南斗屋のブログ

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寛政12年7月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年07月28日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年7月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年7月11日(1800年)
朝薄曇り、太陽の南中を観測。夜は晴曇り、測量(天体観測)。(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に四泊目です。日記の記載も単調です。


寛政12年7月12日(1800年)
朝曇り、日出より晴天、昼夜ともに晴天、測量。(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に五泊目です。
なぜここまでの長逗留となってしまったのかについては、明日の記事で明らかになりますが、役人の通行を待っていたからです。 


寛政12年7月13日(1800年)
朝曇り、日出より晴天、太陽の南中を観測する。夜も晴天。戸川藤十郎様(御小納戸御両頭)及び大河内善十郎様が当所(ビロウ)に御到着。両公御通行のため、宿所、人馬がひっ迫しており、ビロウに長逗留とならざるをえない。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に六泊目です。ビロウに長逗留となった理由がわかりました。ビロウに到着する役人を待っていたのです。チーム伊能も公用ではあるものの、御役人には敵いません。役人が通行するためには、人馬がかりだされますし、お付きの者の宿泊もありますから、宿所もひっ迫。通行を待つほかないのでした。

寛政12年7月14日(1800年)
大河内・戸川両公が朝五つ頃出立され、馬は出払ってしまい調達できないので、荷物は蝦夷人の人足にもってもらい、五つ後に出立。朝より晴天、七つ過ぎより曇天。
新道海岸を行き、モンベツにて中食。七つ半後、トウブイに着。昼夜に蚊が甚だ多く難儀している。昼でも蚊帳がないとしのぎ難い。昼は暑気強く、夜四つ後より雨。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はビロウ(広尾町)〜トウブイ(当縁;大樹町)。今の広尾町会所前から當縁神社までは約27キロです。
大河内・戸川両公がビロウを出立しましたが、チーム伊能が使える馬が出払ってしまっていてありません。やむなく人足として依頼していたアイヌ人に荷物を持ってもらうことになりました。

会所前 to 當縁神社

会所前 to 當縁神社



寛政12年7月15日(1800年)
朝より昼まで曇る。夜も白雲、雲間に測量(天体観測)。四つ後よりだんだん晴れ、深夜晴天。(トウブイに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
トウブイは現代では「当縁」。1956年までは「大字当縁村」が存在し、当縁の地名が残っていたのですが、同年に大字を字に分割・再編したために当縁という地名は消滅してしまいました。地名として消滅しても、神社の名前等には残っている場合があります。「當縁神社」や「当縁馬頭観世音」がありましたので、おそらくその周辺がチーム伊能が泊まったところなのでしょう。

寛政12年7月16日(1800年)
朝より午の刻半ばより晴れ、七つ時より曇る、少し雨また曇る。朝六つ半頃に出立。ユウトウで中食。トウブイから海岸を行き、七つ頃ヲホツナイに着。夜も曇る。仮家止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はトウブイ(当縁;大樹町)〜ヲホツナイ(豊頃町大津)。グーグルマップ上では約36キロです(當縁神社から豊頃町大津小学校まで)。

當縁神社 to 豊頃町立大津小学校

當縁神社 to 豊頃町立大津小学校



今日は中食どころとなったユウトウの明治4年の絵。リンク先の絵をみると左方に「小休所」という家屋があります。チーム伊能もこのようなところで中食を食べたのかもしれません。


寛政12年7月17日(1800年)
朝晴曇り、午の刻前より晴天、夜また同じ。午の刻に太陽を測る(南中を観測)。夜も測量(天体観測)。(ヲホツナイで逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はヲホツナイで逗留。忠敬は「夜も測量」と書いていますが、現代の感覚でいうと、夜に行っていたのは天体観測なので、「(天体観測)」と補足をしました。この天体観測は測量に欠かせない仕事(北極星の位置からその場所の経度を割り出す)ですので、伊能忠敬の頭の中では「測量」なのです。
 明治4年のヲホツナイ(絵ではオオツナイ)。この絵ではオオツナイは砂洲みたいなところで、こんな場所に宿所があったのかと驚かされます。現代は埋立てられたようです。

寛政12年7月18日(1800年)
朝より七つ頃まで曇天、それより雨、夜風雨。朝六つ半後に出立。海岸をおよそ五里ほど行き、ヲコツペアツナイで中食。それより三里余りで七つ過ぎにシヤクベツに着。仮家に止宿。ヲホツナイからシヤクベツまでは七里というが、遠し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はヲホツナイ(豊頃町大津)〜シヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)。日記の中で五里+三里余りといっているので、約32キロでしょうか。出立してから程なくして雨となったので、かなり遠く感じられたようです。「遠し」というちょっと疲れた感がでる記載の仕方をしています。

豊頃町立大津小学校 to 尺別駅跡

豊頃町立大津小学校 to 尺別駅跡



寛政12年7月19日(1800年)
前夜より八つ半過ぎまで風雨、それより曇天。浪高く、丘へ浪が打ち上げること三十間(約54m)ばかりで、宿としている仮家まで一町余り(約109m)。蝦夷地往来中の大波濤である。先日16日夕方に、嶋隼之助殿という方がヲホツナイに着いた。しもべもおらず、浮腫の病気だという。本日嶋殿と出会い、浮腫の療治を談じた。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は悪天候のためシヤクベツに逗留。蝦夷地に来て以来の大波濤であると評されるほどの波の高さで、宿としている仮家まで100メートルほどのところまで波がくる様には、チーム伊能の面々も冷や冷やしたことでしょう。

