安政4年閏5月中旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月11日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時、荒海村の善六殿が平右衛門殿からの書状を持ってきた。幡谷(成田市幡谷)の孫右衛門殿が亡くなったとのことで、一同驚いた。小生は個人的な用もあり、幡谷へ行く一同の代表として、明日十二日に帰村することとなった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幡谷村(成田市幡谷)の住人が亡くなったとの知らせが届きました。この情報は、隣村である荒海村の平右衛門からもたらされました。幡谷村に近しい関係にある五郎兵衛が、代表として弔問に赴くこととなりました。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、茂十郎殿と民之助殿が帰られた。
・縁談のことで幽学先生よりお話あり。
「身分の低い小前の者を妻に迎えることで、旧家の格式や家柄も悪くなり、子どもたちにも影響が出るのではないかと心配だ。また、妻が親を敬わなかったり、親に相談もせず勝手に物事を決めたりということも問題だが、そのことで、夫が妻を叱るのは問題が大きくなるだけだ。
・自分自身の心が正しくないと世間の人も噂をするようになる。自分のことを他人が言ってくれふのだと心得よ。
・四ツ時、荒海村の善六殿が平右衛門殿からの書状を持ってきた。幡谷(成田市幡谷)の孫右衛門殿が亡くなったとのことで、一同驚いた。小生は個人的な用もあり、幡谷へ行く一同の代表として、明日十二日に村へ戻ることとなった。
・晩に幽学先生は久しぶりに大丸へ行き、両国を回ってお戻りになった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月12日(1857年)
#五郎兵衛の日記
〈五郎兵衛は江戸出立し不在。宜平が代筆〉
良左衛門君が出雲寺(本屋)で江戸絵図を購入。代金は五匁。幽学先生は絵図にいくつか橋が抜けている不良品と指摘され、「五匁も出してあのような物を買うとは、良左衛門にも困ったものだ」とお嘆きになった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
〈五郎兵衛、帰村中〉
・五郎兵衛は昨日の日記にもあったように弔問のため本日から帰村しています。
・一番弟子ともいえる良左衛門ですが、意外と鷹揚なところがあります。かなりの金額で江戸絵図を購入しましたが、幽学先生の検分により、各所で橋が抜け落ちている不良品であることが判明しました。さすがは転売ヤーをしているだけあって、幽学先生は商品の品質を見極める目が確かですね。
━━━
〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・早朝、五郎兵衛出立。
・五ツ半午、宜平殿が岩井町の泉屋へ迎えに行った。
・そのころ幽学大先生は境町の辺りへ出かけられた。
・同じ頃、佐左衛門殿が訪ねてきた。
・四ツ半時、幽学先生は平太郎殿とともに深川の長左衛門殿のもとへ行き、八ツ時に戻られて風呂に行った。
・又正(又左衛門と正太郎)は根津へ行き、正太郎殿は八ツ時に戻り。又左衛門殿は番町を回ったので八ツ半過に戻り。
・良左衛門君は紙を買いに出かけ、帰りに出雲寺(本屋)へ立ち寄る。江戸絵図を5匁で購入し持ち帰り、幽学先生にお目にかけたところ、各所の橋が抜け落ちているとのご指摘があった。良左衛門君はすぐに交換しに行った。
幽学先生は、「5匁も出してあのようなものを買うとは良左衛門にも困ったものだな」と仰っていた。
・四ツ時に七郎兵衛殿が傳正町へ行き、帰りに馬喰町の丸三へ立ち寄ったところ、今回は奉行所に全員の呼出しがあり、落着する(判決言渡し)のではないかと言われたとのことだった。
七ツ時に戻り。
・文平殿は早朝から外出し、一度帰宅したものの、再び出かけて忙しそうな様子である。
