尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『予告された殺人の記録』、もう一つの『異邦人』ーガルシア=マルケスを読む⑦

2024年07月16日 22時34分17秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを続けて。『予告された殺人の記録』(Crónica de una muerte anunciada)は1981年に発表され、日本では1983年に野谷文昭訳で刊行された。刊行当時に評判となって、その当時に読んだ記憶がある。1997年に文庫化され、新潮文庫に今も生き残っている。解説を入れても150頁ほどの本だから、時間的には割とすぐ読めるけど、これも結構手強い。人名が多すぎて、誰が誰やら悩んでしまう。ある実在の殺人事件の時間軸を一端解体して再構成している。その構成が「卓抜」と評され、作者本人も自分の最高傑作と言っている本である。だけど、時間構成がバラバラなので、外国人には理解が難しくなるわけである。

 この小説は1951年に実際にコロンビアで起こった殺人事件を描いている。ガルシア=マルケスの家族が住んでいた町で起きた事件で、家族の証言も出てくる。しかし、ガブリエル本人はもうカルタヘナでジャーナリストをしていたので、事件当日は町にいなかった。知人も多く関係していて、事件当時に大きな関心を持って取材していたらしい。しかし身近な事件過ぎて発表出来なかった。30年経って関係者も亡くなりつつあり口を開きやすくなって、改めて取材してまとめたのである。世界的に知られた作家が実在の殺人事件を描いたとなると、ノンフィクション・ノヴェルと呼ばれたトルーマン・カポーティの傑作『冷血』が思い浮かぶ。

 よく比較される本だが、作家が身近な題材を扱い、(事実上)自分の家族まで出て来るところが違っている。では、これは「ノンフィクション」なのかというと、先に取り上げた『誘拐』が紛れもなくジャーナリズムの範疇に属するのに対して、この本は明らかに「小説」になっている。実際にはいなかった作者に代わって、事件を物語る主人公が出て来る。また時間の再構成がなされた時点で、「事実」から「文学」になっている。訳者後書きによると、この方法は中上健次が高く評価していたという。また香港の映画監督ウォン・カーウァイに影響を与えて、『欲望の翼』以前と以後の違いをもたらしたという。
(映画『予告された殺人の記録』)
 この小説も映画になっていて、1987年に製作され、日本では1988年に公開された。イタリアの巨匠フランチェスコ・ロージの監督で、コロンビアの現地でロケされた。この監督は『シシリーの黒い霧』『黒い砂漠』『エボリ』など社会派系の名作を作っていて、僕が大好きな監督である。期待して見に行った記憶があるが、映画はあまり面白くなかったと思う。映画祭やベストテン投票などでも評価は高くなかった。何がどうなるか不明な状況こそ映画の題材にふさわしい。「予告された殺人」が予告通りに起こっても、原作を再現しただけになってしまう。そこら辺に弱さがあったかなと思う。
(映画の一シーン)
 さて、今まで事件そのものに触れていないが、簡単に言えば「名誉の殺人」というものである。現代ではイスラム圏で多く見られるが、日本を含めて過去には世界各国で起きてきた。バヤルド・サン・ロマンという人物が町へやって来て、何者だか不明だが有力一族らしい。アンヘラ・ビカリオを見そめて、結婚を申し込む。アンヘラは親が認めた結婚を受けざるを得ず、町を挙げた「愛のない結婚」の祝祭が繰り広げられる。ところが夜遅くなって、アンヘラが家に帰されてきた。「処女」ではなかったという理由である。一家の名誉を汚されたとして、双子の弟たちが問い詰めると、アンヘラはサンティアゴ・ナサールを名指しした。

 こうしてサンティアゴ・ナサールが付け狙われることとなり、そのことを(ほぼ)町中の人々が知っていた。しかし、本人に教える人がいなかった。本当に事件を起こすとは思っていなかった人もいた。兄弟も止めて貰いたいかのように、周囲に言いふらす。一度は凶器のナイフを警官に取り上げられる。それで終わったかと思うと、家から豚を殺すためのナイフを持ちだしてきた。様々な偶然も重なり、止められたはずの殺人が現実に起こってしまった。という意味合いで、この物語を「運命に操られた殺人」と理解して「ギリシャ悲劇のよう」と評されることもある。
(スクレ県シンセレホの大聖堂)
 事件が起きたのは大都市ではなく、コロンビア北部のカルタヘナ西方のスクレ県で起こった。そこで「地域共同体」の構造が問題になる。ここでは誰も指摘していない観点を示しておきたい。それはアルベール・カミュ異邦人』との比較である。『異邦人』では、北アフリカのフランス植民地アルジェリアでフランス人ムルソーがアラブ人を射殺する。そしてそれを「太陽のせい」と表現し、「不条理殺人」と呼ばれてきた。しかし、僕はそれは植民地で起きたある種のヘイトクライムととらえられると考え、『ヘイトクライムとしての「異邦人」』を書いた。では『予告された殺人の記録』と何が関係するのか。

 実は殺害されたサンティアゴ・ナサールアラブ人だったのである。正確に言えば、父親がアラブ人移民だった。イスラム教ではなく、カトリックである。シリアやレバノンにはキリスト教信者も多く、レバノンで大統領を出す慣例がある「マロン派」は「マロン典礼カトリック教会」のことである。かのカルロス・ゴーンもその一人。オスマン帝国支配下で困窮し、世界各国に移民として流出した。南米にもブラジル、アルゼンチンなどに多く、コロンビアにも100万人ぐらいいるようだ。サンティアゴ・ナサールはその一人だった。もうすっかり受け入れられ、裕福な経済環境もあって、町に溶け込んでいたはずだった。

 しかし、誰も彼に「殺害予告」を教えなかった。またサンティアゴとアンヘラが仲良くしていた様子は誰も見ていなかった。サンティアゴには許婚者がいて、結婚式も決まっていた。後になって人々が解釈したところでは、アンヘラは「まさか家族が襲撃するとは思えない人物」の名前を挙げ、「本当に関係があった人物」を隠したと理解される。そんなことがあり得るのか。「家族の名誉」が汚されたと思われた時、家族がその当人や関係者を殺害するのが「名誉の殺人」と呼ばれる。それにしても、「事実」の確認を本人にしないで突然襲撃するなら、単なる殺人だ。

 これは「共同体」からはみ出す要因を持つ「アラブ人」が名指された事件だった。『異邦人』は偶然に発生し、『予告された殺人の記録』ではまさに「予告」されて発生した。しかし、どちらも被害者がアラブ人だから起きた事件だった。それが僕が感じた事件の解釈である。ガルシア=マルケスは必ずしもその辺を深堀りしていない。問題意識になかったのかもしれない。「移民」「ヘイトクライム」が大問題になった21世紀になってから、見えてきた観点かもしれない。
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