南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

山田安太郎弁護士(千葉県弁護士会物故者)

2023年01月30日 | 千葉県弁護士会
千葉県弁護士所属の山田安太郎弁護士が、2023年1月24日逝去されたとの報に接しました。ご冥福をお祈り致します。

同弁護士は2005年3月投票の千葉県知事選に立候補しています(結果は落選)。

お亡くなりになったときは、山田法律事務所(所属は山田安太郎弁護士のみ)を千葉県千葉市若葉区に構えておられました。

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交通事故の被害者の後遺障害認定の方法は

2023年01月27日 | 交通事故民事
交通事故の被害者の後遺障害認定の方法は

(問題の所在)
 交通事故の被害者に後遺障害が残った場合、その認定の方法はどのようにすれば良いでしょう。自賠責に被害者請求をする方法、任意保険会社を通じて事前認定をする方法があります。後者(事前認定)のメリット・デメリットを考えてみました。

・メリット
①任意保険会社の担当者が後遺障害の内容を認識できるので、後の手続きがスムースにできる。
②医療機関への同意書を任意保険会社側に渡しておけば、任意保険会社が手配してくれるので、被害者側の負担軽減になる。

・デメリット
①後遺障害の調査を主導する自賠責調査事務所との間に任意保険会社担当者が入る形となり、自賠責被害請求よりも介在する人が多くなる。
②任意保険の担当者が後遺障害の診断書を病院から直接取得するケースでは、被害者側が後遺障害診断書の内容を把握できないことがある。
③任意保険の担当者によっては、手持ち件数の多さからか、自賠責調査事務所に申請する手続自体を忘れていたり、遅滞していたりする例が見られる。
④任意保険会社というのはあくまで相手方であり、被害者側に有利なようにはアドバイスはしてくれない。


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江戸時代の刑場と所仕置き-木更津村の例

2023年01月26日 | 歴史を振り返る
江戸時代の刑場と所仕置き-木更津村の例

(江戸時代の刑場と所仕置き)
現代の死刑は拘置所の刑場において行われますが、江戸時代には必ずしも刑場で行われていたというわけではありません。
犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村などでも行われており、これを吉田正志は「所仕置き」とネーミングしています。
*吉田正志『仙台藩の罪と罰』121頁(慈学選書、2013年))

(千葉県内の刑場)
重松一義は、現在の千葉県内では
佐倉藩江原刑場
関宿藩納谷刑場
の2箇所が江戸時代にあったとしています。
*重松一義『大江戸暗黒街』(柏書房、2005年)

(千葉県内の所仕置きの例)
重城保の日記には、木更津村(千葉県木更津市)で行われた所仕置きが記録されています。死刑囚の住んでいた村の父親所有のの畑で行われています。
刑の内容:打首(斬首)
刑に処せられる者:〇〇右衛門の倅
執行日時:元治2年2月5日夕刻(1865年)
執行場所:木更津村の死刑囚の父親(〇〇右衛門)所有の畑
刑の執行に携わった代官側役人の数:68名
執行の公開の有無:公開
見物人:約2万人
*重城良造『重城保日記物語』(うらべ書房、1999年)


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文政11年1月中旬・色川三中「家事志」

2023年01月23日 | 色川三中
文政11年1月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年1月11日(1828年)
<行商中>今日は梶山(鹿嶋市)を出発して、居合(鹿嶋市)で泊。居合は先月まで従業員だった初五郎が住んでいるところだ。どうしているかと思っていたが、なんと今月4日に、餅と蛤とを食べて中毒で亡くなってしまっていた!まだ12歳なのに。あわれな初五郎。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先月まで従業員だった初五郎(12歳)が急死。居合(鹿嶋市居合)の松岡さんの紹介で三中の従業員となったのですが、おねしょをするのでわずか十日余りで、居合に戻されてしまいました(前年12月22日条)。


ストレスでおねしょしたのかなと思っていましたが、このときから体調が悪かったののかもしれません。三中は「餅と蛤での中毒」と書いていますが、そんなので中毒になるのか疑問です。それにしても、人の命とはなんとはかないことでしょうか。


文政11年1月12日(1828年)晴
<行商中>居合(鹿嶋市居合)を出発し、山之上(鹿嶋市山之上)へ。ここでも歓待を受け、ご馳走がでる。鹿島(鹿嶋市宮中)まで行き、同所泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、昨日今日と現在の鹿嶋市周辺を営業しています。山之上は鹿島神宮からもほど近い場所で、前回の行商でも行っています(前年7月23日条)。各地で歓待を受けるほど、三中の営業は好調のようです。三中もそれを意識して日記に書き留めているものと思われます。


