徒然なるままに 

BGMはモダンジャズ、暇つぶしの自分史

森駅のいかめし

2012年11月30日 | グルメ

近くのスーパーで、「全国有名駅弁大会」という催しを行っていた。
用意された駅弁は、函館本線森駅「いかめし(500円)」、山陽本線西明石駅「ひっぱりだこ飯(980円)」、信越本線横川駅「峠の釜めし(1000円)、北陸本線富山駅「ますのすし(1300円)」など25種類。なかなかの品揃えだ。

いろいろ迷った末に、「いかめし」と「ひっぱりだこ飯」を購入した。
森駅の「いかめし」を手に取るのはこれが初めてだが、意外なほど小さい。冷えても美味いのか疑問に思ったが、固くて不味かった。時間が経ち過ぎると、よくないのかもしれない。
100_1308_r
材料のイカはニュージランド産だという。ニュージランド産のほうが柔らかく仕上がるという説明だが、信じがたい。

20年ぐらい前、晴海で行われた「みどり会」の優待販売会で、いか飯の実演販売をしていた。森駅とは違う業者だと思うが、このときのイカは大振りの函館産で、野球のボールのように膨らんだイカを輪切りにして提供された。文句なしに美味かった。
おそらく、定価500円を維持するには安い材料にせざるをえないということなのだろう。値段を守るよりも、地産地消を守ってこそ駅弁だ。

一方、ひっぱりだこ飯のほうは、電子レンジ対応になっているので、温めてから食べた。
こちらは美味かった。材料の蛸はもちろん明石産、駅弁はこうでなくてはダメだ。

 お気に入り名盤! ハービー・ハンコック:Maiden Voyage

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅ヶ崎義経伝説 弁慶塚

2012年11月29日 | まち歩き

国道1号線を茅ヶ崎から平塚方面に方面に進み、鳥井戸橋で右折。鶴嶺八幡宮の大鳥居をくぐった先の、右側の民家の庭の奥にある。個人のお宅なので、見学には多少抵抗がある。
塚は、小さな石碑が立っているだけのシンプルなもので、後ろに、由来を書いた看板がある。

 武蔵国稲毛(川崎市)の領主稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。
 源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えられている。

100_1146_r
この塚は、本来の場所から少し移して作り直されたもので、正確には「弁慶塚跡」ではない。
この日は、庭木の手入れ中らしく、塚の中に足場が組まれていた。この程度の代物である。

平泉の中尊寺参道入り口の前に、「弁慶の墓」がある。
こちらは大きな石碑で、周囲も庭園風に綺麗に整備されていた。
同じ史跡でも随分違うものだ。

 お気に入り名盤! レイ・ブライアント:Ray Bryant Plays

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅ヶ崎義経伝説 御霊神社

2012年11月28日 | まち歩き

国道1号線を茅ヶ崎から平塚方面に方面に進み、鳥井戸橋で左折。東海道線のガードをくぐり、最初の交差点(浜見平北口)を左折すると、「義経小路」の看板がある。

御霊神社の由来が書かれた看板も出ているが、文体が古いので読みづらい。この看板から、狭い道をかなり歩いた先に、御霊神社がある。周囲を民家に囲まれた小さな神社だ。こちらには、現代文で書かれた由来が掲げられている。

 御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。
 御霊神社の創建年代は不詳であるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御霊神社になったものである。
 言い伝えによれば、治承年間(1177年~1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。
 建久九年(1198年)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。
 里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。
 後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。
 現社屋は昭和四年再建したものである。

100_1136_r

ここに祀られているのは、由来に書かれているように、鎌倉権五郎景政と源義経である。
西運寺はこの裏にある。

それにしても、800年の歴史ある史跡とは思えない、何とも粗末な神社だ。藤沢の御霊神社とは雲泥の差である。建物はともかく、周辺環境もよくない。明治維新の廃仏毀釈の影響で、このような乱暴な取扱いになったのであろう。形が残っただけでも幸運というべきかもしれない。

