南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

宗宮信次弁護士−BC級戦犯裁判に携わった弁護士

2021年09月30日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
BC級戦犯裁判に携わった弁護士として、宗宮信次弁護士がいます。
宗宮は、「そうみや」と読むようです。

(宗宮信次弁護士が携わった戦犯裁判)
同弁護士が携わった戦犯裁判は、以下のとおりです(前掲「日米なぜ戦ったか」)。
・極東国際軍事裁判
・アンボン、モロタイ島戦犯事件
・ヅーリッツル事件(上海米機搭乗員の処罰に対する戦犯事件)
・東海空襲軍律処罰事件
 アンボン、モロタイ島戦犯事件については、「BC級戦犯関係資料集第一巻」に次の記載があり、宗宮弁護士は内地から外地への日本人弁護士派遣第一号のようです。
「現地においてはいずれも内地から専門の弁護人及び通訳を派遣することを要望していたが、当時は連合国側でこれを許可せず、唯一の例外として昭和20年末、アンボン第25根拠地隊司令官の要請により、豪州側の許可を得て、アンボン豪州軍裁判のため、宗宮信次、滝沢良策の同弁護士を同地に派遣し、両弁護士はアンボン及びモロタイ(裁判地が移動のため)において弁護に従事の上、同21年2月20日帰国した。」
 宗宮弁護士は外地の戦犯裁判への派遣弁護士の先駆けと位置づけられるでしょう。
 この昭和20年という時期になぜアンボン軍事裁判だけ、日本人弁護士派遣の例外となったのかについては興味がありますが、この点がわかる文献にはまだ巡り会えていません。

(宗宮信次弁護士の経歴・著作)
戦犯裁判に携わったことから、
・日米なぜ戦ったか 土屋書店
・アンボン島戦犯裁判記 法律新報社
・獅子に挑む豹 青潮社
を著しています。
 このうち、「日米なぜ戦ったか」だけが地元の図書館にありましたので、読んでみましたが、題名のとおり、なぜ太平洋戦争が始まったかが主要なテーマであり、BC級戦犯裁判についてはメインテーマではありませんでした。
 同弁護士の経歴は以下のとおりです(同弁護士著「日米なぜ戦ったか」)。
大正6年 日本大学法学部卒
大正8年から9年 判事任官
大正10年 弁護士
昭和14年 法学博士
昭和21年から23年 極東国際裁判主任弁護人
昭和22年から25年 中央大学教授
昭和26年から38年 日本大学教授
昭和31年から33年 司法研修所教官
 有斐閣からの法律書を多数著しています。裁判官も経験しているので、弁護士の中でも理論派と言えるでしょう。
 経歴にもあるように、昭和21年から23年には極東国際裁判、即ち東京裁判の主任弁護人を務めています。BC級戦犯のみならず、A級戦犯の弁護人のを務めた弁護士はまれではないでしょうか。

(東京弁護士会育英財団との関係)
宗宮弁護士は、東京弁護士会に、昭和34年に会員子弟等の育英事業資金として500万円を寄附し、この資金をもとに東京弁護士会育英財団が設立され、現在も同財団は活動しています。


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弁護士の懲戒事例-2021年9月号から

2021年09月27日 | 法律事務所(弁護士)の経営
(はじめに)
日弁連の会誌「自由と正義」には、懲戒処分の公告が掲載されます。
弁護士の懲戒処分には、戒告、業務停止、退会命令、除名の4つがあります(弁護士法57条1項)。
2021年9月号掲載分の懲戒処分の公告では、業務停止処分が3件、戒告が3件ありましたが、この中から、気になったものを紹介します。

(業務停止5ヶ月とされたケース)
 業務停止5ヶ月とされたのは、弁護士会費の滞納の事案です。 17ヶ月滞納し、合計は57万円弱でした。 以前18ヶ月の会費滞納で、退会命令とされたものがありました(2021年6月17日の本ブログ記事)。これは、業務停止よりも重い処分です。
 17ヶ月の滞納で業務停止5ヶ月とし、18ヶ月の滞納で退会命令というのは処分としてはバランスが取れていないと思います。会費滞納についての懲戒処分の重さは、まだまだ固まっていないのかもしれません。

