尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ジョルダーニ家の人々」

2012年09月08日 00時11分33秒 |  〃  (新作外国映画)
 岩波ホールのイタリア映画「ジョルダーニ家の人々」。6時間39分という大河映画である。長いからなかなか行けなかったけど、14日で終わってしまうからようやく行った。

 岩波ホールは、かつてはあれほど貴重な映画を初公開してくれたわけだが、ミニシアターがあちこちにできたあたりから、高齢女性客向けのラインラップが多くなってきた。ベストテンにもしばらく入選していない。(調べたら多分2005年のイラン映画「亀も空を飛ぶ」以来、一本もないと思う。)ということで、若い映画ファンには岩波ホールを知らない人が結構いるようだ。今日もまだ大学はやってないだろうに、若い客は誰もいなかった。(女性が8割ほど。)岩波ホールを知らないで、東京で映画ファンと言えてしまうのも困ると思うので、紹介しておく次第。(地下鉄神保町駅の真上。大体神保町書店街を知らない大学生自体があり得ないと思うけど。)

 もっとも1日1回上映。13時40分に始まり、21時15分まで。途中3回休憩という長大な時間を要するので、なかなか行くのも難しい。一般当日券3000円、学生2800円というのも高い。まあ映画4本分あると思えば、安いとも言えるけど。僕は岩波ホールの会員組織エキプ・ド・シネマが1974年に発足して以来の会員なので、会員の前売り券を買っていた。それだって普通よりずいぶん高いので無駄にするわけにはいかない。

 僕はイタリア映画が大好きで、数年前の「輝ける青春」という長大な作品も素晴らしかった。つい最近では、ナンニ・モレッティの「ローマ法王の休日」が佳作だった。(カトリックでは「教皇」と言って欲しいと要望し、教科書はみな「ローマ教皇」なのに、どうしていつまで「法王」と訳すんだろうね。)「ジョルダーニ家の人々」はテレビ映画が劇場公開されたものだが、現代イタリアのローマに住むある家族の数年間の激動、痛みと赦しの日々を丁寧に描いている。僕は全く長さを感じなかった

 父はなんか高給の仕事らしく、母は医者だったけど子どもが出来て辞めた。姉はカウンセラーで妊娠中、長男は国家公務員でPKOで派遣されていたけれど今日帰国する。次男は建築科の大学生。三男は高校生で彼女がいる。それから悲劇、心のやまい、出会い、別れ、同性愛、難民問題、アフガンやイラク戦争、ロシア・マフィア、麻薬などなど、いろいろ関わってきて…。最後になると、血のつながらない子どもをかかえ、イラクから来た難民を含めた「大家族」になって終わる。おやおや、という感じだけど、大河ドラマでやはりテレビ的で少し描写が判りやすすぎる感じもするけど(映画芸術的には時間を半分に削れると思う)、登場人物と親しくなっていくのでこのくらい時間があった方がいい。

 日本の感覚からすると、えっと思うシーンもいくつかあるけれど描写も美しく、イタリア語の響きもステキ。数年間を描くので、何人かの登場人物には悲劇も起こるが、「家族の絆」が見応えがある。今の日本より深く結ばれている感じ。それと隅々の描写を見ていて、「やはりヨーロッパは豊かだな」という思いもする。経済状況はイタリアも大変なんだけど、アメリカ映画だとアメリカも大変だなあとか「貧しい」(料理なんか)と思う時も多いけど、ヨーロッパの映画を見ると、貧困を扱うケン・ローチやダルデンヌ兄弟の映画なんかを見ても、街がきれいだなと思う瞬間もある。それが日本と違う。日本だと自然は美しいが、日常を写すと広告だらけだから。
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品川区の「いじめた子は出席停止」問題

2012年09月06日 23時21分04秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 昨日旅行から帰ってきてNHKニュースを見たら、品川区教委「いじめた子は出席停止に」という制度を積極的に適用するという方針を打ち出したというニュースを伝えていた。午前0時からの番組には若月教育長が出演して意義を語っていた。今日の新聞を見ると、東京新聞は大きく取り上げているが、朝日新聞には全く載っていない。全国紙に載っていないので知らない人も多いだろう。この問題をどう考えればいいだろうか。

 結論を最初に書いてしまえば
①今回区教委は積極運用するという方針を打ち出しているが、その方針には意味がないものが多い
②現場で使いづらい制度であることは変わらないので、品川区教委の方針は今のままでは無意味である
③この「出席停止」制度は、制度そのものに疑問が多い

