大河ドラマを見なくなって、もう何十年も経つ。自分も幼き頃は大河ドラマで歴史ファンになったようなものである。でも大学生頃からはほとんど見てない。実際に「歴史学」を学ぶようになってしまったから、今さら戦国や幕末のドラマを見ても違和感を感じる部分が多い。それでも大河ドラマをきっかけに、関連人物の研究が進んで新書などで刊行されることが多い。この「大河特需」は研究者にも歴史マニアにもありがたいものじゃないだろうか。
今年は徳川家康だから、家康本が並んでいる。その中で関東戦国史をずいぶん読んできた黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』(朝日新書)を見つけたので思わず買ってしまった。3月30日付の本で、時に大きな書店に行くとこういう本を見つけられる。早速読んだんだけど、最近では一番面白かった本だ。やっぱり歴史系の本が好きなのである。近現代は読む側に「価値観」が問われるけど、戦国時代はそこまで考えなくても良いから気が楽だ。
(『徳川家康の最新研究』)
帯には「忍耐の人ではなく、ありえない強運の持ち主だった!」と書かれている。それはその通りだろう。各章を紹介すると、「今川家における立場」「三河統一と戦国大名化」「織田信長との関係の在り方」「三方原合戦の真実」「大岡弥四郎事件と長篠合戦」「築山殿・信康事件の真相」「天正壬午の乱における立場」「羽柴秀吉への従属の経緯」「羽柴政権における立場」「関ヶ原合戦後の『天下人』化」の全10章。最晩年の豊臣氏滅亡に至る問題は触れられていない。
よく知らないだろう言葉を解説しておくと、「大岡弥四郎事件」というのは、長篠合戦(1575)の直前に岡崎町奉行の一人だった大岡弥四郎が、武田軍を城内に引き入れる謀反を企んだが事前に発覚して防いだという事件だという。僕も初耳だったが、当時家康は浜松城を本拠としていて、岡崎城は1571年に成人した長男信康が城主となった。この陰謀は単に大岡一人のものではなく、信康家臣団中枢につながるものだった可能性が高い。武田勝頼は結果的に滅亡したので、何だか弱将だったイメージがある。しかし、信玄没後も広大な領国を長く維持して、当時は東三河に侵攻を計っていた。勝頼の評価は最近かなり高くなってきた。
1582年に武田家は滅亡する。家康は3月10日に甲府に着いたが、本能寺の変が起こったのは6月2日。武田滅亡後に家康は駿河を与えられたが、甲斐・信濃・上野の旧武田領は織田政権の支配が安定しないうちに崩壊し、その結果、徳川、北条、上杉、また信濃の国衆などが実力本位で争った。それが「天正壬午の乱」で、この名称も近年になって定着したものなので僕は知らなかった。当時の焦点は織田政権の後継の行方である。研究者も中央政界の動向に目が行っていて、地方の事情は軽視されていた。結局、甲斐・信濃は徳川、上野は北条が切り取り次第となって決着した。
(『徳川家康と今川氏真』)
その後、黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日選書)が出た。4月25日付だから、まさに最新の本だ。これは名前通り、今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)との長い関係をていねいに追求し、今までにない史実を豊富に指摘している。前書と合わせて、今川家との関係を見ておきたい。今までは徳川家康は忍耐、辛抱の人生で、まず幼少期に父が死んで、今川家の人質にされたと出て来る。それも一時は間違って織田家に送られたという話もあった。それはどうやら間違いらしいが、今川家に送られ駿府(今の静岡市)に住んでいたのは確かである。しかし、それは人質という性格のものではなかったらしい。
今川家従属の国衆は原則として駿府在住が求められ、家康も特に扱いがひどかったわけではない。むしろ一門の重臣関口家の娘(築山殿)と結婚を許され、一門衆扱いされていたらしい。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が敗死して、すぐに家康は従属関係を解消し信長と同盟したというのも間違い。織田・徳川の清洲同盟は翌1561年のことである。当初はまだ今川家に従っていたのだが、次第に独立志向を強くしていき、三河(愛知県東部)の統一を目指し始める。1563年に名前を改め、今川義元から一字を貰った「元康」から「家康」とした。これが今川との公式的な手切れだろう。