寛政12年7月20日(1800年)
朝より曇天、薄曇り中に太陽の南中を観測。夜は曇天。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もシヤクベツに逗留。昨日の日記の記事で、嶋隼之助という方について触れていますが、どのような方なのでしょうか。蝦夷地ではこの時期公用での旅しか許されなかったはずですが、伴も連れず(原文は「無僕」)にどこへ向かって行くのでしょうか。忠敬はそれらには触れず(おそらく興味もない)、嶋殿の浮腫の治療法について関心をもったようです。
 蝦夷地での浮腫については次の論文があります。
「蝦夷地警備藩士の飲用したコーヒーが健康に及ぼした影響」早川 和江
〈蝦夷地での藩士たちを脅かしたのは寒さと浮腫病(水腫病)であった.この病は「腫レ出シ後心ヲ衝キ落命ニ至ル」といわれ,罹患した者の多くは死亡したという.現代でいえば脚気,または壊血病ではないかとされている〉


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秋葉原通り魔事件の死刑執行される(2022年7月26日)

2022年07月27日 | 刑事関係の話題
(事件と判決)
秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚の刑が、2022年7月26日に執行されました。
事件が起きたのが2008年6月8日。
一審(東京地裁)判決が2011年3月14日。二審(東京高裁)判決が2012年9月12日。最高裁判決が2015年2月2日で、事件から最高裁判決までは7年弱、同判決から執行までは7年強です。

(同事件の要約)
 一審判決はこの事件を以下のように要約しています。
「本件は、被告人が、歩行者天国で賑わう休日の秋葉原において、横断歩道にトラックを突入させて通行人をはね、その直後、トラックから降りて、ダガーナイフを手にして、通行人らを次々と突き刺すなどして、7名の命を奪い、10名に傷害を負わせたという、殺人、殺人未遂(殺人未遂の被害者は11名)等の事案である。」
 この事件の性質。
 「白昼の大都会で、それまで一面識もない多数の通行人に対する無差別殺傷事件」
 以上のような事件で責任能力にも問題がない以上、一審判決は死刑であり、高裁、最高裁もこれを維持したという経過です。

(児童虐待、幼児性の残存)
 一審判決は、「犯行に至る経緯、背景事情等」という表題のもと、次のような母親の児童虐待を認定しています。
「被告人は、昭和57年、青森県で二人兄弟の長男として出生した。被告人の幼少期から両親の夫婦仲は良くなく、母親は、父親に対する不満を被告人に対してぶつけることがたびたびあった。例えば、屋根裏に閉じこめたり、窓から落とすようなまねをしたり、食事をちらしの上にあけて食べさせたことなどがあった。」
 その後、中学での成績優秀であったので高校は地元の進学校に入学したが、高校での成績は芳しくなかったようです。そのあとのエピソードが気になりました。
〈母親は被告人が特定の名門大学へ進学するように望み、合格すれば車を買ってあげると約束していたが、被告人は、高校での成績は芳しくなく、別の大学への進学を希望したところ、車は買わないということになり、被告人は、「大学に行ったら車を買ってくれる」という約束を母親が反故にしたことへの反発から大学への進学自体を辞めることにし、ちょっと遊びに行くくらいの軽い気持ちから、岐阜県にある自動車関係の短期大学に進学した。同校は、自動車整備士の資格が取得できる学校であったが、被告人は、父親が奨学金を受領したのに被告人に渡さなかったことへのあてつけとして資格を取得せずに卒業した。〉

 大学へ進学せず、自動車関係の短期大学に進学したこと、資格もとらずに卒業したことは、いずれも両親へのあてつけです。自らの進路に関することであるのに、親のことを理由としてマイナス方向に自らを向かわせてしまうのは、幼児性の表れといえます。
 なお、判決は、児童虐待の影響について次のように判示しています。
「被告人は、前記のとおり、幼少期に母親から虐待とも評価され得る不適切な養育を受け、その影響もあって、他者との共感性に乏しく、他者との強い信頼関係を築くことができなくなっていた。」

(自殺企図)
 この点は、あまり報道されていなかったような記憶ですが、一審判決では認定されていました。
「被告人は、平成18年8月ころには自殺を考えるようになり、夏季休暇の後職場に戻らず仕事を辞め、青森県内で車を衝突させて自殺するため、車で青森県に向かい、同月31日、高校時代の友人らに自殺を予告するメールを発信し、母親にもその旨電話した後、青森県弘前市内で自殺を実行しようとした。しかし、運転を誤って車を故障させてしまったために自殺は失敗し、結局は自殺を諦め、母親に連絡して実家に帰った。」
 池田小事件の犯人も自殺企図があったことから、無差別大量殺人と自殺願望、自殺企図とは関係があるのかもしれません。本件は違いますが、「人を殺せば死刑になると思った」というような動機の犯罪もあらわれてきております。このような者に対しては、死刑の抑止力は無意味となるおそれはないでしょうか。


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色川三中「家事志」文政10年7月中旬

2022年07月25日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年7月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年7月11日(文政10年)
・向利兵衛殿(叔父)が病気が全快し、ようやく店に出て来られた。
・暇を出した吉兵衛が、大町但馬屋と共に詫びに来る。但馬屋は請合いを申出た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の叔父が病気になったのは、先月5日からなので(閏6月5日条)、一ヶ月以上経ってようやく全快となりました。インフルエンザの大流行で命を落とす人もいましたので、職場復帰ができて本当に良かったです。

吉兵衛は店の従業員で、今月3日に親が来て、病気なので一両日休ませてくださいと伝えたところ、普段の行状が悪いので解雇となった人物。三中は、口入(仲介者)に連絡をしていました(7月10日条)。吉兵衛が身元保証人とともに詫びを入れてきたので、従業員として復帰となるかもしれません。

1827年7月12日(文政10年)
雨。用多く、万事略記す。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
三中にしては珍しく、非常に短い日記。とても忙しいときは、日記を書かないか、短い日記となります。

1827年7月13日(文政10年)
間原、隣家、木ノ下、叔父の家が新盆。
神龍寺に提灯大八一つ、ろうそく二十、布施百銅、施餓鬼百銅を遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦の7月13日となり、お盆です。三中の親しい間柄だけでも四家がこの一年でどなたかが亡くなり、新盆を迎えています。
神龍寺は色川家の菩提寺。三中の墓もこの寺にあります。

神龍寺

曹洞宗。 神龍寺(じんりゅうじ)は室町時代の天文元(1532)年開山と伝えられる。 江戸時代に土浦藩主土屋家の菩提寺となり庇護された。境内には火除けの力があるとされる...

