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嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年11月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年9月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、宜平殿病気のため替わりに勤務。朝掃除、床下げ。大野様の仏事で御家中衆への会食手伝い。
若殿様は四ツ半時頃より雉子橋様へ。七ツ時、提灯持参で小出様方へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。九ツ半まで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本日は非番だったのですが、同僚の宜平が病気のため、仕事。五郎兵衛が病気で仕事を休んだことはないですね。食べ過ぎが問題ですが、頑張って仕事をしています。江戸滞在中は日記を欠かさないのも五郎兵衛の偉いところです。
・本日の記事に「雉子橋様」「小出様」とありますので、五郎兵衛日記の「雉子橋様」=「小出様」と思われます。小出氏は丹波国園部藩で、この当時の藩主は小出 英教(ふさのり)です。五郎兵衛も書状を小出家に持参しています(7月15日条)。

〈詳訳〉
非番の予定だったが、昨日宜平殿病気となり、松枝町の借家で休んでいるので、替わりに小生が勤務。
朝掃除、床下げ。九ツ時に大野様の仏事で御家中衆の会食手伝い。八ツ時に薬店の湯に行く。戻ってから楊枝削り。
四ツ半時頃より若殿様雉子橋様へ。
七ツ時、提灯持参で奥様の迎え。提灯持って小出様へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。
九ツ半まで夜番を勤める。

〈その他の記事〉
○若殿様が雉子橋様に赴かれたときの御供
三浦源蔵
安達安蔵
御近習壱人
御草履取壱人
○九ツ時に御忍供で小出様へ御出になるとのと仰せあり。
先江
御駕籠四人
御取次壱人
御近習壱人
御箱壱人
御草取り壱人
釣台弐人
宮本錠左衛門
若党壱人
草取り壱人
○今夕七ツ半時、御奥様を雉子橋へ御迎えの御供。


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嘉永7年9月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、昼前に張物少々、楊枝削り。
松枝町の借家へ。幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人は食べ過ぎで太りすぎだぞ。特に五郎兵衛だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛日記には、食べ物の記述が多く、これは食いしん坊だなと思っていたのですが、やはりそのとおりのようで、幽学先生から五郎兵衛、面と向かって「食べ過ぎ」といわれてしまいました。

〈詳訳〉
本日は非番だが、仕事。朝掃除、昼前張物少々、楊枝削り。大野様からお招きを受け、御馳走を頂く。
外出。安達様から頼まれ、本町で葛を買い、その後松枝町の借家へ。
又左衛門殿、良祐殿おられる。
晩に治郎右衛門殿、節五郎殿来られる。
幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人だけ、顔が太りすぎだ。食べすぎでの不養生だろう。特に五郎兵衛が心配だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。

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嘉永7年9月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君は今日も早起き。朝七ツ時に起きて炊事を始める。小生も手伝い。
その後、御屋敷に戻って添番を勤める。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門は早起きです。日の出前から起きて炊事をするのが日課のようです。以前ならば、借家に泊まった日は休みで、ゆっくりしていくのですが、人手不足なのでしょう、本日は添番を勤めています。

〈詳訳〉
朝七ツ時に良左衛門君起きて炊事を始めたので、小生も起きて手伝い。六ツ半朝食。
煙草一丸、寝巻一枚、お金を借家に置いて、五ツ時に御屋敷に戻る。
本日は添番。
宜平殿と二人で髪結いする。
幸左衛門殿は四ツ時に松枝町の借家へ行った。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。


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嘉永7年9月24日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、御床下げ、楊枝削り、御弓場の片付け。夜番も九ツ半から勤める。
・夕方外出した時にキセルを落してしまった。
・宜平殿、五ツ半時松枝町へ行き、幸左衛門殿四ツに御屋敷に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旗本の藪家には幽学一派から3名が奉公人として入り込んでいます。奉公人はこの3名以外にあまりいないようですので、幽学先生のいる借家に行くのは、日程をやり繰りしなけれぱならず大変です。ここのところは毎に一人ずつ行っています。
借家へ行った日
22日 五郎兵衛
23日 幸左衛門
24日 宜平




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嘉永7年9月25日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、楊枝削り。昼に松枝町の借家へ。昨日キセルを失くしたが、幽学先生がかわりをくださった。
七ツ時、幸左衛門殿来る。長左衛門殿、良左衛門殿が夜九ツ時迄碁打ち。先生は悦んで、焼干杯を奢ってくれた。
借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が五郎兵衛にキセルをプレゼント。昨日五郎兵衛は外出した際キセルを落としてしまったからですが、それにしても幽学がプレゼントするのは、相手を認めているときです。五郎兵衛はついこの間まで叱責されていたので、キセルをもらって嬉しかったことでしょう。

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嘉永7年9月26日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
五ツ時、御屋敷に戻る。楊枝削り。昼に大野様から頼まれ、諸徳寺村に出す書状を松枝町の借家まで持っていく。幽学先生と話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夜は松枝町の借家で泊まりだったので、日の出前に御屋敷に戻り、シフトに入った五郎兵衛でしたが、大野様からの依頼で昼にも松枝町の借家を訪れています。「大野様」は、殿様が七周忌の御法事の際に参列しており(8月4日条)、ご家中衆の中でも地位の高い方と思われます。

〈詳訳〉
五ツ時、松枝町の借家から幸左衛門殿と二人で布団を御屋敷に持って帰る。
本日は添番。楊枝削り。昼に大野様から諸徳寺村に遣す書状を松枝町へ持っていった。
長部村の次郎右衛門殿と髪結い。
又左衛門殿「幸左衛門、五郎兵衛、宜平の三人は性学の者なのだから、御屋敷で粗相のないように気を付けるよう幸左衛門殿にも言っておいてくれ」
幽学先生ともお話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作った。

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嘉永7年9月27日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝から九ツ時まで、田中様の米を藤助と二人で搗く。藤助と一緒に揚場の湯に行き、帰りにさつま芋一俵を買う。七ツ時、屋敷に戻り。夜番を九ツ半から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「食べ過ぎに注意」と幽学先生などから何回も注意されている五郎兵衛ですが、風呂に行った後に「さつま芋一俵」を購入。日記とはいえ堂々と書いてしまうのは、やはりその点の自覚がないからかもしれません。

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嘉永7年9月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番だが勤務(藤助殿と交替)。
朝掃除、楊枝削り。
七ツ過ぎに食扶持五人と三斗受取り、しらけ揚げ。夜番も八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
この年の9月は明日が最終日です。月の最終日には道友たちが借家に集うので、明日を休みにしたい五郎兵衛は藤助とシフトを交替しています。
なお、本日の記事中「しらけ揚げ」は意味が掴めなかったので、そのまま記載しました。

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嘉永7年9月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・月末、松枝町の借家に全員集合。幸左衛門殿はが日本橋で秋刀魚と牡蠣を買ってきた。幽学先生は柿持参。
・各公事宿に袴代持参。
・小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り(幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり)、夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日です。メインは秋刀魚と牡蠣、デザートは柿。食物のことを書き残すのは五郎兵衛らしい!
それにしても幽学先生は柿がお好きなようです。先月も柿でした(8月28日、29日条)。


〈詳訳〉
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日である。朝掃除。後の仕事は大寺藤助に頼んで任せた。
節五郎殿と幸左衛門殿は日本橋に肴(秋刀魚と牡蠣)を買ってきた。おけいさんに料理を頼む。幽学先生は、柿持参で御出になった。
一同で柿をいただく。
各公事宿に袴代を持って行く。
幸左衛門殿は大根を買いに、宜平殿はタバコを買いに出た。両名が戻ってから、三人で両国で膏薬を買いに行った。幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり。
小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り、夜番を九ツまで勤める。


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嘉永7年9月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 

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嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年9月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番のはずだったが、朝掃除、着物の洗濯、昼から障子張り、御弓場の設営。九ツ時に平作殿が「用事で下町に行くから後はよろしく」といわれ、引き続き仕事。
幸左衛門殿は八ツ半時に松枝の借家町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日休み(非番)なのですが、結局一日中仕事。同僚の平作は五郎兵衛に仕事を押し付けて下町へ。平作はこのところサボり気味です。

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嘉永7年9月12日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時、幸左衛門殿と一緒に、牛込揚場の湯に行く。帰りに問屋で黒餅一抱を232文で買って帰る。本日夜番は休み。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は現在は「新宿区揚場町」。夕方が比較的暇なのか、七つ時から銭湯に行っています。帰りに黒餅を一抱も買っています。やはり五郎兵衛は食いしん坊です。これでは幽学先生ならずとも、食べ過ぎに注意といいたくなります。
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嘉永7年9月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
同僚と一緒に田中様と安達様の米搗き。暮方から同僚は外出してしまい(宜平殿は松枝町の借家へ、平作殿は麹町大崎方へ)、小生一人で仕事。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいただく。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
旧暦9月13日は十三夜のお月見。五郎兵衛はお祝いの品(団子、芋、栗、豆)をもらっています。食いしん坊五郎兵衛だけあって、食べ物はきっちり記録しています。

〈詳訳〉
本日は本番。六ツ時から田中様の米搗き、宜平殿、平作殿と三人で替わるがわる九ツ半迄。七ツ時から安達様の米搗き。暮方に宜平殿は松枝町の借家へ行き、平作殿は麹町大崎方に行ってしまって、小生一人で夜具上げ。時触れ。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいたはだく。九ツ半より夜番を勤める。

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嘉永7年9月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、平作とシフト交替。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻る。安達様及び宮本様の米つき暮方まで。平作殿は、小川町の御門番に異動することになり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「平作殿」は、五郎兵衛が藪家で働き始めた当初からの同僚(7月13日条)でしたが、この度、小川町の門番に転勤となりました。荷物が少ないからか、命じられたら、すぐ小川町に行ったようです。


〈詳訳〉
非番予定だったが、平作とシフト交替となり、勤務。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻ってきたので、かわるがわる米搗き。九ツ時安達様の米つき終わり、次いで宮本様の米搗き暮方まで。平作殿は、小川町の御門番は勤めることとなり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。


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嘉永7年9月15日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
殿様の御登城日。
朝掃除、楊枝削り。四ツ谷まで使い。
幸左衛門殿と松枝町の借家に灰を持っていく。本町へ廻り安達様の為に砂糖購入。飯田町の湯へ行き、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「安達様」(旗本籔家の家来か)は、五郎兵衛にちょくちょくお使いを頼んでいます。こうしてみると砂糖が多いですね(今日も砂糖です)
・砂糖(本町の小西利左衛門)(閏7月4日条)
・砂糖(8月13日条)
・葛(9月9日条)