 順番に説明しておきたい
 品川区の小中学校では、今まで出席停止措置を実行したことはないと言う。この措置自体は従来からあって、東京新聞によれば2010年度には全国で中学校51件に「とどまっている」。新聞記者は「とどまっている」と書くが、全国で50人以上が出席停止になっているのか。それは知らなかった。「相当多く使われている制度」であると言うべきだろう。しかし、「保護者に理解を得にくいなどのこともあり」、なかなか使われていない制度であると言う。それに対し、事務手続きのマニュアルを定めた冊子を小中教員1000名に配布。保護者会でも説明し、子どもたちにも授業で教えるように求めた。

 これでは、積極的な適用を求める新政策になっていない。テレビで説明があったが、出席停止にするためには、学校と保護者と教育委員会の間に、結構複雑な書類のやり取りがある。今まであまり使われていない理由の一つは、この手続きの面倒くささである。よって、本当に「出席停止で学校がよくなる」と信じているのなら、大胆に制度設計を見直し、教育行政の責任をはっきりさせなくては意味がない。
出席停止の権限を全面的に校長の判断にゆだねる
保護者等と問題が起きた場合の責任は全面的に区教委が負う
出席停止中の生徒の家庭訪問などは、全面的に区教委の指導主事が行う
 
 ここまで打ち出すと言うのなら、区教委は全面的に学校現場を支援してこの制度を使う気だと皆思うだろう。全教員に「マニュアル」を配るなんてしても、数年すれば教員はほとんど異動してしまう。事務手続きの流れは管理職に周知徹底されていればいいのであって、担任一人ひとりが細かく知っている必要はない。だからマニュアルは学校に数部あればいいのである。

 僕が昔中学に勤務していた頃は、「出席停止」という措置があるということは知っていたが、ほとんど実用の対象になっていなかった。高校に異動したら、「特別指導」という名前で、問題行動を起こした生徒を自宅謹慎または学校登校謹慎をさせるという「指導」を行っていた。恐らく全国どの高校でも行われているのではないかと思う。中学に比べて恵まれているという思いも最初はあったのだが、だんだん様々なケースを経験してみると、「一長一短」あると思うようになった。

 高校は義務教育ではないので、「退学」「留年」という措置がある。生徒がなんとか高校を卒業したいと思っている場合、学校側が生徒に「授業に出席せずに反省を求める」ことには有効性がある。高校で問題行動を複数回起こせば、学校ごとに細かいルールは違っているだろうが、「進路変更を求める」ことになるだろう。事実上の退学処分に近いが、あくまでも「自発的に退学願を提出する」という形を取る。何度も指導を繰り返す中で、これ以上この学校で学習を続けていくことは難しいという判断を、学校もだが保護者、本人も大体共有していくものである。(大体は「今度問題を起こしたら進路を変更する」という事前確認をその前の事件のときにやっておくことになる。)

 一方中学では生徒を退学させられない。授業に出ていなければ、卒業・進学が不可になる制度があることはあるのだが、教室で授業を受けられなくても保健室登校、フリースクールや適応教室などでも出席とみなす柔軟な対応をするようになっているから、ほとんど適用されないだろう。成績が「1」でも留年はないし、問題行動を起こしても(たとえ鑑別所や少年院に入ったとしても)、元の学校に籍があって戻ってくれば進級するわけである。こういう中学の状況では、確かに「出席停止」が意味を持つ感じもするだろう。

 でも、「出席停止」は実際は難しい。本人・保護者が納得していなければ、「出席停止」は逆効果の場合が予想される。最初から「出席停止1か月」はありえないので、一週間もすれば戻ってくる。その間に授業や行事なども進んでしまっている。本人が納得して反省しているなら、あえて出席停止にする意味はないし、反省せず指導に従う気持ちがないなら無意味である。「出席停止」にしても、納得していないで学校に来てしまったらどうするんだろう。いじめ問題の話なんだから、家でおとなしく謹慎していないで公園かななんかで「待ち伏せ」して、校外でいじめを続けるのを誰も防げないだろう。また「出席停止」はインフルエンザとか忌引きと同じで、学校の側が来なくていいと言ってるわけだから「欠席数」には入らない。学校に来て部活したいと言う生徒には「来るな」は効くが、粗暴タイプで勉強嫌いのいじめっ子には「出席停止」が嬉しくて仕方ないだろう。自習課題はたくさん出す、毎日家庭訪問する、担任は朝電話するなどはするだろうが、いつもより朝寝して昼間もテレビ見たりゲームしたりできてしまう。親の大部分は働いているだろうから、子どもをずっと見張っているわけにはいかない。そういう生徒の実態があるから、「出席停止」には意味がなく、逆に「野放し」にしてしまう危険性を感じてしまうわけだ。