文政11年1月13日(1828年)寒風異常
<行商中>鹿島を出発。鹿島神宮では、おものみ様を8年ぶりに参詣す。19歳のとき以来。この間いろいろなことがあったと一瞬思ったが、今は営業に忙しくそんな感慨に浸っている暇はない。永田に行く。ここでも歓待を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日も三中は歓待を受けています。連日接待、営業で三中も忙しいようです。8年ぶりの参詣でおもうところがあったようですが、営業に忙しく感慨にふけっている暇はないと記しています。
「おものみ様」は、物忌様のこと(家事志の翻刻者の解説による)。場所としては鹿島神宮の跡宮のことをいうようです。

文政11年1月14日(1828年)
<行商中>永田を出発。朝、船で霞ヶ浦の渡しをわたる。景色非常によし。潮来(潮来市)では玄春さんが乳岩を切り出したといって見せてくれた。富田(行方市富田)で泊。ここでも歓待を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鹿島神宮の近くには渡し場があったようです。鹿島神宮の西の一の鳥居というのが霞ヶ浦に面したところにあるので、このあたりにあったのかもしれません。前回行商では強風のため渡船がすぐできなかったのですが(前年7月25日条)、今回は穏やかに晴れ、景色を見る余裕もあります。本日も歓待を受けています。三日連続。


文政11年1月15日(1828年)
<行商中>富田を出発。鹿島(鹿嶋市宮中)から玉造(行方市玉造)に戻ってきた。同所泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
玉造は三中が行商に出ると必ず宿泊するところで、今回の行商でも最初の方に泊まっています(1月7日条)。玉造は霞ヶ浦に接しており、水運の町であったことと関係がありそうです。明治の町村制施行以来、玉造町でしたが、2005年9月2日、麻生町・北浦町と合併し行方市となりました。

文政11年1月16日(1828年)
<行商中>西風。玉造を出発し、府中(現石岡市)に足を伸ばす。同所泊。今回は府中や岩間(笠間市)方面まで営業を行う予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「府中」は国府のあったところという意味ですので、国名毎にこの地名があります。常陸国の国府は石岡市。前回行商(7月)では府中に来ていないので、今回は府中、岩間(笠間市)方面への営業が狙いです。

文政11年1月17日(1828年)
<行商中>昨日は府中(石岡市)に泊まっり、本日も同所に泊。夕方には雨が雪に変わった。明日から同行者を茂兵衛に変える(これまでは与兵衛)。
叔父からの書状届く。従業員の浅吉が相変わらずけしからぬ振る舞いをしているらしい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、昨年の日記で「従業員浅吉の科」という愚痴めいた記事を書いていましたので(10月14日条)、解雇していたのかと思っていましたが、まだ雇用していたようです。三中のいない間に悪さをするとは懲りない浅吉です。


文政11年1月18日(1828年)
<行商中>府中(石岡市)を出発し、茂兵衛を連れて岩間(笠間市)に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
岩間は現笠間市。2006年までは岩間を中心に岩間町が存続していましたが、合併により岩間町は消滅。「岩間」の地名も消滅してしまいましたが、駅名などにその名が残っています。

岩間駅 - Wikipedia



文政11年1月19日(1828年)
<行商中>手賀宗仲方で泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「手賀」は現在の行方市手賀のことでしょうか。当時当たり前のことは日記にはあっさりと書かれるものですが、後の人間が解読していくのはなかなか大変です。

2024/03/10追記
「手賀宗仲」の意味がわからず、当時のコメントでは、現行方市手賀か?と書きましたが、家事志を読み進めて行きましたら、文政12年5月22日条に「片野村の手賀宗仲老死去す」との記事がありました。片野村は、現石岡市片野ですので、同村に「手賀宗仲」という人物がおり、そこに泊まったという意味になることがわかりました。


文政11年1月20日(1828年)
<行商中>手賀方を出発し、六つ過ぎ(午後6時)に土浦に帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦に帰宅し、行商終了。今回の行商ではあちこちで歓待を受け、前回以上の成果を得ているようにも見受けられます。もっとも、日記の記載は淡々としており、前回行商時(昨年7月30日条)の高揚した様子とは趣を異にしています。