歴史の過ちというのは取り返しがつかないものだ。

 お気に入り名盤! ダラー・ブランド:african piano

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅ヶ崎義経伝説 旧相模川橋脚

2012年11月27日 | まち歩き

義経伝説や平家の落武者伝説は日本中いたる所に存在するが、茅ヶ崎も例外ではない。

国道1号線を茅ヶ崎から平塚方面に方面に進み、小出川に架かる下町屋橋の手前に、国指定史跡の「旧相模川橋脚」がある。1923年(大正12年)の関東大震災と翌年の地震によって、水田の中から突如檜の丸太が出現した。その後の調査で、この丸太は、1198年(建久9年)、源頼朝の重臣稲毛三郎重成が、亡妻供養のために相模川に架けた橋の橋脚とされた。

現在の相模川は、「旧相模川橋脚」より、約800m西にある。当時、相模川はよく氾濫を起こし、たびたび進路を変えたらしい。多くの中州が形成され、そのときの名残で、懐島、柳島、中島、矢島など、島がつく地名が今も多く残っている。

頼朝は、この橋の竣工式を終え帰路に就いたとき、義経や弁慶の亡霊に遭い、驚いた馬が暴れて落馬した。このときの怪我が原因で17日後に死亡したと言われている。
100_1090_r

もっとも、頼朝の死については諸説あり、今は北条氏による謀殺説が有力らしい。
頼朝の死の前後して多くの近親者が死んでいる。頼朝の長女・大姫、親幕派の一条能保・高保親子、畠山重保、梶原景時、稲毛重成、頼朝の弟・阿野全成、源頼家、比企一族と次々と滅ぼされ、北条氏が実権を握ることになる。

謀殺説のほうが正史のように思えるが、話としては義経や弁慶の怨念ほうが面白い。

 お気に入り名盤! ヴィレッジ・ストンパーズ:The Village Stompers

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちがさきVELO Festival

2012年11月26日 | まち歩き

11/23(金)、茅ヶ崎中央公園で「ちがさきVELO Festival」が開催された。
よく分からないイベントだ。HPによると、

自転車利用促進、安全啓発活動に積極的に取り組んでいる「自転車のまち」茅ヶ崎市とその活動を広く全国の人に知ってもらう自転車の都市型総合イベントです。市民をはじめとした参加者に安全な自転車利用について、様々な角度から皆さんと一緒に考え、遊び、体験していただきます。合わせて、本年度開催されたロンドンオリンピック自転車ロードレースに茅ヶ崎市から出場した別府史之選手を迎えて報告会を行うほか、エキシビションレースとして、クリテリウムを開催します。

VELOとは、フランス語で自転車のこと。クリテリウムとは、市街の短い距離の周回コースを走るロードレースのことで、この日は茅ヶ崎中央公園の外周道路を別府選手が走ることになっていた。

公園に行ったのは昼頃。
朝から冷たい雨が降り、クリテリウムが実際に行われたのかどうかは分からない。公園の奥では、市長も参加したトークイベントが行われていた。少し聞いていたが、「茅ヶ崎は自転車先進国」みたいなことを言っていた。面白くないので、早々にその場を離れた。
100_1271_r
公園入口の模擬店のほうに移動。沖縄そばとか珍しい店が出ていたが、仲間内で駄弁っているばかりで、実に不快。「湘南GANKO肉巻き屋」が真面目に営業しているように見えたので、1個購入。値段は350円。まあまあだった。
100_1274_r
茅ヶ崎は「日本の中国」と言われた。
朝の通勤・通学の時間帯に、自転車に乗ったサラリーマンや学生が駅に集まってくる様子を揶揄したものだ。その数の多さに加え、傍若無人ぶりは、確かに中国のようだった。

市では、「自転車の利用促進」をまちづくりの重要な施策として位置づけ、駐輪場や道路の整備に加え、マナー教育にも注力する方針だ。背景を知れば、「ちがさきVELO Festival」の意義も理解できる。

 お気に入り名盤! ディジー・ガレスピー:"GROOVIN" HIGH

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜名物サンマー麺

2012年11月25日 | グルメ

秘密のケンミンショーで、「サンマー麺」を横浜のソウルフードとして紹介していた。
横浜にはよく行くが、どこにでもあるほど普及しているようには思えないし、「もやしそば」との違いも良く分からない。

