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿は借家に昼前に来て、夕方に帰った。伊兵衛父や武左衛門殿も来たが、昼前には帰った。
・幽学先生は寝巻、幸左衛門殿と良祐殿は綿入れを船で地元に送ることになり、小網町まで茂兵衛殿が持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎殿や伊兵衛父は夜番仕事をしており、夜勤明けで借家に顔を出しています。
・江戸の小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面への物流の拠点だったのです。
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嘉永7年4月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が来て写し物をし、夕方に帰り、幽学先生は買物に出かけて、昼過ぎにはお帰りになり、伊兵衛父が夕方に来て、辻仲間の失敗談を話していた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「伊兵衛父」こと林伊兵衛(1794~1870)。十日市場村(現旭市)の林家の当主で、このとき60歳を超えていますが、辻番で夜勤のバイト。すっかり職場にも馴染んでおり、職場の失敗談を五郎兵衛に話しています。

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嘉永7年4月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿が借家に来た。「段々と勝手も分かり、毎日夜番をしております。随分と働きやすくなりました」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が辻番の仕事を始めてから約一週間。だいぶ辻番の夜の仕事に慣れてきたようです。何事もなければ、巡回と待機であり、さしたるスキルがなくてもできたのでしょう。。

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付1 「足軽」(4月2日条)
節五郎が足軽の仕事をするとの記事がありました。足軽につき以下のものが参考となります。
尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代』
「足軽は戦時なら前線に立つ雑兵である。腰に大小二本を帯びる「帯刀人」の範疇ではあるものの、士には決して含まれない。平時は門番などの単純な守衛業務などに従事し、勤務時の服装は青色や萌黄色の法被(羽織に似た形状)などを着ている。その背中などには 主家の印が入っている(『徳川盛世録』)。」

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付2 辻番の仕事
辻番の番人は 夜分、六尺棒を持って、廻り場(管轄区域)を巡廻するのが仕事。不審な者が来たならば留めておき、支配の役人へ届けなければなりません。屋敷から幕府の目付へ連絡して、目付の差図により動く定めでした。
何事もなければ、巡回と待機であり、スキルがなくてもできたのでしょう。そうでなければ、地方から出てきた農家にすぐに務まるわけがありません。
参考文献:石井良助『江戸の町奉行』



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月の最終日は全員集合・嘉永7年3月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月08日 | 大原幽学の刑事裁判
月の最終日は全員集合・嘉永7年3月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分)。
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嘉永7年3月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、湯島切通しのかつはやへ、御出になられた。昼過ぎにお帰りになり、風呂に入られた。伊兵衛父が借家に来た。幽学先生は伊兵衛父から漁業の相談等をされた。その後、両国の方に外出された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛日記は、大原幽学だけにスポットを当てておらず、道友たちの行動を日々記録していることが多いのですが、今日の日記は、珍しく幽学先生に焦点が当てられています。
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嘉永7年3月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
高松力蔵様が昼前に借家に来られ、夕方にはお帰りになられた。幡谷老人は帰村の手続きのため、御役所に行った。
小生は菜の漬直し。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は刑事裁判の被告人なのですが、彼を取り巻く人々は、幽学を信頼しており、人生の様々なことを相談しています。五郎兵衛日記に記されている幽学の言葉を読んでも、ピンと来る発言をしているようには見えないのですが、周囲の人々を納得させるような人柄だったのでしょう。

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嘉永7年3月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は、幡谷老人の手続き関係で蓮屋(公事宿)へ行き、五ツ時には戻ってきた。幽学先生は少々ご不快で御休みになられていた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「幡谷老人」というのは、「幡谷」(現成田市幡谷)に住んでいる老人という意味です。
嘉永6年2月25日条では、「幡谷村の古老半十郎」とありますので、この古老のことを指しているのでしょう。日記を書いているうちに、正規の名前ではなく、略したりあだ名を記載するというのは、それだけ近しい間柄となったからでしょう。
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嘉永7年3月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に外出され、腰物三本を買って昼過ぎに戻られた。幡谷老人、伊兵衛父が借家に来られ、日暮れまで語り合った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は今日は、刀剣を売る転売ヤーの仕事の仕入れ。今日は腰物三本を買ってきました。幡谷老人、伊兵衛父、いずれも高齢者ですが、幽学を囲み、様々な年代の人たちとのコミュニケーションが生まれています。
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嘉永7年3月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小生、早朝に小石川の高松家に行き、鎖のことを聞いてきた。書物や着物等のことも幽学先生から頼まれていたので、高松家から持ち帰った。
幡谷老人の帰村のため、節五郎殿が蓮屋(公事宿)の手代に手続きを頼みに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る転売ヤーの仕事をしており、最近は本所や芝あたりで鎖を探しています(3月9日条)等。今日は、五郎兵衛を使いとして、高松家に鎖のことを聞きに行かせています。
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嘉永7年3月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に行かれ、腰物一本買って帰ってこられた。良祐殿来て、晩には帰った。小生は石川様屋敷の平山佐平様方まで白米を取りに行った。途中で雨が降り難渋した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生は今日も腰者(刀)の仕入れです。3月24日には3本、今日も1本購入しています。この資金はどこから出ているのでしょうか…。五郎兵衛は白米を取りに行きましたが、途中から雨に降られて困っています…。
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嘉永7年3月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿と長左衛門殿が来て、碁を打っていた。小生は丁子屋へたばこを買いに行った。昼前に時雨となり、大雷鳴と共に氷降る。大雨となったが、昼過ぎから天気となる。良祐殿らは夕方には帰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
碁を打つという記事も久しぶりです。借家住まいの者が多かったときは、暇つぶしに碁を打つことが多かったのですが、良祐を初め住込みの仕事となってしまったので、それもなくなってしまいました。皆、忙しく仕事をしていますが、五郎兵衛は相変わらず仕事見つからず。それでもマイペースなのが五郎兵衛の良いところ。

