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弟子とうまくいかない大原幽学 嘉永7年7月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年07月15日 | 大原幽学の刑事裁判
弟子とうまくいかない大原幽学 嘉永7年7月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年7月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は邑楽屋(公事宿)手代の米八方に病気見舞いに行かれた(白玉を持参)。昼からは散歩に出かけ、夕方にお戻りになった。
・小生は万屋に袴代を持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が邑楽屋(公事宿)の手代に病気見舞いを自らしています。雑事は概ね五郎兵衛らにまかせているので、珍しいことです。
幽学先生も五郎兵衛が知らないところでは色々と気をつかっているのかもしれません。

〈その他の記事〉
・朝早くから幽学先生に叱られた。
「何で良佑の帰村のことを手前どもが相談するのか。良祐に恥をかかせたいのか。何かの宿意があるのか。良佑が帰村するのは初めから決めてあることなのだ。そんなことをしているのならば、 今後予めは何事も手前どもに関わらないからな。」
・良祐は朝早くから、外川屋へ土産をもって挨拶に行った。


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嘉永7年7月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、幸左衛門殿が小頭の役につくと知り、「難しい役だし、慢心する役だ。危うし、危うし」と仰っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は諸徳寺村(現千葉県旭市)の者。同村の地頭、藪家(旗本)の門番を務め(2月5日条)、この度小頭の役に就くこととなりました。世間的には出世ですが、幸左衛門は幽学先生に反発しており、師弟の間には溝ができています。

〈その他の記事〉
・幽学先生と良祐殿は脇差を調べて、国元へ送る相談をしていた。
・晩に惣右衛門殿が来て、借家に泊まり。

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嘉永7年7月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生に会計の帳面を確認してもらおうしたら、「そんなものは見る必要がない」と言われた。先生のご機嫌を損ねてしまった。誠に不首尾であった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日の記事では幸左衛門との間での問題が表れていました(7月2日条)。今日は五郎兵衛とです。確かに五郎兵衛の会計帳面の付け方は、あまりうまくないようですが、五郎兵衛なりに努力したのだから、少しは褒めて上げましょうといいたいです。

〈その他の記事〉
・朝方、惣右衛門殿は職場に戻った。
・長左衛門殿と大家が借家に来て、碁打ち。
・昼過ぎに武左衛門殿が来てすぐ帰った。昨日、公事が一件済み、帰村するように仰せ付けられたとのこと。


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嘉永7年7月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
体調が悪くなり、高橋医師(脚気治療医)のところに薬をもらいに行った。借家に戻ったら、伊兵衛父から「五郎兵衛よ。気持ちをうまく切り替えて幽学先生に応対してくれ。先生は大変困っておられるぞ」との話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は幽学先生との間に溝ができており、そのことも影響してか体調も崩してしまいました。伊兵衛父も心配しており、幽学先生との溝は師弟一同に波紋を起こしています。

〈その他の記事〉
・小生は、昨日昼から再び水気が起こり、脚気治療の高橋医者へ薬をもらいに行き、昼ころに帰宅した。
・武左衛門殿が昨日公事が済み、帰村する。御役所へ御届け及び御礼の打合せのために借家に来た。夕方には帰られた。
・伊兵衛父が赤坂へ行き、昼ころに帰宅した。
その後、小生に「五郎兵衛がうまく気持ちを切り替えて対応しないといけないぞ。幽学先生は大変困っておられる。」との話しがあった。



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嘉永7年7月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から、「五郎兵衛にはこれからは怒らない。体調が悪いならば村に帰っても良いぞ」といわれた。その後に「これまでにない不実な生活だ。よく考えてみろ」とも。
幸左衛門殿もダメ出しされたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、五郎兵衛及び幸左衛門にダメ出し。「これからは怒らない」というのは口をきいてくれないということでしょう。幽学先生の二人への対応は転機を迎えました。

〈詳訳〉
・朝食後、幽学先生から、「五郎兵衛よ、これまで長々と付き合わせてきて、言いたいことを言わせてもらったが、これ以上怒っても仕方がないから、今後は怒らない。脚気が良くならないから、村に戻って療養したほうがよいだろう。」との話しがあったが、「お前も節五郎も、これまでにない不実な生活をしてきているぞ。よく考えてみろ。」とも言われた。
・夕方、幸左衛門殿が借家に来られた。
幽学先生は、「幸左衛門に何を言っても仕方がない。これ以上は諦めた。予は何事も一切構わないから、これからは勝手にするが良い」と話しをされたとのこと。
・惣右衛門殿は明後日7日過ぎに帰村されるとのこと。

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嘉永7年7月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生「手前らの考え方は筋が通らないことばかりだ。予が置かれている苦境を考えてみよ。自分はどうなってもよい。手前たちが、道を志す良き人になってくれれば。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は五郎兵衛と幸左衛門にダメ出しをした幽学先生ですが、本日も気持ちが収まらないのか厳しい言葉を五郎兵衛に対して投げかけています。「予が置かれている苦境」や「自分はどうなってもよい」という言葉からは、裁判の結果が厳しいことを覚悟し、今後の弟子のことを慮る幽学先生の考えを見て取ることができます。

