南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

色川三中「家事志」文政10年閏6月下旬

2022年06月30日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年閏6月下旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年閏6月21日(文政10年)
(三中殿は本日日記をお書きになりませんでした。今月16日から風邪を引いて引き籠もっておられるので、体調がお悪いのではとお察し致します。)
#色川三中 #家事志

1827年閏6月22日(文政10年)
雨の降らぬこと30日になる。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
長期間雨が降っていないことは間違いなく、異常気象が続いています。しかし、
30日雨が降らないというのは正確ではありません。閏6月3日条には「細雨濛々」、閏6月4日条には「朝雨」と書かれているからです。三中は細かいところにはお構いなしで日記を書いているところがあります。

1827年閏6月23日(文政10年)その1
大工の棟梁藤七のババが死去との連絡があった。この者の親には我が家は世話になった。しかし、一昨年私の父が亡くなったときは、顔も見せぬ仕打ちを受けた。誠に不実である。
#色川三中 #家事志

1827年閏6月23日(文政10年)その2
隣り主人にこのことを相談したら、「先代の功をもって時の定めに従え」という。
隣主人は金二朱・米五升に人一人を遣わすとのことなので、当家は金一朱、米・人は遣わさないとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
関係者の死去。その方の親の代には色川家は世話になっていたのですが、三中の父親が死去したときは何の挨拶もなし。そんな不実な者には何もしなくてよいかと三中も思ったことでしょう。しかし、隣主人と相談して、穏当な道を選んだ三中でした。

1827年閏6月24日(文政10年)
(三中殿は本日日記をお書きになりませんでした。今月16日から風邪を引いて引き籠もっておられるので、体調がお悪いのではとお察し致します。)
#色川三中 #家事志


1827年閏6月25日(文政10年)
(三中殿は昨日に引き続き、本日も日記をお書きになりませんでした。今月16日から風邪を引いて引き籠もっておられるので、体調がお悪いのではとお察し致します。)
#色川三中 #家事志


1827年閏6月26日(文政10年)
(三中殿は昨日に引き続き、本日も日記をお書きになりませんでした。3日連続というのは珍しいことです。明日からは復活されるはずです。)
#色川三中 #家事志


1827年閏6月27日(文政10年)
朝、二軒へお悔やみに行った。
夕方にはそのうち一軒の野辺送りに行く。
この頃人の死ぬることが多い。誠に恐るべき気候である。今日も一人あだし野の露と消え、一人は鳥辺野の山の煙と立ち去りぬ。見る目も哀しく、胸が締め付けられる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ここ3日連続して日記を書かなかった三中。具合が悪かったのもあるのでしょうが、今日は外に出歩けるほどになっていますので、日記をかけなかった理由は具合が悪いだけではなかったのかもしれません。
あだし野、鳥部野の山は徒然草からの引用。亡くなる方が多く、無常を感じる三中でした。

1827年閏6月28日(文政10年)
本日も雨降らず。もう30日以上も雨がない。春には多雨であったので、田の出来は良い。畑の方は少々困った出来となりそうだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
異常気象、感染症の流行になっていますが、稲は豊作のよう。飢饉の心配はないようです。文政期はこの程度で済んだのかもしれませんが、天保期になると大飢饉が発生します。

1827年閏6月29日(文政10年)
先ごろ、鹿嶋御固め御調練軍師荒木様が御役御免となり、大久保要様が御役に着いた。御城内で調練があり、見物しても構わぬとのことで、市が立ったときのような賑わいであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大久保要は、幕末に活躍する土浦藩士。このとき満28歳で土浦藩調練軍師に任命。この後、天保8年(1837年)藩校郁文館新設に伴い館頭に就任。嘉永3年(1850年)藩主土屋寅直が大坂城代に任命に伴い随従。安政元年(1854年)、ロシア船の大坂来航では折衝に当たっています。

文政10年閏6月に30日はありませんので、 #色川三中 #家事志 はお休みです。

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色川三中「家事志」文政10年閏6月中旬

2022年06月29日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年閏6月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年閏6月11日(文政10年)
病、少々落ち着く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日三中自身も発熱してしまいましたが、すぐに落ち着きました。しかし、なかなかよくならないのです。三中が外出できるのは、閏6月27日まで待たなければなりません。 

1827年閏6月12日(文政10年)その1
病の為、胸肋痛甚し。川口隠居(祖父)も風邪でよくない。水海道の秋葉可明老(医師)に往診を頼むべく店の吉兵衛を遣わす。木之下庄右衛門殿(惣代)の一人娘さわが、本日亡くなる。
#色川三中 #家事志

1827年閏6月12日(文政10年)その2
このような病人の多いことは、たとえようがない。風邪が流行し、暑邪難病が競って起こる。至るところ大病人。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
・感染症の大流行です。「風邪の流行」と書いていますが、おそらく津軽風邪もいわれるインフルエンザ。
・さわさんが亡くなってしまいました。三中と同年(26歳)。閏6月2日条で、産後に病気となり重態との連絡があったと記されていました。それから10日での最悪の結末。感染症に対応する医療システムがありませんから、弱者に病が襲いかかリます。

1827年閏6月13日(文政10年)
木ノ下の一人娘(さわ)の葬儀。店に人がいれば十人講の外に手伝い人を出すのだが、人がいない。水海道に行っていた吉兵衛が帰ってきたので、天蓋持ちのために行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日亡くなってしまったさわさん(三中と同年齢の26歳)。本日はその葬儀。三中自身、発熱していますので、人を遣わすことしかできませんが、人のやりくりも大変。水海道の医師を呼びに行っていた吉兵衛が帰ってきてくれたので、なんとかやりくりをつけられました。

1827年閏6月14日(文政10年)
秋葉可明様(医師)が本日往診に来られた。前と同じく小陥胸(漢方薬の名前)を処方していただいた。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
秋葉医師が水海道(茨城県常総市)から 往診に来てくれました。12日に呼びに行かせたので、医師が来るまでに2日かかってます。三中は胸肋痛があったので、それに効く小陥胸(漢方薬)が処方されました。仕事柄(薬種商)、薬の名前はきちんと書き残しています。
水海道と土浦の位置関係 