〈詳訳〉
本日殿様は六ツ半時に御登城。
添番。朝掃除、宜平殿と二人で髪結い。楊枝削り。八ツ半時、田中様から四ツ谷までの使いを頼まれる。七ツ半に戻り。幸左衛門殿と二人で松枝町の借家に灰を持っていく。日暮れ後に本町へ廻って安達様の為に砂糖を買って帰る。飯田町の湯に入って、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番も勤める。

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嘉永7年9月16日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、宜平殿と二人で着物洗濯。楊枝削り。夜番を九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本番と九つ(深夜0時)までの夜番勤務。よく働くので、籔家でも五郎兵衛は珍重されたのではないでしょうか(それにしても働かせ過ぎのようではあります)。奉公人の人員は明らかに減っていますが、五郎兵衛は文句も言わずに仕事をこなしています。


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嘉永7年9月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番のはずだったが、仕事(宜平殿も)。掃除、床下げ、馬場の仕度。昼から御弓場の設営。九ツ半から夜番。真夜中(四ツ半時)に平作殿が来て道具を持って行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事には「馬場の仕度」とか「御弓場の設営」があり、藪家の家来が御屋敷内で練習していることがわかります。昨年にはペリーが来航しており、軍事対応の必要性が増していたのでしょうが、相変わらずの弓馬の調練で大丈夫でしょうか。

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嘉永7年9月18日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時に牛込薬店の湯に行く(大寺と)。九ツまで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、大寺さんとはよく一緒に風呂に入りに行ってます。今日もまた一緒に銭湯へ。
・幸左衛門殿と大寺と堀田の湯へ(7月28日条)
・幸左衛門殿、大寺と牛込の薬店湯へ(閏7月17日条)
・大寺と二人で薬店の湯(8月7日条)

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嘉永7年9月19日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、四ツ時に御奥様が外出なさるとの御触れを聞く。八ツ時に御奥様は雉子橋様へ行かれた(御供揃)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は「御奥様」の公式の外出。五郎兵衛はどのような供がついていたのか、日記に記録してくれています。
行き先は「雉子橋様」。「雉子橋」は橋の名前なので、橋近くに屋敷がある方のところに行かれたのでしょう。

〈その他の記事〉
本日は御供揃で御奥様は雉子橋様へ行かれたとありますが、御供を次のとおり記録したいます。
御駕籠四人
御脇
御取次壱人
奥附壱人
御近習二人
御先 半助、安左衛門
御箱持壱人
御草履取壱人
押壱人
釣台弐人
女中供
腰添壱人
草履取壱人
もの持壱人
五味庄太夫
若党壱人
草履取壱人

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嘉永7年9月20日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・今日は三峯様の御祭り。
朝掃除の後、赤飯を作り御家中衆へ配る。
晩に御家中衆は大座敷で酒盛り。
・宜平殿は腫物が痛み、休むために九ツ半時に松枝町の借家へ行った。御屋敷の仕事は
藤助殿と二人で勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「三峯様」は三峯神社の神社のことでしょうか。御家中衆は午前中に赤飯を配られ、晩には大座敷で酒盛りに興じています。

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嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月17日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。

嘉永7年は閏7月が存在したため、一か月ズレが生じています。年末の帰村で帳尻が合いますので、年内は一か月ズレたままとなります(今月は9月の日記となります)。 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
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嘉永7年9月1日(朔)(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、楊枝削り。本日殿様は御登城。正六ツ半時に出発(御本供)、九ツ時に御帰館。八ツ半過ぎ、幸左衛門殿は松枝町の借家へ行って泊まり。良左衛門君が江戸に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・殿様の御登城日。正六ツ半(午前7時)出発で、御帰館が九ツ(正午〜午後1時)ですから、現代よりも早い。現代は夜型です。
・幽学先生の一番弟子格の良左衛門は、息子(良祐)の結婚の関係で村に戻っていました(8月22日条)。必要な用を済ませただけですぐに江戸に戻ってきたようです。
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嘉永7年9月2日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
掃除、楊枝削り。八ツ半時に松枝町の借家へ行くと、幽学先生、良左衛門君と大家の三人で碁を打っていた。晩の九ツ時まで碁を打っていて、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
休みを利用して松枝町の借家へ行くと、幽学先生、碁を打っていました。幽学先生が碁を打つことが記録されているのは珍しい。ついこの間までは、五郎兵衛が借家に来ると、幽学先生は顔も見たくないと、出かけてしまっていましたから、落ち着きを取り戻した光景です。

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嘉永7年9月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、幽学先生からの奉公の心得。
「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ」
御屋敷に戻る。初午の準備で忙しい。夕方から御家中衆は酒盛り。小生は九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・五郎兵衛は旗本藪家で江戸滞在費稼ぎのバイト(奉公)をしています。幽学先生からは、奉公先で御家中衆が感心されるように勤めよ、とのお言葉。屋敷に戻ると、明日は初午の祭りなので、奉公人は初午の準備に忙しく、一方で御家中衆は酒盛り。
・「初午祭」は稲荷神社の祭りです。毎年2月の最初の午の日=初午(はつうま)の日に行われるとされていますが、なぜか今回の日記では9月です。

〈詳訳〉
六ツ時に起床。借家で朝飯を食べる。帰りがけに、幽学先生からお声をかけられた。「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ。性学者と名乗りながら、つまらない者と思われてしまうようでは道がすたる。これまで学んだことを、一緒に奉公している幸左衛門や宜平とよく相談して、日々過ごすようにしなさい」
五ツ時、借家を出る。藪様の御屋敷に戻って、宜平殿と二人で髮結い。
初午の仕度のため、御用多し。
昼より幸左衛門殿、宜平殿と三人で薬店の湯に入る。
宜平殿は松枝町の借家に行った(本日泊まり)。御屋敷に戻ってから、楊枝づくり。暮れに御床上げ、四ツ半頃迄御次で御家中衆は酒盛。九ツ半から夜番を勤める。


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嘉永7年9月4日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ。初午の祭礼で賑わしい。御用多く、九ツまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨夜は途中から夜番、今日は本番ですから、ほとんど寝ていないのではないでしょうか(それとも暇を見て寝ているのか)。初午の祭礼ですが、奉公人は楽しむ余裕もなく、様々な仕事をこなされなければなりません。

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嘉永7年9月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だが、平作が二日酔い(原文:「前夜の酒つかれ」)のため添番。朝掃除、時触れ。夕方御床上げ。九ツ半から夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
同僚の平作が二日酔い。昨日は初午祭で、かなり飲んだのでしょう。五郎兵衛は休みの予定を返上して、添番勤めです。五郎兵衛が幽学先生に会いにいくのに、シフトを替わってもらうこともありますから、この辺りはお互い様です。

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嘉永7年9月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だったが、同僚の平作が病気というので勤めを替わる。朝掃除、宜平殿と二人で御床下げ、時触れ。九ツ時に宜平殿と湯に行き、帰りに芋一俵買って帰る。平作は夜に用事があるとのことで下町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、平作のために本日も休みを返上して仕事。平作は「病気」を理由としていますが、夜に下町に行っているところをみると、どうやらサボりのようです。

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嘉永7年9月7日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、楊枝削り。昼から池田様に頼まれ牛込の質屋へ、田中様に頼まれ飯田町へ行く。暮れ方に御床上げ。九ツから夜番も勤める。
・幸左衛門殿と宜平殿は七ツ時に松枝町へ行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事に出てくる「池田様」「田中様」は藪様家のご家中と思われます。池田様からは、牛込の質屋に行ってくれとのオーダーが出ています。藪家の用事か、個人の用事なのか判然としませんが、いずれにせよ武家の財政が楽ではないことが窺えます。わ

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嘉永7年9月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番だったが、松枝町の借家に行くため、平作殿に仕事を替わってもらう。四ツ時に出たが、御成りがあり、小川町出口で止められる。借家に九ツ過ぎ着。この日、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛がいる旗本藪様の御屋敷は番町にあり、神田松枝町の借家までは4キロほどですから、いつもなら1時間あれば行ける距離です。しかし、今日は御成りがあり、通行規制がかかっているため、小川町出口で足止め。借家についたのは九つ過ぎというので、2時間以上かかったのかもしれません。

〈詳訳〉
・本日は本番で朝掃除、御床下げまでしたが、
松枝町の借家に行くため、以降の仕事は平作殿にお願いした。
・髪結いの後、四ツ時に出発。しかし、御成りがあり、小川町出口で足止め。松枝町の借家に到着したのは九ツ過ぎ。
・文平・儀八が来ていて、腰物についての話しをした。文平から国元の様子を色々伺った。
・稲荷下の太次兵衛が今回の出府について相談に来た。
・龍角の七郎右衛門殿から手紙が届いたので、返書を作成。幽学先生に確認してもらいってから送る。
・夕方、節五郎殿が来る。国元へ送る手紙を認める。田安家の磯部様の御検見前に国元の問題をお頼みしなければならない。
・そんな話しをしていたら、小生が土用の日程を間違えていたことが分かった。幽学先生からは、「そんな大切なことをなをざりにして大丈夫か。奉公勤めばかりに気がいってしまっているのではないか。」と心配をおかけしてしまった。
・夜、借家に泊まり。

(解説)
「検見」とは
検見(毛見)
之は収税吏が毎年村方に出張して坪苅を行ひ、田一坪当り初幾合の収穫あるか、合毛を 実見して其の村田地の総収穫を算出し、其の年の取米を定むる方法である。
(中田 薫『日本法制史講義』)

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嘉永7年9月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
暗いうちから良左衛門君起き出し、炊事を始める。朝食後、幽学先生から「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できないぞ」とご指導いただく。七ツ時に御屋敷に戻り、夕方から仕事。九ツ半から夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は松枝町の借家に泊まった五郎兵衛。幽学先生から食欲にとらわれないようにと注意を受けてしまいました。五郎兵衛、やはり食いしん坊のようです。