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嘉永7年3月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小生は、節五郎殿と日本橋へ鯛を買いに行った。幽学先生は買物に行かれ、昼過ぎにお帰りになられた。小見川の茂兵衛殿が来て、借家に泊られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・日本橋に高級魚を買いにいっています。非常に珍しいことですが、鯛が何のためだったかは記載がありません。
・小見川の茂兵衛は、昨年2月の日記にも江戸に来たことが記載されています(嘉永6年2月21日条)。大原幽学の門人で時々小見川(現香取市小見川)と江戸を往復しているのでしょう。
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嘉永7年3月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
今日で3月も終わり。道友一同決算のために借家に集まる。
昼過ぎには高松彦七郎様が御出でになったが、その後御帰りに。夕方には高松力蔵様が御出でになり、お泊り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
嘉永7年3月は小の月で、今日29日が3月末日です。末日で締めて帳面を作成するのは、経費削減策の一環であり、資金稼ぎの為に住込みで仕事をしている者もこの日は集まって決算作業をします。五郎兵衛は帳面の作成が苦手で、昨年12月には帳面の作成に悪戦苦闘していました(嘉永6年12月3日条)。
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嘉永7年に3月30日は存在しませんので(嘉永7年3月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 
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嘉永7年に3月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判
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転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月25日 | 大原幽学の刑事裁判
転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年3月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、鎖のことを聞きに、芝などを探し歩かれた。
小生は馬喰町桝屋に忠兵衛殿に会いに行ったが、あいにく留主。帰りには野菜を買って、節五郎と二人で洗い、幸左衛門殿にも手伝ってもらって、野菜を漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る転売ヤーの仕事をしています(嘉永6年11月12日条)。鎖も需要があったようで、一昨日は本所を回っていました(3月9日条)。今日は芝の辺りを回っています。
五郎兵衛は仕事探し。しかし、見つからず野菜を買って、漬物をしています。

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嘉永7年3月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
住込みで仕事をしている良祐殿、惣右衛門殿、伊兵衛父の三人が揃って借家に来たので、ごま餅などを振舞った。
小生は、芝尾張町の人形師西村仙太郎店へ行き、仕事がないかとお聞きしたが、「最近は売れ行きがさっぱりで、仕事がない」とのこと。銀座で二軒同様に聞いたが、やはり仕事はないとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
これまで借家で共同生活をしていましたが、住込みの仕事となった者は、折に触れて借家に顔を出すことになります。今日は三人一遍に顔を揃えたので、ごま餅を振る舞っています。五郎兵衛も仕事を探していますが、江戸は不況のようで(天保の改革の影響でしょうか)、仕事先が見つかりません。

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嘉永7年3月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が仕事をしている場所を見に行った。小石川の高松様方に行く。その後は買い物をして、日暮れには借家に戻る。戻ってから、茶碗、土瓶等の掃除。節五郎殿と傳蔵殿が障子はりをしてくれた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は借家で炊事等の係となっています。茶碗、土瓶等の掃除も五郎兵衛の仕事のようです。障子はりは節五郎殿と傳蔵殿がやってくれました。

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嘉永7年3月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が袴地を買いに行かれ、昼前に一度戻られたが、小石川の高松様方に頼み事の為に出て行かれた。お戻りは夜であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が日常雑事をこなしているのとは対照的に、大原幽学は袴地を買いに行ったりして、日常の雑事には携わっておりません。
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嘉永7年3月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に行かれ、腰物一本買って来られた。お戻りになってからご教諭。「江戸で財産を築くには、正札附で目立つようにして、安く売るようにすれば繁昌するのは難しくない。 眼の前の欲にとらわれないことだ」等とお話になられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が腰者(刀)を購入しているのは、転売ヤーで稼ごうとしているからです。江戸全体は不況のようですが、ペリー来航以来、軍事的対応を迫られており、武士階級の軍事関係の支出は増えている様子。そこに目をつけた幽学先生、江戸で稼ごうというのは難しくない、と言い切っています。