(ブログや Twitter で他者を攻撃)
 弁護士がインターネット上で情報を発信することに伴い、 SNS で他者を攻撃することが懲戒に問われるケースが増えてきています。 2021年9月号でも 、Twitter で侮辱的な人身攻撃をしたこと、担当している案件の相手方の社会的信用を低下させる記事をブログに掲載した行為が懲戒とされています。
  ブログや Twitter で他者を攻撃した回数が1回であれば、戒告処分にとどまるようです。

(担当している案件の裁判官と調査官を弁護士が口撃)
 担当している案件の相手方弁護士、裁判官及び家裁調査官を侮辱したとして懲戒に問われたケースもあります。
・主張書面で相手方弁護士を侮辱。
・裁判官に対して根拠もないのに「熱意がないことで有名」と書面で記載し、裁判官の名誉を侵害した。
・家庭裁判所調査官に対し、「レベルの低い調査官」と書面で記載した。

(所感)
 言わなくてもいい攻撃を相手に加える懲戒処分が最近見られます。その弁護士に心理的な余裕がないということのあらわれなのでしょう。弁護士の暴言は、昔から多かれ少なかれあったのかもしれませんが、このような行為が懲戒にかけられるようになったのは、他者に対するハラスメントに厳しくなった世相を反映しているといえます。


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経営コンサルと非弁提携をして除名 弁護士の懲戒事例2021年8月号から

2021年09月24日 | 法律事務所(弁護士)の経営
(はじめに)
日弁連の会誌「自由と正義」には、懲戒処分の公告が掲載されます。
弁護士の懲戒処分には、戒告、業務停止、退会命令、除名の4つがあります(弁護士法57条1項)。
2021年8月号掲載分の懲戒処分の公告の中から、気になったものを紹介します。

(除名となったケース)
 8月号では、弁護士の懲戒処分の中で最も重い除名となったケースがありました。
 経営コンサルタント会社と協力して、弁護士資格のない事務員らに債務整理業務を行わせたことが理由とされています。
 これは、いわゆる非弁提携という類型にあたるものです。
 弁護士は、非弁護士から事件の周旋を受けたり、自分の名義を利用させてはならないと弁護士法で規定されています。
 弁護士という資格のない者が、法律事務を取り扱ってはならないことを規定しているのです。
 非弁と提携して、弁護士業務を行わせることは、弁護士資格という制度自体の自殺行為のようなものです。
 非弁提携は、刑事の罰則もありますので、懲戒処分でも一番重くとなるのもうなづけます。

(長期の業務停止となったケース)
 弁護士が成年後見人や保佐人として、他人の財産を管理していたのに、そこから合計4100万円を業務上横領したという事案です。
 横領した金額は全額返済されていることが考慮されて、業務停止1年10ヶ月の処分となっています。
 業務停止期間は、2年が上限ですので、この上限に近い処分です。
 
(弁護士の質の低下は昭和初期にも)
このほか8月号では、多数の懲戒の公告が掲載されておりました。
 現代の弁護士の質の低下は、度し難いものがあります。
 このような弁護士の質の低下は現代だけの現象ではありません。
 大正の終わりから昭和の初期にかけての経済不況に伴い、弁護士の経済的基盤にも大きな影響がでました。
 このときにも非弁の問題や弁護士の質の低下が問題とされていました(大野正男「職業史としての弁護士および弁護士会の歴史」)。
 この問題はいかに解決されたかを論じたものはみたことがありません。
 弁護士の職務範囲が訴訟を中心とした裁判業務に限られており、経済的不況と戦時統制経済の影響により一層弁護士の窮乏化をもたらした。弁護士会は、個々の弁護士の窮乏化に対して無力であり、弁護士団体として有効な方法をとることができなかった(大野前掲論文)という総括にとどまっています。
 戦後の弁護士法の改正により、弁護士が自治を勝ち取った指摘されているのですが、弁護士の経済的基盤がどのように回復されたのかについては検討されていません。現在の問題を解決するためにも、歴史に学ぶ必要があるかなと思っています。

