波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに    「背負う物」

2015-09-04 08:51:35 | Weblog
昔の学校の教科書には「二宮尊徳」なる人物が必ず出ていた。そしてその銅像は運動場の片隅に必ずあって、朝礼のときに掃除をした事を覚えている。
あまり詳しくないが、神奈川県の農村で生まれて、小さいときから努力して農民のために貢献した偉人として当時(現在も)リスペクトされているのだが、偶々あるとき栃木県の二ノ宮町付近を通りかかったとき、久しぶりにその銅像を見たのだ。
小さいときには気にならなかった銅像をしげしげと見ていると、銅像は背中に柴の薪材を背負っているのである。確か当時は仕事をしているときも歩いているときも学びを忘れないで居ることをあらわしている物と教えられた気がしているが、この歳になって改めてこの銅像を見ているうちに、私は違った感想を感じたのである。
ある時「この世は橋を渡っているようなものである。その橋を渡っていくのだが、その橋に家を建ててはいけない」と言うお話を聞いたことがある。
つまり人は色々なところで存在する物で、いわば寄留者である。一箇所に立ち止まる物ではない。そしてどんなときも橋をわたることを止めるわけにはいかない
まして体ひとつと言うわけにも行かない。必ず背中に大きな荷物、埋まり人生と言うたびをする上で必要な「荷物」それは病であったり、家族関係であったり、人間関係であったり、経済的な悩みだったり、さまざまであろう。それらの荷物を背負っている出のである。そしてそれは死ぬまでおろせないのである。死を迎えたとき初めてその背中の荷を降ろすkとが出来ることになるのだ。つまり平安を迎えることが出来るのだろうと思う。
私はこの銅像を見ながら『背中に背負う物」それは生きている限りそ追い続けなければいけない人生の重荷を感じたのである。
不思議な物で最近はTVをみても本を読んでもそこに今までと違った物を感じるようになった。それは特別な物ではない。ただ其のまま深い意味があるような気がしているからである。