水海道駅 to 土浦駅

水海道駅 to 土浦駅



1827年閏6月15日(文政10年)
・快晴、炎暑、立秋。夕刻より甚だ冷気、にわかに秋風が立つ。
・今日まで天王様。閏6月の先例で前殿まで出輿。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「天王様」は土浦市真鍋にある八坂神社を差します。応永年間(1394~1428)に現在の真鍋の地に鎮座されたと伝えられ、江戸時代までは牛頭天王社(俗に天王様)と呼ばれ、土浦城の鎮守として城主土屋家の崇敬を受けていました。

1827年閏6月16日(文政10年)
風邪で引きこもる。叔父も昨夜からまた具合が良くない。
#色川三中 #家事志
(コメント)  
三中の症状は一進一退。「風邪」と書いていますから、今のインフルエンザでしょう。叔父も同じ感染症と思われます。

1827年閏6月17日(文政10年)
昨日、隣の主人(横田権右衛門)が来て、新宅(色川惣三郎)の畑のことについて話す。この畑、叔父が勝手次第で荒らし放題にしてしまったのである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
トラブルの解決のために、病の中でも友人と協議を続ける三中です。新宅の畑の件というのは、縁戚関係での土地トラブルであり、長期化している問題です。

1827年閏6月18日(文政10年)
(三中殿は本日日記を書いておりません。体調がお悪いのではとお察し致します。)
#色川三中 #家事志

1827年閏6月19日(文政10年)
先月23日の大雨から今日に至るまで30日ほど雨が降っていない。炎熱で堪え難い。風邪の流行により引き続き諸病多し。町でも地方でも病人が多く、これほどのことは今までに覚えがない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月15日の日記に、「立秋。夕刻より甚だ冷気、にわかに秋風が立つ。」と書いていましましたが、やはり炎暑が続いています。あちこちで病人が増え続けており、未曾有の事態です。

1827年閏6月20日(文政10年)
間原らが金子50両を作ってくれた。
間原は書付の案文を作成できないので、書付けの案文は私の方で作成した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が病気であっても、債務整理は進みます。知人が一時金を融通してくれる算段がつきました。病中ではありますが、三中が書付の案文を作成しています。


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寛政12年6 月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年06月27日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年6 月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年6月11日(1800年)
ヤマセ風で曇天。雲間に太陽の南中を観測。その後暑くなったので、単物を服する。レブンケの詰合出役の小屋から別の仮屋へ移る。詰合支配御勘定の田辺安蔵殿が本日ご出役のためである。明日ヲムシヤが催されるため。本日はレブンケに逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はレブンケ(豊浦町礼文華)に逗留し、観測を行いました。ヤマセ風が吹くか吹かないかで気温が上下します。暑くなれば単物ですみます。レブンケには会所はまだ出来ておらず、「小屋」が役所として使われていたようです。会所⇒小屋⇒仮屋のランクで、この夜は仮屋泊まりのチーム伊能です。

寛政12年6月12日(1800年)
朝五つ後晴天、太陽の南中を観測。夜は曇天。本日レブンケ近隣の蝦夷人を集め、田辺氏が蝦夷人に盃を給わった。これをヲムシヤという。本日田辺氏へ、我らが江戸へのぼるための御用状をお願いした。
(レブンケに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は、ヲムシヤの儀式があったため礼文華に逗留。ヲムシヤとは、近隣の蝦夷人を集め、詰合支配御勘定の田辺氏が蝦夷人に盃を振る舞うこと。他の文献では「当初は交易に伴う挨拶儀礼」ともあり、交易を始めるための儀式だったようです。後には交易や漁労の終了時の慰労のための行事として年中行事化していったそうな。

寛政12年6月13日(1800年)
終日曇天。朝五つ頃レブンケを出立。田辺安蔵殿もアブタへお帰りになられるので、途中から一緒になる。アブタへの道は山越えが大難所であり、海辺の道も入りまじる。ヤマセ風にて冷たく、袷を服した。
七つ半後アブタへ着き、会所に止宿。宿所は田辺氏の居間の奥。
#伊能忠敬 #測量日記  
(コメント)
本日の旅程はレブンケ(豊浦町礼文華)〜アブタ(虻田;洞爺湖町)。今の礼文華小学校から虻田小学校までは約19キロです。礼文華〜大岸までは海岸沿いですが、それ以降は山の中の道です(「山越えが大難所」)。田辺安蔵はアブタの詰合支配御勘定であり、ヲムシヤのためにレブンケに出張していたのでしょう。

豊浦町立礼文華小学校 to 洞爺湖町立虻田小学校

豊浦町立礼文華小学校 to 洞爺湖町立虻田小学校



寛政12年6月14日(1800年)
朝より午後まで曇天、八つ前より終夜晴天、夜に入って寒し。諸星と太陰(月)を観測する。(アブタに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアブタ(虻田)逗留。八つ(午後2時)前から晴れたので、夜、天体観測ができました。夜中測量の図が残っています(後の測量旅行のときのもの)。太陽暦だと7月か8月のはずですが、「夜に入って寒し」。昨日もヤマセ風で袷を着ていましたから、寒空での天体観測です。

寛政12年6月15日(1800年)
朝曇天、五つ頃より晴天、夜も同じ。太陽の南中を観測。田辺氏の所持する東蝦夷の図面を写すために(アブタに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「田辺氏」は、今月11日から日記に出てきている詰合支配御勘定の田辺安蔵のこと。虻田に東蝦夷の図面を持っており、虻田に詰めている役人です。測量のみならず、既にある地図情報の収集もチーム伊能の仕事であったことも分かります。


寛政12年6月16日(1800年)
朝薄曇り、五つ後より晴天。
朝五つ後アブタを出立。三里半行き中食。ウス(有珠)へ出、野地を通り、海岸多し、山道もあり。七つ後モロランへ着。ここはエトモに詰合の松田仁三郎殿の管轄であり、仮家は残っていない。夜薄曇りの中で測量。朝夕袷を服し、襦袢も用いる。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアブタ(洞爺湖町)〜モロラン(室蘭市)。今の虻田小学校から室蘭の地名発祥の地までは約26キロでいけますが、現代のルートはほとんど海岸を通らないルートです。日記では「海岸多し」といっているので、車道を作りにくい海岸の方を通ったのでしょう。そうでないと地図作りもできませんし。