追記 弁護士の困窮が非行に繋がった昭和初期については、2017年の過去記事でも書いていますので、ご興味のある方はご参照ください。

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外地での戦犯裁判と派遣された日本人弁護士

2021年09月21日 | 歴史を振り返る
( BC 級戦犯関係資料集)
BC級戦犯の弁護にあたった弁護人の活動について興味があるので、折をみて近くの図書館に足を運んでいます。
最近、「 BC 級戦犯関係資料集」(全6巻)という本が緑蔭書房から出版されているのを知りました。
 同資料集の第1巻は、厚生省引揚援護局法務調査室編集の「戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚」という昭和29年9月に出版されたものの復刻版です。
 同書には、 外地での戦犯裁判に携わった弁護士の氏名が掲載されています。

(外地での戦犯裁判とは)
外地での戦犯裁判と書きましたが、これは、BC級戦犯裁判は、内地(日本)と外地(外国)の両方で裁判が行われたからです(注)。
 内地の裁判は、横浜裁判であり、この裁判記録をもとに横浜弁護士会の弁護士が著したのが、「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」です(2017年4月29日の本ブログ記事参照)。
 外地の裁判は、アメリカの法廷が4箇所(グアム等)、イギリスの法廷が11箇所(香港、シンガポール等)、オーストラリアの法廷が9箇所(ラバウル、マヌス島等)、オランダの法廷が12箇所、フランスの法廷が1箇所(サイゴン)、フィリピンの法廷が1箇所(マニラ)、中国国民政府法廷が10箇所です(田中宏巳「BC級戦犯」)。

(派遣された日本人弁護士)
 一方、日本人弁護士が派遣されたのは次の法廷に留まります(前掲「BC級戦犯関係資料集第一巻」)。
 グアム11名、シンガポール方面45名、ラバウル10名、南印方面16名、香港7名、マニラ12名、マヌス島4名、仏印(サイゴン)1名
 この人数は、あくまでも日本で弁護士資格をもち、日本から派遣された弁護士の人数です。また、例えばシンガポールに派遣されても、香港でも裁判を担当した場合もあるようで、備考欄に付記されているため、派遣先として分類された箇所だけで弁護人を担当したというものでもないようです。
 日本人弁護人の派遣について、田中前掲書は、「通訳や弁護士人が派遣された法廷は、以前と違ってまともな裁判に変わった。」と評価されています。具体的には、「検察官調べ、弁護人調べが厳正になり、証拠の提出が裁判の行方を左右するようになってきた。周辺に被告人の所属部隊がまだ残っていて、証拠書類があり、証人を出席させられれば、被告を大いに勇気づけることとなった。」と証拠提出に関する弁護人の役割が大きかったことを指摘しており、日本人弁護人の存在が、被告人の防御に資するものであったことがわかります。

(注)
 令和二年六月十二日の政府答弁書(内閣参質二〇一第一三六号)では、この点について次のように述べられています。
  
第二次世界大戦における日本国民の戦争犯罪に関して行われた裁判としては、①東京において行われた極東国際軍事裁判所の裁判、②東京において行われたいわゆるGHQ裁判及び③連合国各国が開いた法廷において行われた裁判があったと承知している。③については、米国はマニラ、横浜、上海、グアム等において、英国はシンガポール、クアラルンプール、タイピン、ラングーン、香港、ペナン、ジェッセルトン、メイミヨウ等において、オーストラリアはラバウル、ウエワク、モロタイ、ダーウイン、シンガポール、香港、マヌス等において、オランダはバタヴィア、バリクパパン、マカツサル、モロタイ、ポンチャナック、メナド、アンボン、メダン、クーパン、バンジェルマシン、ホーランデイア等において、中国は上海、南京、広州、北京、徐州、漢口、瀋陽、済南、台北、太原等において、フランスはサイゴンにおいて、フィリピンはマニラにおいて裁判を行ったと承知している。
これらの裁判において起訴された者は五千七百三十人であり、うち、死刑、無期刑又は有期刑に処せられた者は四千四百二十九人であると承知している。



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自由民権家井上幹の家系

2021年09月16日 | 歴史を振り返る
(井上幹の子孫)
前回、夷隅事件に際して、井上幹家の捜索メモについて記事にしました。
この記事は、佐久間耕治著「底点の自由民権運動」(岩田書院2002年)所収の「1884年自由党夷隅事件の捜索過程ー千葉県大原町井上家文書に依拠して」をもとに書いたのですが、同論文には井上幹家の家系図も掲載されていました。
井上幹の子 井上稲直
井上稲直の子 井上達兮(たつや)
井上達兮の子 井上宏一
 同論文の執筆者佐々木耕治は、井上宏一氏の好意で井上家文書を読み続けることができたが、この論文の執筆中に宏一氏は急逝されたそうです。
 