 ところで、そういう実際には使いづらい制度を、どんどん使っていこうと言うのは何故だろうか。今、高校では「退学」「留年」があるが、中学にはないと言うことを書いた。ということは、義務教育段階でも「留年」制度があれば、出席停止で授業に出させない状態が続いたら「留年」(卒業不可)の可能性が高くなる。ゆえに「留年」したくない生徒は「出席停止」を非常に恐れると言う可能性が考えられる。大阪市の橋下市長が「義務教育の留年」を言い出したことがあるが、どうもそこにつながっているのではないか。その問題が出てくる前提として、「いじめっ子は出席停止」、授業にほとんど出ていない生徒は「留年させるべきではないか」という方向に進んで行くのではないかと思うのである。

 僕は小中での留年は全く無意味であると思う。学校が純粋に「学力養成機関」であるならそれもいいが、実際は義務教育段階では「地域の同年齢集団」的性格が強い。高校でも留年すると退学してしまう生徒が多い。一緒に入った同学年生徒から「脱落」するのが嫌だからである。中学段階で「留年」すれば、大病(大ケガ)で入院していた場合などを除き、ほとんどは下の学年になじむことは難しいと思う。その結果、中学卒と言う学歴がない低学力青年を大量に生むことになる。何とか同年代集団のまとまりを利用して、できるだけ高校まで、最低でも中学卒にはしなければいけないだろうと思う。

 もう一つ、実際に使うかどうかは別にして、「抑止力」として「出席停止」を使う。学校はそれほど強い権力を有していると生徒に示す手段にするということもあるだろう。そうすると制度は使わないといけないので、各校一人は在任中に出席停止にしないと校長は評価されないという時代が来るのかもしれない。しかし、これは「死刑制度」に対する僕の反対論と同じで、制度の理解を間違え生徒の心を荒廃させる結果につながると思う。「いじめっ子」も怖いかもしれないが、先生も怖いわけで、さらに権力を誇示されると相談したくてもしにくくなる。

 品川区は東京で一番最初に、義務教育段階での「学校選択制」を始めた所で、以後も小中一貫校など「先進的」な教育行政を打ち出してきた。「先進」というのは新自由主義的に突出と言う意味で、教員からすれば大変な勤務地区だと言われる。品川区からは早く異動したいという声があると前に聞いたことがある。「品流し」という言葉さえあるという。そういう競争的な教育政策を見直していく方向ではなく、学校権力を強めると言う方向で打ち出したのが今回の方針だと思う。が、今書いたようにそれだけではほとんどいじめ防止に意味はないはずだ。
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日光でウォーキング

2012年09月06日 00時36分39秒 | 旅行(日光)
 日光へ旅行。僕はこの20年くらい毎年日光へ行ってるけど、最近は大体奥日光の湯元温泉、休暇村日光湯元に泊まる。50歳を超えてQカードという会員になってることも大きい。(全国の休暇村で使えるポイントカード。)休暇村なんていうと何だろうと思うかもしれないけど、どこも小奇麗で適正価格のホテルである。今回もそこで連泊。まだまだ残暑の東京を逃れて、涼しいというか夜は寒いとも言える奥日光で熟睡。

 去年も同じころに行ったんだけど、(それはブログに2回分書いた)夏の終わりという感じが好きなのかもしれない。去年は台風が来た後で滝や湖の水量がすごかったし、空気は澄み渡って、写真も実に美しいものが撮れた。今年はなんだか光が強すぎてうまく撮れないし、空気も澄んでなかった。ま、それはいいんだけど、結構人も多かった。湯元へ行くと小学生の団体がいっぱいで、日光に戻ってきたのは嬉しい感じもするけど、静かな旅にはならない。(去年は原発事故で日光旅行をやめた学校が多かった。)

 今年は朝早く、と言っても7時半ころに出た。家の真向かいがマンション工事中で、いつも車が停まってて、早く出ないと車を出せなくなる。それで高速を使わず、国道4号をひたすら行ってみる。「道の駅しもつけ」(栃木県下野町)はシャレた建物でビックリ。帰りに寄って買い物しようと思ったら、水曜日は休みだった。日光市内に入ると、去年は写真も載せた「食堂すゞき」で食べようと思ったら、臨時休業。夏休みと土日が終わったわけで、あちこち休みがあるのも仕方ない。

 今年は久方ぶりに日光山内へ行った。日光山内というのは、いわゆる二社一寺(東照宮、二荒山神社と輪王寺)の世界遺産区域のこと。足立区の小学生は施設が日光にあるから全員一度は行く。結婚後の夫婦旅行でも行ったけど、その時は戦場ヶ原一帯のハイキングの素晴らしさの方が思い出。その後、世界遺産記念で行われた大猷院(たいゆういん=家光を祀る)の家光の墓特別公開に行っただけ。日光はもう30回は行ってると思うけど、東照宮はいつも素通り。今回は久しぶりに行ってみようかとなったのは、東照宮の五重塔内部公開があるということで。でも、山内が複雑で場所がいつも頭に入らないので、まあいいかと共通券を買ってしまう。買った以上、全部見るぞと回ると、これが相当のウォーキング。疲れた。