土浦探訪



1827年7月14日(文政10年)
風静かにして天朗。昨日昼より晴れる。
天候不順であるものの米は豊作の模様。仙台辺りから来たものに聞いても、仙台辺りも誠に豊作とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先月下旬に、「もう30日以上も雨がないが、春には多雨であったので、田の出来は良い。」と述べていましたので(閏6月28日条)、その予測どおりとなりました。米の出来は土浦だけでなく、仙台でも良いようです。沿岸ルート(今の常磐線、常磐道)で仙台を行き来する人からの情報でしょう。

1827年7月15日(文政10年)
朝、仏参す。新宅へも参り、先祖様の日ゆえ、いまもって参り候。
#色川三中 #家事志
(コメント)
お盆です。「先祖様の日」であり、朝から仏参を欠かさない三中です。

1827年7月16日(文政10年)
明日から行商に出るため、叔父に店の運営27か条を書き残しておいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この年の5月11日から行商に回っていた三中ですが、間をそれほど空けずに、また行商に出立します。頼みの綱の従業員(与市)がおらず、留守中は叔父さんに頼まざるを得ません(この叔父さんは今年破産しています)。守るべきこと27か条書き残しているところをみると、相当の気合の入りようです。

1827年7月17日(文政10年)
暁天、行商に出発。夜、安食(茨城県かすみがうら市)宿。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商初日。行商のときは日記はごく簡潔になります。本日の出発地と宿泊先(土浦〜安食)。実際は船を使っているのでしょうが、現代では船のルートは地図上では表現されませんから、場所の参考として見てください。

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神



1827年7月18日(文政10年)
(行商中)玉里(茨城県小美玉市)安貞老宅に宿。酒肴出る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商2日目。本日の記載はこれだけ。行商を終えて帰宅するまでは、こんな感じの日記が続きます。本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っている可能性が高いですね。場所の参考として見てください。

安食の道祖神 to 小美玉市立玉里中学校

安食の道祖神 to 小美玉市立玉里中学校



1827年7月19日(文政10年)
(行商中)玉造(茨城県行方市)銚子舎に宿。酒肴出る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商3日目。本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っているのかもしれません。場所の参考として見てください。

小美玉市立玉里中学校 to 玉造

小美玉市立玉里中学校 to 玉造



1827年7月20日(文政10年)
(行商中)鉾田(現茨城県鉾田市)に止宿。酒肴出る。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
前回行商時にはなかったのですが、今回の行商では「酒肴出る」との記載が出てきています。行商初日の17日から四日連続で「酒肴出る」が続いています。今回から酒肴の歓待を受けるようになったのか、前回も出たが日記に書かなかったのかはわからないのですが(そういう説明を三中はしないのです)、三中が各地で歓待を受けているのは間違いないようです。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

玉造 to 鉾田駅(バス)

玉造 to 鉾田駅(バス)





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帰村・別件の調査-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月31日-6月6日 

2022年07月21日 | 鳥海代言人業務日誌
帰村・別件の調査-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月31日-6月6日 
【はじめに】
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

【業務日誌】
1874年5月31日(明治7年)
晴。午前10時頃、当所(千葉の大沢屋)を出立し、成田山開帳の参詣に行く。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月1日(明治7年)
晴。午後、当所(千葉の大沢屋)帰着。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月2日(明治7年)
晴。当所(千葉の大沢屋)を出立し、帰村(小草畑村;現千葉県市原市)。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月3日(明治7年)その1
大田喜(現千葉県大多喜町)へ行き、泉水村(現大多喜町)の戸長に出性名書の要請をし、作成してもらった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月3日(明治7年)その2
第六大区五小区
夷隅郡泉水村
<名前略>
右のとおり取調べ候ところ、相違なく御座候。以上。
右村
明治7年6月3日 戸長
小高八右衛門 印
小草畑村
<名前略>(鳥海秀七代言人の依頼者と思われる)
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月4日(明治7年)
晴。市野々(現千葉県長南町)の正作への督促に赴く。戸長は留守のため面会できず。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月5日(明治7年)
晴。市野々(現千葉県長南町)の正作の件で判をついた者に会い、戸長の永嶋吉蔵殿に面会した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月6日(明治7年)
晴。午前11時頃村方を出立。午後6時頃、千葉旅宿(大沢屋)へ着いた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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寛政12年7月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年07月18日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年7月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年7月朔日(1日)(1800年)
朝は曇り、四つ頃より晴天、夜曇る。太陽の南中を観測する。中村氏所持の蝦夷地大絵図を一見する。(シヤマニに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は四ツ(午前10時)から日中は晴れで天候もよく、太陽の南中も観測できました。南中観測は緯度計測のためです。シヤマニ(様似)に派遣されていた中村小市郎は蝦夷地大絵図を所持しており、忠敬はこれを見ることの許可を得ています。忠敬の地図作りは、このような先人の業績にも助けられてのものでした。

寛政12年7月2日(1800年)その1
薄曇り、夜も同じ。朝五つ頃シヤマニ出立。海岸は砂に小石が交じり、又は大石を積むに似たる道で行路は難。海岸には高く尖った大岩を上下するところがあり、甚だ危うし。〈難路の記載ですが、長いため略〉
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年7月2日(1800年)その2
海辺や新道を行き、五つ頃ホロイヅミに着。最後の一里は夜になってしまった。終日難所続きで草鞋もことごとく切れ破れてしまった。素足になって甚だ困窮しているところへ、出迎えの提灯に出会った。地獄に仏の心地。〈後略〉
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の日記は測量日記中一番の長さで、本日の行程がいかに難所であったかを示しています。長いため全訳はブログに記載しました。

難路に苦しむ伊能忠敬 寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記 - 弁護士TKのブログ

(はじめに)今回紹介するのは、寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記です。伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、5月2...

