尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

和田誠さんを追悼して

2019年10月11日 22時54分16秒 | 追悼
 和田誠さんが亡くなった。10月7日没、83歳。ウィキペディアを見ると、和田誠(以下敬称略)の紹介として、イラストレーターエッセイスト映画監督と出ている。僕が和田誠という名前を知ったのは、多分「キネマ旬報」の「お楽しみはこれからだ」だと思う。映画の名セリフを集めた連載で、題名はミュージカルの「ジョルスン物語」から取られていた。僕は高校・大学時代にキネ旬を毎号読んでいて愛読していた。絵も売り物だったが、やはりエッセイの面白さ、好きな映画への偏愛に惹かれたのだ。

 もっとも1972年に和田誠が平野レミ(シャンソン歌手、料理研究家で、多方面で活躍したフランス文学者平野威馬雄の娘だった)と結婚したときに、僕はどちらの名前も知っていた。だから、名前はもっと前から知っていたのかもしれない。若い頃の一番の思い出は、「話の特集」から出た「倫敦巴里」というパロディ文集である。人生で一番笑った本かもしれない。例えば川端康成「雪国」の冒頭を、いろんな作家の文体で書いたところなど、今も時々思い出す。横溝正史や筒井康隆なんか抱腹絶倒だった。
(「倫敦巴里」)
 和田さんの文章は、とにかく好きな映画(ミュージカルや西部劇)や音楽(ジャズ)、本(ミステリー)などについて、飄々とした「軽み」で弾むように書かれている。僕の若い頃は、まだ重厚、深刻に歴史、社会を語る「サヨク」がいっぱいいた時代で、僕もベースとしてはそういう「マジメな社会派」的な部分を持っていた。映画でもマジメな作品をずいぶん見ていたけど、時にはこういう軽いタッチの笑いに接してバランスを取りたかったんだと思う。「話の特集」とか「ビックリハウス」なんかもよく読んでいた。

 和田誠が初めて長編の商業映画を監督すると聞いたときは、かなり心配した。時々そういう人がいるけど、成功した人はほとんどいない。それに題材は阿佐田哲也原作の「麻雀放浪記」だという。1984年のことだ。僕は就職2年目で、忙しいし麻雀は知らない。どうせ成功しないと思ったからロードショーは見なかった。そうしたらキネ旬ベストテン4位に入った。1位が伊丹十三の初監督「お葬式」、2位が2作目の澤井信一郎の「Wの悲劇」、7位に宮崎駿「風の谷のナウシカ」とベストテンも変わってきた時代だ。
(「麻雀放浪記」、左から鹿賀、大竹、真田)
 「麻雀放浪記」は少し後で見たはずだがあまり覚えてなくて、最近見直したら思っていた以上に凄い映画だった。若き日の真田広之や大竹しのぶに、加賀まりこ、鹿賀丈史、高品格などの熱気が画面に満ちている。ここで判るのは、軽さが信条のような和田誠だけど、やはり1936年生まれの「焼跡闇市派」的な思いを濃厚に引きずっているということだ。根っこには「戦後」があるのだ。だからこそ、アメリカの大衆映画や大衆音楽を語り続けたんだと思う。

 その後、長編「快盗ルビイ」(1988)、「真夜中まで」(1999)やオムニバス映画「怖がる人々」を作った。もっとも一番最初の映画は1964年に作った「殺人 MURDER」というシャレた短編アニメで毎日映画コンクールの大藤信郎賞を得た。小泉今日子主演の「快盗ルビイ」は公開時は何なんだと思ったけど、今になると素晴らしく洒脱な「80年代ムード」にあふれた映画だ。「真夜中まで」もあまり評価されなかったけど、なかなか面白かった記憶がある。心配するまでもなく、和田誠は映画のリズムを知っていた。

 僕は何度か和田誠の話を聞いてると思うが、一度は多分「真夜中まで」のトークだと思う。公開時か、その後の名画座かどこかは忘れてしまった。もう一回は良く覚えている。当時の国立フィルムセンターで開かれた展示「ポスターでみる映画史Part 2 ミュージカル映画の世界」のイベントである。調べてみると、2015年3月14日のことである。もともと展示の企画そのものが、和田誠所蔵のミュージカル映画のポスターだった。(それだけではないが。)そのポスター群を自分で会場をめぐりながら解説してまわった。本当にすぐそばで話を聞いた。好きな話を目一杯語り続けていた姿が蘇る。
(村上春樹・和田誠「ポートレイト・イン・ジャズ」)
 最近の思い出としては、2016年にいわさきちひろ美術館で開かれた「村上春樹とイラストレーター」展である。ブログにも書いている。村上春樹とのコラボとしては、「ポートレイト・イン・ジャズ」などがある。それは知っていたし、文庫本だけど楽しく読んでいた。だけど、この時知ったのは「村上春樹全仕事」の表紙を担当していた。単行本で持ってる本が多いから、「全仕事」なんか関心がなかった。ある意味では一番村上春樹世界をイメージ化していたのは、和田誠だったかもしれない。また懐かしい人がいなくなったと感慨を持ったので、思い出すことを書いてみた。
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