 まず輪王寺。ここは三仏堂が工事中。工事も見られると言うけど、別料金。説明を聞いてると、とにかくありがたい仏のお守りを買いましょうと言う話になる。どこでもそうで、何だと言う感じ。東照宮へ行くと、団体の人だかり。確かに五重塔の公開はしてたけど、これも別料金。中に入るのではなく、扉があいてるだけ。まあ心柱の凄さは判った。五重塔の柱の知恵がスカイツリーに生かされたという話なのである。東照宮は外国人観光客が多い。それはいいけど、やっぱり陽明門などあまり好きになれない。日光山内で一番いいのは、間違いなく一番上にあって団体客がほとんど来ない大猷院である。静かだし、東照宮より装飾も落ち着いている。

 日光東照宮はキンキンキラキラのキッチュで、権力者の黄金趣味であって、秀吉の黄金の茶室よりはいいかもしれないけど、日本文化史の中では権力者の力の誇示にとどまる。という家永三郎先生の日本文化史の影響もあって、京都ではやっぱりワビサビの石庭なんかが良くて金閣寺は俗悪という考え方は基本的には僕のベースにある。俗悪の魅力を認めないわけではないけれど。と思っていたら、僕の認識を広げてくれたのが、考古学の都出比呂志氏の「王陵の考古学」(岩波新書)。日光東照宮も事実上の「王家の墓」という観点から見るべき建築物で、同時代的にはインドのタージ・マハルと比較できる。あるいは王陵ではないが、王権の誇示という点ではフランスのヴェルサイユ宮殿やオスマン帝国のトプカプ宮殿と比べるべきだというのであったと思う。なるほど。でも多分ヴェルサイユへ行っても、そっちも好きになれないと思うけどね。

 ということで一日目は案外疲れた。二日目は、これも何十年ぶりに刈込湖までハイキング。湯元温泉から光徳牧場までのハイキングコースがよく案内に出ている。そうすると今は車で行ってるので、行ったところに戻りたいのでこのコースは敬遠していた。でも湖まで行って戻ってくるなら、時間もそれほどかからずいいかもね。というコースなんだけど、休暇村の宿近くの林も素晴らしい。空は晴れ渡っている。
  

 昔はずいぶん山へ行ったけど、登りはじめに熱中症みたいになってしまうようになって、最近は本格的な山は難しい。今回も最初がきつい。途中で小学生の団体がいくつも。30分がきつくて、その後割と楽な道なんだけど、最後に今度は大胆に下りてしまう。ここを登り直すのか。そしてしばらくすると、「刈込湖」。少し行くと「切込湖」だけど今回は行かなかった。緑色の湖面が素晴らしく、小学生の一団は歓声を挙げていた。歩いて行かないと見れない「神秘の湖」である。


 戻ると1時過ぎ。連泊だからすぐに風呂に入れる。湯元温泉、それを引いて中禅寺、光徳温泉と言ってるのも含めてすべて掛け流し。まあ強烈な硫黄泉なので循環したくてもできないかもしれないが。季節や天気で色が変わることがある。今回は完全な緑の乳白色だったけど、入れ替えた2日目夜からは緑っぽい透明に近くなっていた。少しして光徳牧場へ行ってアイスクリーム。ここのは特上だと僕は思う。日光自然博物館へ足を伸ばして見学。

 3日目は少しゆっくり出て、10時20分の「低公害バス」で西の湖(さいのこ)入口へ。ここも毎年のように行っている関東有数の秘湖。途中のカラマツ林の美しさは素晴らしい。小田代が原なんかもいいんだけど、西の湖近辺も是非行って欲しい所。でも、今年はあまりの渇水ぶりに驚き。そこから歩いて千手ヶ浜まで。ここから見る男体山も素晴らしい、中禅寺湖は海みたい。
  

 西の湖は去年も行ってるので、ほぼ同じ場所で比較。去年の増水ぶりと今年の渇水ぶりがよく判る。通常はこの真ん中くらい。(今年は樹の前で撮影。樹の後ろでは遠すぎてよく判らない。樹のところまで水が来てるのは今までに去年しか知らない。杭と樹影で判断して。)
 
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「学校仲裁裁判所」が必要だ-親、学校、第三者機関の先

2012年09月02日 23時47分39秒 |  〃 (教育行政)
 いじめの議論も長くなってしまっているけど、本当はこの後「反いじめ文化を育てる」という話と「教員給与の成果主義が問題」という話を続ける予定。しかし、ちょっと旅行に行くので、何回か続く話はおいといて一回で済む話を先に書いてしまう。

