この間コーマック・マッカーシーの『越境』(The Crossing、1994)という小説を読んでいた。日本では1995年に早川書房から黒原俊行訳で刊行され、2009年にハヤカワepi文庫に収録された。文庫本で666ページもある長大な長編で、全然読み進まないのに我ながら驚いた。入院前から読んでいて、退院後も昨日まで読んでいたから、ほとんど今月の半分を費やしたのである。前回読んだ『すべての美しい馬』、次作の『平原の町』と合わせて「国境三部作」( "Border Trilogy")と呼ばれる作品で、三部作の中で一番長い。この小説の中で、ニューメキシコ州に住む主人公ビリー・バーハムはアメリカ→メキシコ→アメリカ→メキシコ→アメリカ→メキシコ→アメリカと都合6回も国境を越える。まさに『越境』という題名通りの本である。
この本はすごく読みにくくて、やたらに長いから多くの人が読む本じゃないだろう。だけど、この小説はコーマック・マッカーシー、あるいは小説というものを考えるヒントになるのである。僕が読みにくいと感じたのは、主人公の心理描写が全くなく主人公の行動が理解出来ないからだ。『すべての美しい馬』だって心理描写なんかないのだが、主人公の行動は理解出来る。普通の青春小説、冒険小説の文法で読み解ける。だけど『越境』の主人公の行動は判らない。
メキシコからアメリカに来たとされる狼が牛を襲って被害を出す。主人公の少年、16歳のビリーは父と一緒に罠を仕掛けて狼を捕えようとする。しかし、牝狼は一向に罠に掛からない。ある日、父に断らずメキシコ人が食事した跡地に罠を掛け、スペイン語で警告を書いて置いた。しかし、父はメキシコ人が文字を読めるとは限らない、明日一緒に罠を見に行こうと言う。ところがビリーは朝早く一人で罠を見に行って、狼が掛かっているのを見つける。そういう場合どうすべきか父に言われたことを忘れたビリーは、自分の衝動に従って狼をメキシコの山に返そうと思う。そして、そのまま狼を連れて、黙って家出して一回目の越境を行う。
この狼のエピソードは非常に優れていて、シートン動物記の『狼王ロボ』を越えて、世界文学史上最高の狼小説じゃないかと思う。メキシコに入ってからの様々の出来事は省略するが、非常に力強い。だけど、ビリーが何をしているのか、どうもよく判らない。狼をメキシコに返してもいいけど、お金も持たず両親や弟にも会わず、一年近くもフラッと出掛けてしまうって普通あり得ないだろう。まあ、それは僕が自分の日常感覚に従って判断するからで、ビリーは自らの「運命」に従って行動しているのだ。つまり神話の主人公。そう考えて、初めてビリーを「理解」することを放棄し、ただ宿命を生きるビリーを見つめれば良い。
(ハーマン・メルヴィル)
「訳者あとがき」を読むとコーマック・マッカーシーがインタビューで「プルーストやヘンリー・ジェイムズの小説は理解できない、自分にとってあれは文学ではない」と語っているとあった。彼が評価するのはドストエフスキーやハーマン・メルヴィルなんだという。特にメルヴィルの『白鯨』である。そう言われてみれば判る気もする。プルーストもヘンリー・ジェイムズも読んだことがないが、細かな心理描写による「意識の流れ」みたいな小説をマッカーシーは認めないのだろう。宿命に従って白鯨を追い求めるエイハブ船長をとことん描く『白鯨』こそ、『越境』の遙かな先祖である。
僕は『白鯨』は大分前に読んでいるのだが、確かに凄い小説である。ただ船長は権限を持っているから鯨を追い求めてもいいけど、何物でもない16歳のビリーがメキシコでずっとさすらうのは納得出来ない。小説は狼のエピソードの後、帰国したビリーは牧場が襲われて父母が殺され馬を失ったことを知る。弟を探し出し、馬を取り戻すために一緒にメキシコに赴く。この設定など、神話の主人公としか思えない。不当な運命が神によって与えられ続ける主人公。そして馬は見つけたが、弟が失踪する。時代は1940年から44年の頃で、第二次世界大戦が始まっている。しかし、彼は軍隊にも入れない(不整脈ではねられる)。
