徒然なるままに 

BGMはモダンジャズ、暇つぶしの自分史

平昌オリンピック閉幕

2018年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

史上最も寒いと言われた平昌オリンピックが閉幕した。
なんとかやりきったという印象だ。
準備段階では資金難から長野共催の話が出たり、施設建設に絡む汚職で逮捕者を出したりした。
また、雪が少ない上に強風という環境も問題になった。
地元の関心も薄く、低所得者に無料券を配布して集客に努める有様だった。
開催直前には北朝鮮絡みの政治色が濃くなり、会場の周辺で抗議デモが繰り広げられたりもした。
ドタバタ続きだったが、開催自体は特に大きなトラブルもなく無事終了した。

日本は金4、銀4、銅5の13個のメダルを獲得した。
13個というのは冬季オリンピック史上の最多獲得数だそうである。
金メダルは男子フィギュアの羽生結弦を除けば、すべて女子スピードスケートである。
ジャンプ、カーリングでも女子が活躍した。
ハーフパイプやノルディック複合など男子も活躍しているのに何故か印象が薄い。
やはり、お家芸のジャンプでメダルを取れなかったせいだろう。
最も感動したのはスピードスケートの小平奈緒、最も面白かったのは女子カーリングだった。

お気に入り名盤! ハンク・モブレ:Dippin'

 

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第12回小出川桜まつり

2018年02月25日 | まち歩き

開催期間は、2月18日から3月4日までの2週間である。
中日にあたる2月24日(土)と25日(日)には、式典や各種催しものが行われる。
といっても、川堤と農道の一部を使った数十人規模のお祭りなので、たかが知れている。
25日の10時頃、祭囃子が聞こえてきたので、行ってみた。
前日は小春日和だったのに、この日は風も強く、手がかじかむくらいに肌寒い。
祭囃子の演奏も楽じゃない。
会場の近くに臨時の駐輪スペースには、自転車が20台以上停められていた。
大した数ではないが、「小出川桜まつり」としては異例の数である。
会場も混み合っていた。
小出川桜まつり
桜は早咲きの河津桜である。
残念ながら、三分咲きぐらいだった。
今年の冬は例年になく寒く、そのせいだろう。
過去には花がまったく咲いていない時もあったから、まだ幸運だったのかもしれない。
山梨から来ているという農家の軽トラックを見かけたので、ミカンを500円で買った。
「見てくれは悪いけど甘いですよ」と言われたが、確かにそのとおりだった。

お気に入り名盤! ジム・ホール:Concierto


 

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冬の山陰 サンライズ出雲

2018年02月20日 | 旅行記

松江から19時27分発のサンライズ出雲に乗車した。
横浜到着が翌朝6時44分だから、約11時間の旅である。
ワクワクしながら列車の到着を待った。
サンライズ出雲
客室は7号車2階の個室B寝台シングルだった。
一人用の狭いベッドの他には何もない。
小物が置ける棚と頭の横に幅30cmぐらいの荷物置場があるだけだ。
靴も部屋の中で履き替えることができるが、30cmぐらいの幅しかないので、ドアを閉めたままだと少し辛い。
枕と毛布と寝間着は用意されているが、アニメティはない。
この小さな空間がとても楽しい。
B寝台シングル
乗車するとすぐ酒盛りになった。
4人隣同士の部屋なので、ドアを開けながら小声での小宴会である。
1時間ほどでお開きにし、寝る準備に入った。
想像していたよりも揺れは少なく、音も静かである。
夜は寒いという話も聞いていたが、温度調節できるヒーターがあり、暑いくらいだった。
寝つきが良ければ快適に眠れるのかもしれないが、日頃から不眠症気味なため、寝られたのは2時間ぐらいだった。
あとはウトウトしながら時間を過ごした。
夜明けの風景
平塚のあたりで夜明けになった。
着替えを済ませ、降りる準備をしてから、横浜までの車窓を楽しむことにした。
横浜には定刻どおりに到着、長いようであっという間の夜行列車の旅だった。

お気に入り名盤! ミシェル・カミロ & トマティート:Spain


 