〈詳訳〉
・七ツ時に良左衛門君が炊飯を始めたため、皆起きて御茶の準備。幽学先生もお目覚めされ、お茶をお出しした。
・食事を終えると、幽学先生からお話し。
「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できない。このことさえ、改善してくれれば、予も気楽になれるのだ。自分で食べるよりも人に振舞いたくなり、それが楽だという腹になってほしい。汚い根性が無くなれば、予の前でも遠慮なく、誠に気持ちも良く、清々としていられるだろう。食べ物に執着しているような心境では、何かと気が引けて、心も清らかではなく、実につまらない。良いことをすれば、後から気持ちも良くなる、楽しみも尽きることがなくなる、また多くの人にも慕われる、人のことを思う心になれば良いだけである、難しいことは何もないと、色々とご指導いただいた。
・文平と儀八が幽学先生に暇乞い。江戸から出立。扇橋から船に乗るというので、浜町まで一緒に行った。
・本町で安達様から頼まれた葛を買い、両替町で髪付油を買って四ツ時に御屋敷に戻る。
・昼より田中様からの頼まれ事で、酒井雅楽頭様御屋敷にお使いに行き、七ツ時に戻り、夕方には御弓場の片付け、御床上げ。九ツ半から夜番も勤める。

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嘉永7年9月10日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝に麹町の大崎方へ給金を受取りに行ったが留主。御屋敷へ戻り、夜具上げ、楊枝削り、御弓場の設営。七ツ時に再度大崎方へ行き、暮六ツ頃迄待って、ようやく給金受け取り。九ツ迄夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「給金の受取り」というのは、これまでの記事に出てこないので、何の給金なのかははっきりしません。奉公人の給金であれば、給料の支払い方が現代とは違い、職場ではなく、別のところで支払われることに仕組みであったことになりますが…

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嘉永7年8月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年8月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年8月21日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、幸左衛門殿と二人で髪結い。その後、巻藁を拵える。同僚の万蔵殿は、御屋敷のリストラ方針(奉公人の人員減)でクビに。
夕方に御夜具上げ、夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
まめまめしく御屋敷(旗本藪家)で働く五郎兵衛ですが、一方で同僚の万蔵はあっさりとクビに(「暇を取るよう申渡された」)。御屋敷でも余剰人員を抱えてはいられないのでしょう。人員減は五郎兵衛の仕事増に繋がります。今日は夜番もフルで勤めたようです。体調お気をつけて。

〈その他の記事〉
・幸左衛門殿は暮方に松枝町へ行って泊まり。



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嘉永7年8月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、床下げ。九ツ半より夜番を勤める
・同僚の万蔵殿は解雇され、早朝屋敷を出ていった。
・正太郎殿は本日帰村。
・良祐殿が結婚するそうだ。そのため良左衛門君は明日帰村の由。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
毎日単調な五郎兵衛日記ですが、今日は変化を感じさせる記事ばかりです。同僚の万蔵は解雇となり、御屋敷から出されてしまいました。この間で江戸にいた良佑は結婚。そのため良左衛門(良佑の父親)は江戸を立つことになりました。


〈詳訳〉
朝掃除、床下げ。
万蔵殿は早朝出立(クビになった為)。
幸左衛門殿から、昨日正太郎殿が借家に来て、本日帰村するとのことを聞く。
七ツ時、田中様から買物を頼まれて飯田町に行く。帰りに牛込薬店の湯に行く。
暮方に節五郎殿が御屋敷に来る。良祐殿が25日に結婚するとのこと。良左衛門君が明23日に帰村することを聞く。宜平殿を奉公させるのは4、5日延期するとのこと。
これを聞いて、幸左衛門殿と節五郎殿は松枝町の借家へ行き、泊り。
小生は九ツ半より夜番を勤めた。

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嘉永7年8月23日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、床下げ、楊枝削り。昨日松枝町に泊まった幸左衛門殿は早朝に御屋敷に戻った。四ツ時、宜平殿が奉公勤めに来る。
小生は夜番。九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の記事はよくある一日でした。生成AIに日記の感想を聞いてみましたところ、「朝から掃除、床下げ、楊枝削りと、本番前の準備をしっかりと行っている様子が伺えます」とのコメントをいただきました。「本番」の意味を取り違えており、なんだか微笑ましい限りです。


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嘉永7年8月24日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除と楊枝削り。九ツ、田中様より買物を頼まれ、飯田町へ行く。八ツ半頃宜平殿と二人で牛込湯に行き、薩摩芋一俵買って帰る。
謙助が、十日市場村から預かっている道具を返却せず、村の厚意を無にするような行為をしており、謙助を諌める手紙を夜に書く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事で目を引くのは、銭湯に行った後に、「薩摩芋一俵」を買って帰ってきたことです。芋俵という落語があるので、芋が俵に入っていること自体は江戸時代には珍しくないのでしょうが、それにしても一俵もどうやって食べるのでしょうか…。


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嘉永7年8月25日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家に行くが、幽学先生は不在。楊枝を売りに大丸裏新道の小間物問屋の菱屋や東屋に行ってみるが、「こんな太い楊枝では売れないよ」といわれる。借家に戻ると幽学先生在宅で、謙助への手紙を直していただいた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「大丸」は今では東京駅の近くにありますが、この頃は大伝馬町にありました。大丸の江戸進出は1743年=寛保3年であり、寛政年間には、大伝馬町の南側の裏通りが「大丸新道」と呼ばれるほどになりました。それにしても、五郎兵衛作の楊枝はやはり売れないようです…
https://www.daimaru-matsuzakaya.com/company/history-daimaru.html

〈詳訳〉
本日は非番 。朝掃除、昼前楊枝。九ツ時に松枝町へ行ったが幽学先生は御留主で、おけい殿が留主役をしていた。、楊枝を買ってくれそうなところが、大丸裏新道の小間物問屋菱屋や東屋にあるとのことで行ってみるが、「こんな太い楊枝では売れないよ」といわれてしまった。あちこち聞いて歩いても買い手がいない。
七ツ半時、幽学先生が借家にお戻りになる。
昨日書いた謙助への手紙を直してくださった。夕方には、長左衛門殿が来た。
楊枝は松枝町へ預け置くこととした。

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嘉永7年8月26日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
時触れ、楊枝少々削り、昼すぎに馬乗り馬場の仕度。四ツ半時に小頭の松村殿が来て、土産として72文貰う。
夕方に夜具上げ。九ツ半から明けまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は仕事で役得となることは、全くといってよいほどないのですが、今日は小頭の松村殿から72文を貰っています。この中途半端な金額は何でなのか、なぜいきなり松村殿が五郎兵衛に土産(チップのようなもの?)としてお金をくれるのかについては、触れるところがないので不明なままです。


〈詳訳〉
朝飯後、筒井筒へ茶を買いに行く。
幽学先生は五つに借家に来られた。五つ半に藪家に戻る。
本日は添番。時触れ、楊枝少々削り、昼から幸左衛門殿、宜平殿と三人で髮結い。馬乗り馬場の仕度。
四ツ半時に小頭の松村殿が来て、土産として72文貰う。
夕方に夜具上げ。夜番九ツ半より明けまで夜番も勤める。



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嘉永7年8月27日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、床下げ、半切紙つき、少々楊枝削り。昼より御弓場の片付け。
九ツ半より夜明けまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は「非番」と五郎兵衛は書いているのですが、「朝掃除、床下げ」といつもの仕事の記載が続き、夜番まで勤めているので、「非番」は誤りで、正しくは「本番」ではないかと思われます。

〈その他の記事〉
幸左衛門殿は昨晩松枝町に泊まって、本日五ツ半に藪家に戻り。宜平殿は 五ツ過ぎに松枝町へ行った。
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嘉永7年8月28日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と二人で炭を持って松枝町の借家に行く。他の者もおり、幽学先生は「今月は一同思いの外早く集まったのだな、調子が良いぞ」と仰り、大いに喜んでおられる。大ヒラメを食べ、幽学先生からは柿をご馳走になった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
経費削減のため、幽学の弟子達はあちこちでバイト(奉公)などしているので、月末くらいは皆で借家に集まろうではないかということになっています。今月は末日ではなく、今日集まったので、幽学先生はことのほかご満悦。柿を弟子達に奢っており、喜びが伝わってきます。

〈詳訳〉
本日は非番だが、早朝の掃除(一人で行う)、夜具下げ、五ツに時触れ。
幸左衛門殿と二人で炭を持って松枝町の借家に行く。治郎右衛門殿、節五郎殿、宜平殿もいる。幽学先生は「今月は一同思いの外早く集まったのだな、調子が良いぞ」と仰り、大いに喜んでおられる。
幸左衛門殿は日本橋で大ひらめを買ってきた。節五郎殿がこれを料理。九ツ時に中食。幽学先生から「一同大いに食べたら良い」とのお言葉をいただく。
小生は昼前に公事宿 へ袴代を持っていった。幽学先生は藤元屋へお出かけになり、帰りに一同へ柿を一箱買ってこられた。柿を食べながら、幽学先生は幸左衛門殿と碁を打ち始め、お楽しみである。
宜平殿と二人で暮方に藪家に戻る。幸左衛門殿と節五郎殿は借家に泊まり。

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嘉永7年8月29日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
仕事が終わってから、松枝町の借家に行く。長左衛門殿が借家に来て、幽学先生と碁打ち。先生は柿を奢ってくれた(刀袋が出来上がった祝いとのこと)。幽学先生と二人で借家に泊。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長左衛門が来ると碁を打つのが定番。今日は珍しく幽学先生と碁を打っています。幽学先生が碁を打つシーンは初ではないでしょうか(五郎兵衛は碁はできないのでしょうね)。幽学先生、今日もまた柿を奢っており、柿好きだったことが窺えます。

〈詳訳〉
本日は添番。朝掃除、楊枝削り、八ツ半に夕飯を食べてから、松枝町の借家に行く。泉の湯に入る。
書物の場所が分からなくなり、邑楽屋(公事宿)に場所を聞いて持ち出し、幽学先生と二人で書き物を調べた。力蔵様の書き物に本多加賀守様から堀田土佐守様や一色丹後守様の書翰・返翰があり、その写しを書取った。
長左衛門殿が借家に五ツ時に来て、幽学先生と碁打ち。四ツ時には先生は柿を買って来られた。刀袋が出来上がった祝いに買ってきたとのことで、長左衛門殿、おけい殿と四人でいただいた。お二人は帰られ、幽学先生と二人で借家に泊まった。


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嘉永7年8月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家で七ツ起床。朝飯後に、幽学先生から「五郎兵衛よ、顔つきは変わってきて良くなったが、油断せずに養生せよ。自らの行いも藪家ご家中で抜きん出るほどでなくてはならぬ」と励ましのお言葉あり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生から五郎兵衛にお話し。五郎兵衛の顔を見た途端に外出していた時とは全く変わりました。五郎兵衛の健康と生活態度の改善を促す内容。前向きな言葉に五郎兵衛も励まされたことでしょう。

