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江戸時代の歌舞伎興業 文政12年6月下旬・色川三中「家事志」

2024年07月04日 | 色川三中
江戸時代の歌舞伎興業 文政12年6月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年6月21日(1829年)朝曇 晴天炎暑
・さるふた松の木(先月、雷で折れた松の木)を伐採させていただくよう下目付に願いを出し、町奉行所へ届書を提出した。
・夜に大雷。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雷で折れた松の木の処理方法。町役が下目付に願いを出し、町奉行所へ届けを出すことが必要です。、藩の許可を得たうえで、町方が伐採するというルールであることが分かります。

〈その他の記事〉
・大国屋勘兵衛が土用見舞いに鯨二切れを持って来た。
・久米三源之助、大吉など四人が中村(現土浦市中)から籠で来訪した(中村まで駕籠で迎えに行った)。
・明日、山之部様が水戸様の名代として紀州(藩主が亡くなったことの)の御悔みに御登りなられる。稲吉宿でご宿泊されてから土浦を通られるとのこと。人足44人、馬12疋を用意し、本日藩のご見分あり。御歩行目付、下目付、組小頭等のみであり、町年寄は吉右衛門が参加
(大見分はなし)。
先年、山之部様が御通りになった様子について、今朝上よりお尋ねられたが、分からず。なにぶんにも18〜19年前のことである。
←〈その他の記事へのコメント〉
・先日、紀州藩の徳川太真様が御逝去になられました(6月10日条)。山之部様が水戸藩の代理でお悔やみをいいに、江戸に赴かれるため、途中土浦を通過します。水戸街道の稲吉宿(現かすみがうら市下稲吉)で宿泊し、土浦を通過するのですが、通過する町では人足や馬の用意をしなければならないのですね。その見分を藩の役人がしています。見分よりも厳しい大見分というのもあるようです。

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文政12年6月22日(1829年)晴
・東覚寺(等覚寺)での芝居は明日が初日。川原代村の木村氏、細井氏、谷田部へ芝居が始まることを手紙で知らせる。
・芝居の通り札を二枚をもらう。
・町組一同の頼みにより、芝居出役の間、川口蔵で入湯できるように手配。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺で芝居興行はいよいよ明日が初日。三中は川原代村の知り合いに芝居のお誘いの書状を書いています。川原代村は現龍ケ崎市川原代で、土浦からは20キロ以上あります。芝居興行自体が珍しいので、このくらいの距離でも見に行くのですね。

〈その他の記事〉
・朝方、山之部様が土浦を御通りになった。
先払を務める。問屋出役は金之丞が担当。東覚寺(等覚寺)で小休止。昼前には御通りは終わったので、土浦藩には相済とお届けした。
←〈コメント〉
・山之部様が本日土浦を御通りになられました。三中は町役人として先払いを務め、無事土浦を御通りになられたのを見届けた上で、藩に報告しています。
☆「山之部様」というのは、水戸藩の名代として紀州に藩主が亡くなったことのの御悔みに赴かれる方です(6月21日条)。
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文政12年6月23日(1829年)朝曇、昼より晴
御奉行様の御見分あり。明日、本田様が土浦をお通りになられる為。
夕方、富田屋市郎平方で酒乱の者あり。本田様が御通りになる道沿いであり、目障りになることから、御組衆に杖で打たれて捕らえられた。町組合小頭の野口様宅へ行き、このことをご報告し、お詫び。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、山之部様が土浦を御通りになられたのに続いて、今度は本田様が土浦を御通りになられます。酒乱の者に対して杖で打たれて捕らえるという実力行使っぷりがスゴい。理由も「目障りになるから」です。酒乱の程度もひどかったのかもしれませんが…。


〈その他の記事〉
・町御郭内の道破損箇所の修理につき書付案を作成した⇒付1
・次のように藩のご担当者に報告した。
中城分の田に、すべて植付けいたしました。
この段、ご報告いたします。
以上
中城町年寄 (4名の名前は略)
名主 入江全兵衛
丑六月
佐久間勝助様


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文政12年6月24日(1829年)
・東覚寺(等覚寺)での芝居初日。せゐ(妻)、川口隠居(祖父)、金次郎(弟)や店の者合わせて9名が芝居を見た。
・明日の芝居見物のため、川原代村の木村源三郎と池端の子息(長男)、細井玄庵殿が来られた。嘉兵衛が千代松を連れてきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺での芝居が始まりました。許可されたのは24-27日までの4日間です。三中の家族は初日に店の従業員と一緒に芝居を見に行っています。川原代村からも知り合いは20キロ以上の歩いて、今日は土浦に泊まり。明日の芝居見物に備えます。

〈その他の記事〉
・昼過ぎに、本田様の御通りを迎えに銭亀橋へ出向き、先払いを務めた。町内えびす屋が不調法だったためお詫びをした。
・桜橋で御見送りを済ませ、下座した。御すだれ番が来られ、町役人であると申し上げたところ、御駕籠の戸が開けられて、御通りになった。
・本田様が首尾よく御通りとなったので、藤井様(町奉行)にご報告をした。
・富田屋が昨日の騒動で迷惑をかけたと、黒鯛2尾持参。