〈その他の記事&詳訳〉
・幽学先生から次のようなお話し。「長沼組の性学には筋が通らないことばかりだ。予が置かれている苦境を考えてみれば、手前たちは何でもできるはずたが。長部村の良左衛門のことを考えてみろ。良左衛門はどんな事でも本質を見抜いているぞ。自分はどうなってもよい。手前たちが、道を志す良き人になってくれれば良い。」
・幸左衛門殿は昨日泊まられて、朝方に職場に戻られた。
・昼から良祐殿が小石川へ石牌料の金を持参された。
・昼過ぎ、野田村の安蔵弟が来た。幽学先生から「茶うけが瓜漬だけとは何事だ!」と客人が帰られてから、大いに叱られた。


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嘉永7年7月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
夕方、蓮屋(公事宿)から明日(8日)奉行所に出頭せよとの呼出状が届いた。外で仕事をしている者に人をやって、このことを知らせた。小生は蓮屋へ行き、明日の差添えをお願いした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からの呼出しが届きました(実際には公事宿から届きます)。これまでひたすら待たされるばかりでしたが、審理は進むのでしょうか。

〈その他の記事〉
・兵右衛門殿、太次兵衛殿が逗留された。
・朝食後に、自分の病(脚気)でご迷惑をおかけしますと幽学先生に申し上げたところ、「養生が叶わないのだから、いたしかたない」といわれた。また、その他種々小生の不誠実な点についてもお話になられた。
・小生は幽学先生に叱られことで、先生不在の間に、伊兵衛父に相談した。伊兵衛父からは、「どうにももっとな事だ。物事正直でなくてはならない。以後は自分勝手なことは少しもしないことと決め、心を変えるほかない。」との話しがあった。
・太次兵衛殿から借家の二階で内々に話したいといわれた。「五郎兵衛は病気とのことだが、死ぬ気でことにあたると決心して欲しい。我々も同じように急度改心し、幽学先生との約束(議定)を守り通す。国元の改革は五郎兵衛の覚悟一つである。ぜひ頼みます。」との話しであった。

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嘉永7年7月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
全員で奉行所に出頭。
昼過ぎに訴所への御呼出しあり。
「帰村を認める。閏七月晦日までに江戸に戻るように」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夕奉行所から呼び出しがあったので、全員で奉行所にさ出頭しましたが、「閏7月晦日(来月末)までの帰村を認める」というもの。審理が進むことはありませんでした。
なお、嘉永7年は閏月があり、来月がうるうる7月です。


〈その他の記事〉
・万徳(公事宿)へ行き、帰村の為の役所に御返翰をいただきたい旨の相談をしたが、今日はもう刻限がも遅いので、明日にしましょうとのこととなった。
・借家に戻ると、井上先生がおいでになっていたので、私の病気の事を話した。「しびれがないのならば、脚気ではないぞ。」とのこと。脚気衝心ではなければ、小生も仕事をしようと思い、幸左衛門殿の下仲番の仕事につく相談をした。
なか夜に太次兵衛殿、兵右衛門殿二階で話す。「今の状況で帰村しても国元は困ってしまうぞ。この度は死を覚悟して勤めてもらいたい。代わりに我らが帰村して、改革を行う。犬死にだけは決してさせない。ぜひ決心してもらいたい。」との話し。小生、死すると覚悟を決め、幽学先生の御心配にならぬように改心することを誓った。
(その他の記事へのコメント)
・五郎兵衛は自分の病気を脚気と思っていましたが、井上先生(多分医者)から、脚気ではないといわれました。
・しかし、道友からは、帰村してくれるな、死を覚悟して江戸で勤めよと言われてしまい、真面目な五郎兵衛は、死んでもやるぞと覚悟を決めてしまいます。


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嘉永7年7月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は帰村の手続き。外川屋(公事宿)の案内で、清水様(御三卿の一)に届けを提出。昼に戻られる。
・節五郎殿は田安様(御三卿の一)に帰村届けを提出。
・小生は御上屋敷へ万屋(公事宿)下代の案内で、御返翰を頂いた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、奉行所から、「閏7月晦日までの帰村を認める」旨の帰村許可な出た為、各々帰村の手続きを行っています。

〈その他の記事〉
夕食後、幽学先生に叱られた。「干潟(長部村等)は内証の相談等はしないぞ。長沼の方(五郎兵衛ら)は、どうして内証で相談しておるのだ。こういう風だから、何をやっても無駄なのだ。」


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嘉永7年7月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所から帰村を仰せ付けられたことを、地頭所に届け出た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から来月(閏7月)末までの帰村許可が出たので、それまでは江戸で待機しなくてもよくなりました。五郎兵衛は、この間も江戸にいるつもりなのですが、地頭所には奉行所での帰村許可を届出ています。


〈その他の記事〉
・伊兵衛父は番町の藪様の仲番の勤務をされた。
・惣右衛門殿に国元から飛脚が来た。惣右衛門殿は奉公先に暇を願うとのこと。



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