〈詳訳〉
・昨晩は松枝町に泊まる。七ツに起き、炊事をしている所へおけい殿がやって来た。夜が明けてから長左衛門殿が来られ、一緒に茶を呑む。
・朝飯後に、幽学先生からお話しあり。
「五郎兵衛よ、以前とは顔つきがだいぶ変わってきたな。ただ、食欲が出ているうちは油断できないから気をつけよ。少食にして、元の体に戻るまで養生しなさい。腫れがでてしまっては国元にも噂が立つだろう。誰の指示も受けず、自分自身で養生を行き届かせて、感心されるほどになってみなさい。養生するだけではなくて、普段からの行いも藪様の御家中衆の人々に目立つようでなくては、これまで数年予のもとにいて稽古したてきた甲斐もないというものだ。まずは、自分の養生をすることだ。それが出来ない様では、外の事も行いも人の目にとまるようなことは出来ないだろう」
「それから帳面のことだが、腹を落ち着かせ、根性を入れ替え、自分と一所になれば何事もできる。後の事だけを考えて慎みをもって臨むことだ」
・その後、小石川の高松様方へ行く。力蔵様はお留主であり、お定様に書き物のことを頼んで、四ツ前に御屋敷に戻る。御屋敷に大根売りが来たので、宜平殿と作蔵殿と合わせて一抱買って漬物にする。
・それから、楊枝削り、暮方御床上げ。九ツ半から明けまで夜番も勤める。



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五郎兵衛、幽学先生と和解する 嘉永7年8月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月26日 | 大原幽学の刑事裁判
五郎兵衛、幽学先生と和解する 嘉永7年8月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。

嘉永7年は閏7月が存在したため、一か月ズレが生じています。年末の帰村で帳尻が合いますので、年内は一か月ズレたままとなります(今月は8月の日記となります)。 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
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嘉永7年8月11日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早朝にお屋敷に戻る(昨日は松枝町の借家に泊まり)。 時触れ、楊枝作り。八ツ過ぎに飯田町から扶持米を持ってきた(2往復した)。その後、御床上げ。飯田町の薬湯に入る。九つ半から夜番も勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は旗本藪家の屋敷で奉公勤めをしています。奉公勤めといっても、外出・外泊は結構自由にできるようでして、昨夜も借家に泊まっています。今日のシフトが添番なので、それに間に合うように帰れば問題はないのでしょう。



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嘉永7年8月12日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、馬場の設営。暇を見て楊枝の作成。 昼過ぎ、七蔵殿と喜平治殿がお屋敷に来て、幽学先生からのお言葉を伝えに来た。「五郎兵衛達が改心し、その後宜平や次郎右衛門も指導してほしい」。夜番は九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛たちと幽学先生との関係改善が進んでいます。以前は幽学は五郎兵衛に文句をいうばかりでしたが、改心への期待感を伝えるとともに他の者指導にあたるよう指示しています。夜番も勤め、いつもどおりのハードな一日ですが、この言葉に五郎兵衛も励まされたことでしょう。

〈詳訳〉
本日は本番。朝掃除、馬場の設営。暇を見て楊枝の作成。 昼過ぎ、七蔵殿と喜平治殿が幽学先生の言葉を伝えにお屋敷に来た。
「五郎兵衛達には今後心を改めてくれることを期待している。その上で、宜平殿や次郎右衛門殿の指導もしてほしい。特に、次郎右衛門殿は奉公は初めてで、気が回らないのか、自分のことばかり考えているようであるので、正してほしい」
夜番は九つまで勤める。


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嘉永7年8月13日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家へ行く。改革(改心)につき取決めをし、七蔵殿と喜平治殿を証人として、幽学先生にご報告。「五郎兵衛よ、これまでは心得違いのことが多かったが、以後は心法を立て、善行を積むのだぞ」と諭された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、幸左衛門、節五郎の3名は幽学先生から疎まれていましたが、今日の話し合いで、和解となりました。長い江戸滞在で様々な軋轢が生じていましたが、これを乗り越えることで、幽学と弟子との間の絆はさらに強まることでしょう。

〈詳訳〉
・本日は非番。松枝町の借家へ出かけようとしたところ、お屋敷の安達様から「出かけるなら、ついでに本町で砂糖を買ってきてくれ」と頼まれた。
・松枝町に行ってみると、幽学先生がおられた。「五郎兵衛の改革(改心)のことだが、七蔵と喜平治に任せることにした。両人と話し合って、今日中に問題を解決し、改革できるかどうか決まりをつけておくように。予は出かけるからな」と仰った。
・良左衛門君からも、「今後はどんなことでも幽学先生の仰ることをありがたく受け止めることができますか。よくご自分自身に問うて、腹を決めてくだされ」との話しがあり、そのとおり取決めをした。幸左衛門殿と節五郎殿も同様に決心をした。
・三人とも取決めしたので、七蔵殿と喜平治殿を証人として、幽学先生にご報告をした。先生から、「五郎兵衛よ、これまでは心得違いのことが多かったが、以後は心法を立て、善行を積むのだぞ」と諭された。
・我々が取決めたことを、良左衛門君が手紙に認め、七蔵殿と喜平治殿の帰村の際の土産とすることとなった。

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嘉永7年8月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番だったが、仕事を変わってもらい幸左衛門殿と松枝町へ。昨日の取決めにつき再確認。幽学先生は邑楽屋(公事宿)から明15日に松枝町へ戻ることとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛たちの改心により、幽学先生も邑楽屋(公事宿)への引っ越しを撤回、明日には松枝町の借家に戻ることとなりました。どうなることかと思っていた師弟間のいざこざでしたが、落ち着くべきところに落ち着いたようです。

〈詳訳〉
・本日は添番であったが、早朝から同僚に仕事を替わってもらい、幸左衛門殿と二人で松枝町へ行く。節五郎殿も含め、3人で今までの心得違いについて話し合い。
「今後は、これまでのような自分勝手な贔屓根性を捨て、何をするにも、自分勝手にするのではなく、幽学先生の説いた道に合っているか否かを見極め、道から外れていれば、幽学先生と心も体も一緒になることは出来ない」
・幽学先生は、今月3日に邑楽屋へ引越されてしまったが、13日に我々の取決めを承認していただき、松枝町に戻る相談をしていた。良左衛門君が交渉した結果、明15日に松枝町の借家に御帰りになることとなった。

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嘉永7年8月15日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
御殿様が御登城するため(御本供揃い)、早朝に御仕度の触れをする。
月見。御家中から団子、栗、柿、里芋、枝豆をいただいた。
九つから夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は8月15日、仲秋の名月です。お屋敷では月見のため、様々な物をもらっていますが、団子以下、栗、柿、里芋、枝豆と細かなところまでしっかり記録しているのが、五郎兵衛らしいところです。


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嘉永7年8月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番の予定であったが、平作殿は辻番の打合せで外出し、万蔵殿は松枝町に行ってしまったため、人のやり繰りができず、結局一日勤めざるをえず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のシフトは、添番⇒本番⇒非番(休み)であり、最近の本番プラス夜番の一部となっています。非番のときにしっかり休んでほしいところですが、今日は人のやり繰りができず、一日勤めることとなってしまいました。


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嘉永7年8月17日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、その後薪割り、御弓場の設営。夕方、田中様からの依頼で牛込揚場に楊枝用の木を取りに行く。薬店の湯に入ってから戻り、御弓場の片付け、床上げ。九つ半から夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は牛込揚場町のことで、現在でも「新宿区揚場町」としてその名は一部残っています。江戸時代以前から存在した神田川の舟着場の荷揚場「揚場河岸」が由来です。

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嘉永7年8月18日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、夜具揚げ、楊枝削り。九つまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は最近時間があると、楊枝を作っております。昨日の記事では「田中様からの依頼で楊枝用の木」を取りに行っており、御屋敷のお仕事の一環なのかもしれません。


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嘉永7年8月19日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
昼前まで楊枝削り。本町大橋で茶を買ってから、松枝町の借家へ。夕方に長左衛門殿が来て、碁を打っていた。幽学先生から鍔四枚、小柄三本を番町で売るから持って行ってくれといわれた。借家で泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生と五郎兵衛たちの仲が元に戻り、いつもの風景が戻って来るました。長左衛門は碁打ちに興じ、幽学先生は刀剣関係の転売。以前は五郎兵衛の顔も見ずに外出してしまった幽学先生でしたが、五郎兵衛にお使いを頼んでおり、関係が正常化しています。

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嘉永7年8月20日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
昨夜借家で泊まったので、お屋敷に早朝に戻る。楊枝削り。幸左衛門殿へ楊枝を渡し、御家中衆へ御覧にいれたが、誰も買わない。 夕方に夜具上げ。夜番も九ツ半から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の楊枝削りの出来はやはり売れるというほどのものではなさそうです。五郎兵衛とは仲良しの御家中衆が誰も買わないのでは、市場価値はないのでしょう。楊枝削りを内職して来ましたが、売りさばきに暗雲がたれこめています。


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楊枝づくりの内職 嘉永7年8月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月16日 | 大原幽学の刑事裁判
楊枝づくりの内職 嘉永7年8月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年8月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
午前中に万徳(公事宿)へ袴代を持参。借家に戻ると、幽学先生が辻番で働くいう驚きのニュース。隠密に見つかったら、タダではすみませんよと説得され、辻番の仕事は思いとどまってくれたものの、転居の意思は固い…。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、いきなり「俺は辻番で働く!」という驚きの行動に出ました。弟子の説得で辻番の仕事は諦めたものの、借家を出るという決意は固いようです。これには弟子一同も困惑です。

〈詳訳〉
・ 朝食後、小生は万徳(公事宿)へ袴代を持参し、万徳の下代には200文を渡した。
・昼食後、幽学先生は次郎左衛門と一緒に佐竹様のところへ行き、辻番の御奉公をすることを取り決めて来られた。
・幽学先生に転宅しないよう説得するも、先生は聞き入れず。
「予がこの借家にいたままでは、他の者が心を改めない。問題となる言動を見れば、黙ってはいられない。だから、どうでも外へ出なければならないのだ」との思召しで、承知をされない。
・次郎左衛門殿が、「長部村役人の書付が隠密に見つかってしまいますと、大変な問題となってしまいます。辻番はよろしくないでしょう」と言ってくれたので、先生も辻番の仕事は諦めてくれた。
・しかし、先生が松枝町の借家からは出るという決意は固く、どうするかは本日決まらず。
・幸左衛門殿は本日借家に泊まり、小生は7つ半に出番町へ行き、暮れ方に御屋敷に戻った。


