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ついに清四郎出廷。法廷での発言に注目 -明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌6月7日-6月8日 

2022年08月18日 | 鳥海代言人業務日誌
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌6月7日-6月8日 
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年6月7日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。裁判所の御門脇に官員の詰所ができた。数日前規則が変わり、詰所に着頭帳へ性名を記載し、名前書を差し出す、詰所が交付する御門札がないと出入りができないことになった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月7日(明治7年)その2
出頭後、所要の手続きを経て腰掛へ控えていたところ、午後4時ころ、呼び込みがあった。聴訟に入ったが、「今日は被告の者がこないので、明日また出頭せよ。」と御掛様から仰せがあった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。午後2時ころ、原告被告とも呼び込みがあった。出頭したのは7名。私と田辺代書人。平野戸長。被告の清四郎、その代言の羽原利三郎。被告太九老の代言の吉崎久兵衛とその代書人の小倉文蔵である。一同、御掛様が待っている聴訟に入った。 
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その2
御掛様から平野戸長に「戸籍帳を持参致したであろうな。」とお尋ねがあり、戸長は戸籍帳を差し出した。御掛様はこれをお調べになり、保右衛門という記載と印があることを確認された。
御掛様から、「この印形は原告が証拠とする書面の印形と対照したのか」とお尋ねがあったので、私は、「太右衛門の実印に相違ございません。」と申しあげ、証文を差し出してご覧にいれた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その3
御掛様は「この印は、証文の印と同じ印に間違いないであろうな。」と被告や戸長の方に向かって仰せになった。平野戸長は、「保右衛門の印形に間違いございません。」と申し立てた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その4
御掛様は続いて、「保右衛門の実印はすなわち、太右衛門の実印ということで間違いあるまいな。」と仰られると、平野戸長は、「そのとおりでございます」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その5
御掛様は清四郎に向かって、「その方が清四郎本人であるか。」とお尋ねになった。
清四郎は、「本人でございます。」と答える。
「その方は父保右衛門の印形をなぜ所持致しておるのか。」と御掛様からお尋ねになる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌 

1874年6月8日(明治7年)その6
清四郎は、「保右衛門の代替わりに際しまして、保右衛門の印形が不要になりましたので、私が所持しておりました。一時の心の迷いで太右衛門の名を偽り、自宅にあった印形を用いてしまいました。このことにつき間違いございません。」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その7
「保右衛門の印形はその方が今でも所持しておるのか」と御掛様がお尋ねになると、清四郎は、「自宅にございます。」と答えた。
これを聞いて、被告太九老の代言羽原利三郎が申立てる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その8
羽原「これではっきりしました。すべては清四郎の心得違いの謀印でございます。太九老は無関係でございますので、我々の方は本日限りで御免蒙りたい。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その9
御掛様は羽原利三郎の申立てを受けて、「本件は断獄(刑事事件)へ回す必要があるな。断獄の吟味ということになれば、代言の権限ではないな。太九老本人と引き合わせることは必要とはなるがな。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その10
御掛様「太右衛門の名前を偽り、謀判をしたことは間違いないな。」
清四郎「仰せのとおり間違いございません。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その11
御掛様は私の方に向き直って、「清四郎自信が謀判と申し立てておるゆえ、訴状は願下げし、断獄(刑事事件)の吟味とすべきであるな。」と仰せになった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月8日(明治7年)その12
訴状を取り下げてしまっては金銭の請求はできなくなってしまう。
私は、「太右衛門という者は弘化4年に亡くなり、その後太右衛門という者は誰もいなくなっていたと、被告太九老は申立てておりました。証文には『太右衛門保右衛門』と記載してあり、二名の名前を記載してあります。被告太九老が書いた可能性がありますのでお調べいただきたい。」と申し上げた。

1874年6月8日(明治7年)その13
すかさず被告太九老の羽原代言人が「被告太九老が太右衛門と書いて押印したことはない。これも清四郎が謀印をしたに違いない。」と反論する。
御掛様はもう時間も遅いと思われたのだろう、これには直接答えず次のように仰られた。