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嘉永7年3月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は日陰町の辺りに行き、腰物を買って買ってお戻りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生は今日も腰者(刀)の仕入れです。

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嘉永7年3月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
一昨日、高松力蔵様が養子縁組のことで幽学先生にご相談に来られたのだが、本日昼もまたお出でになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「力蔵様」は、高松力蔵のこと。大原幽学の身元を引き受ける高松彦七郎(御家人)の次男です。内容は書いてありませんが、養子縁組のことで問題が発生しているようです。御家人の次男坊として身の振り方が難しかったのかもしれません。
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嘉永7年3月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に来た。小生は霊岸島でろうそくを買った。帰り道のよし町で油揚を買い、
良祐殿に邑樂屋と外川屋(いずれも公事宿)に持っていってもらった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は今日も日用品の買い物。油揚げは公事宿への贈答品のようです。住込みで仕事をしている良祐殿が借家に顔を出してくれたので、公事宿に持っていってもらっています。
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嘉永7年3月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小石川の高松様から使いが来て、幽学先はお出掛けになられた。御帰りは夕方であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生や道友たちは頻繁に高松家に顔を出していますが、高松家から使いが来るのは珍しいことです。緊急の用があったのでしょう。
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嘉永7年3月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、本日もお出掛けになられた。腰物と柳行李を買って帰られた。柳行李は惣右衛門の褒美で、小生が佐竹様の辻番(惣右衛門の職場)に持参して惣右衛門殿に渡した。帰りに、伊兵衛父の職場へ顔を出し、網の話しをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門は、朝早くからの掃除バイトをし、その後佐竹家の辻番の仕事を住込みでしています。毎朝早くから仕事に行っていたのを幽学先生もご覧になり感じいることがあったのでしょう。柳行李を惣右衛門に褒美としてプレゼントしています。

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節句の贈答は忙しい 嘉永7年3月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月14日 | 大原幽学の刑事裁判
節句の贈答は忙しい 嘉永7年3月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年3月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が、邑楽屋(公事宿)に袴代・節句の祝儀を仕事帰りに届けに行った。蓮屋(公事宿)には節五郎殿が、万徳(公事宿)には小生が節句祝儀に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
3月3日の節句を前に活発に贈り物をしています。公事宿には実際には宿泊していないのに、表向きは宿泊したことにしてくれているので、公事宿(邑楽屋、蓮屋、万徳)への付届けは欠かせません。
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嘉永7年3月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は昨日は散歩に、今日は買い物に行かれた。幽学先生は帰ってきてから、借家に来ていた正太郎殿に雷を落とす。そのついでに、小生も叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友たちが節句の贈り物に奔走しているのに、幽学先生は昨日は散歩、今日は買い物と悠々自適。しかし、ストレスはかなりかかっているようで、正太郎に対して怒り、ついでに五郎兵衛にも怒りを向けています。
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嘉永7年3月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節句祝儀で忙しい。惣右衛門殿は、邑楽屋(公事宿)の後、小石川の高松様方へも節句祝儀に行った。高松様方には酒持参。
・幽学先生、節五郎と風呂屋に行く。晩には先生から色々とご教諭いただいた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・今日は三月の節句当日。節句は当日だけでなく、数日前から贈り物を届けるのに忙しくなっています(3月1日条)。贈答文化が隅々にまで行き渡っていたことがわかります。
・昨日は幽学先生から叱られた五郎兵衛でしたが、今日は幽学先生と一緒に風呂に。様々な教えを説いているところを見ると、五郎兵衛には期待しているのでしょう。
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嘉永7年3月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
米八殿(邑楽屋下代)が奉行所に差添人変更の届けを出しにいったら、訴え所から「この裁判は前回はいつ呼出しであったのか?」と御尋ねがあったとのこと。「去年の3月以来御呼出しがありません」と答えたら、「そうか。いずれご担当者様には申し上げておこう」との返答であったとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からは呼び出しすらなく、放って置かれている大原幽学の刑事裁判。奉行所の受付けですら、長期間の呼び出しがないのを訝しく思っています。しかし、決めるのは裁判の担当者や奉行であり、受付には裁判を進行させるようや力はありません。


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嘉永7年3月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
伊兵衛父は、一昨日奉公口が決まった。今日、奉公の様子を聞きに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・「伊兵衛父」は、林伊兵衛(1794~1870)のこと。このとき60歳を超えていますが、道友と同じく江戸の滞在費を稼ぐバイトをすることとなりました。
・林伊兵衛は十日市場村(現旭市)の林家の当主であり、組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主。かなりの財力があるはず。しかし、大原幽学の方針で皆仕事をしようということになっているのです。

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嘉永7年3月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生と良祐殿は髪結いと風呂屋。その後、先生は正太郎殿と辻番勤務をしている良祐殿の様子を見にいかれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
辻番。
「町には木戸があって、木戸番小屋と自身番屋がおかれているが、武家屋敷が並ぶ通りには木戸がない。だからと、大名や旗本は辻番小屋なるものを建て、辻番人をおい て警衛することを義務づけられていた」(佐藤雅美『お白洲無情』)