「サンマー麺」の事情は、「かながわサンマー麺の会」のHPに詳しく説明されている。この中で、「サンマー麺」はとろみを付けるが、「もやしそば」はとろみを付けないと書いてある。しかし、自分の知っている「もやしそば」は、とろみ付きだ。さらに、「サンマー麺」には明確な定義がないとも書いてある。これでは、「もやしそば」との違いを説明できるはずもない。

結局、店主がサンマー麺と言えばサンマー麺になる、というだけのようだ。
100_1124_r
地元に1軒だけ、「サンマー麺」をだす店がある。
ベースは塩ラーメンで、餡の具は、もやし、キャベツ、たまねぎ、ひき肉。「もやしそば」より餡の量が多く、皿うどんのようだ。

マルハニチロの冷凍食品に「横浜あんかけラーメン」というのがある。ヒット商品で、とても美味い。最近、パッケージに小さく「生碼麺」と書いてあることに気付いた。「生碼麺」は「サンマー麺」と読む。でもこれは、「広東麺」だ。

よく分からない横浜名物である。

 お気に入り名盤! 川上さとみ:スウィートネス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津紀行 奥会津書房

2012年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

奥会津書房は、三島町にある小さな出版社。
代表の遠藤由美子さんは、地元ではかなりの有名人だ。

少し前にBS朝日で放送された「にほん風景遺産 只見川の恵み~原風景の里で暮らす人々~」の最後に、遠藤さんが登場し、過疎対策について語った。
「それぞれの地域、集落では、伝統的な自立の仕組みがあり、それを丁寧に拾い上げて、今の時代にあう形に変えていければ、外に職を求めなくても済む」
記憶の彼方に失われつつある自立のヒントを記録していくことが出版活動の目的のようだ。
Pic20121111_01

考えてみれば、奥会津に多くの原風景が残る理由は、この地域が経済的に発展しなかったからである。同時にそれは、衰退という形で消滅に向かっている。
「村が寂れるのは嫌だが、子供達に同じような苦労をさせたくない」という親心を否定できない。
遠藤さんの考えは、「地域の経済的発展を望むよりも、地域の素晴らしさを理解し、ここに残りたい、ここに戻りたい、ここを守りたいと思う人たちが、地域の歴史の中から、ささやかな暮らしを守る術を見つけてくれればいい」ということなのだろう。
愛おしい日本の原風景を後世に残すということは、物質的、金銭的欲求を捨てることから始まる、精神世界なのかもしれない。

 お気に入り名盤! 大西順子:ピアノ・クインテット・スイート

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津紀行 喰丸小学校

2012年11月21日 | 旅行記

昭和村には、もうひとつ有名なものがある。30年前に廃校になった喰丸小学校である。
四角い窓と板の調和が美しい築75年の木造校舎が現存する。老朽化で取り壊される予定だったが、映画で使われることになり、延期された。その映画の撮影も終わり、もはや風前の灯である。取り壊される前に是非見ておきたいと思い、立ち寄ることにした。

この日、小学校の校庭では、「第1回イチョウまつり」というイベントが開催されていた。静かに最後の時を過ごす校舎の姿を見届けるはずが、想定外のお祭り騒ぎだ。
_20121103_06_r
翌日の朝日新聞によると、

「イチョウまつり」は映画をきっかけに集落に祭りを復活させようと、農村環境の保全に取り組む「喰丸地区農水環いちょうの会」が企画した。小学校の校庭がにぎわうのは昭和40年代の盆踊り以来という。同会は喰丸地区の52戸全戸が会員。イチョウ色のはっぴを着て、沿道にのぼりを立て、準備してきた。当日は時折、冷たい雨が降る天気だったが、校庭にテントを据え、住民が焼き鳥や揚げイモ、特製カレーなどを販売。イチョウの幹には紅白の幕が巻かれた。ステージでは村出身のアマチュア歌手が「故郷(ふるさと)」を歌い、地元のおやじバンドが懐かしのメロディーを熱演。郷土芸能の新田笠踊りも披露された。
普段は時が止まったようにたたずむ古い小学校に、集落の人口の倍の300人以上が集まった。主婦たちがチンドン屋に扮した「いちょう一座」が校舎から出て会場を練り歩くと、爆笑の渦が広がった。・・・