1874年6月8日(明治7年)その14
被告らに対しては、「今申したことは、銘々明日には始末書を提出せよ。平野戸長もだ。」といい、私には「原告の関係では明後日10日に出頭せよ。」と仰られた。以上で本日の調べは終わり、午後4時頃に宿へ帰った。

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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帰村・別件の調査-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月31日-6月6日 

2022年07月21日 | 鳥海代言人業務日誌
帰村・別件の調査-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月31日-6月6日 
【はじめに】
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

【業務日誌】
1874年5月31日(明治7年)
晴。午前10時頃、当所(千葉の大沢屋)を出立し、成田山開帳の参詣に行く。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月1日(明治7年)
晴。午後、当所(千葉の大沢屋)帰着。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月2日(明治7年)
晴。当所(千葉の大沢屋)を出立し、帰村(小草畑村;現千葉県市原市)。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月3日(明治7年)その1
大田喜(現千葉県大多喜町)へ行き、泉水村(現大多喜町)の戸長に出性名書の要請をし、作成してもらった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月3日(明治7年)その2
第六大区五小区
夷隅郡泉水村
<名前略>
右のとおり取調べ候ところ、相違なく御座候。以上。
右村
明治7年6月3日 戸長
小高八右衛門 印
小草畑村
<名前略>(鳥海秀七代言人の依頼者と思われる)
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月4日(明治7年)
晴。市野々(現千葉県長南町)の正作への督促に赴く。戸長は留守のため面会できず。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月5日(明治7年)
晴。市野々(現千葉県長南町)の正作の件で判をついた者に会い、戸長の永嶋吉蔵殿に面会した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年6月6日(明治7年)
晴。午前11時頃村方を出立。午後6時頃、千葉旅宿(大沢屋)へ着いた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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調査編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月29日-30日 

2022年07月14日 | 鳥海代言人業務日誌
調査編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月29日-30日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月29日(明治7年)その1
晴。午前8時頃裁判所へ出頭。着御届を提出して控えていたが、呼び込みがない。午後3時ころ、「お聞きしたいのですが。」と言いながら、聴訟の近くに参ったところ、「鳥海秀七!」とお呼立があり、また、「羽原利三郎、吉崎久兵衛!」とお呼立があった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月29日(明治7年)その2
聴訟に入ったが、御掛様はいらっしゃらない。「御掛様は先ほどまでいらっしゃったのだが、その方を呼び立てれば、相手方がおらず、相手方を呼び立てれば、その方がいなかったのだ。これ、甚だ不都合である。本日はもう遅いので、明朝原告・被告そろって出頭されたい。」と申し渡された。宿に下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その1
晴。午前8時頃代書人と共に、裁判所へ出頭、着頭帳に記入。午後3時ころ、原告・被告ともお呼び込みがあったので、聴訟に入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その2
御掛様が戸長の平野長平に、「戸籍帳は持参しておるか。」とお尋ねになる。
平野戸長が戸籍帳を差し出すと、御掛様はこれをご披見になられ、「太九郎の祖父太右衛門の代の戸籍帳及び当代の戸籍帳は持参されているが、父の保右衛門の代の戸籍帳を持参していないではないか。」と仰る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その3
御掛様が「これでは印形と照らし合わせてみることができぬぞ。」と言われると、被告代言人両名と平野戸長は、「証文にあります印形は全く見覚えのないものでございます」と申立てた。
私は、「平野戸長は、私が村に行って調べたときには、名前調書を出してくれたのです。今になって保右衛門の戸籍帳を持参しないというのは、相手方の主張に不都合だからではないのですか。」とすぐさま反論した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌  

