このエッセイというか芸能史というかは、スポーツニッポンに「阿久悠のテレビ三国志」として1992年10月から翌年4月まで半年間連載されたもの。
そして1993年6月に単行本となり、1997年8月小池書院の道草文庫となり、2007年12月に文春文庫となったものである。
つまり書かれてから15年を経過していることになる。
それなのに、なんだか現時点で書かれたように思ってしまうほどなのである。
阿久悠が活躍したあるいは最盛期だったころは、ちょうど私の青春期である。
阿久悠の書いた歌が与えた影響は大きい。
吉田拓郎の歌が「現実」若しくは「私小説」風で、その生き方を現して影響を与えたものであるなら、阿久悠の歌は経験と計算とからつくられている「物語」のようで、それが作り物のように思えず、なんだか心を打つのである。(まあ心をうたないものもなくはなかったのだが)
さて、この夢を食った男たちの冒頭は「桜田淳子」と「岩崎恭子」の話からはじまる。
桜田淳子といえば、ワタシ、初めて夢中になったアイドルである。
それがまああのようなことで引退をしてしまい、残念に思っていたのであるが、この本には中学2年生でデビューをしてあのようなことになってしまった桜田淳子と丁度そのときオリンピックで金メダルをとった岩崎恭子とを較べて、阿久悠は感慨にふけるのである。
桜田淳子は「光っていた」ということ、そして「スター誕生」という番組の成り立ちと、大きくなっていくさま、そこに登場した人物、あるいは自分の生き方、その後の人生について、さまざまに思い出し、彼はつづるのである。
その中に登場する人物で表舞台に出ている人たちは、こちらも知っているのである。
名前を出されただけで思い出せるのである。
そういうところが、この本を読んでいて、なお深く思い巡らすものがあると思う。
桜田淳子、森昌子、山口百恵、あるいは伊藤咲子、黒木真由美、岩崎宏美、小林美樹、そしてピンクレディー。
これらの歌手(アイドル)たちだけではなく多くの人間を見つめながら、依頼のあるままに作詞をしてヒットさせる。
ああ、やっぱり凄かったんだなあ、と思うのである。
そして、彼は芸術家という作詞、つまり心から湧き上がるものを掬い取ったりするような作詞ではなく、それぞれのテーマに応じて書くという「仕事」として作詞のようななのである。
それゆえに枯渇することなく続けられたのではないかと思う。
何であれ、この本を読むと昔を思い出し、阿久悠が活躍した時代はよかったなあ、としみじみ思うのである。
いまでは、日本人全体に流れる「思い」のようなものが歌となることはない。
芸能史という形でも読むことが出来るし、阿久悠がそのつど思ったことのエッセイということでもあるが、人間たちの生き様がドラマのようでもあり、さまざまな出来事が交錯して社会というのが成り立っているんだなあ、ということまで考えさせられる、久々にワクワクしながら読んだ本であった。
そして、日本という国の中で色々なものがバラバラになったのは、もしかしたら「平和」であることだとしたら、それはなんだかすごく恐ろしいことのように思え、読み終えてため息をついたのであった。
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そして1993年6月に単行本となり、1997年8月小池書院の道草文庫となり、2007年12月に文春文庫となったものである。
つまり書かれてから15年を経過していることになる。
それなのに、なんだか現時点で書かれたように思ってしまうほどなのである。
阿久悠が活躍したあるいは最盛期だったころは、ちょうど私の青春期である。
阿久悠の書いた歌が与えた影響は大きい。
吉田拓郎の歌が「現実」若しくは「私小説」風で、その生き方を現して影響を与えたものであるなら、阿久悠の歌は経験と計算とからつくられている「物語」のようで、それが作り物のように思えず、なんだか心を打つのである。(まあ心をうたないものもなくはなかったのだが)
さて、この夢を食った男たちの冒頭は「桜田淳子」と「岩崎恭子」の話からはじまる。
桜田淳子といえば、ワタシ、初めて夢中になったアイドルである。
それがまああのようなことで引退をしてしまい、残念に思っていたのであるが、この本には中学2年生でデビューをしてあのようなことになってしまった桜田淳子と丁度そのときオリンピックで金メダルをとった岩崎恭子とを較べて、阿久悠は感慨にふけるのである。
桜田淳子は「光っていた」ということ、そして「スター誕生」という番組の成り立ちと、大きくなっていくさま、そこに登場した人物、あるいは自分の生き方、その後の人生について、さまざまに思い出し、彼はつづるのである。
その中に登場する人物で表舞台に出ている人たちは、こちらも知っているのである。
名前を出されただけで思い出せるのである。
そういうところが、この本を読んでいて、なお深く思い巡らすものがあると思う。
桜田淳子、森昌子、山口百恵、あるいは伊藤咲子、黒木真由美、岩崎宏美、小林美樹、そしてピンクレディー。
これらの歌手(アイドル)たちだけではなく多くの人間を見つめながら、依頼のあるままに作詞をしてヒットさせる。
ああ、やっぱり凄かったんだなあ、と思うのである。
そして、彼は芸術家という作詞、つまり心から湧き上がるものを掬い取ったりするような作詞ではなく、それぞれのテーマに応じて書くという「仕事」として作詞のようななのである。
それゆえに枯渇することなく続けられたのではないかと思う。
何であれ、この本を読むと昔を思い出し、阿久悠が活躍した時代はよかったなあ、としみじみ思うのである。
いまでは、日本人全体に流れる「思い」のようなものが歌となることはない。
芸能史という形でも読むことが出来るし、阿久悠がそのつど思ったことのエッセイということでもあるが、人間たちの生き様がドラマのようでもあり、さまざまな出来事が交錯して社会というのが成り立っているんだなあ、ということまで考えさせられる、久々にワクワクしながら読んだ本であった。
そして、日本という国の中で色々なものがバラバラになったのは、もしかしたら「平和」であることだとしたら、それはなんだかすごく恐ろしいことのように思え、読み終えてため息をついたのであった。
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