 今まで僕が書いていることは、「いじめを早期に発見し、いじめのレベルがひどくならないうちに対処できるような学校の体制をどうやって作っていけるだろうか」という観点の話である。それは「学校論」であって、それでは「現に今いじめで苦しんでいる生徒を救うことにはならない」と言えば、その通りである。でも、子どもでも大人でもそうだけど、「今苦しんでいる人を必ず救える妙策」なんてものはない。あったら諸問題はすぐ解決できている。何もいじめに限らず、「成績をあげたい」「モテるようになりたい」などという相談があっても、一人ひとり状況は違うし、正解はない。要するに、人生の悩みというのは、すべて正解はないわけだ。そのことを大事にしていかないといけない。学校でも若い先生なんか、「オレについてくれば絶対間違いはない」みたいな指導をすることがある。もちろん反復練習で対応可能な問題(部活の初歩や検定対策など)は、グダグダ考えているヒマがあったら、先生を信頼してついていけばいい結果が付いてくるだろう。でも、人間関係のもつれなんかだと、誰にとってもすぐ解決することはできない。だからこそ「早めの対応」が必要になってくるわけである。

 今いろんな人がいろんなことを言っている。「不登校でもいいじゃないか」「本を読もう」「家出のすすめ」「転校をもっとすぐできるようにしては」…。別に言われていることには全然反対ではない。でも、そういう発想は、「いじめを解決する」というじゃなくて、「今の学校ではないところで、いじめと関係ない自分の居場所を見つけよう」ということである。過労死させられるような会社で働いているより、さっさと辞めた方がいいのと同じく、いじめで苦しんでいるような学校は捨てたってかまわない。そうなんだけど、それは一番問題のいじめを解決するわけではないので、どうしても心の中に「やり残し」の部分が残ってしまうだろう。いじめ(例えば教科書や教具、靴なんかをいつものように隠されてしまう)が無くなっても、友達関係がこわれたまま「孤立」が続き、確かに「いじめ行為」はないんだけれど、友人関係が作れないまま卒業に至るという場合も結構多い。不登校になってもいいんだけど、親は心配するし、自分のプライドもあるし、何より勉強が遅れたら困る。「学校は勉強だけするところだ」と決めて、登校だけは続けている。そういうケースもすごく多いと思う。

 じゃあどうすればいいんだろうと言う正解は、だから、ないんだけど、「風通しのよい学校」を作っていくと言う「学校論」の観点で、できることをいっぱい試みてみるというしかないだろう。「いじめ相談」に戻れば、「現に苦しんでいる生徒」に掛ける言葉には注意がいるけれど、やっぱり「親か教師に相談するしかない」という大原則をもっと強調する方がいいと思っている。いや、その親や教師に言えないから苦労するんであって、言っても判ってくれない、親身になってくれない…ということが問題なんだ…というわけだ。まさにその通りなんだろうけど、でも、「いじめをなくす」というのは「いじめっ子」のいじめ行為をやめさせるということである。いじめっ子の方も少しすると気が変わって、こいつじゃ面白くないやと標的を変えてしまうかもしれない。だから放っておいても自然になんとなく「解決」してしまうかもしれない。そういうことは割と多いから、だからガマンしてしまうわけだけど、暴力がひどくなってきたら緊急に止めないといけない。止めさせる強制力がある程度あるのは、まず親や教師なんだから言わないわけにはいかない。頼りにならなかったり恥ずかしいと思ったりしたとしても、それしかない。

 親を飛ばして直接警察に行ける子どもがいるわけない。行けるんなら行ってもいいけど、警察はまず親に連絡してしまうはずだ。親や教師に話すことを抜きにして、直接いじめっ子を警察が捕まえて少年院に入れてしまう、ということにはならない。制度的にできないんだから、それは子どもに説明しておいた方がいい。結局、未成年なんだから親や先生が動かないと解決の方向に行くのは難しい。そのことを学校はいつも強調しておいたほうがいい。だけど、すぐに親や学校に言えないから問題なんだということで、そこを解決するアイディアが「第三者機関」である「子どもオンブズパーソン」ということになる。本当にこれは全国どこにも必要だと思う。でも、「子どもオンブズ」があったとしても、そこを通してから親や学校に話を持っていくルートがあるということである。結局はいじめっ子がいる学校の教員に話をしないと何も解決しない。そこへもっていくために、子どもが話しやすく、問題を整理して、関係者を仲介できる場所が必要だということである。