・久左衛門殿は午後9時過ぎに筋もみへ行き、八ツ時に戻り。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月13日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君ら四人で池上へ行こうとしたが、途中で良左衛門君が体調不良になった。品川で薬を飲んだが、痛みは治まらない。籠を勧めたが、「揺られるともっと悪くなりそうだ」といい、船で永代まで(400文)。八ツ時にようやく戻り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門君は、今日もどうにも冴えません。昨日は江戸絵図の不良品をつかまされ、今日は池上(大田区池上)へ向かう途中で体調を崩してしまいました。籠の揺れは、体調不良のときには特につらいものです。また、この記事からは、当時、品川から永代(江東区永代)まで船が出ていたことも分かります。
━━━
〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が当面代筆〉
・五ツ時、久左衛門殿は源兵衛殿と一緒に伊草村に灸に行き、七ツ半に戻り。
・良宜七佐(良左衛門、宜平、七郎兵衛、佐左衛門)の四人で池上へ出かける予定だったが、良左衛門君が病気となり、御殿山から七郎兵衛殿と佐左衛門殿が池上へ行った。
・体調が悪くなった良左衛門君は品川で薬を飲み、茶屋で休んで、そろそろ動けるかと思ったところに、また痛みが増してきた。籠で帰ることを勧めたが、「揺られるとかえって良くない」と言い、永代まで船に乗って帰った(400文)。八ツ時にようやく戻り。
・艾左衛門殿は深川の長左衛門殿宅まで、幽学先生の着物を取りに行き、九ツ半時に戻り。
・幽学先生は、良宜七佐(良左衛門、宜平、七郎兵衛、佐左衛門)の四人が池上へ行ったのを聞いて、「源兵衛が池上へ行きたがっていたではない、誰も誘わなかったのか。もう少し気を遣ってやれ」と仰った。
また先生は、「暑さも厳しく、遠方へ出かけるのは危険だ。途中で病気になったら困るから、控えた方がよいだろう」と諭された。
・先生は村松町辺りへ出かけ、八ツ半時にお戻り。
・その後、奉行所からの御呼出しの御沙汰があり、皆が出払っていて対応に困ったが、正太郎一人でよいとのことで、訴所へ米八殿(公事宿の手代)と同行して向かった。
・奉行所では、「宜平の病状が悪化しているとのことであるが、そうであれば再度願い書きを出すように」と指示され、すぐに願書を提出した。
・皆、風呂に行ったが、文平殿は各所へ出かけていった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月14日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・朝五ツ時、米八殿(公事宿の手代)が来た。加害者側も帰村願いを提出したが、却下されそうだとのこと。
・幽学先生は四ツ時に外出し、脇差を一本購入して八ツ時にお戻りになった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
米八は公事宿の手代で、幽学一門のもとに頻繁に顔を出しています。今日は、訴訟の進行に関わる情報をもたらしてくれました。加害者側の帰村願いが却下されるのであれば、加害者に対して何らかの処罰が下される見込みがあるということです。
━━━
〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・朝五ツ時、源兵衛殿は山口へ炭を買いに行った。宜平は金龍丸を買いに行った。
・同じ頃、佐左衛門殿、平太郎殿、米八殿が来訪。加害者側も帰村願書を提出したようだが、皆却下されそうだとのこと。
・四ツ半時、又正源七(又左衛門、正太郎、源兵衛、七郎兵衛)が本町岸へ昼食に出かけ、九ツ半に戻り。
・平太郎殿が深川へ引っ越すので、宜平は四ツ時荷物運ぶびの手伝いに行き、九ツ時に戻り。
・幽学先生は四ツ時に外出し、脇差を一本購入して八ツ時にお戻りになった。
・文平殿は昼前に一度、昼過ぎにもう一度外出した。四ツ時に戻り。
・皆で風呂に行ったが、湯屋で地元の祭りの品を無理に見せらた。
・久左衛門殿とともに回向院へ八ツ半時に行き、夕方に戻り。
・夕方、新町の重五郎が訪ねてきて、又左衛門殿のもとへ金の無心をしていった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月15日(1857年)
#五郎兵衛の日記〈五郎兵衛筆〉
今朝六ツ時に長沼村を出発し、白井から八幡まで馬で移動。夕方、公事宿に到着すると幽学先生はお喜びになり、良左衛門と共に出迎え、荷物を持ってくれた。二階に上がり、国元の様子を報告した。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛が江戸に戻ってきました。これまで日記は宜平が代筆していましたが、今日から再び五郎兵衛自身が筆を執っています。
