波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方   第25回

2015-09-27 10:44:44 | Weblog
一軒家が与えられ、二人だけの生活が出来たことは見た目にはある意味幸せなことであったかもしれない。世間では狭いアパートで共稼ぎのスタートが多かったのだから、贅沢だったのかもしれない。しかし築30年以上の古い家は年中ゆれることが多かったし、毎日夜になるとねずみの動き回る音に悩まされおちおち寝ても居られない環境でもああった。
ねずみは隣接する倉庫に居て、夜行性とあって夜になると食べ物を探して部屋のほうへ出てきていたのである。トラックでの製品運搬はつなぎの作業服に手甲、前掛けマスク,帽子そして長靴と労働着での一日である。見るに見かねて、妻が手伝うこともあったり、隣近所の若者が手伝ってくれることもあった。
倉庫に積み上げた製品の整理がつくと都内近辺(関東近辺)のお客さんの名簿を頼りに毎日注文取りに一軒一軒訪問販売である。とはいえ紹介も伝も無いので玄関払いもあるが、兎に角製品を犯してもらうことを目的にお願いして歩くのである。
不思議にこの仕事が苦痛ではあったが、続けることが出来た。これは自分でも不思議で
ストレスを感じることは無かった。何がしかの注文が取れると翌日はトラックに製品を積み配達である。店の倉庫の子弟場所に置かしてモラルととりあえず、それは成績として報告できる。そして配達が終わるとその場で作業着を脱ぎ、スーツに着替え、又注文取りにまわる。こうして一日が過ぎていた。
しかし工場と違って兄の監視の目が無かったことと報告はあっても心を癒してくれる妻の存在は大きかった。そして疲れも感じなかった。
そんなに体も丈夫でもない欽二であったが、何とか頑張ることができたのはそんな支えがあったからだと思う
東京へ来てから、休みの日も楽しみらしい楽しみはなかった。福島に居たときは放送劇団の楽しみはなくなっていた。東京へ出ることと結婚の事を話すと簡単な送別会を持ってもらった。その時上司から「東京ではこの仕事はあきらめたほうが良いよ。都会のレベルは地方と違って難しいからね。悪いけど通用しないと思うから」と言われていた。
自分でもそう思っていたので「そうですね」とお礼を言ったが、只の三年間ではあったが、そこでの練習と放送していただいた台本10本は一生の思い出となっている。

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