昨日に続いて尖閣問題。昨日書いたことに多少書き足すことから始めて、今日は主に中国側の問題と「歴史問題」を考えたい。まず「書き足し」。中国側は「国有化は大きな約束違反で、今までとは次元の違う段階だ」などと考えているのではないかという気がするのだけど、それは「明白な誤解」であるとまず確認しないといけないと思う。今までも「私有地を借り上げて国家で管理していた」のであって、それを地方自治体が取得しようと乗り出したから、それを阻止するために賃貸料をまとめて払って所有権を書類上移すだけのことである。国内の商取引に過ぎない。中国側は「島を返せ」などと言うが、「私有地では返しようがない」のであって、むしろ「中国側に有利な措置だ」くらいに構える度量があってもいいではないかと思う。
一方、野田政権が尖閣国有化を急いだのは、国内政局だけでなく「オスプレイ対応」もあるのではないかという仮説がありうると気付いた。オスプレイは米軍の正式装備なので日本政府が永久に拒絶することは難しいと考えられる。日米安保により米軍基地があるという前提そのものを否定するなら別だが。そうするとオスプレイの配備への反対を少なくする方策があるとすれば、日本国内、あるいはマスコミと言ってもいいが、「日米安保はやっぱり大事だなあ」と思わせるような状況が必要であるということにならないか。尖閣をめぐり中国と対立が深まるというのは、逆に言えば「日米同盟の重要性が高まる」という流れになる可能性はかなりある。あまり考えたくもないが、そういうこともあり得なくはないかもしれない。
さて、今日は「9・18」で、マスコミ報道では「満州事変の発端となった柳条湖事件の起こった日」と言っていた。もちろんその通りだけど、「日中戦争、太平洋戦争へと続く昭和の戦争が始まった日」、少なくとも「満州事変の始まった日」でいいのではないか。これを知らなかったという日系企業の従業員の話が新聞に載っていた。そういう話があると、よく「歴史教育が不十分である」などと左右を超えていう人がいる。しかし、満州事変まで行かない歴史の授業なんていくらなんでもあるはずがない。大人は自分の時の感覚で考えるから、「第二次世界大戦は教科書の一番最後だから授業が終わらなくて飛ばされる」なんて思いがち。いまや20世紀の終わりごろまでは歴史教科書に出てるんだから、満州事変の後にも数十ページがある。要するに数学の公式なんかと同じく、習ったけど忘れてしまったのだ。それは「戦争に無関心で忘れさせてしまう日本社会の仕組み」があるからだ。僕はこの数年、「8・15」ではなく「9・18」に政府主催の催しが必要ではないかと思ってきた。「日本が始めた戦争」だからだが、8・15は暑すぎてそこまで政府、国会が毎年やるのはやめて日本中バカンスにしてはと思うようになったわけ。まあ、9・18も暑いですけどね。
また「満州事変」あるいは「柳条湖事件」の解説も新聞に載っていたが、間違いではないけど不十分な感じがする。満鉄線爆破が日本軍の仕業である点は書いてあるが、「自作自演」という言葉では不足である。「関東軍の一部参謀による謀略」というくらいの表現は最低必要だろう。さらに言えばそれでも不十分であって、「軍部による中国侵略をめざすクーデタ」であり、政党内閣(当時は民政党の第二次若槻礼次郎内閣)に対する倒閣運動でもある。謀略の中心にいた石原莞爾からすれば、さらに大規模な戦略(米英の世界秩序を倒す世界最終戦争の始まり)であったかもしれない。重大なことは、軍部中央が本当に知らなかったのか疑問は残るが、とりあえず「出先の一部軍人」が先走って謀略を起こしていることである。出先が暴走することを、今でも「関東軍」に例えるくらいである。「昔は帝国主義時代で強い国が戦争をした時代だ」などと言う人がいるが、それは19世紀の話。第一次世界大戦後は国際協調が主流で、日本も中国の領土保全を確認する「9か国条約」や戦争に訴えないことを誓う「パリ不戦条約」に加盟していた。明らかな国際条約違反だが、そういう情勢を一応認識していたからこそ、「満鉄爆破は中国のしわざ」で「自衛だから不戦条約に反しない」、「満州国は日本の植民地ではなく、満州民族の独立運動により成立した国」などという「仮装」をほどこすしかなかったわけである。事実上は日本陸軍の植民地と言ってよかった。(ちなみに「満州国」で青年連盟を作って活動していた小沢開作の子供が指揮者の小沢征爾である。その名前は、柳条湖事件を起こした関東軍高級参謀、板垣征四郎(東京裁判で死刑)と石原莞爾の名前から一字ずつ取って付けられた。)