弟を探すために再び越境するのだが、この小説は「神話」だと理解するに至り、主人公の運命は予測出来るようになった。それでもメキシコで出会う不思議な人々のエピソードが興味深い。「神話」のような小説の常として、この小説も主人公の「地獄めぐり」エピソード集である。中編小説が束になっているような構成だが、それにしても長すぎるなあと思って読んだ。メキシコも現実のメキシコではなく、著者の見た幻のメキシコである。三部作の最後の一作が残っているが、先に他の本を読みたくなった。
この本はすごく読みにくくて、やたらに長いから多くの人が読む本じゃないだろう。だけど、この小説はコーマック・マッカーシー、あるいは小説というものを考えるヒントになるのである。僕が読みにくいと感じたのは、主人公の心理描写が全くなく主人公の行動が理解出来ないからだ。『すべての美しい馬』だって心理描写なんかないのだが、主人公の行動は理解出来る。普通の青春小説、冒険小説の文法で読み解ける。だけど『越境』の主人公の行動は判らない。
メキシコからアメリカに来たとされる狼が牛を襲って被害を出す。主人公の少年、16歳のビリーは父と一緒に罠を仕掛けて狼を捕えようとする。しかし、牝狼は一向に罠に掛からない。ある日、父に断らずメキシコ人が食事した跡地に罠を掛け、スペイン語で警告を書いて置いた。しかし、父はメキシコ人が文字を読めるとは限らない、明日一緒に罠を見に行こうと言う。ところがビリーは朝早く一人で罠を見に行って、狼が掛かっているのを見つける。そういう場合どうすべきか父に言われたことを忘れたビリーは、自分の衝動に従って狼をメキシコの山に返そうと思う。そして、そのまま狼を連れて、黙って家出して一回目の越境を行う。
この狼のエピソードは非常に優れていて、シートン動物記の『狼王ロボ』を越えて、世界文学史上最高の狼小説じゃないかと思う。メキシコに入ってからの様々の出来事は省略するが、非常に力強い。だけど、ビリーが何をしているのか、どうもよく判らない。狼をメキシコに返してもいいけど、お金も持たず両親や弟にも会わず、一年近くもフラッと出掛けてしまうって普通あり得ないだろう。まあ、それは僕が自分の日常感覚に従って判断するからで、ビリーは自らの「運命」に従って行動しているのだ。つまり神話の主人公。そう考えて、初めてビリーを「理解」することを放棄し、ただ宿命を生きるビリーを見つめれば良い。
(ハーマン・メルヴィル)
「訳者あとがき」を読むとコーマック・マッカーシーがインタビューで「プルーストやヘンリー・ジェイムズの小説は理解できない、自分にとってあれは文学ではない」と語っているとあった。彼が評価するのはドストエフスキーやハーマン・メルヴィルなんだという。特にメルヴィルの『白鯨』である。そう言われてみれば判る気もする。プルーストもヘンリー・ジェイムズも読んだことがないが、細かな心理描写による「意識の流れ」みたいな小説をマッカーシーは認めないのだろう。宿命に従って白鯨を追い求めるエイハブ船長をとことん描く『白鯨』こそ、『越境』の遙かな先祖である。
僕は『白鯨』は大分前に読んでいるのだが、確かに凄い小説である。ただ船長は権限を持っているから鯨を追い求めてもいいけど、何物でもない16歳のビリーがメキシコでずっとさすらうのは納得出来ない。小説は狼のエピソードの後、帰国したビリーは牧場が襲われて父母が殺され馬を失ったことを知る。弟を探し出し、馬を取り戻すために一緒にメキシコに赴く。この設定など、神話の主人公としか思えない。不当な運命が神によって与えられ続ける主人公。そして馬は見つけたが、弟が失踪する。時代は1940年から44年の頃で、第二次世界大戦が始まっている。しかし、彼は軍隊にも入れない(不整脈ではねられる)。
弟を探すために再び越境するのだが、この小説は「神話」だと理解するに至り、主人公の運命は予測出来るようになった。それでもメキシコで出会う不思議な人々のエピソードが興味深い。「神話」のような小説の常として、この小説も主人公の「地獄めぐり」エピソード集である。中編小説が束になっているような構成だが、それにしても長すぎるなあと思って読んだ。メキシコも現実のメキシコではなく、著者の見た幻のメキシコである。三部作の最後の一作が残っているが、先に他の本を読みたくなった。
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