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本日の旅程はシヤマニ(様似町)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。今の様似会所跡からえりも小学校までは約25キロです。

様似会所跡 to えりも町立えりも小学校

様似会所跡 to えりも町立えりも小学校

寛政12年7月3日(1800年)
朝より正午過ぎまで曇る。その後中晴れ、夜は晴天にて測量。(ホロイヅミに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はホロイヅミ(幌泉)に逗留。天気と夜の測量のみの記事です。昨日の疲れを癒やしたのでしょうか(昨日はこの測量旅行一の難路の記事)。幌泉町は現在えりも町といいますが、これは合併によるものではなく、改称によります(1970年改称)。森進一の「襟裳岬」は1974年のヒットなので、歌の影響というわけではなさそうです。

寛政12年7月4日(1800年)
朝五つ後まで曇天、それより中晴れ、夜曇天、夜半後より雨。朝五つ頃出立。海辺を半里ほど行き、新開山道へ入る。中食をとるところまでは、多少上下はあるけれども、平地とさして変わりはない。
その後は山坂多く難所。サル川等の大川を三つ越えて、谷あいのサルルに七つ半後に着。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は幌泉(えりも町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。グーグルマップでは約27キロ。様似から幌泉に至る道も難所だらけでしたが(7月2日条)、本日も難所でした。この難所は猿留山道として国指定史跡となっています。

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局



《猿留山道(さるる・さんどう)は、寛政十一年(西暦1799年)に江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道(当時の全長は約30キロメートル)の一つである。》
(えりも町ホームページから)。

郷土資料館「ほろいずみ」・水産の館| 国史跡 猿留山道(さるる・さんどう)

郷土資料館「ほろいずみ」・水産の館



寛政12年7月5日(1800年)
朝小雨、五つ半過ぎより少晴れ、九つ頃より七つ前までまた小雨、夜は曇天。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日はサルルに逗留ということもあり、簡素な記事です(忠敬の日記にありがち)。昨日の旅程ですが、襟裳岬をショートカットしており(グーグルマップ参照)、測量していません。伊能図に記入されている襟裳岬周辺の測量は、忠敬が測量したものではありません。

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局


寛政12年7月6日(1800年)
朝は曇り、午の刻は薄曇り。太陽の南中を観測。六つ半頃まで曇る、五つ前より晴れ。夜、句陳(こぐま座)、奎九(カシオペア座にある星)まで測る。八王子同心の頭、原半左衛門殿の手付三人の衆と同宿。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
八王子千人同心の原半左衛門については、6月21日条でも言及されています。原半左衛門は千人頭で、この年(寛政12年)、弟•新助と共に千人同心の子弟を100人を率いて蝦夷地に渡ってきました。


寛政12年7月7日(1800年)
朝から晴れる、午の刻に太陽の南中を観測。午後より曇る。前夜深更まで測量をしたので、本日も(サルルに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もサルル(猿留)に逗留で同所四泊目。前夜深更まで測量をしたためです。測量、天体観測、データの整理に時間を費やしており、遊んでいる様子が全くありません。忠敬はこの事業に心血を注いでいますし、好きだからここまでやれるのでしょうが、チームメンバーの他の四人は大丈夫でしょうか…と心配になるほどです。

寛政12年7月8日(1800年)
朝四つ頃まで曇る、その後晴天、七つ後より薄曇り、暑気強く夜曇天。朝六つ後出立し、新開山道を行く。ルベシベツという山中で中食。七つ頃ビロウに着。同所の御詰合は支配勘定格三浦善蔵殿及び御小人目附田口久治郎殿である。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ビロウ(広尾町)。今の日高目黒郵便局から広尾町会所前までは約22キロです。チーム伊能の出立は朝五つ(午前8時)が多いのですが、本日は朝六つ(午前6時)といつもより早い出立。サルルに四泊もしたんだから、朝早くに出るぞ!と言わんばかりの早い出立です。

日高目黒郵便局 to 会所前

日高目黒郵便局 to 会所前



寛政12年7月9日(1800年)
朝曇天、四つ頃より終日雨、夜も同じ。
(ビロウに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はビロウ(広尾町)に逗留。四ツ(午前10時)から終日雨と天気が悪く、天体観測もできず。忠敬の不機嫌さが伝わってくるような日記の短さです。
昨日の日記で「新開山道を行く」とあるのは、幕府が新しく道路整備をした道を通ったということです。馬が通れるように山道を整備していったのです。幕府が東蝦夷地を直轄としたのは、忠敬が蝦夷地を訪れる前年のことですから、文字どおりできたての道だったはずです。

寛政12年7月10日(1800年)
朝に雨止み霧深し。昼後より少晴れ、後々小雨、七つ後より少晴れ。5月17日付の伊能三郎右衛門及び大川治兵衛殿の江戸からの書状が届いた。夜、測量。
(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「伊能三郎右衛門」は伊能忠敬の長男(伊能景敬)のこと。「伊能三郎右衛門」は伊能家の当主の名のりです。それにしても、江戸からの手紙がきっちり蝦夷地まで届くというのは、スゴいことです。そういうシステムがちゃんと出来上がっていたのですね。


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調査編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月29日-30日 