 ところで、学校と言うところはいじめに限らず、トラブルが結構多い所である。教育委員会や行政当局と教員間の紛争も含めれば、毎日のように報道されていると言ってもいい。教員が学校外で問題を起こした場合は、通常の刑事的、行政的な手続きで進めればいいと思うけど、それ以外の問題は特別の裁判所を作ってはどうなんだろうか。学校にトラブルが起こるのは、子ども全員が通っているからである。行きたい人だけ行けばいいんなら、問題があったら辞めればいいだけで、あまり問題はないはずだ。学校を出れば、大体はどこかの会社に雇われて働く。学校に次に多くの国民が所属しているのが「会社」である。だから会社でもトラブルが起こるけれど、雇用や労働条件の問題は直接裁判所に訴える前に「労働委員会」がある。その「労働委員会」あるいは「公正取引委員会」に近い、「学校仲裁委員会」の必要性である。だけど、僕は少年事件を担当する家庭裁判所があるので、その家裁の中に置けばいいのではないかと思うので、「学校仲裁裁判所」と言えばいいのではと思っている。

 今はそういうものがないから、直接民事裁判で賠償請求をすることになる。それで請求が認められない判決が出ることもあるが、そうすると「裁判所がいじめを認めず」などと報道され、親は「自殺したわが子は裁判所に見殺しにされた」などという発言が報道されたりする。一方、いじめ(に限らず)刑事裁判になって無罪判決が出ると、「被害者が浮かばれない」などとコメントする人がいる。しかし、刑事裁判や民事裁判の仕組みを理解して発言しているのか、僕には疑問な時もある。刑事裁判は「合理的な疑い」が残る場合は有罪にできないし、有罪になっても少年の場合は更生が重視される。一方、民事裁判は原告(訴えた側)に「挙証責任」があるのであって、被告側はそれに反論する形で訴訟が進む。「いじめ生徒」が実際にいじめを行っていたことは認定できても、そのいじめが原因で子どもが自殺したことを証拠で証明し、また学校はそれを知っていながら適切な対応をしなかったから子どもが自殺したのであって賠償責任があるということを、完全に証明しなければいけない。これは子どもが詳細な「いじめ日記」を付けていたような場合は別にして、相当に難しいことが予想される。でも、裁判の大原則を曲げることはできるはずがない。

 しかし、そういう挙証責任を言われると難しい場合でも、実際の過程を見ると、間違っていたり不適切なこともあったりして、それは認めて謝罪できる場合も多いはずである。だから刑事罰や賠償金を求める場合は従来の訴訟もできるわけだから、それよりも事実を明らかにして謝罪して欲しいというような訴えが中心の場合は、別の形で「修復的司法」の仕組みを作った方がいいだろうと思う。そうすれば成績の付け方とか日常的なトラブルのほとんどは、教育委員会に訴えたりするのではなく、こちらで解決できるのではないか。調停中心の機関で、裁判官2人、裁判員(教育仲裁員というべきか)3人くらいで構成する。教員の処分、生徒の処分(退学勧告)等に納得できない場合なども、まずここに訴える。仲裁結果に不満な場合は、高等裁判所に控訴して争うことができる。そんな仕組みがあればいいのではないかと考えるのである。

追記1.「学校と塾の違いについて
 「学校はいじめに対処できず、生徒の学力も伸ばせていない。今では塾や予備校の方が教育機関として優れている」などとマジメに主張する人が本当にいる。大人の「論理的思考力」が心配になってしまう。「学校は行きたいものだけ行けばいいことにして午前中で終わりにする。午後から夜9時頃まで、子どもは全員塾に通わなければならず、主要教科の勉強だけを塾で行う」という政策を実施すれば、「学校は本当の教育機関」で「塾ではどうして不登塾や問題行動がいっぱい起こるのか」と言い出す人が出てくるのだろう。学校で問題が起こるのは、学校が「子どもの全員が在籍している」ということに本質がある。高校まで事実上の「義務教育化」しているのであって、そういう教育システムがいいか悪いかを論じる前に、生徒はその中で生きて行かざるを得ない。

追記2.「親といじめの問題
 学校は親の批判をしにくい。守秘義務もあるし、プライバシーに配慮しなければならない。どんな親でも親は親だから、子どもの前で親を悪く言うことはプライドを傷つける。でも、実際には子どもがいじめを明かさないのは「家庭の問題」も大きいはずである。学校は数年で卒業していくけど、親は永遠に親である。こっちの方がこじれたら大変である。

 時には父親が出てきて、「うちの息子にはいつも、やられたらやり返せと言い聞かせている。いじめなんか殴り返せばいんですよ。でもこいつは母親の血を引いちゃったのか、弱くて困る。ホントはうちの息子をいじめるような奴は先生がぶん殴って欲しいんだけど、今は俺の頃の先生と違って体罰とかなんとか厳しいんでしょ。大変だよね。うちのが悪いことしたら俺は気にしないから、ぶっとばしてやって下さいよ。相手の親にはくれぐれもよく言っておいてくれよ。今度なんかあったら俺が家に乗り込んでぶん殴るからって。」と言い置いて帰って行ったりするわけである。