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嘉永7年8月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除、床下げ。昼過ぎからは御弓場の片付け。夜番も勤める。
昨日、松枝町の借家に泊った幸左衛門殿は昼過ぎに御屋敷に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は本番プラス夜番。人手不足のためでしょうか。一緒に働いている幸左衛門が松枝町の借家から帰ってきましたが、幽学先生が「借家から出ていく!」と驚きの宣言をした続報は記事にはありません。落とし所が見えないのでしょうか。
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嘉永7年8月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。昼には霊岸島で網を売る。216文になった。松枝町の借家に行き、幽学先生の手紙を写す。先生は辻番奉公を諦めて、邑楽屋(公事宿)住まいを決めた。幽学先生は小生らにご立腹でご指導の言葉をいただく。良左衛門君からも励まされる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
一昨日幽学先生は、いきなり「俺は辻番で働く!」といいだしたのですが、弟子の説得で辻番の仕事は諦めてくれました。しかし、邑楽屋(公事宿)で寝泊まりすると、借家から出ていく決意は固そうです。
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〈詳訳〉
・本日は非番。しかし、同僚の勇太郎殿が病気のため、朝掃除は代わりに行った。
・昼に霊岸島へ行き網を売る。2丈売って216文になった。
・松枝町の借家へ行く。幽学先生は十日市場村へ送る手紙をお書きになっていたので、小生は写しを作成した。その手紙の写しを良左衛門君、佐重子、又左衛門子、七郎右衛門子に送り、十日市場の世話をするよう書面を認めた。
・幽学先生は辻番奉公することは諦めた。借家住まいはやめて、今後は邑楽屋(公事宿)に泊まることとなった。
・会計の帳面を引き継ぐため、宜平殿に教えた。
・幽学先生「またこういうことになった。五郎兵衛なぞの根性が改まりさえすれば、帳面に書きようもあるが、この様なざまでは帳面に書きようもない。うわぬり根性では何にもならない。予が辻番等の奉公勤めをするようにしなければ、五郎兵衛ら三人は根性を改める事が出 来ない」と良左衛門君に愚痴をこぼしていたが、これは小生にも根性を改めさせたいという思召しなのであろう。先生はその後邑楽屋へ行かれた。
・後で、良左衛門君から聞いたところでは、「幽学先生にあれこれ言われてしまうと、難儀な気持ちになり、つらくて泣きそうになってしまいます。皆の行いを見てしまうと、先生としては指導せずにはいられないのでしょう。それで邑楽屋に行かれることとなったのです。
幽学先生のいうて下されたことを、ただそのままに、快く受けとめてくださらないか。難しいことではございません。このままでは国元にも悪い噂が伝わってしまい、皆困ります。そのような噂の立たぬよう心を切り替えて一新していただきたいのです。」
良左衛門君の話しを聞き、誠に忝けない思いになった。良左衛門は頼りになる男だと、心持ちを強くして奉公している屋敷に戻ることができた。


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嘉永7年8月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。殿様は、青山長谷寺で七周忌の御法事。大野様が参列。御供道具をお持ちした。御屋敷内では、前夜には饅頭、当日には御馳走が振る舞われた。
そんな日だったのに、同僚の勇太郎は博奕に負けて裸で帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・お殿様は、青山長谷寺で七周忌の御法事。御屋敷内でも、前夜には饅頭、当日には御馳走が振る舞われるなど、しめやかな雰囲気が伝わってきます。それなのに、奉公人の勇太郎は博奕に負けて裸で帰宅。奉公人の質の悪さが目立ちます。
・「青山の長谷寺」(ちょうこくじ)は、東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗の永平寺東京別院です。ここは旗本籔家の菩提寺なのでしょう。7月13日にも仏参が行われています。
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〈詳訳〉
本日は添番。早朝、青山長谷寺で御法事があり、大野様がご参列。御供道具を持参した。御法事には御親類や御客がお出でになるため、給士人として二人を派遣するよう指示があり、奥使いの喜助及び平作が来た。
七周忌の御法事で、前夜には饅頭をくださり、本日は御馳走がでた。
勇太郎は中嶋様の御屋敷で博奕に負けて、裸で帰宅。夜番は九つまで勤め、後は平作に任せた。


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嘉永7年8月5日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
勇太郎は昨日の博奕の件で職場を首になった。一人で朝掃除、御夜具下げ等。夕方に御夜具上げ。
勇太郎から中庸、絵図、筆一本、将棋本などをもらったので、餞別に200文を渡した。夜番を八つまで勤め、その後平作に引き継いだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
同僚の勇太郎は、博奕で負けて裸で帰宅という不祥事を起こし、そのため、職場を首に。博打に手を出したことが、分かってしまったら、武家屋敷で奉公させられないでしょう。ましてや、昨日は殿様の法事の日でした…。
そんな勇太郎でも、儒教の四書の一つ「中庸」を持っていたのにはビックリ。当時の流行りだったのでしょうか。別れの際に五郎兵衛にプレゼントしています。



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嘉永7年8月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。松枝町に幽学先生はおられたが、小生の顔を見ると外出…。良左衛門君から「先生は言葉足らずです。お言葉があったことに感謝しましょう。先生との20年来の情誼を考え、何とかして先生に安心してもらいましょう」との話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は相変わらず五郎兵衛とは顔を合わせません。五郎兵衛が来たと知るや、外出してしまいました。頼りになるのは良左衛門です。名主の息子だけあって幽学先生と五郎兵衛らの間をうまく取り持ってくれそうです。
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〈詳訳〉
本日は添番。
朝に掃除と床下げ。
昼から松枝町の借家へ向かった。幽学先生はおられたが、すぐに買物に出かけてしまわれた。その後、良左衛門君は
「幽学先生は物事の7割しか話さないのです。話していただいた内容が足りないと感じるよりは、話していただいたことに感謝すべきです。
先生の寿命の決まりがつく時は近づいています。今回の件のご処分がどうなるのか次第ですが。いずれ御奉行所から御呼出があります。幽学先生との20年来の情誼を考えてください。今こそ自らを正し、先生に安堵してもらうときです」と懇々と語られた。
御屋敷に戻り、床上げ、御弓場の片付け。
夜番は平作殿が九つまで勤め、その後、小生が引き継いだ。




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嘉永7年8月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
殿様が下屋敷へ御忍びでお出かけ。御忍びゆえ半供(半分の供)。五つには御帰館になられた。
本日は本番。昼に大寺と二人で薬店の湯に入り、帰りに牛込揚場でかん木を買った。楊枝作りの為。夜番は九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
殿様が御忍びで下屋敷へお出かけ。御忍びのお出かけは、先月25日と28日にもありました。殿様にもよるのかもしれませんが、結構頻繁にある印象です。半供とは、フルバージョンの供の半分のことでしょう。
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〈詳訳〉
殿様が下屋敷へ御忍びでお出かけになった。御忍びゆえ半供(半分の供)。五つには御帰館になられた。
本日は本番。
朝掃除、床下げ、土用干しの手伝い。
大寺と二人で薬店の湯に入り、帰りに牛込揚場でかん木を買った。
夕方、夜具上げ廻り。夜番を九つまで勤める。
暮方、節五郎殿が来られて泊まり。

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嘉永7年8月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除。大崎より女中口使が一人、国部屋へ一人来た。仲番は万蔵という者が勤めた。夕方、夜具上げと御弓場の片付け。 夜番は九つまで他の者が行い、その後を小生が勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は添番プラス九つ以降の夜番。勇太郎が首になった影響もあるのか人手不足のようです。
昼に仕事をしたあとに一人で夜番を勤めるのはさすがにきつく、夜番は九つ(0時)の前後で担当を分けています。


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嘉永7年8月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除。昨日から楊枝作り(内職)を始めた。干した木を、日暮れまで削る。御弓場を設営し、暮方には片付け。夜番を九ツ迄勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
朝掃除を終えた後、日暮れまで楊枝作りをしています。少しでも収入を増やしたいという思いからでしょうが、売れるかどうかどこまで考えてのことでしょうか。五郎兵衛のことですから、あんまり考えていないような…。

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嘉永7年8月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。松枝町に行く。幽学先生から厳しく叱責された。幽学先生は小生の嘘や盗人根性を指摘し、これ以上は相手にしないと宣言。良左衛門君からもとりなしの話しあり。その後、先生は邑楽屋へ赴き、小生らは借家に宿泊した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は厳しい言葉で五郎兵衛を叱責。五郎兵衛殿の改心を期待しているのでしょうが、五郎兵衛を嘘つきだ、なんだと非難するのは以前と同じ手法であり、指導者としてはどうなのかと思います。その点、良左衛門君は冷静かつ的確です。
━━━
〈詳訳〉
本日は非番のため、朝に掃除、昼前まで楊枝作りをし、昼から幸左衛門殿と二人で松枝町の借家へ行った。節五郎殿もおり、三人で良左衛門君と話す。
今日は、幽学先生がお出でになられた。
「誠に五郎兵衛は筋が悪い。嘘を言う、偽りをなす。こんな盗人根性では今後どんなことができるだろうか。
顔つきにも表れているぞ。悪い事をすれば、以後は改めますというが、一体何回言ったか覚えているか。四ツ谷文平が懸合に来た時は、そういう事はないとか、その気にはならない 等と言い切ってしまっているから、もうあきれてしまった。こんな根性では改めることができないだろう。そのような者とあいてをしていられない。」
「幸左衛門は自分が悪い事をして、予を悪者にする。節五郎は奉公勤めしているのだから、そのくらい察しそうなものだが、ちっとも分かっていない。」とお叱りになられた。
その後、小生は帳面に間違いが多いことを良左衛門君に詫びたが、良左衛門君は「そんな帳面のことをいうのは甚だ筋違いのことです。そのような帳面のことなどは誰でもできることです。そんなことより、五郎兵衛殿の心が改まれば、先生も再びこの松枝町の借家にお出でになるでしょう」と話してくれました。
先生は邑楽屋へ行き夕食を召し上がられた後、再び借家に戻られた、国元の様子や佐倉での腰物売買のことについてお話しになられた。
その後、幽学先生は四つ時に邑楽屋へ行か、借家では6人で泊まり。