幽学先生は五郎兵衛の帰りを心待ちにしていたようで、「幽学先生はお喜び」という記事が残されているのは非常に珍しいことです。五郎兵衛も、さぞ嬉しかったことでしょう。
━━━
〈詳訳〉
〈五郎兵衛が江戸不在の為、宜平殿が代筆〉
・五ツ時、正太郎殿と七郎兵衛殿が呼び出され、訴所へ向かい四ツ時に戻り。宜平の帰村願いは認められた。加害者側の三人は帰村願いが叶わなかったとのこと。
・四ツ半過、良佐七宜四人(良左衛門、佐左衛門、七郎兵衛、宜平)で本町岸の玉の尾へ昼食に行き、九ツ時に戻り。
・幽学先生は四ツ半時に外出され、八ツ時に脇差を2本購入して帰宅。
・八ツ半時に又左衛門殿は藤元屋へ行った。
・久左衛門殿は九ツ過ぎに梅干しと砂糖を買いに出かけた。
・八ツ時宝田村の平太郎殿が訪ねてきてた。幽学先生は「高橋の家に行って、直接値段をつけてもらいたいといってくれ」と仰られた。
〈五郎兵衛筆〉
・今朝六ツ時に長沼村を出立。白井(白井市)から八幡(市川市本八幡)まで馬に乗った。夕方になって邑楽屋(公事宿)に到着したところ、幽学先生が大変喜ばれ、わざわざ下まで出迎えてくださった。良左衛門君とお二人で荷物まで持ってくださり、二階へ上がった。そこで、国元の様子を申し上げた。
その後、平太郎殿とも話し合った。
・12日の夕方に長沼(成田市長沼)に帰村し、13日に荒海(成田市荒海)へ行って平右衛門殿と打合せ。幡谷(成田市な)へ赴いて様々な打合せをした。善右衛門殿と善三郎が同行し、七ツ過に長沼に戻った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月16日(1857年)
#五郎兵衛の日記
夜五ツ時、明日17日のいつもの刻に奉行所に出頭せよとの呼出しが来た。小網町の佐左衛門殿のもとへ行き、差添の件について打合せ。又左衛門殿と宜平殿も公事宿に集まった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所からついに呼出しがありました。明日、17日に奉行所での審理が行われます。江戸での長い待機生活は、すべてこの日のためだったのです。ようやく、その時が来ました。
━━━
〈詳訳〉
・朝、小生が国元の様子を話していると、幽学先生から、「相手が先に話すことをよく聞き、その気持ちに寄り添って話を進めると、相手も気持ちよく聞いてくれる。話も自然と受け入れてかれる。予が又左衛門と情が厚くなったのも、このことによるものだ。良左衛門は話半分になってしまう。
追従をすると、周囲の人もその流れになってしまうが、それでは皆の本来の考えや個性が失われてしまうので、十分に心得ておくべきである。
○自分に不正なことがあると、それを隠すために、他人の悪いところをあげつらい、人に言いふらす者が多い。私がなくなった後は、そのような者が増えるだろう。よく心得ておくべきである。
・五ツ半時に宝田村の善三郎殿が紋左衛門と共に来た。
・四ツ時には足川幸之助殿が来て、九ツ時に帰った。
・同じ頃、幽学先生は外出され、鋼を一つ購入してお戻りになられた。
「皆が気ままになりすぎて、礼儀も法もなく、あまりにも乱れすぎだ。外部の人が来ても、私が不在だと気が緩み、先方から預かった品物の扱いも乱雑になり、礼儀も作法も欠けた状態である。予がいなくなった後にこのような状態では、道友や家庭を導くことなどできない。
今後は、師匠と弟子の礼儀を守り、親がいる者は親への礼節を失わないよう、しっかり心得るべきである。
・夜五ツ時、明日17日のいつもの刻に奉行所に出頭せよとの呼び出しの御沙汰が来た。小網町の佐左衛門殿のもとへ行き、差添の件について打合せ。又左衛門殿と宜平殿も公事宿にしゅうごした。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月17日(1857年)
#五郎兵衛の日記
九ツ時御呼込があり、幽学先生、良左衛門君、源兵衛殿、又左衛門殿、佐左衛門殿らが差添とともに御白洲へ入った。これまで述べたことに間違いないか等と尋問された。