だから「9・18」は日本人にとって忘れてはならない「300万人以上が亡くなった戦争の始まり」であり、中国人が「国恥」の日として重大視するのも当然である。日本軍国主義を忘れないというのは、中国や韓国ばかりではなく、日本人自らにこそ必要なことである。
ところでこの日本の侵略戦争に対して、中国側で一番原則的に「正しい立場」で対応したのは中国共産党であって、抗日戦争の中で共産党への期待が増大していった。日本軍は共産革命を支援してしまったみたいなものである。だから共産党政府にとって、抗日戦争は自らの統治の根拠である。そのあたりのことは日本人もしっかり認識していないといけない。中国に進出する企業は、当然「自主研修」しておかなければいけない。
それはともかく、「愛国無罪」というスローガンが最近は中国でよく目につく。これはもともと抗日戦争に消極的な国民党を批判した「七君子事件」(1936年)に際して使われた言葉であるということだ。「愛国無罪」が「反日スローガン」であると思っている人が多いと思うが、よく考えればわかるように、これは「反日」の言葉ではなく「反政府」の言葉である。「愛国的動機」による犯罪であれば罪に問うなと中国司法当局に要求する言葉である。従って、中国の状況はなかなか複雑なものがあるのは間違いないだろう。中国当局は「尖閣」や「9・18」を掲げる反日デモは許容せざるを得ない。そういう意味では「官許」の性格はあったはずだが、中国各地で最近多く起こっていると伝えられる「暴動」に一部で発展してしまった。日系企業の焼打ちなどは明らかに行き過ぎで、政府・警備当局のコントロールできない状況があるということである。
共産党政権は「銃によって成立した」わけで、本来は社会主義から共産主義に移行し「国家は廃絶」されるはずだった。しかし、世界の共産党革命がすべてそうであるように、「武力による統治」になってしまった。今や共産主義革命と言うのは「開発独裁の一つのタイプ」だったのではないかという感じである。共産党政府が国内の経済発展を無視すれば、「統治の根拠」を失ってしまう。選挙で選ばれたわけではないから、「経済発展の実績」を見せないと人民の支持を失う。しかし、経済が発展するほど国内の格差は大きくなり、国内の価値観は多様化する。そこで「国民の愛国心」を強調して、革命政権がいつのまにか「国家主義的保守政権」に堕してしまうというのは、ソ連でもそうだったし、「歴史の法則」に近い。そういう基本状況の中で、デモを許したり厳しく規制したり、いろいろ考えているのだろうけど、いずれ限界に立ちいたるときが来るはずだ。
日本の報道では、「中国のインターネットでは」とか「中国版ツイッターでは」というのが多い。日本で同じことをやれば、極端な反中言論が実情より大きくなってしまう。中国でもそれは同じだろうが、自由な言論、自由な報道、自由に調べた公正な世論調査というものがない。社会の各層を代表する自由な結社(政党やNPOなど)がほとんどない。だからネット言論が大きく取り上げられるわけだろう。しかし、それがいつまで続くのか。様々な民衆運動がやがて「政治改革」を求めるときもあると思う。だが、今回のデモを見ていると、若い層が毛沢東の写真を掲げている。毛沢東時代だったら、下放されてへき地で重労働させされていたに違いない若い失業者などが、「みんなで貧しかった毛沢東時代」を求めている。日本でも新自由主義的経済政策を、それで一番被害を受けるはずの若い世代が支持したりすることが多い。世界中、「自分で自分の首を絞める」という状況は同じなのである。
ところで、こういう状況でこそ、文化交流が必要だと思う。経済も大事だし、これだけ世界が緊密に結びついている現在では、「日貨排斥」もかえって自分の経済も悪くしかねない。だが、これだけ襲われたりすれば、今回は「政冷経熱」とはしばらく行かないのではないか。投資意欲はかなり萎えるだろうし、家族も危ないから行かない方がいいのではと言うだろう。でも、隣国であるという事実は変わらないし、文化交流の長い長い歴史がある。本当は中国の地方中堅リーダー層や学生を招いて、日本の各地方、東北の被災地、広島や長崎、沖縄なども含めて、中小企業や伝統文化などを訪ねる、そんな試みが今こそ必要なのではないか。日中関係は経済で語られ過ぎたと思う。「平和」を維持することこそがまずは最大の前提であって、どんなときにも民衆の友好運動の火を絶やしてはいけない。今はともかく、時間が経ったら各地方の姉妹都市などの出番だろうと思う。(なお、本来は日中国交回復40周年記念として計画された「中国映画の全貌2012」という特集が新宿ケイズ・シネマで行われる。「阿片戦争」(1997)や「宗家の三姉妹」などの必見歴史もの、「紅いコーリャン」「さらば、わが愛 覇王別姫」「長江哀歌」「青い凧」などの極め付きの名作が上映される。今こそ見るべき映画。)
