尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「女の学校」と宝塚の女優たち

2012年09月12日 18時41分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、宝塚出身の女優が出た映画を特集上映している。そこで宝塚映画「女の学校」(1955、佐伯幸三監督)という映画を見た。映画としてそれほど傑作ということではないけれど、珍しい映画なので簡単に書いておきたい。

 宝塚の女優を高校生役にキャスティングして作った娯楽映画である。大林清という直木賞候補になった娯楽作家の原作。撮影が岡崎宏三。宝塚映画は、1951年に阪急が全面的に資本を出して作った映画会社である。東宝争議の影響で東宝作品が少なかったために作られたが、1968年に製作中止。小津の「小早川家の秋」や成瀬の「放浪記」はここの作品である。だから、現役タカラジェンヌがたくさん出ているわけだ。脇役に水谷八重子(初代)、細川ちか子藤原釜足(「きよしこの夜」を歌うシーンがある)など芸達者が出ている。

 主演は寿美花代(1932~)。1963年に高島忠夫と結婚して退団するまでずっと宝塚にいたから、現代映画の主役はあまりないと思う。実に美しく、若い女教師役を生き生きと演じている。神戸の女学校桜台女学園に、東京の音大を出た寿美が赴任する。同僚の鶴田浩二(理科担当で、実験動物がのモルモットの飼い方を研究している)が迎えに出たはずが…。鶴田浩二は後に東映のヤクザ映画で記憶されるようになるが、若いときは大アイドルスターだった。松竹でデビュー後、東宝など各社で主役をやっている。寿美は音楽の授業と同時に舎監も頼まれ、寮に住み込み生徒の面倒を見る。

 この学校は宝塚音楽学校ではないが、音楽や劇の場面が多い。最初の授業で寿美が皆の実力が知りたいというくらいだから、「音楽科」なのか。最初に呼ばれた相沢雪子が流麗なピアノ演奏(ショパン)を披露する。これが扇千景(1934~)で、中村扇雀(現坂田藤十郎)と結婚して57年に退団する。後の参議院議長の貴重な映像である。続いて、志賀富子が呼ばれて歌を歌うと言う。では伴奏は私がと寿美がピアノに向かい、ジャズも巧みに弾く。この富子役が雪村いづみ(1937~)。宝塚ではないが当時若き人気スターで、魅力全開で若さが弾けている。寿美先生は人気の鶴田浩二先生と親しそうなので、女子生徒はちょっと複雑だった感じだが、この伴奏で生徒の心をつかんでしまう。

 生徒の姉役で淀かほる鳳八千代、生徒役で浦路洋子環三千世らの現役タカラジェンヌが出ている。環三千世が演じる生島弥生子という生徒は鶴田に憧れていたので、寿美が来てから何だかつまらない。姉(鳳八千代)が洋裁店の店で後援者の男に迫られケガして入院してしまい、学校に来なくなって姉の友人の勤めるキャバレーに勤め始める。これを聞きつけた雪村が先生に相談し、寿美、藤原、鶴田の教師と雪村がキャバレーに乗り込む。乱闘になってしまい、新聞カメラマンが鶴田を撮影し新聞に載ってしまう。理事会で鶴田を首にせよと迫る後援会長が、生島の姉に言い寄ってケガをさせた当人である。その辺りが一番のドラマになっている。

 一方、芸大を目指す生徒が2人、相沢雪子(扇千景)と大友宗子(浦路洋子)。宗子の不得意なベートーヴェンが課題曲となり、二人の間にすきま風が…。そこを取り持つ富子(雪村)。雪子は先生の特訓を受け芸大に臨むが、健康に問題があり試験終了後に倒れてしまう。盲目の姉がいて妹の合格を待ち望んでいたが…。と展開は全く通俗そのものなんだけど、実際に歌や演奏ができる若い美女が演じているので、かなり気持ちよく見ることができる。

 そして最後に卒業式。芸大にトップで合格しながら亡くなった雪子に代わり、宗子が答辞を読む。雪子には卒業証書が出され、富子に手を引かれた盲目の姉が受け取る。問題生徒はいないし、多少の葛藤はあるけど、皆うまく行く。だからこれは「学校のリアル」を描いている映画ではない。なんと恵まれた女子高生かと思うが、「太陽族」と同時代でもある。見ていて気持ちがいいのは、生徒のリーダーとしての雪村いづみの魅力。皆を心配し、いろいろ手配し、手をつくす。明るくて能力もあり、人望が篤い。こういう明るい女子生徒のリーダーが一人いると、クラスは全然違ってくる。新任の寿美花代のクラス運営がうまく行くのは、(教師の権威が確立していた時代の「良い学校」の話であるが)雪村いづみ(富子)がクラスにいて協力してくれるからである。

 亡くなっている生徒に卒業証書を出すという卒業式シーンも良かった。それに近い出来事にぶつかることも教員人生にはあるだろう。ほんものの卒業証書は渡せないので、たぶん「公印を押していない」ものを渡すことになるのだろう。家族からすれば「墓前に捧げる」ものが欲しい。寿美花代の魅力と雪村いづみ、扇千景の若き日の姿が印象的。その後の3人の実人生を想いながら、見るわけである。
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ウェスカー連続上演を観る