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「馬加」が「幕張」となった経緯

2023年01月19日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
「幕張」が、千葉県にあることはご存知の方が多いのですが、「幕張市」だと思っておられる方も少なくないようです。
「幕張」は千葉市にあります。
もっとも、千葉市に編入されたのは、戦後のことです。また、江戸時代には、「幕張」という名前はありませんでした。

(幕張は、江戸時代は「馬加」)
「幕張」は江戸時代は「馬加村」(まくわり)でした。読み方も今とは微妙に違います(今は「まくはり」)。
馬加村では、青木昆陽によってサツマイモが試作されています。
試作地は、馬加村だけではなく、江戸小石川の養生園(小石川植物園)、不動堂村(山武郡九十九里町)でも行われていますが、馬加村では種芋17個から2石7斗6升の収穫を得ることができたということや天明、天保と続く大飢饉の時にもサツマイモによって多くの人が救われ、昆陽神社が建てられたことで、有名になったようです。
現在は「青木昆陽甘薯試作地」として、千葉県の指定史跡とされています。

青木昆陽甘薯試作地

千葉県



(明治に誕生した「幕張」)
明治になってもすぐには変化のなかった馬加村ですが、1889年(明治22年)4月の町村制施行により、馬加村は、武石村等と合併して「幕張村」の一部地域となりました。ここで初めて「幕張」の名前が歴史に登場したのです。旧馬加村は、「幕張村大字馬加」として地名が残りました。
1896年(明治28年)4月、幕張村は町制が施行されて「幕張町」となり、戦後までこの状態は変わりません。

(幕張町の千葉市への編入と「馬加」の消滅)
変化があったのは戦後で1954年(昭和29年)7月で、千葉市に編入され、千葉市幕張町(まくはりちょう)となりました。ここにおいて「馬加」の地名は消滅してしまったのです。

下記リンクは1882年の陸軍地図です。馬加村の海は浅瀬になっていることがお分かりいただけるでしょう。ここが埋め立てられ、現在の「幕張」(海浜幕張駅周辺)が形成されていくのです。

千葉縣下總國千葉郡馬加村 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

国土地理院が所蔵している古地図等の地理史料一覧です

古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)



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個人情報ファイル簿の作成公表義務

2023年01月16日 | 地方自治体と法律
個人情報ファイル簿の作成公表義務-地方自治体と改正個人情報保護法

〈個人情報ファイル簿の作成公表義務〉
改正個人情報保護法により、自治体には個人情報ファイル簿の作成公表義務が課せられますした。
「個人情報ファイル簿」とはどのようなものかを押さえておきましょう。
既に公開している自治体があります。
例えば、千葉県市川市では以下のようなものです。

個人情報ファイル簿|市川市公式Webサイト

個人情報ファイル簿をご覧いただけます。

市川市公式Webサイト



「個人情報ファイル簿」の定義は、「保有する個人情報ファイルの名称、利用目的、記録項目などの個人情報ファイルに関する概略を記載した帳簿」です。
個人情報ファイル簿の作成・公表義務が創設された理由ですが、自治体がどのような個人情報ファイルを保有しているのかを国民に広く知ってもらうことにその趣旨があります。
個人情報ファイルというのは、大雑把には個人情報のデータベースのことだと押さえておいていただければ良いかと思います。
正確には次のような意味です。
個人情報ファイル:保有個人情報の集合体であって特定の保有個人情報を検索できるよう体系的に構成されたファイル(法60条2項)
先ほど作成・公表義務があると申し上げましたが、例外が割りと幅広く認められています。
(例外)
①本人の数が1000人未満の場合
②1年以内に消去される個人情報のみを記録している場合
③職員等又は職員等であった者に係る人事、給与若しくは福利厚生に関する事項を記録した個人情報ファイル(職員の被扶養者又は遺族に関するものも含む)
①の要件は自治体の規模によって影響されそうです。人口規模が小さければ、①に該当するものは少なくなるでしょう。
①の要件に該当するとしても、②の要件に該当すれば、個人情報ファイル簿を作成する義務からは免れます。1年以内に消去することができるかどうか検討すべきでしょう。個人情報は適宜消去しなければならないものですので、その消去時期を1年以内にできるか否かをこの機会に検討しておいた方が良いでしょう。