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嘉永7年3月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本屋から、亜墨利加騒動(アメリカ)の本の写し作成を依頼された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本の写しの作成のバイトをしており、今回は黒船来航関係。「亜墨利加騒動」とも呼ばれていたようです。なお、五郎兵衛日記では、嘉永6年6月の黒船騒動のときの様子を記していますが、二度目の来航については記載がありません。二度目の来航ではどうも冷静だったようです。
・ペリーは嘉永6年6月に浦賀沖に来航、同月12日には浦賀沖を離れました。再び東京湾内にペリーが来たのは、嘉永7年1月16日。この年3月3日には日米和親条約が横浜で締結されています。この日の日記はペリーの二回目の来航の最中です。
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嘉永7年3月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
長左衛門殿が来て、石川様(下谷に住む旗本)方で住み込みの仕事があると、良祐殿に話しをしていた。良祐殿は佐竹様の辻番の仕事をしているが、石川様の方が条件が良いようだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・良祐は佐竹様の辻番の仕事をしているのですが(2月5日条)、新しい仕事の話しを耳にして転職をはかっています。少しでも有利な条件の方に転職するのは今も昔も変わりません。長左衛門は、職業紹介をしている者のようです。
・良祐は長部村の百姓、現代風にいう千葉の一地方の農民なのですが、足軽部屋とはいえ、旗本がこんなに気軽に雇うものなのかと疑問に思いましたが、そういうものだったようです。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/D_00215.html
「江戸の武家地空間を構成する大名あるいは旗本屋敷には、武士身分の家臣とは別に、足軽・中間・小者といった膨大な数の武家奉公人が存在した。彼らの多くは、大名や旗本の国元の農村や城下町から短い年季の奉公人として抱え入れら,れて連れてこられた者たちであり、同時に江戸市中において抱え入れられた者も多く存在した。」(東大史料編纂所 教授・所長保谷徹氏)
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嘉永7年3月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、本所などにお出かけになられた。内職の仕事の関係で鎖のことを聞きに行かれた。夜には、幽学先生、良祐殿と小生で弁慶橋の夜市に行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る内職をしています(嘉永6年11月12日条)。現代風にいえば刀剣の転売ヤー。ペリー来航この方、刀剣ブームも起きていたようです。鎖も需要があり、そのリサーチをしています。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「江戸の町を歩き、質屋、古道具屋、骨董屋などを訪ね、鈍刀や脇差を二本、三本 仕入れて新品同様に仕立て直し、藤元屋の店先に並べてもらうという商売はまあまあだった。そこそこの稼ぎになった。」

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嘉永7年3月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿の転職が成功。これまで佐竹家(大名)の辻番の仕事だったが、明日から旗本の石川様方の足軽部屋で仕事(住込み)。この話しを持ってきてくれた長左衛門殿が、石川様の足軽部屋頭の平山殿に口を聞いてくれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐の転職が変更。これまでは佐竹家の辻番でしたが、辻番は見張り役だけなので、若い良佑は飽きてしまって、足軽部屋の方が良いと思ったのでしょう。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「良祐が佐竹家の辻番を惣右衛門と代わり、自分は旗本石川家の足軽部屋へもぐり込んだ」とあり、代わりに惣右衛門が辻番のバイトになったようです。

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ひたすら写本作成バイト 嘉永7年2月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月07日 | 大原幽学の刑事裁判
ひたすら写本作成バイト 嘉永7年2月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

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嘉永7年2月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事(弁当持参)。夜勤明けの良祐殿が借家に来て、風呂屋にいった。幽学先生は、日本橋に筆を買いに行かれた。小生は今日は休みで、他の者と共に風呂屋に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門殿は早朝から仕事に出かけ。良祐殿は夜勤明けで借家に顔を出す。大原幽学はマイペースで日本橋に買い物に行き、五郎兵衛は休み。仲間と共に銭湯に行くのは楽しそうです。

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嘉永7年2月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事。昼から幸左衛門殿が借家に来られて、本日泊まり。晩に良祐殿来られたが、深夜に帰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門殿が久しぶりに借家に顔を見せました。幸左衛門は、地頭所藪様の門番をしています(2月5日条)。藪家は番町表四番丁通りにあり(内山朝治『武士にて候』)、借家からは少し距離があるのです。
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嘉永7年2月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。ほかに上野で日雇いの仕事。宮様が御成のため御供をする仕事とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
早朝に出かけて行くためか、最近の五郎兵衛日記は惣右衛門の動向から始まります。通常は掃除の仕事だけですが、今日のように一日限りの仕事が入るときもあります。
嘉永7年2月23日は、ペリーが幕府に献上した蒸気機関車の模型が、横浜の応接所の庭において運転された日。二度目のペリー来航は、五郎兵衛日記には記載がありません。嘉永6年6月の黒船騒動は五郎兵衛日記にも記載があるのですが、二度目のペリー来航に江戸庶民の危機感は感じられません。