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文政12年6月25日(1829年)晴
・等覚寺での芝居の演目
23日、24日が義経千本桜
25日が忠臣蔵の六段目迄(所作有り)
26日が忠臣蔵の九段目迄
・川原代村の客4人等合計8人は、先般もらった札2枚で芝居を見ることができた。川原代村の客4人は夕方帰られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺での芝居の演目は義経千本桜と忠臣蔵で、現在も上演される演目。もっとも、忠臣蔵は九段目まで通しで演じているようですから、部分的にしか演じない現代とは演じる時間の長さは異なっているのでしょう。

〈その他の記事〉
・本日、大小札合わせて780枚であり、その旨お届けした。
・日没後、谷田部村の飯塚御袋、宅三郎、栄吉、庄三郎の4人が来た。一同から土産菓子を1袋ずついただいた。また、町役を仰せ付けられた祝儀として、飯塚庄九郎殿から金2朱、今川宅三郎殿から金1朱をいただいた。

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文政12年6月26日(1829年)晴・曇定まらず
・朝早く、羽織立附で町役人の仕事に出る。供は茂吉。
・本日の芝居の大札は477枚、小札は127枚とお届けした。
・本日朝、芝居を2日間延長していただく旨の願書に奥印を押して町組小頭に提出。1日に限り延長が認められた(28日まで)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
芝居の興業は大成功。興業側としては延長してさらに儲けを増やしたいところですが、土浦藩が認めたのは一日だけです。

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文政12年6月27日(1829年) 少雨
・今日の狂言(昨日土浦藩にはお届け済)
中入前:名木仙台萩
中入後:幡随院長兵衛
・今日は大入りで1500-1600人もいたのではないか。谷田部村から来た知合いは昨日も今日も芝居を見にいった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
芝居は本日観衆1500人超の大入り。寺の境内でこれだけの人数が集まっています(芝居は等覚寺の境内で行われています)。少雨でもこの入りですから、すごい熱気だったことでしょう。

〈その他の記事〉
・御目附の軍司新左衛門殿に御不幸があり、上下でお悔やみに伺う。

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文政12年6月28日(1829年)雨
・艮風(北東)が打ち続き、冷たい雨。 夜に大雨。
・芝居は今日(28日)までであったが、雨のため、晴れの日に順延。
・いそ鰹が届く。初鰹以来であり珍し。近年、鰹が獲れる時期が遅くなっているが…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
太陽暦ならば8月ころのはずですが、冷たい雨。低温傾向が顕著な文政末期です。
芝居は等覚寺の境内で行われているので、雨が降れば芝居はできません。芝居はあと一日ですが、晴れの日まで延期です。劇場がなく、外での興行ではこうするしかないのでしょう。


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文政12年6月29日(1829年)雨
・冷気不順。本日も雨であり、芝居は順延。
・名主及び年寄一同で暑中御見舞。
(挨拶廻り)
両小頭、両御奉行、吟味衆佐久間様、組頭衆石嶋様、御代官佐久間様、大久保様、矢嶋様、神龍寺、中里様、神田様
以上のとおり廻り、暑中の御嬉嫌伺いを申し上げた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人(名主及び年寄)一同での暑中見舞い。藩役人の関係者を順に廻っていく、文字どおりの挨拶廻りです。挨拶廻りの筆頭は「両小頭」とありますが、これは町組小頭のことで、土浦は中城町と東崎町に分かれており、それぞれ小頭がいるので、「両小頭」となっているのです。

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文政12年6月30日(晦日)(1829年)曇
・雨は上がるも、北風吹き、冷気甚し。
・本日で芝居興行終演。源之助の所作は上出来であった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雨が上がり、千秋楽の芝居が行われました。あいにく北風が吹き、寒いコンディション(夏なのに!)。
「源之助」は澤村源之助のことでしょう。1829年ですから二代目。

〈その他の記事〉
・加賀人足の件であるが、配分については、中城からは20人、東崎からは8人が計毎月28人ずつ出すことになった。明日、中城から5人を1日〜4日まで出す。その旨、小屋方居役、宮本勝左衛門様へお届けした。
・夜には水戸の役人の件に関して、下目附の宮崎様方へお伺いした。

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付1 (6月23日条)
乍恐以書付奉願上候
私共町内の商人は、御厚恩により渡世を続けており、有り難く幸せに存じております。つきましては、冥加のため毎月二十人ずつ町御郭内の道破損箇所を修理させていただきたく存じます。
然る処、右人足共は当地に不案内で、御用をこなせないのではないかと懸念しております。
つきましては、誠に勝手なお願いで申し訳ないのですが、右二十人分の冥加日雇銭を、一人につき百十六文ずつ納めさせていただきたく存じます。
この願いの通り仰せ付けくださいますよう、よろしくお願い致します。以上
文政十二年丑年六月
中城町年寄 (4名略)
名主 入江全兵衛

町御奉行所様

右のように書付案を出したが、これもでも認められないということで、一月に28人ずつ人足を出す方向で検討せざるを得ないようだ。

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付2 (6月29日条)
去年中から懸案となっている悪水の費用分担の件
総費用:59両2分
* 御上からの補助金:14両2分
* 自己負担:45両

自己負担の内訳:
* 虫掛からの拠出金:15両
* 中城:30両
町方にてこの金額を借用し、これを利付10年賦で返済する。

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