尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「真の目的」を「邪推」する-教員免許更新制再考⑨

2011年11月18日 20時54分34秒 |  〃 (教員免許更新制)
 これから書くことは実証できないことである。「陰謀史観」みたいなのは嫌いだけど、ある程度「大きな絵の構図」も必要だから、こんなことを考えてみたという話。

 日本の高度成長を支え、今や高齢化社会を迎えた「ぶ厚い中間層」。自分の家しか資産がなくて中産階級というのは本来はおかしいが、日本ではそれでもほとんどの階層が「中流意識」を持ったのである。日本では「高級紙」という新聞形態がなく、読売や朝日が1千万部くらい読まれてきた。識字率はほぼ100%。選挙では「自書」(候補者の名前を有権者が自分で書く)式が当たり前。大企業だけでなく、中小企業や自営が元気で、「職人」が大切にされる。

 しかし、このような社会は、もはや行き詰まった。グローバリズムの中で生き残るには、高い人件費、皆が持ち家を望むから高い地代、高学歴でも英語も使えない人材。これらを抱えていては日本は生き残れない。もう「中間層」はいらない。一部のエリートと、使われて働く「派遣の非正規社員」がいればいい。だから、「エリート教育」を進めると同時に、あとはそんなに頑張らず「言われて働く」下層労働者だけを育てることが今後の日本の教育目標となる。

 ここまでは、実際にそう考えている人がいる。大阪府の教育基本条例に関して、「格差を広げなくてはいけない」と堂々と公言している。東京でも、進学指導を進める高校と、そうではない高校をはっきり分けて予算配分も差別化する政策が進められてきた。教育格差を広げると言うと、そんなことに賛成する人がいるのかと思うかもしれないが、「受験の自由度を高めて、保護者の選択の自由を拡大する」「結果として格差は広がるかもしれない」と言う。昔は居住する学区以外の普通科高校は受けられなかったが、今はどこでも受けられるようになったところが多い。自分の子供が頑張って学力が上がれば、隣の学区の有名校に行けるかもしれない。だから、格差拡大政策と言っても、自分の子供には有利に働く(と信じたい)ので、保護者は支持してしまう。

 ところで、このような教育の能力主義的再編に反対してきたのが教員組合だった。教員組合を「左翼」であり「革命教育」を進めてきたというような誇大妄想的な右翼反対派もいるが、教員組合のスローガンは民衆レベルの平和主義に適合的なものである。戦前の国家主義的教育への復古をたくらむ勢力が一定の力を持っていたので、「自由」「平等」「平和」と言った「民主主義的教育」のスローガンが一般市民の支持も受けやすかったのである。それに対し、文部省(当時)は組合とイデオロギー的に対決しながら、「教育の質の向上」においては共通の土俵も形成されていたとも言える。しかし、そのような「教育の55年体制」はもはやずいぶん昔の話である。

 新自由主義的な教育を進めようとするときに、一番反対すべき教員組合はもうほとんど力を持っていない。地方では一部にはかなり大きな力が残るところもあるが、日教組(連合加盟)と全教(全労連加盟)を合わせても組織率は3分の1程度。右派の全日教連なども合わせて4割をようやく超える。(文科省調査)従って、非組合員が多数派なので、もう当局側の思うような教育政策がどんどん進められるはずである。そして実際、成績率の導入、組織のピラミッド化など東京を先頭にしてどんどん実現していった。だから教育の外堀は埋めたのであるが、それでも教育の中身そのものがなかなか変わらない。当たり前である。初中等教育段階でやるべきこと、育てるべき学力や社会性が急に変わるわけがない。それでいいのである。だが、「彼ら」(誰だか知らないが)はここで気づいた。組合を弾圧するだけでは足りなかったのである。非組合員教師こそ「平等教育」の担い手だったのだ。

 考えてみれば当然である。少数派になっても組合に加盟する教師の方が、むしろ変化を求める教師である。非組合員の教師は、イデオロギー的には組合に賛同しないかもしれないが、教育実践においては、組合員以上に「集団主義的」であり「平等主義的」だったのだ。組合に加盟して権利要求をしないからといって、能力主義に賛成なのではない。むしろ組合に入るような目立つことを避けるくらいだから、生徒にも「みんなで頑張る」「一人で目立たない」指導をするのである。

 だから組合に踏絵を踏ませるような、国旗国歌の強制などだけでは教育を変えることができない。どうしても全教員の身分を揺さぶる政策が必要とされる理由がここにある。非組合員の教師は、国歌斉唱時にもともと起立しているわけだから、いくらその点のペナルティを厳しくしても影響がない。しかし、免許更新制は、放っておくと失職だからどんな教員にも皆「踏絵」となるのである。その意味では、更新制導入をもくろんだ人々は、初めは大学での講習ではなく、教育委員会による強制的な研修を考えていたと思う。実際の法律制定時に、最後の最後で大学での講習になったけれど、それは教育委員会だけでは大量の対象者を扱えないということがはっきりしたからだろう。実際各大学で行われている講習の数を考えると、他の研修を夏にたくさん行っている教育委員会では無理だった。その結果、大学では、ある程度自由な講習を受けることができて、当初の目論見からすれば予想外なのではないか。

 それでも「合格」して「自分で更新手続きする」ことは残されている。これなどは簡便化が可能なはずなのに、自分で更新に行かなくてはいけない。何故だろうか。それはこの時に、「自分の免許は後10年」「生活のためにまた更新しなくてはならない」と確認させるためだと思う。せっかく自費で講習を受け更新した免許である。生活のためにやむを得ず受けたわけである。管理職になっていれば免除されたのである。後は、管理職になって行政の言うとおりの教育政策を進めるか、生活のために行政に従うか、の二者択一になってしまうのではないか。これこそが、組合の活動を制限することでは得られなかった、教育現場を変えて行くための前提条件なのだ、と自分では考えてみたのだけれど。
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