尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

君はハイチ革命を知っているか?ー『ハイチ革命の世界史』を読む

2024年07月29日 22時46分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 君はハイチ革命を知っているか? 「ハイチ革命」は、18世紀末に中米カリブ海にある小国ハイチ(当時はフランス領サン=ドマング)で起きた黒人奴隷による革命である。1804年に独立を達成し、「世界初の黒人共和国」を樹立した。ハイチはその後苦難の道のりを歩み、今でも西半球最貧国と呼ばれる。現時点では政府がほとんど機能せず、国土の大部分をギャング組織が支配していると言われている。余りにも先駆的な「反植民地革命」だったため、長く世界から認められず世界史上でも「忘れられた革命」になってきた。しかし、今ではアメリカ独立革命フランス革命と並び「18世紀の三大革命」とされている。

 最近岩波新書の浜忠雄ハイチ革命の世界史』を読んで、この記事を書いている。2023年8月に出た本だから、ほぼ一年前に出た本だが、「積ん読」だったわけではない。新書といえど税込で千円を超えるから、もう世界史の新書はいいかなと思って買わなかったのである。今回読んだのは、きちんと中南米カリブ海地域の歴史を知りたいと思ったからだ。ガルシア=マルケスの小説は、ずっとコロンビアのカリブ海沿岸地域を描いていた。さらに、ちょっと前に『MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?』(2024.6.23)を書いたので、「コロンブスが『発見』した島」で何があったのかをきちんと考えたいのである。

 その島はイスパニョーラ島と名付けられたが、後に聖ドミニコ(13世紀初頭にドミニコ会を創設したスペインの修道士)にちなんで「サントドミンゴ」と呼ばれるようになった。現在島の東3分の2が「ドミニカ共和国」となり、首都がサントドミンゴなのも、この聖ドミニコから来ている。17世紀になってスペインが衰えフランスが強大になり、次第に島の西部を占領するようになった。スペインには撃退する力がなく1697年にフランス領と認められ、フランス語読みで「サン=ドマング」と呼ばれた。
(ハイチの場所)
 スペイン領時代から原住民タイノ族は鉱山などで酷使され、また白人の持ち込んだ病原菌によって原住民はほぼ絶滅するか逃亡した。人口は十万人から百万人いたとされる。(なおスペイン人が新しい作物などを得てアメリカ先住民に病原菌が流入したことを、今は歴史学用語で「コロンブス交換」と言うらしい。)そこでスペイン人はアフリカから黒人奴隷を導入し、奴隷制プランテーション農業が盛んになった。18世紀フランス経済はサン=ドマングの砂糖貿易に支えられ、砂糖きび栽培はぼうだいな黒人奴隷に頼っていた。表が掲載されているが、18世紀末には黒人奴隷が40万以上にもいて、白人3万人を大きく越えていたのである。

 過酷な環境にたえかねて、1791年8月21日に黒人奴隷の一斉蜂起が始まった。蜂起はあっという間に広がり、北部の大部分を解放した。サン=ドマングでは解放奴隷のトゥサン・ルヴェルチュール(1743?~1803)がリーダーとなり、奴隷解放を宣言した。その時本国フランスは大革命のさなかで、1789年に採択された「人権宣言」は「人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ」と格調高く述べている。ならばフランス領内に奴隷の存在は認められないはずだ。根強い抵抗を排して、やがてフランス議会は奴隷廃止を決定する過程は興味深い。結局「恩恵」として解放を認めたのは、革命後の周辺諸国との戦争の影響が大きかった。
(トゥサン・ルヴェルチュール)
 しかし、ナポレオン政権になって情勢が暗転する。ナポレオンは1801年にトゥサンを罠にかけて逮捕し、フランスまで連行して投獄した。(トゥサンは1803年に獄死した。)その後ナポレオンは秘密指令で奴隷制復活を指示し、大軍をサン=ドマングに派遣した。しかし、サン=ドマングの人々は団結してフランス軍を打ち破り、1803年末には全土を解放した。そして1804年1月1日に「ハイチ独立宣言」を発したのである。国名をハイチとした理由は不明だが、これは先住タイノ族の言葉で「山の多いところ」を意味するという。絶滅した先住民の尊厳の回復も込められた国名だったと思われる。

 この本を読んで驚いたのは「世界史の偉人」とされてきた人々の実像である。今書いたようにナポレオンは奴隷制復活をもくろんだ。「独裁者」であり「解放者」でもある二面性が指摘されるナポレオンだが、それはヨーロッパ内の視点に過ぎず、植民地から見れば抑圧者だった。ガルシア=マルケス『迷宮の将軍』が描いた「ラテンアメリカ解放者」シモン・ボリーバルも不利になるとハイチに援助を求めるのに、結局は奴隷の反乱を恐れていた。さらにアメリカの奴隷解放令を出したリンカーンの実像は衝撃。彼は確かに奴隷を「解放」したが、黒人を社会をともに担うものとは考えずアフリカやハイチへの「黒人植民」と考えていたのだ。

 ハイチを承認する国はなかなか現れず、結局は1825年にフランスに巨額の賠償金を支払うことと引き換えに、独立が承認された。フランスが払うのではなく、フランス人植民者の利益分の賠償をハイチが負わされたのである。あまりにも巨額のため支払いは度々遅延し、なんと支払いが終わったのは1922年だったが、それもアメリカからの借款による返済だった。この重い賠償金がハイチの国力を奪ったのは間違いない。「独立」したものの世界から無視されて「忘れられた革命」となったハイチ革命。それはあまりにも先駆的な革命だったために、世界史から忘れられたのだ。しかし、アフリカ諸国が次々と独立したものの、政治的、経済的に苦難が続くのを見ると、今こそハイチの先駆性の教訓をくみ取る必要がある。

 この本は世界史認識がひっくり返る本である。僕は若い頃に児童文学者乙骨淑子(おつこつ・よしこ、1929~1980)の『八月の太陽を』(1966、愛蔵版1978)という本を読んでいる。ハイチ革命とトゥサンの生涯を1960年代に児童文学として描いたという恐るべき先見性に満ちた作品である。この本ぐらいしか若い頃にハイチ革命の本はなかったと思う。一応世界史の教科書には小さく載ってるし、歴史教員だったんだから(日本史が専門だが)、僕はハイチ革命の存在は知っていた。しかし、世界史的意義について、この本を読むまできちんと考えていなかった。多くの人がそんなものだろう。これは「世界」を認識するために必読の本だ。

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