最近見た日本映画2作を紹介。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』と『ぼくのお日さま』。どっちも題名に「ぼく」が付いてるのは偶然だけど、映画の中身を表わすとも言える。どちらもなかなか良かったが、少し淡彩の佳作。株主優待券を残しても仕方ないから、頑張って2本続けて見てきた。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、吉沢亮が「コーダ」、つまり「Children of Deaf Adults」、耳の聞こえない親に生まれたこどもを演じている。それが見どころだが、もう一つ僕にとっては呉美保(オ・ミポ)監督)9年ぶりの復帰作ということも大きい。
(『ぼくが生きてる、ふたつの世界』)
冒頭で父親が漁船に塗装をしている無音の映像が、音が入る世界に変わるのが印象的。これが「ふたつの世界」なのである。続いて、一族郎党が集まって子どものお祝いをしている。祖父(でんでん)がうるさいが、今どきこんなに集まって飲み食いする地域があるのか。母親(忍足亜希子=おしたり・あきこ)と父親(今井彰人)は、二人とも耳が聞こえない。それは事前にそういう話だと知っていたが、両親役の二人はともに「ろう者」の俳優である。子どもが泣いていても親は気づけない。そんな様子を丹念に映しながら、子どもはどんどん大きくなる。場所は宮城県の石巻、時代は20世紀末から21世紀頃と次第にわかってくる。
(父と子は釣りに行く)
子どものうちは自然に手話を覚えて、周囲にも教えて得意になる。だが次第に「授業参観には来ないで」と言うようになって、中学生になると進路相談に乗れない親を疎ましく思い出す。何で自分だけ「親が違う」んだろうか。そうして、高校を卒業後に東京へ出る道を選ぶ。パチンコ屋で働きながら、やがて採用された編集の仕事。ろう者とのつながりも出来て、「コーダ」という言葉も知る。この映画は五十嵐大という人のエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』が原作になっている。そのことは知らずに見たのだが、親への反発から親との和解、運命の受容への歩みを自然に描いている。そこには「コーダ」の悩みもあるが、普遍的な青春でもある。そこが感動的。
(大人になった大と母親)
監督の呉美保(1977~)は『そこにみにて光輝く』(2014)、『きみはいい子』(2015)で注目された。9年ぶりの長編映画だが、出産を経て映画界に復帰したことが嬉しい。前作を見て、いずれ再び映画を作ることをずっと期待していたので。一方『ぼくのお日さま』の監督は、若手の奥山大史(1996~)。『僕はイエス様が嫌い』(2019)でサンセバスチャン映画祭で最優秀新人監督賞を受けた。北海道を舞台に、フィギュアスケートのコーチをしている荒川(池松壮亮)と二人の教え子を描く。さくら(中西希亜良)、タクヤ(越山敬達)のスケートシーンが長いが、当然二人ともフィギュアスケートをやってる。
(『ぼくのお日さま』)
吃音のタクヤは運動も苦手。アイスホッケーのチームに入っているが、失点を繰り返すゴールキーパー。そんな彼がさくらのフィギュアスケートを見て、憧れるようになる。その様子を見た荒川がタクヤも誘って、二人でアイスダンスをしてはどうかと提案する。タクヤがどんどん上手になるのが、ちょっと不自然だと思うけど、そういう子どもたちの様子を描く映画かと思うと実は違った。その事を書くと、見たときに面白くないので止めておく。そうか、そういう映画だったのかと、美しい映像に魅惑されていたらシビアな現実に突如触れることになる。
(さくらとタクヤ)
自然光を生かした撮影が素晴らしいが、監督の奥山が脚本、撮影、編集を兼ねている。さくらや荒川の視線をとらえた映像を見て、観客の心の中にドラマが生まれる。そのようなタイプの映画で、ここに書けないのが残念。見ている間は「どこか小さな町」のように感じられるが、札幌周辺のあちこちで撮影してつないでいる。かつて有力な選手だった荒川がなぜ小さな町でコーチをしているのか。それは全く説明されないが、人間は奥が深い。池松壮亮はもちろんフィギュアスケートが出来ないから、相当練習したという。もちろんジャンプなんかしてみせないが、スケート自体はそこそこ不自然さなくやっている。