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冬の山陰 松江城

2018年02月19日 | 旅行記

出雲大社から松江城に向かった。
一畑電車と並走するように宍道湖沿いを一時間ほど走り、松江市役所まで来たところで松江城の天守閣が見えた。
時間は午後1時を少し過ぎたところだが、松江城の駐車場は満車で、そのまま空き待ちになった。
国宝に指定されてから随分人気が出たらしい。
5分ほど待って、駐車場の中に案内された。

二の門跡まで歩くと奇妙な光景に出くわした。
天守閣への入口の前に神社があり、その神社の隣には洋館がある。
「城の中にどうしてこんなものが」
神社は松江神社といい、明治時代の創建。
洋館は興雲閣といい、明治天皇の御御幸の際の宿泊所として建てられたものである。
明治初頭の廃城令によって天守閣以外はすべて払い下げられ、どのように使おうが自由になった。
乱暴な時代である。
松江城
松江城は昭和10年に国宝に指定されたにもかかわらず、昭和25年重要文化財に格下げされた。
判然としない歴史的事実が多いというのが理由だった。
簡単に言えば、血統が確認できない名馬みたいなものである。
以来、新しい知見を探し続けたところ、松江神社の中から「慶長十六」などと墨書きされた2枚の棟札が発見された。
棟札とは、建築物の造営や修復の際に張り付ける、建物の由緒や建築年月日などを記した札のことである。
松江城を表す文言はなかったが、天守の柱に残る札跡にピッタリ一致したことから、松江城天守閣は「慶長十六」創建と確認された。
この結果、再び国宝に指定されることになった。

入口でスリッパに履き替えるのだが、階段が急で、スリッパでは滑り落ちそうで心もとなかった。
おまけに、内部は写真も満足に撮れないほど薄暗い。
どうにも気疲れする天守閣だった。
中に入るよりも外から見上げているほうがいいのかもしれない。

松江城北側の堀沿いを塩見縄手といい、松江市伝統美観指定地区になっている。
城下町の風情が残り、とても雰囲気がいい。
塩見縄手
小泉八雲記念館を出た頃から雪が強くなった。
傘を持たずに出たので優雅に散策どころではなくなった。
遊覧船
意外だったのは、この寒い中、堀川めぐりの遊覧船がひっきりなしに運行していたことだ。
冬はコタツ舟らしく、こんな日の方が風情があっていいのかもしれない。

お気に入り名盤! マイルス・デイヴィス:Round About Midnight


 

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冬の山陰 出雲大社

2018年02月18日 | 旅行記

神魂神社から出雲大社に向かった。
鳥取県内では無料だった山陰自動車道もここでは有料だった。
出雲インターを出ると周りは延々と広がる田園地帯。
しばらく行くと民家や工場も見えてくるが、やはり田畑が目に付く。
民家が密集してきたのは旧大社駅の間近に来てからだった。
旧大社駅
旧大社駅は大正13年の建造で、国の重要文化財に指定されている。
和風建築様式を取り入れた格調ある木造建築で、大正ロマンを感じるノスタルジックな駅舎は和風駅舎の最高傑作と言われている。
1990年のJR大社線の廃止後も、当時のままの状態で保存されており、今にも列車が到着しそうな趣きである。
もう少し出雲大社に近ければ、廃線の憂き目にあわずに済んだかもしれない。

大社駅をひととおり見学したら、次はいよいよ出雲大社である。
宇迦橋の大鳥居を過ぎると賑やかな門前町が現れ、その先に出雲大社の入り口「勢溜」の鳥居が見えてきた。
ここから駐車場を探してウロウロしたが、神門通り交通広場の駐車場になんとか車をいれることができた。
出雲大社拝殿
出雲大社については事前に勉強してきたつもりだった。
「祓社(はらえのやしろ)」にお参りすること、拝殿のお参りは2礼4拍手1礼であること、平成の大遷宮のこと、...
しかし、神楽殿の大注連縄ことを調べ忘れるという痛恨のミスを犯した。
正確に言えば、大注連縄のことは知っていたが、それは拝殿にかけられているものと思い込んでいたのである。
拝殿の注連縄を見て、「こんなものだったけ」と不審に感じたものの、他の場所があるとは考えなかった。
ここまで来たというのに、何という事だろう。
出雲大社本殿
国宝の本殿も遠目に見るだけだ。
拝殿の後ろの八足門からは本殿を正面に見ることがきるが、近寄ることはできない。
御祈祷を申し込まないと中には入れないのだろうと思ったが、あとで調べたらそうではなかった。
一般客の御祈祷は拝殿で、団体客は神楽殿で行われ、どちらにしても本殿に近寄ることはできないのである。
出雲大社御朱印
寒川神社の御朱印帳を持参していたが、これに出雲大社の御朱印をもらうのは気が引けた。
出雲大社の御朱印帳を購入し、それに御朱印を頂いた。
この出雲大社の御朱印帳は文房具屋で売っているものよりも粗末で、御朱印にも神社名が書かれていなかった。
正直なところ、期待外れで落胆した。