2022年07月14日 | 鳥海代言人業務日誌
調査編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月29日-30日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月29日(明治7年)その1
晴。午前8時頃裁判所へ出頭。着御届を提出して控えていたが、呼び込みがない。午後3時ころ、「お聞きしたいのですが。」と言いながら、聴訟の近くに参ったところ、「鳥海秀七!」とお呼立があり、また、「羽原利三郎、吉崎久兵衛!」とお呼立があった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月29日(明治7年)その2
聴訟に入ったが、御掛様はいらっしゃらない。「御掛様は先ほどまでいらっしゃったのだが、その方を呼び立てれば、相手方がおらず、相手方を呼び立てれば、その方がいなかったのだ。これ、甚だ不都合である。本日はもう遅いので、明朝原告・被告そろって出頭されたい。」と申し渡された。宿に下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その1
晴。午前8時頃代書人と共に、裁判所へ出頭、着頭帳に記入。午後3時ころ、原告・被告ともお呼び込みがあったので、聴訟に入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その2
御掛様が戸長の平野長平に、「戸籍帳は持参しておるか。」とお尋ねになる。
平野戸長が戸籍帳を差し出すと、御掛様はこれをご披見になられ、「太九郎の祖父太右衛門の代の戸籍帳及び当代の戸籍帳は持参されているが、父の保右衛門の代の戸籍帳を持参していないではないか。」と仰る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その3
御掛様が「これでは印形と照らし合わせてみることができぬぞ。」と言われると、被告代言人両名と平野戸長は、「証文にあります印形は全く見覚えのないものでございます」と申立てた。
私は、「平野戸長は、私が村に行って調べたときには、名前調書を出してくれたのです。今になって保右衛門の戸籍帳を持参しないというのは、相手方の主張に不都合だからではないのですか。」とすぐさま反論した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌  

1874年5月30日(明治7年)その4
御掛様は、私に向って問いただした。「先般平野戸長がそなたに名前調書を差し出したというが、どのように取り調べたのか」。
私は、「法号を見て俗名を取調べたうえで差し出しました。」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その5
御掛様が、被告代言人両名に対して「そなたらも証文にある印形は見覚えがないというのか」とお尋ねになると、両人は、「全く見覚えがござません。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その6
羽原代言人は、さらに「原告人が不実の取り計らいをしたのではありませんか。お上を偽っているのでございます。」と付け加えた。
私「原告がお上を偽ったというのですか。そのようなことを主張されるのであれば、その訳を伺いましょう。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その7
このやり取りを見かねた御掛様は「両人ともそのような勝手な主張は差し控えよ」ととめられた。そして、「印形の件は、原告人の方で民事の訴状は取り下げて、断獄(刑事係)に吟味願いを出すべきである。」と痛いことをいわれる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その8
御掛様は被告代言人に、「被告清四郎を出頭させよ。いつ出頭させることができるか。」と仰る。吉崎代言人は、「6月10日までには」と回答した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その9
御掛様は「本日から10日も先ではないか。あまり延期するのも問題である。できるだけ前倒ししていただきたい。」と仰られ、6月6日までの猶予とすること、延期願いを裁判所に提出せよとご指示された。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その10
また、御掛様は、「被告清四郎本人が出頭したからには聴訟課で取り調べた上で、断獄に回す。」と仰られ、来る6月7日に出頭するようにと告げた。
午後3時頃宿へ帰った。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その11
後で聞いた話だが、原告・被告とも聴訟から下がった後に、平野戸長だけ呼び込みがあり、御掛様から6月7日までに保右衛門の戸籍帳を持参するようにとの厚き御説諭がなされたということである。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)







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色川三中「家事志」文政10年7月上旬

2022年07月11日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年7月上旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年7月1日(1827年)
・処暑。残暑強し。刀祢川(利根川)渇水す。
・旅の者から「どこの国でも病人は多い」と聞く。今日葬礼四つ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
閏6月下旬は、①雨が降らず暑さが続く、➁疫病で死者が多い、というテーマで綴られていましたが、その傾向は7月にはいってからも続いています。大河の利根川が渇水。それと〈今日葬礼四つ〉とボソッと書かれているのが怖い。

文政10年7月2日〜4日(1827年)
(三中殿は本日日記をお書きになりませんでした。理由については存じあげません。再開は5日になります)
#色川三中 #家事志

1827年7月5日(文政10年)
天社日。昨夜の丑の刻、地多いに震う。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「天社日」は、天赦日ともいい、最上の大吉日とされています。三中はこの日は必ず日記に書いています。しかし、特に何か良いことがあったという日にはなっていません。今日の記事も地震記録です。百神が天に昇り、天が万物の罪を赦す日といわれているのですが…。

1827年7月6日(文政10年)
下男の吉兵衛の親が3日に来て、「吉兵衛は病気になりまして一両日休みをいただきたい」旨言ってきた。病気であるならば致し方ない。しかし、平常の素行が問題であったので、この際吉兵衛に暇を出した。今年は下男が悉く宜しくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
会社を欠席するのに親が連絡してくるということが現代でもあるそうですが、江戸時代でも親が連絡係になることはあったのですね。電話もスマホも無い時代ですから、致し方なくはあるのですが…。吉兵衛は病休の連絡を親を介して行ったのですが、日頃の行いの悪さを理由に解雇されてしまいました。


1827年7月7日(文政10年)
曇り。風静かにして、細雨濛々。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の日記はたったこれだけです。
三中の日記は長いものがほとんどで、一行で終わるものはほとんどないのですが
5日の記事といい、今日の記事といい、一行で終わってしまうのは珍しいことです。

1827年7月8日(文政10年)
七つ(午後4時)過ぎから雲が出てきて、少々雨が降った。雨らしい雨は40日以上降らなかったので、至るところで雨乞いをしていた。乾燥し、畑まで赤くなる。大豆の収穫は半分ほどである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日照りが続いていましたが、ようやく少し雨が降りました。畑は乾燥して、土が赤くなるほどです。大豆の収穫が例年の半分以下という不作。閏6月28日に「畑の方は少々困った出来となりそうだ。」と言っていたことが、現実となってしまいました。

1827年7月9日(文政10年)
四万六千日の月が明るい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も一行記事。「今日の月は明るい」という意味です。「四万六千日」とは、7月9日、10日のことです。

四万六千日とは - コトバンク

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 四万六千日の用語解説 - 東京都台東区の浅草寺の本尊である観世音菩薩の縁日のうち,特に多くの功徳が得られるとされる功徳日のこと...