1874年5月30日(明治7年)その4
御掛様は、私に向って問いただした。「先般平野戸長がそなたに名前調書を差し出したというが、どのように取り調べたのか」。
私は、「法号を見て俗名を取調べたうえで差し出しました。」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その5
御掛様が、被告代言人両名に対して「そなたらも証文にある印形は見覚えがないというのか」とお尋ねになると、両人は、「全く見覚えがござません。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月30日(明治7年)その6
羽原代言人は、さらに「原告人が不実の取り計らいをしたのではありませんか。お上を偽っているのでございます。」と付け加えた。
私「原告がお上を偽ったというのですか。そのようなことを主張されるのであれば、その訳を伺いましょう。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その7
このやり取りを見かねた御掛様は「両人ともそのような勝手な主張は差し控えよ」ととめられた。そして、「印形の件は、原告人の方で民事の訴状は取り下げて、断獄(刑事係)に吟味願いを出すべきである。」と痛いことをいわれる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その8
御掛様は被告代言人に、「被告清四郎を出頭させよ。いつ出頭させることができるか。」と仰る。吉崎代言人は、「6月10日までには」と回答した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その9
御掛様は「本日から10日も先ではないか。あまり延期するのも問題である。できるだけ前倒ししていただきたい。」と仰られ、6月6日までの猶予とすること、延期願いを裁判所に提出せよとご指示された。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その10
また、御掛様は、「被告清四郎本人が出頭したからには聴訟課で取り調べた上で、断獄に回す。」と仰られ、来る6月7日に出頭するようにと告げた。
午後3時頃宿へ帰った。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月30日(明治7年)その11
後で聞いた話だが、原告・被告とも聴訟から下がった後に、平野戸長だけ呼び込みがあり、御掛様から6月7日までに保右衛門の戸籍帳を持参するようにとの厚き御説諭がなされたということである。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)







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調査編③-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

2022年07月07日 | 鳥海代言人業務日誌
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月21日(明治7年)
休庁。裁判所が休みであり、千葉の宿にて他用に対応する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月22日(明治7年)
5月19日の期日の際に、「23日に出廷されたい」旨指示されているので、本日も千葉の宿にて待機。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月23日(明治7年)
晴れ。午前8時頃裁判所に出頭し、着御届を提出。午後2時ころ呼び込みとなったので聴訟に入る。
御掛様から「本日、久保村戸長は参っていないのだ。また、明日来られよ。」と言われたので、午後3時には宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月24日(明治7年)
晴。午前8時頃代書人と共に着御届を提出。午後1時頃呼び込みとなり、被告、羽原利三郎(被告太九老代言人)、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)及び久保村戸長平野長平と共に聴訟に入る。
御掛様「奥印はその方の奥印で間違いないか。」
戸長「この奥印は全然知りません。その日は県の方に出張しておりました。」
御掛様「県に出張していたのは、何月何日なのか。」
戸長「昨年の暮れ12月18日から11日間県の方におり、奥印をしたとされる日には留守でございました。」
御掛様「印形はもっておるか。」
戸長が印形を差し出し、御掛様は証拠の奥印と対照させると、「奥印は戸長のものではないな。」とおおせられる。
私「奥印のことはこれまで問題となっておりませんでした。先般の判事様お直々の御席御調べの時にも、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)も印形のことは相違ないと申し上げていたのではないですか。それゆえ、印形が問題になるとは全く思っておりませんでした。」
吉崎久兵衛「確かに印形は相違ないと申上げましたが、それは被告のものについてでありまして、奥印について申し上げたものではございません。」
御掛様「戸長に聞くが、太九老の戸籍の方はどうなっているのか。」
戸長「その点につきましては、先般差し出しました調書のとおりでございます。」
御掛様「人別戸籍帳は持参しておるのか。」
戸長「申し訳ございません。持参せずにおります。」
御掛様「早々に取り寄せよ。何日までに取り寄せられるか。」
戸長「28日までには取り寄せます。」
御掛様「では、双方とも来る28日に出廷せよ。」
これにて本日のやり取りは終了したので、原告・被告とも宿へ下がった。
高橋紋兵衛殿が宿に見舞いに来られたので、酒を出し歓待した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月25日(明治7年)
晴。午前8時頃梅松屋に行き、高橋紋兵衛殿に面会する。被告清四郎の件等について話したが、手間取ったので、宿へ帰ったのは午前12時頃となった。午後2時ころ、村に戻るため千葉を出立。途中午後7時頃鶴舞に到着し、同所にて泊まる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月26日(明治7年)
晴。午前9時頃村方に戻る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月27日(明治7年)
記載なし。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月28日(明治7年)
晴。午前10時頃村方を出立し、午後7時頃千葉の大沢屋に着。被告らの代言人や平野戸長が本日着御届を提出した。代書人の田辺長四郎殿から教えてもらった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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調査編②-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月19日-20日 