〈要配慮個人情報について〉
個人情報ファイル簿では、要配慮個人情報について記載することとなっているので、ここで要配慮個人情報について触れておきます。
要配慮個人情報とは、「人種、信条、社会的身分、病歴、犯罪の経歴等の記述が含まれる個人情報」のことです。
改正個人情報保護法では、「法令の定める所掌事務又は業務の遂行に必要な場合に限定」「特定された利用目的の達成に必要」な場合に個人情報を取得できるとされており、要配慮個人情報についてもこの規制に従うことになります。
この点、従前は、要配慮個人情報については、原則取得できず、例外的な場合に取得可能とする条例を制定している自治体もありました。本人に不利益が生じかねない、センシティブな情報だからその取得を制限しましょう。基本的には取得はダメで、法令で取得OKとなっている場合とか個人情報保護審査会を通さないと取得できないという規定です。
しかし、改正個人情報保護法ではこのような規定を置くことは許されないことになりました。このような規定を置かなくても、前記のような取得についての規定で十分であるという理由からです。


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文政11年1月上旬・色川三中「家事志」

2023年01月12日 | 色川三中
文政11年1月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年1月1日(正月朔)(1828年)
年末から具合が悪くて寝てばかり。しかし、新年を迎え、風も静か天気も良し。病も癒えて調子も良くなった。外は昨年降り積もった雪がそのまま。その雪がほの明るい。艶やかなる優しさにあふれているよう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
あけましておめでとうございます。三中も27歳(数え)になりました。天気もよく、昨年来の降り積もった雪もほのかにあたりを照らしています。伏せっていたこともあって、三中もセンチメンタルな気持ちになっているようです(珍しい!)。

文政11年1月2日(1828年)晴
今年は子(ねずみ)年。知り合い(色川庄右衛門)からつがいの白鼠をもらう。正月から目出度い。従業員の佐助が興にのって詠んだ狂歌を書き留めておこう。
初春に宝持ち込む福鼠
 首も手足も尾も白きかな
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政11年はネズミ年。それに因んで、三中は知人から白鼠をもらっています。従業員の佐助はお調子ものだけあって(昨年10月7日条参照)、当意即妙な狂歌を詠んでいます。歌の巧拙はともかく、江戸時代のお正月の目出度い雰囲気が、現代にも伝わってくるようなエピソードです。


文政11年1月3日(1828年)
今日は体調不良で寝る。昨日、一昨日と無理したからか。明日から行商で出張予定だった。仕方ない。漢方薬は売り物だが、非常手段だ。自己流で処方。効果あって夜には体調回復。
#色川三中 #家事志
(コメント)
元日には「病も癒えた」といっていましたが、無理がたたって再び寝込まざるを得ないことに。やむをえず漢方薬を服用。三中は薬種商ですから、漢方薬は手元にありますが、高価なものであるため、気楽には薬を服用できません。

文政11年1月4日(1828年)
今日から行商で出張の予定なれど延期。静養に務める。昨日はかなり体調ヤバかったが、本日は回復傾向。入浴して月代を剃り、髪を結う。漢方薬を飲んでおいて良かった。我ながら神処方!
#色川三中 #家事志
(コメント)
服用した漢方薬が効き、今日は普通に過ごすことができたようです。
現代でも非常に優れている様子を神といいますが(例:神対応)、江戸時代でもそのような語法があったようです。原文では「我が術を加ひて其功神というべし」と書かれていました。

文政11年1月5日(1828年)晴れて風あり
行商に出発。昨日出発の予定だったが、様子を見ておいてよかった。今日は体調は悪くない。同行者は与兵衛。先月店を辞めるといっていたが、思いとどまってくれた。いつもどおり初日は安食(茨城県かすみがうら市)泊。
#色川三中 #家事志

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神


(コメント)
前回の行商は7月17日~7月30日であり、5ヶ月ぶりの行商。同行者は与兵衛。与兵衛は先月辞めるといっていましたが(12月23日条)、仕事を続けることになったようです。三中にとっても経験のある与兵衛が働き続けてくれるのはホッとしたことでしょう。


文政11年1月6日(1828年)
<行商中>今日は、安食(かすみがうら市)から高浜(石岡市高浜)まで。泊まったのは元従業員の江橋さんのお宅。大歓迎される。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今回の宿泊先は高浜(現石岡市高浜)。元従業員であった江橋さんのお宅にお邪魔しています。江戸時代は宿場以外では宿がないので、出張でも個人宅に泊まるほかはありません。江橋さんは三中を歓待しており、三中の機嫌も上々です