(井上稲直)
井上稲直は、井上幹の子ですが、慶應義塾を卒業して、千葉県議会議員を務めています(同論文)。
これ以上の情報はないのですが、千葉県議会史というのが出版されていますから、そういう本を紐解くと井上稲直について何らかの情報が得られるかもしれません。

(井上達兮)
井上達兮は弁護士です。
千葉県弁護士会史(千葉県弁護士会編:1995年)にインタビューが掲載されています。インタビュー自体は1976年のものです。
これによれば、井上達兮は明治33年11月生まれ。千葉中学を卒業後、早稲田に進学。高等予科から法学部に進んで、大正14年に卒業。
卒業後、会社員となりましたが、昭和7年に高等文官試験(司法科)に合格し、昭和8年5月に第二東京弁護士会に登録しました。
当時は、司法試験というものはなく、高等文官試験という試験でした。
また、弁護士には、司法修習制度がないので、合格すればすぐに登録ができました。
昭和7年の高等文官試験に合格して、昭和8年に弁護士登録ということもできたのです。
弁護士に研修が義務付けられたのは、昭和8年の弁護士法改正で、この改正は、昭和11年4月1日に施行されています。これ以降は、高等文官試験に合格したら弁護士試補として1年半の研修が義務付けられていますが(しかもこの間無給)、これ以前は試験に合格すれば弁護士として活動できたのです。
井上達兮が弁護士となったのは、研修が義務付けられる前だったので、試験に合格した後、すぐに登録ができたのです。

(戦後)
井上達兮は、昭和19年に故郷に戻り、布施村(現いすみ市)の村長を務めています。
しかし、敗戦後公職追放を受けたようです。
井上達兮が千葉県弁護士会に登録変更したのがいつかは、はっきりしません。
昭和19年に千葉に戻ったと語っていますので、昭和19年の可能性が高いとは思いますが、今のところ裏付けがとれません。
千葉県弁護士会では戦前の資料が空襲で焼失してしまったようであり、千葉県弁護士会史にはこの点の記載がないのです。
昭和29年度及び昭和38年度には、井上達兮は弁護士会の副会長をつとめ、昭和58年3月14日にお亡くなりになっています。

(井上達兮の発言)
インタビューで、井上達兮は、「父は県会議員を少しやった程度です。父はあまり政治は好きではなかったですね。祖父井上幹は有名でしたよ。全国に先駆けた自由民権運動の提唱者でもあり、夷隅「以文会」の創始者です。『自由民権派夷隅の山村から始まった』と近代史にも書かれているくらいです。」と発言しています。



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治罪法時代の捜索メモ~自由民権家井上幹宅の捜索

2021年09月13日 | 歴史を振り返る
(夷隅事件の捜索メモ)
 井上幹は、千葉県夷隅地域(現在のいすみ市)の自由民権家で、夷隅事件による弾圧を受けました。
 夷隅事件では、井上宅の家宅捜索が行われていますが、この捜索メモが残っているということを佐久間耕治著「底点の自由民権運動」(岩田書院2002年)所収の「1884年自由党夷隅事件の捜索過程ー千葉県大原町井上家文書に依拠して」で知りました。
 この捜索は、11月4日~8日(第1次捜索)及び12月9日(第2次捜索)に井上家を対象として行われています。
 井上家に残っている捜索記録は、官憲の捜索日誌とも呼ぶべき史料であり、捜索の場所、時間、押収物件が詳細にメモされているものです。
 誰がメモしたかは氏名の記載がないため、不明。
 ということは、正式な文書ではないようです。
 それにしても、そのようなメモがなぜ捜索を受けた者のもとに残っているのか、謎です。
 現代では、警察や検察が捜索を行いますが、警察官などが手持ちの資料として書いたメモが、捜索を受けた者のもとにわたっているようなものですから。
 