コトバンク


東京都台東区の浅草寺の本尊である観世音菩薩の縁日のうち,特に多くの功徳が得られるとされる功徳日のことで,毎年 7月9,10日がその日にあたる。もとは「千日詣り」といい,本来はこの日に参詣すると 1000日参詣したのと同じ功徳が得られるとされていたが,享保年間(1716~36)頃から 4万6000日参詣したのと同じ功徳があるとされ,「四万六千日」と呼ぶようになった。

1827年7月10日(文政10年)
・吉兵衛の事について、今朝田中清吉に人を遣わした。隣主人と相談した上で決めたことである。
・藤井央様は、一昨年に町奉行の御役目を終えられ、江戸に引っ越されたが、また町奉行の御役目を仰せつけられ、本日江戸から下られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
吉兵衛は店の従業員で、今月3日に親が来て、病気なので一両日休ませてくださいと伝えたところ、普段の行状が悪いので解雇となった人物。田中清吉に連絡したのは、おそらく彼が口入(仲介者)だからであり、クレームを言い、今後の是正を求めるためのものなのでしょう。


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侮辱罪厳罰化の影響(インターネット以外)

2022年07月10日 | 地方自治体と法律
(はじめに)
 先般の通常国会で刑法が改正され、侮辱罪が厳罰化(法定刑の上限引上げ)されました(7月7日施行)。
 改正のきっかけとなったのはインターネットでの誹謗中傷による事件でした。インターネット上での侮辱行為について、今後十全よりも検挙が多くなることは容易に予想できますが、インターネット以外での侮辱行為についての影響はどうなるでしょうか。

(影響はインターネットでの侮辱行為に留まらない)
 法務省では、今回の侮辱罪の法定刑の引き上げについてホームページ上でQ&Aを掲載しています。
その中で、「引上げの必要性」について次のように述べています。
「インターネット上の誹謗中傷が特に社会問題となっていることを契機として、誹謗中傷全般に対する非難が高まると共に、こうした誹謗中傷を抑止すべきとの国民の意識が高まっている。近時の誹謗中傷の実態への対処として、侮辱罪の法定刑を引き上げ、厳正に対処すべきとの法的評価を示し、これを抑止するとともに、悪質な侮辱行為に対して厳正に対処することが必要」
 <注目ポイント>
「インターネット上の誹謗中傷」が契機となっていると冒頭で書かれていますが、その後の記載は、インターネットに限定されていないということです。
 国民の意識が高まっているのは、「誹謗中傷全般に対する非難」であり、「誹謗中傷を抑止すべき」と書かれており、ここでは「インターネット上での」という限定はされておりません。

(侮辱罪での検挙事例)
 このことを裏付けるのが、法務省Q&Aにも引用されている「侮辱罪の事例集」です。これは侮辱罪の法定刑関係を審議した法制審議会刑事法部会の会議で配布された資料で、「令和2年中に侮辱罪のみにより第一審判決・略式命令のあった事例」というタイトルがつけられています。30事例が掲載されており、インターネット上での犯罪が多いのですが、そうでない事案が8件あります。
起きた場所に注目しましと、①集合住宅で起きたもの2件、②商業施設で起きたもの2件、③路上又は道路に面した場所で起きたもの4件、④駅で起きたもの1件です。
 侮辱行為の内容についても紹介しておきます。
ア 集合住宅で起きた事案では、「今、ほらちまたで流行りの発達障害。だから人とのコミュニケーションがちょっとできない。」と被害者に対し発言したことが侮辱罪に問われています。
イ 商業施設でおきたものでは、視覚障害者に対し、「おめえ、周りがメインのやったらうろうろするな」との発言。
ウ 路上においては、大声で「くそばばあが。死ね」との発言。
エ 駅で起きたものでは、「ご注意 ○○(被害者名) 悪質リフォーム工事業者です」などと記載した紙片1枚を貼付した行為。
 以上のような行為は、日常でも見かけそうなものですが、これらが令和2年中に侮辱罪として裁判所から認定され、刑(いずれも科料9000円)を課されています。
 これらのケースがなぜ検挙に至ったのかは、この事例集からはわからないので、どのような場合に警察が検挙しようとするのかは読み切れないのですが、侮辱罪の法定刑が引き上げられたことにより、被害者が被害を訴えれば警察は動きやすくなったことは確かです。

