
後藤又兵衛基次は後に隠岐と号す。幼時より長政に可愛がれ、孝高長政に従きて所々の軍に赴き戦功多く武勇甚人にすぐれたり。天承15年筑紫陣、豊前国逆徒退治に功あり。また文禄元年朝鮮征伐には抜群の高名をあげる。関が原の合戦には長政の先手を勤め合渡川の先陣をし、石田三成勢と戦うに粉骨浅からず。筑前に転封後、嘉摩郡小隈に1萬6千石を賜る。その後禁じられた近隣の城主と書状を交わしたり、他国と交わりして藩主長政の叱責をうけ慶長11年筑前を立ち退き浪人する。慶長19年、豊臣秀頼に軍監として召抱えられるも大坂夏の陣にて伊達政宗陣より放たれた鉄砲に当たり戦死。豊臣、徳川双方に恩義あれば戦死を持って其の恩に報いようとした。大分県中津市耶馬溪町伊福に後藤又兵衛の墓が伝えられている。愛妾が又兵衛を弔うために建てたとか。又中津市片端町に又兵衛屋敷跡と古くから古老より言い伝えられている区画がある。
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