尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

神戸の教員いじめ問題の本質

2019年10月10日 23時41分02秒 |  〃 (教育行政)
 神戸市のある小学校で、指導的立場にある複数の教員が、20代の若手教員に対して「いじめ」を繰り返していたという問題が発覚した。この問題について、僕が考えることを書いておきたい。
(記者会見して謝罪する校長ら)
 今まで「いじめ」問題について、ずいぶん書いている。その中で、「いじめアンケートへの疑問①」「いじめアンケートへの疑問②」という2012年8月に書いた記事がある。その時は大津市のいじめ事件が問題になっていて、文科省がアンケートのひな形を公表していた。それは「いじめにあった生徒」だけに「自書式」で詳しい記入を求めていた。選挙と同じく日本の「伝統」というか、日本人の「思い込み」で、何でも自分で書かせるのである。そうなると、一生懸命書いている子どもは、自分がいじめられていると「チクっている」ことがクラスメートに明々白々となってしまう。

 それもあるけれど、もう一つ大問題があると指摘した。それは学校には大きく言えば、「児童・生徒」と「教職員」がいる。よって論理的に、学校で起こる「いじめ」「問題行動」は4パターンありうる。「生徒が生徒に」「生徒が教師に」「教師が生徒に」「教師が教師に」である。それなのに「生徒間いじめ」しかアンケートの対象にしてない。少なくとも「教師が生徒に」は聞くべきだと書いた。案の定、その後大阪の高校で起こった体罰事件をきっかけにして、全国で体罰問題が噴出することになった。もちろん当然のこととして、「生徒が教師に」「教師が教師に」も学校で起こりうるし、現に起こっているだろう。

 確かに今度の事件は、激辛カレーをなすりつける、動画に撮るなど、やり方が幼稚すぎて、中高生どうしの事件みたいだ。それが「指導的教員」だというんだから、驚いたことは驚いた。しかし、学校内で起きる問題のかなりは、「指導的立場の教員」が起こしていると思う。(「若手教員」はそもそも校内で居場所が少ないから、問題は外部で起こすことになる。)これももともと何度も書いてきたが、教員で問題なのは「指導力不足教員」ではなく、「指導力過剰教員」の方なのだ。それを勘違いして、「指導力」だけを取り出して「研修」することにより「指導力を向上させることが出来る」という発想そのものが間違っている。例えば「教員免許更新制」などのような。

 この学校のような「物理的いじめ」が起きるというのは、多分数少ないと思う。しかし、特に校長などによる「パワーハラスメント」は日常茶飯事に近いだろう。これは学校だけじゃなく、日本のどこの職場でも起こっているし、家庭では「虐待」とか「ドメスティックバイオレンス」という形で現れている。議論せずに「押しつける」ということを繰り返すのである。それは「あいちトリエンナーレ」をめぐる問題を見ればよく判る。そういう日本の風土の中に学校があり、教師もそこで生活している。いじめだって、当然起きる。ただ多くの場合は「無視」とか「指導しない」という形で起きているんじゃないか。

 それを防ぐのが校長だろうというかもしれない。それはそうなんだけど、校長といってもそんなにリーダー力がある人ばかりではない。神戸市を調べてみると、小学校が162校、分校1とある。中学校が81校、分校3である。当該の小学校は各学年3クラス、特別支援2クラスを入れて、全20クラスの規模。全校の児童数は567人(5月1日現在)である。これはホームページで公表されているデータで、誰でも見られる。神戸市の小学校としては、大体同じぐらいの規模の学校が多いようだ。神戸だけで、162人も小学校長がいるのである。皆がそれなりの教員経験を持っているわけだろうが、全員がすごいリーダーだなどということはあり得ないのである。

 この小学校では、前校長のパワハラ的言動があったとも言う。前校長は元は当該校の教頭を2年やって、同じ学校で昇格して、一年で異動。次の校長は教頭が昇格。これは東京ではあり得ない人事だ。絶対にないとまでは言えないが、同じ学校で昇格することは普通ないだろう。これでは校長のリーダシップなど発揮しようがないだろう。前年度は校長じゃなかった立場で、今年から校長だからといって強く出られるわけもない。前からの校内のやり方を踏襲することになる。前年までが素晴らしかったら、それでいい。でも前年までに問題があったら、それが続いてしまう可能性が高い。そういう人事を繰り返している神戸市の教育行政の責任は大きい。

 それもあると思うが、僕は最後に一番大きな問題を書いておきたい。それは文科省によって進められてきた「教育改革」(改悪)の問題である。小学校は勤務経験がなく、内部事情は判らないけど、近年の「道徳教科化」「英語教科化」「新指導要領」など、小学校にかかる負荷は一番大きい。校長は上から降りてくる指令を無視できない。だけど教員から「なんで英語を教科にするんですか」と聞かれて、うまく答えられるだろうか。「もう決まってるんだから、やるしかない」と言うしかないだろう。

 つまり校長は「議論なしに押しつける」以外の対応が出来ない。そういうことがここ何十年と繰り返されてきた。そこに(神戸の事情はよく判らないけど)「競争的勤務評価システム」「ICT教育推進」「働き方改革」などの大波が押し寄せてきた。学校現場は忙しすぎて、結束して事に当たる経験もなくなっていく。現場を覆っているだろう「何を言ってもムダ」みたいな感覚を何とかしない限り、今後もいろんな問題が噴出するに決まってる。個々の事件は、もちろん問題を起こした教員の責任なんだけど、いわば「疫学的」な論理で責任を追及するべきだ。あちこちで問題が起きるときは、一番大きな責任は一番上にあるのだと思う。
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