尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

鍵は「学年団」の結束-「減いじめ」のために④

2012年09月01日 01時17分18秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめを早期に発見し、レベルがまだ低い段階で指導できる学校体制をいかに作るかある程度の学級数がある中学や高校を対象に考える。(少子化に伴い「1学年1クラス」の学校もあると思うけど、そういう小規模校は事情が違う場合が多い。夜間定時制高校や離島・へき地の学校も生徒像が違う。小学校は教科担任制ではないし、自分で勤務体験もないから事情がよく判らない。)

 最近の教育行政や世論などを見ると、「教員の指導力」をそれだけで取り出して資質を向上できるものと考えているらしい。そうでなければ、「教員免許更新制」とか「教員給与への成績率導入」などを行うはずがない。しかし、それは間違いで、「教員の指導力」というものは、他の教員や生徒との「関係性」の中でしか発揮されないものである。特に中高では「教科担任制」なので、自分の教科だけ一人で頑張っても、自分の担任するクラス、学年の成績向上はできない。もちろん生活面の問題解決もできない。問われているのは、一人の教師の指導力ではなく、「学校の指導力」なのである。

 そのことは学校に勤めている人はほぼ全員判っている。しかし、ドラマなんかだと理想に燃える先生が一人で頑張ると生徒も変わり、学校全体も変わるかのごとく描かれる。そういうのを見ると、教員が一人で頑張れば学校を変えられると錯覚してしまうけれど、それは現実離れした発想である。いいとか悪いとかではなく、学校も行政が法的根拠に基づいて設置した行政組織である。一人の教師はその行政組織の一員に途中から加わることしかできない。

 教師はある年に、新規採用されたり異動を命じられて、ある学校に赴任する。たまたま全くの新設校一年目ということも、ごくまれにはあるだろう。だけど、普通は創立何十年かの伝統がすでにある。自分が来る前の去年も、生徒がいろいろ活動していた。自分がその学校に転勤しても、進学実績が急に上がったり部活で急に勝ち進んだりはしない。1年生を受け持てばともかく、上級生を担当させられると、まず「去年までの先生はこうだった」「前の先生の方がいい」という生徒の大攻撃に会う

 その学校の生活指導の方針は大体決まっている。「朝全員の教員であいさつ運動をして、服装や頭髪をチェックしている」と言われたら、疑問を持っても一緒にやっていくしかない。「この学校の生徒は落ち着いている」と言われる学校もある。それも、今までの教員と生徒がそういう「伝統」を作ってきた成果であり、新1年生にも指導して誇りを持たせていくわけである。このように、自分の「指導力」を発揮するより前に、「学校の伝統」みたいなものがあって、それは生徒実態の変化とともに次第に移り変わっても行くが、とりあえず目の前にいる生徒は自分一人の頑張りで急に変容するわけではない。

 そして、各学年数クラスあると、学年の担任と副担任で「学年団」が結成される。高校だと各科目の専門性があって、例えば日本史が専門だと3年を主に教えて、1年担任だけど自分のクラスも教えなかったりする。でも中学や、高校でも国数英や体育の教員は自分の学年を中心に教えることが多い。各学年に数クラスあれば、教師も他学年の学年の生徒はよく判らない。生徒の側も部活や委員会で接点がある場合もあるけど、大体学年の先生以外は顔と名前が一致しない。つまり、学年に数クラスある学校の場合、学校は(教師も生徒も)「学年」が基盤なのである。教師にいじめを発見せよと言っても、名前も知らない生徒の事情はよく判らない。(名前を知らなくても、喫煙やケンカが問題なのは当然で、そういうケースを見つけることはある。)一方、生徒が教員に相談する場合でも、養護教諭や部活顧問に相談するときもあるが、クラスの問題は学級担任か学年の教師ということになる。

 この「学年教員団」は普通一週間に一回、「学年会」(学年会議)を開いて、学校行事の調整や生徒情報の交換、分析をしている。だから、その学校である学年に問題が多発したとするなら、その学年団がうまく機能していないことになる。一方、学年会で出た問題を皆で共有して、共通の指導態勢で生徒に当たっていけば、すぐに生徒の問題が解決するわけでなくても、少なくとも「先生は皆同じように対処する」ということが生徒に伝わる。それは例えば、こんな具合。