そもそも観光のスタンスが良くないのかもしれない。
ここまできたら、御朱印よりも御祈祷を申し込んで御神札を授かり、一生の思い出にすべきなのだろう。

お気に入り名盤! オスカー・ピーターソン:Night Train


 

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冬の山陰 神魂神社

2018年02月17日 | 旅行記

今宵の宿は、玉造温泉「佳翠苑 皆美」である。
境港からは車で約1時間、着いた頃にはすっかり暗くなっていた。
玉造温泉は日本最古の湯と言われていれ、清少納言の「枕草子」にも出てくる島根の名湯だ。
玉湯川沿いに高級旅館が数多く立ち並んでいる。
その中でも絶大な人気を得ているのが「佳翠苑 皆美」である。
佳翠苑


部屋は12畳と8畳の和室で、それに4畳の上り座敷と広縁が付いていた。
掛け軸や花瓶などの調度品も品が良い。
夕食の「蟹すき鍋コース」は飽きるぐらいの蟹尽くし、朝食のバイキングは種類の豊富さに圧倒された。
温泉などの館内の施設も充実しており、すべてにおいて高級な旅館だった。
今回の山陰旅行で、一番良かったのは「佳翠苑 皆美」だったかもしれない。


翌朝、神魂神社に向かった。神魂は「かもす」と読む。
出雲国造の祖、天穂日命(あめのほひのみこと)が降臨し創建したと伝えられる神社である。
玉造温泉からは車で30分の距離である。
穏やかな農村地帯で、神社の周辺には民家もほとんどない。
神話に彩られた神社のたたずまいとしては、なかなか雰囲気がいい。
現在の主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)。
本殿は現存する大社造の社殿のうち最も古いといわれ、国宝に指定されている。
特徴としては、床が高いこと、前面と後方の中央にある宇豆柱が外に張出していること、があげられる。
出雲大社の「男造り」に対し、こちらの本殿は「女造り」と言われている。
国宝の本殿をこんな間近に見れるのもとても珍しいことだ。
神魂神社
御朱印をもらいに社務所に行くとまだ閉まっていた。
透明な窓ガラス越しに中の様子を見ることができるが、人がいるのかどうかまでは確認できなかった。
いずれにしても、朝の9時では無理だったようだ。
我々は諦めて次に行くことにしたが、境内には諦めきらずにウロウロしている人がいた。
社務所が開くまで待っているつもりのようだ。

ここの社務所は開いていることが珍しいらしい。
そのせいで、御朱印はレアもの扱いになっている。
あの人はレアものを無事ゲットできたのだろうか。



お気に入り名盤! ソニー・ロリンズ:Saxophone Colossus


 

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冬の山陰 水木しげるロード

2018年02月16日 | 旅行記

倉吉から米子駅経由で境港まで移動した。
昼食に1時間以上もかかったせいで、すっかり予定が狂ってしまった。
境港には着いたの時には16時を過ぎていた。
この時間になると雨を含んだ雪は凍り付き、車も走りにくくなっていた。
有料の駅前駐車場に車を停め、そこから水木しげるロードを歩いた。