2012年09月12日 00時43分43秒 | 演劇
 東京演劇アンサンブルで、イギリスの劇作家、アーノルド・ウェスカーの「大麦入りのチキンスープ」と「ぼくはエルサレムのことを話しているのだ」を連続上演中。10、11がチケットが安い日なので続けて観劇。(17日まで、2作品を交互に上演。)公演があった「ブレヒトの芝居小屋」は東京演劇アンサンブルの本拠だが、遠いので実は初めて。西武新宿線の武蔵関と言う駅である。

 アーノルド・ウェスカー(1932~)は50年代後半から続々と作品を発表してきて、政治的というか思想的というか、そういう趣が強い家族劇が多い。50年代後半のイギリスでは、オズボーン「怒りをこめてふり返れ」と言う劇が評判を呼んで、アラン・シリトーの小説などを含めて「怒れる若者たち」と呼ばれた。ウェスカーはそこに入るのかどうかよく判らないが、日本では60年代、70年代にたくさん上演されたはずである。特に今回の2作も木村光一訳だけれど、文学座、地人会で木村光一が手掛けたことが多いと思う。数年前には蜷川幸雄も「キッチン」をシアター・コクーンで上演していた。そういう風に日本ではけっこう知られている作家だけど、僕は初めて見る。時代が少し違って掛け違ってきた作家と言える。

 「なんとかしなければ、あんたは死ぬだけよ。」(大麦入りのチキンスープ)
 「絶対に泣いたりしちゃけないんだ、ぼくたちは!」(ぼくはエルサレムのことを話しているのだ)

 チラシに載せられている、それぞれのラストのセリフ。何だか今の日本で、震災後の状況を語っているようなセリフである。だからこそ今の時点で再演されたのではないかと思う。しかし、戯曲としての知名度が高い「大麦入りのチキンスープ」(1958)はユダヤ人共産党員の家族の話なので、今では少し古い。50年代という時点を知らないと、よく判らない人もいるだろう。話は1936年、イギリスのファシストが行進をするのを、左翼ユダヤ人が阻止しようとする「ケーブル・ストリートの戦い」の日の場面から始まる。意外かもしれないが、イギリスにもモズレーらのファシスト一派がいたし、少数派なのだがソ連派の共産党も存在した。「党」と言えば「共産党」を意味する知的風土は日本でも、ある時期まで知識人や労働運動の中にあった。この一家、ハリイ・カーンとサラ・カーンの夫婦は強固な党員として生きてきた。しかし、ハリイは性格的に弱く、仕事が長続きしない。一家を支えるのがサラで、「大麦入りのチキンスープ」(ユダヤのペニシリンと言われるくらい、ユダヤ人の健康を支えた伝統料理なのだそうだ)がその象徴である。娘のアダも党を信じ、婚約者のデイヴはスペインに義勇軍として参加する。そういう一家なんだけど、戦時下、戦後と話が進むにつれ、アダや弟のロニイは党への不信を強めていく。父親ハリイは何度か脳梗塞で倒れ、一家のこころは離れていってしまう。時代は労働党政権となるが、わずかな成果を得た労働者は満足して革命を目指さない。しかし、サラの党への信頼は揺るがない。最後に1956年のハンガリー事件で、子ども世代の不信感は頂点に達する…。

 という話だから、50年代には切実な「スターリン批判」、党の無謬性への批判という主題が家族の争いの中に描かれるが、今では古い感じ。ユダヤ的な風習、イギリスの下町の貧困地区の様子などは興味深いけれど。全体としては、「共産党一家に育った子供たちの苦悩」(日本で言えば米原万里みたいな)という主題が大きいような気がする。一方、「根っこ」(1959)をはさんで書かれた「僕はエルサレムのことを話しているのだ」(1960)は、娘のアダとロニイの夫婦が中心人物として描かれる。二人はロンドンを離れ田舎に住み、家具職人として生きて行こうとする。ウィリアム・モリス風の社会主義を目指すのである。親世代はソ連的共産主義を信じていたわけだが、娘世代は「生活に根ざした社会主義」を目指す。母のサラには理解できない敗北主義と映るのだが。そしてその試みも、産業社会の進展の中、結局手仕事の仕事は認められず、ロンドンに戻っていかざるを得ない。「エルサレム」というのはユダヤ人のとっての「理想の地」という意味なんだと思う。この「敗北」の方は、今でもかなり意味があるだろう。社会制度を変える革命なしに、生活のあり方に美を求める生き方だけでいいのか。反原発、自然エネルギー論議もそうだけど、60年代以後の様々な試み、コミューン、身体の解放、自然食なんかにも関わってくるテーマである。でも60年に書かれているので、テーマとして早すぎたのかもしれない。

 全体に家族で論争し続けるところが、日本の家族と違う。日本でこんな会話をしている家族はいないだろう。「かぞくのくに」の在日の一家でも、こんな論争は家ではしていない。親が「党」を信じ、娘が「芸術」を求めると言う構図は似ているのだが。一方、これだけ政治的、思想的な話が立て続けに出てくる劇なのに、インド独立や朝鮮戦争が一言も出てこない。全くアジアが出てこない。イギリス共産党員の世界でも、ヨーロッパ中心主義だったわけである。日本で同じような劇を書けば、ハンガリー事件やサルトルなども出てくるが、同時にアジアの政治情勢が大きなウェイトを持つだろう。そういう意味では、面白い戯曲なんだけど、少し時代が古くなった感じもした。
コメント (1)
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