リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

アメリカの救援物資が母乳の代わり

2014年08月26日 | 日々の風の吹くまま
気持ちよく眠っていたら、カレシに(カレシ曰く「やさしく」)起こされた。今日はまた「休みモー
ド」。途上国の食糧問題に関連する論文は数式の羅列で数学オンチのワタシの頭が溶けそ
うになったけど、おもしろかった。ネットのおかげで世界を相手に仕事ができるようにり、意
外にも日英翻訳に専念するようになったおかげで経歴豊かな英語人編集者と仕事するよう
になって翻訳が楽しくなった。ほんとにワタシって、くじ運はさっぱりだけど、人生のこういう
ところでは幸運・・・。

今ペアを組んでいるのはほぼ同年代の日系アメリカ人。化学系の博士だけど、何でも屋の
ワタシが何でも翻訳するように、どんな分野でも校正編集して、的確なフィードバックをくれ
る。(社長の目の鋭さのおかげだと言いたいけど、そう言っちゃうとスカウトされたワタシも修
士、博士の人たちと同列になるようでこそばゆいから止めとくけど、ゴメンね、社長。)ワタシ
は翻訳会社の担当者や校正・編集者との業務メールに「追伸」として折々の世間話を入れ
るんだけど、今回は2人が子供の頃のアメリカと日本の食糧事情を比べておもしろかった。

ワタシが覚えているのは、戦後の食糧不足時代に母乳が出なくて困った両親が、アメリカか
ら来た救援物資の小麦粉を牛乳か水で溶いてワタシに飲ませたという話で、あの真っ白な
小麦粉がなければワタシは栄養失調で育たなかったかもしれないと、繰り返し母に聞かさ
れた。(だからワタシは「バタ臭い」という流れだったかな。)救援活動は戦争中に強制収容
所に送られて苦難を味わった日系人とクェーカー教徒の尽力で立ち上げた慈善団体を母
体にして認可されたLARAという団体がやっていたので、当時「ララ物資」と呼ばれていた。

物資を集めたのは政府でなく民間団体のボランティアで、当時のお金で400億円と言うか
ら、今の価値では途方もない額の食糧や医薬品が送られて来て、乳児だったワタシを含め
て数え切れない日本の子供たちを飢餓から救ったという。学校給食のパンも脱脂粉乳のミ
ルクもララ物質だった。(星条旗と日の丸が描かれた脱脂粉乳の大きな厚紙ドラムが学校
にあった。)その話をしたら、「僕の母も教会でボランティアしていたよ」と返って来た。残念
ながら日本では、あのララの救援活動についてはほとんど語り継がれていないようだけど、
どうしてなんだろうな。もはや戦後ではなくなったときに、忘れられたのか・・・。