尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

蔵原惟繕の映画⑤「野獣のように見えて」~「愛の渇き」

2013年12月23日 01時06分21秒 |  〃  (日本の映画監督)
 蔵原惟繕監督の映画5回目。日活時代の後期は重要な作品が多いが、なんとか簡潔にまとめたい。
硝子のジョニー 野獣のように見えて(1962)
 北海道の荒涼たる風土の中で、孤独な人々の心象風景を描き出した傑作。「知恵の足りない女」を演じた芦川いづみが素晴らしく、代表作と言ってよい。芦川演じる「みふね」は稚内近くの昆布取りの村に住むが、貧困のため「人買い」秋本に売られる。列車で函館に着いた時に逃げ出し、競輪の予想屋ジョーにすがる。ジョーは宍戸錠で、秋本はアイ・ジョージ。アイ・ジョージは後に事業に失敗し借金がかさんで芸能界から引退状態となるが、当時は大ヒット歌手で紅白にも60年から71年まで連続出演した。「硝子のジョニー」は61年のヒット曲で、同年の紅白で歌った。映画内でも素晴らしい歌声を披露している。だから、この映画は「スター序列で裕次郎、旭以下の宍戸錠を起用した歌謡映画」という企画だが、実際は蔵原監督、山田信夫の感性で作られた「作家の映画」で、日活屈指の重要作と言える。
(「硝子のジョニー 野獣のように見えて」)
 ジョーは腕の良い板前だったのだが、ある競輪選手に入れあげ予想屋になっている。このように「あえて転落した」ジョーだが、狙った選手は成功せず生活が荒んでいる。ジョーを頼るみふねだが、ジョーは裏切ってしまう。みふねは秋本に見つかり連れられそうになるが、秋本は駅で男に刺される。そうするとみふねは秋本の病院に詰めて看病をする。このような「みふね」の設定は言葉では理解しにくいが、周りの荒んだ男たちにとっての「聖女」性がある。「みふね」と関わることにより、ジョーと秋本の孤独と荒廃があぶりだされてくる。この映画は「狭義の日活アクション」ではないが、どのような救済も用意されていない男たちの孤独を描き出した点で、むしろ「ムードアクション」に見られるような「安易な解決」に頼らない場合の、「純粋日活映画」とも言える。

 誰にも頼れなくなったみふねは、鉄路を歩いて郷里をめざし、やっと着いた時にはもう家族がいない。みふねを追ってジョーと秋本もやってくるが、海に入って行くみふねをもはや見つけられない。芦川いづみは清楚可憐な役柄がほとんどだが、その純粋部分を抽出してさらに凝縮したような役を熱演している。フェリーニ「道」のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を思い出させる役。(この両作は基本的に違うと渡辺武信氏は論じているが、インスパイアされているのは間違いないだろう。)

何か面白いことないか(1963)
 「典子」(てんこ)シリーズの第2作。何を見ても面白くない典子(浅丘ルリ子)は、親の遺したセスナ機を競売入札に掛けている。これに応じたのが石原裕次郎演じるパイロット早坂で、大手の会社を退職し自分だけの飛行機を持ちたい。退職金では足らず、生命保険に入りそれを担保にしている。冒頭は今はなき日劇の地下にあったATG系映画館「日劇文化」で、典子が恋人の小池と「戦争と貞操」を見ている。その後喫茶店に入り、テーブルにある陶器製の灰皿のデザインが気に入らないと言い、これを壊せないかなどと言う。近くの席にいる青年(それが実は裕次郎演じる早坂)は、壊せばいいと言ってたたきつけ、500円で弁償する。このような生き方は確かにスッとするところがあるが、納得できない部分もある。「何か面白いことないか」と言って、店の灰皿を壊し、後で弁償すればいいだろうという発想は、どこか間違っている。500円程度だから(今の貨幣価値なら数千円というところか)、出して出せない金額ではないが、他に使いたいとは思う金額だ。それに人のものを勝手に壊していいはずがない。そういうことを口走る「ブルジョワのお嬢さん」性がこの映画をつまらなくしている。

 以後の展開は書かないが、飛行機がダメになりカネを返すためには「自殺しかない」とマスコミが勝手に騒ぎ始める。そのマスコミ批判が「憎いあンちくしょう」以上に激しい。そこで大衆社会批判が前面に出てきて、本筋のはずの裕次郎、ルリ子の葛藤がなかなか進まない。古い飛行機で、エンジンを直すには、唯一残っている大会社のものを使うしかない。社長に頼みに行くがけんもほろろで追い返される。結局、その社長に翻意させられるかが最大のドラマになってしまった。発想は良かったけれど、展開は期待を裏切る感じ。あまり見られる機会がないが、当時の東京の風景も描かれ貴重。今なら海外ボランティアにでも行けばというところだが、当時はまだ海外旅行は自由にできなかった。もっと完全に高度成長した70年前後になると、学生運動に「挫折」してヨーロッパやインドなどを放浪する若者がいっぱい出てくる。60年代末なら「何か面白いことないか」という気分が若い人に共有されていた。その意味では早すぎた発想の映画なのだろう。