洞爺湖町立虻田小学校 to ムロラン(室蘭)地名発祥の地

洞爺湖町立虻田小学校 to ムロラン(室蘭)地名発祥の地



寛政12年6月17日(1800年)その1
朝四つ頃まで曇天、その後晴天。
朝六つ半後モロランを出立。山へ登り、海辺へ出、また山へかかり、峠を三つほど越え、野原を行く。鷲別の山中で中食。また山を越え、海辺へ出、ポロベツへ七つ頃着。会所に止宿。夜、測量。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年6月17日(1800年)その2
ポロベツの会所はシラヲイに詰合の御普請役長嶋新左衛門とエトモに詰合御小人目付松田仁三郎殿の双方の管轄である由。もっとも、長嶋氏がもっぱら担当しておられるように見える。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はモロラン(室蘭市)〜ポロベツ(登別市幌別町)。グーグルマップでは約20キロ。モロランは室蘭なのですが、今の市街地とは位置がズレています(エトモの方が今の市街地に近い)。マップでは〈室蘭の地名発祥の地〉をモロランとしてました。

ムロラン(室蘭)地名発祥の地 to 登別市役所

ムロラン(室蘭)地名発祥の地 to 登別市役所



日記なのに、忠敬は主観的な思いは殆ど語りません。本日の記事も同様。〈山へ登り、海辺へ出、また山へかかり、峠を三つほど越え、野原を行く。(中略)また山を越え、海辺へ出る〉と客観的に道程の大変さを表現します。

寛政12年6月18日(1800年)
(ポロベツに)逗留。朝五つ後より小雨、午後少しく晴天、それより夜まで曇り。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日はポロベツ(登別市幌別町)に逗留ですが、珍しく天気のことしか書いてありません。休みだったのでしょうか?それにしても、休みらしい休みもなく、徒歩で進み、観測までするとは並のことではありません。忠敬もですが、これに付いていくチームの面々(5名)もすごい。

寛政12年6月19日(1800年)その1
朝曇天、四つ過ぎより小雨、後曇り、夜半より雨。六つ半後、ポロベツを出立。海辺は砂が柔らかく歩行難。山へ登り、またそれより少し下って野原。草が伸び一丈ほどもある。山二つ越えてまた海岸。海岸で長嶋新左衛門殿に出会う。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年6月19日(1800年)その2
新道を一里余り行くと白老であり、大河には船渡しがある。七つ半に白老に着。
長嶋氏が留守支配人に申し置いていただいたので、白老の会所本陣に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はポロベツ(登別市幌別町)〜白老(白老町)。グーグルマップでは約26キロ。長嶋新左衛門殿は白老詰合の御普請役です(6月17日条)。長嶋氏は白老の会所からポロベツ方面にむけて出張。長嶋氏の留守支配人への指示により、チーム伊能は快適な会所本陣に宿泊できました。

登別市役所 to 白老会所跡

登別市役所 to 白老会所跡



寛政12年6月20日(1800年)
朝より雨天、午前止み、その後曇天、七つ後より晴れ。夜、測量。(白老に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日は白老(白老町)に逗留ですが、この日も天気と測量の記事だけです。奥州街道に比べると蝦夷地は道が整備されておらず、道のりの大変さが記事に表れることもでてきました(6月19日条)。単に旅をしているだけではなく、測量をしながら移動しているのですから、過酷な旅であることは間違いありません。


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色川三中「家事志」文政10年閏6月上旬

2022年06月24日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年閏6月上旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年閏6月朔日(1日)(文政10年)
曇り。冷気が続いており、皆袷を着ている。先月の雨で川は増水している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
6月29日条で「冷気がただならない」との言及がありましたが、閏6月となっても全く改善せず、人々は袷を着ています(普通ならば単衣の時期)。この異常気象が病をもたらします。その閏6月が始まります。

1827年閏6月2日(文政10年)
・やや熱を催し、体調が悪い。
・木之下庄右衛門殿の娘さわが、産後大病となっている。片栗粉に白砂糖を添えたものを持たせて、見舞いを遣わした。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
異常気象からの病の続発の始まりです。三中自身が体調を崩しています。三中の体調ご悪くなるのは年がら年中なのですが、気になる大病の知らせは、出産後の女性です。 木之下庄右衛門は町内の惣代。その娘さわは三中と同い年(26歳)。

1827年閏6月3日(文政10年)
細雨濛々。店のものを行商に行かせたので、私と叔父だけで店の留守番をしている。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
従業員の不祥事が相次ぎ(6月30日条)、業務に支障をきたしている状態の色川家。行商に行かせてしまうと、従業員は誰もおらず、自分と叔父(破産したた為色川家で働いている)だけになってしまいました。


1827年閏6月4日(文政10年)
朝雨、五つ過ぎより曇り。「土用八日目寒九の雨」というが、悪天候が続く。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
「寒九」というのは、寒に入ってから、9日目をいうとされており、通常は1月13日ごろのことなので、三中がいいたかったのは「土用八日目の雨」なのかもしれません。現在では、夏土用に入って3日目が晴れれば豊作、雨が降れば凶作といわれているらしいのですが(土用三郎)、当時は八日目が占いの基準日だったのょうか。

1827年閏6月5日(文政10年)
晴れ。熱気蒸すが如し。そのためか叔父は病気となり、店に来ず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
これまで「冷気ただならず」だったのに、いきなり「熱気蒸すが如し」。こんな振れ幅ある天候が体に良い訳はありません。貴重な店の戦力であった叔父も病気となってしまいました。

1827年閏6月6日(文政10年)
(体調を壊されたからか、忙しいからかわかりませぬが、三中殿は日記をお書きになりませんでした。)
#色川三中 #家事志


1827年閏6月7日(文政10年)
(どのような理由によるものかわかりませぬが、三中殿は本日も日記をお書きになりませんでした。)
#色川三中 #家事志


1827年閏6月8日(文政10年)
・5日から利兵衛殿(叔父)は店に出てこず、お顔を見ることができない。流行の風邪であり、よほどよろしくないのだろう。
・病に倒れる者ばかりで人がいない。その上、店の者の仕事ぶりが悪い。与市がおらず、糺してくれる者がいないのだ。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
この時期江戸では「津軽風」というインフルエンザが大流行しており(6月10日条参照)、三中の叔父もどうやら津軽風にかかったようです。
「津軽風」の謂われについては、松浦静山が記録しています(甲子夜話)。長くなるので、ご興味のある方はブログをご覧下さい。

文政期のインフルエンザ流行が津軽風と名付けられた理由 - 弁護士TKのブログ

(1827年に流行したインフルエンザ)文政10年5月、江戸ではインフルエンザが流行していました。当時インフルエンザという言葉はないので、人々は風邪と呼んでい...