2022年07月01日 | 鳥海代言人業務日誌
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月19日-20日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月19日(明治7年)その1
晴れ。午前8時ころ裁判所に出頭。数日前から改正があったようである。
・代書人と同道しないと受付で差出書を受け取らない。
・受付の前で帳面に代書人が着頭を記載する。
・その後、差出書を提出する。
このようなことになったということだ。 
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月19日(明治7年)その2
午後1時ころ、呼び込みがあったので、代書人同道で聴訟に入る。
潮田様がおいでになり、「出頭いただいた事件の御掛りは、本日病気で出勤していないので、明日来られたい。」とのお申し渡し。宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月20日(明治7年)その1
雨。代書人と同道し、裁判所に出頭。着御届を提出し、午前11時ころ呼び込みとなったので、代書人同道で聴訟に入る。すぐには、御掛様からお呼び立てがなかったので、12時ころ、久保村戸長から受け取った調書を御掛様に提出した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月20日(明治7年)その2
私の方で久保村で調べたが、未だ調べがつかないものもある。
 印形については、久保村の戸長の方で調べても判然としなかった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月20日(明治7年)その3
村の方で書面にしていただけなかったものがある。 
・保右衛門の名前に相違ないとは戸長の方でいうものの、書面を提出してくれない。
・万延2年の太右衛門を名宛人とする古証文が太右衛門本人作成のものであること。久保村の方では「そのころ太右衛門というものがいた。間違いない。」とはいうが、書面は提出してくれなかった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月20日(明治7年)その4
久保村での調査の事情を御掛様に申しあげたところ、「それでは久保村の戸長長平を呼べばわかるな。呼立願いを書面で提出せよ。」と御掛様は仰られる。呼出願いを作成し、午後2時ころ提出。御掛様は、「明後日の23日に出頭せよ。」と仰られた。午後3時ころ宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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調査編①・明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月14日-18日 

2022年06月09日 | 鳥海代言人業務日誌
調査編①・明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月14日-18日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月14日(明治7年) 
所用をこなし、午前12時に出立し、帰村。午後9時ころ帰宅。但し、少雨。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年) その1
久保村(現・千葉県市原市)へ行き、旧名主の御園治郎三殿に面会。万延2酉年(1861年)2月に、同村弥治右衛門から太右衛門へ地所を譲渡しており、その書面に御園治郎三殿の名前と奥印があることを調査してあったので、そのことについて尋ねた。
御園殿は、「その頃、保右衛門だったか、太右衛門だとかいう者がおったのは間違いない」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年)その2
まさにその保右衛門、太右衛門を調査に来たのだ。御園殿に、問題となっている証文の印形ことを聞いてみた。
御園殿「文久元年(1861年)の人別帳には、太右衛門、保右衛門との記載がある。保右衛門の名前で押印のあるものは、本件右衛門の実印に相違ない。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年)その3
これは耳寄りな情報である。そこで、その旨を書面にしていただけないかお願いしてみたのだが、ご承諾いただけない。やまなく戸長(平野長平殿)に赴いた。お願いしのは、「弘化4年に太右衛門が死亡した後、村内に太右衛門はいない」という被告側の話が正しいかどうかでる。戸長は、「明日までにしらへておく」と言われた。夜、帰宅。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月16日(明治7年) その1
再び、久保村(現・千葉県市原市)の戸長を訪れる。午後3時ころ、御園治郎三殿宅
へも行く。「戸長とお二人で、示談をお取り計らいいただけませんでしょうか」と提案をしたが、できず。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月16日(明治7年) その2
平野長平区長の姓名取調書を午後8時ころ受け取ることができた。祖父太右衛門は弘化4年に死亡し、その子保右衛門は明治2年に死亡。太九老は保右衛門の子であるが、もとは良助や太一郎とも名乗っていたという内容である。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月17日(明治7年) 
所用で、山小川村から賀茂村へ行く。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月18日(明治7年) 
午前8時頃出立。山小川村の斎藤殿を途中訪れたが、出張で不在だったので、出張先まで足を伸ばした。午前11時頃同所出立。午後7時頃千葉大沢屋(定宿)へ着。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)