本日で御白州での審理は終了。幽学先生と2名以外にはは帰村許可が出た。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所での審理が終了しました。長く待たされ続けた日々でしたが、審理自体はあっけなく一日で終わりました。幽学先生を含む3名を除き、他の者は帰村を許可されましたが、幽学先生は判決が出るまで、引き続き江戸での待機となります。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、下谷長者町の安馬源太夫殿方に宝田村の九兵衛殿を訪ね、文平の居場所を尋ねる。本所相生町二丁目の奥州屋武兵衛の宿に滞在していると聞いた。同所へ向かい、文平と善兵衛殿に差添を頼む。
五ツ半時に出立。
大原幽学先生
良左衛門君
両名の差添 源兵衛殿
又左衛門殿
差添 新右衛門殿
久左衛門殿
正太郎殿
差添 七郎兵衛殿
佐左衛門殿
差添 五郎兵衛殿、紋左衛門殿
腰掛之留主居
平太郎殿
御懸り御当役様
高木源六郎様
小笠原甫三郎様
・九ツ時御呼込があり、幽学先生、良左衛門君、源兵衛殿、又左衛門殿、佐左衛門殿、牛渡村の忠左衛門、松岸船戸村の半治、鏑木村の永助が差添とともに御白洲へ入った。
まず、「以前から話している内容はこのとおりでよいな」と仮口書の確認があった。
・良左衛門君へのお尋ね。
問:教導所は田ではない場所に建てたのか。
答:未開の地を草を刈るなどして建てました。
改心楼の周りに桜や柳を植え、石垣などを整えました。
問:それは随分な贅沢ではないのか
答:木は自然に生えたものであり、石垣も古い石を持ち寄って土留めに使っいました。
問:八石(改心楼のある場所の地名)の土地については、大まかな絵図でよいので、一筆ごとに区分して提出するように。
高松家で引き受ける旨の書面は所持しているか。
答:この書面でございます。
問:この書面の写しを提出せよ。
とのご指示があったので、書き写して訴所へ提出した。
御役人様方は初めて目にするようであり、「武家介抱となれば、立派な浪人の道を歩む者だ」と仰られた。書面は御上へ提出となった。
・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
「以前から申し立てている内容は間違いないな」との確認があり、二人は提出した始末書のとおり申し上げ、取り調べは終了となった。
○幽学先生から、「お前は口をつぐんで人の方を見ると、にらんで恨んでいるような顔つきになり、見苦しい。道を学ぶ者がそのような態度では非常に良くない。人から見られても、にこやかで、大らかでなければならない」と、何度も諭された。
・八ツ過ぎに呼び出されたのは、又左衛門殿、佐左衛門殿、正太郎殿、久左衛門殿、五郎兵衛殿、そして土浦村の佐左衛門、万才村の治右衛門、新町の重五郎及びその差添である。
・土浦村の佐左衛門の答え。
「先年、八州御三方(関東取締出役)から探索を命じられ、忠左衛門のほか二名を代理として派遣したところ、本件のようなこととなり、申し上げようがございません。」
・万才村の治右衛門は、お尋ねに対し、先年の14日夜八ツ時、金子10両を預かるよう頼まれ、それを預かっていたことは間違いありませんと答えた。
「そのほかに述べたいことはないか」との問いに対し、「特に申し上げることはございません」と答えた。
・新町村の重五郎へのお尋ねの答え。
「先年、鏑木村の仙吉のもとから改心楼へ来た者を引き取ってほしいと頼まれたので、向かいました。又左衛門から「金子三両を渡すので引き取ってほしい」と依頼されました。そこで、関係者と話し合いを行い、最終的に金子十両を差し出すことで、その者たちを引き取ることと致しました。
・正太郎殿(伊兵衛と宜平の代理としても)へのお尋ね。
問:以前から申し上げていることに間違いないか。
答:始末書のとおりであり、間違いございません。
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。
・久左衛門殿へのお尋ね。
問:傳蔵が始末書で述べたとおりで間違いないか。
答:銚子本城村で提出した始末書のとおり間違いございません。
・小生(医師元俊の代理としても)へのお尋ねへの答え。
「銚子本城村にて提出した始末書のとおりでございます」
問:その方も幽学の門人として学んでいるのか。
答:仰せのとおりです。
問:そのほかに述べたいことはないか。
答:一切ございません。
・又左衛門殿と佐左衛門殿へのお尋ね。
問:その方たちも長部村の改心楼の普請を手伝い、資金を出し、石垣を積み立てるなど世話をしたのか。
又左衛門の答:私の古い土蔵の敷石と、十日市場村の伊兵衛の古い土蔵の敷石を持ち寄り、土留めとして使用しました。石垣ではございません。
問:古い石であろうと何であろうと、石を積み立てたのであるな。それについては以前から尋ねていることでありる。今さら新たに申し立てることは許されない。