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与市は、下総のとある村で庄屋まで務めた人物で、仕事ができる人物。与市は国元でよんどころない事情があって5月下旬に土浦を後にしています。病気で人がいない、おまけに与市もいないのダブルパンチです。

1827年閏6月9日(文政10年)
夕方、さよ(店の者)の里の組合の者が訪ねてきた。さよの祖父が重病であり、さよに暇をもらいたいという。さよは六つ半に里に帰っていった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員(さよ)の祖父が重病との知らせ。各地で病気にかかる人が増えています。この一週間だけみても、三中の同い年のさわさん、三中の叔父、そして従業員の祖父。うち二人は重態です。

1827年閏6月10日(文政10年)
発熱。近年にない高熱となった。叔父の病もよろしくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ついに三中自身も発熱してしまいました。
発熱しながらも、日記を書いたのでしょうか。

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色川三中「家事志」文政10年6月下旬

2022年06月23日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年6月下旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年6月21日(文政10年)
朝、熊野屋に行ったが、「夜に来られよ」と言われてしまった。昨日の仕事の疲れがあるのだろう。夜に入ってすぐに熊野屋に行くと酒を勧められた。そうこうしているうちに五つ(午後7時)となったので、同道して入江(名主)に行く。
 入江(名主)からは、「もう遅いので、明日に来られよ。松喜(債権者)も呼んでおくから。」といわれてしまった。明日は不成就日であるため、会合は明後日となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
熊野屋さんがいい味出しています。真面目な三中の日記でこの面白さは秀逸。昨日の日記で熊野屋さんは、夜になっているのに帰ってきておらず、家族がりは「まだ野良に行っています」と。今朝三中が熊野屋を尋ねると、「夜に来られよ」といわれ、これはもう熊野屋さんの二日酔い決定です。
そして、夜になってからすぐ行くと、これから名主のところに行くというのに、三中に酒を勧めてしまいます。三中も一緒になって呑んでしまったのでしょうね。気がつくと午後7時。そこから行っても、「今日は遅い」といわれてしまうのは当然です(笑)。

1827年6月22日(文政10年)
・徳川式部卿ご逝去に伴う鳴物停止は、昨夜限りで解除。延期していた祇園祭は今月24、25日に行われる。
・早朝、せい(妻)里帰り。土産としてくわし(菓子)150文。隣から馬を頼み、店の者が同道。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川式部卿(将軍家斉の子)逝去(6月10日)に伴い、鳴物の停止が触れられていましたが、ようやく解除。土浦の一大行事であった祇園祭が24、25日で行われることに決定しました。鳴物停止措置がなければ、6月13、14日に行われるはずでした。
 現代の土浦祇園祭は、土浦八坂神社の夏季大祭で例大祭と併設して毎年7月下旬に挙行されています。

1827年6月23日(文政10年)風雨
八つ時、熊野屋と田中清吉同道で入江(名主)へ行く。松喜(債権者)と交渉し、次のとおり決まる。
借用金10両。本来の利足は3両2分だが、2両とする。元利計12両のうち今月2両。来月より来春にかけて毎月1両の月賦。完済までは田地を質とし、質地証文は完済時に返却。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・呑べえの熊野屋さんと名主のところに行くのは、債権者(松喜)との交渉のためでした。交渉がまとまり、利息は4割ほどカット、元金は約一年で分割弁済、この間田地は質入れという内容です。普通なら、このあと書付けの交付になるのですが、この件は6月26日に新たなトラブルが発生します。
・文中の「松喜」は、松屋喜兵衛のこと。三中は日記で人名を略して使うことが多いのですが、これもそのうちの一つ。土浦の町の西門地区に同人が居住していることから、「西門松喜」と記されている場合もあります。

1827年6月24日(文政10年)晴れ
・昨日、本町の若者の天気まつりの泥仕合あり。見物。
・昨夕、せい(妻)が風雨の中を戻る。
・本日から祇園祭が始まる。本日夜、宮参りに行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
22日の早朝から三中の妻は里帰りしていました。23日家に戻って来ており、一泊二日。妻の実家は10〜15キロくらいある地域なので、実質滞在時間はさほど長くはないのでしょう。しかも風雨の中でずぶ濡れとなっての帰宅です。

1827年6月25日(文政10年)晴れ
祇園祭の御祭礼首尾よく済む。七つ過ぎ、御城を祭礼の行列が廻るのも例年どおり。日も暮れた後、御祭礼も無事に帰り、大賑わいであった。
#色川三中 #家事志
(コメント) 
土浦の祇園祭の本祭は6月14日に行われるものですが、この年は将軍家斉の子が亡くなったため、服忌の関係で25日が本祭となりました。祭礼の行列は土浦城の周囲を回っており、町民と藩の役人との距離が近かったことが窺えます。

江戸時代の祇園祭での御祭礼の様子

 
1827年6月26日(文政10年)細雨時々降
松喜(債権者)との交渉は成立し、昨日印を押す手はずになっていたが、松喜は来ず。本日朝に延期したが、本日も来ず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債権者との示談が成立するはずが、債権者本人がその場に来ないというトラブル発生です。昨日の示談予定が今日になり、しかも今日の示談の場にも債権者は来ず。その理由も今のところわかりません。どうなってしまうのでしょうか(この件は次回は明日6月27日)。

1827年6月27日(文政10年)曇り、涼し
入江(名主)が中に入って決めたことにつき、松喜(債権者)が今になって異論を唱えている。日が暮れてから、田中清吉からこのことを聞く。入江に収めてもらうために赴くが、入江は本日風邪。明日にでも沙汰をするとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名主が間に入って合意内容を決めたのに(6月23日条)、後になってそのことに文句をつける人は現代でも見かけますが、江戸時代でも同じ人はいるものです。間を取り持つ名主に期待したいところですが、頼みの名主が今日は風邪を引いてしまい動けません。