(治罪法の時代)
 夷隅事件は1884年に起きていますが、当時は治罪法という法律が刑事訴訟を規律していました。
 治罪法は1882年1月1日から施行されていますので、1884年は施行後3年目にあたります。
 治罪法を含め、戦前の刑事訴訟では、捜索・差押は警察官・検察官が行うことはできませんでした。
 では、誰が行うのかというと「予審判事」です。
 当時の仕組みでは、警察や検察官は任意での捜査しかできず、検察官が裁判所に起訴をして初めて強制捜査ができる仕組みでした。
 検察官から記録を引き継いだ予審判事は、捜索・差押や尋問を行い、被告人を公判に付するかどうかを決めるのです。
 このような仕組みですので、起訴されてから初めて捜索が行われます。
 現代では起訴の前に警察等の捜索が行われるので、今と全然違います。
 井上幹が官吏侮辱罪で逮捕されたのは、1884(明治17)年12月4日のことですから、この事件に関する捜索は第2次捜索(12月9日)ということになります。
 その前の第1次捜索(11月4日~8日)は、11月3日に、君塚省三外3名が富松正安隠匿、爆裂弾製造の容疑で逮捕されていますので、その関係での捜索ということになるでしょう。

(捜索はのんびりとしていた?)
 それにしても、11月4日~8日と5日間にかけて捜索が行われていたのは、今の感覚からするとかなりのんびりした捜索だということになります。
 今よりも物がない時代ですから、物を探すのにそれほど時間がかかるとは思えません。
 そうすると、文書の見極めに時間がかかったのかなと思います。
 今と違って文書は印刷されていませんし、字を判読して、関係ある文書なのか否か判別するのは、今よりも時間がかかったろうと思います。
 文書が整理されていなければ、それを整理しつつ、事件との関連ある文書だけを押収するのは、相応の時間がかかったでしょう。 
 それにしても、捜索を受ける側からすれば、こんなに長い間、官憲に家に居座られるのは迷惑至極であり、このような長い時間をかけた捜索・差押が当時の常態だったとすれば、それはそれは大変だったと思われます。

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BC級戦犯の弁護人を務めた弁護士の著作を調べてみる−杉松富士雄弁護士

2021年09月06日 | 歴史を振り返る
(杉松富士雄弁護士) 
 杉松富士雄はBC級戦犯の弁護人を務めた弁護士で、過去記事〈李鶴来「韓国人元BC級戦犯の訴え」にみる日本人弁護士〉に名前が見えます。李鶴来氏は、戦時中朝鮮人軍属で、戦後シンガポールで戦犯裁判を受けたのですが、そのときの弁護人を務めたのが杉松弁護士でした。
 この本では李鶴来氏からみた、弁護人の活動が描かれていました。

(死して祖国に生きん : 四戦犯死刑囚の遺書)
BC級戦犯の弁護人の実態について、まとまった著作というのに未だたどり着かず、実態がよくわかりません。
著作でもあれば、そこから弁護人のことがわかるのではないかと考え、杉松弁護士の著作の有無を調べてみました。最も関連のあらそうなものとして、「死して祖国に生きん : 四戦犯死刑囚の遺書 」という著作があることがわかりました。蒼樹社からの出版で杉松富士雄編とされています。
 この本は 1952年に出版されたようですが、1972年にも同名で光和堂という別の出版社から出されています。
本の題名からして、BC級戦犯事件について書いてあることは間違いないのですが、この本は古本でも売られておらず、また手近な図書館にもないので、国立国会図書館にでも行かないとお目にかかることができないのかもしれません。

(杉松弁護士の論文)
また、杉松富士雄弁護士の名前で論文検索すると下記の論文がヒットします。
「運命の第二二五連隊」
日本評論 26(3), 122-134, 1951-03
日本評論新社
  さらにインターネットを検索してみると、日弁連の機関誌「自由と正義 第2巻第2号 昭26年2月号」に何か寄稿しているようであることもわかりましたが、これもまた近くの図書館にはないようです。

(BC級戦犯関係以外の著作)
 BC級戦犯関係以外の杉松弁護士の著作として、「司法新体制の若干問題」 巌松堂というものがあるようです。昭和16年の出版で、題名からして、戦時の刑事訴訟の改正についての著作ではないかと思われます。

(杉松弁護士に言及した著作)
杉松弁護士に言及した著作として、玉居子精宏「二人の戦犯弁護人 : BC級サイゴン裁判のこと」(一冊の本 2016年3月号)があるようです。これは比較的入手しやすそうなので、このあたりからアプローチしてみようかと思います。







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