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嘉永7年2月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。今月晦日には借家に全員集まるので、米屋に頼んで餅を三升誂えてもらうことにした。馬喰町肴店鈴木屋で紙を買い、 良祐殿に渡した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仕事を始めて皆が集まる機会が減ったので、一同に集まる機会を今月晦日に設けています。皆が集まるときは餅、なのでしょうか。餅三升を米屋にオーダーしています。晦日が楽しみですね。
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嘉永7年2月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。小生、真書太閤記30巻の仕事を元浜町の本屋でもらってきた。
幽学先生は蓋茶碗買いに。小生同道。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のバイトは、書物の写しを作成するもの。これまで軍書でしたが、いきなり真書太閤記、しかも30巻の仕事。もっとも、真書太閤記自体は最終的には12編360巻に及ぶシリーズであり、30巻は全体のわずか12分の1に過ぎないのですが。
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嘉永7年2月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。米之井村(現香取市米野井)の仙右衛門が借家に来られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
真書太閤記30巻の仕事を受けてきた五郎兵衛。おそらく日がな一日写しを作成していたのではないでしょうか。日記では「小生は写し物」としか書かれていませんが、忍耐のいるタイヘンな仕事ではないかと推察致します。
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嘉永7年2月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事(弁当持参)。幽学先生は小石川の高松様方に行かれ、昼過ぎに戻って来られた。晩に良祐殿来られる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛はひたすら写本作成の仕事。惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事です。五郎兵衛も惣右衛門も愚直なまでに、一途に仕事をしていきます。幽学先生に従っていっているのも、この愚直さがベースにあるからでしょう。
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嘉永7年2月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。幽学先生は、井上医師に書物を持参され、昼過ぎに戻って来られた。高松力蔵様がお出でになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門の早朝からの掃除、五郎兵衛の写し物はいつものとおりです。井上医師は伊兵衛父がお世話になっている医師ですが(昨年12月14日条)、幽学もお世話になっているのでしょうか。何らかの交流があるようです。

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嘉永7年2月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。風呂屋に行ったが、大風のため休み。昼から幽学先生と伊兵衛父は散歩に出かけられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
風呂屋は大風だと休みになってしまうようです。風呂に行くのは、楽しみな時間なのでしょう。何人かで集って風呂屋を往復する間にいろいろなことを話す時間は、貴重だったことでしょう。
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嘉永7年2月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
一同で集まる。良祐殿は早朝に、幸左衛門殿は朝食を食べ終えた頃に来られた。昼から全員で風呂屋に行く。夕方には皆に雑煮を振舞った。晩に散会。
その後、幽学先生にから「お前は気が利かないやつだ」と叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
晦日には全員集まって、餅を食べることに一週間ほど前から決めていました(2月24日条)。餅は雑煮として食べたのですね。昨日風呂屋が休みだったので、全員で風呂屋に繰り出しています。五郎兵衛にとっても楽しい一時だったはずですが、幽学先生にまた叱られてしまいました…。


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江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月26日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年2月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
江戸で仕事を見つけるのはタイヘン。辻番の口があるといわれたが、場所が小網町。知り合いと会いそうで、身バレしたらやばいので断念。元浜町の本屋(尾張屋市蔵)が仕事をくれた。軍書関ヶ原の写し作成。二冊持ち帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛が小網町で辻番バイトを避けたのは知り合いと会いそうだからです。江戸小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面からの江戸の窓口なのです。
・五郎兵衛に軍書の写し作成のバイトが見つかりました。本屋のある元浜町は、五郎兵衛らの居住地(神田松枝町)からそれほど遠くない場所です。元浜町は、現在の日本橋大伝馬町と日本橋富沢町に跨る地域。

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町




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嘉永7年2月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
軍書本の写しに取り掛かる。幽学先生は買い物に行かれた。惣左衛門殿はいつもどおり弁当持参で早朝から掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が写しを作成しているのは、関ヶ原関係の軍書本です。この年(嘉永7年)1月16日にはペリーが再び浦賀に来航しております。軍書本の写し作成のバイトが入ったのは、ペリー来航による軍事的なニーズの増大が背景にあるのかもしれません。

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嘉永7年2月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
今日も軍書本の写し。高松力蔵様が来られ、夕方にはお帰りになった。惣左衛門殿は早朝からいつもの掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も五郎兵衛は、関ヶ原関係の軍書本の写し作成のバイト。五郎兵衛は書くのが好きなのでしょうね。江戸在府中は一日も欠かさず、日記を付けていますし、筆まめです。