安食の道祖神 to 高浜

安食の道祖神 to 高浜



文政11年1月7日(1828年)曇
<行商中>高浜(石岡市高浜)を出発して、玉造(現かすみがうら市玉造)で泊。昨日と同様、玉造でも歓迎していただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
玉造宿(かすみがうら市玉造)では行商の度に宿泊しているので、定宿にしているところがあるようです。昨日も歓迎されておりましたが、玉造でも歓待されています。

高浜 to 行方市役所玉造庁舎

高浜 to 行方市役所玉造庁舎



文政11年1月8日(1828年)晴
<行商中>昨日と同じく玉造(かすみがうら市玉造)に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
玉造宿に連泊。この周辺に客(医師)が増えたからでしょうか。行商中は日記は簡潔な記載が多くなります。それだけ一生懸命医師を回り、薬を売り込んでいるのでしょう。どの医師を回ったかについては日記には記載がありません。別に記録していると思われます。

文政11年1月9日(1828年)晴
<行商中>玉造を出発して、鉾田へ(鉾田市鉾田)。同所泊。途中、櫛引の原(鉾田市串挽)を歩く。景色いとよし。富士山と筑波山とが並んで聳えている。蛇(青大将)が右方から道にでてきた。きっとこれは吉兆。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の行商では富士山と筑波山の両方を見ることができました。冬で空気が澄んでおり、富士山までよく見えたものと思われます。蛇がでてくることが当時は吉兆と考えられていたのでしょうか。今回の営業もうまくいっており、ご機嫌の三中です。

玉造 to 鉾田駅(バス)

玉造 to 鉾田駅(バス)



文政11年1月10日(1828年)曇
<行商中>鉾田を出発して、梶山宿で泊(鉾田市梶山)。
#色川三中 #家事志

鉾田駅(バス) to 梶山

鉾田駅(バス) to 梶山


(コメント)
梶山(鉾田市梶山)は北浦湖畔にあります。北浦は霞ケ浦という湖の一部。三中の住む土浦も水運で栄えており、三中の行商も水運のネットワークを使っていたように思われます。

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自治体と改正個人情報保護法-個人情報の定義

2023年01月09日 | 地方自治体と法律
自治体と改正個人情報保護法-個人情報の定義

〈「個人情報」の定義〉
 これまでは条例に委ねられていたため、定義については自治体間にはばらつきがありましたが、今回の改正法で統一的な定義となりました。
 「個人情報」にあたれば、個人情報保護法の適用があり、あたらなければ法の適用がないので、この定義は個人情報保護を理解する上で非常に重要です。
 
改正個人情報保護法の「個人情報」の定義を、私なりに整理すると次のとおりです。
①個人情報は、まず生存する個人に関するものであることが前提です。
②次のどちらかに該当する必要があります。
A 識別可能性(誰の情報かわかる):氏名、生年月日等により識別又は他の情報と容易に照合して識別可能
B 個人識別符号

個人情報の定義を少し説明します。
①生存する個人に関する情報であることが前提。
裏を返せば、死者の情報、お亡くなりになった方の情報は個人情報ではなく、個人情報保護法の適用はないということです。
②「特定の個人を識別」
 個人識別というのは、個人情報保護法独特の用語です。意味としては、「あの人のこととわかる」ということ。氏名だけでも個人情報になります。
③「他の情報と容易に照合」
 容易性という要件を入れていない自治体も見られましたが、個人情報の定義としては容易性が要件となることで統一されます。
他の行政機関等や事業者への照会を要する場合は、照合が容易とはいえないと説明されています。

〈識別可能性について〉
識別可能性=他の情報と照合することで識別できる、ということの意味について考えてみます。
例えば、顧客IDとか会員番号。
顧客IDを発行・管理している団体からすれば、端末をたたけばある顧客IDは誰だかがすぐにわかります。これが、他の情報と照合して容易に識別可能ということです。よって、顧客IDを発行・管理している団体にはこの顧客IDは「個人情報」であるということになります。
しかし、この団体の外部者からは、顧客ID
を見せられても個人を識別できない。よって、この方にとっては顧客IDは「個人情報」ではないということになります。
このような理由から、顧客IDは一般的には「個人情報」にはなりません。携帯電話番号やクレジットカード番号もそれだけでは「個人情報」には当たらないと理解されています。