最近、境港には大型客船が停泊するようになり、クルーズ客のインバウント消費があるのだという。
分からないものだ。
分からないと言えば、水木しげるロードはその典型かもしれない。
もともとは、シャッター商店街の再生のためのプロジェクトだった。
それが、2010年には年間観光客数が370万人を超え、2016年には累計観光客数が3000万人を超えた。
今や、鳥取砂丘を凌ぐ一大観光地になっているという。
観光客をさらに呼び込むために、道路を一車線にして歩道を広げるなどのリニューアル工事を行っている。
おかげで、いたるところ工事中で、歩きにくいことこの上なかった。
水木しげるロード
時間が遅いので、観光は「妖怪神社」と「ゲゲゲの妖怪楽園」だけにした。
「妖怪神社」のご神体は、高さ約10尺(約3m程)近くに及ぶ黒御影石と、樹齢300年の欅である。
御朱印も用意してあるのか思ったが、そこまで悪乗りはしてなかった。
「ゲゲゲの妖怪楽園」に向かって歩いていると、前方に「サラリーマン死神」が立っていた。
寒いのに大変だ。
観光客の多い時間帯にはもっといろんなキャラが登場するのかもしれない。
水木しげるロード


「ゲゲゲの妖怪楽園」は子供向けのアトラクション施設で、年配者にはただのお土産屋だ。
定番の妖怪ラテを注文した。
おでん缶にも食指が動いたが、結局買わなかった。


水木しげるロード
駐車場には来た道をそのまま戻るのだが、途中で、菓子類をかなり買い込んだ。
それなりに面白かったが、正直なところ、ここに370万人も来たことが信じられなかった。

翌日、松江駅の待合室で、鬼太郎のキャラクターが印刷されたバッグを持っている女性がいた。
ちょっと見は派手なバッグにしか見えない。
おそらく、水木しげるロードのお店で購入したのだろう。
気になってあとで調べてみたら、妖怪舎の「鬼太郎レジャーバッグ(600円)」という製品だった。
「食べて無くなる菓子類よりもバッグやグッヅの方が良かったかもしれない」と大いに後悔した次第である。


お気に入り名盤! ズート・シムズ:Down Home


 

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冬の山陰 香味徳の牛骨ラーメン

2018年02月15日 | 旅行記

白兎神社から倉吉白壁土蔵群に行く予定だった。
途中で昼食をとることにして、ここまできたからには鳥取名物の牛骨ラーメンを食べることにした。
白壁土蔵群の近くにある牛骨ラーメン屋を検索すると、「香味徳」という店がヒットした。
「食べログ」の評価もいいので、この店に行ってみることにした。

後で知ったのだが、香味徳という名の店はひとつではなかった。
香味徳赤崎店が本店で、ここからのれん分けしたのが、香味徳由良店と倉吉店だという。
また、本店の長男が銀座に、次男がハワイに支店を開設している。
店名の「香味徳」とは創業者の名前「紙徳(かみとく)」をもじったものである。

香味徳倉吉店は、倉吉のメインストリート県道22号から少し外れた住宅街にある。
近くには、メニューの数も駐車場の台数も桁違いの「大阪王将」がある。
ここで商売を続けられるだから、根強い地元のファンがいるのだろう。
香味徳
小さな店で、4人掛けのテーブルが4卓、2人用テーブルが1卓、カウンター席が6席あるだけだ。
昼時の12時半に入店だったが、中には12人の客がいた。
少し雰囲気が変だった。
ラーメンをすすっている客は一人だけで、後は漫画を読んでいるか、ボーっとしている。
事情はやがて分かった。
店主が一人で調理しているのだが、その手際が恐ろしく悪いのだ。
料理が出てくるまでに10分ぐらいかかる。
食べる時間も10分ぐらいだから、料理にありつけるのは店の中で1組だけということになる。
どうしてまとめて作らないのだろう。

こんな店はやめて大阪王将に行こうとも思ったが、大阪王将に牛骨ラーメンはないから、このまま待つことにした。
想定外の待ち時間のせいで、倉吉白壁土蔵群の観光は中止せざるを得なくなった。
結局、ラーメンが出てきたのは入店から70分も後だった。
牛骨ラーメン
薄いチャーシューに輪切りのゆで玉子が乗って550円、見た目は貧相だが味は悪くはなかった。
70分も待って食べるような代物ではない。
近くには大阪王将もあり、牛骨ラーメン屋は他にもある。
「こんな店には二度と行かない」、普通なら誰しもそう思うはずだ。
しかし、こんなに待たせても平然としているし、客も催促したり文句を言ったりもしない。
何故だろう。