その方たちは始末書に記載した内容以外に申し立てることはないのか。
答:何もございません。
奉行「農業が忙しい時期であろうから、帰村願を出せば、病人だけでなく先に村へ帰りたい者は、聞き届けられるだろう」との仰せがあった。
一同腰掛けまで下がった後、米八殿(公事宿の手代)が書面を認め、訴所へ提出したところ、幽学先生・良左衛門君・源兵衛殿以外は呼び出され、願い通りに帰村へ帰ることが許された。ただし、「日限を定めての帰村を命じるが、もし御用がある際には通知を出すので、すぐに出頭するように。これまでは病気のために日数がかかったが、担当者も変わり、来月中には何らかの沙汰に及ぶ(判決をする)はずである。
よって、呼出しがあれば直ちに出頭するように。」とのお達しであった。
七ツ時に宿へ戻った。
この旨を国元へ早急に書面で知らせたいとのことで、宝田村の善兵衛殿に頼んだ。善兵衛殿は18日早朝、大雨の中を帰路についた。
幽学先生への御尋ね。
問:その方、歳はいくつだ
先生:御答
問:出生はどこだ
先生:御当地でございます
問:御当地とはどこのことだ
先生:御答
問:両親が亡くなったのはいつか
先生:御答、
問:兄弟の事、養子のこと、養父と離別のこと、養父死去のことを御尋ね
先生:皆御答
問:その方は多くの者に慕われ、用いられているので、何か異教でもあるのかと詮索したが、書類を見たところ、まったく孝・悌・忠・信の道を教えていることに違いはないようだ。
しかし、どうにも出生がはっきりしない。もう少し確かな素性の者であればよいのだが…
先生:ヘイ
問:桜、柳を植えたことを御尋ね
先生:御答、
問:柳を植えようが桜を植えようが、それ自体が悪いというわけではない。孝・悌・忠・信の道を教え、一村の人々の気風を改め、ついには御賞美を受けるほどになっている。そうなると、大それたことではないとも言えるが、まったくそうとも言い切れないものだ。あまりにも評判が大きいので、こうして尋ねているのだ。
妻子を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:所帯を持ったことはないのか。
先生:ごさいません。
問:信州でもだいぶ重用されたそうだが、召使いを置いたことはないか。
先生:ございません。
問:心が広く、孝道を重んじ、永続する教えをよく説いている。しかし、どうにも身分がはっきりしない。高松家が正式に引き取るとはいわず、厄介であると言っているのだから、しっかりしい。他に親類はいないのか。
先生:ございません。
問:高松とは本当の兄弟か、義理を結んでの兄弟か。
先生:実の兄弟でございます。
問:何か出生について言えない事情でもあるのか。
先生:返事なし
奉行:また改めて尋ねるから、ひとまず下がれ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月18日(1857年)
#五郎兵衛の日記
米八殿を交えて打合せ。道友一同で幽学先生の歎願を行うことを決め、大雨の中、米八殿の案内で奉行所に書面を提出。役人からは、「いずれ担当者に書付を渡しておく。帰村する者は帰りなさい」との仰せがあった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日、奉行所での審理が終わり、あとは判決を待つばかりとなりました。しかし、道友たちはただ黙って待っていることができず、幽学先生の身を案じて、奉行所に嘆願書を提出する決意を固めました。大雨の中を押して、書面を奉行所まで届けに行くその姿からは、先生への深い敬愛の念が伝わってきます。
━━━
〈詳訳〉
・今後についての打合せのため、米八殿(公事宿の手代)を迎えに行った。八石改心楼の願書の下書きを奉行所へ提出することとした。絵図面も併せて提出する。
・「幽学先生は老衰し病身であるため、一件が済んだ後は、良左衛門のいうとおり、邑楽屋にいる者たち全員で歎願を行おう」と決め、九ツ時、大雨の中、良左衛門君・源兵衛殿・正太郎・久左衛門殿・又左衛門殿・小生の六人で出発した。
米八殿の案内で、書面と絵図面を添えて改心楼の願書を提出した。
訴所の御役人からは、「何を願い出ても致し方ないかもしれないが、まずは御上へ提出するので、しばらく控えているように」と言われた。