・「修学旅行の班分けを来週のホームルームの時間に行う」→「班作りが難しい可能性が高い生徒がいる場合は、事前に担任がそれとなく周りに声を掛けておく
・「最近ガサツな言動が多く、掃除の時間にさぼる生徒も多い。弱い生徒に掃除をやらせたり、抜け出してタバコを吸ったりすることに結びつきやすい。修学旅行を前に心配がある」→「班分けをする前に、来週のホームルームの時間に臨時学年集会を行ったらどうか。小さなことでも全体で注意した方がいい」→「臨時に学年集会を開く」というように、生徒実態を見て指導のあり方を作っていく。

 そして、臨時の集会はこんな様子。まず集会担当の教員が集合させ、号令をかけ並ばせる。その間、例えば副担任の教員が追い出しを担当し、クラスやトイレでさぼっている生徒を体育館に連れてくる。集会は最初に生活指導担当の教員が、大声で多少威圧的に「最近の様子を見ていると、修学旅行が心配だ。行って事故が起きたら取り返しがつかない。いじめなどにつながる心のスキがあるのではないか」などと強く話す。そのあと学年主任が「修学旅行は学年最大の行事で、今までみんなで勉強や部活を頑張ってきたのに、ここでダメにしていいいのか。この後班分けをするけど、もめて仲間はずれを出したりすると楽しいはずの旅行が、クラスや先生にとっても一番辛い行事になってしまう」と心に訴えるような話をする。そのあとに修学旅行担当の教員が、具体的な班分けの人数、係生徒の問題(各班で班長、副班長、生活係、保健係を決めるなど)を説明する。そして話が重くなり過ぎないように、事前に行ったホテルの様子とかレクの話などを紹介して楽しい旅行になるように終わる。

 僕が何を言いたいかというと、こういう「仕事の分担」が教師の仕事であり、全体統括の教員もコワモテの教員も、事務的な説明も、追い出し担当の副担任も皆同格で学年団を構成して仕事が進む。生徒はそれをよく見ていて、この学年の教員はみんなでまとまっていて、一緒に修学旅行を成功させたいとどのくらい本気で考えているのかを判定しているのだ。そういう「学年団」の結束が生徒に見えたときに、「いじめ」に限らず、心配な生徒の情報が集まってくる。一方、教員間の指導にすきまがある場合、そのすきまが少しずつ広がって行って、ダムの決壊のような大問題の多発につながっていく。

 だから僕は学年教員団が結束していくことが、学校で一番大事なことだと思う。学年団は教科が違う教員で組むことになるので、教育に対する考え方や趣味なんかは必ずしも一致していない。組合に入っている教員も入っていない教員もいる。しかし、組合未加入の教員でも管理職や教育行政の専横には怒っていることも多いから、実際の学年団で問題になることは少ないだろう。どこの人間関係でもそうだと思うが、最後は「馬が合うとか合わないとか」で決まってくるのかもしれない。教師には一風変わったワガママな人もたまにいて、そういう人と組むと大変な場合がある。指導力の有無ではなくて、指導力があり過ぎて自分で勝手にどんどん生徒指導してしまい、他の教員は指導してしまったんなら追認するしかない状況になるのが一番問題。「指導力」なんてそんなにいらないから、他の教員や生徒と一緒に地道に苦労できる人がいいのである。

 いじめを防ぐことに限らず、様々な学校の課題は、とりあえず自分が所属している学年の生徒をよくすることから始めるしかない。一緒に学年を組んでいる教員の協力で、成し遂げるしかない。それを支援するのが管理職の仕事だと思うけど、最近は教育行政の圧力で現場のジャマをすることが多い。学年会で決まった要望が生きて行かないことが多くなると、誰もアイディアを出そうという気にならない。

 学年団の結束と言っても、時には教育観のぶつかりあいもあるし、自分の考えが通らず腐るときもある。でも一緒に仕事をしていく中で、お互いの持ち味が判ってきて、生徒もそれを理解していくようになると、かなりうまく回りはじめる。そのためには地域になじんだ教員が、主任や生活指導担当になっている方がいい。短期間に異動させる方針は、学校の力を削いでしまう。「減いじめ」というより、学校の組織の話そのものになってしまったけれど。
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