当時の関東情勢のベースは「甲相駿三国同盟」だった。武田信玄、北条氏康、今川義元の間で相互の婚姻関係を結び、1554年から1567年まで継続された。しかし、義元死後に武田信玄は駿河を狙う素振りを示した。1567年に信玄は嫡子義信を幽閉し、義信は後に自害する。真相はよく判らないが、今川義元の娘と結婚していた義信の親今川路線が父と対立したものだと言われている。実妹がないがしろにされた今川氏真は、怒って同盟を破棄していわゆる「塩止め」に踏み切った。この氏真の妹・貞春尼は後に家康の三男、秀忠(二代目将軍)の上臈(じょうろう=女性家老・後見役)を長く務めた。これはこの本で初めて紹介された新事実で、徳川、今川の秘められた深い関係を明かしている。
もうかなり長くなっているので、その後のことは簡単に。結局、武田軍は駿河を制圧し、さらに家康支配下の遠江(とおとうみ=静岡県西部)、三河にも攻撃の手を伸ばす。今川氏真は妻の実家である北条氏のもとに身を寄せて再起を目指した。その後、上杉と同盟していた北条氏が武田と再同盟すると、氏真は一家で家康の元に移った。家康は織田信長に従っていて、織田は父義元の仇敵である。しかし、現に旧領池の駿河を支配しているのが武田氏である以上、武田氏と戦っている家康と協力するしか今川家再興はないと覚悟したのだろう。家康としても旧領主を担ぐことは有利となる。氏真は一城を与えられ、武田滅亡後には氏真に駿河半国を与えるよう家康は信長に進言したという。だが信長は今川勢の力を評価せず、駿河全国を家康領とした。
(黒田基樹氏)
ここにおいて戦国大名としての今川家は完全に没落した。しかし、秀忠との関係を軸にして徳川と今川の関係は続いた。今川家の中央(朝廷や幕府)とのつながりは徳川家にも必要だった。江戸時代になっても、今川家は高家として生き残っていった。高家とは吉良家が有名だが、朝廷関係の儀式などを担当する名家である。
ところで、家康最大の幸運は武田信玄が行軍中に陣没(1573年)したことだろう。戦国時代のいろんな本を読んでいて、とにかく武田信玄は強かったと思う。どうにも好きにはなれない点が多いけど、とにかく信玄が生きていれば、徳川家の滅亡もあり得なくはなかったと思う。だからこそ、徳川家の中にも武田の調略に応じるものも出て来る。家康が妻と長男を殺害した有名な「築山殿始末」は、今までの小説や映画などでは信長に命じられて苦悩の内に「お家のため」に家康も踏み切ったのだとされてきた。しかし、黒田氏の本では、そういう性格のものとは言えないと書かれている。築山殿には実際に武田家との関係があったらしい。
黒田基樹氏(1965~)は実に多くの一般向け著作を書いている。特に関東の戦国大名の研究が多く、特に後北条氏研究の第一人者。そこから進んで最近は武田氏、今川氏、徳川氏なども対象にしている。駿河台大学教授だが、それはどこにあるのかと思ったら埼玉県飯能市だった。お茶の水の駿台予備校をやってる駿台学園が開いた大学である。
今年は徳川家康だから、家康本が並んでいる。その中で関東戦国史をずいぶん読んできた黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』(朝日新書)を見つけたので思わず買ってしまった。3月30日付の本で、時に大きな書店に行くとこういう本を見つけられる。早速読んだんだけど、最近では一番面白かった本だ。やっぱり歴史系の本が好きなのである。近現代は読む側に「価値観」が問われるけど、戦国時代はそこまで考えなくても良いから気が楽だ。

帯には「忍耐の人ではなく、ありえない強運の持ち主だった!」と書かれている。それはその通りだろう。各章を紹介すると、「今川家における立場」「三河統一と戦国大名化」「織田信長との関係の在り方」「三方原合戦の真実」「大岡弥四郎事件と長篠合戦」「築山殿・信康事件の真相」「天正壬午の乱における立場」「羽柴秀吉への従属の経緯」「羽柴政権における立場」「関ヶ原合戦後の『天下人』化」の全10章。最晩年の豊臣氏滅亡に至る問題は触れられていない。
よく知らないだろう言葉を解説しておくと、「大岡弥四郎事件」というのは、長篠合戦(1575)の直前に岡崎町奉行の一人だった大岡弥四郎が、武田軍を城内に引き入れる謀反を企んだが事前に発覚して防いだという事件だという。僕も初耳だったが、当時家康は浜松城を本拠としていて、岡崎城は1571年に成人した長男信康が城主となった。この陰謀は単に大岡一人のものではなく、信康家臣団中枢につながるものだった可能性が高い。武田勝頼は結果的に滅亡したので、何だか弱将だったイメージがある。しかし、信玄没後も広大な領国を長く維持して、当時は東三河に侵攻を計っていた。勝頼の評価は最近かなり高くなってきた。
1582年に武田家は滅亡する。家康は3月10日に甲府に着いたが、本能寺の変が起こったのは6月2日。武田滅亡後に家康は駿河を与えられたが、甲斐・信濃・上野の旧武田領は織田政権の支配が安定しないうちに崩壊し、その結果、徳川、北条、上杉、また信濃の国衆などが実力本位で争った。それが「天正壬午の乱」で、この名称も近年になって定着したものなので僕は知らなかった。当時の焦点は織田政権の後継の行方である。研究者も中央政界の動向に目が行っていて、地方の事情は軽視されていた。結局、甲斐・信濃は徳川、上野は北条が切り取り次第となって決着した。