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嘉永7年2月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は馬喰町肴店で美濃紙を買って来られた。惣左衛門殿のバイトは休みなので、小生と一緒に髪結いし、昼から風呂に入る。その後、小石川の高松様方に行き、義論集を借りてきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は五郎兵衛の仕事(軍書の写本作成)も休みのようです。同じく休みの惣左衛門とノンビリ。『義論集』というのは、大原幽学と道友らの討論を編纂し記録したもの。大原幽学記念館で入手可能です。
発行 大原幽学120年祭奉賛会
昭和53年11月30日
A5/97頁 ¥700


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嘉永7年2月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣左衛門殿はいつもの掃除バイトのほかに、日雇いの仕事あり。
小生、丁子屋でタバコを買う。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨日、髪結いと昼風呂、小石川まで行き義論集を借り、今日はタバコを買いに行っています。軍書本の写しのバイトが一段落したからでしょうか。ノンビリした様子です。
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嘉永7年2月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
帰村の挨拶に来る者多し。小生は元浜町の本屋で、写し用の本(軍書)を三冊持ち帰った。馬喰町で紙を買い、写しを行う。幽学先生から「忙しさにかまけて、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届いていない!」と叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
関ヶ原関係の軍書二冊を写し終えたようです。軍書三冊を本屋から持って帰ってきており、新しい仕事に取り掛かる五郎兵衛でした。しかし、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届かず、幽学先生に叱られてしまっています。
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嘉永7年2月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除バイト(弁当持参)。帰りに京菜を買ってきてくれたので、漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記に出てくる「京菜」は水菜のこと。ミズナ(水菜)は京都で発達した菜類で、関東ではキョウナ(京菜)とも呼ばれています。


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嘉永7年2月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
雨が降って寒し。軍書の写しを行う。昨日惣右衛門殿が買ってきたくれた京菜の漬け直しもする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「雨が降って寒し」
旧暦2月中旬ですから、太陽暦だと3月中旬〜下旬でしょうか。この時期に南岸低気圧が通ると、関東には北風が入り込み、冷たい雨(又は雪)になります。
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嘉永7年2月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が辻番のバイトの話しを持ってきてくれた。「五郎兵衛は借家の掃除や賄いをしてくれているので、辻番のバイトではなく、本の写しの仕事の方が良いだろう」と幽学先生から話しがあった。引き続き本の写しを行うことなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「辻番」とは江戸時代、江戸市中の武家屋敷の辻々に大名・旗本が自警のために設置した見張り番所。この時期辻番のバイトの口が結構あったことは、道友たちの中でも辻番をしている者がいることからもわかります。
⇒本ブログ末尾「付 辻番」参照

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嘉永7年2月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
元浜町の本屋に行く。写しの注文あり。三冊持って帰る。
夕方から肩の張り、口内の痛みで休む。
晩に京橋の辺りで火事。三丁ばかり焼いたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、元浜町の本屋から新たな本の写しの仕事を取ってきました。今回も三冊。結構ハイペースで無理をしてるようにも見えます。肩の張りは写しの仕事のし過ぎ、口内の痛みはストレスから来ているようにもみえます。

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付 辻番(2月上旬ブログの続き)
今回の日記でも辻番のことが話題になっています(2月19日条)。
石井良助『江戸の町奉行』によって、辻番の実際を見てみましょう。
江戸の土地の六割は武家地(大名や旗本の屋敷のある所)です。江戸の辻番の数はある統計では899あったとされており、うち大名設置が219、旗本設置が680でした。
この辻番には配置基準があり、1万石〜1万9000石までの大名の場合は、昼3人、夜5人、2万石以上の場合は昼4人、夜6人です。旗本の組合 で作った辻番では昼2人、夜4人です。夜に厚く配置しなけれぱならないため、夜の辻番の求人が多くなるのですね。
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江戸でバイト探しする幽学一門 嘉永7年2月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月15日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸でバイト探しする幽学一門 嘉永7年2月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年2月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方、三河町の万徳(公事宿)へ挨拶に行き、その後、御奉行所へ着届け。(淀藩の)上屋敷に行き、御添翰(旅行手形)を足立様に提出する。昼過ぎに借家に戻ると、幽学先生おられる。病気願いを出していて奉行所にはいかなかったよう。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判の被告人とされている者は、江戸に着いたら、①奉行所に着届けを出し、②所領を管轄する役所に御添翰(旅行手形)を提出して所在をはっきりさせます。五郎兵衛らは、奉行所には万徳という公事宿にいることにしているので(実際は借家暮らし)、公事宿にも挨拶は欠かせません。
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嘉永7年2月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿ほか三名が邑楽屋(公事宿)から借家に引っ越してきた。その手続きで、良祐殿と惣右衛門殿は御役所へ行き、武三郎殿は地頭所へ行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学や五郎兵衛ら道友が借家暮らしをしているのは、江戸滞在費を浮かせたいからです。今日、4名が借家に引越してきたのも、それが目的でしょう。居住地の役所には話しをつけておいた上で、奉行所には借家暮らしは内緒にしています。
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嘉永7年2月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿は渋谷に出かけて、夕方に借家に戻られたところ、幽学先生に叱られた。キセルで三回も打たれた。「孫の世代が我々の江戸滞在費のために奉公までしているのに、お前は硯箱等を買いに行くというのはどういう根性なのだ」。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学の道友(糸川)平右衛門への怒りが炸裂。平右衛門に贅沢志向があるからといって、キセルで三回も打擲するのは、現代であればどう考えても行き過ぎ。指導者なのですから、教え諭せばよいことです。それができないほど、幽学先生も精神的に追い込まれていたのかもしれません。
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嘉永7年2月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昨日ハデに叱られた平右衛門殿は、江戸を立って荒海村に戻られるそうだ…。今日も幽学先生は大荒れで、武三郎にも当たり散らし、良祐殿にも「お前も平右衛門と同じだ、どういう根性をしてる!」と怒っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は道友平右衛門が怒られていましたが、今日は武三郎(米込村の差添人)が標的になっています。昨日ハデに叱られた平右衛門は、荒海村に戻ってしまいました。
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嘉永7年2月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昨日の平右衛門殿に続き、今朝は武三郎殿が帰村してしまった。幽学先生に怒られたのが原因か…。
江戸滞在費稼ぎのためのバイト。幸左衛門殿は地頭所藪様の門番(昼から)。良祐殿は、佐竹様の辻番(夜から)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
叱られた武三郎は村に戻ってしまいます。一方、江戸滞在費稼ぎのためのバイトが始まりました。門番や辻番のバイトの口があったようです。五郎兵衛はまだバイトが決まりません。
(菅谷)幸左衛門が見つけてきた、「地頭所藪様の門番」。幸左衛門は諸徳寺村(香取郡)の出で、藪様こと旗本藪富次郎が同村を治めています。