一方、野田政権が尖閣国有化を急いだのは、国内政局だけでなく「オスプレイ対応」もあるのではないかという仮説がありうると気付いた。オスプレイは米軍の正式装備なので日本政府が永久に拒絶することは難しいと考えられる。日米安保により米軍基地があるという前提そのものを否定するなら別だが。そうするとオスプレイの配備への反対を少なくする方策があるとすれば、日本国内、あるいはマスコミと言ってもいいが、「日米安保はやっぱり大事だなあ」と思わせるような状況が必要であるということにならないか。尖閣をめぐり中国と対立が深まるというのは、逆に言えば「日米同盟の重要性が高まる」という流れになる可能性はかなりある。あまり考えたくもないが、そういうこともあり得なくはないかもしれない。
さて、今日は「9・18」で、マスコミ報道では「満州事変の発端となった柳条湖事件の起こった日」と言っていた。もちろんその通りだけど、「日中戦争、太平洋戦争へと続く昭和の戦争が始まった日」、少なくとも「満州事変の始まった日」でいいのではないか。これを知らなかったという日系企業の従業員の話が新聞に載っていた。そういう話があると、よく「歴史教育が不十分である」などと左右を超えていう人がいる。しかし、満州事変まで行かない歴史の授業なんていくらなんでもあるはずがない。大人は自分の時の感覚で考えるから、「第二次世界大戦は教科書の一番最後だから授業が終わらなくて飛ばされる」なんて思いがち。いまや20世紀の終わりごろまでは歴史教科書に出てるんだから、満州事変の後にも数十ページがある。要するに数学の公式なんかと同じく、習ったけど忘れてしまったのだ。それは「戦争に無関心で忘れさせてしまう日本社会の仕組み」があるからだ。僕はこの数年、「8・15」ではなく「9・18」に政府主催の催しが必要ではないかと思ってきた。「日本が始めた戦争」だからだが、8・15は暑すぎてそこまで政府、国会が毎年やるのはやめて日本中バカンスにしてはと思うようになったわけ。まあ、9・18も暑いですけどね。
また「満州事変」あるいは「柳条湖事件」の解説も新聞に載っていたが、間違いではないけど不十分な感じがする。満鉄線爆破が日本軍の仕業である点は書いてあるが、「自作自演」という言葉では不足である。「関東軍の一部参謀による謀略」というくらいの表現は最低必要だろう。さらに言えばそれでも不十分であって、「軍部による中国侵略をめざすクーデタ」であり、政党内閣(当時は民政党の第二次若槻礼次郎内閣)に対する倒閣運動でもある。謀略の中心にいた石原莞爾からすれば、さらに大規模な戦略(米英の世界秩序を倒す世界最終戦争の始まり)であったかもしれない。重大なことは、軍部中央が本当に知らなかったのか疑問は残るが、とりあえず「出先の一部軍人」が先走って謀略を起こしていることである。出先が暴走することを、今でも「関東軍」に例えるくらいである。「昔は帝国主義時代で強い国が戦争をした時代だ」などと言う人がいるが、それは19世紀の話。第一次世界大戦後は国際協調が主流で、日本も中国の領土保全を確認する「9か国条約」や戦争に訴えないことを誓う「パリ不戦条約」に加盟していた。明らかな国際条約違反だが、そういう情勢を一応認識していたからこそ、「満鉄爆破は中国のしわざ」で「自衛だから不戦条約に反しない」、「満州国は日本の植民地ではなく、満州民族の独立運動により成立した国」などという「仮装」をほどこすしかなかったわけである。事実上は日本陸軍の植民地と言ってよかった。(ちなみに「満州国」で青年連盟を作って活動していた小沢開作の子供が指揮者の小沢征爾である。その名前は、柳条湖事件を起こした関東軍高級参謀、板垣征四郎(東京裁判で死刑)と石原莞爾の名前から一字ずつ取って付けられた。)
だから「9・18」は日本人にとって忘れてはならない「300万人以上が亡くなった戦争の始まり」であり、中国人が「国恥」の日として重大視するのも当然である。日本軍国主義を忘れないというのは、中国や韓国ばかりではなく、日本人自らにこそ必要なことである。
