尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

永青文庫と肥後細川庭園を見る

2023年04月22日 19時53分41秒 | 東京関東散歩
 「永青文庫」でやってる「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」(5.7まで)を見てきた。熊本藩細川家下屋敷だったところにある美術館である。細川家に伝わる美術品や書物などを収蔵し、国宝が8点もあるところ。行くのは初めて。直線距離ではそんなに遠くないけど、東京は東西方向の交通網が少ないので、案外行きにくいのである。近くにある椿山荘鳩山会館東京カテドラル大聖堂なども一度も行ったことがない。地下鉄有楽町線江戸川橋駅徒歩15分と駅からちょっとある。

 この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
 
 今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「」は細川家の菩提寺である永源庵から、「」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
(生駒光忠)(古今伝授の太刀)(展示室)
 そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。

 他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「」(つば)とか「」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。

 永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
    
 永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
   
 江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
(関口芭蕉庵) (胸突坂登り口)(胸突坂)
 永青文庫に行く前の江戸川公園神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
   
 神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
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