しばらくして、米八殿が様子を伺いに行ったところ、「いずれ担当者が書付を預かることになる。帰村する者は帰りなさい」との仰せがあった。一同は七ツ時に引きあげ宿へ戻った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月19日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生のお言葉。
「判決により、高松氏への引き取りとなったり、どのような身分となったりしても、一生武士の道を貫き通すつもりである。門人に対して何か工作したように見られてしまっては、道は成り立たない」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
審理が終わり、幽学先生は腹を括っているようです。武士としての身分が認められない判決が出る可能性もあると踏んでいるようですが、「一生武士の道を貫き通す」との覚悟です。これまで死を覚悟する言葉もありましたが、その決意は揺るぎないようです。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、宜平殿が帰村した。
・五ツ時、佐左衛門殿が来た。既に小網町では暇乞い(別れの挨拶)をしたとのこと。
・又左衛門殿は地頭所へ届けを出しに行き、正太郎殿、七郎兵衛殿、久左衛門殿も地頭所へ向かった。
・小生は御上屋敷へ足達様を訪ね、届けを提出し、御返翰を頂戴した。その後、蓮屋(公事宿)へ行き、暇乞いを済ませ、檜物町の永田政右衛門殿へ国元からの手紙を届けた。また、深川油堀小松町の大工・清吉の家へ行き、用事を済ませて八ツ時に帰宅。
○幽学先生から一同へのお言葉。
「判決が高松氏への引き取りとなったり、どのような身分となったりしても、一生武士の道を貫き通すつもりである。門人に対して何か工作したように見られてしまっては、道は成り立たない」
○「五郎兵衛は今回のことの事情に一番通じているから、自分が白洲で尋問された内容を書くときは、間違いがないようにせよ。」と仰られたので、同じ場にいた者にも問い合わせてよく調べ、幽学先生がお書きになられた文書を書き写しておいた。
○「長右衛門は、私が留守の間、家をしっかり守り、誠意を尽くしてくれたので、長右衛門に矢立を持って行くように」と命じられ、文治郎をに持って行かせた。
○平右衛門殿にも、「今物事の決着がつく時である。そんなときに、地金(本性)が現れてしまっては、ただの恥さらしとなり、名を汚すだけだ。そのことをよく理解した上で、江戸であったことを話すように」と仰られた。
○国元へ帰村した後は、浮ついた様子にならぬよう、いっそう慎み深く、謹んで過ごすこと。何よりも、常に先々のことを考えることが大切である。
○帰村後は、人の悪口を言わぬと心に決めること。しかし、筋道に沿って言わねばならないことは、きちんと言うべきである。ただし、相手が受け入れないようであれば、無理に言わずにおくことも大事である。
○昔から功績のある家の子孫には、気を配り、親切に世話をしなければならない。そうしなければ、道は立たないものである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月20日(1857年)
#五郎兵衛の日記
早朝、佐左衛門殿と久左衛門殿が帰村のため出発。荒海村の惣右衛門殿を待っていたが、来ないため、四ツに出立。市川(市川市)で昼食。六ツ時白井(白井市)着、藤屋に宿泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛が帰村のため江戸を出立しました。
近くの村の者を待っていましたが、約束の刻限に来なかったので、五郎兵衛一人で出立。市川で昼食を取り、白井の藤屋まで歩を進めました。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年閏5月21日(1857年)
#五郎兵衛の日記
六ツ時白井(白井市)を出立し、大森御役所へ御返翰を差上げる。小林(印西市小林)の「ふかや」で昼食。八ツ半時帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
白井(白井市)を出発し、淀藩の役所がある大森(現在の印西市大森)で御返翰を手渡しました。その後、小林(印西市小林)で昼食を取っていますが、これは珍しいことです。江戸との往復において、五郎兵衛が小林の地名を日記に記すのは初めてのようです。
━━━
安政4年閏5月の日記は以上です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━