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幽学先生との不和続く 嘉永7年閏7月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月05日 | 大原幽学の刑事裁判
幽学先生との不和続く 嘉永7年閏7月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年閏7月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝掃除、網すかり。夕方に夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は仕事の記事のみ。単調この上ないですが、このようなことに対応できるの五郎兵衛です。


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嘉永7年閏7月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。朝掃除。網すかり。夕方に麹町へ油を買いに行き、夜番を勤める。
・御殿様は半供(半分のお供)で下屋敷をお出かけになった。日没過ぎにお戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御殿様は下屋敷にお出かけ。お供の人数は通常の半分だったようで、五郎兵衛の日記では「半供」という言葉が使われています。御登城のような正式な場合はフルバージョンのお供、そうでない場合は「半供」という使い分けがあったようです。

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嘉永7年閏7月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。網すかり、幸左衛門殿と二人で髪結、牛込の湯に行き、麹町三王(山王)祭り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は非番で、髪結い、銭湯だけではなく、麹町の三王(山王)祭りを楽しめたようです。

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嘉永7年閏7月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝、掃除、網すかり、昼より御弓場の設営、夕方御弓場の片付けと夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
弓場の設営、片付けという仕事が結構頻繁にあり、屋敷の武士は弓の鍛錬をしていることが分かります。設営と片付けを繰り返しているので、弓場を常設ではなく、敷地を他の用途にも使用しているようです。

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嘉永7年閏7月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。 朝、掃除、御床下げ。一日中網すかり。夜番も勤める
・御殿様は半供、御忍びで朝早くから日の入りころまで外出。仙様と御隠居様もご一緒された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日も仕事の記事のみですが、殿様の御忍びの記事が興味深い。殿様の御忍びは半供(フルバージョンの供の半分のことと思われます)で、たっぷりと遊ぶ為か、朝早くから日の入りまで出かけています。

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嘉永7年閏7月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。朝早くから松枝町の借家に行き、宜平殿と二人で会計帳面の作成。漬物も拵えて夕方には借家を後にした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は仕事が休みなので、松枝町の借家に出掛けています。会計帳面の作成は、宜平と二人で担当することになったようです。
幽学先生はいまだに五郎兵衛と顔を合わせないのでしょうか、記事には幽学先生の名前はでてきません。

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嘉永7年閏7月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝、掃除、御弓場の片付け。夕方、御床上げ。幸左衛門殿が松枝町の借家に行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は幸左衛門が、松枝町の借家に出掛けています。幸左衛門と五郎兵衛は同じ職場=藪家(旗本)の屋敷で働いていますので、お互いの動向について緊密に連絡を取っていたのでしょう。


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嘉永7年閏7月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。幸左衛門殿と二人で髪結い。夜番も勤める。
・御殿様は朝から本所へ御忍びで御狩猟に出かけられた。仙様もご一緒。御半供。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
殿様は本日もお忍びのお出かけです(幽学先生の動向より、殿様の動向の方が最近は多くなってしまってます)。7月25日条もお忍びで出かけていますが、何をしたかにつき、日記での言及はありませんでした。今日のお忍びは本所での狩猟。

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嘉永7年閏7月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。昨日、長部村から良左衛門君たちが江戸に着いた。奉行所の帰村許可は本日までであったので、奉行所に着届け等の手続きを行う。御奉行所からは「おって呼出しがあるまで宿にいるように。幽学は宿預かりである」と言われた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
長部村(現旭市長部)は、大原幽学が居を定めていた村で、良左衛門は名主の息子。幽学の高弟の一人です。最近では、幽学先生の中では、幸左衛門や五郎兵衛の評価が急落しており、良左衛門の来るのを待っていた状況でした。これで五郎兵衛の状況も良くなると良いのですが。

◯詳訳
本日は非番。早朝に宜平殿が来た。
長部村から良左衛門君たちが昨日江戸に着いたので、奉行所への着届けをどのようにしたら良いかと相談された。
松枝町の借家に行くと、良左衛門君、次郎左衛門殿、米込村の伝蔵、武三郎、節五郎がいた。
・ 昼食後、御奉行所へ向かう。途中公事宿の蓮屋と万徳へ立ち寄る。万徳の主人は留守で、下代は病気のため、腰掛にいた角村屋に頼んで着届の書面を書いてもらった。
幸左衛門殿が来ないので、宜平殿と武三郎が迎えに行ったが、すれ違いとなってしまって、幸左衛門殿は間もなく来たが、宜平殿らは番町まで行ってから帰ってきた。
・遅くなってしまったが、八つ時に訴所に出頭。御奉行所からは「おって呼出しがあるまで宿にいるように。幽学は宿預かりである」と言われた。
・その他手続きをして、松枝町に戻る。
・良左衛門君から国元の話しを聞いた。小生の心得違いの話しをすると、良左衛門「そういうところにこだわってしまっては先に進めないから、今までのことはさっぱりと忘れて、これからは世の中を変えるように思えばよい、幽学先生の言葉に従っていればよい、私が来たのを気にそうしましょう」との話しがあったので、随分と気が楽になった。
・夜には幽学先生から節五郎と共に、これまでの不実な行いと心得違いにつき、厳しく指摘された。この日は、節五郎殿と二人で借家に泊まった。

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#五郎兵衛の日記 はお休みです。
嘉永7年閏7月に30日は存在しません(嘉永7年7月は小の月)
#大原幽学刑事裁判 
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#五郎兵衛の日記 はお休みです。
嘉永7年閏7月に31日は存在しません(旧暦には31日は存在しません)、
#大原幽学刑事裁判

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幽学先生はご機嫌斜め 嘉永7年閏7月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月26日 | 大原幽学の刑事裁判
幽学先生はご機嫌斜め 嘉永7年閏7月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年閏7月11日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番。幸左衛門と松枝町の借家を訪ねる。幽学先生は不在で、やはり会えず。伊兵衛父から幽学先生は「死んでも養生すると決心した者が、ちょっとしたことでも慎むことができないのは偽りにしかならない」と仰られていたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
非番で休みの時を利用して、借家に顔を出す五郎兵衛たちですが、相変わらず幽学先生はつれない態度。しかし、道友らの結束は固く、江戸滞在組からは離反者はでません。この強固な連帯は不思議です。


〈詳訳〉
・本日は非番。薪を100抱割る。348文貰う。
・昼から幸左衛門殿と2人で松枝町の借家へ行く。節五郎殿、伊兵衛父、宜平殿、幸八郎殿がいた。
体調はどうかと聞かれ、調子は良いですと答えると、「それが良い。その調子を大切にしてほしい」と言われた。
・泉屋へ行って薬7貼を調合してもらい借家に戻る。幽学先生とお会いする予定だったが、お出かけになられてしまって会えず。
・「病気の養生については腹から理解してもらいたい。少しも油断しないでほしい。良いと思えばお前は怠けてしまうからな。引き続き気をつけて養生してほしい」と皆さんが親切に言ってくれた。
・幽学先生からは「死んでも養生すると決心した者が、ちょっとしたことでも慎むことができないのは偽りにしかならない」と仰られていたとのこと。
・幸左衛門殿が「幽学先生はこの家に引き続きお住まいになるよう」とお願いしたところ、「そんなくどい話しをするな。兎にも角にも幽学先生に心を任せ、自分勝手な判断をせず、先生の言う通りにすれば、どうにでもなるのだ。
自分の気持ちが変わって改心し、先生を楽にしてあげることができれば、なんでもないできるのだ。良左衛門君がおっつけ来られれば、事態も好転するだろう。幽学先生が会ってくれるくれないということを考えることはあきらめて、自分を改心することだけを一途に考えることだ」と仰られたので、我々も納得して借家を後にした。

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嘉永7年閏7月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝掃除、洗濯。
幸左衛門殿と髪結い。御弓場所の準備。
飯田町の東屋万吉方へ扶持米を運搬。32文貰って、銭湯に行く。帰ってから、御床上げ及び馬場の始末。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は仕事の記事のみ。いつもと変わったところといえば、「飯田町の東屋万吉方へ扶持米を運搬」との記事でしょうか。飯田町は現在の飯田橋二丁目のあたり。飯田町には薬湯があったようで、五郎兵衛もたまに入りにいっています(7月24日条等)。

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嘉永7年閏7月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝は掃除と御床下げ。
幸左衛門殿「本番のときは、洗濯はしないほうが良いだろう、頼みごとも多くなるから」
夕方、御弓場の片付け。夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛本日は本番及び夜番。五郎兵衛日記は、大原幽学の刑事裁判のための日記なのですが、幽学先生とは現在別々に暮らし、会ってもされませんので、幽学先生の動静はわからず、五郎兵衛の仕事日記といった体になってしまっています。

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嘉永7年閏7月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は休み。昼過ぎに松枝町の借家に行くが、やはり幽学先生は不在。伊兵衛父は帰村してしまった。借家にいた宜平殿から、幽学先生の言うことだけを聞くように言われた。小生「心得違いをしておりました。病気の事は泉屋にも相談し、養生致します」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
仕事が休みで、松枝町の借家に顔を出した五郎兵衛ですが、幽学先生はまたまた不在。これまで留守番役だった伊兵衛(元名主)も村に帰ってしまいました。 かわりに宜平から同じようなことを繰り返し指導されています。五郎兵衛はまたもや反省。

〈詳訳〉
本日は非番であり、朝から休み。
昼前に少々網すかり。
昼過ぎに松枝町の借家に行くが、やはり幽学先生は不在。伊兵衛父は帰村のため江戸を立ってしまった。
宜平殿から、「幽学先生は、自分の言う事だけに耳を傾けてほしいと言っているぞ」と言われる。
小生から「これまでいろいろと心得違いをしておりました。病気の事は泉屋にも相談し、薬は止めて養生に力をいれていきたい。そのことを幽学先生に伝えて下さい」と宜平殿に頼んだ。
昼過ぎ飯田町の薬湯へ入り、夕方戻る。

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嘉永7年閏7月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。御殿様は朝方に供を連れて御登城。昼前にはお帰りになられる。
小生は朝掃除、昼からは御弓場の設営、御夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
殿様は午前中に御登城。五郎兵衛は一番下っ端で屋敷に残って仕事です。殿様がお供を連れていくと、その分屋敷の人員が手薄になって五郎兵衛の仕事にも影響が出てくるのですが、今日は特に影響はなかったようです。

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嘉永7年閏7月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝に掃除、御床下げ。昼過ぎから夕方まで具足の手入れ。休んだ後に、夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日も仕事の記事のみ。本番及び夜番。結構拘束時間は長いのですが、日記をみる限り五郎兵衛が苦にしている様子はありません。

