尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

蔵原惟繕の映画①「プレ・ヌーベルバーグ」の映画監督

2013年12月18日 00時11分34秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日活で50年代から60年代にかけて、石原裕次郎や浅丘ルリ子の映画を作った蔵原惟繕(くらはら・これよし 1927~2002)監督の作品をたくさん見たので、そのまとめ。蔵原監督は狭義の日活アクションというよりも、特に浅丘ルリ子主演、山田信夫脚本で「自己」を追及する映画を作った印象が強い。また川地民夫を主演に無軌道な青春を生き生きと描いた。芦川いづみの代表作と言える「硝子のジョニー 野獣のように見えて」という異色のドラマも残した。僕は昔から大好きでずいぶん見ていたが、上映機会が少ない作品が多く、今回初めて見た映画も多い。
(蔵原惟繕監督)
 日活を退職したのち、石原プロで「栄光への5000キロ」という大作を成功させ、その後失敗作もあるけれど大体は大作映画を作った。「キタキツネ物語」(1978)、「南極物語」(1983)という大ヒット作もあるが、僕はその頃は全く見ていない。浦山版ではない「青春の門」も2作撮っているが、そういう映画があったという記憶もない。確か「雨のアムステルダム」と「春の鐘」(立原正秋原作)を見ただけだ。僕にとって、蔵原惟繕は日活時代に輝いていた映画作家として記憶されている。

 名前を見て思いつく人も今は少ないかもしれないが、文芸評論家(というか日共のイデオローグのイメージが強い)蔵原惟人が親戚にあたる。同じく日活の監督である蔵原惟二は実弟。詩人の蔵原伸二郎も親戚である。最初松竹に入社するが、日活に移籍。57年に「俺は待ってるぜ」で監督に昇進した。前年の1956年に中平康の傑作「狂った果実」が作られているが、ようやくこの頃から、戦前来の巨匠時代から、戦後に大学を出て映画会社に入社した新人監督が各社で輩出する。

 同じ1957年に昇進した監督に、大映の増村保造や東映の沢島忠がいる。蔵原惟繕は1927年生まれだが、増村は1924年生まれ、沢島は1926年生まれである。中平康も1926年生まれ。日活では1927年生まれの舛田利雄が1958年に監督になった。また東宝の岡本喜八は1924年生まれだが、1958年に監督になっている。岡本は戦時中に東宝に入っていて、軍隊経験もある。しかし、それ以外の監督は10代後半から20歳前後に敗戦を迎えた世代である。増村や岡本の映画は、あるいは東映時代劇の枠内ながら沢島の映画は、それまでの映画にないスピード感とテンポのよいリズムで評判を呼んだ。日本映画と言えば、巨匠の映画であれ通常の娯楽作品であれ、過剰な感傷とテンポの遅さという印象が強かった。それが若手監督の登場により変わっていったのである。

 松竹は新気風の登場が少し遅れるため、1960年になって一斉に登場し「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた。大島渚(1932~2013)、篠田正浩(1931~)、吉田喜重(1933~)と、ここで登場した監督は1930年代の生まれである。この数年の違いは大きい。敗戦を10代前半で迎えた世代である。しかし、彼らの登場の前に他社でもう少し年長の世代により「プレ・ヌーベルバーグ」があったのである。それは映画に留まらず、文学や音楽などとも連動している。これらの監督の映画は、日本の現代音楽を切り開いた作曲家が音楽を担当した作品が多い。また原作者として、石原慎太郎(「狂った果実」他多数)、開高健(増村監督の「巨人と玩具」1958)、大江健三郎(蔵原「われらの時代」1959、後に増村「偽大学生」、大島「飼育」)など、当時新進作家として新世代の旗手と目された作家の映画化が多い。

 彼らの文学や映画を通して、見えてくるものは何だろうか。日本の文学は長く「家の重圧」に苦しむ姿を描き、戦後になると文学も映画も「戦争」とその後の価値転換を描き続けた。それらのテーマは60年代になってもいまだ大きな意味を持ってはいたが、戦後10数年たって登場した世代は「もうすでに復興し高度成長しつつある日本の政治経済体制」こそが目の前の壁であり、敵だった。だから企業社会やマスコミや成立しつつある「大衆社会」の中で「自分」をいかに保つか、「現代社会の中のアイデンティティ」が最も重大なテーマとなったのである。それらはまだ多くの人の課題ではなかった。しかし映画作家は、時代感覚を先取りするように、60年代後半の世界的な若者の反乱を先駆的に描き続けた。蔵原監督の「憎いあンちくしょう」や「夜明けのうた」、「狂熱の季節」や「黒い太陽」は、60年代日本を考えるための重要な視点を与えてくれる。

 もう一つ、これらの監督の初期作品、特にデビュー作はほぼ白黒映画である。まだ新人監督にカラー映画を撮らせる時代ではない。70年代になると、どんな新人の駄作でもカラーになる。60年代までは撮影所システムが生きており、各社で素晴らしい技術者がたくさんいた。その中でスターシステムで、プログラムピクチャーが作られ続けていた。新人監督ももちろん、その中の一つを任されたわけである。彼らの映画が今見て魅力があるのは、この素晴らしい技術に支えられた「モノクロ映画のピーク」だったことが大きい。蔵原監督の映画では、おおむねカラーで撮ったスター作品より、白黒で撮った「自分の映画」の方が圧倒的に素晴らしい。特に「執炎」、「夜明けのうた」、「愛の渇き」の浅丘ルリ子が主演した映画群は、日本の白黒映画の到達点ではないか。作家論が長くなってしまったので、個々の作品の短評は次回以後に書きたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする