黒田二十四騎の一人、井口(村田出羽)兵助吉次は先祖を播磨の赤松家に発し、小寺家や広峯氏(広峰神社神官)と血縁関係にあった。
幼少時、兄三人が官兵衛にスカウトされて武士となったがみな討ち死にしたので親は芳次を武士にするのを拒んだ。
しかし、官兵衛のたっての要望で武士となった経緯があり、官兵衛は芳次を大事にした。
幼少の長政が信長の人質に出されたとき、付き人として秀吉の長浜城へ入り、竹中半兵衛の菩提山城で匿われたときにも同行したと伝えられている。
また、平助の叔母は後に官兵衛が有岡城に幽閉されたときに、密かに衣食の世話をして瀕死の官兵衛を助けた恩人でもある。
常々、馬を欲しがっていた兵助はある戦で敵の武者を討ちその武具刀槍を奪い取り立派な甲冑騎士武者として凱旋するほどの猛者であった。
豊前国入国後は宇佐神宮神主宮成家へ婿養子へ官兵衛が算段したが、武士を捨てる気はさらさらなく、その話を断った。
文禄・慶長の役では一日で首七つ取ると朱柄の槍を用いる事と言う名誉を得るほどの勇猛な戦武将であった。
1600年天下分け目の関ヶ原の合戦の時、官兵衛軍は九州を席巻しつついたが、柳川攻撃中包囲軍の鍋島直茂を訪ねた折、その家臣の村田隠岐が武功多く無傷な武将と紹介されたので、官兵衛はその幸運に肖るべく村田の姓を戴き、それより兵助は村田兵助と名乗った。
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