お気に入り名盤! 寺井尚子:Jazz Waltz


 

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冬の山陰 白兎神社

2018年02月14日 | 旅行記

仁風閣から白兎神社に向かった。
鳥取市街を見たくて少し遠回りしたので、50分くらいかかった。

神社の前は「道の駅 神話の里 白うさぎ」になっている。
また、国道9号の上に歩道橋がかかっており、その先には白兎海岸がある。
白兎海岸は、神話「因幡の白兎」の舞台とされている場所である。
海岸を見てみたい気もしたが、雨が強くなってきたので断念した。
道の駅 神話の里 白うさぎ
白兎神社は、日本神話に登場する因幡の白兎を主祭神とする。
神話にちなみ、皮膚病、やけど、縁結びに霊験あらたかな神社とされている。
創建の由緒は不詳である。
白兎神社のHPには由緒について次のように書かれている。
「古事記に『此稲羽之素兎者也、於今者謂兎神也』と記されている由緒歴然とした古社である」
建物は概ね新しく、古社の雰囲気はない。
本殿が最も古い建物らしいが、それでも明治時代に再建されたものだという。
階段を上った先には、大国主神と八上姫の砂像があり、手水舎は人が近づくと「大黒様」の音楽が自動的に流れる。
この新しさと神話がどうもしっくりこない。
白兎神社
おみくじは中吉、「分別過ぎれば愚に返る」
「考え過ぎるとかえって愚かな結果を招く、最初のひらめきが良い結果を生む」とか。
こちらも、しっくりこない。

お気に入り名盤! 上原ひろみ:SPARK


 

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冬の山陰 仁風閣

2018年02月13日 | 旅行記

鳥取砂丘から仁風閣に移動した。
車でわずか15分の距離である。
仁風閣は鳥取城の扇御殿跡に建てられた西洋館で、国の重要文化財に指定されている。
当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として1907年(明治40年)に建てられたものである。

この頃の行幸啓は皇族の権威を地方に示すための行事である。
明治末期になると、明治天皇の行幸は軍事目的に限定されるようになり、地方視察は皇太子の役回りになった。
山陰行啓は最初の公式行啓で、これを契機に、松江や鳥取では鉄道や道路などのインフラ整備が行われた。
ただ、日露戦争後の厳しい財政事情から質素を旨とする通達が出され、宿泊施設には既存のものが利用された。
新築されたのは仁風閣だけだったらしい。
仁風閣
仁風閣のパンフレットには次のように書かれている。
「フレンチルネサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺二階建で、バロック風な軒飾りがほどこしてあり、・・・」
何のことやらといったかんじだ。
二階は皇太子の生活空間で、御座所、御寝室、御食堂があり、一階は随員が使用する施設になっている。
とても質素とはいいがたいが、建前は旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸として建てたということだったのだろう。
遠目には美しく見える建物も、間近で見ると外壁の痛みがひどく、また、壁板には隙間も散見される。
歩くと、廊下や階段の軋み音も気になった。

ところで、鳥取市は池田氏鳥取藩32万石の城下町である。
初代藩主・池田長吉は、池田恒興の三男で、輝政の弟である。
池田輝政は豊臣恩顧の大名だが、関ヶ原では徳川側につき、その武功により播磨姫路藩の初代藩主となった。
弟の長吉も兄に従い徳川側について、鳥取藩を得た。
後に徳川家の血筋が入り、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。
にもかかわらず、明治維新では官軍側につき、維新後華族になった。
なんと世渡りの上手な家系であろう。

翌日、松江城を訪問した。
その城内に興雲閣という名前の洋館が建っていた。
興雲閣
1903年(明治36年)に明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館だという。
日露戦争勃発により明治天皇の行幸は実現しなかったが、皇太子の山陰行啓時に宿泊施設として使用した。
無駄にはならなかったようだ。

お気に入り名盤! スタン・ゲッツ:Bossa Nova


 

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