執炎(1964)
 浅丘ルリコが異様なまでに美しい反戦映画の名作。漁師の子伊丹一三(後の十三)と平家部落の娘浅丘ルリコが運命的に出会い、結ばれる。戦時中のことゆえ、夫は召集され戦傷を負って帰ってくる。足を切らないと助からないと言われるが、ルリ子の懸命の看病で何とか足を切らず助かる。ようやく村に戻り、二人はリハビリのために村人ともほとんど接せず、二人の愛の世界に没頭する。しかし、戦況悪化のため再び召集令状が来て、伊丹は二度と戻らない。遂に狂気となるルリ子は、敗戦の日に一時的に正気に戻り、夫の死を知り入水するのだった。というほとんど伝説というか、ファンタジーのような純愛を戦争を背景に描き出している。あちこちで撮影され地名は特定されていないが、有名なのは余部鉄橋のシーン。鉄橋を歩いていて傘が落ちていく圧倒的な名シーンがある。今は鉄橋も架け替えられているが、この映画に昔の鉄橋が素晴らしい迫力で残されている。戦争がどんなに女の悲しみを生んだか、慄然とするような思いがする。かなり知られているが、「愛と平和の名作」として、もっともっと有名になってもいい映画なのではないか。
(「執炎」)
夜明けのうた(1965)
 「典子三部作」の最後。ここではルリ子は「緑川典子」というミュージカル女優。題名で判るように、岸洋子が歌った岩谷時子作詞の「夜明けのうた」が全面的に使われた「一種の歌謡映画」。しかし「硝子のジョニー」と同じく、曲だけ使えばいいでしょうという「作家の映画」になっている。典子主演のミュージカルが成功裏に終わりパーティも終わる。そこにスポーツカーが届いていて、不倫中の作曲家が泊ってるホテルへと向かう。彼はもう家に帰らないといけない。ムシャクシャする典子は車を飛ばし、小田原のドライブインまで行ってしまう。そこで浜田光夫と松原智恵子のカップルに出会う。一方、典子の次の作品は小松方正演じる作家が書いた「夜明けのうた」という作品の予定。これはあるミュージカル女優と作曲家の「不倫愛」をもとに、女優の虚実を描き出す作品らしい。しかし、典子は実際に作曲家と不倫中なので、自分への当てこすりと取って絶対に出演しないと宣言する。あてもなく車を飛ばし事故を起こす。というような女優の日常を素晴らしい白黒の映像で描き出す。この映画のルリ子は素晴らしく美しい。ルリ子のマンションの部屋の設計、窓の外の風景も素晴らしい。

 その後の展開は追わないが、数年前に最初に見た時は、ルリ子のエピソードと浜田、松原の若いカップルのエピソードがかみ合わない感じがした。そこにクラブで歌う岸洋子に花束を渡すシーンも入り、「夜明けのうた」が歌われる。だが、2度目に見た感じでは、あまり違和感を感じなかった。「都市映画」という点で見れば、当時の東京の様々な映像が記録されていて、とても面白い。この「都市で生きる女性の心象」というのが、作家のねらい目でもあると思う。そういう風に考えると、若者カップル(松原智恵子は失明の危機にある)も登場することにより、作品世界が重層化できたとも思える。この作品もあまり評価されていないが、今後の再評価が必要ではないか。
愛と死の記録(1966) この時点では見ていなかった。吉永小百合、渡哲也の「原爆映画」。

愛の渇き(1967)
 三島由紀夫原作映画の傑作で、三島映画としては「炎上」と並ぶ、あるいはそれを超える成功作。蔵原作品で唯一ベストテン入りした作品。浅丘ルリコはある資産家の次男の妻だったが、今は未亡人。妻を亡くした義父の中村伸郎と関係を持っている。しかし石立鉄男の若い庭師に見詰められ、以後この若者に興味を持っていく。この映画はいろいろと触れているサイトも多く、見る機会も比較的多いので細部は省略する。三島の原作が好きでないと、退廃的なだけの作品に見えるかもしれないが、今までのルリ子の役柄を抽出して煮詰めるとこのような「美しい悪女」になる。もっとも今「悪女」と書いたが、一応世俗的な評価で言えば「悪女」という部分があるだろうというだけで、「聖女」とも言える。ただの「美女」のプライドに男が翻弄されているだけとも言える。凝った構図で描き出される白黒の画面は大変刺激的で美しい。女を描く「文芸映画」には、「浮雲」「夫婦善哉」など無数の名作が思い浮かぶが、この「愛の渇き」も浅丘ルリコという女優の一番美しい時期と重なった名作である。
(「愛の渇き」)
コメント
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