尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『平原の町』、三部作の終焉-コーマック・マッカーシーを読む⑥

2023年12月09日 21時46分13秒 | 〃 (外国文学)
 コーマック・マッカーシーを読んできて、最後に『平原の町』(Cities of the Plain、1998)を読んだ。この人はとても読みにくく、相当英語に堪能な人でも原語で読むのは無理だろう。最近初期作品『果樹園の守り手』(1965)、『アウター・ダーク 外の闇』(1968)の翻訳が山口和彦訳で出ているが、しばらくいいな。片方は地元の図書館にあるのを確認してるけど。読み終わったら、今度はこれも懸案になってる林芙美子を読み始めて、時代は違っても同じ文化だといかに読みやすいか実感する日々。

 そうは言いながら『平原の町』は会話部分が多くて、マッカーシー作品の中で『ザ・ロード』と同じぐらい読みやすい。だけど、相変わらず説明がなく、最初は時代がいつか判明しない。『すべての美しい馬』の主人公ジョン・グレイディ・コール、『越境』の主人公ビリー・バーハムは、今ではニューメキシコ州のマック・マクガヴァン牧場で一緒に働いている。次第に判るが、前作で1949年に16歳だったジョン・グレイディは19歳。前作で1940年に16歳だったビリーは28歳。従って、1952年の物語で2人は9歳差。

 もちろんいつの話でも全然問題ないけれど、普通の作者なら最初に時代を書くか、または会話などで示すことが多いだろう。そういうことをしない作者である。それでいいんだけど、やはり外国人が読むといつなんだろうと疑問が湧くのである。後書きを読むと、そもそも題名は「低地の町」と訳すべきでもあるという。神によって滅ぼされたソドムとゴモラを表わすというのである。死海周辺の低地にあった(死海に沈んだとされる)「悪徳の町」である。今ではその「悪徳」とされる「性的な乱れ」とは何か検討を要するだろうが、ともかくそういう喩えみたいなことは言われないと判らない。文化が違うと思うところだ。
(コーマック・マッカーシー)
 マックの牧場は先行きが長くない。もう西部のカウボーイの時代も終わりつつあり、その辺りの土地は陸軍が接収するんだと言われている。後書きには、核実験場にも近いところで、今はミサイル試射場になっている辺りだという。ジョン・グレイディは若いながら、馬扱いの見事さで認められている。山犬が牛を襲うようになり、皆で山犬狩りをする迫力あるシーンがある。しかし、全体としてはジョン・グレイディの一途な恋物語である。テキサス州エルパソから国境を越えた町シウダー・フアレス。皆でそこまで行って娼館に押し掛ける。ジョン・グレイディは見ていただけだったが、とある少女に心を奪われてしまう。

 どうしても会いたくなって、再び訪ねるとその店にはもういない。何とか探し回ると、高級娼館に移っていることを突きとめた。訪れると彼女も彼を覚えていた。そこから16歳の幼い娼婦への身を焦がす恋が始まるのである。しかし、普通は思うだろう。この若い年齢を思うと、国境の向こうに住む、娼館にいる(身柄を「身請け」するには多額の金銭が必要になるかもしれない)恋人と、貧しいカウボーイが結ばれるなんてあり得るだろうか。恐らく娼館には用心棒みたいなのもいるに違いないし。なんて思っていると、案の定の展開になっていく。しかし、マッカーシーの作品では主人公は「宿命」を歩んでいくのだ。

 物語が終わったら、長い長いエピローグがあり、なんと時は21世紀になっている。そこら辺で語られていることはほとんど理解出来なかったが。この「国境三部作」では、最初の『すべての美しい馬』が圧倒的に素晴らしい。後の2作は長さが気になるが、それ以上に展開が納得出来ないのである。この『平原の町』はほぼジャンル小説の西部ものの枠で語られた至高の恋愛小説である。忘れがたいが、何か滅びに向かうような寂しさがある。マッカーシーは評判になってたし、文庫に入っていたから、一度読んでみたかった。なかなか手強かったけど、「アメリカ」を知るには格好の作家かもしれないと思った。「暴力の神話」を描いた作家だから。
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