〈個人識別符号〉
では、マイナンバーは「個人情報」に当たるでしょうか。
マイナンバーは12桁の番号であり、マイナンバーだけで容易に個人を識別できるのはごく限られた部署だけです。
顧客IDが「個人情報」に当たらないのですから、識別可能性の定義からすれば、マイナンバーも「個人情報」とはいえないという結論になります。
しかし、マイナンバーはを個人情報保護法の適用対象外とすることは、妥当ではありません。
そこで、「識別可能性」の要件からすると個人情報にはあたらないものを、「個人識別符号」として「個人情報」の定義に取り込んだのです。
・個人識別符号とは、個人に割り当てられた公的機関雅発行した数字(マイナンバー、運転免許証番号)も含まれる。
・個人識別符号にあたれば、「個人情報」となる。
初心者は差し当たり、以上のことを押さえていただければ良いのではないでしょうか。



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千葉の起業家-紅谷四郎平

2023年01月07日 | 歴史を振り返る

ちば市史編さん便り16号(2016年3月)「千葉町に電灯がやってきた」には千葉電灯株式会社のことが触れられています。
同社の初代社長は紅谷四郎平といい、次のように紹介されています。
「紅谷四郎平: 千葉町屈指の資産家。 明治32年有志とともに株式会社千葉割引銀行を設立、創立委員長取締役を経て頭取となった。 千葉電灯株式会社創立を計画し、 取締役社長 (就任の記事: 明治39年4月7日 『東海新聞』)。劇場衆楽館の設立・鉄道聯隊の誘致などに積極的に関わる。(後略)」
 
銀行や電灯会社等を次々と設立した起業家です。また、次のエピソードからは土地を多く所有していたことが窺えます。
「明治25年の千葉大火においては自家所有の宅地を割き、 自費を投じて開墾のうえ千葉町に道路を寄附し、この道路は紅谷横町と呼ばれた。」

千葉の資産家、起業家として名を馳せた人物と思われますので、
機会があれば更に追っていきたいと思います。

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千葉県内の刑場と所仕置き

2023年01月05日 | 歴史を振り返る
江戸の形場が小塚原と鈴ヶ森にあったということは有名ですが、その他の地域はどうなっていたのでしょう。
重松一義『大江戸暗黒街』
(柏書房、2005年)
題名はおどろおどろしいですが、重松先生は大学教授などを歴任されており、非常に真面目な本です。
この本に江戸以外の形場の一覧が掲載されています。
現在の千葉県の範囲内ですと、
佐倉藩江原刑場
関宿藩納谷刑場
の2箇所です。

〈佐倉藩江原刑場〉
佐倉藩江原刑場は、佐倉市のホームページで紹介されています。
「成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。」
江戸の小塚原や鈴ヶ森と同様、街道に面していることがわかります。江戸時代の処刑は公開ですから、街道沿いの町から外れた場所が適地として選ばれたのでしょう。

佐倉市の文化財-史跡(3)「その他」|千葉県佐倉市公式ウェブサイト

国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。 坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「...



〈関宿藩納谷刑場〉
関宿は現在野田市となっていますが、野田市のホームページには関宿藩納谷刑場は言及されていないようです。当地は心霊スポットとして著名なようで、その手のサイトで結構紹介されています。これらのサイトによると、付近には南妙法蓮華経の題目が刻まれている享和元年(1801年)の石碑があること、野田市教育委員会の掲示板が設置されていることが分かります。 

重松先生の著作(『大江戸暗黒街』)では、千葉県内ではこの2ヶ所しか記載がありません。しかし、江戸時代には各藩で死刑が行われていたはずです。他の藩にも常設の刑場があったが分からないのか、そもそも常設の刑場というものがなかったのかという点は同書にも言及がなく、わかりません。

仙台藩の刑場について考える上で参考となるのが、吉田正志のいう「所仕置き」です。
死刑は藩が設置した処刑場だけで行われるのではなく、犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村などでも行われておりました。
仙台藩では、「その所にて火罪」等といっていたので、吉田先生はこのようなものを「所仕置き」とネーミングされています(『仙台藩の罪と罰』121頁(慈学選書、2013年))。
仙台藩の元禄時代の死刑判決の執行の多くは、所仕置きで行われており、吉田先生は「近世前期では所仕置きこそ死刑の中心だったのではないか」と書かれています。
そうだとすれば、刑場だけではなく、所仕置きにも注意しなければなりませんし、刑場で行われるものと所仕置きはどのような振分けがなされたのかという問題も生じてきそうです。

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