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嘉永7年閏7月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。網すかり。道具を運びだして土用干し。昼からまた網すかり。
幸左衛門殿と髪結いをし、夕方に食事をし、牛込の薬店湯へ、幸左衛門殿、大寺と一緒に行く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は非番で休み。網すかりや道具の土用干し等、何らかの仕事はしています。五郎兵衛はこうやって体を動かしているときの方が良いようです。なお、「網すかり」とは、網で作った魚籠のことのようですが、それを作ったという意味で五郎兵衛は使っています。

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嘉永7年閏7月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝に掃除。昼より御弓場の設営、御夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番で、いつもどおり早朝に掃除、昼から御弓場の設営と御夜具上げで特記すべきことはなかったようです。
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嘉永7年閏7月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除、御夜具下げ。御弓場の片付け。夜番を勤める。仕事の合間に網すかり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は朝から仕事で夜勤(夜番)もしています。もっとも、夜番の仕事の最中に、「網すかり」の副業もしていますから、それほど忙しいということはないようです。

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嘉永7年閏7月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は休み。網すかり。昼過ぎに幸左衛門殿とともに松枝町の借家に行く。幽学先生は外出中。その後、先生はお戻りになられたが、我々に会ってはくれず。早々に借家を辞去せざるを得ず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事は本日休み。道友かつ職場の同僚の幸左衛門とともに松枝町の借家に行きますが、幽学先生は今日も会ってくれず。幽学先生もここまで意固地にならなくてもよいと思うのですが…。


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ペリー来航と大原幽学

2024年08月11日 | 大原幽学の刑事裁判
ペリー来航と大原幽学
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(ペリー来航、嘉永6年6月3日)
ペリー来航は日本史上の一大事件です。
嘉永6年(1853年)6月3日当日の動きは次のとおり。
・正午。彦根藩の三崎陣屋に「4隻の異国船が城ヶ島沖を航行している」との情報が届く。三崎町の漁師からの情報。
・ペリー艦隊、浦賀に到着。午後5時過ぎ、浦賀沖に錨を下ろし、町に搭載砲を向ける。
・与力中島三郎助が通詞堀達之助と共に小船でサスケハナ号に赴き、副官コンティ大尉と交渉。コンティは国書を渡すことが目的と来航の目的を明らかにする。中島は艦隊を長崎に開航することを求めるが、コンティは拒否。
・午後10時、浦賀からの早船による報告が浦賀奉行井戸弘道の江戸屋敷に着く。井戸は直ちに老中阿部正弘の屋敷に届けを持参。阿部は老中、若年寄を招集し、江戸城内で協議。協議は夜を徹して行われた。
浦賀への黒船の進行を許してしまっており、これまでの防衛策は何だったのかと言わざるを得ませんが、その後は素早い対応で当日のうちに江戸で緊急対策会議を行っています。

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(大原幽学刑事裁判と五郎兵衛日記)
ペリーが来航したときは、大原幽学の刑事裁判は審理中で、幽学や道友(弟子)たちが江戸に滞在していました。
大原幽学の道友である五郎兵衛は、江戸滞在中で日記をつけており、ペリー来航の騒動も記録していますが、最初にその騒動が伺えるのはペリー来航後、1週間近く経った6月8日以降の記事です。8日及び9日の記事でペリー来航に関係ありそうな箇所を抜き書きしてみます。
---
6月8日
○小生と元俊医師が二人して公事宿から湊川の借家に行ったところ、高松様がお出でになっていた。その後、高松様は御帰宅になられ、小生らは七ツ半時に宿へ帰った。夜五ツ時、公事宿に高松様が御出になり、九ツ時迄色々とお話しをされ、そのまま宿に御泊りになった。
6月9日
○早朝に高松様は宿からご帰宅になった。元俊医師と五ツ半時に湊川の借家に行った。
平右衛門殿が四ツ時に田安家の御役所から帰ってきた。「代官の磯部様はお会いになって、たいそうお喜びでした。今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと、厳しく仰せられました。何が起きても決して驚いてはならぬぞとも仰っていました」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(田安家代官の磯部様の話し)
6月9日の記事にある田安家代官の磯部様の言葉が当時の緊張感を良く伝えています。
日記原文にも「異国船騒動」という言葉が使われており、このように来航間近なときは話されていたことかが分かります。
磯部様は平右衛門に「今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと」と話しておりますが、これは平右衛門から磯部様に「今般の異国船騒動はどうなりますでしょうか」などと質問した際の答えなのではないかと思います。
平右衛門は磯部様からは何も教えてもらえなかったのですが、磯部様は「何が起きても決して驚いてはならぬ」とも述べられておりますので、武士はかなりの危機感を持っていたようです。
---
平右衛門は大原幽学の道友の一人で、荒海村(現成田市荒海)の農民です。荒海村は田安家が領有しているため、江戸に滞在するときや、江戸から村に帰るときは、田安家の御役所に届を出さなければなりません。磯部様は田安家の代官で荒海村の担当だったようです。この裁判で多くの農民が江戸に出府を強制され、審理の為に待機させられている現状を何とかしたいと非常に好意的であり、色々な話しもしてくれています。異国船騒動についてこれだけのことを話してくれたのも、このような背景からです。
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(幕府の小人目付である高松様の行動)
6月8日の記事には「高松様」の名前が見えます。「高松様」は高松彦七郎という小人目付、つまり幕府の下級役人です。
高橋 敏『大原幽学と飯岡助五郎』には以下のように紹介されています。
▼高松彦七郎茂雅 1787~1865。小人目付、俸禄15俵 一人扶持、屋敷は江戸小石川同心町。
1856(安政3)年、御小人頭に昇任して80俵。
---
御小人頭に昇任していますから、かなり優秀であり、評価された人物であることがわかります。
幕府の下級役人ですから、異国船騒動においては現場に出ていかなければならない役回り、またこの非常事態ですから、かなり多忙だったはずです。そんな中を大原幽学のいる湊川の借家を訪れて話しをし、その日は元俊医師らが逗留している宿に泊まるとは、何か重要なことを話しに来たのではないかという推測が成り立ちますが、日記をつけている五郎兵衛が聞いていなかったのか、重要ではないと思ったから書かなかったのか、よく分かりませんが、日記にはその手の話しは一切書いておりません。
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(6月9日、国書受領)
ペリーは米国の国書受領を要求しており、幕府は6月6日に江戸城での評議で国書受領方針を決定、翌7日午後には与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かい、ブキャナン中佐は「明後日(9日)に国書を久里浜で受領する」ことを伝えています。一方、幕府は万一に備えて東京湾の警備を増強。また、船を繰り出して艦隊に接近して見物することを禁止します。
このことからすると、6月7日時点では、ペリー艦隊との軍事衝突の危険は低くなったことが分かりますが、米国からの国書受領という前代未聞の事態でトラブルが生じる場合に備えて、幕府は緊張感を高めていた状況でした。
6月9日午前9時ころには、ペリーは久里浜に上陸。幕府は、急造の応接所でフィルモア大統領からの国書を受領しています。「単なる受領であって、交渉ではない」という立場を幕府がとったため、会話らしい会話もなく、国書受領の式典は無事終了しました。
後世からみれば、この時点で軍事衝突の危険はほぼゼロと見えるのですが、ペリー艦隊は依然として東京湾におり、退去するまでは幕府は気が抜けなかったことでしょう。ペリーが東京湾を離れ、琉球へ向かったのは6月12日のことです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月10日の五郎兵衛日記)
以上がペリーからの国書受領、ペリー艦隊の退去の経緯ですが、幕府からの発表もなく、マスコミもない江戸時代では情報のタイムラグが生じます。五郎兵衛日記では、6月10日以降の記事で異国船騒動がクローズアップされてきます。
---
6月10日
○公事宿から湊川の借家へ行くと、異国船の話しでもちきり。諸大名・御旗本が各所に陣取り、今日明日中にも戦となるかもしれぬとのこと。
江戸の様子。
・御府内は町方まで合図の鐘が鳴り響いている。
・十人火消しは配置につき、火事があってもよいようにとのお触れ。
・諸大名・御旗本は、今や今やと合図の鐘を待っている。
・出立の際は、水酒盃の覚悟を致すほどとのこと。
---
湊川の借家へ行くと、既に異国船の話しでもちきりです。「今日明日中にも戦となるかもしれぬ」との噂ですが、五郎兵衛日記にはさしたる緊張感はなく、これは五郎兵衛の性格だけでなく、周囲の雰囲気がお祭り騒ぎ的なものであったからのような気がします。実際には危機的な状況は、6月3日のペリー来航から6月6日の国書受領方針の決定、翌7日の受領方針の伝達までであり、それ以降は軍事衝突の危険性は低くなっているので、現代からみると一層滑稽な気がします。

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(6月11日の五郎兵衛日記)
6月11日には、高松彦七郎が大原幽学を訪れています。
---
6月11日
○公事宿から湊川の借家へ行く。夕方、高松様が来られる。「この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。」
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ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっており、各藩の陣屋がありました。また、この度の騒動で各所に陣所が設けられたことでしょう。高松彦七郎は御小人目付として、見分(監察)するように命じられています。
どのような職務を行うのかを明らかにしており、今なら守秘義務違反?に問われかねませんが、明12日にはペリー艦隊が退去予定という情報を得ており、緊張がいくぶんほぐれてきた故の発言かもしれません。
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(6月12日の五郎兵衛日記)
6月12日には、大原幽学と五郎兵衛は高松彦七郎の両親にお祝いの挨拶に行っています。
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6月12日
○幽学先生は、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」
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高松氏の両親の発言はかなり勇ましいものですが、高松父は隠居しても武士(軍人、戦闘員)であることを念頭に置く必要があるでしょう。五郎兵衛は農民であり、非戦闘員ですから、戦おうとはこれっぽっちも思っておりません。

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(6月13日、異国船騒動の終わり)
ペリーは6月12日に東京湾を退去していき、江戸の危機は回避されました。この情報を大原幽学らは、翌13日には得ています。
---
6月13日
○八ツ時、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は十三日九つに出帆し、立ち去りました」
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幕府の役人高松彦七郎がここでも登場します。
高松氏は四日四晩徹夜と激務で、ペリーが出航し、仕事を終えてから、家に帰る前に幽学らのいる借家に来てくれています。危機は去り、高松氏の激務も終わりました。