その後、黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日選書)が出た。4月25日付だから、まさに最新の本だ。これは名前通り、今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)との長い関係をていねいに追求し、今までにない史実を豊富に指摘している。前書と合わせて、今川家との関係を見ておきたい。今までは徳川家康は忍耐、辛抱の人生で、まず幼少期に父が死んで、今川家の人質にされたと出て来る。それも一時は間違って織田家に送られたという話もあった。それはどうやら間違いらしいが、今川家に送られ駿府(今の静岡市)に住んでいたのは確かである。しかし、それは人質という性格のものではなかったらしい。
今川家従属の国衆は原則として駿府在住が求められ、家康も特に扱いがひどかったわけではない。むしろ一門の重臣関口家の娘(築山殿)と結婚を許され、一門衆扱いされていたらしい。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が敗死して、すぐに家康は従属関係を解消し信長と同盟したというのも間違い。織田・徳川の清洲同盟は翌1561年のことである。当初はまだ今川家に従っていたのだが、次第に独立志向を強くしていき、三河(愛知県東部)の統一を目指し始める。1563年に名前を改め、今川義元から一字を貰った「元康」から「家康」とした。これが今川との公式的な手切れだろう。
当時の関東情勢のベースは「甲相駿三国同盟」だった。武田信玄、北条氏康、今川義元の間で相互の婚姻関係を結び、1554年から1567年まで継続された。しかし、義元死後に武田信玄は駿河を狙う素振りを示した。1567年に信玄は嫡子義信を幽閉し、義信は後に自害する。真相はよく判らないが、今川義元の娘と結婚していた義信の親今川路線が父と対立したものだと言われている。実妹がないがしろにされた今川氏真は、怒って同盟を破棄していわゆる「塩止め」に踏み切った。この氏真の妹・貞春尼は後に家康の三男、秀忠(二代目将軍)の上臈(じょうろう=女性家老・後見役)を長く務めた。これはこの本で初めて紹介された新事実で、徳川、今川の秘められた深い関係を明かしている。
もうかなり長くなっているので、その後のことは簡単に。結局、武田軍は駿河を制圧し、さらに家康支配下の遠江(とおとうみ=静岡県西部)、三河にも攻撃の手を伸ばす。今川氏真は妻の実家である北条氏のもとに身を寄せて再起を目指した。その後、上杉と同盟していた北条氏が武田と再同盟すると、氏真は一家で家康の元に移った。家康は織田信長に従っていて、織田は父義元の仇敵である。しかし、現に旧領池の駿河を支配しているのが武田氏である以上、武田氏と戦っている家康と協力するしか今川家再興はないと覚悟したのだろう。家康としても旧領主を担ぐことは有利となる。氏真は一城を与えられ、武田滅亡後には氏真に駿河半国を与えるよう家康は信長に進言したという。だが信長は今川勢の力を評価せず、駿河全国を家康領とした。

ここにおいて戦国大名としての今川家は完全に没落した。しかし、秀忠との関係を軸にして徳川と今川の関係は続いた。今川家の中央(朝廷や幕府)とのつながりは徳川家にも必要だった。江戸時代になっても、今川家は高家として生き残っていった。高家とは吉良家が有名だが、朝廷関係の儀式などを担当する名家である。
ところで、家康最大の幸運は武田信玄が行軍中に陣没(1573年)したことだろう。戦国時代のいろんな本を読んでいて、とにかく武田信玄は強かったと思う。どうにも好きにはなれない点が多いけど、とにかく信玄が生きていれば、徳川家の滅亡もあり得なくはなかったと思う。だからこそ、徳川家の中にも武田の調略に応じるものも出て来る。家康が妻と長男を殺害した有名な「築山殿始末」は、今までの小説や映画などでは信長に命じられて苦悩の内に「お家のため」に家康も踏み切ったのだとされてきた。しかし、黒田氏の本では、そういう性格のものとは言えないと書かれている。築山殿には実際に武田家との関係があったらしい。
黒田基樹氏(1965~)は実に多くの一般向け著作を書いている。特に関東の戦国大名の研究が多く、特に後北条氏研究の第一人者。そこから進んで最近は武田氏、今川氏、徳川氏なども対象にしている。駿河台大学教授だが、それはどこにあるのかと思ったら埼玉県飯能市だった。お茶の水の駿台予備校をやってる駿台学園が開いた大学である。
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