尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「学校仲裁裁判所」が必要だ-親、学校、第三者機関の先

2012年09月02日 23時47分39秒 |  〃 (教育行政)
 いじめの議論も長くなってしまっているけど、本当はこの後「反いじめ文化を育てる」という話と「教員給与の成果主義が問題」という話を続ける予定。しかし、ちょっと旅行に行くので、何回か続く話はおいといて一回で済む話を先に書いてしまう。

 今まで僕が書いていることは、「いじめを早期に発見し、いじめのレベルがひどくならないうちに対処できるような学校の体制をどうやって作っていけるだろうか」という観点の話である。それは「学校論」であって、それでは「現に今いじめで苦しんでいる生徒を救うことにはならない」と言えば、その通りである。でも、子どもでも大人でもそうだけど、「今苦しんでいる人を必ず救える妙策」なんてものはない。あったら諸問題はすぐ解決できている。何もいじめに限らず、「成績をあげたい」「モテるようになりたい」などという相談があっても、一人ひとり状況は違うし、正解はない。要するに、人生の悩みというのは、すべて正解はないわけだ。そのことを大事にしていかないといけない。学校でも若い先生なんか、「オレについてくれば絶対間違いはない」みたいな指導をすることがある。もちろん反復練習で対応可能な問題(部活の初歩や検定対策など)は、グダグダ考えているヒマがあったら、先生を信頼してついていけばいい結果が付いてくるだろう。でも、人間関係のもつれなんかだと、誰にとってもすぐ解決することはできない。だからこそ「早めの対応」が必要になってくるわけである。

 今いろんな人がいろんなことを言っている。「不登校でもいいじゃないか」「本を読もう」「家出のすすめ」「転校をもっとすぐできるようにしては」…。別に言われていることには全然反対ではない。でも、そういう発想は、「いじめを解決する」というじゃなくて、「今の学校ではないところで、いじめと関係ない自分の居場所を見つけよう」ということである。過労死させられるような会社で働いているより、さっさと辞めた方がいいのと同じく、いじめで苦しんでいるような学校は捨てたってかまわない。そうなんだけど、それは一番問題のいじめを解決するわけではないので、どうしても心の中に「やり残し」の部分が残ってしまうだろう。いじめ(例えば教科書や教具、靴なんかをいつものように隠されてしまう)が無くなっても、友達関係がこわれたまま「孤立」が続き、確かに「いじめ行為」はないんだけれど、友人関係が作れないまま卒業に至るという場合も結構多い。不登校になってもいいんだけど、親は心配するし、自分のプライドもあるし、何より勉強が遅れたら困る。「学校は勉強だけするところだ」と決めて、登校だけは続けている。そういうケースもすごく多いと思う。

 じゃあどうすればいいんだろうと言う正解は、だから、ないんだけど、「風通しのよい学校」を作っていくと言う「学校論」の観点で、できることをいっぱい試みてみるというしかないだろう。「いじめ相談」に戻れば、「現に苦しんでいる生徒」に掛ける言葉には注意がいるけれど、やっぱり「親か教師に相談するしかない」という大原則をもっと強調する方がいいと思っている。いや、その親や教師に言えないから苦労するんであって、言っても判ってくれない、親身になってくれない…ということが問題なんだ…というわけだ。まさにその通りなんだろうけど、でも、「いじめをなくす」というのは「いじめっ子」のいじめ行為をやめさせるということである。いじめっ子の方も少しすると気が変わって、こいつじゃ面白くないやと標的を変えてしまうかもしれない。だから放っておいても自然になんとなく「解決」してしまうかもしれない。そういうことは割と多いから、だからガマンしてしまうわけだけど、暴力がひどくなってきたら緊急に止めないといけない。止めさせる強制力がある程度あるのは、まず親や教師なんだから言わないわけにはいかない。頼りにならなかったり恥ずかしいと思ったりしたとしても、それしかない。

 親を飛ばして直接警察に行ける子どもがいるわけない。行けるんなら行ってもいいけど、警察はまず親に連絡してしまうはずだ。親や教師に話すことを抜きにして、直接いじめっ子を警察が捕まえて少年院に入れてしまう、ということにはならない。制度的にできないんだから、それは子どもに説明しておいた方がいい。結局、未成年なんだから親や先生が動かないと解決の方向に行くのは難しい。そのことを学校はいつも強調しておいたほうがいい。だけど、すぐに親や学校に言えないから問題なんだということで、そこを解決するアイディアが「第三者機関」である「子どもオンブズパーソン」ということになる。本当にこれは全国どこにも必要だと思う。でも、「子どもオンブズ」があったとしても、そこを通してから親や学校に話を持っていくルートがあるということである。結局はいじめっ子がいる学校の教員に話をしないと何も解決しない。そこへもっていくために、子どもが話しやすく、問題を整理して、関係者を仲介できる場所が必要だということである。