1827年6月28日(文政10年)小雨
店で使っている利八が昨日無断欠勤。人を遣わしたところ、綿の草取りに行って家にいないとのこと。不埒極まりない。今朝、高砂屋へ行き、店の利八が不埒であるので、よく言い聞かせていただきたいと申しあげた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
現代では労使関係は、使用者と労働者で直接やり取りすることがほとんどですが、江戸時代は口入(仲介者)にクレームをいうようです。今でも不動産だと、仲介をした不動産会社に話しをしますが、その感覚に近いような気がします。

1827年6月29日(文政10年)曇り
夏だというのにこの頃の涼しさは例年にない。この冷気はただならないことである。
#色川三中 #家事志
(コメント) 
旧暦の6月下旬ですから、夏真っ盛りとなっていなければならないはずです(この年は5月28日が夏至)。それなのにこの涼しさ。異常気象はこの時期にもありました。文政の次の元号は天保(1830〜1844年)で大飢饉が起きています。天保での異常気象の兆候は、文政期にも存在していました。

1827年6月30日(文政10年)
北条の佐助にいとまを遣わした。不埒なことが沢山あったからである。少し前には漢方薬の大黄を紛失し、今回も唐朝黄を持ち去った。佐助が行ったことのほんの一部のみを書き記した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勤務している佐助を解雇。佐助と名乗る者が複数いるため、北条(つくば市)出身の
という意味で、「北条の佐助」と呼んでいます。三中の家は薬種商であり、取扱商品は漢方。かなり高価なものあったのでしょう。紛失はともかく、持ち去りは明らかに犯罪です。一昨日(6月28日条)の利八といい、従業員の不祥事が相次ぎ業務に支障をきたしている状態です。


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寛政12年6 月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年06月20日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年6 月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年6月朔日(1日)(1800年)
この日朝から七つ後まで晴天、夜四つ後より雨、夜半より大雨。朝六つ後大野村を出立。同村より少し先に一ノ渡村があり、村上嶋之丞殿が在宅していたので訪問。内浦嶽(駒ヶ岳)の麓のスクノッペという山の間に休むところ一家あり(その手前には大沼、小沼がある)。その後、鷲ノ木村に七つ半頃に着。同所で止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
村上島之丞宅を訪問。村上は蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。林蔵は村上従者として蝦夷地に来ています。この日に伊能忠敬と間宮林蔵は初めて会ったのではないかと推測されています(測量日記には間宮林蔵の名前はでてこない)。測量日記に名前が出てくるのは、役人か忠敬の印象の残る人だけですから、このときはまだ間宮林蔵の名前を記載するほどではなかったのでしょう。

村上島之丞はこのとき著作『蝦夷島奇観』執筆中でした。同書は、2021年に現代語訳と解説が出版されています。
『現代語で読む蝦夷島奇観 アイヌ絵文献』的場光昭

本日の旅程は大野村(北斗市)〜鷲ノ木村(森町鷲ノ木)。今の大野小学校〜鷲ノ木小学校は約29キロ。

大野小学校前 to 森町立鷲ノ木小学校

大野小学校前 to 森町立鷲ノ木小学校



寛政12年6月2日(1800年)
朝より雨天、夜も同じ。よって、(鷲ノ木村に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は鷲ノ木村(現・森町鷲ノ木)に逗留です。同村周辺は江戸時代初期より、箱館周辺の漁民がニシンなどを求めて出稼ぎに来た所。寛政12年(1800)、箱館六ヶ場所一円の人口が次第に増加したため幕府は鷲ノ木を和人地と定めています。忠敬が来たのは丁度この年です。
 

寛政12年6月3日(1800年)
朝曇天、坤風が度々吹く、雨あり、夜もまた同じ。(本日も鷲ノ木村に)逗留。この日三厩村庄屋忠兵衛方より書状を送ったとの触れがあった。なお、箱館からも添触があり、大方位盤銅具を継送するという。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
坤風は南西の風のこと。本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(3泊目)。三厩村の庄屋忠兵衛というのは、チーム伊能が三厩に滞留していたときに、毎日不出帆書付を書いていた庄屋です(5月18日条)。


寛政12年6月4日(1800年)
朝六つ頃まで大雨、それより度々中雨、七つ半頃より夜まで中晴。雲間から測量(天体観測)を行う。(鷲ノ木村に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(4泊目)。もっとも、天候は回復傾向で夕方からは晴れ、測量(天体観測)も雲間から行っています。明日には鷲ノ木村を出立できそうです。


寛政12年6月5日(1800年)
朝より七つ頃まで晴れ、その後薄曇、夜五つ後より中晴れ。この朝五つ後に鷲木を出立し、ヲトシベ村にて中食。海辺を行き、七つ後山越内に着。同所に詰めている湯浅三右衛門殿の支配人伊藤茂座衛門の別家甚之丞方に止宿。五つ後より四つ頃まで測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲ノ木村(森町鷲ノ木)〜山越内(八雲町山越)。今の鷲ノ木小学校〜山越小学校までは約25キロ。内浦湾沿いを通るルート(「海辺を行き」)。五つ後(午後8時過ぎ)から四つ頃(午後10時)まで天体観測を行っています。昼間移動しながら測量、夜も天体観測。データの整理もあるはず。息抜きはいつしているのでしょう…。

森町立鷲ノ木小学校 to 八雲町立山越小学校

森町立鷲ノ木小学校 to 八雲町立山越小学校



寛政12年6月6日(1800年)
朝曇り、四つ後より晴れ。太陽の南中を観測。七つ後より曇る、夜は雨。(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
山越内には、1801(享和元)年、山越内関所が作られ、蝦夷地と和人地(日本民族が暮らす土地を指した言葉)の境として、和人が蝦夷地に入る取締業務をしていましたが、忠敬が訪れた寛政12年(1800年)はその前年であり、まだ山越内関所はありません。もっとも、「山越内」と漢字表記で村の名前が記されていることや、役人が詰めていることから、和人の統治が進んでいたことは窺えます。