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嘉永7年2月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿、夜の辻番を終えて、昼に帰ってきた。石川様のところで辻番・下掃除番のバイトの口があるとのこと。通いで惣右衛門殿がやることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐殿が辻番のバイトをしているのは、久保田藩(秋田藩)佐竹家が建てた辻小屋(内山朝治「武士にて候」)。辻番小屋は大名・旗本が建てることを義務づけられていましたが、実際の辻番は非正規雇用のバイトだったのですね。

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嘉永7年2月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿の辻番&掃除バイト、今日最終的に決めてきたそうだ。小生も何かやらないと。夜の辻番だったら、バイトの口はあるらしいが(長左衛門からの情報)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、まだバイトが決まりません。仲間内ではバイトの口が決まってきているので、五郎兵衛も焦りを隠せません。
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嘉永7年2月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿、今日から掃除バイト。早朝に弁当持参で出かけていった。幽学先生は、藤元屋で木刀四本買って来られた。これを売って儲けるそうだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の日記は裁判日記なのですが、ここ最近は江戸のバイト事情日記になっています。皆がバイトに精を出しているのに、幽学先生は木刀等の転売ヤーを目指しているようです。
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嘉永7年2月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
長左衛門がバイト情報を教えてくれた。「今すぐは夜番のバイトはなかった、三月になれば見つかるかも」とのこと。この間は夜番はすぐ見つかるといってたぞ!
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長左衛門は一昨日は「夜の辻番だったら、バイトの口はあるらしい」と話していたのですが(2月7日条)、今日になって「やっぱりなかった、3月まで待って」というちゃぶ台返し。いい加減な情報に五郎兵衛も振り回されちゃっています。
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嘉永7年2月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿、今日も早朝から掃除バイト(弁当持参)。幽学先生は仕入れの為の買い物。昼過ぎに戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門殿は毎朝早朝から弁当持参で掃除よバイト。幽学先生も転売ヤーに精を出しています。五郎兵衛のバイトは未だ決まらず。
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付1 辻番
2月5日条以降「辻番」との記載が多いので、辻番とはどのようなものかを補足しておきます。
辻番とは、武家地に設置された番所です。江戸の町には「自身番」がありましたが、これは町人が自分たちの経費、責任で設置するものです。「自身番」は町屋敷のものであり、武家地にあったのが「辻番」です。
「武家地には自身番がありませんから、代わりに辻番が設けてありました。寛永六 年(一六二九)に、その頃辻斬が多く行なわれて、諸民が難儀したので、これに備えて設 けたものといわれます。」(石井良助『江戸の町奉行』)
辻番所は、大名または旗本が幕府の命令により設けられます。幕府設置の公儀辻番は八代将軍吉宗の享保年間に廃止され、以後設置されていません。

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付2:地頭について
2月5日条に「地頭所」という言葉が出てきています。
地頭とは、幕府の家臣である旗本、御家人のことです。旗本、御家人を領知との関係で呼ぶときの用語で、旗本では知行所、御家人では給知といいます。
藪家は、藪忠通が徳川吉宗に従い、紀伊藩臣より移ってきた旗本。5000石。下総国相馬郡・香取郡・結城郡、下野国河内郡・都賀郡内に知行を持っていました。