ところでこの日本の侵略戦争に対して、中国側で一番原則的に「正しい立場」で対応したのは中国共産党であって、抗日戦争の中で共産党への期待が増大していった。日本軍は共産革命を支援してしまったみたいなものである。だから共産党政府にとって、抗日戦争は自らの統治の根拠である。そのあたりのことは日本人もしっかり認識していないといけない。中国に進出する企業は、当然「自主研修」しておかなければいけない。
それはともかく、「愛国無罪」というスローガンが最近は中国でよく目につく。これはもともと抗日戦争に消極的な国民党を批判した「七君子事件」(1936年)に際して使われた言葉であるということだ。「愛国無罪」が「反日スローガン」であると思っている人が多いと思うが、よく考えればわかるように、これは「反日」の言葉ではなく「反政府」の言葉である。「愛国的動機」による犯罪であれば罪に問うなと中国司法当局に要求する言葉である。従って、中国の状況はなかなか複雑なものがあるのは間違いないだろう。中国当局は「尖閣」や「9・18」を掲げる反日デモは許容せざるを得ない。そういう意味では「官許」の性格はあったはずだが、中国各地で最近多く起こっていると伝えられる「暴動」に一部で発展してしまった。日系企業の焼打ちなどは明らかに行き過ぎで、政府・警備当局のコントロールできない状況があるということである。
共産党政権は「銃によって成立した」わけで、本来は社会主義から共産主義に移行し「国家は廃絶」されるはずだった。しかし、世界の共産党革命がすべてそうであるように、「武力による統治」になってしまった。今や共産主義革命と言うのは「開発独裁の一つのタイプ」だったのではないかという感じである。共産党政府が国内の経済発展を無視すれば、「統治の根拠」を失ってしまう。選挙で選ばれたわけではないから、「経済発展の実績」を見せないと人民の支持を失う。しかし、経済が発展するほど国内の格差は大きくなり、国内の価値観は多様化する。そこで「国民の愛国心」を強調して、革命政権がいつのまにか「国家主義的保守政権」に堕してしまうというのは、ソ連でもそうだったし、「歴史の法則」に近い。そういう基本状況の中で、デモを許したり厳しく規制したり、いろいろ考えているのだろうけど、いずれ限界に立ちいたるときが来るはずだ。
日本の報道では、「中国のインターネットでは」とか「中国版ツイッターでは」というのが多い。日本で同じことをやれば、極端な反中言論が実情より大きくなってしまう。中国でもそれは同じだろうが、自由な言論、自由な報道、自由に調べた公正な世論調査というものがない。社会の各層を代表する自由な結社(政党やNPOなど)がほとんどない。だからネット言論が大きく取り上げられるわけだろう。しかし、それがいつまで続くのか。様々な民衆運動がやがて「政治改革」を求めるときもあると思う。だが、今回のデモを見ていると、若い層が毛沢東の写真を掲げている。毛沢東時代だったら、下放されてへき地で重労働させされていたに違いない若い失業者などが、「みんなで貧しかった毛沢東時代」を求めている。日本でも新自由主義的経済政策を、それで一番被害を受けるはずの若い世代が支持したりすることが多い。世界中、「自分で自分の首を絞める」という状況は同じなのである。
ところで、こういう状況でこそ、文化交流が必要だと思う。経済も大事だし、これだけ世界が緊密に結びついている現在では、「日貨排斥」もかえって自分の経済も悪くしかねない。だが、これだけ襲われたりすれば、今回は「政冷経熱」とはしばらく行かないのではないか。投資意欲はかなり萎えるだろうし、家族も危ないから行かない方がいいのではと言うだろう。でも、隣国であるという事実は変わらないし、文化交流の長い長い歴史がある。本当は中国の地方中堅リーダー層や学生を招いて、日本の各地方、東北の被災地、広島や長崎、沖縄なども含めて、中小企業や伝統文化などを訪ねる、そんな試みが今こそ必要なのではないか。日中関係は経済で語られ過ぎたと思う。「平和」を維持することこそがまずは最大の前提であって、どんなときにも民衆の友好運動の火を絶やしてはいけない。今はともかく、時間が経ったら各地方の姉妹都市などの出番だろうと思う。(なお、本来は日中国交回復40周年記念として計画された「中国映画の全貌2012」という特集が新宿ケイズ・シネマで行われる。「阿片戦争」(1997)や「宗家の三姉妹」などの必見歴史もの、「紅いコーリャン」「さらば、わが愛 覇王別姫」「長江哀歌」「青い凧」などの極め付きの名作が上映される。今こそ見るべき映画。)