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(終わりに)
このように武士と五郎兵衛を始めとする幽学の道友とではまるで緊張感が違います。戦争になれば、まっさきに被害にあうのは住民のはずですが、その緊張感がないのも不思議ではあります。
もっとも、6月9日の日記には次のような神田明神の祇園祭りの様子が記録されており、町は基本的にはいつもどおりの平穏を保っていたようです。ただ、神輿渡御がお触れにより中止となったことがいつもと異なっております。住民にはその程度のことと受け止められていたのかもしれません。

〈6月9日の夜の記事〉
一旦宿に戻った後、夜に小舟町(現中央区日本橋小舟町)へ行った。祇園牛頭天王など、さまざまな飾り物があった。第一の門には大きな提灯が掲げられ、天王の由来が書かれていて、神職が一人供を連れて、幣を持って参拝していた。第二の門には、天の岩戸の大神宮様の図が、第三の門には、素盞嗚尊と稲田姫、それに大蛇の絵が描かれていた。その次の門は、神々の御門のようであり、その次の門には大きな注連縄が、その次には御段家があった。
小舟町は五十何町にもわたる祇園の中心地である。祇園町内では二本ずつ幟が立てられ、天王様の御輿が置かれる場所には四方に竹が立てられ、締縄が張られ、花が飾られ、灯が灯され、また掛け提灯が無数にあった。
晩の九ツには神田明神まで、附木店の町内から迎えが出て、御輿が出されるそうなのだが今回の騒動のために、御触れがでて神輿は遠慮ということになった。

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顔を見せない幽学先生 嘉永7年7月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月08日 | 大原幽学の刑事裁判
顔を見せない幽学先生 嘉永7年7月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年7月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼すぎから夕方近くまで薪割り。十二抱。
本日は添番。五つと四つに時触れ。御役所、御玄関、御次では火を取る。その後、八つに御弓場を設営。七つ過ぎ、御役所、御玄関、御次で御夜具をあげ、夕方に御弓場の片付け。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旗本屋敷での仕事も慣れてきたようです。今日の記事では、御弓場の設営や片付けについて言及されています。五郎兵衛のいる御屋敷では常設ではなかったようで、弓場の設営と片付けが仕事になっています。


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嘉永7年7月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、雑巾がけ。御次に御湯水取り。馬場の準備。九つに御役所から触書(明日御殿様が御登城及び増上寺へ御拝礼)。九つ半に御弓場を拵える。暮れ方に片付け。夜番も勤め、明六つまで寝ずに仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
朝の雑巾掛けから始まり、馬場の準備まで忙しい五郎兵衛。御役所から触書が届き、御殿様は明日登城の予定となりました。五郎兵衛は朝から仕事でしたが、夜晩も勤め、寝ずの番です。

〈触書の内容〉
明23日五つ時に御供を揃えて御登城される。御退出後は増上寺へ御拝礼あそばされる。


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嘉永7年7月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番。昼過ぎに松枝町の借家へ。
伊兵衛父と話し「幽学先生は、会えば一言言ってしまうか、五郎兵衛とは会わない。心得を思い出し、食事もよく管理して病を治せ」等、ご親切なお叱りをいただいた。誠に心魂に響き、忝なく思う。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は非番で松枝町に顔を出したのに、幽学先生は五郎兵衛とは顔を合わせないと、伊兵衛父を介して宣言されてしまいました。
これに対し五郎兵衛は、「ご親切なお叱りをいただき、忝なく思う」とのコメント。日記を読む限り真面目な五郎兵衛ですが、やはりどこかに問題があるのでしょうか。

〈詳訳〉
非番。四つ半まで薪割りをする。
御殿様は本日御登城であり、御供の者も出払ってしまった。勇太郎殿は五味様の使者の御供に行ってしまったので、小生が代わりを勤める。
八つ時、 松枝町の借家へ出かける。屋敷の者から所用を頼まれたので、途中で買物をし、丁子屋でタバコもかった。
借家には、幽学先生のほか、岡飯田村の平太郎殿(湯治帰り)、荒海村の者等がいた。
伊兵衛父から2階に来るように言われて話しをする。
「五郎兵衛に会うと一言言わないではいられない、だから、五郎兵衛とは顔を合わせないようにしてくれ、と幽学先生からは言われておる。心得を思い出して篤と考えてみよ。これまで長沼組として大勢の者を世話をする立場でありながら、死ぬ気で対応していたとはいえまい。嘘を言わず素直に話すことだ。言うのが、良いのか、不言が良いのか、この二つをよく考えてみよ。病気を治すために、食事もよか管理せよ。」等、ご親切なお叱りをいただいた。
誠に心魂に響き、忝なく思う。
大雨が降っていたが、暇乞いして番町(職場)まで暮方に帰った。


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嘉永7年7月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除、昼前に細々とした所用をこなす。三ヶ所御床上げ。昼から薪割り。御弓場の片付け。七つ時に飯田町の薬湯に入る。
幸左衛門殿は七つ時に松枝町の借家へ行き、六つ時には戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番。掃除、御床上げ、薪割り、御弓場の片付け等の仕事をこなしています。同じ御屋敷で働いている幸左衛門が、幽学先生のいる借家に行っていますが、すぐに帰ってきています。五郎兵衛同様、先生に相手にしてもらえていないのかもそれません。

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嘉永7年7月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝、掃除を三ヶ所、御床下げ。その後細々とした所用をこなす。
巻わらを拵え、樽に詰めて、弓の的を作り、
昼から御弓場の設営。合間に網すかり。夕方、馬場の片付け。夜通し寝ずの番。
幸左衛門殿と二人で御厩で湯沐する。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は本番。掃除、御床下げ、弓の的作り、御弓場の設営、馬場の片付けをした後、夜通し寝ずの番まで。大変な仕事ですが、会計等の事務仕事をするよりは、体を動かす方が五郎兵衛には合っているのかもそれません。

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嘉永7年7月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。薪割り、十三抱え、七つ半迄。その後、湯に行き、九段の夜市へ行って六つ時に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は非番ですが、薪割りを夕方までしています。その後は銭湯に行き、九段でやっている夜市に顔を出しています。五郎兵衛は番町の屋敷で住込みで仕事をしているので、九段はご近所です。

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嘉永7年7月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。岡飯田村の平太郎殿が来られる。
「幽学先生は困っておられます。五郎兵衛殿は叱っても恥じ入らないからです。先生は五郎兵衛殿に改心をしていただきたいと仰っておられます。また五郎兵衛殿の病気のことも心配されています。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番です。職場に岡飯田村(現香取市岡飯田)の平太郎殿が、幽学先生のご意向を伝えに来ました。五郎兵衛は叱っても恥じ入らないため、問題視しているとのこと。病気のことも心配しているので、悪意からではないようですが、五郎兵衛にとってはなかなか辛いことです。


〈詳訳〉
本日は添番。五つ、四つの時触れをする。
岡飯田村の平太郎殿が来られて、小生と幸左衛門殿に次のような話しをされた。
「幽学先生は幸左衛門殿と五郎兵衛殿のお二人に困っておられます。特に五郎兵衛殿が問題だそうです。幸左衛門殿を叱れば、恥じ入って小さくなるけれども、五郎兵衛殿はそうではないからだそうです。幽学先生は五郎兵衛殿には改心をしていただきたいと仰っておられます。今までのことをよくよく考えてみて、自分が間違っていることを自覚してほしい、五郎兵衛が改心すれば、ほかの者はどうとでもなるとも仰っています。」
「また五郎兵衛殿の病気のことも心配されています。泉屋に相談してみてはいかがとのことです。」
そこで、平太郎殿と二人で元岩井町の泉屋へ行き、診察を受けた。「体が疲れ、舌がすごく荒れていますな。この暑いのに汗があまりでないというのもおかしい。放っておいてはよくおりません」と、薬七貼をもらった。
帰りがけに、松枝町の借家に寄った。幽学先生はおられたが、小生の顔を見ると、すぐに出掛けてしまわれた。伊兵衛父と話す。
・番町の職場に戻り、御弓場を設営する。同役二人に仕事を代わってもらうので、酒を一合ずつ買って持っていった。


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嘉永7年7月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・御殿様は本日御登城。六つ半に出立。
・本日は本番。掃除、三ヶ所の床下げ。その後細々とした所用をこなし、昼から御弓場を設営し、夕方に撤去。幸左衛門殿と大寺と三人で堀田の湯に行く。戻ってから馬場の撤去。晩は平作殿に頼み、夜番を勤めてもらった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御殿様が御登城。五郎兵衛は採用されたばかりですから、お供ではなく、御屋敷に残って雑用です。掃除、床下げ、御弓場の設営と撤去。馬場の撤去前には、三人で銭湯に行っていますから、空き時間ができたら適宜休憩を取ってもよかったようです。

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嘉永7年7月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝に掃除、三ヶ所床下げ。その後細々とした所用をこなす。御弓場を設営、夕方には撤去。また三ヶ所床上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番。掃除、床下げ、御弓場の設営と撤去、床上げ。毎日同じことの繰り返しですが、五郎兵衛にはこういう作業の繰り返しの方がストレスがかからないのかもしれません。


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嘉永7年7月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から松枝町に借家に行く。
幽学先生は外出され、顔を見せてくれず。
昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋等を食べる。
伊兵衛父「気落ちしないで、あまり気にかけずに過ごしなさい」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は弟子たち大集合の日です。
幽学先生は相変わらず五郎兵衛らと顔を合わせてくれませんが、「昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋」と仲間と一緒に食べるのが楽しそう。伊兵衛父も「気落ちしないで、気にかけずに過ごすように」と言ってくれていますし、なるようにしかなりません。

〈詳訳〉
六つに起床して掃除。消炭一俵をかき出す。五つ前に松枝町に借家に行く。
買物を済ませて岩元町の泉屋へ診察に行く。
龍ヶ崎出身の医師がいて、診察を受ける。
「脚気ではないです。しんが衰弱し、舌が悪く、腹の中も良くないです。養生が第一です。放置するのは良くないですね。消化の良いものを食べてください。長い事かかるので、気長に療治してください。」 薬をもらって借家に戻る。
幽学先生は五つ半時に出かけられ、七つに戻られたが、また出掛けてしまった。
諸勘定等を行う。
昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋等。
伊兵衛父からは、「気を楽にして一同が互いに気ままになることだな。おっつけ長部村から良左衛門殿も来られることだろう。まあ、どうにかなることであるから、気落ちしないで、あまり気にかけずに過ごしなさい」

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嘉永7年に7月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。

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