 



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進まぬ法廷編⑦-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月13日

2022年06月02日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月13日(明治7年) その1
午前8時ころ裁判所へ出頭する。被告清四郎及び被告太九老両名の件について着御届提出し、待機。午後1時頃呼込みとなり聴訟へ入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月13日(明治7年) その2
御掛様が、「被告清四郎から、これこのとおり始末書を提出してきた。この内容からは、原告の訴状は願下げし、新たに断獄(刑事事件)の吟味をお願いすべきであるな。」と仰せになるので、何事かと思い、被告代言人作成の始末書を御掛様から拝借し、全文書き写した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌 

1874年5月13日(明治7年) その3
被告代言人吉崎久兵衛作成の始末書は、
原告からは計275円の請求をされているが、これは二重請求ではないかというものであった。被告清四郎は困窮していたので、自分名義で借金したあと、同姓の太九老の名前を無断で借りて、前の借金を書き換えたものであり、原告の請求は同じものだというのだ。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その4
このようなことは全く聞いておらず、困惑するばかりだ。
被告太九老の羽原代言人も、「この始末書のとおりでして、太九老にとって本件の訴えは何が何だかわからないのです。これまで原告から掛合(交渉)もありませんでした。太九老への訴えは、清四郎のとダブっており、到底納得がいきません。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月13日(明治7年) その5
これに対して御掛様は、「原告は被告清四郎と話しをしたが埒が明かなかったので訴えに及んでいる。証文があったのだから、二重請求だとはいえまい。今日、太九老が来て始めて事情がわかったのだから、原告が悪いとはいえまい。」と仰る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年) その6
被告太九老羽原代言人「証文を確認させていただきたい。」
御掛様「証文の文面は訴状に書かれているとおりであろう。」
羽原代言人「印形を確認したいのです。」
御掛様「原告は証文を今持っているなら、提出されたい。」
私は証文を持参していたので、御掛様に提出。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その7
羽原代言人は御掛様から証文を見せられ、「印形が太九老の祖父のものでございます!」とびっくりすることをいう。
しかし、御掛様から「祖父の印で間違いないのか。」と確認された羽原代言人は、「しかとは相分かりませぬが、形が似ておりまする。」とトーンダウン。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その8
続けて羽原代言人「『太右衛門』との記載がありますが、祖父太右衛門は弘化4年(1847年)に亡くなっております。実父は保右衛門といいますので、清四郎が偽造したものに間違いございません。」と、被告清四郎が亡くなった祖父の名前を使って偽造したと主張する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その9
羽原代言人の主張をじっと聞いていた御掛様であるが、ここで「ところで、太九老と清四郎はどのような関係にあるものなのか。」と質問なさった。
「実の兄弟でございます。」と羽原代言人が答える。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年)その10
これを聞いて御掛様の顔色が変わった。 
「実の兄弟と申すか。であれば、兄弟が偽造した分の金銭を支払ってやったらよいではないか。支払わずしてみすみす兄弟を断獄(刑事事件)に引渡すというのか。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その11
羽原代言人も「そのような趣旨で申し上げたのではございません。御掛様の仰ることはごもっともですが、太九老も手元不如意で難渋しておりますため、事実を申し上げるほかないのでございます。」とうろたえつつも反駁する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その12
御掛様「よいか。証文の効力を否定して、兄弟を断獄(刑事事件)へ回すよりも、証文の効力を認めて兄弟の罪をおおってやるのが兄弟というものであろう。兄弟の罪をかばってやるのが、筋というものではないのか。」
あくまでも太九老に支払う方向で話されているので、こちらには悪い話ではない。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その13
羽原代言人は「原告から何ら交渉がなく、太九老に何のことわりもなく、訴訟になったことには納得がいきませぬ。」と矛先を原告に向ける。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その14
御掛様は「原告は交渉をしても仕方ないと思ったのであろう。証文が存在するのであるから、返済してもらえると思うのは当然であり、原告を咎めることはできない。羽原代言人の言うことは空論である。」と一蹴。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その15
兄弟の筋を持ち出してもすぐには受け入れてもらえそうにないと思ったのであろう、御掛様からは次のような指示があった。
「証文はあるものの、太右衛門は弘化4年に死亡、また印形も判然としないということだ。この点は重要である。被告太九老は、先ほど述べたことを書面で提出せよ。原告代言人は帰村してこの点を調べるように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その16
また続けて
御掛様「被告清四郎の件も、被告太九老の件と関係があるから、調べがつくまで延期とする。調査は18日までにせよ。日延願いを双方提出するように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その17
日延願を提出し、午後2時ころ宿へ下がった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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進まぬ法廷編⑥-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月12日 