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江戸へと出府する五郎兵衛 嘉永7年1月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月05日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年1月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

今回は1月28日から始まります。
五郎兵衛は嘉永6年12月16日(1853年)〜嘉永7年1月27日までありません(帰村しているときは日記をつけていないため)。
1月28日、五郎兵衛が長沼村(現成田市長沼)から出立するところから、日記は再開します。
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嘉永7年1月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長沼村を朝方出立。七郎右衛門殿、勘左衛門殿と一緒に龍角寺村で休憩。大森宿に昼過ぎ着。暮方に元俊医師来られ、大森の御役所の松村様に会いに行く。松村様からは、江戸での宿替えのことにつきお話しがあった。日暮れの後、大森の宿へ戻り、夕食を取る。荒海村の平右衛門殿と惣右衛門殿と宿で合流し泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長沼村(現成田市長沼)から龍角寺村(栄町龍角寺)を経由して、大森宿へ(印西市大森)。大森役所(淀藩の役所)に元俊医師と共に赴き、公事宿を替えたことについて話しをしています。本日は大森宿で泊まりです。
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嘉永7年1月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方に大森宿を出立(元俊医師は長沼に戻った)。行徳には昼過ぎに着き、泡雪で昼食。夕方、船に乗り江戸へ着く。松枝町には日暮れ後に到着。平右衛門殿と惣右衛門殿は蓮屋に行く。干潟組は邑楽屋へ。幽学先生、伊兵衛父、幸左衛門殿と小生は、松枝町の借家。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は大森宿(印西市大森)を出立。行徳に着いて一休みし、ここから江戸までは船。公事宿(蓮屋、邑楽屋)に宿泊する者と松枝町の借家暮らしをする者とに分かれます。また、明日から奉行所からの呼び出し待ちの江戸での日々が始まります。
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嘉永7年1月に30日はありません(小の月のため)。#五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 
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旧暦に31日はありませんので、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 



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年末の帰村は大雪でタイヘン 嘉永6年12月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年01月04日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿は御地頭へ帰村の届けをしに行った。小生は、平右衛門殿と蓮屋(公事宿)へ御礼及び暇乞いの挨拶。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判関係者の帰村手続きは、①奉行所での帰村許可、②村の領主・地頭への届けの二段階が必要です。五郎兵衛以外は本日②の手続き。五郎兵衛は昨日②を済ませてしまいましたので、今日は公事宿への挨拶です。

嘉永6年12月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に幸左衛門殿と二人で高松様方へ挨拶に行く。力蔵様はお留守。正午過ぎ戻る。
髪結いしてから、勘定調べ。深夜までかかる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村間近なため、五郎兵衛らは高松家へ挨拶。午後からは勘定調べ(経費の帳面作成)。五郎兵衛はこういうのは苦手なのでしょう。深夜までかかってしまっています。

嘉永6年12月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝より掃除。幽学先生と伊兵衛父は村に戻らず、借家に残ることに。小生らは帰村のため昼前に出立(幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿、平右衛門殿同道)。扇橋から船で行徳へ。「しがらき」で泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学は江戸に居残り。奉行所からは「村の預り」とされているので、ホントはダメなはずですが。五郎兵衛らは江戸を出立。扇橋⇒行徳ルートで、行徳の「しがらき」泊。
昨年末の帰村時も同じ宿でした(嘉永5年12月14日条)。



嘉永6年12月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝起きると大雪。行徳を昼前に出立したが、嵐になり、誠に難渋。やむなく八幡の中村屋で火を焚きしばらく暖まり、昼飯。白井には夕方に着き、藤屋泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
朝起きると大雪!昼に八幡までしか辿りつけず、暖をとらないといけないほどの寒さ。白井で宿泊せざるを得ませんでした(昨年は昼までに白井宿についてました)。


白井宿の藤屋には本年10月3日にも泊まっています。渡辺崋山も同宿に宿泊したことあり。


嘉永6年12月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に白井を立つ。大森まで駄賃を頼み、正午着。小生は大森の御役所で手続きし、他の者は木下まで先に行ってもらった。御役所にご返翰を出したが、いつまで経っても御沙汰なし。
やむなく宿まで戻り、木下まで飛脚で書面を遣わして、幸左衛門らには先に帰ってもらうことにした。夕方に大森の御役所の用向きがようやく終わる。一人で帰り、五つ半(午後9時)に帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日が大雪だったので、道には残雪があったことでしょう。淀藩の役所がある大森宿までは駄賃を払って馬を頼んだのでしょう。五郎兵衛が役所での手続きを引き受けたものの、役所の手続きが遅く、一人で夜道を帰らなければならなくなりました。今回はついてない五郎兵衛です。


五郎兵衛は嘉永6年12月26日(1853年)〜嘉永7年1月27日まで日記を付けていません(帰村しているときは日記をつけていないため)。
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 は1月28日から再開となります。









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