 それでこの父親は家に帰ると、「子どものことはお前に任せてあるはずだ。今日は俺が学校に呼ばれて恥をかかされた。あいつが弱いのは、お前の血が入っているからだ。いじめなんかぶっ飛ばし返せばいいとよく言い聞かせろ」と母親に暴力を振う。そうなるのが判っているので、母親を守るためにいじめられているのを隠すしかなかったわけである。こういうケースにめぐり合わずに済む教師は幸いだけど、こう言われたらどう対処すればいいんですかね。ただ言えることは、そういう時こそベテラン教員の出番であって、若い担任が一人で対応してはいけない。子どもも早めに信頼できる教員に事情を説明しておいた方が、そういう場合の方こそいい。「家には言わない」という約束でできる指導もあるはずである。
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鍵は「学年団」の結束-「減いじめ」のために④

2012年09月01日 01時17分18秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめを早期に発見し、レベルがまだ低い段階で指導できる学校体制をいかに作るかある程度の学級数がある中学や高校を対象に考える。(少子化に伴い「1学年1クラス」の学校もあると思うけど、そういう小規模校は事情が違う場合が多い。夜間定時制高校や離島・へき地の学校も生徒像が違う。小学校は教科担任制ではないし、自分で勤務体験もないから事情がよく判らない。)

 最近の教育行政や世論などを見ると、「教員の指導力」をそれだけで取り出して資質を向上できるものと考えているらしい。そうでなければ、「教員免許更新制」とか「教員給与への成績率導入」などを行うはずがない。しかし、それは間違いで、「教員の指導力」というものは、他の教員や生徒との「関係性」の中でしか発揮されないものである。特に中高では「教科担任制」なので、自分の教科だけ一人で頑張っても、自分の担任するクラス、学年の成績向上はできない。もちろん生活面の問題解決もできない。問われているのは、一人の教師の指導力ではなく、「学校の指導力」なのである。

 そのことは学校に勤めている人はほぼ全員判っている。しかし、ドラマなんかだと理想に燃える先生が一人で頑張ると生徒も変わり、学校全体も変わるかのごとく描かれる。そういうのを見ると、教員が一人で頑張れば学校を変えられると錯覚してしまうけれど、それは現実離れした発想である。いいとか悪いとかではなく、学校も行政が法的根拠に基づいて設置した行政組織である。一人の教師はその行政組織の一員に途中から加わることしかできない。

 教師はある年に、新規採用されたり異動を命じられて、ある学校に赴任する。たまたま全くの新設校一年目ということも、ごくまれにはあるだろう。だけど、普通は創立何十年かの伝統がすでにある。自分が来る前の去年も、生徒がいろいろ活動していた。自分がその学校に転勤しても、進学実績が急に上がったり部活で急に勝ち進んだりはしない。1年生を受け持てばともかく、上級生を担当させられると、まず「去年までの先生はこうだった」「前の先生の方がいい」という生徒の大攻撃に会う

 その学校の生活指導の方針は大体決まっている。「朝全員の教員であいさつ運動をして、服装や頭髪をチェックしている」と言われたら、疑問を持っても一緒にやっていくしかない。「この学校の生徒は落ち着いている」と言われる学校もある。それも、今までの教員と生徒がそういう「伝統」を作ってきた成果であり、新1年生にも指導して誇りを持たせていくわけである。このように、自分の「指導力」を発揮するより前に、「学校の伝統」みたいなものがあって、それは生徒実態の変化とともに次第に移り変わっても行くが、とりあえず目の前にいる生徒は自分一人の頑張りで急に変容するわけではない。

 そして、各学年数クラスあると、学年の担任と副担任で「学年団」が結成される。高校だと各科目の専門性があって、例えば日本史が専門だと3年を主に教えて、1年担任だけど自分のクラスも教えなかったりする。でも中学や、高校でも国数英や体育の教員は自分の学年を中心に教えることが多い。各学年に数クラスあれば、教師も他学年の学年の生徒はよく判らない。生徒の側も部活や委員会で接点がある場合もあるけど、大体学年の先生以外は顔と名前が一致しない。つまり、学年に数クラスある学校の場合、学校は(教師も生徒も)「学年」が基盤なのである。教師にいじめを発見せよと言っても、名前も知らない生徒の事情はよく判らない。(名前を知らなくても、喫煙やケンカが問題なのは当然で、そういうケースを見つけることはある。)一方、生徒が教員に相談する場合でも、養護教諭や部活顧問に相談するときもあるが、クラスの問題は学級担任か学年の教師ということになる。