(カンヌ映画祭で。右端=奥山監督)
雪に覆われた風景が多いが、夏の映像もある。時間をかけて撮影したことが効果を上げている。海を見下ろす町のシーンは明らかに小樽。小樽を舞台にした忘れがたい映画がまた一本現れた。
(『ぼくが生きてる、ふたつの世界』)
冒頭で父親が漁船に塗装をしている無音の映像が、音が入る世界に変わるのが印象的。これが「ふたつの世界」なのである。続いて、一族郎党が集まって子どものお祝いをしている。祖父(でんでん)がうるさいが、今どきこんなに集まって飲み食いする地域があるのか。母親(忍足亜希子=おしたり・あきこ)と父親(今井彰人)は、二人とも耳が聞こえない。それは事前にそういう話だと知っていたが、両親役の二人はともに「ろう者」の俳優である。子どもが泣いていても親は気づけない。そんな様子を丹念に映しながら、子どもはどんどん大きくなる。場所は宮城県の石巻、時代は20世紀末から21世紀頃と次第にわかってくる。
(父と子は釣りに行く)
子どものうちは自然に手話を覚えて、周囲にも教えて得意になる。だが次第に「授業参観には来ないで」と言うようになって、中学生になると進路相談に乗れない親を疎ましく思い出す。何で自分だけ「親が違う」んだろうか。そうして、高校を卒業後に東京へ出る道を選ぶ。パチンコ屋で働きながら、やがて採用された編集の仕事。ろう者とのつながりも出来て、「コーダ」という言葉も知る。この映画は五十嵐大という人のエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』が原作になっている。そのことは知らずに見たのだが、親への反発から親との和解、運命の受容への歩みを自然に描いている。そこには「コーダ」の悩みもあるが、普遍的な青春でもある。そこが感動的。
(大人になった大と母親)
監督の呉美保(1977~)は『そこにみにて光輝く』(2014)、『きみはいい子』(2015)で注目された。9年ぶりの長編映画だが、出産を経て映画界に復帰したことが嬉しい。前作を見て、いずれ再び映画を作ることをずっと期待していたので。一方『ぼくのお日さま』の監督は、若手の奥山大史(1996~)。『僕はイエス様が嫌い』(2019)でサンセバスチャン映画祭で最優秀新人監督賞を受けた。北海道を舞台に、フィギュアスケートのコーチをしている荒川(池松壮亮)と二人の教え子を描く。さくら(中西希亜良)、タクヤ(越山敬達)のスケートシーンが長いが、当然二人ともフィギュアスケートをやってる。
(『ぼくのお日さま』)
吃音のタクヤは運動も苦手。アイスホッケーのチームに入っているが、失点を繰り返すゴールキーパー。そんな彼がさくらのフィギュアスケートを見て、憧れるようになる。その様子を見た荒川がタクヤも誘って、二人でアイスダンスをしてはどうかと提案する。タクヤがどんどん上手になるのが、ちょっと不自然だと思うけど、そういう子どもたちの様子を描く映画かと思うと実は違った。その事を書くと、見たときに面白くないので止めておく。そうか、そういう映画だったのかと、美しい映像に魅惑されていたらシビアな現実に突如触れることになる。
(さくらとタクヤ)
自然光を生かした撮影が素晴らしいが、監督の奥山が脚本、撮影、編集を兼ねている。さくらや荒川の視線をとらえた映像を見て、観客の心の中にドラマが生まれる。そのようなタイプの映画で、ここに書けないのが残念。見ている間は「どこか小さな町」のように感じられるが、札幌周辺のあちこちで撮影してつないでいる。かつて有力な選手だった荒川がなぜ小さな町でコーチをしているのか。それは全く説明されないが、人間は奥が深い。池松壮亮はもちろんフィギュアスケートが出来ないから、相当練習したという。もちろんジャンプなんかしてみせないが、スケート自体はそこそこ不自然さなくやっている。
(カンヌ映画祭で。右端=奥山監督)
雪に覆われた風景が多いが、夏の映像もある。時間をかけて撮影したことが効果を上げている。海を見下ろす町のシーンは明らかに小樽。小樽を舞台にした忘れがたい映画がまた一本現れた。
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