_20121103_23_r
到着したとき、催し物は既に終わっていたが、テントの下で食事をする人がまだ沢山残っていた。
雨でぬかるんだ駐車場にクルマをとめて、200円のコーヒーを片手に、小学校の外観を見て回った。

裏に回ったとき、荒廃がすすむ校舎の現実を目の当たりにした。修復する意思はなさそうで、冬を迎える前に解体されるのだろう。「イチョウまつり」は、喰丸小学校のお別れ会なのかもしれない。

 お気に入り名盤! レイ・ブライアント:Ray Bryant Trio

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津紀行 昭和村

2012年11月20日 | 旅行記

かつて昭和村というのは日本中に存在したが、統廃合がすすみ、今は群馬県と福島県の二つだけになった。群馬県の昭和村は人口7500人、野菜の一大産地であるが、福島県の昭和村は人口1450人、高齢化率55%の限界集落である。

この昭和村の特産品が「からむし」で、「からむし織りの里」と名乗っている。
_20121103_08_r_2
「からむし」は、越後上布や小千谷縮など伝統織物の原糸で、山里の貴重な換金商品だったが、戦後は安い化学繊維の普及や着物需要の縮小によって、かつての豊かさを失った。
今は、「からむし」に代わって、かすみ草が村の経済を支えている。
_20121103_04_r
「からむし織の里」という村で唯一の観光施設がある。
からむし織り体験が出来る「織姫交流館」、からむし織りの伝統を伝える「からむし工芸博物館」、郷土料理の「芋麻庵」からなる。それ以外は周りに何もないので、奈良の石舞台古墳のような雰囲気だ。

意外だったのは、観光客の多さである。女性客が、売店に展示されている高価な「からむし織り製品」に群がっていた。紅葉が見ごろのこの時期だけのことかもしれないが、駐車場には遠方からのクルマも少なくなかった。

限界集落の寂れた感じはなく、山里の整然とした営みが感じられた。
限界集落になると、近隣の自治体と合併する救済策が取られる。ここも会津坂下町との合併話があったらしいが、今も独立した自治体として存続している。
いつまでも、昭和村としての歴史を紡いで欲しい。

 お気に入り名盤! ビリー・ホリディ:Strange Fruit

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津紀行 只見線

2012年11月19日 | 旅行記

只見線は、会津若松駅 - 小出駅 135.2kmの山岳路線。只見川渓谷を縫うように走る姿は多くの鉄道ファンを魅了してきた。

突然の不幸は、昨年の7/30に発生した。記録的な集中豪雨による濁流に襲われ、会津川口 - 会津大塩間で只見川第5 - 第7橋梁が流失、また会津坂本 - 会津柳津間で路盤が流出し、会津坂下 - 小出間が不通になった。見るに堪えがたい惨状である。

あれから一年余りが経ち、会津若松 - 会津川口間、小出 - 只見間は開通したが、会津川口 - 只見間は今も不通のままだ。駅や線路には雑草が生い茂り、護岸工事も含め、復旧作業が進んでいるようには見えなかった。
_20121103_18_r
赤字路線にもかかわらず廃線を免れてきた理由は、冬季は国道252号線の六十里越が通行止めになり、只見線が福島県只見地区・新潟県魚沼地区間の唯一の交通手段となるためだ。小出 - 只見間が開通したことで、もはや全線復旧させる理由はなくなった。会津川口 - 只見間は、田子倉ダム建設の資材運搬用につけられた路線であるため、そもそもの存在理由は既に消滅している。JRは不通区間を廃線にしたいらしい。

只見駅の売店の店員は「断固阻止しなければ」と憤り、会津川口駅のJR職員は「目下、調査中です」と言葉を濁した。廃線は観光客の足を遠のかせ、過疎化を加速する。
なんとしても復旧してもらいたい。

 お気に入り名盤! オスカー・ピーターソン:Night Train

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする