文化人類学者の山口昌男が亡くなった。81歳。僕は70年代半ばに、山口昌男の文章を浴びるように読んでいた時期があって、非常に大きな影響を受けた一人である。山口昌男も亡くなったのかと時代の過ぎ行く速さに驚く。
山口昌男は元々東大の国史を出たが、その後都立大の大学院へ移って文化人類学を学んだ。卒業後、一時麻布中学で教えていたこともある。東京外国語大学に迎えられ教授となり、長く務めた。静岡県立大を経て、20世紀末からは札幌大学学長を務めていた。71年に岩波新書で「アフリカの神話的世界」を刊行、同時期の「人類学的思考」「本の神話学」などで、文化人類学に止まらず、およそ「知」の興味関心の向かうところなんでも論じるという、驚くべき博識と幅広さを示した。読み始めたのは70年代半ばで、大学生だった僕はその幅広さは言うに及ばず、世界の独自の見方に大きな影響を受けたのである。
それは70年代半ばの著書名をあげるとよく判るが、例えば「道化の民族学」「道化的世界」「文化と両義性」「知の祝祭」…などなど。ここで「道化」と言っているのは、山口用語では「トリックスター」と書かれていた。「中心と周縁」というのも、代表的な山口用語。その頃、「朝日ジャーナル」「世界」「中央公論」などに連載を持っていて、僕は中公まで毎号買っていたものだ。アフリカでのフィールドワークをもとに独自の「王権論」を展開して、「王殺し」「トリックスター」などをキーワードに「王権」の神話的構造を論じて、さらにそれを日本の天皇制分析に応用した。能楽など古典に見る王権構造を分析したもので、従来の左右の天皇制論者には理解不能だったろう。
「新しい左翼入門」(講談社現代新書)の書評を去年書いたが、その本には「世界を上下に分けて、下に味方するのが左翼」と定義している。こういう言い方は面白いし、判る気もするけど、ぼくにはどうも「世界を上下に分けたり、内外に分けたりできるのか」という感じもする。マルクス主義的世界観では「上部構造」「下部構造」で世界を理解するが、ではそのマルクス主義を名乗って国家を建設したソ連や中国の政治を「下部構造」の経済や階級闘争だけで理解できるのか。それよりそれぞれの国家にある「文化」の構造が政治を左右している点も大きい。ナチスやスターリニズムと、同時代の中国文化大革命や自民党の「角福戦争」(田中角栄と福田赳夫のし烈な党内争い)なんかを同じ「政治」としてとらえるためには、「中心と周縁」理論の方が使いやすいように思ったのである。だから、世界は「真っ二つに分けられるもの」ではなく、「中心が二つある楕円」が「いくつも重なりあったもの」のように僕に見えてきたわけである。
まあそういう難しい話はともかく、文学、演劇、映画、音楽、美術、建築などを論じながら、政治や歴史、国際問題なども考えるという知的な世界のあり方が僕には非常に魅力的だった。今は昔ほど「学問的な縄張り」はないかもしれないが、逆に幅広い関心を持ち続けることも少なくなったような気がしてならない。いくらインターネットが普及したと言っても、若い時は本を乱読し、ナマの芸術にたくさん触れることしか自分の世界を広げるすべはないと思う。山口昌男の本なんかは、若い人に「良き道しるべ」となるはずである。
山口昌男は元々東大の国史を出たが、その後都立大の大学院へ移って文化人類学を学んだ。卒業後、一時麻布中学で教えていたこともある。東京外国語大学に迎えられ教授となり、長く務めた。静岡県立大を経て、20世紀末からは札幌大学学長を務めていた。71年に岩波新書で「アフリカの神話的世界」を刊行、同時期の「人類学的思考」「本の神話学」などで、文化人類学に止まらず、およそ「知」の興味関心の向かうところなんでも論じるという、驚くべき博識と幅広さを示した。読み始めたのは70年代半ばで、大学生だった僕はその幅広さは言うに及ばず、世界の独自の見方に大きな影響を受けたのである。
それは70年代半ばの著書名をあげるとよく判るが、例えば「道化の民族学」「道化的世界」「文化と両義性」「知の祝祭」…などなど。ここで「道化」と言っているのは、山口用語では「トリックスター」と書かれていた。「中心と周縁」というのも、代表的な山口用語。その頃、「朝日ジャーナル」「世界」「中央公論」などに連載を持っていて、僕は中公まで毎号買っていたものだ。アフリカでのフィールドワークをもとに独自の「王権論」を展開して、「王殺し」「トリックスター」などをキーワードに「王権」の神話的構造を論じて、さらにそれを日本の天皇制分析に応用した。能楽など古典に見る王権構造を分析したもので、従来の左右の天皇制論者には理解不能だったろう。
「新しい左翼入門」(講談社現代新書)の書評を去年書いたが、その本には「世界を上下に分けて、下に味方するのが左翼」と定義している。こういう言い方は面白いし、判る気もするけど、ぼくにはどうも「世界を上下に分けたり、内外に分けたりできるのか」という感じもする。マルクス主義的世界観では「上部構造」「下部構造」で世界を理解するが、ではそのマルクス主義を名乗って国家を建設したソ連や中国の政治を「下部構造」の経済や階級闘争だけで理解できるのか。それよりそれぞれの国家にある「文化」の構造が政治を左右している点も大きい。ナチスやスターリニズムと、同時代の中国文化大革命や自民党の「角福戦争」(田中角栄と福田赳夫のし烈な党内争い)なんかを同じ「政治」としてとらえるためには、「中心と周縁」理論の方が使いやすいように思ったのである。だから、世界は「真っ二つに分けられるもの」ではなく、「中心が二つある楕円」が「いくつも重なりあったもの」のように僕に見えてきたわけである。
まあそういう難しい話はともかく、文学、演劇、映画、音楽、美術、建築などを論じながら、政治や歴史、国際問題なども考えるという知的な世界のあり方が僕には非常に魅力的だった。今は昔ほど「学問的な縄張り」はないかもしれないが、逆に幅広い関心を持ち続けることも少なくなったような気がしてならない。いくらインターネットが普及したと言っても、若い時は本を乱読し、ナマの芸術にたくさん触れることしか自分の世界を広げるすべはないと思う。山口昌男の本なんかは、若い人に「良き道しるべ」となるはずである。
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