「永青文庫」でやってる「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」(5.7まで)を見てきた。熊本藩細川家下屋敷だったところにある美術館である。細川家に伝わる美術品や書物などを収蔵し、国宝が8点もあるところ。行くのは初めて。直線距離ではそんなに遠くないけど、東京は東西方向の交通網が少ないので、案外行きにくいのである。近くにある椿山荘、鳩山会館、東京カテドラル大聖堂なども一度も行ったことがない。地下鉄有楽町線江戸川橋駅徒歩15分と駅からちょっとある。
この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/13/e7/ce2a8e26ac60340a83ff226ee734d69a_s.jpg)
今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「永」は細川家の菩提寺である永源庵から、「青」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
(生駒光忠)
(古今伝授の太刀)
(展示室)
そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。
他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「鍔」(つば)とか「笄」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。
永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/69/7a/1954a3df96d21c5d08e41c89d0b4c12d_s.jpg)
江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
(関口芭蕉庵)
(胸突坂登り口)
(胸突坂)
永青文庫に行く前の江戸川公園と神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/f9/4e7730056773ce984d013c09895347fa_s.jpg)
神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
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今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「永」は細川家の菩提寺である永源庵から、「青」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
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そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。
他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「鍔」(つば)とか「笄」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。
永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
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永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
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江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
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永青文庫に行く前の江戸川公園と神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
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神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
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