チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

諦観

2011年04月03日 14時53分05秒 | 日記
こけしが金曜日のお礼にと
美しい朱のお椀五客と赤絵の角皿を持ってきてくださった
四谷の店を閉めて40日ぶりに人前でしゃべって
「自分が良く見えたのよ、達観したというか」
「こけしにとって達観って?」
「つまりは自分を知って我欲を取り去ることかな」
「欲はあるの?」
「もちろんよ生きていくためには欲は必要」
「でもそれは我欲ではないのね」

「日本人も3・11以来我欲を捨てる人が多くなったわね」
「公のために自分が何が出来るか」
「そうそうそういうこと」

チャコちゃん先生は櫻の頃になると「諦観」という言葉が浮かび上がる
どうして櫻の頃かといえば西行がこの諦観を自分のものにするために
武士を捨て仏門に入ったからであるが

「ねえこけし諦観ってどう思う」
「いやだそれ諦めて見るということでしょう」
「ちがうのよ」
「なんなのよ」

「それはねどうも自分の行動を俯瞰してみることとつながるみたい」
いま私はこけしとお話している
話をしている自分を観察する
それは内容であったり
話し方であったり
声であったり
仕草であったり
この話の内容を相手はどのように理解するのだろうか
それらを全て観てそのことが相手にどういう影響を与えているかを観る

「ふーーん、深いねえそれは達観よりもっと公になることね」
「そうそうそのとおり」
「でも其処まで考えたら変なこといえない」
「こけしはずばずば言ってるようだけどマイナスの言葉は吐いてない」
「そういえば人がどう受け取るだろうかと考えながら話している自分が居る」
「ほらごらんなさい」

これはチャコちゃん先生の解釈なので間違っているかもしれない
「諦観」はいっぽ引いて物事を観る
だから全体像が見える
その為未来も見える
ということだと思う

「日本人の遺伝子にそういう考え方があるのよね」
「ええ其れが雅というものでしょう?」
「雅かーーほど遠い男達ばかりいるねいまは」

「ねえこけしが全盛の頃ってそういう深い男がいっぱいいた?」
「今考えるとね、本当の権力者とか金持ちは覚悟が出来ていたと思う」
「其れと責任を取るということもでしょう?」
「そうそう最後まできちんと責任を取る」
「本流のゲイは本物のオトコしか好きにならないんでしょうねえ」
「そういってくれると嬉しい其れが私の誇り」

「こけしリクエストが来てるのでまたお話会オネガイね」
「嬉しい喜んで」
「今度はこけしが観た本物の男のお話というのはどうかしら」
「いいわ」
コメント
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