2022年05月27日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

5月12日 晴 その1
被告太九老の期日である。
着御届を差出して待っていたところ。午前11時ころに原告被告ともに呼び込みとなったので、聴訟に入る。午後1時からお呼び立てとなる。
御掛様「被告太九老は参っているか。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月12日 その2
私「どうでしょうか。見かけてはおりませんが。」
御掛様「代言から答書が提出されている。」とのことで、代言人の羽原利三郎をお呼び立てになる。
御掛様「明日は判事公のお調べの日となるので、両名そのように心得て出頭せよ。」
#鳥海秀七
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5月12日 その3
御掛様「次に、被告清四郎の件であるが、被告が返済をしないのであるから、身代限りの手続きをすすめるほかないのではないか。」
私「金30円ばかりの債権なのですから、身代限りになどなさらなくても、示談をしていただければこちらは良いのですが、どうしてもというならば仕方ありません。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

5月12日 その4
御掛様「被告太九老の件は判事の御席調べとなったことでもあるから、その件がはっきりしてから、清四郎の身代限りも行うこととする。」
午後2時ころ、原告被告とも宿に下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)



 



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進まぬ法廷編⑤-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月7日-11日 

2022年05月25日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月7日(明治7年) その1
午前8時ころ、長十郎を被告とする件につき訴状を提出する。
清四郎を被告とする件について着御届し、控えていたら、午後1時ころ呼込みとなったので、聴訟に入る。被告代書人小倉文蔵が来ていたので、代言人についたはずの吉崎久兵衛のことを尋ねたが、「何かの行き違いでしょう。今朝は吉崎代言人来られません」等という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月7日(明治7年) その2
そうしているところへ、多人数で急な調べを要する件が入ったとかで、御掛りの脇屋様は聴訟の奥へ入ってしまわれた。
やむなく一旦聴訟の外にでたところ、今度は新たに訴状を提出した件(長十郎を被告とする件)についてお呼込みがあり、訴え所(訴状受付)に入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月7日(明治7年) その3
新訴(長十郎を被告とする件)は、潮田様が御掛りとなられた。「この件については
明朝出頭するように」と申渡された。
被告清四郎の件で、代言人吉崎久兵衛が来ていないことを申立てようとすると、「今日はもう遅いので、明日にしていただきたい」と申渡され、午後4時ころ宿へ下がる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月8日(明治7年) その1
午前8時ころ、裁判所に出頭し、被告側代言人吉崎久兵衛が出頭しないことについて申立書を提出した。
午前10時ころ、新訴の件(長十郎が被告)について呼込みがあったので、聴訟に入る。御掛り潮田様から目安御糺があった。
#鳥海秀七
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1874年5月8日(明治7年) その2
潮田様「質地証文の文中に年賦とあり
利足を取ることとなっているので、訴状は採用できない。」
私「丁卯(1867年)以前に受け取るべき分については請求できないことは承知していますが、この訴状はその後の分についてですからご採用ください。」
この返答に潮田様はしばしご勘考のあと、こう言われた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月8日(明治7年) その2
潮田様「年賦金にせよ質地金にせよ、利足ということであれば、貸金に属するゆえ、採用できない。卯年(1867年)以後受け取るはずの約定となっているが、証文の文面上金子貸渡しの期限が卯年以前の約定になっているのだから、やはり訴状を受付けることはできない。訴状を差し戻すので、願下げの書面を提出いただきたい。」
#鳥海秀七
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1874年5月8日(明治7年) その3
私「小作帳が証拠としてございますから、訴状を受け付けてはいただけませんか。」