寛政12年6月7日(1800年)
晨中雨、五つ後より晴天、夜は曇天。昨日の雨で行先の川々が増水しており、歩行が難渋するとのことであり(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
晴れてはいたものの、昨夜来の雨で川の増水を回避するため本日も山越内に逗留。山越漁港からは駒ヶ岳が見えるので、チーム伊能の面々もこの山を見ていたことでしょう。


寛政12年6月8日(1800年)
朝より晴天、夜また同じ。朝六つ後に出立。海辺を行き、四里程で中食。七つ半前にオシヤマンベに着く。会所に止宿。夜測量を行う。折柄甚暑もあり、ここ九日ほど単物を着て過ごす。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜オシヤマンベ(長万部町)。今の山越小学校〜長万部町役場までは約36キロ。内浦湾沿いを通るルート。北海道とはいえ、さすがに甚暑。最近は単物で過ごせます。
https://maps.app.goo.gl/J9UZVmevrAA6eHCR6

「会所」について。忠敬が測量に来る一年ほど前のこと、寛政十一年(一七九九)八月幕府は、東蝦夷地知内村から以東を直轄し、東蝦夷地の場所請負人を廃し、道路を開き会所を建て、駅馬を備え、官船を造って運輸を便利にするという政治方針を確立しています。長万部には1800年には会所があったことが分かります。 

八雲町立山越小学校 to 長万部町役場

八雲町立山越小学校 to 長万部町役場


寛政12年6月9日(1800年) 
朝曇り、五つ頃より晴れ。太陽の南中を観測する。夜は曇り。本日、湯浅三右衛門殿が出張先のアブタから帰ってこられたのに出会った。湯浅殿は山越内・小砂満辺に詰めておられる方である。本日はヤマセ風も吹いて涼しく、袷を着る。(オシヤマンベに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はオシヤマンベに逗留。晴れて、太陽の南中観測も行っています。昨日までは甚暑でしたが、今日は涼しく、気温の上下動がありますね。。役人の湯浅三右衛門との山越内及び長万部に詰めている役人です(6月5日条にも名前が出てきています)。


寛政12年6月10日(1800年) 
朝五つ後まで小雨、その後中晴れ、また七つ後より曇る。本日五つ後までは寒く、袷の上に襦袢。四つ後よりは単物で問題なし。朝六つ過ぎ(六つ半後)出立。霧深く、海辺三里ほどで新道峠にかかる大難所。七つ頃にレブンケに着。詰合出役の小屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。今の長万部町役場〜礼文華小学校までは約27キロです。これまでは海岸沿いの道を通って来ればよかったのですが、現在の長万部町静狩で山に阻まれ海岸沿いから山の中を通って行かざるを得ません。これが「新道峠にかかる大難所」。

長万部町役場 to 豊浦町立礼文華小学校

長万部町役場 to 豊浦町立礼文華小学校



日本一の秘境駅といわれている小幌駅は、静狩駅と礼文駅の間にあります。

日本一の秘境駅、北海道・小幌駅への行き方&過ごし方 | 北海道 | トラベルjp 旅行ガイド

JR北海道の室蘭本線小幌駅といえば、「日本一の秘境駅」という誉れ高き称号を持つ駅。ここは以前から秘境駅マニアの間では聖地として語られるほど寂しい駅でしたが、2015...

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文政期のインフルエンザ流行が津軽風と名付けられた理由

2022年06月18日 | 歴史を振り返る
(1827年に流行したインフルエンザ)
文政10年5月、江戸ではインフルエンザが流行していました。当時インフルエンザという言葉はないので、人々は風邪と呼んでいましたが、普通の風邪とは症状が異なることは認識されておりました。

(土浦の薬種商の日記)
土浦(現茨城県土浦市)に色川三中という薬種商を営む者がおり、「家事志」と題する日記を書いておりました。この日記には当時のインフルエンザ流行のことが書かれています。文政10年6月10日(1827年)の日記。
《夏だというのに冷気が行き交っていて涼しすぎるので、人はみな「今年は大雨で、出水するぞ」と言っている。江戸では風邪が流行っており、「津軽風」と呼ばれている。》
 江戸では新たなインフルエンザが流行しているという記事であり、土浦ではまだ流行してはいなかったようです。しかし、土浦でも翌閏6月には感染者が広がり、死者が相当数出る事態となったのです。

(津軽風の謂われを書き残した松浦静山)
ところで、色川三中は、なぜこのインフルエンザが「津軽風」と呼ばれたのかについては書いていません。流行り言葉の謂われは、なかなか記録されないもですが、この「津軽風」に限っては同時代に記録したものがいます。甲子夜話を書いた松浦静山です。

甲子夜話96-26(甲子夜話[正]6東洋文庫)
《さて、最近江戸の都で広く風邪が流行しており、罹らないものがないほどである。その中には激症化して、死に至る者も少なくない。
 このような風邪の流行に世の中では俗諺が流行っている。
「この度のはやり風の名を津軽風という。それはなぜかと問われれば、『しそんじると輿に乗る』(輿は、死者を葬送するときに用いる道具である)」》

(内務省衛生局『流行性感冒』)
 大正時代に内務省衛生局がそれまでのインフルエンザ流行の歴史をまとめたものがあるのですが(『流行性感冒』)、次のように解説されています。
《津軽侯が御大礼の節に、輿に乗ったために厳しくとがめられたのであるが、俗に「うまくいかないと輿に乗ることになる」という言い方があるそうで、輿は俗世間では死者を送る道具であるという(運が悪ければ死ぬ、ということをかけていると思われる)》
 「津軽」は津軽侯(=弘前藩主)のことであり、大事な儀式で輿に乗ったこと、それを葬送で使う輿とかけて揶揄していることがここからはわかります。

(なぜ津軽侯は輿に乗ったか)
では、なぜ津軽侯は輿に乗ったのでしょうか。そのことでなぜ津軽侯は揶揄されたのでしょうか。
「津軽侯が御大礼の節に、輿に乗ったために厳しくとがめられた事件」にその謎を解く鍵があります。
 この事件は、猿轅事件(えんよじけん)といい、当時大いに耳目を集めたものでした。