 ところで、学校と言うところはいじめに限らず、トラブルが結構多い所である。教育委員会や行政当局と教員間の紛争も含めれば、毎日のように報道されていると言ってもいい。教員が学校外で問題を起こした場合は、通常の刑事的、行政的な手続きで進めればいいと思うけど、それ以外の問題は特別の裁判所を作ってはどうなんだろうか。学校にトラブルが起こるのは、子ども全員が通っているからである。行きたい人だけ行けばいいんなら、問題があったら辞めればいいだけで、あまり問題はないはずだ。学校を出れば、大体はどこかの会社に雇われて働く。学校に次に多くの国民が所属しているのが「会社」である。だから会社でもトラブルが起こるけれど、雇用や労働条件の問題は直接裁判所に訴える前に「労働委員会」がある。その「労働委員会」あるいは「公正取引委員会」に近い、「学校仲裁委員会」の必要性である。だけど、僕は少年事件を担当する家庭裁判所があるので、その家裁の中に置けばいいのではないかと思うので、「学校仲裁裁判所」と言えばいいのではと思っている。

 今はそういうものがないから、直接民事裁判で賠償請求をすることになる。それで請求が認められない判決が出ることもあるが、そうすると「裁判所がいじめを認めず」などと報道され、親は「自殺したわが子は裁判所に見殺しにされた」などという発言が報道されたりする。一方、いじめ(に限らず)刑事裁判になって無罪判決が出ると、「被害者が浮かばれない」などとコメントする人がいる。しかし、刑事裁判や民事裁判の仕組みを理解して発言しているのか、僕には疑問な時もある。刑事裁判は「合理的な疑い」が残る場合は有罪にできないし、有罪になっても少年の場合は更生が重視される。一方、民事裁判は原告(訴えた側)に「挙証責任」があるのであって、被告側はそれに反論する形で訴訟が進む。「いじめ生徒」が実際にいじめを行っていたことは認定できても、そのいじめが原因で子どもが自殺したことを証拠で証明し、また学校はそれを知っていながら適切な対応をしなかったから子どもが自殺したのであって賠償責任があるということを、完全に証明しなければいけない。これは子どもが詳細な「いじめ日記」を付けていたような場合は別にして、相当に難しいことが予想される。でも、裁判の大原則を曲げることはできるはずがない。

 しかし、そういう挙証責任を言われると難しい場合でも、実際の過程を見ると、間違っていたり不適切なこともあったりして、それは認めて謝罪できる場合も多いはずである。だから刑事罰や賠償金を求める場合は従来の訴訟もできるわけだから、それよりも事実を明らかにして謝罪して欲しいというような訴えが中心の場合は、別の形で「修復的司法」の仕組みを作った方がいいだろうと思う。そうすれば成績の付け方とか日常的なトラブルのほとんどは、教育委員会に訴えたりするのではなく、こちらで解決できるのではないか。調停中心の機関で、裁判官2人、裁判員(教育仲裁員というべきか)3人くらいで構成する。教員の処分、生徒の処分(退学勧告)等に納得できない場合なども、まずここに訴える。仲裁結果に不満な場合は、高等裁判所に控訴して争うことができる。そんな仕組みがあればいいのではないかと考えるのである。

追記1.「学校と塾の違いについて
 「学校はいじめに対処できず、生徒の学力も伸ばせていない。今では塾や予備校の方が教育機関として優れている」などとマジメに主張する人が本当にいる。大人の「論理的思考力」が心配になってしまう。「学校は行きたいものだけ行けばいいことにして午前中で終わりにする。午後から夜9時頃まで、子どもは全員塾に通わなければならず、主要教科の勉強だけを塾で行う」という政策を実施すれば、「学校は本当の教育機関」で「塾ではどうして不登塾や問題行動がいっぱい起こるのか」と言い出す人が出てくるのだろう。学校で問題が起こるのは、学校が「子どもの全員が在籍している」ということに本質がある。高校まで事実上の「義務教育化」しているのであって、そういう教育システムがいいか悪いかを論じる前に、生徒はその中で生きて行かざるを得ない。

追記2.「親といじめの問題
 学校は親の批判をしにくい。守秘義務もあるし、プライバシーに配慮しなければならない。どんな親でも親は親だから、子どもの前で親を悪く言うことはプライドを傷つける。でも、実際には子どもがいじめを明かさないのは「家庭の問題」も大きいはずである。学校は数年で卒業していくけど、親は永遠に親である。こっちの方がこじれたら大変である。

 時には父親が出てきて、「うちの息子にはいつも、やられたらやり返せと言い聞かせている。いじめなんか殴り返せばいんですよ。でもこいつは母親の血を引いちゃったのか、弱くて困る。ホントはうちの息子をいじめるような奴は先生がぶん殴って欲しいんだけど、今は俺の頃の先生と違って体罰とかなんとか厳しいんでしょ。大変だよね。うちのが悪いことしたら俺は気にしないから、ぶっとばしてやって下さいよ。相手の親にはくれぐれもよく言っておいてくれよ。今度なんかあったら俺が家に乗り込んでぶん殴るからって。」と言い置いて帰って行ったりするわけである。

 それでこの父親は家に帰ると、「子どものことはお前に任せてあるはずだ。今日は俺が学校に呼ばれて恥をかかされた。あいつが弱いのは、お前の血が入っているからだ。いじめなんかぶっ飛ばし返せばいいとよく言い聞かせろ」と母親に暴力を振う。そうなるのが判っているので、母親を守るためにいじめられているのを隠すしかなかったわけである。こういうケースにめぐり合わずに済む教師は幸いだけど、こう言われたらどう対処すればいいんですかね。ただ言えることは、そういう時こそベテラン教員の出番であって、若い担任が一人で対応してはいけない。子どもも早めに信頼できる教員に事情を説明しておいた方が、そういう場合の方こそいい。「家には言わない」という約束でできる指導もあるはずである。
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