潮田様「確かに小作したといえるのか、滞納した分については借り受けたというのか、判然としないではないか。確かな証拠がない限り採用できぬ。」
#鳥海秀七
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1874年5月8日(明治7年) その4
訴状は受理されなかったので、御下願(表紙なし、美濃一枚紙のもの)を提出し、訴状の下げ渡しを受けた。
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1874年5月8日(明治7年) その5
その後、被告清四郎の件で待っていたが呼込みがない。午後4時ころ、聴訟が落ち着いていたので、聴訟に入ってみた。
御掛様(脇屋様)「最前呼込みをしたが、いなかったではないか。どこへ行っていたのだ。」
私「腰掛にいたのですが、呼込みを聞き損じたのでしょうか。」
御掛様「今日も被告が来ないのだ。明後日10日に罷り出よ。」
宿に下がったころ、雨は止んで晴れ。
#鳥海秀七
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1874年5月9日(明治7年) 晴
(「明後日10日に罷り出よ」と御掛様から指示を受けたので、この日は法廷への出頭はなく、業務日誌にも天候しか書いてありません)
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1874年5月10日(明治7年) 晴
午前9時ころ、裁判所に出頭。被告清四郎の件について、着御届を提出し控えていた。
午前11時ころ呼び込みとなり、聴訟へ入る。
御掛様「被告の者は参っておるのか。」
返答「先刻腰掛にて私鳥海が面会致しましたので、ただ今来られているのでしょう。話し合いもしておりませんので、被告をお呼び込みいただいてお調べをお願いします。」
御掛様「被告を呼び出しているのに、今出頭していないようであるので、午後に呼び出しをするから、被告とも同道されたい。」
これを聞いて、聴訟から出たところ、被告代言の吉崎久兵衛がいた。先ほどの御掛様の話しをしたところ、久兵衛「私も呼び込みを受けて、被告ともども罷り出たのですが、お調べにもならないで、貴殿と話しをせよと言われたのです。」
午後になり2時になっても呼び込みがない。被告とも相談して聴訟へ入って、御掛様のご出席を待っていたが、おいでになられない。
午後4時、ようやく御掛様がおいでになられたので、「原告・被告同道して参りました。」と申し上げたが、御掛様「今日は多用であった。もう刻限も遅いので取り調べは、明後日12日に行う。原告・被告同道の上、出頭せよ。」と申し渡された。
5時ころ、原告・被告とも聴訟から下がった。
#鳥海秀七
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5月11日 晴 休庁
#鳥海秀七
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(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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進まぬ法廷編④-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月4日-6日

2022年05月18日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)

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1874年5月4日(明治7年)
昨夜から雨だったが、午前10時ころ雨は止み、晴れる。被告が太九老の件(4月29日に訴状提出)の御奥書の下渡しを受けるべく伺いを提出した。着御届を出し、控えていたところ、午前10時ころ呼込みとなり、聴訟へ入る。
聴訟へ入ってみると、「今調べているところだから、下渡しは午後3時ころになる。」とのことであった。しかし、再度の呼込みがあったのは午後5時ころ。請書と引き換えに、御奥書の下渡しを受けた。宿へ下がったのは午後5時過ぎであった。
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1874年5月5日(明治7年)
午前10時ころ、被告清四郎の件、吉崎久兵衛という代言人がついたようである。当方が依頼している代書人の田辺方まで来て、「今日が期限でしたが、まだ病気が治っておりませんので、日延べをお願いします。」と伝えてきたとのことであった。

被告が太九老の件は、昨日御奥書付き訴状の下渡しを受けたので、今朝にでも飛脚に手配する予定であった。しかし、田辺代書人が、「本人渡しなのだから、送付するのは延期しても良いのではないか。」というので、そのように任せた。
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1874年5月6日(明治7年) 
休庁。長池屋住六寛秀と共に、猪ノ鼻台に行き、宗胤寺にに参詣した。
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