 この「学年教員団」は普通一週間に一回、「学年会」(学年会議)を開いて、学校行事の調整や生徒情報の交換、分析をしている。だから、その学校である学年に問題が多発したとするなら、その学年団がうまく機能していないことになる。一方、学年会で出た問題を皆で共有して、共通の指導態勢で生徒に当たっていけば、すぐに生徒の問題が解決するわけでなくても、少なくとも「先生は皆同じように対処する」ということが生徒に伝わる。それは例えば、こんな具合。

・「修学旅行の班分けを来週のホームルームの時間に行う」→「班作りが難しい可能性が高い生徒がいる場合は、事前に担任がそれとなく周りに声を掛けておく
・「最近ガサツな言動が多く、掃除の時間にさぼる生徒も多い。弱い生徒に掃除をやらせたり、抜け出してタバコを吸ったりすることに結びつきやすい。修学旅行を前に心配がある」→「班分けをする前に、来週のホームルームの時間に臨時学年集会を行ったらどうか。小さなことでも全体で注意した方がいい」→「臨時に学年集会を開く」というように、生徒実態を見て指導のあり方を作っていく。

 そして、臨時の集会はこんな様子。まず集会担当の教員が集合させ、号令をかけ並ばせる。その間、例えば副担任の教員が追い出しを担当し、クラスやトイレでさぼっている生徒を体育館に連れてくる。集会は最初に生活指導担当の教員が、大声で多少威圧的に「最近の様子を見ていると、修学旅行が心配だ。行って事故が起きたら取り返しがつかない。いじめなどにつながる心のスキがあるのではないか」などと強く話す。そのあと学年主任が「修学旅行は学年最大の行事で、今までみんなで勉強や部活を頑張ってきたのに、ここでダメにしていいいのか。この後班分けをするけど、もめて仲間はずれを出したりすると楽しいはずの旅行が、クラスや先生にとっても一番辛い行事になってしまう」と心に訴えるような話をする。そのあとに修学旅行担当の教員が、具体的な班分けの人数、係生徒の問題(各班で班長、副班長、生活係、保健係を決めるなど)を説明する。そして話が重くなり過ぎないように、事前に行ったホテルの様子とかレクの話などを紹介して楽しい旅行になるように終わる。

 僕が何を言いたいかというと、こういう「仕事の分担」が教師の仕事であり、全体統括の教員もコワモテの教員も、事務的な説明も、追い出し担当の副担任も皆同格で学年団を構成して仕事が進む。生徒はそれをよく見ていて、この学年の教員はみんなでまとまっていて、一緒に修学旅行を成功させたいとどのくらい本気で考えているのかを判定しているのだ。そういう「学年団」の結束が生徒に見えたときに、「いじめ」に限らず、心配な生徒の情報が集まってくる。一方、教員間の指導にすきまがある場合、そのすきまが少しずつ広がって行って、ダムの決壊のような大問題の多発につながっていく。

 だから僕は学年教員団が結束していくことが、学校で一番大事なことだと思う。学年団は教科が違う教員で組むことになるので、教育に対する考え方や趣味なんかは必ずしも一致していない。組合に入っている教員も入っていない教員もいる。しかし、組合未加入の教員でも管理職や教育行政の専横には怒っていることも多いから、実際の学年団で問題になることは少ないだろう。どこの人間関係でもそうだと思うが、最後は「馬が合うとか合わないとか」で決まってくるのかもしれない。教師には一風変わったワガママな人もたまにいて、そういう人と組むと大変な場合がある。指導力の有無ではなくて、指導力があり過ぎて自分で勝手にどんどん生徒指導してしまい、他の教員は指導してしまったんなら追認するしかない状況になるのが一番問題。「指導力」なんてそんなにいらないから、他の教員や生徒と一緒に地道に苦労できる人がいいのである。

 いじめを防ぐことに限らず、様々な学校の課題は、とりあえず自分が所属している学年の生徒をよくすることから始めるしかない。一緒に学年を組んでいる教員の協力で、成し遂げるしかない。それを支援するのが管理職の仕事だと思うけど、最近は教育行政の圧力で現場のジャマをすることが多い。学年会で決まった要望が生きて行かないことが多くなると、誰もアイディアを出そうという気にならない。

 学年団の結束と言っても、時には教育観のぶつかりあいもあるし、自分の考えが通らず腐るときもある。でも一緒に仕事をしていく中で、お互いの持ち味が判ってきて、生徒もそれを理解していくようになると、かなりうまく回りはじめる。そのためには地域になじんだ教員が、主任や生活指導担当になっている方がいい。短期間に異動させる方針は、学校の力を削いでしまう。「減いじめ」というより、学校の組織の話そのものになってしまったけれど。
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