(現行犯での逮捕?)
 法定刑が引き上げられたことにより、現行犯逮捕の法律上の制限がなくなりました。
 法務省Q&Aでは、「現行犯逮捕について、これまでは、犯人の住居若しくは氏名が明らかでない場合又は犯人が逃亡するおそれがある場合に限り現行犯逮捕をすることができましたが(刑事訴訟法217条)、法定刑の引上げに伴い、その制限がなくなります。」とあるとおりです。
 インターネットでの侮辱行為は現行犯では逮捕はまず無理ですが、インターネット上以外での事案については、その場で行われていることですから、現行犯逮捕がありえます。
 現行犯逮捕が濫用されるのではないか?との点が国会で質問されたこともあり、法務省は次のような見解を示しています。
「現行犯逮捕については、逮捕時に、正当行為などの違法性を阻却する事由がないことを含めて犯罪であることが明白で、かつ、犯人も明白である場合にしか行うことができません。仮に「侮辱」に該当するとしても、表現行為という性質上、違法性を阻却する事由の存否に関して、憲法で保障される表現の自由との関係が問題となるため、現行犯逮捕時に、逮捕時の状況だけで正当行為でないことが明白とまでいえる場合は、実際上は想定されません。
 したがって、侮辱罪の法定刑の引上げにより、正当な言論活動をした者が逮捕されるといった不適切な運用につながるものではありません。」
国会では、政治家へのヤジなどは侮辱罪にあたるのではないかという点が質問されましたので、法務省は「正当な言論活動をした者が逮捕されるといった不適切な運用につながるものではありません。」と政治への言論については影響はないことを明言しています。ただ、「正当な言論活動」とは何かというのは相対的なものであり、戦前の警察・検察の検挙の仕方を見ると絶対安心とまではいえないとはいえます。
 その点をおくとしても、法務省見解からすれば、「正当な言論活動」ではないものについては現行犯逮捕がありうるような気がします。
 先ほど紹介した令和2年の侮辱罪検挙事例でも、被害者から110番通報し、警察は被疑者に対して任意同行をかけ、警察で話を聞くという対応をするでしょうが、それを拒否したりすると、現行犯逮捕をする可能性は十分あるような書きぶりです。
 
(おわりに)
 以上、インターネット以外でも今回の侮辱罪の法定刑引き上げは影響があることについて紹介しました。

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調査編③-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

2022年07月07日 | 鳥海代言人業務日誌
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月21日(明治7年)
休庁。裁判所が休みであり、千葉の宿にて他用に対応する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月22日(明治7年)
5月19日の期日の際に、「23日に出廷されたい」旨指示されているので、本日も千葉の宿にて待機。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月23日(明治7年)
晴れ。午前8時頃裁判所に出頭し、着御届を提出。午後2時ころ呼び込みとなったので聴訟に入る。
御掛様から「本日、久保村戸長は参っていないのだ。また、明日来られよ。」と言われたので、午後3時には宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月24日(明治7年)
晴。午前8時頃代書人と共に着御届を提出。午後1時頃呼び込みとなり、被告、羽原利三郎(被告太九老代言人)、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)及び久保村戸長平野長平と共に聴訟に入る。
御掛様「奥印はその方の奥印で間違いないか。」
戸長「この奥印は全然知りません。その日は県の方に出張しておりました。」
御掛様「県に出張していたのは、何月何日なのか。」
戸長「昨年の暮れ12月18日から11日間県の方におり、奥印をしたとされる日には留守でございました。」
御掛様「印形はもっておるか。」
戸長が印形を差し出し、御掛様は証拠の奥印と対照させると、「奥印は戸長のものではないな。」とおおせられる。
私「奥印のことはこれまで問題となっておりませんでした。先般の判事様お直々の御席御調べの時にも、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)も印形のことは相違ないと申し上げていたのではないですか。それゆえ、印形が問題になるとは全く思っておりませんでした。」
吉崎久兵衛「確かに印形は相違ないと申上げましたが、それは被告のものについてでありまして、奥印について申し上げたものではございません。」
御掛様「戸長に聞くが、太九老の戸籍の方はどうなっているのか。」
戸長「その点につきましては、先般差し出しました調書のとおりでございます。」
御掛様「人別戸籍帳は持参しておるのか。」
戸長「申し訳ございません。持参せずにおります。」
御掛様「早々に取り寄せよ。何日までに取り寄せられるか。」
戸長「28日までには取り寄せます。」
御掛様「では、双方とも来る28日に出廷せよ。」
これにて本日のやり取りは終了したので、原告・被告とも宿へ下がった。
高橋紋兵衛殿が宿に見舞いに来られたので、酒を出し歓待した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月25日(明治7年)
晴。午前8時頃梅松屋に行き、高橋紋兵衛殿に面会する。被告清四郎の件等について話したが、手間取ったので、宿へ帰ったのは午前12時頃となった。午後2時ころ、村に戻るため千葉を出立。途中午後7時頃鶴舞に到着し、同所にて泊まる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月26日(明治7年)
晴。午前9時頃村方に戻る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月27日(明治7年)
記載なし。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月28日(明治7年)
晴。午前10時頃村方を出立し、午後7時頃千葉の大沢屋に着。被告らの代言人や平野戸長が本日着御届を提出した。代書人の田辺長四郎殿から教えてもらった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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寛政12年6 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年07月04日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年6 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年6月21日(1800年)その1
朝から七つ頃まで曇天、夜は晴曇り。
朝六つ半白老を出立。海辺一里半ほどは砂地で、歩みがたし。そこからは新道でコイトイまで4里11町の間に休み小屋が二軒ある。同所にて中食。同所よりユウブツまで4里12町。七つ半後ユウブツに着。夜晴間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年6月21日(1800年)その2
ユウブツの詰合は御小人目附高橋治太夫殿と原新介殿である。原殿は八王子千人同心の頭原半左衛門殿の弟である。医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会。ユウブツには蝦夷人の集落はなく、人家は会所も含めて四軒あるとのこと。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年6月21日(1800年)その3
会所の側にユウブツ川が流れている。橋はなく、舟渡し。この川はシコツトウより流れており、西蝦夷のイシカリに行くには、シコツから川を下れば一日でイシカリ川にでて、3~4里下ればイシカリに着くという。陸行だと、イシカリ川まで二日かかるという。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白老(白老町)〜ユウブツ(勇払;苫小牧市)。今の白老会所跡から勇払会所の跡までは約38キロです。今日の日記は忠敬にしてはかなり長いものです。勇払で知識人(医師ほか)と話しをしており興が高じたのでしようか。