(徳川家斉の太政大臣就任)
この事件は「御大礼」の際に起こったものですが、この「御大礼」とは11代将軍徳川家斉が太政大臣に、その世子であった徳川家慶が従一位に叙任されました。叙任は文政十年二月十六日付けで行われております。なお、この際の詔書は文政十年二月十六日詔書として名高いものです。
 徳川家斉が太政大臣となる叙任式は同年3月18日に江戸城で行われました。将軍でありながら、太政大臣となったものは、家斉の前には徳川家康、徳川秀忠のみです。家斉は将軍在職40年でもあり、めでたいことづくめでした。

(事件の主人公、津軽信順)
将軍徳川家斉の太政大臣就任を祝う御大礼には、藩主が江戸城に登城します。このときの弘前藩の藩主は津軽信順(のぶゆき)でした。
 津軽信順は、文政8年(1825年)4月10日、父津軽寧親の隠居により家督を相続し、第十代弘前藩主となりました。弘前藩は、9代寧親のときから家格向上に取り組み、7万石から10万石と石高の高直し、これに伴う従四位下昇進と大広間詰めが認められています。これにより準国主(国持並)大名に列することになったのですが、猿轅の使用は国持大名でないと認められないため、弘前藩主には認められないままとなっていました。
 信順は当時20代であり、父親の代からの家格向上政策を継承していました。このような時に家斉の太政大臣就任の御大礼があったのです。

(猿轅事件とその顛末)
 御大礼(叙任式)の中、津軽信順は轅輿(ながえごし)に乗って江戸城に登城しました(甲子夜話94-18)。このようなことをされてしまっては、身分制度を維持できません。
 津軽信順としては、軽い気持ちだったのかもしれません。おめでたい席だからいいだろう、というノリだったのかもしれません。
 しかし、公儀としては大切な御大礼だからこそ見逃すことのできない行動です。
津軽信順は、4月25日に猿轅の無許可使用を咎められ、70日間の逼塞処分を言い渡されました(甲子夜話96-5)。

(再び甲子夜話)
 甲子夜話は、この逼塞処分についての落噺を記録しています(甲子夜話96-26)。
《津軽公は御用のため、御用番御役宅へ親類の岩城伊予守の名代として出席していた。
 この度津軽公には咎があり、その処分を岩城伊予守が伝達することとなり、伊予守は津軽邸に行った。津軽公は言渡しを受け、これを受諾した。
 津軽公は、「刻限でもありますし、どうですかお食事でも。」と伊予守に話をしたが、伊予守は固辞して座を立とうとする。津軽公は再三食事を勧めたが、伊予守はやはり固辞した。津軽公は、「今日私が処分を受けたので、ほかの方であればそのような固辞する態度にでるのもわかるのですが。そなたは私の親類ではないですか。なぜそこまで固辞するのですか。どうぞ食事をしていってください。」というと、伊予守は色を正して「轅(ながえ)はおそれあり」と述べたということである。
 「盛久」という能楽の謡「正木のかつら長居はおそれあり、長居はおそれありと」この謡の中で退出する盛久がこころのうちこそ立派なものである》

長居をすると「轅(ながえ)」をかけています。「長居はおそれあり」とは、「盛久」という能楽の謡にでてくるので、これも踏まえています。最後で、シテの盛久がこの謡の中を退場する、長居をするのはおそれ多いことです=轅で登城するのはおそれ多いことですといっているわけですね。

(参考)
・家事志 色川三中日記 1 (土浦市史資料) 土浦市立博物館
・現代語訳流行性感冒 一九一八年インフルエンザ・パンデミックの記録 内務省衛生局 平凡社
・甲子夜話6 東洋文庫 平凡社


 

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免責許可決定(自治体債権管理者向け)

2022年06月16日 | 地方自治体と法律
#自治体債権管理
破産法の免責許可決定について教えてください。
Q 免責許可決定は会社でも出ますか?
⇒免責許可決定は個人に対してだけです。
会社には免責制度の適用はありません。
破産手続きの終了により、会社は消滅し、債権はその時点で消滅すると解されています。

#自治体債権管理
Q 会社は破産開始決定が出た時点で解散になると思っていたのですが、違うのですか?
⇒会社は破産開始決定が出た時点で解散します(会社法471条1項)。しかし、解散したからといって、債権が消滅するのではありません。解散と法人格の消滅は別だからです。

#自治体債権管理
Q 会社が解散しても、会社は残っているということですか?
⇒そうです。清算の目的の範囲内で破産手続が終了するまで会社は存続しているのです。
破産法35条
「他の法律の規定により破産手続開始の決定によって解散した法人又は解散した法人で破産手続開始の決定を受けたものは,破産手続による清算の目的の範囲内において,破産手続が終了するまで存続するものとみなす。」

#自治体債権管理
Q 免責許可決定は債権者に届きますか?
⇒債務者には届きますが、債権者には届きません。破産開始決定は債権者に届きますが、免責許可決定は債権者には来ないのです。また、免責許可決定が出たとの連絡も債権者には届きません。

#自治体債権管理
Q どうしたら免責許可決定が出たことを知ることができますか?
⇒地裁の担当の書記官に問い合わせるか、又は債務者に代理人が付いていれば、その代理人に確認する方法もあります。

#自治体債権管理
Q 免責許可決定が出たら、自治体として債権を放棄してよいのでしょうか?
⇒その自治体の債権管理条例によりますが、一般的には、「債務者が当該債権につきその責任を免れたとき」と規定されているので、免責許可決定の確定が必要です。

#自治体債権管理
Q 免責決許可定が確定したか知るためにはどのようにしたら良いでしょうか?
⇒地裁の担当の書記官に問い合わせるのが良いと思います。債務者に代理人がついていても、免責決許可決定の確定までは意識していないことが多いです。

#自治体債権管理
Q なぜ地裁の書記官に確認するのがよいのですか?
⇒免責許可決定がでたことは官報に掲載されます。債権者はそれを見て確認しなさいというのが法の立て付けです。地裁の担当書記官は、官報への掲載手続きを行い、いつ免責決定が確定したかを確認していますので、書記官に確認するのが一番確実なのです。







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6月15日は千葉県民の日 千葉県の成立

2022年06月15日 | 歴史を振り返る
(千葉県民の日)
6月15日は千葉県民の日です。
1873年(明治6年)、印旛県と木更津県が合併し、千葉県が誕生したことを記念するもの。県庁は千葉郡千葉町(今の千葉市)に置かれ、以後千葉が県庁所在地となりました。

(新治県)
このときできた千葉県は、今の千葉県の範囲と同じではありません。新治県というのがありました。現在の茨城県南部と千葉県東部(香取郡、海上郡、匝瑳郡)に当たり、県庁所在地は土浦町。香取郡、海上郡、匝瑳郡は1875年5月になって、千葉県に合併されました。

 (千葉裁判所の成立)
 1873年時点では関東付近にのみ裁判所が存在しており、印旛県、木更津県にも裁判所が存在していました。千葉県の成立に伴い、印旛県と木更津県にあった裁判所も千葉県に置かれることとなります。

明治6年、千葉裁判所の設置 - 弁護士TKのブログ

(調査して感じたこと)今の千葉市内にいつ裁判所が置かれたのかについて調べてみました。裁判所は国の組織なので、自治体の歴史編纂事業で作成されるものでは...