白老会所跡 to 勇払会所の跡

白老会所跡 to 勇払会所の跡


 なお、勇払川が支笏湖から流れているとの記載がありますが、これは間違い。勇払川はウトナイ湖から流れています。

寛政12年6月22日(1800年)
朝晴れ、五つ後地震あり。その後薄曇り、七つ頃から中晴れで夜も同じ。
(ユウブツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日も引き続きユウブツ(勇払)に逗留。昨日の記事に原半左衛門(ユウブツの詰合)の名前が出てきました。同人は八王子千人同心のトップで、この年(寛政12年)、弟•新助と共に千人同心の子弟100人を率いて蝦夷地に渡ってきました。当時から有名な話しだったのか忠敬はこのことを書き留めています。

寛政12年6月23日(1800年)
朝曇り、八つ頃より少し晴れる。
朝六つ後ユウブツを出立。海辺にて大河三か所を渡船する。七つ半後サルモンベツに着。詰合は、御徒目付の比企市郎右衛門殿である。仮家に止宿。夜測量(天体観測)を行う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はユウブツ(勇払;苫小牧市)〜サルモンベツ(門別;日高町)です。今の勇払会所の跡から日高町役場までは約35キロです。大きな川が三箇所あり、船で渡ったとあります。ユウブツの会所の側も川が流れており、橋はなく舟渡しだったと記録されており(6月21日条)、これが手始めだったのでしょう。

勇払会所の跡 to 日高町役場 本庁

勇払会所の跡 to 日高町役場 本庁


寛政12年6月24日(1800年)
曇晴れ。朝五つ後に出立。海辺六里を行く。途中アツベツ川を船で渡る。他の者は歩いて渡った。八つ過ぎにニイカツプに着。会所に止宿。詰合は御普請役大竹弥市兵衛殿であり、親切に応対いただいた。
サルモンベツとニイカツプの間のカバリには蝦夷家13~14軒あり、アツベツには蝦夷家が十軒程あるとのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルモンベツ(門別;日高町)〜ニイカツプ(新冠;新冠町)です。今の日高町役場から新冠会所跡までは約25キロです。アツベツ(厚別)川は、厚賀町と新冠町の境にある川で、忠敬だけ船で渡り、若者は歩いてわたったことが記録されています。
また、詰合の役人には親切な対応を受けています。必要最小限のことしか書かない忠敬ですが、親切に対応されたときは、忠敬はちゃんと日記に書き残しています。

日高町役場 本庁 to 新冠会所跡と3基の墓石

日高町役場 本庁 to 新冠会所跡と3基の墓石



寛政12年6月25日(1800年)
朝は晴れ、五つ後より小雨、夜は中雨。
(ニイカツプに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント) 
天気だけの短い日記。五つ(午前8時)から雨のため、仕事にならなかったということでしょうか。じっと我慢だった、天気が悪いから休みだった、いろいろと考えることができますね。

寛政12年6月26日(1800年)
朝曇り、六つ半頃晴れ、昼前より曇天、暮より曇る。朝五つ前にニイカツプを出立。海辺三里を行き、ウセナイで中食。六里半行き、七つ後ミツイシに着。詰合は御普請役元締め宮本源次郎殿である。仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はニイカツプ(新冠町)〜ミツイシ(三石;新ひだか町)。今の新冠会所跡から三石小学校までは約30キロです。

新冠会所跡と3基の墓石 to 新ひだか町立三石小学校

新冠会所跡と3基の墓石 to 新ひだか町立三石小学校

三石に詰めている役人は宮本源次郎(孝郷)。近藤重蔵と共に蝦夷地に来ており高田屋嘉兵衛の択捉航路開発の詳細を記した著『恵登呂府渡海之記』(ヱトロフ渡海記)を著しています。
ヱトロフ渡海記 は高田屋顕彰館・歴史文化資料館に収蔵されています。


寛政12年6月27日(1800年)
朝五つ後より晴れ、昼前後晴れ、八つ後より曇晴れ、七つ後より曇る。雲間に測量。(ミツイシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は三石に逗留。天気と「雲間に測量」としか書かれていない素っ気なさです。
〈三石会所について〉
三石場所が【寛政11(1799)】に幕府の直領となった際、それ以前の「運上屋を三石会所」としたもの。
 文化6(1809)の文献では、運上屋時代からある棟行11間、梁間4軒の建物に、享和3(1803)に座敷を増築した会所と、旅宿、厩舎、板蔵、渡船、漁船などがあったと記録されている。

寛政12年6月28日(1800年)
朝四つ頃まで霧深く、以後晴天。
朝六つ半頃出立。海辺三里を行き、ウラカワで中食。さらに二里行き、八つ頃ムクチに着。会所に止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はミツイシ(三石;新ひだか町)〜ムクチ(浦河町)。ムクチが、今のどこに当たるか調査すれどわからず。松浦武四郎「蝦夷日誌」では、もともとの名前は「ムコチ」で今は訛ってムコベツ(向別)になったといっているので、向別川近くにある堺町小学校を目安としました。今の三石小学校から堺町小学校までは約20キロです(海辺三里+二里なので距離はあっています)。

新ひだか町立三石小学校 to 浦河町立堺町小学校

新ひだか町立三石小学校 to 浦河町立堺町小学校


寛政12年6月29日(1800年)
朝中晴れ、四つ後より晴天。朝五つ後ムクチ出立。三里行き、シヤマニ着。詰合は御普請役の中村小市郎殿である。会所に八つ頃に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はムクチ(浦河町)〜シヤマニ(様似;様似町)。グーグルマップでは約17キロ。様似では様似会所跡が地図にも掲載されています。その所在地も〈様似町会所町1〉。地名にも〈会所〉が残っています。

浦河町立堺町小学校 to 様似会所跡

浦河町立堺町小学校 to 様似会所跡


中村小市郎は、北海道最初の官営道路ともいうべき様似山道開削の責任者で、開削後は、シャマニ会所の詰合に就任しています。なお、様似山道の南側の海岸線を通る現在の山中トンネルの愛称は「小市郎トンネル」と命名されているそうです。

(6月は29日までです)






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