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 なお、印旛県、木更津県は千葉県成立の前年である明治5年(1872年)に設置されたので、一年も経たないうちに合併が行われています。

国立公文書館史料にみる「足柄始八県ヘ裁判所設置ノ御達」 - 弁護士TKのブログ

(国立公文書館デジタルアーカイブで見る千葉県の前身の裁判所設置)以前のブログ記事で、明治5年8月に千葉県の前身となる、印旛県、木更津県、新治県に裁判所...

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色川三中「家事志」文政10年6月中旬

2022年06月13日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年6月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年6月11日(文政10年)
晴 夜中雨
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中には珍しく天気だけの記事です。これだけみると全く面白くないですが、三中が延々と30年近くにわたって気候を記録し続けたので、気候復元の研究の史料となりえます。この時期は天候不順で天保期(1830年代)には大飢饉も起きています。

1827年6月12日(文政10年)
徳川式部卿様が6月10日に逝去されたため、普請は12日まで、鳴物は16日まで停止と御公儀が決められた。町御奉行からそのことの仰せがあったので、中城町役元からお触れが出た。鳴物停止のため、祇園の祭りは延期である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川式部卿は、徳川家斉(江戸幕府11代将軍)の子(十一男)。本名は、徳川斉明。文政10年6月10日に死去しており、享年19歳。元服後、従三位左近衛権中将兼式部卿に叙任されています。10日死去、同日幕府から出された触れが、12日には土浦まで届いています。

1827年6月13日(文政10年)
晴、露降らず。朝露がなければ、3日のうちに必ず雨が降ると昔から伝えられている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
天気に関する昔からの言い伝えが記されています。現代では「朝露が降りると晴れ」とはいわれますから、あながち間違いとはいえないような気もしますが、どうなのでしょう。三中は土浦の町中に住んでいますが、田畑を持っており、年貢を納めなければならない立場なので、その点からも気候には敏感です。

1827年6月14日(文政10年)
或いは晴、或いは雨。畑に蒔いた小麦を刈り取るため、店の男どもを遣わす予定であったが、雨が降ってしまい、田の草を取るのに遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の日記では「朝露がなければ、3日のうちに必ず雨が降る」と書いており、早速雨が降りました。小麦の刈取りは関東だと、太陽暦6月上旬といわれており、この日記は旧暦なので、刈取り時期が1ヶ月ほど遅くなっています。これも天候不順の影響でしょうか。

1827年6月15日(文政10年)
宮薙の日だが延期。徳川式部卿様もお亡くなりになったため。若い男女が、鎌と箒をもって朝早く神社の掃除をする昔から続く古風な行事だが、最近男は暇が少なくなり、宮薙に行く者が少なくなってしまっているのは残念なことだ。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
宮薙は神社の掃除をする行事です。茨城、千葉だけにあるようです。旧暦6月15日が本来の宮薙の日ですが、太陽暦ではスライドして7月15日に、さらに平日を避けて15日周辺の土日に行われているようです。昔ながらのところは7月15日早朝に行っているところもあります。


三中の日記からは、宮薙が若い男女の出会いの場としても機能してことが窺えます。しかし、男性の暇が無くなってしまい、その習慣もすたれつつあることを嘆く三中でした。

1827年6月16日(文政10年)
本日は日記の記載がなく、 #色川三中 #家事志 はお休みです。

1827年6月17日(文政10年)
徳川式部卿様ご逝去に伴い、鳴物は16日まで停止とのお触れであったが、おって御沙汰があるまでは町方は物静かに過ごすべきであるとのお触れが、町の役元から出された。御上様(徳川家斉)ご自身がご遠慮されていることが理由という。
#色川三中 #家事志
(コメント) 
日本お得意の自粛は文政期にもあったことがわかる記事です。6月12日の記事にあるように鳴物は16日まで停止との決定だったのですが、将軍自ら自粛なので皆も自粛せよとされています(しかも無期限)。幕府の正式決定とは異なる自粛の使い分けは現代にも通じるものが有ります。

1827年6月18日(文政10年)
本日は日記の記載がなく、 #色川三中 #家事志 はお休みです。こんな短期間に2回も休むのは珍しいのですが、病気ではないようです。忙しいのでしょうかね。

1827年6月19日(文政10年)
先般友人の有川貞淳に竜歯(ナウマン象の化石)を見せたところ、4、5年前に間垣村で発見された竜歯を見たことがあると話してくれた。早朝、店の利兵衛と共に間垣村に赴いた。竜歯を持っている人に尋ねあたり、見ることができた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この年の4月12日に当時は竜歯と呼ばれた化石を三中は購入していますが(4月12日の記事参照)、それ(友人に見せたところ、近隣の村でも発見されたとの情報。店の者を同行させてそれを確かめに行く三中。三中は現在20代後半ですが、この行動ぶりは少年のようです。


1827年6月20日(文政10年)
入江(名主)から、組合の熊野屋と今晩同道せよといってきた。夜に入ってから熊野屋に行ったが、野良から帰って来ていないという。その旨入江に伝えたら、明日でよいから熊野屋と共に罷り出よとのこと。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
ここで「組合」といっているのは、五人組のメンバーのことのようです。用事は書いてありませんが、五人組メンバーの一人熊野屋さんと一緒に名主のところに来なさいとの連絡。熊野屋さんは夜になっているのに帰ってきておりません。どこかでお酒を呑んでいるのでしょうか。予定を組むということのない時代のノンビリした光景です。



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